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『テーブルトーク・スクールニューディール・アバターキネクトと、お茶』の話。




 前回、昨年は電子書籍元年とか言われていましたねえ、なんていう話をしていたのですが、ついでに昨年の文部科学省補正予算で話題になった「スクール・ニューディール」構想について、その後の数か月でさまざまな方の意見を目にして感じたことなども、少し書いておこうかという今回です。

 「スクール・ニューディール」構想という名前がまたわかりにくいですが、いわゆるアメリカのニューディール政策からパクりましたよ、というところには触れずに、言葉の意味だけを解説するならいくぶんわかりやすい。

 New Deal = ディーラーによるカードのくばりなおし。

 そもそもギャンブル用語なのを政策名にしてしまうところに恐慌時代のアメリカの「水平社宣言の男らしく」的な切羽詰まった限界を見てしまうわけですが、それを現代の日本でいまあえてパクるというのが、なかなか時代の閉塞感を反映していて素敵なセンスだと感じます。

 学校くばりなおし。

 と、このように直訳でなにごとも理解しようとすると、そこにも越えられない限界があるので、すなおでやさしい気持ちになって、それはどういうことなのと訊ねれば、明快な答えが返ってきます。

 スクールニューディールとは学校の低炭素改革!!

 まあ、あれですよ。無駄な資源を使わない。エコ化、ってことです。そう言えばわかりやすいのに。TNPと書けばカッコイイみたいなノリでカタカナにしてみたんでしょうね。カッコイイ。

 で、太陽光だとか風力だとか、校舎の耐震化(壊れないので結果として建て替えずに済むからエコ)というところで雇用を生みだしたり経済効果も上がるということで、ほら、あのアメリカが世界恐慌から立ちなおったニューディールみたいに画期的的政策!!
 というネーミングだったのだけれどもフタを開けてみれば。

 チョークも紙もつかわないからエコ。
 黒板やノートぜんぶデジタルにしちゃえ!

 その構想が、各方面からつっこみが入り、低炭素改革から話がずれて、いちばん盛り上がって白熱したのはそこでした。

 小学生が鉛筆使わないでキーボード入力とかやりすぎなんじゃないの?
 特に本を愛する人たちが、そういうことを声高に言いだした。

 電子黒板は便利です。
 先生は書きにくい姿勢で書かなくたって、机で書いたものが黒板に表示されるのだし、セーブしておけば先週の授業の続きをドラクエみたいに再開できる。風邪で休んだ子のために親友が二人分ノートを取る必要はなく、それどころか黒板に先生が書いたことを、そのまま無線LANで端末に落とせるのだし、なんならネット回線で自宅で寝ている子のパソコンに送ってもいい。
 世界中の学校で、すべての生徒が紙のノートを使わず、テストの問題も端末へダウンロードする形式になり、教科書がクラウドで配布されるようになれば、どれほどの紙を削減でき、すなわち森を守ることができるのか、試算の仔細を見せられなくたって、その効果は火を見るよりもあきらか。もちろんトイレもトイレットペーパーなんて必要ないくらい強力なウォシュレットになってもっとあきらか。

 でも、紙のノートって、教科書って。
 書き込んだり、付箋はったり、すみっこにパラパラ漫画描いたり、そういう部分だって大事で、紙に触れるということ、紙に文字を書くという行為そのものに、なんらかの教育の意味がないのかな?

 そういう話をする人が多い。
 とてもよくわかる。
 でも、それってノートをなくすべきかどうかというよりも、書道の心を忘れるなということの延長であって、紙に筆で文字を書く授業は、もっと意味ありげにおごそかに、体育で柔道は礼に始まり礼に終わるなんてことを説教したあとにでもやればいいんじゃないかという気がしないでもない。

 というあたりで、文字とはなんたるかを考えてみる。
 ひとことで言うのは難しいが、あえて言うなら。

「文字とは単純化された絵である」

 どんな言語を表す文字も、その起源は象形文字だ。象形文字というのはつまり、毛皮を着たヴィーナスたちが、洞窟で暮らしていたころ、自分の夫にあしたはチキンじゃなくてポークを狩ってこいと伝えるのに、毎日のことで鳥の絵や豚の絵を描き疲れて、いつしか羽根と鼻だけを描くようになり、最終的には家族なんだからこれでわかりなさいよとものすごく単純化された記号のようなものを描くようになったという。
 それはもう、描く、というより、書く。
 そこまで単純化された絵になったとき、文字が生まれたとされる。

 ガイジンさんを串カツ屋に連れていって「串」という字の成り立ちを教えれば、一生涯忘れることはないはず。
 もちろん、漢字に限らず、アルファベットだって、もとは、絵。

 そういうことをあらためて考えてみたうえで。
 以前、ここで、こういうことを書いた。

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『Gears of Warという言語』の話。

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 いま私は『GoW』ではなく『HALO:Reach』のネット対戦を、ほぼ毎日おこなっている。

Halo:Reach

 しかし初代Xbox、初代Haloからのプレイヤーなので、ランキング形式をとっている実力至上主義なスポーツルールな部屋に常駐しているため、日本人に遭うことはまずない。プレイの時間帯が日本時間で深夜に近いころだから、Xboxユーザーの多い北米では早朝になり、相手はだいたい英語圏とアジア圏が半々といったところ。英語だとさすがに罵られれば意味もわかるが、アジア各国の言語は怒られたってなに言ってるんだかさっぱりである。

 余談だが、私の名前のYoshinogiというのを、英語圏の人はちゃんとヨシノギと呼んでくれるのに、中華圏を含むアジアの人たちは、決まってヨシと省略して呼ぶ。なぜだかは謎だが、私はアメリカ最大のプロレス団体WWEで近年めざましく活躍するヨシタツ選手の影響ではないかと疑っている。ミュージシャンのヨシもいるし、野球選手のヨシもいる。そのうえレスラーのヨシもいれば、会社にもヨシがいるとなってくれば、区別のためにヨシアキなのかヨシモトなのかヨシノギなのか、ちゃんと呼ばないといかんよな、という風潮ができあがっているのではないかと推察するのだ。

 さておき、早朝から反射神経全開の競技志向なテレビゲームをプレイしているアメリカンやヨーロピアンに、プロのゲーマーが存在するアジア圏のコアなプレイヤー、そのうえわざわざ日本でXbox360にぞっこん惚れ込んでいる私のようなのが集まると、そこに会話は生まれない。私にいたっては、ヘッドフォンとマイクを装備してさえいない。ネットゲームをプレイする際にそれは標準装備なのだが、個人戦で、ただ黙々と技術を競うだけの場では、ささやきさえも相手に与えてしまうこちらにとって不利な情報となるため、音声を切っているプレイヤーは私以外にも、ことのほか多い。

 けれども。
 そこに、言語による会話はなくても。
 心の交流は、ある。
 あらゆるスポーツがそうであるように、ネット上の格闘であっても、いい試合ができたあとには、互いに抱きあいたいくらいの親密な空気が生まれている。

 仮想の世界で交わされた情熱が、現実世界にも、ちゃんと反映している。
 先日、NHKに取材を受けていたXbox360で北朝鮮を襲うゲーム『Homefront』(日本では今のところ発売未定)のアドバイザーを務める軍事コンサルタントがふんぞりかえって言っていた。

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「プレーヤーはゲームをした後
 どっと疲れるだろう
 本物の戦闘を感じるからだ
 戦場の匂いすらね」


 サミュエル・グレン

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 同じ番組で、スタジオジブリの新作もテレビゲームだというキャッチーな話題も振っていて、私はそれを観ながら、かつて新聞の投書欄で読んだむかしは文学少女だったのだろうおばあちゃんの憤り「偉大な女性歌人の反戦歌を子供のオモチャの副題に引用するなんて冒涜だわ」というのを思い出していた(ちなみにソフトはドリームキャスト用『サクラ大戦2 ~君、死にたもうことなかれ~』。もちろんセガっ子の私はプレイして泣いたのでこの副題の明示する重さに異論はない)。
 いまやアメリカのゲーム購入者の平均年齢は四十代にのったという。

 大人に向けて、大人の心を揺さぶろうとゲームが奮闘する。
 オンラインのみならず、オフラインにおいても、私は本編の発売から二年以上経った、このゲームをプレイし続けている。

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『グランド・セフト・オート : エピソード・フロム・リバティーシティ』のこと。

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GTA4

(↑廉価版も発売されたしPS3版もあるから、未プレイの方はぜひ。賛否両論ある作品というのは、触れて判断するしかないのです。私には傑作)

 言わずと知れたグランド・セフト・オート・シリーズのいまのところの最新バージョン『4』は、あまた生まれたGTAクローンと呼ばれる他社製ゲームとの差別化をはかるためもあったのか、本家が路線変更して、はちゃめちゃな、なんでもありのゲームから、現実の物理法則を意識した、リアル指向の「魅せる」ゲームへと変貌を遂げた。その変化にブーイングの人もいれば、私のようにどストライクで心を撃ち抜かれてしまった者もいて、そんな私が新世紀のGTAの世界になにを見たかといえば……

 物語。

 ゲーム機とパソコンの進化が、ゲームのなかで省略せずに人を描き、いまだ不完全な傍観者としてしか参加できない箱庭の中でだけだとしても「人の営みを再現できる」ようになった結果、人に似た記号を暴れまわらせて楽しむゲーム、から脱却し、それぞれのキャラクターに真の個性を与えることができるようになった。
 相手が仮想の人物であれ、そいつに個性があるなら、それを憎んだり愛したりすることはできる。相手が実際の人であるかはどうかは問題ではなく、それを言うならHaloで私が毎日対戦しているのが、本当に地球の裏側でプレイしている実在のだれかであるかどうかなんて、証明のしようがない。

 RPGというのは、そもそも紙とサイコロをつかって木のテーブルの上で繰り広げた、会話して楽しむゲームだった。家庭用パソコンの黎明期、それらのテーブルトーク・ロールプレイング・ゲーム(キャラになりきって会話を楽しむ遊戯)を、ドット絵を使ったモニタ上のゲームへと置きかえる発明がなされ、それ以降、ロールプレイングゲームという呼称そのものが、テレビゲームのそれを指すようになるまで認知された(そのテレビゲームのキャラクターに、実際の人間がなりきってコスチュームプレイする文化が熟成の中で生まれたのは、それもまた興味深い変遷だ)。

 もちろん、最新のゲーム機でも、そういった古典的テーブルトーク時代の雰囲気を残すソフトは消え去ることなく発売されている。おそらくほとんどのゲーマーが、そういったジャンルのさらなる深化を求めているのであり、人がリアルに描けるようになったいまだからこそ、逆に気づいた部分でもある。

round table

円卓の生徒応援バナー

(『円卓の生徒』はxbox360初のダンジョンRPG。目的は魔王を倒すこと。でもそれは目的としての目的であって、ファンタジーの王道とは、描かれる異世界の住人をロールプレイングできるかどうか。というわけで、絵柄でピンときたらそれだけで充分にあなたがXbox360ユーザーに生まれ変わる理由になります)

 リアルに人を描きすぎたファンタジーRPGはかえって退屈だ。  
 それこそ、ジブリ映画がリアル指向になって感動が増すなどと考える人はいないように。
 そういった意味では、緩急とりまぜ、歴史も積んできたゲームというものを四半世紀ほどプレイしてきて、いまここに紙の本はなくなってもいいものかという話題で熱く議論する人たちが現れたとき、私は、思うのだった。

 私自身、ゲームと呼べるものをいくつか作ったことがある。
 ベーシックからC言語までを、国語よりも熱心におぼえた小学生時代だった。

 だが、いまゲームを作るには、そんなコンピュータ言語をおぼえる必要はない。
 大阪の美大に通っていたので、大阪に本社を置くいくつかのゲーム会社に友人が勤めているが、彼らはいまだにプログラミングなんてできはしない。

 いや、そんなおおげさな話でなくてもいい。
 マイクロソフトは、先日、キネクトの技術を使った新サービス『Avatar Kinect』を発表した。

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『キネクトが来る!!』のこと。

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 いまはまだ友人同士のチャットを想定しているので上半身だけのスキャンだが、技術的には全身を仮想空間に反映することができると公式発言もあった。
 風邪で休んでいても、自宅で体育にまで参加できるということだ。

 深く訊かれても困る。
 でも、率直に、こう思う。

 文字とは絵を描くことが面倒なので省略したもの。
 なにせ岩に岩をぶつけて削って絵を描くのだから、かつての美大生は作品ひとつ仕上げるのも一生分の時間を必要としたことだろう。

 そのうち文字をつなげて文章を書くことをおぼえ、紙が発明され、文字は絵というよりもまた別のものになったかのように……なにか崇高なものに……感じる人が多くなったが、その感情だって、きっと突き詰めていけば、文字が他人の心を動かすことができる魔法だから、というところに端を発している。

 だれもが使える文字というものの発明で、天才的なアーティストでなくても、絵なんて描けなくたって、自分の言いたいことを的確に他人に伝えることができるようになった。

 さらに時代は進み、プログラミングなんてできなくてもゲームが作れるようになり、そのゲームを使って毎日遠い国のだれかと感動をわかちあい、仮想の円卓に着席して身振り手振りで「自分」を演じることなく表現できるようになった。

 もう、絵を描く必要はないのではないだろうか。
 
 触感こそまだないけれど、箱庭の中に限定されるけれど。
 仮想であれ、逢って、ケンカまでできるのに、表情で伝えられるのに、だれがわざわざ絵で心を伝える必要がある?

 人が人の心を動かせる魔法は、より簡単な面倒くさくないほうへと進化してきたのである。先生が教卓で書いたことが教室中の生徒の電子端末で共有される。そこにはまだ文字というものが必要不可欠ではあるけれど、むしろ、精緻な絵を岩肌に刻んで描くのは面倒だからという方向性を研ぎすましているのは、LAN接続された教室中の生徒というイメージだ。

 私は微笑ましく思う。
 いや、ノートの落書きもパラパラ漫画も、あやとりや折り紙の鶴や、古典的二次元ファンタージーRPGのように伝えていく必要はあると思うが。

 いっそ脳と脳をつなげたら。
 文字は完璧にいらない。

 描いたのも、綴ったのも、文学も音楽も映画もゲームも、ぜんぶ、要は他人と、もっと深くつながって、この想いを伝えたい、相手の心を揺さぶりたい、という人類の願いを叶えるための手段。

 人類の意識をくばりなおして。
 文字というもの、それ自体が、そろそろ次の進化を遂げそうな……それを可能とするツールも、ちらほらと見え隠れしているような。
 そんな新世紀の十と一年目。

 ノートをとらない子供が怖い。
 でも絵を描かなくても伝わるなら描く必要はない。
 私は夢見る。
 死ぬまでに、だれかと完璧につながって、言葉も、動作も表情さえも必要とせず、心と心を共有することができることを。かつて映画館と呼ばれた場所で、観客は入場料を払い、座席に備えつけのヘルメットをかぶる。するとそこから監督の描いた、言葉でも映像でもない、ただ純粋に心を揺さぶる「物語」の波が押し寄せてきて、私たちを腰がくだけるほどに感動させてくれることを。

 文字が消えたら、それに変わるもので人類は物語を編むだろう。
 もちろん進化なのだから、そこで得られる興奮のほうが高いに決まっている。
 ワクワクするだけ。
 怖いなんて見当違い。

 私が死ぬまでにそういう技術と、それを操れるゲーム制作者や映画監督やなんかを輩出してもらおうと思えば、いまでももう遅すぎるくらいである。
 スクール・ニューディール。
 いやもう学校という建物もなくして、生徒全員にXbox360とKinectくばればいいんじゃないかな。キーボードとマウスはいらない。いつか互いに接続できる日のために、左の乳首の上あたりに全員LANポートを取りつけるのがいい。右のケツでもいいけど。そのときこそ、新生人類、真のニュータイプの最初の世代が、ぼくたちには文字など必要ないのですと叫びもせずに無劣化なデジタルで、私たち旧人類にはおよびもつかない手段をもって心を伝えてくるに違いない。

 ああ、今年発売されるゲームたちがたのしみだ。
 NHKでも、かつては台頭していた日本のゲーム産業が、世界から置いてけぼりにされていることを憂えていたし。もっと画期的なモノを作れる、画期的な子供たちを育てる小学校のカタチを政府は考えるべきだと思うな。古いもの守るよりも、いまの人間のカタチを壊すことのほうが先だよ。

 ま。私はたぶん、近未来の心の波動映画館で得られた感動を、またこうして文章で書き、書いてもだれも読んではくれないのでそれをまた嘆きつつ、時代は行ってしまったが言葉は捨てられないなあ、と自嘲しながら茶でもすすっていることでしょう。
 それはそれで、悪くない。

 でも、いまの人類ではない新しい形態になって逝けるなら、そんな幸せなことはない、とも思う。
 心だけ電子チップに載せて、宇宙の果てまで射出できるようにならないかなあ。
 そんなのも、古い人類の想像力の限界なのだろう。
 二十一世紀も十年越えたのに、まだこんなの?
 早く行こうよ、もっとギュンギュンするところへ。


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モンクレール アウトレット  モンクレール アウトレット  2013/12/19 06:35
『とかげの月/徒然』 『テーブルトーク・スクールニューディール・アバターキネクトと、お茶』の話。