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『自炊の森とダビング10』の話。


 昨年末に、自炊の森なる施設がプレオープンした。
 そこかしこのニュースでも取り扱っていたので、ご存じのかたも多いだろうが、そういうニュースこそ根本的に「なにそれ」と思っている人たちを置いてけぼりにしているもので。これはこの国に住むすべての人、否、世界中のだれもが、それぞれに考えるべき部分を持った問題でしょうと、ここでもさらりと説明を加えておきたい。

 そもそも「自炊」とは。
 自分で自分の糧となる食事を用意することである。
 そこから転じて、いまここで話題にしている「自炊」は、自分で自分の糧となる紙の本を電子化する行為、のことを指している。

 簡単に言えば。
 死んじゃったおばあちゃんの白黒の写真があるのだが、あなたはそれを肌身離さず持っていたい。そこで携帯の待ち受けにしようと考えつき、写真をスキャナーでパソコンに取りこみ、データ化した。
 これも一種の自炊である。

 まあ写真の一枚であれば、楽な作業だ。
 私もかさばる新聞の切り抜きなどはスキャンして保存している。
 しかし、これを本一冊となると、なかなか物理的な手間がかかる。
 まず、だれしも経験があると思うが、本のページを開いてコピー機にかけると、どうしたってページが反るので、うまくコピーがとれない。これは書籍のスキャン作業でもっとも根源的な障壁だ。ザラ紙の週刊誌などであれば、ちからわざで180度開くこともできようが、たとえば文庫本でそれをやると、背表紙を固めている糊がパキッと音をたてて割れ、最初の数ページで作業続行不可能になる。ちなみに私は満員電車では片手で文庫本を開いた状態で丸めて片手にもち読むクセがあるので、望まずパキッとなって涙目になることがあるが、それはまた別のお話。

 で、賢い人は考えた。
 賢くなくても考えつくが、ウニを割って食べた人や、ナマコを輪切りにして酢醤油で喰ったヒトなどと同様、やっぱり最初にやった人は偉大である。

 背表紙を切り落としてしまえばいいのだ。

 裁断機でばっさりと。
 むろん、すべてのページがバラバラになる。
 いやそれでいいのだった。
 これで、コピーがきれいにとれる。

 とまあ、それだけのことだが。
 ここで、現代の特異な状況が鎌首をもたげるのである。

 昨年は、電子書籍元年と騒がれていた。
 各社から電子書籍を読むための端末も次々と発売された。

Reader Touch

 しかし、毎週読んでいる週刊少年ジャンプをそれで読めるかといえば、否である。売れ筋の小説は電子版も同時発売されたりするようにもなりつつあるが、そもそも翻訳されるのを十年待っているというような紙ラインナップが毎日な読書の人にとって、電子版など望むべくもない。真っ先に参入しそうなものだが、なぜだかエロ業界も二の足を踏んでいる。

 やむなく、紙の本の背表紙を切り落として自炊するなどというマニアックな作業を、当たり前にやる人が、なにげに増えてしまった。

 しかしこれは重ね重ね面倒くさい。
 ページがばらばらになっていても、ちょっとした中編小説だって数百枚。それを一枚一枚、裏返してはスキャンして、繰り返し。そんなことやってる間に読めてしまうわ。

 そんな人が増えると、業者が出てくる。
 本を持ち込んで、スキャンしておいてと頼めば、やってくれるのである。
 こと、特殊な技能が必要というわけでもなく、設備投資は、ともかく人力。数をこなす単純作業であるから、他に仕事のない人たちは、本をバラバラにしてコピーすればいくばくかの金になるというこの業種に、こぞって参戦する。

 このあたりですでに「自炊」の語源に首を傾げることには、なっている。
 しかしまあ強行にたゆまぬ読解力をもって曲解するならば「本人が持ち込んだ本を本人のために替わりにスキャンしてやってあげている優しいメイド」なわけであるから、自分の手の替わりに他人の手が働いただけで、それを自らの完結した行為であるというのは、言えなくはない。
 他人の手を借りた時点でそれは自慰行為ではなくなるのではないかという向きもあろうが、それはそれ、そこに愛があればプレイだろうけれども、金で雇っただけの手指である。アメリカのB級ホラー小説などによく出てくる、壁に穴が開いていてそこにイチモツを差し込むと向こうでなにものかが処理してくれるという、あれは壁の向こうにいるのがしょぼくれた歯のない老婆であっても、こっちは想像でおぎなって達するのであるからして、これを自慰行為と呼んで問題はないし、老婆の側も金のためにやっているのだから、そこに愛の有無などを主張したりはせぬであろう。

 というような、ねじくれた文化が育ちはじめていた新世紀十年目。
 その暮れに「法律的には問題ない」の合い言葉のもと、自炊の森。

 この店、客自身がコピー作業をする。
 しごく当たり前のことである。
 では、客は店になにを買いに来ているのやら。

 本である。
 正確には、本の内容か。

 自炊の森には、スキャンしやすいようにすでに背表紙を切り落とした本が、ずらりと並ぶのであった。むろん、客はそれをスキャンしに来るわけで……来るのだから、もちろん、客はその本を持っていないなどというのは邪推である。客はその本をすでに紙として所有しているかもしれない。しかし、その人は紙の本への愛あまり、おのれの所有する紙の本をバラバラにすることなどできず、そこでバラバラになった本を並べている自炊の森に、自炊して大好きなその作品を電子書籍端末でも読めるようにしたかっただけかもしれない。

 そのあたりは、店の知ったことではない。

 図書館にもコピー機はある。
 自炊の森はそこでコピーをとりやすいように本をあらかじめ裁断しておく。図書館のように無料ではなく、いくばくかの金を客からむしるのであるから、そのくらいはして当然という、純然たるサービスである。
 というようなところで、法には触れぬらしい。

 この幸せなシステムの、なにが問題か。
 パパ=トム・クランシーにひとこといただこう。

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「ぼくのいってることを曲げてる」
「いや、世の中では、ただのランチなどないといっているのだ。どんな場合でも、だれかがどこかでカネを出している。そういうものだ。もちろん、金持ちの会社なら、儲けを少なくして一般大衆に便宜を図ることもできるが、おまえが一般大衆にとっていいように線引きをするというのは、無理やり共産主義者になれといっているようなものだ。それはまずい制度だ」

Tom Clancy

 トム・クランシー 『ネット・フォースVI 電子国家独立宣言』

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 では、けっきょくどうすればいいのか。
 それを考えるとき、これも昨年末に流れた、とある判決のニュースを思い返してしまう。

 asahi.com:家庭内番組コピーの補償金、支払い拒んだ東芝側勝訴

 アナログDVD録画機が全盛のころ、録画用DVDディスクを売っていた私は、そのあたりがよくわかっていないお客さまに同じような質問を日に何度も受けたものだった。

「このDVD-Rの、データ用と録画用の違いってなんざますの?」

 パソコンで映像もいじったりする人でないと、あたかもその表現であれば、データ用ではDVDデッキで録画はできないと思ってしまいそうなところが混乱をまねくのだが、もちろん、規格としてのDVDに差違などあっては困るのであって、データ用ディスクに録画はできるし、録画用をデータディスクとして使うこともできる。

 ただ、録画用ディスクの価格には、くだんのニュースに出てくる「私的録画補償金」とやらが、あらかじめ含まれているという点が違う。アナログ放送にはコピーの制限がなく、無限にコピーできる以上、どこかで視聴者から金を取っておかないと制作者に還元されない、という図式がそこにはあったという昔話。

 今回、東芝が勝訴したとされるのは「だったらアナログチューナーを載せていないデジタル専用録画機でその金を払う必要はない」という裁判。わかりにくい形になってしまったことに、実際の判決では、デジタル専用機も「私的録画補償金」の支払い対象に含まれるが、その支払い義務の定義自体に裁判所が疑問符をつけたという……
 これは、東芝の完全勝利ではない。

 東芝側の主張していたのは、テレビ放送の地デジ化にともなってすべての録画にコピー制限がかかっているのだから、アナログ時代のような無限コピーを前提とする補償金の支払いはおかしいんじゃないの? ということだったのだから、そこのところではむしろ負けているといっていい判決だった。

 地デジ移行で、メディアを売る私たちはラクになった。
 たいていのお客様には、デジタルならCPRMのマークが入ったディスクを使ってください、で、それ以上の説明はまったく不要になったのだから。むろん、たいていの、というのは、いまでもけっこうな割合でCPRM非対応のディスクは売れるわけで、そういう他人を見て「なんでいまの時代にあんな大量のアナログディスクを買う人がいるの?」と実際にレジで訊かれることもあるが、そこはまあ、すべてのコピーガードは破られるためにあると考えている人も少なくはないというデジタルの闇の部分になって私も言葉を濁すということで。

 極論すれば、人間の目で見たのと同じ風景を正確に記録できる動画撮影機が存在すれば、再生した映像を撮影しなおせばすべてのコピーガードは、はずれてしまう。となると、ことはアナログ時代のデータ用と録画用の違いみたいなあいまいなことになってしまうのだけれど、それでもなんとか一定の著作権保護を主眼とするシステムを構築するのならば、東芝の主張のように、そもそもそこにアナログがあるかないかが問題になるのである。

 アナログな本は無限にコピーができる。
 ならば、デジタル版しか存在しなければ?
 これにコピーガードをかけることは、可能だろう。
 まったくコピー禁止にしてクラウドな双方向環境のなかで読者に作品を提供できれば完璧だが、それでは消費者の所有欲が満たされないというところはあるかもしれない。だったら回数制限をつけようか。コピーワンス? それ、映像でやって大ひんしゅく買ったんですけど。だったらダビング10?

 考えてみよう。
 十回コピーできる本て、それほとんど制約ないのと一緒じゃないかというのが、私の皮膚感覚なのだが、おかしいですか? しかし、だったら録画のダビング10は無限に感じられないのはなんなのだろう。ダビング10導入のさいには、メーカー側は最後まで「コピー制限なしでインターネットへの再送信は制限する」EPNという規格を推していたと聞く。海外では、アナログ放送時代同様、ハイデフなデジタル放送も、無料放送はコピーフリーが主流だ。すべての放送にコピーガードをかけて管理し、著作権者の利益を守ろうという我が国の姿勢は泣けるほどに素敵だが、私は最近、どうにもそのことが逆に一般の消費者にとっては著作権者の存在に思いをはせない原因になっている気がしてならない。

 むかしから、レンタルビデオにはコピーガードがかかっていた。
 当たり前のことだ。

 ガードを破る者はいた。
 それだって違法には違いない。
 しかし、ガードを破ることを商売とするなんていうのは、それは法律うんぬんを言う前に、人として法度である。コピーしやすいように裁断した本を貸す店? 法律的に問題なくても、嫌悪感が先に立つ。

 無料放送だった民放各社のテレビ放送が、地デジ化で個人的に編集するのにも制限がかけられるようになった。家庭内LAN経由で、デッキで録ってパソコンで視聴したりしていた私などは、かなり手間なことをしないとアナログ時代と同じ状況を作り出すことができなくなっている。ていうか単純に考えて、どこの家のテレビにも無料で流れていて録画もできる番組を、無限にコピーして売ったところで売れるわけもなく、いったいなにを警戒しているのか理解に苦しむが、ともかくダビング10は普及してしまった。

 おかげで、多くの人が、いけないと思いつつもさまざまなコピーガードを回避する手段を模索し、悪徳海賊版業者でもなんでもない、ごく一般の小売店にふつうにDVD-Rを買いにくるような人たちさえもが、それを為すことに抵抗感を失ってしまった。
 コピーガードが当然のようにあるから、当然のように破らざるをえなくなったのである。
 レンタルビデオが、セルビデオが、複製できないのは当たり前だ。
 でも、昨日まで見られていた放送が、コピーガードが邪魔で見られない環境がある。
 しかたがないので必死に違法なスキルをあげてしまった人が、たぶん驚くほどの数になる。

 で、あげく「その行為をお手伝いしましょう、法には触れていませんから」などと大声で言いだす商売人まで出てきてしまうのである。
 なげかわしいこと極まりない。

 どうすればいいのか。

 紙の本をコピーできないようになんて、できっこない。
 どんな放送もコピーフリーの録画機で撮りなおせばコピーできる。

 当たり前なんだけれど。
 抜け道が完全にふさげない以上は。
 敬意を示せるかどうか、という問題でしかない。
 入場料を払って入り、舞台を観て、良い役者がいればさらに小銭を包んだおひねりを投げ入れた。そういう国だったはずだ、ここは。国技の相撲文化を支えたのは、タニマチである。芸を持つ商売女を敬って高い金を払うなんてのは、他に類を見ない。あらゆる作家は貧乏なものだった。しかし、他者の尊敬を受けていた。文芸も、映画もテレビ放送も、すべからくサービス業になり、お客さまは金も出さないのに無理を言うから、金がねえとやっていけねえよと、乱暴な自衛策をとることになる。

 うまく回っていない気が、ものすごくする。

 コピー商品の天国といわれた隣国があったが、いま、この地こそが、かなりな無法地帯になっている。いたちごっこのせいで、錠前破りの技術がみんなについて、罪悪感も薄れ、ひとときの娯楽を作りだした制作者への敬意さえ忘れてしまって。ダブルレコーダーのカセットデッキで友だちにダビングしてもらった一本のカセットテープからバンドのファンになって一生追い続ける、という形だって多かった。でもそれって、友だちの手を使ってダビングしてもらったものだったから。そもそも、その友だちはレコードを買っていて、あいつが好きな曲なんだ、と思って聴くことに、意味があったのだ。

 自炊の森で、P2Pで、作品だけを手にして、読み、泣いたとして。
 いや、そこで、泣けるのだとしたら。
 その人にとって本当に作品は完結したものなのだろう。
 それを生みだした作者がいることを思いもしない。
 作者がまた、過去の作品に育てられたことを、思いもしない。
 その一冊ができるまでに、どれだけの人が関わったか、考えもしない。
 
 おもしろかったっすよ先生!
 自然とそう口から出る人が、その作家の作品で違法な真似はできない。
 敬意とはそういうものである。
 数少ないファンなんだからあたしが買わなくちゃだれが買うの、というファンによって作家は生かされているのであり、次の創作へ向かえるのだから。
 当たり前のことなんだが。
 そこで法を論じなくちゃいけないこと自体が哀しすぎるよ文明国として。

 ああ。まったく。
 私の部屋は今日も本で埋まっている。
 デジタル化でだんだんと、いつかはすっきり片付くのだろうか。
 本棚を見て、思ったりする。

 このすべての本が、もしもぜんぶだれかからの貰い物だったとしたら。
 それらを読んで、所有している、私はなにも変わらないはずだが。
 本当にそうだろうか。
 私は、そのとき、私自身が貰い物になる気がする。
 データに実体はない。
 ないからこそ、その可変な内容そのものがデータである。
 気のもちようとも言える。
 買ったから、作者とつながっている。
 彼らが次作を書けるのは、私という読者のおかげだ。
 それはまったくもって絶対に真実。
 紙の本でも、デジタルブックでも。
 買うという行為はひとつの投票で、その膨大な繰り返しによって世界のすう勢が形作られていく。その投票行為が形骸化したとき、当たり前の思想や平和も確固たるいしずえをなくして、曖昧模糊となっちまうだろう。

 自炊の森ねえ……
 漫画一冊、最低賃金の時給より安いよね。
 そのひと、その一冊に自分が働く一時間の価値もないと思いつつ、それでもそんなに欲しいことは欲しいんだ。漫画喫茶で読むのでさえなく、デジタル化して所有したいんだ。自分だけの作品として持っていたいんだ?

 そのひとが、なにも生みださず、なにも投票しないことだけは確かです、きっと。

 その一方で、純粋にデジタルだけを所有したいという層があることも確か。どうせデジタルでしか読まないのに、スキャンして捨てるだけに本を買うというのは、それもまたひとつの冒涜ではあると思うので。電子書籍の幅の狭さが問題の一端であるのも間違いない。週刊誌とかほんと邪魔なんで(だいたい四ヶ月遅れで読んでいます)積極的にデータ版を刊行してもらいたいものだ(圧力がなくなって、ますます読むペースが落ちていく気がしないでもないが)。
 良いカタチに、育てと思う。
 いまのこれは過渡期の混乱だと、信じたい。

(書いているさなか、「自炊の森」のツイッターアカウントをフォローしていたのだけれど、プレオープンが休止、サービスや料金体系を変更するといった旨の発表がありました。変更と言いきっているので、さすがに現役漫画家さんたちから直接苦言を呈されたとき、当初のシステムでは言い訳のしようがないと判断されたのでしょう。個と個のぶつかるツイッターという装置が良い具合に機能しましたね。それでもオープン。どんな折衝案で理解が得られるのか否なのか、今後を注視です)

 『自炊の森』

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