最近の記事

スポンサードリンク

月別アーカイブ

『血と暴力と愛と生肌の国』の話。




かりにきみが今どこだか知らない場所にいるとする。するときみが本当に知らないのはほかの場所がどこにあるかってことだ。あるいはそれがどれくらいの距離にあるかってこと。だからといってきみが今いる場所について何かが変わるわけじゃないけどね。

No Country for Old Men

コーマック・マッカーシー 『血と暴力の国』

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 その小説は、言わずと知れた2008年アカデミー賞四部門独占作『ノーカントリー』の原作で、日本では映画のタイトルは縮められ、小説のタイトルは意訳されているので別物になっているが、どちらも原題は、

『No Country for Old Men』

No Country

 老人のための国はない。
 美しい想い出を語りたい人のための清廉な国など、ない。

 映画では、おかっぱのハビエル・バルデムの独自ルールで動く怖すぎる殺人者の演技が全体を引っぱっていて、保安官役のトミー・リー・ジョーンズが語ってはいるものの、それが記憶に残る構成ではない。だが、タイトルのような想いを抱くのは、事件が終わって引退を決意したその保安官。そこかしこで人が死に、緑色の髪をした若者が街を歩くようになったら、もう世界は後戻りできない。

 コーマック・マッカーシーは、引用符(もとの英語では“”日本語だとカギ括弧「」←これ)を使用しない小説屋で、そう聞くと「セリフがないの?」と思ってしまうかも知れない。でもそうじゃない。そう思うのはあなたがそういう小説を読んだことがないだけであって、読んでみればわかる。そもそも日常会話にカギ括弧なんてついていないのだから、小説だって、そんなものなくたって誰が話しているかわからなくなるようなことはない(少なくとも、マッカーシーの場合は間違いなく、ない。ちゃんとキャラを立てられない人が書けば読みにくいのかもしれないので自覚のある人は真似しない掟)。それどころか、血みどろのアクションものであってさえ、すべてが淡々とひとつの風景のように進み、終わる。

 いや、終わらない、のか。
 世界も、人生も、そういうものだと、読んで、ため息が出る。
 そこのところの雰囲気は、さすがのコーエン兄弟(前にも書いた気がするが、何度でも書く。好きな映画の話になると私は『バートン・フィンク』を推すコーエン兄弟好きである。『ノーカントリー』がオスカー獲ったときには興奮しきりだったが、いま読みかえしたらそのときのブログは恥ずかしくて読めたものではなかったのでリンクは貼らない)。サスペンス・アクション超大作でありつつ、音楽を極力ひかえめにし、ほとんど無音のシーンが連続する。そこに銃声。観終わったあとも、時間の流れが妙な感じにスローモーションがかかったような、あの感覚。このまったりしたアクションものがアカデミー? と言った人もいたけれど、私は、そのコーエン兄弟らしい強気な作風が、素晴らしいものだと拍手されたことに、老人が語るべき二十一世紀の映画の国も、まだあるなと感じた。

 ところで、そこにも関係してくるが、原作に惚れて、その雰囲気を忠実に映像化した監督だからこそ、映画のキャストで、あきらかに原作と違って、観た瞬間に「え?」となった、あの部分は、計算づくであったのだ。

 ヤバい金を拾って、妻を実家に帰し、単身で追っ手から逃げる男。
 この話の主人公、モスを演じたのはジョシュ・ブローリン。
 ギラついた目のイイ男ではあるのだけれど、どうも原作を読んでから観ると、イメージが違う。小説にその描写があったかどうか憶えていないが、私の頭のなかでは、モスにヒゲはなかった。シャツも違う。なんだか髪もボサボサだし。私のなかで彼は、トレーラーハウスで暮らしながらも、ブーツにはこだわりを持ち、小綺麗で身だしなみ行き届いた男であったはずなのだが。

 妻が出てくる。
 金を拾ったので危険だから俺と離れていろと言い渡される可愛そうな妻だ。しどけない仕草で、ホットパンツで、彼女の身だしなみは崩れ具合をふくめ、私のなかで違和感はない……だが、あれ?
 19歳?

 彼女は16歳で高校を辞め、スーパーマーケットでバイトすることにした。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

で初めて出勤する日の前に夢を見たの。ていうか夢みたいなものを。あれは半分、起きてたんだと思うのよね。それでその夢だかなんだかわからないものの中であそこに行けば彼に会えるとわかったの。ウォルマートへ行けば会えるって。彼といっても誰だかわからないし名前も顔もわからない。でも見ればすぐわかるはずだった。


コーマック・マッカーシー 『血と暴力の国』

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 で、客のモスと一目惚れ同士で結婚して三年目。

 演じているのはケリー・マクドナルド。
 96年の『トレイン・スポッティング』で、まさにそういうお年頃の気だるくセクシーな少女を演じていたので、その十年後の『ノーカントリー』撮影時には三十路入りしていたはず。いや、それでもぜんぜん、すべすべの脚と、よく動く首と、挙動不審な目の動きが、やさぐれた少女の感じを出している。でも、保安官にはもっとずっと若く見える19歳、という設定で観るには無理がある。
 というか。

 脚本を書いたコーエン兄弟は、その設定を省くことに決めたのだ。

 モスは、けっきょく死ぬが、その直前にヒッチハイクの家出少女と出逢う。15歳の彼女に運転を任せ、モーテルに泊まって、少女を諭す。冒頭引用は、その一部。家出を止めているわけではない。どこか知らない場所で新しい自分になって生きるんだという少女に、金さえわたして、気をつけることが大事だという。

 きみは自分がどこにいるか知らない。
 どこかに行きたいなら、そっと動け。
 痕跡を残さず、ぱっと現れたみたいに。
 もうヒッチハイクはするな。
 金をやるからバスに乗れ。

 36歳なの?
 そんなオジサンと思わなかった。

 そう言いながらモスを誘うが、彼は毅然と言い放つ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ダーリンきみはちょっと遅すぎたよ。もう買い物はすませたんだ。今のものを手放さないことにするよ。


コーマック・マッカーシー 『血と暴力の国』

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 でももちろん、15歳の家出少女といっしょにモーテルで殺されたと保安官から伝えられ、16歳で彼と出逢った妻に、彼が実際にそういう態度をとったのだと信じるべき、というのは酷である。まあ、実際そこでなにがあったかなかったかは別段大事なことではなく、出逢いとはそういうものであり、出逢うのが、コインの裏表で殺すか殺さないかを決める殺人者か、手放したくない買い物であるかは選べるものではない、というところこそ、原作の深い味わいだった。

 映画では、その部分がばっさり切られている。
 モスと妻の年齢を上げたのも、逆に、そのくだりが印象的であるがゆえに、観客の脳に必要以上に残さないことを配慮してのことではないかと思われる。十代の少女にまっすぐ話し、貞節を誓い、彼女たちから「見ればわかる」と一目惚れされる36歳の男には見えないように、映画のモスは私のイメージとは違う、やさぐれた雰囲気をかもしだしているのである。

 私は、コーエン兄弟の『ノーカントリー』が好き。
 ただし、モスに関して。
 原作の彼が忘れられない。

 きみがどこへ行くべきかなんてどうしておれにわかるんだ?

 自分のほうこそ、すませた買い物を置き去りにして、安モーテルで殺されるのを待っている。
 けれど、モスは。
 なぜ金を持って逃げようなどと思ったのか、とは悩まない。
 逃げると決めたからには、逃げられるところまで逃げる。
 迷いはない。
 ちょっとでも迷えば、いくらでも生き延びる道はあったのに。
 あったのに、とも考えない。

 前回、『レスラー』について話していても、そういうことを考えた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

映画『レスラー』の話。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 選択なんて、けっきょく、あるんだろうか。
 その人にとって、選択すべき状況にたどりついてしまったときには、いつだってそれはすでに決定事項ではないのか。

 モスの妻は、なんど人生を送っても、16歳でウォルマートを歩くモスのような男に一目惚れするはずだ。その先、トレーラーハウスで金を拾ってひどい目に遭うか、子供でも生まれて、トレーラーハウスさえ売り払う身になってまたウォルマートで働くことになるのかはわからないが、それのどこかで、なにかを選ぶことなんてできるのか。ヒッチハイクで、拾ってくれたオッサンと添い遂げたら、かつて15歳で家出した彼女にとって美しい国の想い出は、よくぞ家出して知らない男の車に乗ったわ自分、ということになる。それを、選択と呼べるだろうか。

 コインを投げる。
 裏が出たら殺される。
 表が出たら恋される?

 かなりうなずける真実に近いゲームだから、笑えない。

 出逢い、ということに特化して考えよう。
 小売り業をしていて痛感することがある。
 お客さまと、商品を出逢わせること。

 ぜったい売れないと確信できるものでも倉庫に眠らせない。
 売り場に出せばぜったい売れる。
 趣味の悪い人というのはいるものだから。

 数年前の型で、箱は汚れて破れていて、でもそれが。

「え、あれまだ値下げしていなかったのに。あの値段で売れたの?」

 きっと、出逢ってしまったのです。
 おしあわせに。

 『ノーカントリー』とは逆の例を、いま観た。
 いつものことなんですが、録りためていたドラマを、遅ればせながら。

『美丘』

 原作がコンパクトな小説なのを、連続ドラマにした時点で別物にならざるをえないのだけれども、それによって恋人同士の周囲……家族やら、友人やら……を描き込んだ結果、恋人を失った主人公が、まっすぐに陽の当たる道を歩いていく、というラストが涙を誘うという。なるほど、主人公に親近感がわいちゃったから、観客も、原作通りの展開だと納得いかないことになったのは自明の理。

 なにより吉高由里子嬢が。
 『蛇にピアス』に見えなくなりました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

『般若心経というタトゥ』の話。 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 いま彼女、某シャンプーのキャンペーンガールになっていて、大きな販促看板が店にも飾ってある。毎日、それを見るたびに「美丘だ」と思うようになりました。あそこまでがっつりとヒロイン重視の物語でありつつ、最期は動けなくなって逝く役なので、それなりの哲学を持って演じてくれないと失笑モノになってしまうところを、彼女はちゃんと引き込んでくれた。原作のように、蹴りで他人の歯をぜんぶ折ったりはしない、おしとやかな美丘だった。でもだからこそ、吉高由里子本人に重なる部分が多かったのか、「美人じゃないけど魅力満載」な美丘というキャラを、美丘のままで自分寄りにシフトさせるという、絶妙なさじ加減でした。個性的なキャラに飲まれちゃう俳優は多いし、逆に自分の個性でまったくの別キャラにしてしまう人も多いなか、彼女は、これまでのところ、脚本上のキャラクターと女優としての自分のキャラクターをどちらも殺さないラインで折り合いがつけられるという、良い役者っぷりを私に見せてくれています。
 こういう演者、好き。

 家族も、友だちも、関係ない。
 熱く生きて死ぬ。
 お互いのカラダのぜんぶを舐め合って、つながりあって、ほかのなんにも見えなくなってしまえば、ほかに欲しいものなんてない。
 買い物はもうすんだのだから。
 しゃぶりつくすだけ。

 そういった原作と、そうじゃないドラマ版。
 それぞれに、そうでしかありえないヒロイン像とラストシーン。
 で、私は、そこでも『血と暴力の国』の映画化を想い出していた。

 映画のモスは、誤解もされない健全な逃げっぷりで死ぬし。
 ドラマの太一は、胸に美丘の頭文字と誕生日のタトゥを入れた赤い髪の男じゃない。

 原作の小説と、まるで違う。

 どうにも客層がひろがったところを狙った改編で、まいど、まっすぐすぎるから好きだった主人公が、必要以上になにも選ばない男に描き換えられている、というのが気になる。

 15歳の少女に一目惚れされるオッサンと、明日にも死のうかという自暴自棄の少女に一目惚れされる同級生には、共通項がある。 

 基本、なにも考えていない。
 考えていないから、ガキ相手でも真剣に語ってしまうし、逃げる理由は考えないし、屋上のフェンスは乗り越えるし、髪でも赤くしたらと言われたら赤くする。

 なにも考えていないからこそ、すでに一人目を選んだのに二人目を選ぶ気はないし、彼女が死んだらすべてを失ってしまうことも気にしない。逃げると決めたから逃げている途中で、愛すると決めたから愛しているさいちゅうなのである。

 死んでもリングに上がると決めたレスラーみたいに。
 だれかを愛するのも。
 選ぶ、と表現すべきものでは、ない気がする。

 私自身、なにかを選んだことがないわけはないのだが、振り返って、なにかを選んだ気はしない。生きるってそういうことか。けっこうなりゆきだ。逆に言えば、仕事とか趣味とか、愛とか恋とか、友人も肉体関係も、ぜったいに置きかえられないものだ、という感じもしない。と書くと、ひどいことを書いているように読めてしまうが、そう実感する。

 その日、コインのどちらかの面が出た。
 それで手に入れたものと、うしなったもの。
 コインには表と裏しかない。
 作為もない。出たから、出た。
 それだけのことだとしたら。

 美丘が言う。
 生脚は、見せたくないから見せないというならいいけれど、見せられないから見せないというのはダメ。

 プロレスファンが嫌うことのひとつ。
 Tシャツ着て戦うの。
 本人に、鍛えるの怠けているって意識があって、それが透けて見えるのなんてのは最悪。こっちはそんなのわかってんだよ、と。いいから脱げ、と。そうして醜いカラダをさらけ出して戦うD級プロレスラーには、それなりにファンがつく。いっそブヨブヨのカラダでふんどし一丁で血まみれになってみたら、後楽園ホールも埋まってしまったというレスラーも最近いた。

 いつ、どのタイミングで好きになったのかまったく記憶にないので、選んだはずはないが、いまの私はプロレスという競技のファンです。しあわせ。それでいい。さっきも食堂で「ヨシノギさんて、どこのチームのファンですか?」と訊かれたが、野球を好きだったら、えー観ないんですかー、とか言われなくてすんだのかな、などと考えても仕方ない。

 選択などという個人の意志は、出逢わないときにしか機能しない。
 出逢いとは、すでに結果。

 露出は重要だと思う。
 熱く語らないと、熱く語るやつが好きな人に惚れてもらえない。
 物静かな自分を露出するには、キャラ付けが必要だ。
 生脚が好きな男子は多い。いや、生肌全般、男女問わず有効。
 プロレスにやってきた横綱・曙が、肌を隠すようなコスチュームを着ているが、あれは肩紐がないとズレて股間が剥き出しになるからである。あの体型ではボクサーショーツは無理だ。でも、あそこまで目立つ巨躯になると、曙好きはほぼ開拓されつくしているだろうから許される布地なのである。

 ウォルマートで、レジのコと目があって恋に落ちることなんてあるだろうか。
 ということを考えるとき、私は実証で知っていることがある。
 大型店の店員は、日々、数千人と出逢う。私が今日会話したのも、一時間に10人はないが、5人ということもなく、平均して一日たぶん50人前後。壁に穴空けちゃった人から、コウモリに困っている人まで。一日50人とすると、一ヶ月では1000人を越える計算になるが、年に一万人以上と出逢いながら、私はお客さまに恋したこともなければ、恋心を告白されたこともない。憎まれたことは多々あるかもしれないが、こっちが憎んだことはない。そういうこと。

 選択はない。
 しかし、意識の土台は必要なのである。
 
「あそこに行けば彼に会えるとわかったの」

 わかっていたから、出逢ったのであって、出逢ったから向けた視線は、レジっ娘がオッサン客に向けたものではなかっただろうがために、向こうもその気になった。そういうのを一目惚れ同士というのかといえば、それこそをそういうのだ。

 店員を口説くつもりで店に来る客が増えれば、そこで生まれる出逢いも確実に増えるはずである。それが良いことかどうかは別にして、近所の本屋で、くじけずにアピールを繰り返している彼を、私は好もしく眺めている。

 すべてを見せるからファンになれ、という意志を、レスラーは忘れるべきではない。
 闘うとは、そういうこと。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 夏が終われば、秋がくる。
 それは単純な事実かもしれない。だが、熱帯のような夏の日ざしに打たれている最中、誰がこの夏がすぎ、つぎの季節がやってくることを信じられるだろうか。今の、この瞬間は永遠に続く。乱れた胸の鼓動も、伸ばした指先も、大切な人がむけてくれるやわらかな笑顔も、明日だってきっと続くのだ。ぼくたちは周囲にあるすべてが変わらないままだと仮定して、なんとか不確かな命を今日につなぎとめている。

mika

 石田衣良 『美丘』

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 夏が終わった。
 今年は特に信じられなかったが、終わってしまった。
 嘘みたいだ。
 寒くなって、また暑くなる。
 ミサイルでも降ってこないかぎり。
 
 しかしまあ、どこかの国のミサイルが発射されたり、宇宙人が攻めてきたりするよりは、個人的になにかを失うことのほうが可能性は高いだろう。それは自分自身かも知れないし、愛するなにかかも知れないし。失うのが「出逢う可能性」だとしたら、私は失ったことにさえ気付かないかも知れない。
 怖い。

 赤、もしくは、緑の髪の毛にするとか。
 ヒゲを剃るとか。
 いいブーツを履くとか。
 なんでもいいから、つぶやく?
 ヘアピンを十字につけてみる。
 はじめまして、と言ってみる。
 どのチームが好きですか?
 ブレーンバスターに興味はありますか?
 私はあります。

 買ったものは、なくさないように。
 手に入れたものは、愛でるように。

 前回から連鎖で語った作品群で、私は私の傾向を知る。
 選べないで愛し続けて破滅するやつらが、愛おしい。

 そうありたいものです。
 耽溺して人生を忘れることこそ人生。
 破滅はしたくないが。
 時間が限られているのは全員に平等。
 いま出逢えるかも、とりあえず脱ぐか。
 外を、走りまわってみようか。
 でも雨だ。私はかまわないが見てくれる人がいない。
 明日が来る前提でやってちゃこぼれ落ちるに違いない。
 とりあえず、書こうか。
 あのひとに向けて、あのひとに向けて。
 届けないと、届かないことだけは絶対。

 大衆映像化には向かない指向らしいですけれども。
 考えないこと。
 決めたら選ばないこと。
 心がけたい。

TRACKBACK http://yoshinogi.blog42.fc2.com/tb.php/364-dccddc8c

celine handbag online  celine handbag online  2013/10/31 16:50
Colorado is classified as “Hardie zone 5″ (HZ5) What that means is your hardie board paint finish is warrantied for 15 years. I’m pretty sure that if they can warranty it for 15 years, you shouldn’...