最近の記事

スポンサードリンク

月別アーカイブ

映画『レスラー』の話。



 映画『エクスペンダブルズ』の宣伝で来日していた、シルヴェスター・スタローンをテレビのなかに見て、つぶやいた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

だれかひとり持って帰っていいならねえ…オースチンとミッキー・ロークで悩む。リーを水槽で愛でるのも捨てがたい。 http://www.expendables.jp/

Sep 26th

twitter / Yoshinogi

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 でもやっぱりミッキー・ロークかなあ。
 この並びだと、どうにも色物キャラに見えてしまうし、実際にそうなんだろうけれど、そうであるがゆえに、映画『レスラー』のスペシャル・エディション・ディスクに収録されている特典インタビューで、はにかみながら言った顔が思い出されて。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

俺は14年間 干されていた
数年前に 俳優業に復帰したが
1日や2週間の仕事ばかり
俺は態度が悪かったから
それは自業自得だった
R・ロドリゲスが数日仕事をくれた
T・スコットやスタローンも拾ってくれた
S・ペンの「プレッジ」はいい役だったが一日だ


『レスラー』インタビュー

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ここで言っている「スタローンが拾ってくれた」作品というのは、2000年の『追撃者』のことだと思われる。スタローン監督作ではないが、スタローン好きのあいだでは評価の高い一作(私も、ミレニアム前後の渋めなスタローン作がむしろ若いころの作品よりも好き)。

 ミッキー・ロークは『エクスペンダブルズ』に出演を決めたことについて、あの一件の恩返しだと公言している。14年間干されていた自業自得な男の口から出るとは思えない上から目線なセリフだが、アーティスト同士の口撃あいというものは得てしてそういうもので、尊敬する相手の作品だからこそ断固として消費者として上から見る、と心がけることは大事。まあがんばりたまえよキミ、というスタンスを崩したとき、馴れ合いがはじまるのである。

 とはいえ、ミッキー・ロークがコンスタントに作品を発表し続ける大物シルヴェスター・スタローンにビデオを借りて観た兄ちゃんのような口がきけるのは、『レスラー』の成功があったからである。『レスラー』はプロレスの映画。私はプロレスファンだが、格闘技やボクシングも好きで、スタローンの『ロッキー』シリーズも、ご多聞にもれず好きだった。

 ええ、好きだった。いまでも、好きでは、ある。
 しかし、私はやっぱりプロレスラブなのです。
 『レスラー』は『ロッキー』以上に、胸にきた。

 その映画を他人に勧めていなかったと、いまさらに思い出したので、書く。
 きっと地上波では永遠に放送されないし、なんらかの形で万人が目にできる機会があったとして、タイトルもシンプルなので、興味のない人はスルーしてしまうでしょう。
 もったいない。

 続編も、たぶんない。
 だからこれ一本。
 観て。

 勧め忘れていた、というよりも、プロレス好きのあいだではもはや観るしかないと公開前から話題になっていて、公開後は元岩手県議会議員現みちのくプロレス社長ザ・グレート・サスケがコスプレして試合にのぞむほど、プロレスを生業とする人の心にまで染みわたり、別に勧めなくたって、それはいったいどういう物語なのと、まわりのみんなが興味を持っていたため、観ているのが当たり前だと思っていたのだけれども。

 とある機会に、映画の話をしていて。
 『レスラー』のことをつぶやいたら、きょとんとした顔をされた。
 それが、ひとりやふたりではないのである。
 ベネチア国際映画祭金獅子賞ですよ?
 アカデミー主演男優賞ノミネート作品ですよ?
 なにより、ミッキー・ロークがポニーテールでやってきて、プロボクサーとして試合した、あの必殺「猫パンチ」の国ニッポンの民として、その彼の華々しい復帰作を観ないってなんなのさ。

 と、いきどおると、ああそういえばミッキー・ロークという名前には聞きおぼえのあるような……という程度。義妹と友人ツキシマユニにいたっては、いくら語ってもピンと来さえもしませんでした。ジョニー・ハンサムだよっ、ハーレーダビッドソン&マルボロマンだよ?

 ちなみに、その二人も『ロッキー』シリーズの何本かは観ていた。

 ここである。
 ボクサーとプロレスラーの違い?
 いや、観客側の愛でる部分の違いとでも言おうか。

 『レスラー』が公開された2008年。
 アメリカの映画サイトでおこなわれた、

「Sexiest Movie Couples of All Time
(すべての映画でもっともセクシーなカップル)」

 という投票において、ミッキー・ロークとキム・ベイシンガーの『ナイン・ハーフ』カップルが優勝した。

 すべての映画、である。
 十年前のアンケートではない。
 つまるところ、ミッキー・ロークとは、いまだ生きるセックス・シンボル男優なのである。『レスラー』公開当時、私は日本のテレビ画面で世界最大のプロレス団体WWEにミッキー・ロークがやってきて、現役の人気レスラーにパンチを見舞うのを観た。巨大な会場を埋めた観客の、だれひとりミッキー・ロークを知らない者はいない。

 セクシー・ボーイではない。
 史上最高にセクシーなカップルの男役でも、たぶんない。
 整形手術で悪い医者に遭ったと本人も言っている。
 ムダにぶよぶよと増えていた体重は、映画のために本当にがんばったらしく、がっちりとしたデカいおっさんに変わっているが、彼のポニーテールを「可愛い」と評する人はもういないだろう。

(あのときは、どうしてロークは妙な髪型に帽子なんていでたちでWWEにやって来たんだろう、私の知らないなにかのコスプレ? と首をひねったが、いま観れば『エクスペンダブルズ』の撮影が始まっていたんですね。自分自身のコスプレだったんだ)

 プロボクサーである自分を誇りに思う気持ちが、いつだってリングに上がるミッキー・ロークを、一種の自己愛過剰なピエロに見せてしまう。
 
 スマートに歳をとったとは、いえない。
 ミッキー・ローク? そークール。
 そんなふうには、とても口笛は吹けない。

 しかし、それにしても。
 まさにそれは年齢の限界を迎えようとしているプロレスラーそのものに見える。

 ランディ・“ザ・ラム”・ロビンソン。

 『レスラー』で、ミッキーロークの演じた男の名である。
 しかし、彼自身が言うように「監督が俺を起用した理由」は見事に的を射て『レスラー』はミッキー・ローク自身のドキュメンタリーにも見えてしまう。だからこそ彼はこの役に巡りあい、この役で再起を果たしたのだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ドラマチックな映画やラブストーリーとかSFがよかったんだ
元プロボクサーの俺はプロレスを見下していた
展開が決まっているヤラセのスポーツを認めてなかったんだ
だから「プロレスかよ」と思った


『レスラー』インタビュー

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 13キロほどの筋肉をつけ、103キロまで体重を上げたというミッキー・ロークは、完全にヘビー級のプロレスラーの見た目になった。しかし、どんなにカラダがデカくなったところで、彼はプロレスラーではない。では、プロレスラーをプロレスラーたらしめているものはなんなのか。

 観客である。

 そう言うヒトがいる。
 逆説的には、ロークほど鍛えなくたって、観客の前でプロレスをすればプロレスラーになれるということでもある。伝説の人、ジャイアント馬場御大は言った。

「プロレスのリングでおこなわれることは、すべてプロレスである」

 しかし、いまや日本では本物のプロレス団体が、商店街であり、銭湯や、工場、キャンプ場であり、インターネットのなかでだけしか試合をしないといったスタイルまで打ちだしている。観客がいない団体なんて、珍しくもなんともない。興業さえおこなっていないプロレス団体もある。

 私はかつて美大生だった。
 ファインアートな学科で絵を描いていた。
 通っていたのは新設校で、教授は、六十過ぎまで妻の稼ぎで放浪の画家だったが人生ではじめて給料のもらえる職業人になった、というようなヒトばかり。もちろん美術界的には偉大な人たちで、つまるところ、大学教授になるような作家でも、日本では商業的に成功したりはせず、たいていは金にならない絵を描き続け、たまに賞なんかもらって小金が入っても、それで生活が変わるわけでもなく、また描き続けるという。

 うっかり先生になってしまった彼らは、同じことを言った。
 特に絵画科のきみたちには、これだけは心に刻んで卒業して欲しい。
 
「描き続ける限り作家」

 漫画家みたいに原稿料が入るわけではないので、たまに絵が売れたら税務署に行く。職業はなんですかと訊かれて、画家だと答える。売れているのですかと訊かれたら、まったくですと答えるが、自分が画家以外の何者でもないことを自分は知っている。

 だから、やめるのも自分。

 ミッキー・ロークも言う。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

俺はわずかなキャリアを自分でぶち壊した
俺は“過去の人物”になり
14年間は誰でもなかった 


『レスラー』インタビュー

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 14年間ものあいだ誰でもなくたって、アンケートで人々はセクシー俳優としてミッキー・ロークの名をあげる。彼自身が「俺は役者だ」と言い続ける限り、彼は役者だったはずだ。彼のセラピストは絶望的だと言ったらしいが、映画のインタビューの数十分の会話のなかで「元プロボクサーの俺は」というフレーズを数回出してくるのは、過去の人物としてさえ憶えてんのかよキミたち、という不安がいまだに拭い切れていない証拠のようにも見てとれる。その一方で、キュートなハンサムボーイだったむかしの自分には絶対に戻りたくないとも言う。シワの浮いた手に滲んだタトゥ。家族を失い、飼いはじめた犬だけが年老いた男の愛の対象だという。

 それとも、それはセラピーの成果なのだろうか。

 すべてを失ったと感じている者に、セラピストが言う。

「なにかあるはずよ、あなたをあなた、たらしめているもの」
「おれは……」
「ええ。あなたは?」
「プロテストに受かったんだ。ボクシングの」
「すごい。プロボクサーなのね?」
「ああ、年齢制限で、元ボクサーだけど」
「それでも、あなたはボクサーなのよ!」

 というやりとりが、ふたたび主役を演じ、金獅子賞を獲っても、まだ頭のなかでこびりついて離れないのかも知れない。『レスラー』は、当初、ニコラス・ケイジ主演で話が進められていたが、監督がミッキー・ロークで絶対と推しきったという。予算は削られ、街のカフェで、監督はロークの前に自転車で登場し、まっさきに言った。

「勝手なふるまいをしないで欲しい」

 監督の言うことを聞き、監督のことを他人の前で侮辱せず、役者としてお行儀よくしていなければギャラは払えない。
 14年の何者でもない空白の時間のあと、そこで役者は、役者にもどる。

 おれにそんなことを言った奴はいなかった、おれが求めていたのはこういうヤツだ。
 と、ロークは思ったという。
 キレもせず、出演を決めた。
 バカにしていたプロレスの映画に肉体改造して。
 14年間でついた自制心だろう。
 干されるのも悪いことばかりではない。
 アーティストたちは、そういう期間のことを修行期間と呼ぶ。
 自堕落に落ちぶれていたのだとしても、修行は修行。
 ぶざまになっていく自分自身に耐えるというのは、なかなか苦行だ。

 こういう、谷があって山があることを、
 神さまの思し召し、と好意的にとらえる向きもある。
 この映画に関しては、世界中のプロレスファンが神様の存在を信じたといって過言ではない。

 ダーレン・アロノフスキーという監督の才能が、落ちぶれていたミッキー・ロークという個性を配給会社とケンカしてまで拾いあげ、その結果削られた予算によって、プロレス映画なのに、リングがある会場のセットさえ組めなくなった。スポ根もので、街の風景がいくら薄汚れていてもそれはいいが、そのぶん、リング上は光り輝いていなければ、お話にならない。

 そうして、監督は決断した。
 ロークの肉体もムキっとしてきたことだし。
 本物のプロレス団体に、ランディ・“ザ・ラム”・ロビンソンをあげて、それを撮ればいいと思いついたのである。ゲリラ撮影というのはよくあるが、ことはどこかの刑務所の出所門の前でこっそり撮る、などという程度の問題ではない。こっそり本物のプロレスのリングの上で試合のシーンを撮ることなど、不可能だ。

 しかし、アメリカで勢力を拡大しつつ、金もないのに日本で興業を開いたことさえあるプロレス団体ROHの露出できるならなんでもやる精神から発せられた返答は、まさしく監督に対してロークが感じたのと同じ印象であった。

 いままでそんなことを言ってきた奴はいない。
 じゃあやろう。

 三沢光晴が逝ったとき、プロレスリングNOAHと交流の深いROHは、レスラー全員で追悼の10カウントゴングに目を閉じてくれた。ファンもみんな哀しんでくれた。NOAHと三沢のおかげでやってこられているといっていい、私にとって、ROHの全員が心からのブラザーだ。

 普通に試合をする。
 会場があたたまり、ファンが箸が転がっただけでも歓声をあげる状態になっている。

 そこに、ミッキー・ロークを……
 いや。
 ランディ・“ザ・ラム”・ロビンソンを登場させる。

 だれもやったことがなかった。
 しかし、考えてみれば、これ以上、入場シーンを盛り上げられるエキストラはいない。なにせ、客も本物なのである。この映画のプロレス・シーンで、ミッキー・ローク以外は、全員本物だ。レスラーも、観客も。控え室の選手たちも、本当にその日、試合をやった選手たちである。そしてもちろん、むっきむきのミッキーになったランディ・ロビンソンの、対戦相手も。

 ネクロ・ブッチャー。

 日本でもインディープロレス好きなら知らないヒトはいないほどしょっちゅう日本に来ているし、つい先日は、あのアントニオ猪木の団体でミノワマンと試合するという出世ぶりだった。噂だが、実に信憑性のあることに『レスラー』でミッキー・ロークと対戦したことによって、ネクロ・ブッチャーのギャラはこの一年あまりで高騰しているらしく、もともと日本でも大人気の選手なのに、インディーに気軽に上がる身分ではなくなっってしまったのだとしたら、それがこの映画の唯一の罪である。安っぽく自分のカラダを傷つける損得抜きにした戦いっぷりこそが、ハードコアと呼ばれるインディプロレスの醍醐味なのだが。

 ネクロ・ブッチャーが、ランディに提案する。

「ステープルなんかどうかな?」
「というと?」
「ステープルガンだ」

 試合前の打ち合わせはそれだけ。
 ちなみに日曜大工をしない人には馴染みがないかもしれないが、ステープルガンとは、椅子の張り替えやポスター貼りに大活躍の、ホチキスの大型製品。

garlic  

(まったくの余談ですが、日曜大工、という呼び方は、日曜日だけ大工さんになる会社勤めの人を指す言葉だけれど、日曜出勤が当たり前で日曜こそ忙しい本職の大工さんたちと働く私には違和感がある。日曜日に休みの人たちは、日曜日に自宅の工事がしてもらえず、あらゆるお店が閉まっていたら不便だろう。すなわち日曜日に他人が働いていることは当然のことだとしたうえで、それでも休日=日曜日という設定には違和感を感じずにいられる、というわけで。あまり感じの良い感覚ではない……それは、法事も結婚式も同窓会もプロレスの試合も「土、日だから来やすいでしょう?」……いやいやいや、というのが日常茶飯事なために、生まれた、ひがみ、かもしれませんが)

 興味深いことだが、アメリカン・プロレスではハードコア戦でよく使われる、ステープルガンや、有刺鉄線バットや、バラ竹刀……すなわち能動的に「それを使って」攻撃しなければ相手にダメージを与えられない道具たちは、日本のハードコア戦では、あまり好まれない。

 日本では、リングに設置した蛍光灯(ただのガラスと違い、割れるときにものすごい音がするので大迫力)や長テーブル(実は長くないと折れないので痛い。昭和の時代、小学生が新日本プロレス中継の真似をして、教室の頑丈な学習机にダイブして胸骨を痛めるという事故はよくあったものだ)に「激突してしまった」というシチュエーションが観客を萌えさせる。あくまで選手が放つのはプロレス技である。ドロップキックっ、ああ、よろめいて机に激突!! つまずいて、蛍光灯が炸裂、流血!!
 というのが作法。

 それに対し『レスラー』のなかでも、ホームセンターに凶器を買いに行くシーンがある。ランディたちが選ぶのは、フライパンであり、バーベキュー用点火剤、虫除けスプレー、ロープ……すべからく、それそのもので攻撃する気がなければ凶器になりえないものばかり。ステープルガンに至っては、ガンですからね。引き金を引かないかぎり、針は飛び出ない。

 そうして、熱狂する観客たちの前で、血糊ではない血の染みたリングの上で、ランディ・ロビンソンことミッキー・ロークは、ネクロ・ブッチャーの胸に引き金を引く。ミッキー・ロークのカラダに刺さったように見えるステープルは特殊メイクだろうが、ネクロ・ブッチャーに叩きつけたガラスは本物で、はだしで有刺鉄線の上を歩いているのも特撮ではない。いや、それが特撮かどうかを論じることには、あまり意味がない。

 会場のファンが本物であり、ハードコア・プロレスリングの熱気が狂気が、そして己の肉体と人生のすべてを投じて「演じる」ということの覚悟が、映画のフィルムにきちんと映し撮られたこの奇跡。

 そう、それが『ロッキー』と『レスラー』の違いであり、プロレスが、エンターテインメントスポーツの最高峰と称されることの理由でもある。

 ミッキー・ロークは、この映画のなかで、本物のプロレスラーだ。
 なんなら、プロレスラー名鑑に、ロークの名を載せてもいい。世界中のプロレスファンのだれも異論は唱えないはずである。

 プロレスとは「演じる」ことの究極の形態なのだ。

 ミッキー・ロークがランディ・“ザ・ラム”・ロビンソンを演じている。しかし、ランディ・ロビンソンもまた、ランディ・ロビンソンを演じている。プロレスラーに限らず、だれもが自分自身という役柄を演じているのだが、ランディであるがために妻に逃げられ、娘を手放し、心が通じかけた恋人には背を向けられる。新聞の人生相談なら、こうアドバイスするだろう。

「あなたは、自分を取りもどすことが先決です」

 だがしかしまて、ほとんど人生のすべてをランディというマスクをかぶって生きてきたのである。ランディがランディを脱ぎ捨てて、それで去りかけた恋人が「なにかにとりつかれたようだった彼の人生にやっと落ち着きが!!」と驚喜したとしても、そこで彼は、なにをするのだ。

 愛が手に入る。

 そのことを、妥協と呼びたい私がいる。
 ランディは鏡のなかの自分のことをランディと呼ぶ限り、すべてを失い、観客さえいなくても、ぶよぶよに太っても、ガリガリに痩せ衰えても、死の間際でさえ、いや逝ってなお、プロレスラーであり続けることができるのである。

 だが、人生には、いろいろある。
 そのたびに、もうイヤになる。
 まして、愛さえなく、まして、ひとりの観客もいない。
 ただひとりだ。

 おれは、なぜ、こんなマスクをかぶってんだ?
 マスクマンだから?
 プロレスラーだから?

 そんなものは、五秒で脱ぎ捨てられる。
 だったら、続けるのは、なんのため?

 答えはたぶん、ヒトそれぞれ。
 多くの友人にこの映画を観せたが、なにも伝わらないヒトも、たぶんいた。そこが『ロッキー』と違う。バレでもなんでもなく、この映画のラストも光り輝くリングの上で、ランディは観客の声援を一身に受けている。だが、ランディには、声援も、今日のギャラも、関係なくなっている。

 娘が、恋人が、ランディという男に向かって叫ぶ。

 あなたはどうしてそういう生き方を続けるの!!

 バカすぎるよランディと、映画の観客も例外なく言ってしまう。

 そして一拍置き。

「でもカッコイイ……ランディ」

 つぶやいたやつが、プロレスファンだ。
 演じ続けることのキツさを骨身に染みている身にこそ響くはず。
 一方、これをカッコイイと感じてしまうことで、自分のダメさ加減をまた骨身に染みさせるバカも多いはず。一方、鼻で笑って「つまんね」と鼻をほじるヤツもいるだろう。

 なんにせよ。
 観てください。
 プロレス・ファンが、なにを求めて血まみれの男たちの試合に声を張りあげ、リングを降りた私生活でもマスクは脱ぐなと強要し、引退してもプロレスラーであり続ける義務を負わせているかが、少しだけでも覗ければ、あなたの世界を視る目が少し拡がるかも知れない。彼ら、彼女たちは、全員が不安なのだ。
 それが、ランディを見ると、ほっと息がつける。

 あそこにも、限界を越えて演じるバカがいる。
 それはいったい何万発目のエルボー・スイシーダ?
 左足を引きずっているのは演技じゃないよね。
 あのひとも、もとの自分はなくしてしまったんだろうか?
 それでも、続けるんだろうか。
 かぶった仮面が、自分自身になってしまって。

 戻ってきたミッキー・ロークに、可愛らしさを感じるのは私だけ?
 目を伏せて笑う、どん底を舐めてなお演者を続ける世紀のスター。
 ミッキー・ロークという人生に熟練したプロレスラーの記録。

The Wrestler

 ところで『エクスペンダブルズ』宣伝に来たはずのスタローンは、ミッキー・ローク・ランディとストーン・コールド・スティーブ・オースチンのコンビについてまったく口を開かないが、プロレス嫌いなんだろうか。かようにプロレスファンは「命がけで演じる」という行為にシビれる種族で映画ファンでもあることが多いので、格闘家ランディ・クートアを観に行く層よりも、オースチンはトレード・マークのビールを飲むのだろうかを観に行く層のほうが厚いと思われるため、興行的観点からのみ組まれた人選なのかもと邪推する。なにせ、ロック様やシナ様(ふたりともオースチン同様、プロレス界の生ける伝説)が出ているだけで内容がどうであれ劇場が埋まる国だし。それとも、スタローンは日本人がアメリカンプロレスを観ているだなんて夢にも思っていないのだろうか……長渕剛と筋トレの話で盛り上がるスタローンは、シュールだった。

『オッドトーマスの救済』の話。で書きかけたことを書きました。プロレスファンが増えると同時に、プロレス好きが勧める小説も手にとっていただけたら幸せ。今月はすっ飛ばされたまま放置されていたクーンツの大作『ヴェロシティ』邦訳がついに来る!! これで明日も生きていけます)



TRACKBACK http://yoshinogi.blog42.fc2.com/tb.php/363-12a9f1c3