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『相互アナニーについて考えてみる』のこと。



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 マンガなのか実用書なのか、はたまた書店によっては女性向け成人指定コーナーにあったりもするという、読む側の立ち位置が難解な、

『ひとりでできるもん ~オトコのコのためのアナニー入門~』

 の第二弾、

『ふたりでできるもん ~オトコのコのための相互アナニー入門~』

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 が出たということで。
 いよいよタイトルからして難解な、そのジャンルを、ここでちょっと考察してみる。
 あまり深く掘り下げると、個人的な性的嗜好の話などもしなくてはならなくなるため、あくまでちょっとだけ、おぼえがき程度に(笑)。

 それにしても「アナニー」。
 造語である。
 薄々お気づきだとは思うが「アナルオナニー」である。
 それ自体はありふれた行為だが、それがあえて「男の娘(おとこのこ)」と呼ばれる、真性女子でもなければ、ゲイでもない、むしろ本来の定義としては女装癖があるというだけの男子に向けて語られているというところが、難解。

 一般的な理解としては、女装癖のある人というのは、女装した姿の自分を見てうっとりしてさらに熱が入ってくれば鏡に映った自分でオナニーもできるという状態にまでなる、といったところで、わたしの思いこみかも知れないが、そこでなされる自慰行為というのは、ペニスをつかったものだと思っていた。そこでアナニーとなると、どうもわたしのなかの男の娘の区分からズレてしまう。

 という時点で、わたしにはたぶん男の娘の素養がないのだろう、ということに気づかざるをえない。そもそも、鑑賞物として彼らを視ているから、女の子の格好で、アナニーで売るなら、本当に女の娘でいいじゃないか、と思ってしまうのだった。違うのである。これはアダルトビデオの設定ではないのだ。現実の男の娘に向けた、彼らの罪悪感を取りのぞくための指南書なのである。女性向けコーナーに置くなんて失礼にもほどがある。自慰行為は罪ではない。

 が、しかし、この二冊目。
 「相互アナニー」。
 第1章の、

「お尻えっちは普通のこと」

 というのはさておき、そこに並んでいる見出しは、

1-A 「アナルプレイ≠変態行為」 
1-B 「オトコ同士えっち≠同性愛」
1-C 「踏ん切りがつかない人のために」

 ……難解もきわまってくる。
 けっきょく、この本は後半、相手を見つけてのアナルセックスにまで話がおよんでいるのだが、宗教的解釈では行為自体がソドミー(自然に反する性行為)と呼ばれるものも、解釈の仕方次第だと言い続けるところなど、教義で避妊を禁じられているからそっちをメインプレイにする、という発想に近いものがあり、アナニーという言葉を造ってしまったのも含め、奥深さを見る。だって、踏ん切りがついて、それが好きなら、同性愛と呼んだっていいじゃない。女性ともやれるってんなら、バイ、両刀つかいってことで肩書きにさえなるのに。

 と、思ってしまうわたしは、だからこの本の読者層ではないということなのだ。
 ここで語られるのは、あくまで指どころかナニをつっこまれたって「だれかとたのしむ自慰行為」だと自分自身に言いきかせるための作法の話。この考え方は男の娘にかぎらず、いわゆるむかしからよく言われる「手と口でやってもらっただけ」「相手はプロ」だからそれは浮気じゃない、という定義方法と同じものなわけだけれど、それにしたっていくら開きなおった男でも、

「アナルだからセックスじゃない、オレはヤってない」

 というのは。
 言いきることにまず勇気がいるのはあきらかです。

 わたしのなかでは、性的対象と「手をつないだ」だけで、それはもう充分に前戯だし、そこに色っぽく交わされた視線などがあれば、接触さえなくてもヒトは濡れたり勃ったりできるので、他者の意識が介在した時点で決して自慰とは呼べない気がするのですけれど。

 相互自慰。

 このFreedom日本では、それをそんなふうに呼ばなくたって、だれも責めないのに、みずから罪を生みだしているような気もする。
 愛とはなんであるかを問うてもいる。
 愛がなければ粘膜と粘膜がこすりあわされたって、肩を叩くのと変わらない。
 突き抜けて天真爛漫ですべてを許容できる人物に、セクシーさは宿らない。
 愛を愛として隔離するために、あえて罪は必要なものなのか。
 
 『げんしけん』で、ヲタクの彼氏を持った彼女は、コミケからいっしょに帰ったあと、決して彼の部屋を覗いてはいけないという教訓が述べられていました。それに対して、さえないヲタクの兄を持つ妹が理解できずに憤慨するシーンがある。

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「だってそれマジ浮気されてるみてーじゃん……?」


木尾士目『げんしけん』
第16話「brothers and sisters」

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 一方。

「ホモの嫌いな女子なんかいません!!!!」

 っていうのも、げんしけんの名言。

(アニメ化では笑いで誤魔化されていたが『げんしけん』はBL書きとして苦悩する荻上千佳(おぎうえちか)の存在こそがかなめ。他人を自分の偏ったフィルターを通した目で見ても良いものか、ましてそれを創作だとか表現だとか呼ぶのは逃げなのではないか……女性誌でも、腐女子の腐女子たる心構えというのは自虐的な笑いをまぶして描かれることが多いなか、まっこうから悩み抜くさまを描いているこの作品、未読のかたがおられたら、女性にこそ、おすすめしたい)

 恋人の本棚にあるボーイズラブもエロゲも許容できるが、実写エロDVDはダメだっていうラインのヒトは多い。ということを考えると、けっきょく創作物か否かというところが重要なのであって、いやアダルトビデオだってフィクションだけれど、そこには生身の女優さんがいるので、それが問題になるので。
 というところで話は戻って男の娘同士の相互自慰。

 それが自慰だと言いきれるなら。
 わたしは彼のことを生身だと認めていないことになる。
 そしてそれは転じて裏もまた真実。

 わたしはわたしも生身だと認めていないことになる。

 男の娘、って、そういう「イキモノ」でさえない、完全フィクションな「なにか」なのかも知れないなあ、と考えたりしたのでした。性別の否定だけじゃない、生身の男としての自分の否定、というのは、女子におけるゴシックロリータの精神とも通じるところがあって、彼女たちはフリルを身にまとうことでスイーツを排泄する人形になるという。性欲がなくなるわけじゃないが、かぎりなく生きた人間からは遠い「なにか」に変わるための魔法がゴスロリ。
 そういうのと同じで、男の娘にとっては、自分の指で自分があえぐなんて行為にこそ、矛盾があるのかも。
 だって他人に愛されて、もてあそばれてこその人形なのだから。

 他人の指先で肌を染められる自分がなによりかわいい。

 だとすればやっぱりそれは、自慰なんですよね。
 男の娘をやるのも、なかなか大変なのだなあ、と感心しました。
 普通でいられないからそうなったはずの生き様を続けるために、それは普通なことだと力説する他人の書いた指南書を読む。
 その行為自体が、さらに難解になる。
 普通にオナニーとかできるうちは、まだまだヒトとして浅いってことなのかも。
 悩んでなんにもできなくなるなんてのは悩みきっていないからで、悩んだ果てに、なんでも「普通やん」とたのしめるようになるのが、ヒトとしての進化なのかも知れぬ。自分にとって普通なことを普通だと言いきることこそ、生きるさま。

 でも。
 オナニーなんて、別に言いきらなくても好きなことやればいいのにとも思う。
 相互自慰する相手を、恋人、と呼んだら、なんでいけないんだろう……
 ほんとセックスって哲学。

 答えなどないから、飽きないのでしょう、人類も。

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