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『オッド・トーマスの救済』の話。



 悟りというのはたまに、まったく思いがけないときに降りてくる。以前ぼくが、カイロプラクターで薬草医でもあったにこやかな日本人といっしょに、ロープで縛られ、食肉用冷凍室のラックに並んで吊されていたときも、そんなことがあった。


 ディーン・クーンツ 『オッド・トーマスの救済』

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 オッド・トーマスの叙述感覚がいちじるしく狂っていない限り、これは、厳しすぎる現実から逃避したオッド青年が、修道院に逃げ込んだ、その時間軸以前の回想であることになる。この、オッド・トーマス・シリーズ全編が「だれかに読まれることがあるとすれば、ぼくの死んだあと」だと明記された物語なので、いったい、オッドがこれを書いているのが真に語られている青年の時期なのか、それともあまたの冒険と危機を乗り越えた、もっと大人の、もしかしたら老人、はたまた、いまわのきわかも知れないオッド・トーマスによって書かれているという可能性は排除できないため、昭和の真田広之みたいな日本人と冷凍車に吊されたという事件が、実際に十代のオッドの身に起こったのかどうかは、はたして疑わしいことではある。己の虚無を癒すため、人生を回顧していた作業がいつの間にやら空想とごっちゃになって、そんな事件もあったようなことになってしまっている可能性は、かなり高いと私は見る。

 手記という体裁をとってはいるが、執筆者オッド・トーマスは、自身の書く物語のすべてが、小説ではない、などとは、明記していない。『オッド・トーマスの救済』は、シリーズ三作目になるが、あいもかわらずの一人称で書かれているため、私たちは、それが現実なのか、オッド青年の妄想なのか、狙って書かれた空想物語──小説なのか、やっぱりはっきりとしないままに、読むことになる。

 今回は特に、おいおい、と、つっこみを入れたくなる箇所が多い。
 しかし、つっこんでみてから、いったい私がささやきかけたのは、オッド・トーマスなのか、それとも、オッド・トーマスの生みの親であり育ての親である創造主マスター・ディーン・クーンツ様なのか、さっぱりわけがわからなくなってしまうのである。

 冒頭引用の、真田広之のエピソードは、クーンツが筆をすべらせて書いたものである(断言)。プロットなしでノリで書いていることが、はっきりわかる部分が何カ所もあり、それでも整合性をたもつことのできるのがクーンツの職人技なのだが、こと今作に関しては、おいおい、どころか、いやあそれはいきおいで書きすぎちゃったんじゃないの? と苦笑させられるところまでもがあってたのしい。

 『オッド・トーマスの救済』。

 その物語は、クーンツ夫妻が、愛娘犬トリクシーを亡くす直前に書かれた。
 本物の死。それを前にして、クーンツは、修道院を舞台に選ぶ。
 夫妻は、敬虔なカトリック教徒である。
 そしてクーンツは、ホラーとサスペンスの作家だ。
 十字架の建つ施設を舞台にすれば、そこで暴力や死や、それよりももっと恐ろしいことを、おこなわなくてはならない。家族たるトリクシー・クーンツの衰弱ぶりを看取りながら、ディーン・クーンツは、十字を切りつつ、修道士たちを危機におとしいれる。

 モダンホラー。
 その言葉を、31章の終わりで思い出した。

 1980年代当時、モダンホラー御三家といえば、スティーブン・E・キング、ディーン・R・クーンツ、ロバート・R・マキャモンのことを指したが、二十世紀の最後の十年で、キングは相次ぐ映画化でエンターテインメントホラーの帝王と呼ばれ、マキャモンは世界幻想文学大賞とブラム・ストーカー賞を立て続けに受賞したことから、ホラーの語りべというよりもファンタジーの紡ぎ手と認識されるようになり、皮肉なことに、多作にしてミクストジャンルの帝王、ポルノ育ちのサスペンス書きであるディーン・クーンツが、なんだかモダンホラーというものの代名詞のようになってしまっていた。

 モダンとは。
 Modern.
 直訳すれば、近代、である。
 古代文明に対する近代文明というように、ホラーにも古いのがあれば新しいのもあるという区分のひとつであり、モボモガという大正ロマンのかおりあふるる日本語もあるように、それはあくまで「その時代においての古さから脱却した新しいなにか」のことなので、当たり前だが、明日、どこかの街で過去からタイムスリップしてきたモダンガールを目撃しても、もっさいオンナだと思うだけであろう。

 というわけで、クーンツは、映画化がうまくいかず、文学賞からも縁遠く、しかしだれもが認める世界のベストセラー作家であり、読めばおもしろいことは認知されていて、作品量も多く、しかもその大半は現代を舞台にしたアクションサスペンスであるというのに、二十世紀も終わろうとしていて、いまだに自分はモダンなホラー屋だと呼ばれている……そのことを、あまりうれしく思っていないということを、どこかのインタビューで話していた。

(確か、自分をホラー作家だなんて呼んだことはない、という主旨の発言だったので、モダンであるかどうかというよりも、まったく新しいものを書いてきたつもりだったのに、それをモダンではあるが昔ながらのホラーから派生したものだと論じられてしまったことが、お気に召さなかったのかもしれない。ミクストジャンルの帝王、というのは、嫌っていない様子もあるし)

 モダンホラー。
 もっさりした響きだ。
 ホラーを、たしなまない方にはぴんと来ないかもしれないが、ホラー好き、それも二十世紀後期の、モダンホラーと呼ばれたスプラッターをふくむ「新しい時代の」ホラーの愛好者たちは、ホラーに絶対に必要なものは? と問われたとき、考えもせずに、こう答える。

「ユーモア、かな」

 ヤリまくっているペンションのカップルが、窓から飛び込んできたチェーンソー怪人に切り刻まれたとして、そのシーンで監督の力量が問われるのは、血まみれの部屋に、寂しく残された肉片たちを使って、いかようにユーモアを発揮できるかどうかだ。二十世紀末に起こったモダンホラーブームは、そのユーモア感覚をギリギリのラインで保ったサム・ライミ『キャプテン・スーパーマーケット』を絶頂として、それもあるのかと追随したダメ監督たちの、毛玉やトマトやコンドームが人を襲う駄作群によって息の根をとめられた(しかし、そのB級ホラー群があったからこそ、同時期、日本ホラー小説大賞がはじまり、良質なものを求めるファンの声によって名作『インタヴュー・ウィズ・バンパイア』が作られたともいえる。コインは表裏一体ではじめて使えるという好例である)。

koontz

 前述したように、今作は非常につっこみどころが多い。オッド・トーマスの独り語りという手法は、第一作で奇跡のように成功していた。二作目の純サスペンスでも効果的に作用していたが、この第三作にいたって、かつてクーンツが自身の著書『ベストセラー小説の書き方』で懸念していたとおり、おしゃべりな超能力青年の一人称は、少々鼻につくほどになっている。

 リングネームを与えるなら、今作の彼は、

 オッド"ノンストップおしゃべりマシーン"トーマス

 そのため、その分身(というか元身)のディーン・クーンツの精神状態が、如実に筆にのって立ちあらわれてくる。38章が終わり39章に入るくだりを電車のなかで読んでいたのだけれど、あまりのことに笑い出してしまい、あわてて真顔を作ったが、心のなかでは叫んでいた。

「クーンツサイコー!!」

 もしかしたら、もう二度と逢えないかと思っていたクーンツだ。この『救済』には、トリクシーを失った直後に書かれた『一年で一番暗い夕暮れに』へと至る着想が、あからさまに散見される。ゴールデンレトリーバーではないが、オッド君の目の前でエルヴィスの霊と雪原を走る白犬ブーについての描写など、まるまるコピペして使ったふしさえあるような一文もあったりする。

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『一年でいちばん暗い夕暮れに』の話。

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 日本でいうと、山田太一氏がその手法をよく使うが「あれ、このあいだの作品の設定が一部そのまま今作にも使われている」という状態である。というわけで、どちらも邦訳がめでたく刊行された『オッド・トーマスの救済』と『一年で一番暗い夕暮れに』を読み比べてみれば、愛娘トリクシーの死の直前に、父クーンツがなにを得、なにをまだまとまりきれていないと感じ、直後に再びおなじモチーフで書くことを選んだのか、そのすべてが見えてくる。

 ひととひとの絆とはなんであるのか。
 希望とは、絶望のうちで本当に作用するものなのか。
 信仰は、救いなのか。
 親子とは。
 愛って?
 そして、クーンツは、愛娘の死の前後にもやはり、正義と悪について考え続けている。

 実子のいないクーンツ夫妻にとって、初めて飼った犬であり、愛娘と呼んではばからない存在の喪失。その出来事が、作家の文章に悲哀ではなく、さらなるユーモアを与えたことは、ディーン・クーンツという人間を、その紡ぎ出す作品以上に愛してやまない私などにとってみれば、両手をあわせたくなるほどの、この世の素晴らしい一面に映る。

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「自分のことが笑えると、全体像が見えてくる。すると、自分の犯した過ちに気づき、それが自分以外のだれも傷つけていなければ──そう、自分を許せるようになります」


 ディーン・クーンツ 『オッド・トーマスの救済』

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 そのことをオッドに教えてくれたのは、最愛のひとストーミーだという。
 クーンツに教えたのは、亡くした娘であり、その出来事をともにのりこえた、妻ガーダ・クーンツだったのかもしれない。

 オッド・トーマスのように、クーンツはモダンホラーの帝王という称号で呼ばれていたころの自分を思い返し、たのしんでいるみたいに見える。そう、まわりのファンたちは、ディーン・クーンツをあがめる意味でそのもっさい名で呼んだのであり、もっともっと見たことのないふざけたホラー作品を書いて欲しかったのだ。けれどクーンツは、ぼくはその呼ばれかたは気に入らないな、と公言し、実際、二十世紀の終わりに生んだ大作群は、世界幻想大賞でも狙っているかのように、ファンタジー色の濃いものだった。
 
 アクションと、ファンタジー。
 クーンツは、あえてホラーと呼ばれかねない設定を避けていたのだろう。
 しかし、クーンツは、また変わった。ここから、クーンツはフランケンシュタインのシリーズにたずさわっていく。連続ドラマ化こそポシャったが、クーンツ・フリークたちは、だれもがその響きに心を奪われた。フランケンって!? ホラーの王道中の王道。クーンツのホラー。しかも人造人間となれば、研究所から逃げ出した天才犬アインシュタインと異形の追手アウトサイダーとのまさに「モダン」で前代未聞な、感動ホラー『ウォッチャーズ』のことを想い出さずにはいられない。

『Frankenstein | Dean Koontz』

 しかしまあ、そのあたりのことは、あいもかわらず、邦訳の巻末解説者である瀬名秀明氏が、今作の解説で次巻以降の展開も含め語っていらっしゃるので、そちらを読んでいただきたい(確かに二十世紀、特にSFに代表される海外作品は、向こうでは歴史を重ねているのに邦訳の予定さえ立たないということが多く、私たちは文庫本の解説から海の向こうの状況を知ったものだった。しかし、この電子の世紀。ましてクーンツのファンサイトページまでウェブ上に持っておられる瀬名氏が、すべてのクーンツファンの目に触れる文庫解説という舞台で「フランケンシュタインのシリーズもオッドのシリーズにつながってくる」などというようなことを発言されるのは、本当にどうかと思う。マニアに向けての情報を発信するすべがなかった旧世紀とはちがい、調べたいならばwikiにも書いてあることを、あえて衆人が見る場所で語るのは、文庫解説の役割だろうか……むしろ、クーンツの人生に精通する氏だからこそ、宗教とクーンツについてのもっと掘り下げた個人的見解などが読みたかった)。

 というわけで、もしも、あんなに勧めたのにまだ読んでいないというかたは、やっぱり詳しく語らないとはいえ興を削ぐ可能性が多分にあり、それは私のもっとも避けたいところなので、この先の私のたわごとを読むのはやめていただきたい。今回、私がお勧めするのはシリーズ三冊目であり、ここから読みはじめるなどということは愚行でしかないシリーズなので、むしろあなたが余命二日で、三冊のうち一冊を読んで死ぬしかないというのなら『オッドトーマスの霊感』を読んで欲しい。

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『オッド・トーマスの霊感』の話。

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 ていうか、本当にあなたがそういう状態なら、私の文章などで一秒たりとも大切な時間を使うべきではないと思います。はっきり書いておきますが、私はクーンツの信者です。冷静な目での書評など書く気もなく、はなからどこをどう褒めようかと思いつつ読んでいるので、結論はひとつですから。
 途中の文章は、すべて蛇足です。

 蛇足を続けます。

 それにつけても、二十世紀末期から二十一世紀の黎明の鈍足が嘘のように、快調に邦訳されていくディーン・クーンツ。まだまだ未訳のベストセラー作もあるが、私がせかした声もちょっとは届いたのか、トリクシー・クーンツの著作まで今月は邦訳刊行。これについては、またあらためて語りたい。

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(あらためて語りたいと書いてさっそくだが、さしあたってひとつ。いろいろな出版社からのクーンツ作品ラッシュが起きているひとつの弊害だろうが、妻の名が出版社ごとに違うのが気になって仕方がない。だれが最初に訳したのか定かではないが、古くからのクーンツファンである私のなかでは、ディーン・クーンツの妻はガーダ・クーンツである。それが『サイレント・アイズ』の田中一江さんはジェルダと訳し、『犬が教えてくれた幸せになるヒント』の日向やよいさんはゲルダと訳している。『オッド・トーマス』シリーズの中原裕子さんはガーダ。つづりはGerdaなので、むしろ古くからのガーダのほうが読みにくいのだが、トリクシー・クーンツ目線で書かれた「人間のママのゲルダ」というのには、どうにも古参の者は違和感ありまくりなのだった。ちなみに日本のWikipediaにおいては2010/05現在、妻ゲルダと、亡くなった愛犬トリッキーとなっている……いやいやいやTrixieはトリクシーだろ。統一しましょうよう……余談になるが、そういう意味で、日本でトリクシーのことをトリッキーと書いているクーンツ論者はwikiで知識を仕入れている疑い高し。もしかしたら本当には読んではいない作品を薦めている可能性がありますのでご注意を)

 需要があるから刊行されるのであって、そうなるとネット上の書評も増えて、なによりくどいが巻末解説の瀬名氏の喋りすぎかつ年表網羅のデータオタクぶりもあり、あらためてここで語ることなどなにもない。なにもないなどと言いつつ、だらだらとこうやって書き進めているわけですけれども。

 そんなこんなで今回は、愛する娘のどうしようもない最期に祈りながら、修道院を舞台にトバし気味のクーンツ先生が、息子オッド・トーマスを饒舌にしすぎて、実際にodd(変)な青年に見えるレベルにまで行きすぎてしまっている、そのあたりで感じたことをいくつか書きとめておくことにする。

 ずっと飼いたかった犬を飼い、ずっと移植したかった毛髪を頭部へ植え、恵まれない犬たちに手をさしのべ、それでも本は売れ続けるディーン・クーンツは新人たちに向かって、とにかくなんでも吸収することだと説教たれるくらいなのだから、自分だって乱読はもちろん、流行りモノにはひととおり目を通しているに違いない。
 たぶん、ケーブルテレビのプロレス中継も観ている。

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 それが何を意味するのか、ぼくにはちんぷんかんぷんだったが、説明は求めなかった。彼はぼくが完全には理解できないことをいろいろいっていたし、ぼくとしてはふたりの関係が、はあ? はあ? はあ? とこちらはリズミカルに問い返すだけの、言葉によるソナタになるのを避けたかった。


 ディーン・クーンツ 『オッド・トーマスの救済』

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 ストーン・コールド・スティーブ・オースチンを知らないとは言わせない。

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 WCWの雄であり、WWEではいろいろあったけれど昨年には殿堂入りも果たした、ハルク・ホーガンと並ぶ二十世紀最後のアメリカンプロレスの代名詞。彼がリングに上がり、叩き合わせたビール缶からあふれるビールを全身に浴び、マイクを持って語りだしたら、観客たちはその一言ひとことに合いの手を入れる。

「What? What? What?」

 はあ? はあ? はあ?
 最初は耳の遠いオースチンをからかった対戦相手のセリフだったが、いまでも、プロレスのリングでだれかが語りはじめれば、自然と次をうながすこのかけ声が飛ぶ現象は、アメリカのオレンジ郡のみならず世界中で観察することができるプロレスオタクの習性だ。オースチンかく語りき。そう呼ばれるこの一連のチャントは、いまではオースチンのモノ真似としてではなく、熱くなって語りはじめたヤツをからかうのに日常会話としても使われるというから、言葉によるソナタ、という表現だけでは、クーンツがあのWWF(パンダのマークの団体ではない)の熱狂的信者だったかどうかはわからない。

 だが、映画好きのクーンツのことだ。WWEレッスルマニアにも登場したミッキー・ロークがヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を受賞した『レスラー』は観ただろう。それならば、ネクロ・ブッチャーがホチキスの針を人間に打ち込むところも観ただろうし、そういう知識こそが、サディスティックな悪役をこのごろ好んで書くクーンツには、刺激となっていることだろう。

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 そういう目で読み出すと、たとえば、これらのページも「うふふん」とプロレスファンは、ほくそ笑みながら読むことになる。

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 「そりゃそうだ。相手が修道士ひとりじゃ、どこでだって客が呼べる対戦カードじゃないもんな」


 ディーン・クーンツ 『オッド・トーマスの救済』

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 こんなセリフがさらっと出てくるあたり、作者が格闘技のなんたるかをたしなんでいるのは疑いようもない。そう、大事なのは、対戦相手だ。クーンツは、そのことをだれよりもよくわかっている。ということは息子、オッド・トーマスもわかっているということである。
 今作の敵も、まあ……ふつうじゃない。笑えます。

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 その映画の化け物たちはかろうじて俳優陣より説得力があるだけで、ソックス人形とたいして変わらなかったものの、その串刺しの場面はずっとぼくの脳裏に引っかかっていた。


 ディーン・クーンツ 『オッド・トーマスの救済』

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 ソックス人形とは、その名の通り、ソックスに丸めたソックスを詰めて縫い閉じ、ボタンで目をつけたり毛糸で髪の毛をつけたりしているうちに、たいていの場合は不細工なモンスター的ぬいぐるみになってしまうという豊穣なアメリカの文化だが。

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 二十世紀の終わりにアメリカンプロレスに浸かっていた信者たちならば、ソックス人形といえば「ソッコくん!!」と絶叫して昏倒する。作家としてベストセラーも出しているミック・フォーリーは、多重人格(という設定)でありいくつものキャラクターを使いわけるが、怪人マンカインドに変化すると、穿いていたソックスを手にはめてミスターソッコくんの魂を召還する。もちろん、ハードコアレジェンド・ミックフォーリー先生に、パイプ椅子で殴られるよりも、ソッコくんに鼻を噛まれたほうが対戦相手のダメージは大きく、しばしば即死技として機能するのであった。

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(↑このパッケージの写真はかなり写りが良い。というコメントで伝わるだろうか。彼がひとしきり汗をかいたあとで、おもむろに靴下を脱ぐのだ。そのソックスは手榴弾よりも怖い)

 ホラー映画好きの、それも怪物の出てくるスプラッターを子供のころから摂取しているオッド・トーマスが、アメリカの低所得者用一般的アパートで暮らしながら、WCWもECWもWWEも観たことがないなどということはほとんどありえるはずがなく、だとすれば、オッドの言うソックス人形とは、ソッコくんである。
 実際、手にはめたソックスで、数々のプロレスラー以外の大スターたちをも気絶させた伝説の人ミック・フォーリーの姿は、安っぽいD級映画の怪物の爪の串刺しシーン同様、あまりにもチープであるがゆえに強烈で、彼がソッコくんを召還しなくなってひさしいいまでも、ときどき夢に見る。
 私にとって、両手にソックス人形をはめた修道女ほど怖いものはない。

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『巫女萌えで思い出したが修道女が苦手』のこと。

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 オッド君は、なぜだか今回、やたらと喜劇的な想像をしては、現実に立ち返って目の前にある恐怖を再確認するという、まわりくどい文章を好んで書いている。そう、まるで、クーンツ師は、長年にわたりキリスト教をモチーフにした作品を描きながら、はじめて舞台とした聖地を、もてあそんでいるかのようだ。その扱いは、伝説的なゲストを呼んできてはコケにすることで盛り上がるアメリカンプロレス的である。
 
 だったら、飛び技はルチャリブレ(メキシコ流プロレス)の技を比喩としてつかってほしいところだけれど、オッド君は、あからさまにプロレスファンであることは明言したくないのか、そこは映画好きらしいたとえを持ってくる。

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 いとも優雅に屋根の上に跳びあがり、空中を舞いおりてくる『グリーン・デスティニー』の剣士よろしく、ブラザー・コンスタンティンはなめらかな動作で鐘からおりると、鐘楼のデッキにいるぼくの隣に着地した。


 ディーン・クーンツ 『オッド・トーマスの救済』

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 いうまでもないが、ブラザー・コンスタンティンは死んでいる。
 オッド君が見る霊魂は、現実世界の物理法則を無視はできないが、生きていたころよりは、軽々と動ける者が多いらしい。それはともかく、オッド・トーマスが、優雅な幽霊の動きを空飛ぶチョウ・ユンファにたとえたのは、アジア圏の住人として、とてもうれしいことではないか。
 私はチョウ・ユンファが好きだ。

 クーンツ先生も、ユンファを観てワクワクして、息子オッドにもあの映画をすすめたのなら、もちろん『男たちの挽歌』もふたりで並んで観て、北米での普及率を誇るXbox360では『ストラングルホールド』をプレイしたことだろう。

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 クーンツは、アジア人を悪役にしない。
 それどころか、日本びいきであることでも有名(とはいえ、むかしの話だが。最近は旅行に興味をなくしているようである。犬を飼っちゃうとなあ)。

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 この場面は日本のきわめて様式化された演劇、カブキを思い起こさせた。現実離れしたセット、凝った衣装、大胆な化粧、かつら、大げさな感情表現、俳優たちのいかにも芝居がかった身振りなどは、アメリカ流のプロレスと同様、日本の伝統的演劇にも滑稽な印象を与えてしかるべきだろう。ところが、なんらかの神秘的効果により、カブキは知識の豊富な観客にとって、親指をすぱっと切る剃刀のごとく現実的なものになるのだ。
 鐘の音が静まり、吹雪が彼のショーを期待して歓声をあげるなか、死神はぼくを指さした。 


 ディーン・クーンツ 『オッド・トーマスの救済』

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 オッド君に歌舞伎を語らせてしまったのは、さすがに師の勇み足ではないかしらんと思うけれど(笑)。歌舞伎と、ついにはっきり「観ている」と肯定してしまったのと大差ない、アメリカンプロレスとの共通項を掘り下げて語るなど、オッド君は、なかなか洞察力を持ったかしこいプロレスファンであるといえよう。
 
 文章では、まるでオッド君は歌舞伎のほうが演出的にすぐれていると言いたげだが、鐘の音が鳴りやんで現れる顔の見えない死神というこの造形は、もうほとんどクーンツがWWEの生ける死人、ジ・アンダーテイカーの設定をパクったと公言しているのに等しい。はっきりここでプロレスなどという単語を出すのも、あまりにもこの主役級の悪役死神が、アンダーテイカーを思い起こさせると認識しているからに違いない。

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 ここにきて、オッド・トーマスなる青年に、新たな好感を持つ。
 グリーン・デスティニーを観てアジアンアクションに感銘を受け、ピンクのミニスカ制服の黒髪ストーミーを愛し、アメリカンプロレス好きのくせに、歌舞伎の演出はすごいけどプロレスって安っぽいよね、なんてことを書いてしまう……これはもう、典型的なアメリカのオタクだ。

 となれば、オッド君が、日本のアニメを観たことがないということもないだろう。

 ということはすなわち、そういう青年を造形するにあたり、十代から二十代の青年が観るようなものはすべからく摂取したに違いないディーン・クーンツも、歌舞伎だけでなく、有名どころなジャパニメーションは摂取している可能性が高い。実際のところ、ネタバレになるのでタイトルを明かすこともできないが、今作の後半の展開などは、疑いようもなく日本の某アニメの影響が色濃くある。

 そのあたりをつっこんで語りたいのだが、やはり瀬名氏を反面教師にする私としては後半のストーリーには触れたくないので、ここで、この春放送されていた日本が誇る新作アニメから、ちょっとした引用をさせていただく。

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 そんな!!
 死んだひとは天国へ行って、
 ずーっとそのままで、
 地上をうろうろするのは、
 悪いモノでしょう!?


 『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』
 (第七話 『蝉時雨・精霊流シ』)

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 墨埜谷暮羽(すみのやくれは)はキリスト教徒なので、空深彼方(そらみかなた)がナスで馬を作っている理由を聞いて、テーブルを叩いて立ち上がる。彼女は、幽霊が苦手なのだ。お盆に、死者が戻ってくるというファンタジーは、確かに冷静に考えてみれば、聖書の教えに照らすと、さまよえる悪霊ということになる。

(悪霊、という定義もむずかしい……オッド君は、あいかわらずプレスリーの霊とじゃれあっているけれども、彼もまた、神の王国を信じ切れず成仏できないという点では悪と呼べなくはないものの、天国に疑いを持ったら悪霊、なんていわれた日には世界の大半の人が天使のラッパで地上に取り残されることになってしまう)

 最終的にはクレハも精霊流しに参加し、川を流れる灯籠に、亡くした家族を想って手をあわせる。だが、そのときの彼女も、死者が戻ってきたなどと考えたのではないだろう。ただ、きれいだったから。愛するものが帰ってくる、そのために野菜で導きの使者を作り、ロウソクで行き先を照らす。きれいなのは、想う人の心だ。

 オッド・トーマスが修道院という舞台に立ったことで、私のような不信心な人間は、首を傾げたくなるような場面になんども遭遇する。いや、それは、クーンツ作品すべてに言えることなのだが。

 ディーン・クーンツは、改宗者である。若き日に妻ガーダにあわせカトリック信徒になったのだが、それにつけても、クリスチャンではない私の目から見れば、その関係性が、もう、なんだかよくわからない。

 クーンツ夫妻は、共著でポルノを売っていたりもする。私もポルノを書くので、そのジャンル自体を悪だと思ったことはないが、カトリック的に、それはアリなのだろうか? 私の感覚では、日曜日に教会に行く人たちは、青年誌の水着グラビアでさえ悪だと糾弾する善なる人々だというところなのだけれど……まあ、クーンツも、かなりの資金を投じてむかし書いたポルノを回収していると聞くが、カトリック教徒に改宗した当時にまさに精力的にエロを書いていたという状態が、やっぱりぴんと来ないのである。

 『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』のように、異文化の人々が集まってなにかを為すという集団は、現実に存在する。『オッド・トーマスの救済』は、修道院を舞台にすることによって、その集団の小さなパロディにもなっている。

 多国籍軍。

 彼らは悪を倒す。
 神の名のもとに。
 聖書を片手に。
 
 うーむ。
 私はカトリック系の幼稚園に通っていたから知っている。
 聖書は、打たれたらもっと打たれろと書いている。
 他人をゆるせ、と、くどく書いてある。
 どこにも、銃を握りしめて他人を殺して良い、なんて書いていない。

 キリスト教圏の軍隊が、他国の異教徒兵まで引き連れて、正義をおこなっていると胸をはって叫び、バズーカ砲で戦車を吹き飛ばす。
 そんなニュース映像に、私はどうしても納得がいかない。
 彼らのテントにも、たぶん聖書があるのだ。
 いったい、彼らは、なにを読んでいるのだろう。
 お盆の国の、幼稚園で無理やり読まされただけの、私みたいなうすらとんかちだって、イエス・キリストの教えが「殺してでも正義を」でないことは、はっきりわかる。

 しかし、オッドは修道院長であるシスターの部屋におもむき、言い放つ。

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「ブラザーたちの大半は、あくまで建前としての平和主義者であって、罪のない命を救うためには戦うことも辞さないと思います」
「神は悪に対して抵抗することを求めておられます」


 ディーン・クーンツ 『オッド・トーマスの救済』

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 シスターの反論はそのひとことだけだ。
 オッドは、たたみかける。

 でも、戦う意志だけでは充分じゃない。

 俗世間で問題を抱えていたからこそ修道士になった彼らの多くが、意志だけではなく、実際に悪と戦えるはずだとオッドは言い切り、修道院長もそれを認める。
 すなわち、ここでディ-ン・クーンツは、はっきりと書いていることになる。

 罪のない者を救うためであろうが。
 戦いを選ぶのならば、その時点で、
 平和主義者ではない。

 ……平和のために必要なら戦うべきだ、と書いているわけではない。しかし、クーンツが書きたいのは、あきらかに修道院、すなわち神の教えに含まれる矛盾であり、修道女長の反論さえ、許さない。

 敬虔な修道士は争いに躊躇せず参加し、
 改宗者は官能小説を売ることを罪とは定義しない。

 その教えは、だからこそ、勢力を拡大したのだろうと思う。
 仏教が、念仏を唱え続けるだけで極楽へ行けるといって大衆のあいだに根付いたように。
 カトリック教徒が、みんなポルノを書いているわけでもないし、バイオレンスやホラーで大金を稼いでいるわけではないけれども、みんなが日曜日には教会に行っているわけでもない。オッドの迷い込んだセント・バーソロミュー大修道院で暮らす修道士のなかには、他人の脚を数え切れないほど折って拷問した人物もいるが、彼だって告解で罪を許され、神のみもとでの生活が認められるのである。許してください神さま、と言えば、どんな罪も許される。

 それは、使いようによっては、実に便利なイイワケにもなりうる。

 ディーン・クーンツが言いたい本当のところは、結局のところ、それではないのか。
 バランス感覚。
 ユーモア、というのは、言いかえれば、コンドームが人を襲うのはやりすぎである、ということにつきる。悪ノリが文化になる場合も多々あるが、それは、就職面接でタメ口をきかない、というようなことと同じで、例外をあげだせばきりがなくなる。本人がユーモアだと思って表したことも、他人にとっては不快でしかないことは多い。逆にいえば、ユーモア感覚にすぐれた人、というのは、規律正しい人、ということでさえあるだろう。

 最終的に判断するのは自分。
 聖書にそんなことは書いていない。
 けれど敵を倒さなければならない瞬間はある。
 電車のなかで両脚をそろえて座る女性が老人ばかりになってしまったとなげく男性は多いが、だったらおまえはサムライなのかと問うてみたい。この時代、この社会で、死者の声に耳をかたむけ、清廉に、姿勢正しく生きようとするのは、一種のコメディのように他人には映るかもしれない。
 でも、やればいいじゃない。
 正しいと思うなら、やればいい。
 必死ではいけない。
 あくまで、他者のため隣人のために。
 命まで賭けられるなら、あなたのユーモア感覚はかなり良いバランスだ。

 それで戦争まで許容する気は、クーンツにもないだろう。
 けれど、愛する者を守らず、自分の頬を差し出すようなのが、真の意味で敬虔なカトリック信徒だとも、まったく考えていないことはあきらかである。
 聖書を読んだうえで、判断するのは自分。

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近ごろ、ぼくが運命の女神に求めるのは、彼女がぼくの人生に投入する人間──悪人でも善人でも、その両方に属する者でもかまわないが──に、ある程度のユーモアを持たせてほしい、ということだけだ。何十億もの人間をつねに混乱させておかなければならない多忙な運命の女神にとっては、たいへんな頼み事かもしれない。


 ディーン・クーンツ 『オッド・トーマスの救済』

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 それは、過酷な人生を生きるオッド・トーマスのつぶやきだが、その父である師ディーン・クーンツのたどりついた、ひとつの答えでもあるのだと思う。現実はだれにとっても過酷だ。だからこそ、人は剣士チョウ・ユンファが空を飛ぶ愛の映画を観に行くのだし、ネクロ・ブッチャーがホチキスを握りしめて蛍光灯の束に向かってダイブするのを観に行く。テキサスでチェーンソーを使って人を刻みまくる人の皮を被った男の話に眉をひそめ、こことは違う、しかし現実に似たどこかの世界で、灯籠流しに父母を想うクリスチャンな少女を微笑ましく見つめる行為、それらはすべて、ユーモアの一形態だ。

 神などいない。
 それはわかっている。
 けれど、許しを請うために神は必要。
 人は罪を犯さずに、生きていくことなどできない。
 私は、今夜、必要以上のチキンを食べた。
 飼い猫が死んだときには泣いたが、毎日鶏のためには泣けない。
 これだってかなり、実際的な罪。
 イヤらしい目でだれかを見ない日なんて一日たりともない。
 だとしたら、今日も明日も私は私のけがれた目を自分のひとさしゆびで突かねばならないが、そんなことはしないし、かわりに神に祈ることさえしない。

 ただ、ディーン・クーンツの作品を読むと、いつも考える。
 正義を信じている人がここにいる。
 愛を信じている人がここにいる。
 どうやら、あらゆるジャンルでイヤらしいこともけがらわしいこともいたましいことも、余すことなく描き続け、自然の摂理に逆らって自分の頭に毛まで植えた男が、愛する娘犬が逝こうとしているそのときに、神の名なんかを口にする。 

 弱り、息絶えかけている愛娘トリクシーのそばで、悩めるオッド・トーマスが、延々と独白する饒舌な小説を書きながら、クーンツは、トリクシーにも、きっと妻にも、何度も微笑んだのだと確信できる。三人の時間は終わりかけている。それは現実。しかしディーン・クーンツは小説職人として物語を紡ぎ続け、ガーダは彼のそばにいて、たぶん、作家は次作の構想まで練っていた。トリクシーを、看取ったあとで書く作品のことを。

 喪服に欲情する人は多い。修道士に萌える人も多い。死や、がんじがらめの信仰、そういったものが詰まった修道院という舞台で、死者が見える青年オッド・トーマスは、あらゆる場面でユーモアを忘れず、今回もまた、物語は収束するが、死者は生き返るわけではなく、謎も残ったままになる。

 オッド・トーマスの、人生の一部。
 それがこのシリーズの一冊一冊であり、そこにはディーン・クーンツの人生観が詰まっている。死は死だ。この世に怪物はいて、神はいない。しかし、神を想像して祈るユーモアは人間に許された特権だし、だからこそ、愛するものを喪う場面にあっても、小説家は小説を書ける──それもユーモアに満ちた、アクションとサスペンスたっぷりのモダンホラーな小説を。
 それは、すばらしいことだ。

 私は、ディーン・クーンツが好き。
 好きであることに理由はあるのだろうけれど、好きになってしまえば関係ないともいえる。
 この世にクーンツがいなかったら、と考えると怖い。
 すべての現代作家はディーン・クーンツの作った道を歩いている、と言ったのは高橋克彦氏だったが、それは大げさに過ぎるとしても、こと現代のモダンなるホラーの影響を少しでも受けた者にとって、ディーン・クーンツとは、ひとりひとりの父であることはまぎれもない。
 愛犬の死。
 それもひとつのきっかけなのだろうが、いまや、クーンツは総括の時期に入ったといってもいいほどのキャリアでありながら、あきらかに次のステージの、次のモダンな、ホラーなのかサスペンスなのか、なんだかよくはわからないが、ともかく新しいクーンツ・タッチを獲得しようとしている。

 創造主ディーン・クーンツが、また新しい道を創っている。
 けっきょくのところ、現時点で、それが役に立つ道なのかどうかは判然としない。それでも注視せざるをえないのである。まあ、いいではないか、それは重苦しい道ではなく、ユーモアにあふれた奇妙な道なのだし。たのしみながら、ついていけばいい。あちこち見ながら歩くためには、とりあえず道が必要なのであって、危ぶめば道はなし。
 行けばわかるさ。

 ありがとう。

 ディーン・クーンツ&オッド・トーマスは、なかなかにゆかいなコンビだ。
 軽く見て手にとることをおすすめする。
 そこに軽くないなにかを見いだせるかは、あなたのユーモアにかかっている。
 しょせん、エンターテインメントとはくだらないもの。
 それに人生を賭け、成し遂げた男の生き様がここにはある。
 ホチキスの針を額に打ち込まれるレスラーを眺めて拍手を贈るように、私は、今作にも、拍手喝采せずにはいられない。デスマッチ・リングの観客席には、いつだって友人や恋人に連れてこられたらしい、血まみれのレスラーを見ながらも無表情で無感動で退屈そうな観客が何人か、決まっているものだけれども。ああはなりたくないと、いつも思う。

 ディーン・クーンツの新しい一冊だよ!
 ぶっちゃけ、内容なんてどうでもいい(笑)。
 もちろん、世界中で、当たり前に自分の本に価値はあると信じる信者を育てるに至った、それこそが、師の偉大なところであるのは、いうまでもない。
 信じられるもの、欲しくないですか? 
 クーンツは、信じるに足る。

 だから言ったでしょう。
 私は二十一世紀のディーン・クーンツに、少々、冷静さを失っている。
 ああそうですよ、電車の座席では背筋をのばして脚を閉じて欲しいですね。
 個人的見解です。好みの問題です。
 それもともかく、クーンツは今日も書いているのだ。
 この時代に生まれたことを、感謝します、神よ。
 あなたの存在は信じていないけれど、許してください。
 でも、私は、愛と正義と神を信じるクーンツを信じているのだし。
 それって、上出来じゃないでしょうか?

koontz



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