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『デタラメ文章とゲシュタルト崩壊の快楽』の話。




 去年の夏くらいに、いろんなところで話題になっていたので、ご存じのかたも多いでしょうが、こういう文章。

 こんちには 目が さためら たよいう が まど から さしんこで 
 手を かざたしら けかっん が きえのだ みいたに みえた
 わしたが なにを しべっゃて いのるか わりかすまか?

 単語の最初と最後があっていれば、途中の順番はおかしくても、流し読めてしまうという。もともとは英語での研究なのだけれど、日本語でもできるかというのを試すときには、このように、ひらがなで、句読点を入れずに、文節ごとに区切って書く必要がある。
 英語では、もともと単語と単語のあいだに空白が空くので、日本語の場合よりも、ずっと自然にめちゃくちゃな文章を読むことができる、ということなのだが、

Olny srmat poelpe can raed tihs.
I cdnuolt blveiee taht I cluod aulaclty uesdnatnrd waht I was rdanieg.

 まあ、なんとなくわかるが、日本語ほど直感的に入ってこないのは、私の英語力の問題なのだろう。それはともかく、この能力はいったいなんの役に立つかといえば、文字いっぱいの書類を、チラ見しただけでだいたいの内容がわかるとか。とても遠い壁に書いてある広告の文章が、最初と最後がかろうじて見えているだけで、なにを買うべきかわかるとか。正直、どうでもいいようなことにしか使い道がないような気がする。

(余談だが、『探偵ナイトスクープ!』で、プロ野球選手の球を素人ながらにかっ飛ばした速読者さんが評判を高めていらっしゃるが……格闘技好きとしては、でっかいパネルの前で何時間も視界の隅で点滅する電球を追うという「最先端」な動体視力トレーニングを実践したにもかかわらず、たびたび視界の隅から飛んでくる敵のアッパーは避けられず判定勝敗の多い選手人生の末、ついに今年で引退するK-1選手、武蔵の姿などを思い返すに、その速読動体視力なんかも、やっぱり生まれつきの個体差というものがあって、速読術の本を読んだからといって、劇的に飛躍するものではないのではないかなあ、と思ってしまう。スポーツ観戦好きの弊害だ。努力した選手は勝ってくれないと、こっちの人生まで懐疑的で気の滅入るものになってしまう……黙々と壁を蹴り続けたミスターストイック小比類巻太信もまた、引退すると今週発表した。世界にはとどかなかった、悔しい、と。悔しいのは、あなたに喉をからして声援を送っていた、こっちもなのである)

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 その一方。
 文字仕事にたずさわるならば、そんな能力はもぎとって捨ててしまいたいと願うヒトのほうが多いと思う。いままさに、先日のブログのなかの文章で「わすれらず」というのを見つけてなおしたところ。ブログごときどうでもいいが、大事な原稿だって、推敲しても推敲しても、こういうことが起こるのだ。なにが悪いといって、曖昧文書ナガシ読みデキール能力が、だれもにそなわっているがゆえに、発売された単行本にも誤字脱字大量発生なんていうお粗末なことになるわけである。

 と、いうことは、だ。
 むしろ、そういう能力を持ったヒトこそが、能力者と呼ばれるべきなのである。
 「わすれられず」が「わすれらず」になっていたら、意味がまったくわからず、その先に読み進むことができない。そんなヒトが、ひとりでもいれば、この世の商業出版物から劇的に脱字が減るに違いない。それはなにげに、高い値で売れそうな超能力者だ。

 細かいことに気がつくひと、というのはいる。
 私も、どちらかというと、ネクタイが曲がっていたり、脱いだ靴がそろっていなかったりすると、そのひとの性質を好ましく思わない側の者ではある。そういう私が日々、数千人を接客していると、どうにも解せない相手にも出遭ったりする。

「いや、にいちゃん、ここのな、このカーブをもっとなめらかにしたいわけやねん。このビットでかすぎんねん、もっと繊細な作業できるんがほしいんや」

 とか。土地柄なんでしょうか。
 メガネ二枚重ねて、なんの部品だかよくわからないものを持ってきて、試行錯誤したがその曲線は彼の美意識では及第点をとれないものらしく、それ以上は自分の腕ではなく、そもそもドリルの先につける回転ヤスリが無骨すぎるからいかんのだと。店にないなら取りよせろ、金はいくらかかってもいいから、とか(実際「金はええねん、取れるんか」というのは、ツナギを着た人たちの合い言葉のようである。承りましたと言いながら、それぜったい赤字でしょうといつも思うんだけれど。それが職人気質というものなのだろうなあ。できない仕事が来たときこそ赤字になっても設備投資。それができるきっぷのよさがないと、仕事はつかめないんだなあ、と常連さんの顔を見ると思います)。

 で、その美意識のかたまりたる、繊細さの求道師たる、そのおっちゃんの両方の鼻の穴から、わっさーっ、と鼻毛が出ていたりする。もちろん耳毛も。そういうことは多い。ポケットマネーで鼻毛カッターを買ってあげたいと思うくらい、イライラする。そこまで顧客に気をつかうなら、仕事に誇りを持つのなら、身だしなみもある程度はいるんじゃないかしらん。
 とんねるずの『きたなシュラン』を見ていても思う。美味いんなら、店をもうちょいきれいにすればもっと売れるんじゃないの? でも汚いから番組で取りあげられているわけでもあり、それが行ってみたらきれいだった、では期待を裏切ることになるのか、とか……
 だからあのおっちゃんも、あえて鼻毛も耳毛ものばしているのか、それは仙人が決まって白いあごひげを生やしているようなものであり、それはそれで身だしなみなのだろうか。

 いや、そんなわけはない。
 などということを考えながら喋っていると、怒られるのである。

「きいてんのかにいちゃん、ちゃうがな」

 迷惑きわまりない。
 同様な理由により、腕の見える場所にタトゥを入れているお兄様とか、真冬でもホットパンツにハイヒールなお姉様とかいうのも、迷惑だ。実に興味がわくのである。見たいが、見てはいけない、しかしそうそう出遭えるものではないので観察したい。で、妙にテンションの高いしゃべりになって、レジまで案内して待たせるのもなんなので空いたレジで自分で打って、おつりを間違えるとか、そういうことは多々ある。

 なにが言いたいかといえば。

 中間地点を歩き続けることはむずかしい。

 中道は、どこにもない道なのである。
 見えない場所にタトゥを入れると今度は見える場所に入れたくなるし、職人気質をきわめると鼻毛が唇に触れるまでのびても気にしなくなる。

 デタラメな文章はデタラメと気づきながらも読めるが、正確な文章のなかの誤字は気づけない。文字だけに集中すると内容がよくわからなくなってくる。

仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化

 「仏」「公」「化」は、認知心理学的に、文字のゲシュタルト崩壊が起こりやすい漢字だとされる。ゲシュタルト崩壊とは、文字に限らず、モノの全体像がぼやけてきて、パーツに分解され、なにがなんだかよくわからなくなってくる現象をいう。

 あまりに脳内で異性を美化していたため、実際に生身の異性とつきあうようになったら、なんだかよくわからないことになって、極端な性的嗜好が身についてしまう、という例はよく聞く。

 あれ、この字って、こんなだったっけ。

 そう思ってしまったら、もうもとには戻らない。見れば見るほど、書けば書くほど、違和感が大きくなってくる。それでも、「仏」「公」「化」の壁紙がみっちり貼られた部屋で生きていかなければならないのなら、それを好きになるしかないのである。

 で、むしろそれなくしては生きていけなくなり、なんだか快楽めいてきて、あはは、とあられもなく笑えるようになったころ、ヒトに言う。

「これってなんか、気持ちよくない?」

 友人は、一歩ヒいて答えるだろう。

「ただの字じゃん」

 いやむしろ、あたしはもっと崩したいのにな、なんでこれが伝わらないんだろうと嘆くものの、ゲシュタルトが崩壊しているのは自身のうちでだけなのだから、それがだれかに伝わるはずがない。

 かなしい。

 デタラメな文章を、当たり前に読めてしまう能力は、文字が読めるすべてのヒトにそなわっている。だからこの事例は共感を呼ぶし、不思議だけれど当たり前のこととして処理もできる。

 けれど、一冊の本のなかの、たったひとつの誤りをさがしだす作業は、違う。それを専門にやっている仕事師がいるのかどうかは知らないが、そんなことを毎日やっていると、きっと文章すべてがバラバラなパーツとして認識されていくようになるだろう。

「まいどあがりとうごいざます」

 礼を言われていることは、わかる。
 でも、わざとなら、バカにされているともとれる。
 文章の校正に人生をかけているひとの目には、悪だとさえうつるだろう。
 意味が通じればいいというものではない。

 最近、敬語でしっかりしゃべっているヒトが、当たり前に「マジですか」というのが気になってしかたない。いやマジですかは敬語ではないと思うんだが、意味はわかるし気持ちもわかる。でもなんかイヤだ。かといって、いつも「マジですか」と言うやつが「本当ですかヨシノギさん」などと突然言いだしたら、バカにされているようだ、と私は感じてしまうに違いない。

 なにかが、崩壊しているのだと思う。
 大きな声では言わないが。
 デタラメな文章を読んでいるような、違和感をおぼえることがある。
 違和感をおぼえるということは、なにかをじっと見つめられているということなのだろうけれど。
 違和感をおぼえないということは、自分の鼻からのびた鼻毛も気にしないということなのだろうけれど。

 そうじゃなくて、もっと見るべきところがあるんじゃないのか、とか。
 もっと思いもつかないところから実は恥ずかしい毛がのびているのを、私だけが気づかずにさらけ出して生きているのではないのか、とか。

 デタラメな文章も、実は当たり前に読めることが当たり前なように。

 うーん。
 よくわからない話で、ごめなんさい。

 ところで、日本で禅を学んだユダヤの精神医学者フレデリック・パールズが提唱するゲシュタルト療法は、漢字を見つめると粉々になるというゲシュタルトの崩壊を逆手にとったものだといえる。

 要は、じっと見つめたら文字の意味がわからなくなってくる、その瞬間を見計らって、ガシャンっ、と自分好みの自分にあらためてしまおうという、いわば一種の自己洗脳(とかいうと、ファンのかたに怒られるかもしれませんが)。

 バールズが、ワークショップで好んで読んだ詩が『ゲシュタルトの祈り』として有名です。

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GESTALT GEBET

Ich lebe mein Leben und du lebst dein Leben.
Ich bin nicht auf dieser Welt, um deinen Erwartungen zu entsprechen -
und du bist nicht auf dieser Welt, um meinen Erwartungen zu entsprechen.
ICH BIN ich und DU BIST du -
und wenn wir uns zufallig treffen und finden, dann ist das schön,
wenn nicht, dann ist auch das gut so.

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 ドイツ語なので、世界的には、英語で書かれたもののほうが知られていて、しかし、その時点で訳しかたに難があるというひともいる。ていうか、もとのドイツ語版からして、いくつかのバージョンがあったり。

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Gestalt prayer

I do my thing and you do your thing.
I am not in this world to live up to your expectations,
And you are not in this world to live up to mine.
You are you, and I am I,
And if by chance we find each other, it's beautiful.
If not, it can't be helped.

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 それが日本語になると、もうまったく正反対の意味の一文に訳されていたりすることもあって、微妙な解釈がひとによって違うのこそ、日本語というものの奥深さだと実感できる。
 おもしろいので、私も訳してみる。

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ゲシュタルトの祈り。

ぼくの生きかた。きみの生きかた。それは、それぞれのもの。
ぼくがこの地上にいるのは、きみの期待にこたえるためではなく、
きみがこの地上にいるのも、ぼくを満足させるためではなくて。
きみは、きみ。ぼくは、ぼく。
そのうえで、おたがいを見つけられたら、すごくいい。
そうでなかったとしても、それはそれでいいんだし。


(吉秒訳)

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 きみとぼく、とあえて好みから訳したけれど、それは子が親に対してだったり、逆だったり、国民が国家に対してとか、ひとによっては、我々と神、なんていう解釈だってありだろう。Beautifulっていうのは、美しいというよりも、すげー、って感嘆をあらわしていると取った。最後の行の訳しかたがむずかしいんだが「いまここにある己のカタチ」を重視するという意味では、個と個が出逢いもせず、わかりあうことさえなくても、それでもそれぞれは人生を歩んでいるのだから、ビューティフルやん。という感じだと私は訳したのですが。本当はもっとクールに、

「出逢うことよし、出逢わぬこともまたよし」

 と、まさに禅の問いかけのように訳すのが、いちばん気分を出せているのかもしれない。それぞれは等価である。つい思ってしまいがちだけれど「出逢ってわかりあえたほうが良し」では絶対ないというところが肝要。そういうしがらみを、過去を、すべて解体し、バラバラになったマッチ棒で、いまの自分のシンプルなカタチを追い求め、それを愛する。

 それがゲシュタルト。
 カタチを追う前に、まずこわすことが必要。
 よくわかんなくなるまで煮詰まってこそ、そのさきに、こねたらできあがる新しいカタチのぼくがいるわけです。
 だから悩め。
 壊れてしまうまで。
 ゲシュタルトが崩壊して、新しく生まれる苦しみを、快楽ととらえられるまで。

 と、これもまたよくわからない話をぼそぼそつぶやいて、今日はおしまい。

(こんな話をしているのは、 EPOさんの日記を読んだから。格闘家とおなじく、癒しの歌うたいでありカウンセラーでもあるひとが、荒れた文章で愚痴っているのを読むと、こっちがおだやかな心持ちになってくるのでした(笑)。いや笑っちゃいけない。でも悩めるセラピストって、ジョークみたいな響きです)

Gestalt
NieR Gestalt

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