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『オッド・トーマスの受難』の話。

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 ただのダイナーのコックでいたいのに、世界はぼくに卵やパンケーキ以上のものを要求してくる。


 ディーン・クーンツ 『オッド・トーマスの霊感』

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 いや、要求はされていない。
 たしかにその日、尋常ならざる数のボダッハが、怪しい男とともにオッドの働くダイナーに現れるのだが、だったらオッド君は、可愛いピンクの制服のストーミーをつれて、死の臭いに満ち満ちる小さな町ピコ・ムンドを離れればいいのだ。
 死者も、ボダッハも、オッドを追っているわけではない。
 それらはオッド君の側から「見えている」だけ。
 むしろオッド・トーマスは、だれよりも死の臭いから遠く逃げることのできる能力を持っている。

 でも。

 と、ここまでは、前回書いた『オッド・トーマスの霊感』への感想文からのコピー&ペースト。

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『オッド・トーマスの霊感』の話。

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 でも。

 オッド・トーマスは、愛と正義の人の息子だ。
 今回は、友人を助けに行く。
 それなりに自業自得な感もある行動によって悪の手に落ちた友人ダニーを、見捨てる選択肢は、オッドにはない。オッド君にないということは、オッド君のひとり語りに同化して、オッド・トーマスそのひとになりきっている、すでに二冊目の熟練したオッド・トーマスである私たちの側にも、それはないということである。

 助けに行かなくちゃ。

(この感覚は実に重要だ。けっして二冊目から読まないように。前作、オッド・トーマス・デビューの物語あってこその本作である。順番に読もう)

 今作の、移動の場面のほとんどは、ピコ・ムンドの地下に走る、不必要なほどに大きな地下水路を舞台に描かれる。ピコ・ムンドの背後に控える空軍基地フォート・クラーケンは、六十年にわたってアメリカの最重要基地だったのであり、その滑走路と設備を守るため、マラビリャ郡にときおりもたらされる嵐への対策として、砂漠の地下に大がかりな治水システムが張り巡らされているのだ、とオッド・トーマスは理解しているが、読者はそんな説を信じない。その大きく広すぎる水路は、どう考えても治水システムとしては規模が大げさすぎるものであり、背後に空軍基地の存在があるとなれば、悲観論者ならばこう考えるのが当然である。

 その水路は、有事のさいに、ミサイルや兵士を積んだトラックや、戦車が駆け抜けるためのものだ。

 となれば、空軍基地フォート・クラーケンは、六十年にわたってアメリカの最重要基地「だった」というのは、それも楽観論者の見解だろう。冷戦は終結しても、一部ではあの暗黒の時代はまだ続いている。表向きは平和な世がきたと装うためには、都会から離れた場所で、それらの活動は目立たず継続されねばならない。

 たとえば、滑走路からジェット機が飛びたつために、砂漠の真ん中や、森の奥に造られると相場が決まっている、空軍基地とか。

 ところで、軍の基地といえば、二十世紀終わりのクーンツ作品で、古くからのクーンツ・ファンたちに驚愕を与えた、あの基地のことを考えずにはいられない。

 ワイバーン軍事基地。
 明記はされていないが、おそらくはアインシュタイン(『ウォッチャーズ』の主役である犬の名)を生み出したものだと思われる「フランシス・プロジェクト」。クリストファー・スノーのシリーズで「人語を解する犬」を生み出したとされるその計画が推し進められていたのがワイバーン軍事基地である(何度も書くが、そのシリーズは三部作のはずがいまだ完結編をクーンツが書きはじめている様子もなく、日本においては某出版社が一冊目を出しただけで刊行を止めている)。

 「フランシス・プロジェクト」

 フランシスというと、「主よ、わたしを平和の道具とさせてください。」という戦争が起きるたびに引用される「聖フランシスの祈り」を思いだしてしまうが、舞台が現代であり、その計画がどうやらヒト遺伝子の改良にまつわるものだと知れば、こちらのフランシスを連想されるかたも多いはずだ。

Francis_Collins

 ヒトゲノム計画の責任者であり、敬虔なキリスト教徒。
 フランシス・コリンズは、言った。

「神のみが知りえた人間の設計図を、我々も知るときがきた」

 それでも、フランシスは神を信じているのである。
 ヒトは神によって作られたという神話を、否定しない。

 クーンツが、その計画をフランシス・プロジェクトと名づけた意図は不明だが、二十世紀の終わりに、ヒトの設計図を書きかえるという設定を描くSF作家(しかも敬虔なクリスチャン)が、フランシス・コリンズの名を知らないということはありえないので、そこに皮肉を読みとり、物語の今後への期待を抱くのは、自然な流れに思われる。まず間違いなく、クーンツは、ヒトゲノム解析という偉業に、SF作家として不安のほうを強くおぼえている。怪しげな軍の基地が絡む事件で、現れる謎の危険な生命体たち。その描写は、気持ちの良いものではない。

 クリストファー・スノーのシリーズ第一作『FEAR NOTHING』では、猿だった。

Fear Nothing

 闇でも光って見える黄色い目、高い知性と、異常な暴力性。
 そしてなにより、腐敗臭。

 クーンツ作品に出てくる奇怪な動物といえば『ウィンター・ムーン』のアライグマやリスたち、それに可愛そうなエドゥアルドのことが思い返されるが、エドゥ爺さんが臭かったのは、本当に腐っていたからである。死んで埋葬されたのに<贈り主>に操られていたから、それで腐敗臭がするのだ。あの当時のクーンツにとって、腐敗臭とは「その生き物は死んでいるのに、なにかの強い悪意によって邪悪な計画に使われている」そのことの象徴だった。絶対悪を認めるクーンツではあるが、そこに、宿られたものの意識は存在せず、悪とは、人類とも、地球上の善良な動物たちとも、なんら関係ない「外敵」だったのである。

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 死者の霊といっしょにいても居心地は悪くないのに、ぼくは死体が恐ろしい。そのからっぽの器に、新たに悪い存在が住みつくかもしれない、と思ってしまうからだ。
 現実にそんなことがあったわけではないが、ピコ・ムンドの<セブン-イレブン>に、ぼくが怪しいとにらんだ店員がひとりいる。


 ディーン・クーンツ 『オッド・トーマスの受難』

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 だが、クリストファー・スノーを襲った、猿は違う。
 腐敗臭はする。
 けれど、猿は、猿の意志で襲いかかってくるのである。
 異常なほどに凶暴だが、それはなにかに操られているせいではない。
 ただ、その個体がもともと持っていた悪を、増幅させただけ。
 生きながら腐っている。

 この描写が、今作にも現れる。

 軍の掘った水路であり、焼けたカジノ・ホテル。
 密閉空間で、オッド・トーマスは、匂いを嗅ぐ。
 今作では、あの謎の黒い影ボダッハがほとんど登場しないかわりに、この匂いをふくめ、オッドを襲おうと近づいてくる他者の「悪意」が、常に描写されている。クーンツお得意の、ジェット・コースター・プロット。私をふくめクーンツ教の信者ならマントラのように毎日百回は唱える、アクション、アクション、アクション! すべての文章は次のアクションのためのつなぎであり、あらすじは三十秒で語れるくらいにシンプルに。このシリーズが、オッド・トーマス自身の一人称による「手記」であることを考えれば、このシリーズ第二作は、まさに第一作から脱却して「小説」を書こうとするオッド君が、父が若き日に書いたあの本を熟読してプロットを組んだのではないかと思えるくらいである。

Koontz

 もちろん、これはフィクションではない。
 オッド・トーマスは小説を書いているのではなく、自分の身に起こったことを順番に書いているだけである。ということは、事件のあとに事件の仔細をまとめた、オッド君の文章が存在している時点で、すべての事件をオッド君は生き抜いているということになるのだが……シリーズ第一作の冒頭で、オッド君は「いずれ明らかになる理由で、この原稿はぼくの存命中には発表されない」と明記している。結局『オッド・トーマスの霊感』において、その「いずれ明らかになる理由」はあかされないのだが、これはクーンツ作品ではよくあることで、もともとは、これは謎をふくませたまま終わる「その後、オッド君の身にも危機が……」ということを匂わせるためだけの雰囲気伏線だったのではないだろうか。今後、それを最初に書いてしまったがゆえに、オッド・トーマスがひどい目に遭わざるをえないという展開だけは、クーンツ先生に考えなおしてもらいたいものだ。

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 オッド・トーマスとして生きるのは面白いこともたびたびあるが、ハリー・ポッターほどの楽しさからはほど遠い。もしもぼくがハリーなら、これをひとつまみ、あれを少々、それに呪文をぼそぼそ唱えるだけで、〝ぼくの顔の前で爆発しないで〟というおまじないが完成し、そうすれば万事うまくおさまるはずだった。


 ディーン・クーンツ 『オッド・トーマスの受難』

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 そんな第一作に比べ、今作はすでにシリーズ化が決意されていることが、随所に感じられる。
 あの腐敗臭も、くわしくは書かないが、なんと生きた人間が発するのだけれど、そのあたりの描写が、謎をふくんだまま放置されて終わる。「フランシス・プロジェクト」がついに人造人間を造ったのかと思うところだが、どうにもそんな雰囲気ではない。あれだけボダッハを推しておきながら、第二作でまったく違う恐怖の対象を出現させ、しかしそこには新たな謎が。どう考えても軍関係の研究所から逃げ出してきたふうではない敵キャラなので、いったいなにがどうなってそうなっているのか、今後明かす気があるのか、それともなにも考えていないのか……師クーンツの偉大なところのひとつだけれど、書いている最中にダレてきたなと感じたら、躊躇せずにとんでもないジェット・コースターの下り坂を力尽くで作るところがあるので、本当になにも考えないで書いているという可能性は捨てきれない。無茶な風呂敷を広げても、回収できるという己の技術への絶対的自信があるからこそできる小説作法である。

 『心の昏き川』と、邦訳はまだだが2002年『BY THE LIGHT OF THE MOON』に対しても、クリストファー・スノー最終巻同様、続編が必要なんじゃないの? という声は多いらしく、公式サイトで、その質問に師みずからおこたえくださっておられる。長いのでざっくり訳すと、こういう内容。

「オッド・トーマスだって私は書きはじめたときから続編は書けると思っていた。他の作品でもそういうことはある。しかしそのなかでオッドはシリーズ化し、すでに四冊も書いているのは、一冊目への読者の反応がよかったからだ。ちなみにオッド・トーマスの旅が七冊目で終わることを私は知っているが、現段階で、私も五冊目以降の展開はまったく知らない。え、クリス・スノーの三冊目? 私が長生きできたら、あなたはそれを見ることになるかも」

 要は、売れたから続きを書いた、スノーは売上げがぱっとしないので三部作だけど三冊目は長生きできたらいつか書こうかな、ということだ(笑)。小説屋の鏡のようなお答え。これでハードボイルドな逃走劇のさなかに幕を閉じる『心の昏き川』の、その後はほぼ間違いなく読めないことが確定された。私はあれ、好きなんだけど。しかし、七冊のオッド・トーマス物語をやめてまでそっちを書いて欲しいかといえば、うーん。確かに、クーンツ史を彩るには、その選択が最良のような気が私もします。それにしても、まだプロットも決めていないが、七冊、というのは、いったいどういう計算なのだろう。もはや計算ではなく、感覚のものなのだろう。自分のもっている引き出しで、オッド君に使えそうなもの、そして、それを書くなかで、新たに増えるだろう引き出しという、自分の延びしろまで、はじめる前に見える。計算尽くでやっているわけではないけれど、試合のときにはベストな状態に仕上がっているよ、と、うそぶくスポーツ選手のようでさえある。

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 何かをなしとげたあとで、どうやったのかわからないことについては、長いリストができる。つまるところ、いつでも不屈の努力がかかわっているようだ。


 ディーン・クーンツ 『オッド・トーマスの受難』

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 不屈の努力で、書きあげてしまえば傑作も生まれるが首をひねる展開のことも多い。そのクーンツが、これまででもっとも愛着もって愛でるキャラ(もちろん売れたからでもあるんだけれど、売れた子が可愛いというのは小説おとうさんとして当然である)、オッド・トーマス。シリーズ第二作にして、十年来のクーンツ・フリークであれば「あれ、なんかこれどこかで」とデジャヴを感じることさえできる、クーンツ・タッチ総動員。スタートレックを好きな人がよく口にするが「ファンになったばかり? うらやましすぎる、まだ観ていないスタートレックのエピソードがあるなんて」というのを、私も『オッド・トーマスの霊感』からスタートしたあなたに言いたい。ここにディーン・クーンツの良いところも悪いところもぎっしり詰まってる。でも、多くは濃縮されたエッセンス。第一作の感じを期待して第二作を読むと、不満が残る嗜好の人も多いはず。でも読んで。それがクーンツ。なんだこの話、という時間も経験して、一方、ダダ漏れしたみたいに泣くこともある。読んでいる自分の調子でも左右されるし、何度読みかえしてもイマイチだってエピソードもある。しかしそれこそが、私の彼を尊敬するところ。

 映画監督なんかでも、そういう傾向ってある。ひとつのジャンル、ひとつの魅せかた、果てはひとつのプロットで、何作も撮り続け、ヒットを続ける監督も偉大だが。私が好きなのは、まったく慣れないこともやってみせ、売れそうもないことにも手を出し、実際に失敗してもくじけず、でも王道は忘れず、ひたすら芸の道で腕を磨く、そういう人。いままさにクーンツは、肩の力を抜いて、逆説的だけれど、本気になっている。それが、このシリーズではよくわかる。ぜひとも、過去のクーンツに手を出してみて欲しい。圧倒的な傑作をひっさげて、華麗に登場した作家じゃない。C級、D級のペーパーバックやポルノも書き殴りながら、たまに「どうやったかわからないけれど」書けてしまった名作で、名をはせてきた。当たり前だけれど、ポルノだけ書いていたら、どんなに技術が向上したところで、たまたまでさえ『ウィスパーズ』が書けるわけはないし、やっぱりそこには、書けないものを書くんだという姿勢があってこそ生み出すことができたという過程がある。

 そうして、オッド・トーマス。
 彼は実に好青年で、素敵なやつだ。
 けれど、彼が生み出されるまでに至った道には、たぐいまれなる多彩な作品群が落っこちている。
 まだ読んでいないクーンツ作品がある?
 うらやましい。
 ここで、こんなふうに語りかけられたのも、なにかの縁だよ。
 あなたのためのクーンツ・タイムは、いまからはじまる。
 想像以上のものが手にはいると、確約する。

 オッド・トーマス第二作に失望したなら、別のクーンツも読んでみて。
 なんてふうに書評を締めるのもどうかとは思うのですが(笑)。
 クーンツ・フリークの、多くがそうなんです。
 小説屋クーンツおじさんが、好きなのだ。
 大ファンの私にさえ当たり外れがある。
 今作は、その要素が強いように思う。
 けれど、そういうのひっくるめてディーン・クーンツなのである。

 ところで『オッド・トーマスの受難』には、いつものあれがない。
 「悲観の書」も「歓喜の書」からも、なにも引用されていないのだ。
 かわりに、彼女のための一文が掲げられている。

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『オッド・トーマスの受難の販促活動とトリクシー・クーンツのための祈り』のこと。

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 今作は、トリクシーに捧げられている。
 彼女がこれを読むことはないだろうが、というジョークまじりでクーンツは書いているが、もしもトリクシーが読んだなら『オッド・トーマスの受難』は最高の作品だと評されるだろう。実にまっすぐな、クーンツ・タッチの直球勝負。ディーン・クーンツそのひとを好きであればあるほど、この作品は、気持ちいい。クーンツファンでない人にも、このよさは伝わっているのかなあ、とこっちが不安になるくらい。
 オッド・トーマスは言う。

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「いや。ぼくらは壊れている。壊れたものは自然にはなおらない」


 ディーン・クーンツ 『オッド・トーマスの受難』

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 だがしかし。
 力を添えれば、なおるものもある、という意味でもあるのだと思う。
 まっすぐに、たのしいだけの小説を、心の底から愛せる人類と、その人類のために生涯をかけて、もうちょっとおもしろいものは書けないかと、腕を磨く職人がいる。
 そんな地上は、ちょっと楽園だ。
 壊れていると自覚する時点で、ヒビはずいぶん埋まっている。
 フィクションを消費することに必死で争うことも忘れられるなら、それはいいことではないか。
 なおらないんだと言って、オッドは涙する。
 オッド・トーマスは、やっぱり、この時代が求めたヒーローなのだ。
 穢れも、死も、視える。
 しかしそのうえで、生きることの清廉さを追い求める。
 生みださなければ、なにも生まれない。
 当たり前のことを、思い出させてくれる。
 そして当たり前のことをなすのが、どんなにむずかしいかも、教えてくれる。
 不屈の努力が、かかわっているらしい。

FOREVER ODD

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