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作・ツキシマユニ × ヨシノギタクミ
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ユニさんは海洋生物や植物などをモチーフに、
そんなものに挑んだら逝ってしまうよ!
というような微細なタッチで巨大な画面を描く。
以前からそういうひとではあったのだが、
タトゥショップで働き出して覚醒したのである。
ショップのオーナーが彼女を採用したのは、
イラストレーターとしての腕もあるだろうが、
ユニさんがバイク乗りのちっちゃな女性であり、
寡黙で可憐というそのキャラクターが顧客愛玩物になりうる
という計算があってのことだと私はいまも疑っている。
ともあれユニさんはその入れ墨屋に長く勤めたわけではない。
けれどもその後、彼女からのメールが変わった。
画像が添付してあって開いてみるとタトゥ。
はだかの男の肌に油性ペンで描いた、
シャワー浴びたら消えるが描くのには目眩しそうな時間がかかる、
そんなのの感想を求めてくる。
どうやらそこかしこで、
「脱いで。そして描かせて」
という癖に目醒めてしまったようなのだ。
私はおびえた。
美大生だったころ隣のアトリエが彫刻科で、
「脱いで。そして型取りさせて」
というのは日常的な光景で、
私も美人な先輩などに求められると断れず、
しかしそこはそれ。
飽くことのない性的欲求不満の権化である年頃。
冷たく、そしてやがて発熱する石膏とか生ぬるいシリコンとか。
したたり落とされて動くなとか言われても……
よい想い出よりも恥ずかしい想い出のほうが多い(笑)。
そんななのでいまなら平気なのかもしれないが、
ペン先で肌をなぞられるなんてそんな、ダメだよ。
というわけで。
やがてきたそのときに私は断固とした態度で言ったのです。
「よしわかった、我が分身である、とかげをキミの好きにしろ」
むかしむかしに私の描いたとかげを線画にして彼女へ。
(ご存じ
『とかげの月 / 表紙』に居座る青いヤツ)
そこにツキシマユニの魂なのか性癖なのかの描写が加わり。
ユニさんは完全に手描きのひとなのでスキャンしたら、
ここに載せるなら背景が黒のほうがいいねってことで。
黒地に赤い私の分身が陵辱された姿となったのでした。
ついでに見上げる月にも小さな分身を。
月で追いかけっこする青と赤の私のとかげ。
気に入ったので、しばらくこれでいきます。
ありがとうツキシマユニ、愛してる。
イラストには、その1、ってあったから次のもあるってことだよね。
身もだえするほど、たのしみだ。

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数日前、ユニさんがうちにやってきて、おみやげだと言って山積みの鶏手羽唐揚げと柿ピー(正確には柿の種型ではなくボコボコしたおかきとピーナツの混合物)をくれた。なんかどこぞのテキ屋さんと仲良くなったらしく、売れ残りを持って行けともらったのだけれど、どう考えても食べきれる量じゃないからタクミさんのおつまみにと思って持ってきた、ということらしいのだが。あいかわらず、ヤンキー系の男子に人気のあるらしいユニさんだ。
けっきょく、その日は食べきれず、柿ピーは大きなタッパーに入れて冷蔵庫にしまった。鶏手羽唐揚げは冷凍したかったが、王将の餃子を買いすぎて詰めこんでいたために冷凍庫が隙間なく詰まっていて、それも冷蔵庫に保存。翌日の夜はひとりで、それらを晩ご飯にした。
勤めている店の閉まるのが21時なので、毎日、晩ご飯は日付の変わるころである。食事前にメールの返信を書いて、三十分くらい筋トレをする。決まってテレビにはプロレスか格闘技が映っている。すべて録画。リアルタイムにテレビを見ることはない。視聴率を測定する器械がうちで計測していたら、視聴率軒並みゼロ%になるところである。
その日は、ここ最近の儀式になっている
三沢光晴追悼ビデオを観てから、ゴールデンタイムに放送していた、ボクシング三大世界戦を観た。
長谷川穂積が戦慄するほど美しい防衛戦を演じた夜でした。
でも、私がビールの栓を開けて、ツキシマユニの魅力によって貢がれた、柿ピーと鶏手羽をつまみ出したときには、まだ粟生隆寛とエリオ・ロハスのWBC世界フェザー級タイトルマッチが続いていた。羽毛級は55.3〜57.2kgの軽めの階級。総じてフルラウンドを闘いつづけるという消耗戦になりがちだけれども、その夜の闘いはまた、まれにみる五十キロの男たちが互いにふらっふらになる凄絶至極なドツキあいで。
ボクシングのおもしろみを、凝縮した一戦だった。
一ミクロンの脂肪さえないカラダは、闘える限界を追い求めた結果。プロレスや総合格闘技と違い、掴んで倒す選択肢のないボクシングでは、リーチ(腕の長さ)が勝敗を左右する直接的な要因となる。だから選手たちは、自分の身長で、なるべく軽い階級で闘おうとする。力石徹が葉子に水道の蛇口を針金で縛られて、乾ききった自分の狂気と闘う場面はあまりに有名だが(あれは、初登場シーンで矢吹丈よりも「うっかり」背を高く描いてしまったがゆえに、あとでふたりを闘わせるのには、力石に超減量させざるをえなかったということらしい。作者って神であり悪魔ですね)、ボクサーの減量は、健常者のダイエットとはまったく違う「一線を越えるために血さえ抜く」、闘うための狂気と呼べる作業である。

粟生はリミットちょうどの57.1キロで前日計量をパスしたとニュースで読んでいた。リミットちょうどなんていうことが、食事制限のみで具現するわけがない。きっと、ぎりぎりのラインまで筋肉量をたもち、計量の直前に抜けるモノを抜いたのだ。水分を、血を、全身は毛どころか皮膚まで削るいきおいで剃られてつるつるだったことだろう(あくまで想像です)。
そんなやつらのふらふらの闘いを観た。
闘うとは限界を追い求めてそれを越えることだと思いながら、柿ピーと鶏手羽唐揚げをむさぼり食う。ラウンドとラウンドのあいだにCMが挟まれる。

『ナイシトール』
意識して歩いても、暴飲暴食を控えても、うまくいかないあなたはこれを飲むとよいよ、みたいな。思わず骨から肉を歯で引きはがす作業をストップして、テレビに見入ってしまった。このタイミングで、このCMか。なぜ。なにを狙っているのか。
みずからを鍛えるということの美しさに嘆息している一戦のさなか、鍛えるためのバーベルを、もっと鍛えるためのプロテインやアミノ酸飲料を売ろうとするならわかるのだが。そのCMは、鍛えてもダメな人にナイシトール、とは告げない。意識して歩いても? この試合を観ながら、よし明日からはおれは意識して歩くぜ、などと決意するものだろうか。
ナイシトール。
つまるところ、そのCMは。
ラクして痩せる方法、ありますよ。
と、告げている。
ボクシングの中継を観るのだから、鍛えられた肉体に対する崇敬と、ゆるんだ肉体への憎悪が視聴者のなかには存在すると踏んで、大金を払ってそれを流すのだろうか。いや、ボクシング中継のスポンサーになってくれることはとても嬉しいのだけれども。
違和感が、私には、あった。
フェザー級の男たちの、この身を削る闘いを観ながら。
薬で痩せるぜオレ、と決意するやからが存在するということに。
存在しないのであっても、存在すると踏んだ企業の見解に。
嫌悪感を感じる。
ボクシング中継のCMは短い。
ラウンドが終わりCM、そして次のラウンド。ナイシトールで痩せましょうと告げたあと、画面には、汗みずくで、一ミリでも遠くにパンチを放つため、脂肪どころか筋肉とその精神まで絞りあげてきた男たちが映る。
私には、ボクサーたちの極限を越えた努力への冒涜とうつる。
そしていきどおって喉が渇き、ビールをあおり。
皿に山盛りになったニワトリの骨を見つける。
脂肪も軟骨も、きれいにこそげとって喰ってある。
あんなにぱんぱんだった柿ピーのタッパーに、ずいぶんとゆとりができている。
それはどこへ行ったのか。
私の腹か。
もうちょっと腹筋しておくか。
でもアルコールはいって筋トレはまずいか。
明日にするか。
ともあれ、満腹だ。
ありがとうツキシマユニ。
月の二匹も愉しそうじゃないか。
私の描いた私。
ツキシマユニの彩った私。
私と私の追いかけっこ。
陰陽月蜥蜴巴(いんようつきとかげともえ)の図
そう名付けよう。

とかげは、もう一匹の自身を追う。
永遠に追いつけないと知りながら。
だから、追う。
止まれば、追いつかれてしまうから。