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『薪の結婚』の話。





 大好きなプロレスラーが死んだ。
 彼は妻と娘に泣きじゃくられて、棺には大好きだったウルトラマンと仮面ライダーのフィギュアが詰められ、多くのファンに名を呼ばれながら、焼かれた。焼かれたその肉体に彼はもういないのだけれど、私も、そのニュースを見て瞳を潤ませている。彼の名を呼んでいる。焼かれて溶けていく仮面ライダーはまるで埴輪だが、彼は、そんなボディガードなど、いらないくらいに強い。でもどんなに強くても、そのときは等しくだれにもおとずれ、だれもが答えを知ることになる。
 どこへ行くのか。
 行かないのか。
 なにかがはじまるのか。
 終わるのか。
 終わりもはじまりもない連続なのか。

 焼かれていく。
 ヒーローを愛し、みずからヒーローになり、全身の関節が思い通りに動かなくなって、なお演じ続け、その舞台で逝った。彼の追悼番組を観ながら、思った。

「まだ、集めた、たきぎを焼いていなかっただろうにな」

 そういえば、ジョナサン・キャロルの、その物語について、触れていなかったことを想い出した。いつだって、死のそばにいる作家。
 ジョナサン・キャロル。

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 ヴァンパイアは人を生かしているただ一つのものを盗む。血のこともあれば、希望、愛、野心、信念のことも。わたしはどれも盗んできた。


 ジョナサン・キャロル 『薪の結婚』

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 去年一年、ヴァンパイアの話を書いていて、知識が足りないと検索しまくっては書籍を買いあさり読み続けていたのですが、実はそのときすでに私の手もとにはその本があり、けれどヴァンパイアものを読みあさっていたので後回しにしていたら、その検索作業のなかで、ジョナサン・キャロルの新作、まさにその本のタイトルを見つけてしまった。
 なんと。
 キャロルが、ヴァンパイアについて書いているという。

 しかし、読み終えたとき、私は、この作品をどう消化してよいのかわからず、ただそのときこのサイトで、さかんにしていたヴァンパイアの話と、並べて語ってはいけないような気がして、ジョナサン・キャロルの新刊を読んだのに触れもしないまま、一年くらいが過ぎました。

 そうこうしているうちに、この春、クレインズ・ビュー三部作と呼ばれる、クレインズ・ビューという街を舞台にした、登場人物も重複する三冊のラスト『木でできた海』の邦訳が出て。プロレスラーの死にキャロルを思い出し、いまさらながらに『薪の結婚』についても触れておこうかなあという感なのですが。

 待ちに待ったジョナサン・キャロルの新刊が次々出ているのに、嬉々として喋ることのできない私。理由の大きなところは、そこにあると思う。

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『蜂の巣にキス』の話。

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 私は書いている。
 「この歳になってジャニーズの追っかけをはじめたので」翻訳が遅れているなどという発言に至っては、キャロル読者に多い女性たちが「それならば仕方ない」と許しても、私は殺意をおぼえました(笑)。
 と。

 私にとってだけでなく、すべての日本語でジョナサン・キャロルを読む方々にとって、翻訳者・浅羽莢子さんの存在は、ほとんどキャロルの存在感とイコールで結べるところにありました。そのひとの日本語あってこその、ジョナサン・キャロル。ダーク・ファンタジーを日本語で読むには、そのひとの筆力が必要でした。

 その浅羽莢子さんが亡くなった。
 三部作の、一作目を訳して。
 彼女のブログは、いまも消えていない。
 私は定期的にそのサイトを覗いていたので、てっきりキャロル攻勢をかけている創元社に急かされて、更新する暇もないんだなと思っていたら、亡くなっていた。
 ジャニーズの新作CDを買ったという記事が彼女のブログの最後のページにある。
 なんど読んでも、苦笑して、泣けてくる。
 ジョナサン・キャロルと、浅羽莢子が、私に与えた影響は、筆舌に尽くしがたいものがあり、まったく大げさではなく、十代に彼らの文章と出逢わなければ、私の人生は、いまとはまったく違うものになっていたはずだ。

 伝え聞く話では、乳癌の末期であると告知を受け、木村拓哉関連のコレクションの処分に奔走した最期だったという。ああ、私も死を告げられたら、いろんなものを処分しなくちゃいけないし、このサイトはどうしようか彼女のように残したまま逝こうかなどと考えて、彼女の夫が英語圏のかたで日本語があんまりというのもブログで読んだけれど、彼はその後どこでどうやって生きているのだろう、とか、なんか。それはひとつのジョナサン・キャロル作品の中に出てくるエピソードのように思えてきて。
 『薪の結婚』を読みながら、なんどもそのひとのことを思ったのです。
 だから、ちゃんとした書評にはならないと思った。
 いやふだんからちゃんとした書評なんて書いていないが。
 そんなわけでいまにいたるのですけれども。

 時間が経って思ってみても。
 あの『蜂の巣にキス』。
 キャロル作品のなかでも、あまりにも異質な「ダーク・ファンタジーではない」キャロル作品が、彼女の訳した最後のキャロルだったというのは、それこそがどこか幻想的だ。むろん、彼女は『薪の結婚』をすでに読んでいたはずで、彼女が読むということは、訳しかたを考えながら読んでいたということに違いなく、その情報がすでに頭にあった私は『薪の結婚』を読みながら、なんどとなく、たまらずにため息をついたり、背中に寒いものが走ったりした。

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 ふつうの人はよみがえらない。一度だけ生きて、死んでいくの。


 ジョナサン・キャロル 『薪の結婚』

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 その一文を、どう翻訳しようか考えながら読んだのだろうか……思うと、こちらが冷静でいられなくなる。『薪の結婚』の訳は、非常に親切で、読みやすい、良い訳だと思う。何冊か読むうちに、私も慣れるだろう。けれど、まだダメだった。ああここはきっと原文ではこうで、だったらこういう訳しかたもあるんじゃないかと、思ってしまう。『薪の結婚』というタイトルからしてそうだ。「薪」は「たきぎ」と読むのだが「まき」とも読める。私が薪を売る仕事をしているせいもあるだろうが、このタイトルを見たとき、想像したのは、キャンプファイアーで組み上げるような、人の腕ほどもある「まき」だった。原題は『THE MARRIAGE OF STICKS』。読みはじめればわかるが、キャロルが作中で書いているのは、細い枯れ枝のことである。

 あなたの人生で、なにか大切なことがあるたびに、枝を拾い、そこに出来事を書く。起こったことでも、人や、土地の名前でも、なんでも。自分だけがわかればいい。その枝を暖炉のそばや、飾り棚の上に、積み上げていく。大切なことはそんなには起こらないだろうけれど、たまには枝をより分けて、本当に大事なものだけを残して、あとは捨てるようにする。

 あなたの人生が、あとわずかというとき。
 残った枝を、ぜんぶまとめて燃やす。
 想い出とともに。
 たきぎの結婚を、終わらせる。
 人生のすべてを。
 あとは、あなたを残すだけ。

 木村拓哉の写真集が棚から消え、自分の訳したジョナサン・キャロル作品だけが残り、手もとにはまだ訳していない、もう訳せないキャロルの『THE MARRIAGE OF STICKS』。彼女が大好きだったSMAP。その特番で稲垣吾郎が演じた仮面ライダーGの放送を、間違いなく彼女も観ただろう。
 仮面ライダーGが、言っていた。

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『仮面ライダーG』のこと。

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 悪と正義のマリアージュ。
 マリアージュ。それはワイン業界用語で、ワインと料理が相乗効果ですばらしい完成度となる結婚を指す。私と同じことを、彼女もまた思っただろうか。

 キャロル作品って、生と死のマリアージュ。

 不死なる者ヴァンパイアは、生きるほどに他人から搾取する。
 その血を、夢を、希望を、人生そのものを。
 他人から奪いとり、自分は永遠に死なない。

 しかしその構図は、裏返せば、奪い続けなくてはならず、死んで終わることも許されない、ヴァンパイアの苦悩も生み出している。彼女の仕事を待っている読者たち。生き続ける夫。彼女にとっては、私たちがヴァンパイアだ。彼女は私たちのために生きてくれた。そして、私たちは彼女の喪失をなげきながら、生き続けなければならない。

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 覚えているだろうか? 骨の髄まで自分をおびえさせ、そのせいで大嫌いだったクラスメートに脅されるのが、きわめて恐ろしくあらゆるものに影を落とすほどだったことを。相手を負かすことはできない、絶対に。なぜなら相手のほうが強かったり、かわいかったり(または強くてかわいかったり)、賢かったり、大きかったり、怪物的にひどく意地悪だったりするからだ。幼いころは人生について何も知らないため、自分と同い年──七歳とか、八歳とか、九歳──のその相手が、死ぬまでずっとつきまとい、永遠に脅威であると思いこんでしまう。


 ジョナサン・キャロル 『薪の結婚』

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 けれど幼いころが遠い昔話になり、生よりも死のほうが近いところにあると気づいたとき、人は同時に、自分が生きていることが奇跡そのものだと気がついてしまう。

『蜂の巣にキス』
『薪の結婚』
『木でできた海』

 浅羽莢子を継いでクレインズ・ビュー三部作の残りを訳した市田泉は、二冊目の訳者あとがきで書いている。この三部作は、舞台が同じだからそう呼ばれているけれど、もちろんどの一冊から読みはじめてもたのしめる、それぞれは独立した物語だと。
 私は、これには異をとなえたい。
 『蜂の巣にキス』で殺された少女ポーリンの妹、不良警察署長フラニー・マケイブの妻マグダは、連れ子な娘に死んだ姉の名をつけている。そのせいで三冊を立て続けに読むと、すべてが混沌としたひとつの話に思えるところがある。それはすなわち、一冊目では死んだ少女の謎を追い、二冊目では焼け落ちる幻影の家のなかをかけずり回り、三冊目では未来を見るところから物語がはじまるという、フラニー署長こそが、まぎれもないこの三部構成の物語の主人公だと思えるということである。
 そして、それが意図的な構成であるという確証こそが『蜂の巣にキス』が、ダークファンタジーではなかったということではないだろうか。あからさまに、この三冊は、あとになるほどキャロル節を深め、現実よりもファンタジーの割合が多い、それなのに現実を引きずっているという、いつものダークファンタジーに彩られていくのである(詳しくは書けないが、そして物語はファンタジーの域を飛びだしてゆく)。

 三冊目ではフラニーの娘になっている十七歳のポーリンが、死んだ犬に魅入っているのを見つめ、親父はつぶやく。

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 十七歳のころ、死は何光年も離れた星に過ぎず、強力な望遠鏡でもなかなか見ることはできない。その後、年を食うにつれて、死が遠くの星ではなく、自分の頭めがけてまっすぐ落ちてくるいまいましい小惑星だと気がつくのだ。


 ジョナサン・キャロル 『木でできた海』

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 フラニーは、死と生の狭間を越えて、さまようことになる。
 あまりにも異質な「ダーク・ファンタジーではない」キャロル作品を、彼女は最後に訳して、死を越えた先の続きを残して逝ってしまった。幻想的だと私はさっき書いたけれど、その事実は、三冊を読み終えた浅羽莢子フリークにとっては、ホラーでさえある。
 ジョナサン・キャロル。
 幻想世界の王。
 この国では、さらにその色を濃くした。
 濃すぎて、夢見るよりも、怖いくらいに。
  
『薪の結婚』

 それはフラニー・マケイヴ三部作の第二部。
 生の時間が終わり、死が絶対的で謎めいた力を見せはじめる中盤。
 私たちはだれもがヴァンパイなのだと気づき、眠れなくなる。

 本当に、だれにも真似のできない、してはいけない、小説のタブーといえる構成を、このひとは危なげもなく組み上げてしまっていて。『薪の結婚』は、ジョナサン・キャロルがとんでもない小説手法を使っているとわかる人には、こんなひとが存在していること自体がファンタジーな作品です。この作品を書きながらキャロルは次作『木でできた海』のプロットを錬っていたのだろうが……私なら思案するまでもなく読んだ瞬間に「ゆうべのおれはなにを考えていたんだ?」とゴミ箱に投げ入れるだろう、ありえないプロットを、キャロルは『薪の結婚』を書くことで自分が操れることを確信し『木でできた海』を書きはじめ、そして書き終えてしまう。こんな技を使いこなせるひとがいるんだ……それはもう賞賛とかそういう次元を越えて、デタラメすぎて、本気で魔法なのではないかと……
 いやこれは、魔法です。

 三冊あわせて、読んでください。
 順番通りに。
 そうすれば、ジョナサン・キャロルの魔法は、あなたを怯えさせると同時に、守ってもくれるようになるはずです。想い出を書いた小枝を積み上げて。まとめて燃やす日を待つのが生きるということ?
 そうだ、というようにもとれるし、違うとも読める。
 たきぎを燃やす間も与えられず、亡くなったプロレスラーに、声援を送りながら、かわりにここで私たちが燃やしているよ、と、つぶやいている。
 たぶんあなたは、私とはまったく違うキャロルを読むのです。
 もう読んだ人は、いま私が書いた感想を読んで、なぜそんなところを引用? もっと心にぐっと来る言葉がいっぱいあるじゃない、と思うことでしょう。
 そう。それは私がキャロル作品のなかで見つけた、私だけのもの。
 私の人生と、ジョナサン・キャロル。

 そのひとの書くものを、まったく読んだことがないという人は、図書館で借りてきてでも、初期の作品から順に読むことを強くおすすめします。なにも得られない人もいれば、その作者の名を一生忘れられなくなる人も多いはずだから。あなたが得る人ならば、それに触れずに逝くなんて。
 どこで、さまよってしまうものか。
 読まずに、道が照らせるものか。
 とても心配になります。 

 死は、軽くならない。
 けれどある種の魔法で、彩ることはできる。薄めるのではなく、極彩色に着飾った死神は、どうしようもないところや、滑稽なところも持っていると、気づくのです。
 愛せないけれど、憎むこともない。

「〝死〟?……そうだなあ、あいつはさあ」

 そんなふうに、考えることができるようになる。
 いま私は、ジョナサン・キャロルに助けられて生きている。
 届けてくれた彼女にも最大級の感謝をおくりたい。
 まったく大げさではなく。
 21世紀にも、魔法使いは実在します。
 ひとをたすけてくれる。

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『Jonathan Carroll公式サイト』

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