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『オッド・トーマスの霊感』の話。



 ぼくの名前はヨシノギ・タクミという。
 ぼくはディーン・クーンツが好きだ。
 ぼくは、アメリカン・プロレスも好きだ。
 ぼくがだれであろうと、あるいはぼくが生きていることさえも、気にする者はいないかもしれないが。

 クーンツの<日本における>最新刊である。

『オッド・トーマスの霊感』

 端的に言おう。
 感想文を書こうにも、書けないことが多すぎて、けれどもこのクーンツからの贈り物がいかにすばらしいものであるかを伝えたい気持ちはあって……
 こういうとき、実際に売れたという事実が示せるのが翻訳物の良いところ。

 オッド・トーマスのシリーズは、もともと数年にいちどは顔を出していたディーン・クーンツをニューヨークタイムスのベストセラーリストの常連とさせた、功績高い作品である。

 そのかいあってか、念願だったサスペンス映画の撮影にもGOが出た。
 『ハズバンド』の映画化が決まったそうだ。

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『ハズバンド』のこと。

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 決まってはポシャるクーンツの映像化だが、今回はかなり具体的に話が出ている。ファンの目から見ても、邪教集団だフランケンだという作品が演出上の問題で相容れないことになってしまうのは理解できるが、『ハズバンド』なら心配ないだろうという感じがする。期待大だ。ていうか、あのバイク大暴れの演出は、完璧に描いた本人が映画化を狙っているものだし。映画好きとしても、昨今、90分できっちり描くアクション・サスペンス映画というものは減っているので、クーンツにはちゃんと口出しながら良いもの作って欲しいという気持ちがある。
 (つい先日、映画化して大ヒットとか永遠にしないで欲しい、などと書いたところだが。そんなものはツンデレである。本当はヒットしまくって欲しいさそりゃそうさ)

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『善良な男を狙え!!』の話。

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 そんなこんなでオッド君の活躍によって、いまも現役どころか最先端のエンタメ職人だということを証明できた結果、マスター・クーンツは、映画化を狙ったがっちりプロットな作品も書くようになった。ファンとしてはこれでさらに認知度が上がり、今度こそ『ウォッチャーズ』をちゃんと感動的な映画にして欲しかったりするのだが、それもこれもオッド君がさらに活躍してくれるかどうかにかかっている。

 それほどまでにオッド・トーマスのシリーズは特別である。
 ディーン・クーンツの新たな代表作と呼べる作品群だ。

 クーンツはほとんどシリーズ物を書かない。もともと90分アクション映画的小説家であるクーンツなので、続編は読者を減らすという考えがあるのだと思う。これから空の旅に出るビジネスマンが、空港の書店で一冊を選ぶとき、娯楽作品をさがしているのなら、まだ読んでいないディーン・クーンツを選べば間違いない、という作家である。
 レンタルビデオ屋にはなくてはならないが、通りに面したショーケースに置かれることはないアクション・サスペンス。それゆえに、二十年前の作品がいまでも版を重ねるが、発売直後に爆発的に売れるというようなものではない。
 そんななかで、オッド君は本国ではすでに四作目。
 これは、クーンツの仕掛けた勝負だった。
 そして、その勝負に彼は勝った。

 過去の大御所ではなく、現代においてネット通販で新刊が予約される作家であると、いまの世間に認知され、その読者側の意識の変化によってベストセラーリストに「たまたまほかの弾が弱かったのでクーンツが出てきた」という不戦敗ではない、ほかのエンタメ作品が同じ週に発売されるのを嫌がる大本命となったのだ。

 『オッド・トーマスの霊感』を読んで、いままでも彼の作品が発売されるたびに予約して待ってきたフリークたちは、ほくそ笑んだ。
 つまりは私が笑んだ。
 二十歳の、ほとんどありえないほどに善良な青年オッド・トーマスには、奇妙な能力がある。
 町をさまよう死者が見えるのである。
 そして正体不明の黒い影、ボダッハも見える。

 この設定により、ディーン・クーンツを知らない人々は油断して読みはじめるだろう。最初に出てくるのは、レイプされて殺された少女で、それをやったのは非常にわかりやすい変態である(『悪魔は夜はばたく』にも出てきた性癖を持っている。クーンツにもそのケがあるのか、それこそが彼にとって許しがたい罪なのか)。オッド君は、もちろん少女の霊と通じ、その変態を追いつめる。
 この冒頭だけを読めば、新しいFOXのドラマシリーズかと思うような、ビール片手に眺めていたいお約束の展開だ。霊感のある善良な青年が主人公ならば、ひどい目にあった少女の霊が出てきてひどい犯人を指さし、主人公はそれをつかまえる。クーンツの技量を持ってすれば、そのプロットで一本書けるというくらいに必要充分な内容である。
 しかし今回、クーンツはそれをオッド・トーマスの能力説明にしか使わない。

 そこからはじまる物語は、古くから彼の作品を愛してきた者たちにはおなじみのクーンツ・タッチなのだけれど、当たり前の霊能力者ものを予想して読みはじめた新規読者たちは、腰を抜かして失禁することだろう。そんな展開がアリなのかと。なんだそれ、と。なんなんだよそんなのないよという物語を、最上級の文章で脳髄に叩き込んでくる。読み終えたとき、なんだかよくわからないため息がなんども出て、ああ私はこの物語を忘れられずに抱いたまま死ぬことになるなと覚悟する。
 いや本当に、内容があかせないのがもどかしくて仕方ない。

 『オッド・トーマスの霊感』で、逆に古くからのクーンツ・フリークたちが驚愕したこともある。
 一人称なのだ。
 『ベストセラー小説の書き方』のなかで、クーンツは人称について、こう書いている。

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 もちろん、一人称で書いても、すぐれた成功作をものすることは可能である。が、それには大変な技術が要求される。


 ディーン・R・クーンツ 『ベストセラー小説の書き方』

howto

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 だから新人は、もっと安全な叙述法を使うべきだ、ということをみずから書いた例文も交えて説明するこの本の「第十章 文体について」は、なんど読んでも、胃が締めつけられるような気分になる。そこには、人類が小説であらわすことのできるプロットはすでにとっくの昔に出尽くしていて、現代の作家はそれらをなるべく幅広く読み、ほかの作家が真似できない形で組みあげるという芸を演じることしかできないのだ、ということが断定的に書いてある。
 もちろん、クーンツは、だからといって悲観してはいないし、小説屋として生涯をまっとうしようと決意も固めながら、言うのだ。
 だからこそ、

 作家が本当に売らなければならない唯一のものが文体だ。

 クーンツは、一人称を嫌う。それは、主人公が自分で自分のことを語るとナルシストに見えて客のウケが悪いからであり、さらには主人公以外の登場人物がなにを考えているかが、一人称では伝えようがないからである(逆説的には、クーンツはジャンル小説には一人称が向くと認めてもいる。ナルシストで自意識過剰な主人公が自分勝手に大暴れする物語なら、ほかの登場人物は主人公をあきれているに決まっているのだからなにを考えているかは書かなくても伝わるし、ひとり語りは有効なのだと)。
 一人称を使うには、理由がなければならない。
 もっと言えば、こういうことだ。
 
 世界はオッド・トーマスを中心に回っている。

 そこまで徹底して偏った視点で描かなければならない。
 そしてまさしく『オッド・トーマスの霊感』での一人称は、史上でも類を見ないくらいに、完璧に成功している。職人の職人たる手腕。揺るぎない技術の前提あってこそ、作家の魂はそこに描き出される、という教科書のような作品である。
 読者はオッド・トーマスの視点でしか世界が見えない。
 オッドは自分の彼女のストーミーをキュートでセクシーだと伝えるが、マンガTシャツと小学生みたいな白パンツでベッドに入る彼女を世界一セクシーだと見ているのは、多分に恋は盲目な部分が大きいと思えるし、オッド君自身が語るように、そもそも霊とか黒いもやもやとかが見えるのは、単にオッド君が狂っているからなのではないかという可能性もある。
 それでも、オッド君はひとり語る。
 弱気で不安定な青年、オッド・トーマスは、しかしディーン・クーンツの「大変な技術」によって、ナルシストには思えないし、世界を歪んで見ているようにも思えない。
 ほかの登場人物がオッド君をどう思っているかは、語る必要もない。
 オッド・トーマスは清廉である。
 彼を嫌う者などいない。

 一人称だから、そこに嘘のないことが証明されている。
 主人公の迷いに、疑念に、いっしょに心を乱される。
 その心に触れて、私は読みながら苦しくなる。
 クーンツが、私をオッド・トーマスにしてしまったから。

 私は、どうひかえめに考えても、オッドのひどい父親や母親の側の人間だ。けっしてオッド・トーマスのようには考えられないし、オッド・トーマスのようにだれかを愛せないし、オッド・トーマスのように自分の危険をかえりみずだれかを助けようとしたりはしない。

 世紀の変わるそのときに、クーンツの書いた一冊を、私は彼の書きあげた聖書だと言った。

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『サイレント・アイズ』の話。

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 その作品の主人公の名にして、聖人の名、バーソロミューという名前を冠する教会が『オッド・トーマスの霊感』では主要な舞台のひとつとなる。オッド・トーマスの暮らす小さな町ピコ・ムンドにおいて、もっとも背の高い建造物がセント・バーソロミュー教会。そしてピコ・ムンドの町から少し離れた砂漠にある、もうひとつの元教会が、さらに重要な舞台となっている。

<ささやきの彗星教会トップレスバー
 アダルト・ブックストア、バーガーヘヴン>

 朽ちた教会にトップレスバーと本のないビデオとDVDだけのブックストアを併設し、最高のハンバーガーを出す店だったが、その経営も行き詰まり、いまでは廃墟。ハンバーガーだけでなく売春婦も提供していたことで起きた過去の事件が衰退の発端だったらしいが……その最悪な砂漠の廃墟をそもそも構築した「彗星のなかに入って地球に向かってくる宇宙船に乗った異星人から、ささやき声のメッセージを受け取っている」という説教をしていた教会設立者の名が、シーザー・ゼッド・ジュニア。
 そんなめずらしい名前はそうそうないから、『サイレント・アイズ』に登場したあの殺人鬼、生ける「悪」、イーノック・ジュニア・ケインが愛読していた『あなたは幸せになる権利がある』の著者となんらかの関係があるのは疑いの余地のないところだ。

 二十世紀、クーンツ作品が愛と正義の物語だと称されたのは、そこにかなりあからさまなキリスト教の聖書の教えがモチーフとして使われているからだった。守護天使、という言葉をクーンツは好んで使っていたし、多くの作品のタイトルのすぐ横に架空の悲観的な書物「哀しみの書」の引用があり、その内容は聖書を意識したものだった。守護天使も、哀しみの書も、根底には「聖書ではこう書いてあるけれど」……でも。というあまのじゃくな意味で使われていたのである。でも、現実ってこうじゃない? 守護天使なんてどこにいるの? 聖書ではなく、哀しみの書の引用こそがあなたの心を打たない?

 でも。
 やっぱりそこに愛も正義もあるんだよ、というハッピーエンド。
 それがクーンツのタッチだった。

 そして『サイレント・アイズ』。
 そこで「哀しみの書」は消えた。

 そして『オッド・トーマスの霊感』。
 そこでは「歓喜の書」が引用されている。

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望みをかなえるには
降伏をよしとせずに戦わねばならぬ。
揺りかごから棺桶まで
粘り抜く勇気が肝心なのだ。

──『歓喜の書』


 ディーン・クーンツ 『オッド・トーマスの霊感』

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 オッドの恋人、ストーミーはアイスクリーム屋のピンクのミニスカ制服が似合う看板娘ということで、セクシーさはオッド君の主観かもしれないが、キュートさに関しては客観的な折り紙付きな、前向きな精神の持ち主である。
 彼女に言わせるとこの世は、新兵養成所なのだという。
 だからつらいことばっかりあるんだけれど、それはすべからく訓練なのね。
 なんのため? それはね、次の世界では、実戦が待っているからなの。

 ちゃんとこれに耐えて鍛えておかないと。
 本当の戦いに参戦できなくなっちゃうのよ。

 もちろん、オッド君も、私も、彼女の考えには賛成しかねる。現実にそうなのであったとしても、この過酷な生から死までの時間が、次なる本番のための、たかが訓練だなんて、信じたくない。
 『オッド・トーマス公式サイト』のインタヴューのなかでオッド・トーマス自信が語っている。オッド君は吸血鬼を信じていない。ヴァンパイアの実在を信じないし、この世の次に本番の舞台があることも信じない、そんな彼なのに。
 死者が見える。
 なんだかよくわからない黒くてもやもやした、いつも事件の発端になる影、死兆ボダッハが見える。
 それって死そのものじゃないの、というストーミーの説に、オッド君は心のうちで異を唱えている。
 たぶんボダッハは、未来人の精神かなにかで、タイムトラベルして過去の人類が愚かしく死ぬところを覗き見しているんじゃないかな。
 オッド・トーマスは、吸血鬼を信じないが、未来の人類は死をたのしむほどにみんなイカレてしまっていると、なかば本気で信じている。

 二十世紀のクーンツが描くヒーローたちは、いつだって自分の身を守るために戦ってきた。愛する者を助けるという発端はあれど、中盤以降は対決の刻がおとずれ、そこからの戦いは、殺らなければ殺られるから殺る、というにっちもさっちもいかない状況で最後には正義が勝つ。

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『対決の刻』の話。

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 二十一世紀になってからのクーンツもそうだ。
 ほかの作品では、まぎれもなくそうである。
 しかし、オッド・トーマスだけは違う。
 彼は最後の最後まで、いつでもやめられる。

 死者が見える。
 彼らの望みはわからない。
 死の予兆ボダッハが見える。
 見えるが、それが誘うのは他人の死なのである。
 むしろ、ボダッハを見たら、その場から逃げるのが正しい。
 でも、彼は。

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 ただのダイナーのコックでいたいのに、世界はぼくに卵やパンケーキ以上のものを要求してくる。


 ディーン・クーンツ 『オッド・トーマスの霊感』

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 いや、要求はされていない。
 たしかにその日、尋常ならざる数のボダッハが、怪しい男とともにオッドの働くダイナーに現れるのだが、だったらオッド君は、可愛いピンクの制服のストーミーをつれて、死の臭いに満ち満ちる小さな町ピコ・ムンドを離れればいいのだ。
 死者も、ボダッハも、オッドを追っているわけではない。
 それらはオッド君の側から「見えている」だけ。
 むしろオッド・トーマスは、だれよりも死の臭いから遠く逃げることのできる能力を持っている。

 でも。

 この、でも、が『オッド・トーマスの霊感』とその後のシリーズをベストセラーにした理由そのものであり、クーンツの、決断だった。クーンツはつねづね、物語の主人公が行動する理由は、すべての読者が自分に置きかえても「そうするだろう」と理解できるものでなければならない、と言い続けてきた。たとえば自分の身に危険が迫る。たとえば愛する者を悪の手から救う。
 しかしオッド・トーマスは。
 ありえないほどに善良すぎる。
 読者が共感できる以上に、たぶん。
 今回、クーンツは、読者に多大な期待をして書いたのだ。

 世界を救うための自己犠牲に、現代の人類は共感できる。 

 いや、むしろ、そのタッチは、共感するべきだ、と迫っている。読者の側に置きかえれば、オッド君の持つ能力を、自分と、自分の個人的に愛するだれかを守るためだけに使うという発想のほうが自然なのだ。しかし『オッド・トーマスの霊感』を読んだあとでは違う。
 私もきっと、その状況でなら、世界を救うことを選ぶ。
 オッド・トーマスのように。
 そう思える。

 クーンツが、私をオッド・トーマスにしてしまったからである。

 これは、これまでのクーンツ作品にはない感覚だ。
 残酷で、救いがたい。
 でもだったら別の道を選ぶべきだったかといえば。
 違う。
 ヒトの精神は、ありえないほど美しくあるべきだと思う。
 オッド・トーマスのように。

 こうやって物語は人類を進化させる。
 これまでもそうだったし、いまでもそうなのだ。
 大げさでなく、クーンツはその役目を現在進行形でになう、聖人である。

 というわけで、作品自体はいくら語っても褒めるばかりの傑作なので、語るのはここまでにして。
 今回の邦訳に、ひとつ言いたいことがある。

 巻末解説の瀬名秀明さん。私、氏の作品こそちょっと苦手なところがあるのですが、クーンツコレクターとしての情熱には畏敬の念をおぼえております。
 ですが……冒頭で書いた。私はアメリカン・プロレスが好き。国外の格闘技も観る。そして私は日常的に海外のニュースサイトなども訪れる。そういう場合、気をつけなければならないことは。
 試合の結果をぜったいに知ってしまわないようにすること。
 <日本における>国外のプロレス・格闘技などは、メジャーリーグのようにリアルタイム中継されたりしない。だいたい一週間遅れ、一ヶ月は当たり前、一年後なんてこともざらにある。気を抜くと、だれかのブログで「あの試合はすごかった」とか、うわ、知っちゃったよ、ということになる。スポーツニュースなどぜったいに観ない。いかに情報を遮断したまま試合を観戦できるかが、特にお約束のドラマこそがかなめのアメリカン・プロレスでは重要な心構えになる。
 まさかそんな展開に!
 確実にそう叫ばせてくれるラストが待っているのに、知ってしまう、それは歓喜の衝撃をみずから希釈する行為である。

 すでに本国ではシリーズが何冊か出ているけれど、邦訳が数年遅れているという場合、訳者あとがきや、解説で、シリーズのその後について言及することは当然だ。しかし、同時に内容にいかに触れないかということも重要なのである。解説はニュース記事ではない。何年でも待つから、そのあいだいかに試合結果を知らないでいるかと気を張って生きている者たちがいる。それなのに第一作の巻末で、そのひとは、シリーズ第二作以降、三作目も、四作目も、そのラストまでの展開をことごとく語ってしまっている。それは自分のブログでやるべきだ。解説の冒頭には、

〈この解説は本文読了後にお読みください〉

 と瀬名さんも書いている。まだ読んでいないひとによけいな情報を与えることは、興を削ぐということを理解してはいるのである。それなのにシリーズのその後の内容に触れる。だったらそう冒頭に書くべきだ。<オッド・トーマスシリーズの今後について言及しています。未読の方は数年後に邦訳が発売されてからこの解説を読んでください>と。早川書房としては、オビに「瀬名秀明氏心酔!」と大書きできるかどうかが売上げに関わるのでダメを出さなかったのだろうけれど、これはない。氏の解説は、多くの日本のクーンツ読者が数年後「ああまさかそんなキャラが登場するとは!」とか「クーンツはついにその心の確執を乗り越えたのか!」などと叫ぶ機会を奪ってしまった。いざそのシーンを読んだとき、少なくない読者がそう思ってしまう。

「ああ、これが第一作の解説で瀬名が語っていたところか」

 それでいいのか瀬名秀明。
 違うだろうと、私は思うのですが。本当のファンなら、心酔した試合の収録されたディスクを、まだ観ていないひとにわたすとき、あれがこうなってこういう展開でその後にはなんと、などと言うだろうか。いや、そのディスクはこう言ってわたすべきだ。

「ううん。なにも訊かないで。
 いいから観てみて。スゴいから」

 その作品のスゴさを理解する者だからこそ、信じて黙ってすすめるべきです。
 というわけで、私も語りすぎだな。
 喋りすぎる伝道師が教えを胡散臭くするのだよ(笑)。

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 ぼくは生まれることを望まなかった。ただ、愛されることを望んだだけだ。


 ディーン・クーンツ 『オッド・トーマスの霊感』

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 自分を刺した父親の劣性遺伝子におびえて子供をのぞまなかった(というのが事実なのか、そう語った年齢からして、結果としてできなかったがゆえの妻へ向けたやさしさなのかはわからないが)、クーンツが、小説職人として磨きあげた技術の粋に、神がかったひらめきさえもをふりかけて生み出した、まぎれもないクーンツの分身である息子、オッド・トーマス。
 Odd(奇妙)という名を持つ、愛と正義のひと。

(なんどもクーンツはオッドのことを「son」と呼んでいる。もちろんそれをオッサンがそこらの若造に言うような「なあ、キミ」というようなニュアンスでとらえることもできるが、オッドとの対話という形式でクーンツが書いた自作自演のインタヴューで、あえて目につくように使われているところを見ると、クーンツ自身に、オッドを息子と呼びたい心持ちがあるのは間違いないだろう)

 あなたも逢えば、けっして忘れられなくなる。
 いまも私は彼のことを想い出すたびに、身もだえするような、叫びだしたい衝動に駆られる。
 彼に出逢わないなんて、もったいない!

 書き続ければ、そんなところにまで行けてしまうのか。
 まだその先があるのか。 
 同時代に生まれたことこそを、神に感謝したいよ。
 あー、また宗教の勧誘みたいになっていますが。
 私も心酔しています。

 いいから読んでみて。
 ディーン・クーンツ、スゴいから。

ODD THOMAS

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『Dean Koontz師のサイン本』の話。

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クロムハーツ  クロムハーツ  2013/10/24 16:51
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