仮面ライダーの魅力とは、苦悩だ。
ヒトを愛するがゆえにヒトに害なす悪と闘うが、仮面ライダー自身はその悪によってヒトに害なすために造られたイキモノであるという……だから仮面ライダーはヒトの愛におびえる。愛する自信がなく、愛される資格がないと思い込み、ただひたすらに自分にできること……ヒトのために悪に向かってライダーキックを放つのである。
というのが、そもそも石ノ森章太郎原作の設定だったはずだが。
いまも私がシリーズ開始を待ち望む(再開、ではない。開始せずに序章で終わったのである)『真・仮面ライダー』や、石ノ森本人が製作許可を出した最後の作品『仮面ライダーJ』、昭和ライダー20周年記念作『仮面ライダーZO』など、すでにときは平成になっていたがくり広げられた最後のあだ花ライダーたちの時代。まさに私のライダー熱は最高潮を迎えていたわけだけれど、ちょうどその昭和ライダー終焉とともに私の子供時代は終わり、平成ライダー第一作『仮面ライダークウガ』がはじまったころには成人していたので、すっかり仮面ライダーを見る視点が変わっていた。
それゆえ、同じ仮面ライダーとはいえ、私のなかで昭和シリーズと平成シリーズは別物だ。実際のところ、石ノ森直系ライダーはすべからく改造人間であるのだが、平成ライダーはなんかのりうつったりモンスターだったり、あげくにはたんなるパワードスーツを着ただけだったりする(笑)。
悪を倒すために人体強化スーツを着ただけのヒトに「おれだって根源的には悪なのではないか」などという苦悩はない。一話完結方式を捨て、ドラマ性を重視した作りとなったクウガ以降の仮面ライダーだが、そのストーリーのほとんどにおいて、対立と葛藤の果てに大団円を迎えるパターンとなっていて、それは基本として平成ライダーの「なかのヒト」が、純然たる人間であることに起因する。
悪は倒した、当面のところの世界は救われた、けれど仮面ライダーが改造人間である事実は変わらず、彼の闘いと苦悩は永遠に続く──という昭和のせつなさはない。
だから『仮面ライダーキバ』には大いに期待していた。
「石ノ森章太郎生誕70周年記念作品」と銘打ってもあるし。
なにせ主人公がバンパイアとヒトの混血。女性の形をしていればなんでも愛せる父親が、ファンガイアという永遠の命を持つモンスターを愛して作ったガキである。その母親もまた。「人間と結ばれてはならない」というファンガイアの掟を破る者を抹殺するのが役割という「仲間を狩る者」執行人ファンガイア・クイーン。
背徳の匂いがたちこめている。
愛に生きるヒトを愛してしまった、背徳を罰する立場の不死の怪物(見た目は絶世の美女)。
これはやり過ぎちゃったか仮面ライダーキバ。
改造人間というプロットをヴァンパイアに置き換えた、苦悩の物語がいまはじまる……
そう思った、一年前。
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『ヴァンパイアと仮面ライダーキバ』の話。・・・・・・・・・・・・・・・・・・
そしてキバ終了。
えーと。
ハーフの割合はヒトのほうが強いらしく。
ファンガイアとの混血の子は不死ではない。
仮面ライダーの外観も、黄金のキバの鎧、なるものを装着するという設定だ。
つまるところ後半。
主人公は自分に半分ファンガイアの血が流れていることを気にしなくなっていた。
まったくもってヒトである。
ヒトとして、過去の世代からつながった命を次の世代に伝えることこそがヒトの使命などとヒトの代表のような顔をして、最終回では未来の息子まで仮面ライダーになっていた。
大団円だ。
せつなさも、あとあじの悪さもない。
あんなにみんな死んだのに。
ファンガイアの子のくせにファンガイア殺しまくったのに。
悩まない。それでヒトとして世代をつなぐことの意味がうんぬんと言われても……それはなにか? けっきょく見た目が化け物なファンガイアは狩り倒し、ファンガイアでも美女の外見ならメロドラマ演出だし、イケメン主人公なら半分怪物でもそんなの忘れたような最終回?
時代だな。
苦悩しながら終わることなど、戦争の片棒をかつぎながら平和国家を語ろうとする、この矛盾の国の二十一世紀では許されないのである。私は、いっそ悪の力を持ちながらも平和を愛するという矛盾を納得して語りたい。となりで同盟国のだれかが撃たれても、自分は撃たれていないから反撃しないで傍観者なんて物語には萌えられない。
そんなこんなでこれは転換点かと思ったキバだったが、むしろ重い血縁話の毒にみずから中毒して浄化をはかった結果いつもよりもさわやかに終わってしまったというような。
設定は冒険していたのに、中身は保守的な一年でした。
期待していたのは。
ヴァンパイア=悪。
ただし、悪というのはあくまでヒトの目線からでのことであって、ヴァンパイアという生物からは当然の行為としてヒトを飼い慣らし、それを喰らう。ヒトがニワトリを喰うために育てたり、その加工方法に特許を取ったりするのと同じように、長い年月をかけて、そうまさに永遠の時をかけて、ヒトをもてあそびながらいただく作法を突き詰めた結果。
愛してしまったり。
ニワトリ加工工場の社長がどうやったらもっとすばやくこいつらをさばけるか考えて、夜も昼もなく愛もセックスもなく考えていたら溜まってきてニワトリとやってしまったら案外よかったからそこからニワトリが恋人、みたいな。
そういう話をキバに求めていたのですが……
いま書いてみて、いかに私が無茶なことを期待していたか思い知りました。
よく考えてみたら子供番組なのでした。
だからきっと私は『真・仮面ライダー』が好きなんだ。
最初からコンセプトとして大人向け。
だから首も飛ぶし子宮も回る。
主題歌は宇崎竜童。

とても苦悩している。
やっぱり仮面ライダーはそうでなくてはいけない。
私はディーン・クーンツの大ファンなんだけれど。
『ウォッチャーズ』。
その構図がまさに理想。
ヒトによって生み出された超天才ゴールデンレトリバーはヒトと出会い愛にめざめ追跡してくる異形の悩める改造超生物の憎悪と嫉妬までもを受けとめてみずからの犬生を切りひらく。

仮面ライダーは犬ではなくてヒトの改造されたものだから、もっと深刻。
シリーズ中では『仮面ライダーブラック』の、ふたりの世紀王ブラックサンとシャドームーンの対立の構図こそがすばらしく、実際に高視聴率であったために翌年の『仮面ライダーブラックRX』として続投、二年越し、しかもその放送中に昭和が終わるという、まさに神がかった作品だった。
カラダは改造されたが、脳手術の前に逃げ出したブラックサン。
一方、脳まで改造され、ブラックサンを倒しみずからが世紀王となるという穢れた使命に燃えながらヒトだったころの恋人との記憶が断片的に蘇ってしまうシャドームーン。
その作品は、原点回帰をうたっていた。
そして成功していた。
いまでもシャドームーンは、せつない運命を背負うライダーの筆頭格である。

思えば、昭和の最後と平成の初めを高視聴率で伝説の番組と化してしまった『ブラック』があったからこそ、その後、原点回帰の路線で越える案は出ず、それでも平成の世に仮面ライダーをもう一度という熱はあって、あげく生み出されたのが『クウガ』。
平成仮面ライダー第一作であった。
まったく新しいライダー。
改造人間ではない。
というか、いちども仮面ライダーなどと名乗らない。
別にバイクに乗ってその風圧でベルトの風車を回さなければ変身できないわけでもなく、それどころかドラマ重視で変身せずに終わる回まである。
衝撃だった。
しかし、仮面ライダーフリークにとっては、いっそ受け入れやすかった。
これは別物だ。
なんにせよ新世紀にライダーが復活したのはよいことだ。
おれたちは時代の目撃者としてあたたく見守ろう……
『仮面ライダーブラックRX』から十年。
はじまった『仮面ライダークウガ』からの平成ライダーシリーズが、また十年。
新機軸を打ち出し続け、もうなんだそれというカードバトルだ電車に乗ったりヴァンパイアだったりの末、十周年記念作品『仮面ライダーディケイド』。
十年の歴史をふりかえり、九人の仮面ライダー(平成ライダーのみ)と絡んでいくという。
年末特番のような設定だが、それで一年やるという。
言葉もない。
あたたかく見守るだけである。
まったくわきたつもののないままに、観てみた。
「クウガの世界」にディケイドが訪れていた。
敬語のヒロインはなかなか素敵だ。
しかし肝心のディケイドにまったく影がない。
いやそうだった、哀しみを背負わず明るく美しいのが平成ライダーだったっけ。
ところで『仮面ライダーディケイド』の作中における「クウガの世界」では、クウガのなかのヒトがオダギリジョーではない。彼は海外で映画撮影中なので出られるわけもない。というわけでオダギリがいないのに細川茂樹は出るというわけにはいかないので、すべてのライダーのなかのヒトがディケイドでは別人だという。十年を振り返るのに、役者が違うってアナタ。お祝い感もお祭り感もない。そして三話目まで観た現在の感想。
入っていけない。
いきなりクウガの世界でクウガとディケイドが戦って仲良くなって、敵があらわれあれやこれやで……どたばたしているんだが、どうもぼーと観ているあいだに終わってしまう。オダギリジョーに思い入れなどない、テレビくん二月号でクウガの外面だけを知識として持っていた、十年前にはまだ生まれていなかった五歳児であれば「初めての動くクウガ」に歓喜だろうが、私は残念ながら五歳児ではなかった。やるせないことである。
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世界の破壊者ディケイド。
九つの世界をめぐる、
その瞳はなにを見る──
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なにを見るって。
終わってしまったライダーの中途半端なパロディだろ。
並列世界設定好きの私としては、主人公の名前を変えた時点で、そこは別の世界である。
とても心配になった。
仮面ライダーは、来年もあるのだろうか。
また十年後とかになったらどうしよう。
どうしようってどうしようもないのだけれど。
いろんなことをやりつくして、もう内容なんてどうでも良いことになってしまっている気がしてならない。
というわけで。
仮面ライダーてえのはなあっ!
と、くだを巻きながら酒を舐め、夜更けにテレビを観ていたら、思いがけず『仮面ライダーG』に出逢ったのだった。いや嘘である。がっちり予約録画していた。何週間も前から楽しみにしていた。子供向けではない、大人のための仮面ライダーである、東映が認めた最新の純正仮面ライダーであるという。
仮面ライダー
仮面ライダーV3
仮面ライダーX
仮面ライダーアマゾン
仮面ライダーストロンガー
仮面ライダー(スカイライダー)
仮面ライダースーパー1
仮面ライダーZX
仮面ライダーBLACK
仮面ライダーBLACK RX
真・仮面ライダー
仮面ライダーZO
仮面ライダーJ
仮面ライダークウガ
仮面ライダーアギト
仮面ライダー龍騎
仮面ライダー555
仮面ライダー剣
仮面ライダー響鬼
仮面ライダーカブト
仮面ライダー電王
仮面ライダーキバ
仮面ライダーディケイド
そして2009年1月31日。
ちなみにその前日は私の誕生日だった。
近年、全日本プロレス育ちの私は誕生日が来るたびに、翌日のジャイアント馬場御大の命日を想って手をあわせていた。しかし来年からは、仮面ライダー育ちの私として、仮面ライダーGの生まれた日としても想い出すだろう。
主演は稲垣吾郎。
だからG。
GoroのG。
なんだそれという感じだが、仮面ライダー20周年記念作『ZO』だって、20とZOが似ているというだけの理由で名付けられたのだ。名前などどうでもいい。
仮面ライダーG
それは、二十分の番組だった。
しかし、仮面ライダーフリークの稲垣吾郎が、私と同年代であり、その「好き」だという仮面ライダーの、リアルタイムで観たのは『スーパー1』くらいからだというその感じ。その「好き」を形にした、その『G』は。レジェンドとしての初代仮面ライダーへの原点回帰を描き、完璧に私の心を揺さぶった。
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うけとってもらおう──
ぼくの、
悪と正義のマリアージュ。
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その決めゼリフがすべてを語っている。
ちなみにマリアージュとは、結婚、という意味で、ワインをモチーフにした『G』ならではのセリフだ。ワインと料理が相乗効果をもたらすマリアージュのように。
悪と正義が。
マリアージュ。
平成ライダーは数えるほどしか使わないライダーキックで悪を滅ぼし「もしかしてあなたは」と恋人に語りかけられながらも、Gは背を向け立ち去る。だれもいない場所で、ようやく素顔をさらしたGは、いつか愛する者のもとへ帰れるだろうかと空を見る……改造されたヒトである彼の存在が、もとのヒトとしての存在に戻ることは決してないと知りながら。
……すばらしかった。
仮面ライダーの原点を見た。
だいじょうぶ。
ライダースピリッツを持った男たちが、女たちも、いっぱい育っている。私だっている。仮面ライダーは死なない。ディケイドにはうなってしまったが、だからといって観ないなんてことはない。一年で、どこに到達するのか、しっかり観させてもらう。
平成仮面ライダー10周年。
おめでとうございます。
仮面ライダーに正義のなんたるかと同時に、悪とはなんであるのかを幼心に叩き込まれた、私たちがいまの幼心たちに叩き込めるもの。それを想い出すための『G』は気付け薬でした。想い出した。仮面ライダーがなければ私はいまバイクに乗っていないし、ものを書いてもいない。
いまの私の少なくない部分が、ライダー魂で、できている。
忘れないかぎり、私も悪と正義をマリアージュできる。
ダメな部分さえ愛して、気高く生きられる。
背筋をのばして胸張って生きることだと、仮面ライダーから教わりました。
これからも忘れません。
仮面ライダー。
この国から生まれた、最高のヒーロー。
『仮面ライダーディケイド』公式サイト しかしディケイドはデザインもアレだよね……龍騎以来のダメさ加減。
左右対称をくずすとやっぱり仮面ライダーはダメ。Gも非対称だが、自己リスペクトの世界観からして哀川翔の演技同様、それは一種の高等なジョークということで納得できる。でも通年シリーズのライダーが歪んでいるのはダメだ……背筋をぴんとまっすぐに、が基本だと思う。
斜め立ち前提のデザインなんだものディケイド。
踏襲じゃダメだけど変えすぎても……むずかしいですね、歴史ある作品って。