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『サイレント・アイズ』の話。

「そしてたぶん」アグネスが、考え考えいった。「その数多い枝のすべてが死んだとき、最終的に人は木全体の形と美しさによって判断されるのね」
「枝が少なすぎるのは」マリアがいった。「論理的に誤った決断をくだした数は称賛に値するほど少ないけれど、同時に、責任を負う危険を避けて、人生という贈り物をじゅうぶんに活用しなかったことを意味するのかもしれない」


 ディーン・クーンツ 『サイレント・アイズ』
 
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 電脳空間(サイバー・スペース)という言葉を発明したことで有名なサイバー・パンクの生き神ウィリアム・ギブスンは、『攻殻機動隊』がパクった擬態ポリカーボンや人脳ハッキング人形使い、『マトリックス』がパクったマトリックス空間や聖域ザイオンなどの発明者として近年さらに名を高めたが、彼の代名詞のようなその言葉は、彼以外には使いこなせない抽象的な概念であるゆえに、ギブスン読者以外にはあまり認知されていない。

 結節点(ノーダル・ポイント)。

 たとえば鉄道結節点とは、地上に枝葉のように走る線路と線路がつながっている場所を指す。ギブスンはその言葉を、SF世界に持ち込んだ。時代の結節点を視ることのできる能力者が、彼の「新電脳三部作」と呼ばれる作品群のヒロインである。

VL

あいどる

FM

 時代の結節点という発明は、それまでSFで盛んに使われていた並列世界という概念を様変わりさせた。そのことを如実に感じさせてくれるのが、日本における巨匠クーンツの最新刊(涙に濡れる諸事情によってこの国での最新刊はクーンツ2000年の作だ。加速して追いつくんだ講談社と田中一江サマ(訳者))。

 『サイレント・アイズ』

 原題は『From the Corner of His Eye』……彼の瞳の隅で?……私は無神論者で私の実家にも神棚はないが、祖父母は浄土真宗のお経をうたう。そういう頭では、このタイトルはぴんとこないところがあって、それを見越して田中一江サマは『サイレント・アイズ』という邦題にしたのだろうと思う。輪廻転生の上に成り立つ大自然と八百万の神の文化には「彼」と呼ぶべき天から我々を見下ろす視点は存在しないから。

 クーンツのつけた原題の言わんとするところは「彼はとても忙しくて何もかもをきちんと見つめていることなどできないけれど、でもやっぱり世界のすべてを視界の隅にはとらえているんだよ」ということなんだろうと思う。ちょっと皮肉な見方でキリスト教文化を見つめる仏壇文化の私たちは、その表現に苦笑してしまう。

 万能の絶対神という存在がいるならば、なぜこの世に涙する者が生まれるのだろうか──「視界の隅では見ている」という考え方は、万能という言葉とは相容れないはずだが「それでも彼はちゃんといる」と納得する正常で人間的な矛盾に満ちていて素敵だ。彼は概ね非道いけど、でもあたしには優しいことがあるんだ。えへっ……信じているうちは、破綻はない。毎日のようにテロだ地震だ今週は世界で何万人死んだ、なんて新聞を読んでいると、ちょっと視界の隅で見てちょっと優しいときもあるくらいでは、彼のことを信じられなくなってしまいそうな時代ではあると思うが。

 そんな時代に突入する前世紀の終わりと新世紀の初め、クーンツはこれを書いたのだ。

 それまでの数年を、サスペンスやホラーのジャンルで書き続けていたのに、そのキリスト教的時代の節目に、彼は彼を「ミクストジャンルの帝王」と世間に言わしめたかつての作風を呼び戻してきた。

 超自然能力者あらわる。その存在によって、クーンツ作品は予想できないものになる。愛と正義の人であり、絶対のハッピーエンドを信条とする作家であるのに、彼が世界的な支持を受ける「意外性」に満ちたストーリーテラーである根拠がここに。クーンツ作品は、あらゆるジャンルの垣根を越え……ここが大事なのだが……越えなかったりもするのである。

 サスペンスがサスペンスのままで終わることも多い。けれど、たまに超常現象によって事件が解決したりもする。SF的な超近代兵器で事件を解決したりもする。クーンツ作品に完全な密室は存在しない。彼の作品には、いつでも「万能」の彼が存在しているのだから。なんでもありの世界で先を読むことはできないのだ。この世界がそうであるのと同じように。

 『サイレント・アイズ』の主人公は三人いる。
 生ける「悪」、イーノック・ジュニア・ケイン。その悪意は冒頭から理由もなく愛している妻を惨殺するところからフルスロットルで表現される。クーンツ作品でおなじみ「哀しみの書」が今回は登場しないかわりに、ジュニアはシーザー・ゼッド博士の全著作を車に積んで逃亡生活を送る。ゼッド博士の代表作は『あなたは幸せになる権利がある』。ジュニアはゼッド博士の言葉を信奉し、自らを高めてゆく。幸せを追求し、その過程では殺人もレイプもおかまいなし。
 あと二人の主人公はお子様。
 ジュニアにレイプされた少女セラフィムの娘、エンジェル・ホワイトという名の黒人幼女。
 父の死とともに生まれたバーソロミュー・ランピオンという名の白人少年。

 バーソロミュー、というのはキリスト十二使徒のひとり「聖バルトマイ」の英語読み。セラフィムも、エンジェルも、いうまでもなく天使。登場人物の名前を見ただけで、クーンツがなにを書こうとしているのかがわかる。

 『サイレント・アイズ』はクーンツの書く聖書だ。

 文庫本で上下刊各1100円。京極夏彦も色あせる、あわせて1200枚の大長編である。よって見た目も聖書なみに分厚いのだが、その内容もまったくもってそれである。愛と正義の物語が、いくつかの事件と、それを解決する奇跡によって人を心酔させる物語をかたち作っている。ネタバレでもなんでもなく、当たり前にバーソロミューは超能力少年で、悪は結果的に打ち倒される。クーンツ作品の通例だが、そんなラストは、読者を酔わせるためのエッセンスにすぎない。悪が去ったあとに生ける人々を描写する。それこそがクーンツだ。もちろん、そこにはゴールデン・レトリーバーも出てくる(笑)。電車の中で下巻を読んではいけない。私は涙を浮かべて前の座席の人と目があってとても気まずい思いをした。

 それはさておき、結節点の話に戻る。この世界と並行する別の世界があるというのがギブスン以前のパラレルワールドの定義だったのだが、結節点という概念でそれは変わった。並んで走るいくつかの世界は並行ではあるが、平行ではない。そこに結節点があり、分かれた世界からまた新たな世界が生まれるのならば、その姿の全体を見渡したとき、それは末広がりのいくつもの支流を持った川のようになるはずなのだ……細かな枝をいくつも天に向けてのばす、オークの木の姿に似て。

 クーンツが七十年代に……つまりギブスンが結節点の概念を発明した八十年代以前に……書いた並行世界ものといえば『ブルーノ』が思い起こされる。それは別世界からやってきたトレンチコートを着た熊(!)の警官が、同じく異世界からやってきた犯罪者を「この世界の」人間の青年とともに追いつめるという掌編である。あらすじを聞いただけでもわかるとおり、その当時のクーンツ先生の頭の中にあったパラレルワールドとは、人間さえも存在しないまったくの別世界がこの世界と並行に存在している、という古き良きSFの伝統を踏襲したものだった。

 そして2000年。ミレニアムの年に書かれたクーンツ最新の並列世界ものには、ギブスンばりの能力者、バーソロミューが登場する。

 彼には結節点は見えない。しかし彼は、すでに生まれた隣の世界を感じることができる。雨降りしきるこちらの世界の中で、雨の降っていない世界の中を一瞬だけ通って、濡れずに歩くことができる。だがその能力はギブスン作品の主人公がそうであったように、やはり現実的にはなんの意味もないのである。結節点が見えたからといって、世界を思い通りに動かせるわけではない……その無意味さを、愛と正義の人、マスター・ディーン・クーンツは、素敵に利用する(余談だが、ギブスンの『新電脳三部作』を指して「結節点を視ることのできる能力者を登場させるなら、その能力で時代を動かす物語にするべきだった。あのシリーズはSFとしてパンチが足りない」と評する人は多い。しかし、私はそういうギブスンが好きだ。わかっていてもどうにもならないのがこの世のおもしろさじゃないか? 遠吠えか?(笑))。

 こう考えてみてはどうだろう。
 結節点の先に、二つの世界が生まれる。その世界はそれぞれにまた枝葉のように分かれる。天に向かって枝をのばすオークの木のように人それぞれの大木が育ち、それぞれの木が集まって森ができているのが世界だ。その考えに依れば結節点で分かれた片方の世界では、あなたの愛する者が亡くなっているが、もう片方の世界では生きている。もしも結節点で選ぶことができるのならば、あなたは迷わず愛する者の生きる世界を進むだろうが、それでももう片方の世界は消えたわけではないし、その世界で愛する者の死に絶望するあなたも消えない。

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「ときどき、ここではさみしいことがあるよ、ママ。でも、ほかのいろんな場所ではさみしくない。パパがママやぼくといっしょにいて、ぼくたちはいまよりもしあわせで、なにもかもうまくいっているところがいっぱいある」


 ディーン・クーンツ 『サイレント・アイズ』
 
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 バーソロミューは、別の世界で生きている父親を感じる。ということはいま自分がいる世界は誤った側の世界のはずで、実際、ほかの世界でなにがうまくいっていようがなかろうが、この世界での現実は変わらない。だが、うまくいっている世界があると思うことで涙が止まる。ママに抱きしめられる少年は、幸せだ。それは矛盾ではない。愛らしい少女、エンジェルを見たすべての人が思う。セラフィムがレイプされなかった世界があるならばその世界こそが正しいに違いないが、だとすれば生まれなかったエンジェルを、いま私は愛することができない。

 この難問に、クーンツはあっさりと回答を提示する。

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 すべての人の生涯は、深く、複雑にからみあっているものだ──死んだ人も生きている人も、まだ生まれていない世代の人も──だから、全人類の運命は個人の運命であり、人類の希望は、すべての人の心とすべての人の両手に託されている。したがって、人は一度失敗しても、成功に向かって再度がんばらなければならないのだし、ひとつのことが行き止まりにぶちあたったら、なにかもっと新しくていいことを灰の中から築きあげなければならない。苦痛と悲しみから希望を紡ぎ出さなければならないように。というのも、人はひとりひとりが、人類というタペストリーを強くするために──生き残るという、まさにその目的のために──欠かせない糸なのだから。


 ディーン・クーンツ 『サイレント・アイズ』
 
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 自分のいる片隅を照らせ。そうすれば、世界を照らすであろう……神は万能だがなにぶん忙しい。彼が視界の片隅で、気づくことができるように私は私がここにいるのだと明るく照らし続けなければいけないのだ。もしもすべての片隅が、すべての人類の心がけによって明るく照らし出されれば、世界中が明るくなって注意散漫な忙しい彼も、いまよりはもう少しよく世界を見渡せるようになって、よい仕事をしてくれるはずだ。彼が私を殴るのは私のせいだという発想は、とりあえず捨てよう。彼がその愛の力のすべてを発揮できるように、私は笑顔で歌うのだ……いま思い出したが、私はキリスト教系の幼稚園に通っていて劇で三賢者の一人をやったことがあった。幼い頃にきちんとその意味は教えられていたはずだが、本当に賛美歌を歌う意味というのを理解したのは、さっきクーンツを読み終えたから。卒園式でもらってどこかへ行った聖書なんかよりも、ずっとクーンツはキリスト教精神の伝道者として活躍している。私はなにかを信じるつもりはないが、その考え方は、嫌いじゃないな、と思った。

 『サイレント・アイズ』は、短編ながらこれをクーンツのベストだと言う人も多い『黎明』で投じた問いへの、自らで出した回答でもある。その短編の中で、クーンツは無神論者の男が、妻を亡くし、息子を亡くしたはてに、無神論者のまま、この世界の理不尽さに折り合いをつける場面を描いた。

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 ”過去というのは、始まりの始まりに過ぎない。現在やそれ以前のすべてのことは、いわば夜明け前の黎明である”。
 もちろんウェルズが書いているのは世界史と、人類を待ち受ける遙かな未来のことだ。しかしこの言葉は、人間の死と、それに続く謎めいた再生のことをいっているようにもとれる。百年生きる人もいるかもしれないが、それでもその長い人生は夜明け前の黎明に過ぎない、と。


 ディーン・R・クーンツ 『黎明』
 
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 ……それに続く……彼は愛する者の死を「まったくの自然のもの」だと定義したうえで、この考えに至る。死という自然があり、けれど「どこかにいる」愛する者の魂も信じる。彼は教会に行くようにはならない。かといって仏教徒にもならない。悲しみながら、けれど生きるのだ。この黎明に。

 クーンツの書いた聖書『サイレント・アイズ』には、クーンツ・フリークならば見逃せない点がひとつある。前作『汚辱のゲーム』まで、作品の前文として必ず登場していた架空の書物「哀しみの書」がない、ということも目を惹くが、それよりももっと気になる点。装丁では混乱しないためだろう、変更されていないものの、原文のクレジットにそれが明記されている。

 Copyright by Dean R. Koontz

 ──なにかの気まぐれだろうか。いや──前作とがらりと変わったミレニアム越えの作品内容からして「哀しみの書」を今回は使わなかったこともあり、単なる気まぐれだとは思えない。クーンツ・フリークのあいだでは知れ渡った話だが「ディーン」と「クーンツ」のあいだの「R.」は、クーンツの父親レイの「R.」だ。

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 暴力沙汰も、ひどくなる一方だった。ぼくを刺そうとしたことも二回ある。二回目のときは、手にしたナイフをとりあげるのに大騒ぎだったよ。人前での出来事だったから、誰かが警察を呼んだ。父は精神病棟でしばらく過ごし、その後、老人ホームに移った。悲しい話だけど、四十年以上にわたる年月の中で、父に関する楽しい思い出はひとつも浮かばないんだ。暗い思い出ばかりさ。


 エド・ゴーマン×ディーン・R・クーンツ インタビュー
 
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 1991年の夏、クーンツの父は死んだ。その翌年に発表された『ドラゴン・ティアーズ』から、クーンツは「ディーン・クーンツ」とクレジットするようになる。本人は「R.が装丁の中で収まりが悪いから」と言ったらしいが、あきらかに父の死に起因しているものと思われる。働くことをやめ酒と暴力とあまたの浮気に彩られた「R.」の遺伝子を残すことが怖くて自分自身、妻とのあいだに子供を作らないようにしているとクーンツは告白している。愛と正義の人は、自分の中の劣性遺伝子に怯えきっていたがゆえに形成されたのだ。そして一方、母親が人工授精によって叔父の精子提供を受けたのではないかという疑いを、結局、叔父の死まで確認できなかったクーンツは、いまだに自分の父が実父だったのかを疑っている。

 自分の中の悪に怯える主人公。
 研究所で作られたアイデンティティーを持たない人工生命体。

 クーンツがのし上がっていった時代の主要テーマは「犬を飼う余裕なんて子供時代のぼくの家にはなかった」彼が子供を作らずにゴールデン・レトリーバーを飼い、作品中にたびたびその犬を登場させるのと同様に、まったくのフィクションとは呼べない生々しさがある。そしてそれらのテーマを手放し、サスペンス調の作品が増えていった九十年代、クーンツの名から「R.」が消えたことには、切なささえ感じさせるクーンツの自らの人生と血脈に対する葛藤が見て取れる。

 時は過ぎ去り、新世紀。
 聖書と聖人をモチーフに希望に満ちた物語を紡いで私を喜ばせ泣かせた、クーンツの名に「R.」がつけられたのはどういう意味なんだろうか? 背表紙はディーン・クーンツのままだし、公式サイトも「ディーン・クーンツ・オフィシャルサイト」のままだが、ひっそりと作品名義だけが昔のように「R.」に戻っている。なにかの決意のように、私には見えてならない。

 この国での発刊が五年も遅れたことで、それは不幸なことだが幸せな面もある。向こう五年、クーンツは毎年作品を発表しているしベストセラーも出している。大好きな作家がいい作品を書いてくれている未来がすでに視えているこの一時的な能力は、待つにしたって非常にストレスが溜まらずにすむ。幸せだ。

 「そろそろあなたも歴史に残すような作品を書くべきじゃないの?」と手紙してきたかつての恩師に、クーンツが言った言葉。

「その時代の娯楽小説が、あとになって歴史に名を残す名作と呼ばれるのさ」

 その時代、いくつもの並列世界のなかに存在する一つの枝道で、そこにいる自分と格闘しながら、なにかを見つけ、なにかと折り合いをつけ、読者を楽しませる作品を書くことを心がける──まさにそれこそが、小説書きにとっての「この片隅を照らす」行為なんだ。とクーンツ作品に触れると信じられる。今朝の新聞も、まるでこの世が終わりない闇夜のなかにあるような記事で埋め尽くされている。だとしても、ささやかな希望はもてる。

 この指先でも、世界を照らせるのだ。
 ほのかな、片隅を照らすだけの明かりでも。
 それが紡ぎの糸になる。

(追記……今回の私の『徒然』を読むとなんだかクーンツの新刊が説教くさい本のように思えるかもしれないが、それはあなたがクーンツを知らないから。文庫本の帯にかかれた宣伝文句を引用しておこう……「パワーアップした王者クーンツ待望の新作」「1ページ先は予測不能。異能の巨匠クーンツが帰ってきた!」「みんなまともな奴じゃない」「神童vs殺人鬼。鬼才クーンツの魅力全開!」「ノンストップ・サスペンスの本家クーンツ。魅力全開!」……すべて誇大広告ではなく、純然たる真実。聖書じみたメッセージをノンストップで読ませる職人技はもはや崇め奉りたいほど。クーンツ作品はものによってまったく色合いが違うので、ある一冊が肌に合わなかったために次の一冊を読まなくなる人が多いのだが(二千円オーバーの文庫本はなかなかフリーク以外には買いにくいしね)、今回はまさに「R.」時代のクーンツ的魅力全開である。私もしばらくは、この作品からパクった各種キャラでキャラ造形には困らないだろう。まともでないキャラとジェットコースターストーリーで王道のメッセージ。娯楽小説の神業の一つがここに。自信を持ってお薦めします)

FROM THE CORNER OF HIS EYEFROM THE CORNER OF HIS EYE

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