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『19℃のロリータ』のこと。


 過去がないから空っぽなんだと思っていた
 でも本当ははじめから 僕は空っぽだったんだ


 峰倉かずや 『スティグマ』

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 夏の終わり頃、けれど私は、校則違反の制服の妙に肌が透けて見えるような半袖カッターシャツさえ暑くて脱ぎ、Tシャツ姿で玄能を振り上げていた。玄能とは大きな槌のことである。ハンマーだ。RPGの巨人キャラが肩に担いでいるような大きなハンマー。私はそんなものを汗だくになって振り上げ、いったいなにをしていたのかといえば、なにをしているんだか自分でもよくわかっていなかった。

 とりあえず、毎日は楽しかったが、来年になって特にやりたいということもないのに来年になったら自分は高校生ではなくなるんだということだけが確かで、そんなとき、つきあっていた彼女が美術部員だったこともあって、私は放課後の美術室にちょくちょく入り浸っていた。美術部の顧問の先生は背が低くてひょろりと痩せた飄々とした人で、自分の妻の顔でウォーホルのマリリンモンローのコピーをした作品を、美術準備室の自分のデスクの上に飾っているような人でした。

 夏休みにも美術室へ顔を出す私は、自然とその先生とも話すようになり、私が中学の時には美術部員だったと知るや「ヒマならなんか作ってみろよ」と言い出したのだった。私が通っていた中学は全員がなにかのクラブに入らなければならないのであって、私は美術の授業中に「おれも美術部員だ」という発言をしたら「おまえなんか顔も見たことない」と先生に言われる幽霊部員だったのであり、しかも中学二年の時に引っ越して転校した先の中学では部活など入らなかったから、中学時代の半分ほどの幽霊という薄っぺらさだったのだけれども。

 ともあれ、私はウォーホルが高名なアーティストであるというところからレクチャーを受け、レクチャーを受けたがよくわからないまま暇つぶしに『美術手帳』(高名な美術雑誌です)などをぱらぱらめくっているうち、フランク・ステラに出逢ってしまった。ちょっと衝撃を受けた。ステラは抽象の半立体を得意とする作家で、その作品はとんでもなく巨大。なにかの広告でもなく、なんのメッセージがあるでもなく、作品タイトルも『道シリーズ』のナンバーなんたらとか書いてあるが見るからにいい加減につけたもの。極彩色で意味のない形で、恐ろしく巨大で、出っ張ったりへこんだりしている。

 私はひょろりとした先生に、幼い頃に父が好きだった前衛彫刻芸術の展覧会によく連れて行かれたことなどを話した。幼い私にとって、美術館の高い天井に届くような、わけのわからん形の彫刻たちが、どんなに大きく見えて、どんなにわけがわからなかったということを。私は父に訊ねたことをおぼえている。幼い子の当たり前の問いを。

「これなに」

 ──父は建築家であって、建築家とは抽象立体造形作家と地続きのようなものだが、その父も私の問いには答えられなかった。答えられないから、笑ってごまかしててきとうなことを口にする「なんなんだろうなあ。なんだと思う?」──わからないから訊いているのだと、野球帽をかぶって手を引かれるような年齢の私は思った。

 そういう話をしていて、先生に指摘された。「そんな小さなとき見たもののことを、強烈におぼえているということは、すごいと思わないか」。そして昔語りが始まり、自分も子供が見たら脳裏に焼き付いてはなれないような作品が作りたく、創作の時間が取りたくて美術教師になったのに、時間なんかまったくとれねえよ、というような愚痴になって。私は美術部の彼女とは別れたが美術部に残り、非常に気まずい思いなどしながら美術部員としてステラの真似をしてハンマーを振り上げ丸太をへし折って組み上げショッキングピンクに塗ったりしていた。

 「もっと大きな作品作れば、作品面接で入れる美大もあるぞ」などと先生が言うので、ああそういうのもおもしろいかと思ってハンマーを振り上げ続けていたら、いつのまにかデッサンもやっとけなどと言われてすっかり美大を目指す人になってしまっていて。デッサンなどやるとますますハンマー振り上げるほうが楽しいので、美術準備室で作ったはいいもののドアから出せないような考え足らずの巨大立体など作っていたりしたら、美術室は一階だったので廊下や窓の外から「なにやってんの」というような目で見られることが多くなり、その当時の私はオールバックに固めた髪の毛が乱れてまとまらないと登校しないような神経質な見た目で、それが汗だくになって美術室で創作というよりも破壊工作を笑いながらやっているのだから、近づいてはいけない不良というのとはまた違う意味でちょっと怖い人だったと我ながら思う。

 昼休みだったか、私に告白してきた一年生の女の子がいた。そのときつきあっている相手もいなかったので、考えることもなく「ああいいよ」というようなことを言ったら、その子は友達数人のところに駆け戻っていって私に見えているところできゃあきゃあ盛り上がっていた。女子とはそういう生き物。ふつうに歩いていただけなのに呼び止められて告白され、返事をしたら廊下に放っておかれた私は、もう行っていいものやら、それともなにかわからないが次の約束でも交わした方がいいのか、バカみたいに立ちつくして待っていると、その子が戻って来て言った。「あたしも美術部に入ります」。

 というわけで、私はその後輩と卒業するまでつきあったのだけれど、案の定というかなんというか、やはりその子が私に目をつけたのは玄能を振り上げていたからで、何度かデートしたり、夕暮れの教室で乳繰りあっているところを見回りの先生に見つかったり(その子のファーストキスはまさにそういう教室で、泣いた理由を私に「夕焼けがすごい赤いから」などと言ったのは、なかなかいま思い出しても良い話だと思う)、青春な日々を過ごすうち、訊いてもいないのに「好きになった理由」などを語り始め、そこで初めて私はその少女漫画家に出逢ったのだった。

 楠本まき 『Kiss xxxx』

 それを少女漫画と定義していいものやら謎だが、マーガレットに連載されていたのだからそうなのだろう。だれかのことをよく知りたいとき、その人が読書家なら、本棚を見ればいい。映画よりも、小説や漫画の、時代遅れなものや、そんなにヒットしたわけでもない一冊がその人の本棚にあったら、それがその人の「大切なもの」と「大切でないもの」を指し示していると思ってまず間違いない。

 六畳間の壁一面の本棚が常時手をのばす唯一の本棚である私を例に取ってみれば、すぐには手に取れない場所にしまい込んでしまう本たちと、そこにいまでも居座っている本たちは、意味合いが違う。本棚の本は、いわば枕元の聖書のような存在だ。十年以上も「すぐ手に取れる」本棚に自らの居場所を獲得し続けている何冊かがある。私に愛された……私を形作る一要素となった本たちである。

 楠本まき、岡崎京子、干刈あがた、彼女の本棚に並んだそういう作品が、彼女が私のことを好きになった理由だったらしい。読んでみた。十年間だけの作家生活で死んでしまった小説家であり、出てくる男がことごとく醜い作品ばかりの漫画家だったり、最悪にブルーな読後感を残すエンタメ作家であったり……そこに共通点はある。異常に「空白」が多いのだ。楠本まきの作品を読んだそのときまで、私は隣の家のお姉ちゃんが読んでいる少女漫画らしい少女漫画くらいしか少女漫画を読んだことがなかった。そのため、神経質的な極細の線で輪郭を描き、トーンをまったくといっていいほど使わない真っ白な画面にこそ驚いた。そして納得した。物事をシンプルなカタチに削っていくことに、彼女たちは美を見いだしている。

 人生で初めてのセックスよりも、お母さんが朝から煮込んだカレーのほうが「よかった」。そう語る岡崎京子作品の少女は、新しいことを知ったがゆえにシンプルなものの見方にたどり着いてしまう。やることがないから玄能を振り上げていた私は、確かにステージの上で自らを壊すように歌う『Kiss xxxx』の主人公の心持ちに似て、振りかぶっていたかもしれない。干刈あがた、というのがいまでもよくわからないが、全共闘の時代の息吹を残したままやたらと風景を愛でる傾向のある彼女の作風もまた、そういうことなのだろう。私は『ハチミツとクローバー』のなかに出てきた「空っぽの音」という表現に干刈あがたを思い出す。アニメの方ではやたらと強調されていたくるくる回る自転車の車輪の画を、私は確かに十代の頃、彼女の作品の中で見たのだ。

 そんなわけで少女漫画も読むようになった私は、美大で演劇を始め脚本を書き始めたとほぼ同時に腐れた小説を書くようになり、微々たる小金をそれで稼いでしまったので、その後の人生を「どっかでなんか書けねえかなあ」と思って生きるようになった。そもそも私の創作動機というのは玄能があったからそれを振り上げるといったところからはじまっているので、小説もそんな感じ。つきあった彼女の部屋にウィングスという雑誌が転がっていて、その小説賞がたった百五十枚の原稿で数十万の賞金だという。というわけで私はコミケにいったことがないどころか同人誌というものを読んだこともないのに「同人系」と呼ばれていたその雑誌に原稿を送り始めたわけで……なんといういい加減な人生。けれどまあとてもシンプルなことに、それから十年くらい、私はウィングスと格闘している。そもそも書き始めたことに動機がないので、悩む要素がないからだと思う。まわりで姿を消してゆく書き手さんたちを見ると、ほんとそう思う。


 そんな私の本棚で、楠本まきよりも、もっと手に取りやすい場所にある一冊が、

 峰倉かずや 『スティグマ』

 この漫画も総カラーなのに、白い。冒頭からエンディングまで余韻でできているような作品であり、ウィングスという雑誌を代表する作家の作品でもある。そもそもその雑誌の「ウィングス的」なるものを持たずにそれを書こうとし続けている私は「うーんこれはアリだろうか」と悩むたびに、開く一冊。ものさし、聖書。

 と、思っていたら、今朝の読売新聞に良いコラムがあった。引用しよう。

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 彼女の作品には男と男の恋愛ものが多い。いわゆる「BL」系。この種のマンガはたくさんあるが、大概つまらない。あまりに「つくりもの」じみているからだ。書き手と読み手に都合いい要素だけで、恋愛にしてしまおうとする。その点で、男性のポルノとよく似ている。
 よしながふみも絵的には優男の美男ばかり描く。しかし、彼女の作品が決定的にちがうのは、「つくりもの」っぽさを人の生きる一部にできるところだ。

 佐藤俊樹 『愛書日記』

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 彼女もウィングスを代表する書き手(ウィングス初の月9ドラマ化『西洋骨董洋菓子店』で雑誌の発行部数を飛躍的に伸ばした作家である。ちなみに佐藤氏のコラムは別の出版社から出ている『大奥』を評してのもの)の一人で、白い画面のトーンを使わない漫画描きだ。無言のコマが多い。余韻である。この評は、よしながふみ評であるが、ウィングス的なるものを指し示してもいる。

 冒頭引用のようなセリフが、大まじめに心に届く。どのページをめくっても一編の詩のようなセリフが並び、それを飾り付けるようなモノトーンのシンプルな絵が並ぶ。それでいてそこにはきちんと物語がある。銃撃戦でさえも、セックスでさえ、俯瞰で描き、ひどく淡泊ななんでもないページの一部にしてしまう。

 先日、流れたニュースに私は「あーあ」とつぶやいた。

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 集英社の文芸誌「すばる」8月号に掲載された作家、篠原一さんの小説「19℃のロリータ」が、1998年に祥伝社から刊行された漫画家楠本まきさんの漫画「致死量ドーリス」と類似していることが分かり、同社は「著作権上の問題がある」として、6日発売の同誌11月号におわびを掲載した。

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 篠原一は、17歳のとき『壊音 KAI-ON』により史上最年少で文学界新人賞を受賞した小説書き。その後、立教大学文学部に進学。立教大学大学院文学研究科ドイツ文学専攻博士課程に進んだが、現在休学中。十代の終わりに、近畿大学非常勤講師の男性と結婚している。本人が運営していた公式サイトは閉鎖中。

 十代で文学賞を受賞するケースは最近とても増えていて、それはむろん本を売るための話題作りの一環として「史上最年少」という言葉が、若い新規読者も獲得すれば「近頃の十代がなに考えてるんだかわからない」という大人の読者も獲得する魔法のように作用するからでもあるんだろうが、それと同時にこの手のニュースもひどく多くなってきた。篠原一は、受賞作にしてデビュー作『壊音 KAI-ON』からして盗作疑惑が取りざたされていたのだけれど、そのときの話はまだ、ストーリーに村上龍作品の影響が色濃く表れているという程度のものだった。私もそうだが、バブルの時代に村上龍を読んでいた小説書きは、多かれ少なかれ彼の影響は受けていると思うので、それはまあいい。

 が、近年の『誰がこまどりを殺したの?』と水城せとなの『ブレックファスト』、『サマータイム』と小野塚カホリの『LOGOS』、『スカボロフェア』と峰倉かずやの『スティグマ』、そしてとどめの『19℃のロリータ』と楠本まき『致死量ドーリス』にいたっては、もはや言い訳さえできるものではなく、編集部に問いつめられて本人も盗作を認めたんだという。

 盗作されたとされる作品の半分以上が自分の本棚にあって、その中の数冊を聖書のように愛でてウィングス的なるものを学習し、ウィングス小説大賞で編集部期待作など何度か獲っている私は、このニュースに関してそのへんのワイドショーのコメンテーターよりも的確に話せると思う。

 篠原一は、同人誌も書いている。そちらは本人も認めるとおり(そのあたりの発言がまずくてサイトを閉めたのだと思われる)、各種小説や漫画からの影響に満ちている。そもそも「やおい」とはそういうものだし、パクること=同人誌といっても過言ではない。しかしそんな中から、コピーしているうちに学習し、質の高いオリジナル作品を執筆し始める書き手たちがいた。二十世紀の終わり、そういった同人作家たちを集めて創刊されたのがウィングスであり、その後、各社は同じような新人発掘方法をとって、マンガが文学にとってかわる、とまでいわれるほど、それまでの「漫画的」なものとは質の違う作品が生まれ始め、また読者にも支持され始めた。

 十七歳の小説書きが書いた作品に、なんの影響も色濃く表れていない、なんてことはあり得ない。私も、安倍なつみと同じ過ちを十代の頃にしていた。目にとまったものと、自分の頭に浮かんだものを、ごちゃまぜにしてノートに書き記していたのである。いざなにかを書こうというときそのノートは非常に役に立つが、なにせ自分でもどの言葉が引用で、どの言葉が自分のものなのかがわからない。誰だって、最初は「空っぽ」だ。私はモノを書いてお金をもらうようになったとき、ノートを二冊に分けた。引用を記すノートには、作品と作者を明記するようにしたのである。いまでもこの『徒然』に冒頭引用する言葉はそのノートから引く。

 彼女たちは、そこでまあいいか、と思ってしまった。そして彼女たちは、とても有名人だった。自分で思っている以上に。私が美術室で玄能を振り上げて作った作品は、大学入学試験の作品面接に持っていったが、それを見て審査員だった某アーティストが言った。「ステラだね」。そしてこう言ってもくれた。「まあ、ここから自分の作品になっていくのだろう。それにしても、よくこんな大きなもの作ったな」。笑って。恥ずかしくてうれしかった。それが文学賞の選考会で、もしも審査員が文学者であって少女漫画やましてBLなど読んだこともなく「これはすばらしい才能だ」と拍手してしまうことを考えると、実に怖い。そしてそういうことは、簡単に起こりえるものだと、思う。

 篠原一『スカボロフェア』と峰倉かずやの『スティグマ』は、そういう意味で、完全な罪だ。見比べればわかるが、彼女は『スティグマ』を片手に持ち、読みながら書いている。私は自分の書いたものがウィングス的に許容されるかどうかを計るために同じ作品を手に取るが、真似ようとしたことは一度もない。それは絶対に楽しくない作業のはずだから。自分のオリジナルが書けるほど力量があれば、多大な労力を払ってほかのバンドの曲をコピーするなんて無意味だと誰だってわかる。それなのに彼女はやった。そしてついに朝刊の記事になるレベルまで罪を重ねてしまった。

 どこへ進めばいいのかわからなくなったとき、聖書を開くのは良き行いだ。過去のだれかの作品なくして、現代のだれかの新しい作品などあり得ない。文学だろうがエンタメだろうが、それらは絶えず進化している。私は、作り手の心がこもっていなければ作品に心が宿らないとは思わない。読み手の心を動かす作法は「技術」であり、それは旧時代の職人から新時代の職人が継承するものである。人の一生など短い。

 魅せ方、を確認するためにだけ聖書を開かなくてはならない。
 「これ」を魅せるにはどういった技術が必要かをパクるのだ。
 その「これ」までもをパクろうとした、彼女はなにがしたかったんだろう。締め切りがあるけれどなにも書けないから? 作品を発表し、お金と読者の声が戻ってくる関係が欲しかったのだろうか。いやたぶん、そんなに深く考えていなかったのだと思う。彼女にとってそれが書くことだったのだろう。もともとそうで、しかし文学者としてデビューしてしまった。彼女が同人誌界で同じ作品を発表したなら、それはアリだった。お金も読者からの声も、そこでだって手にはいる。彼女は、自分がいる場所を認識できていなかった。

 もう表舞台では書けないだろう彼女が、旦那さんともうまくやって、しあわせに「若い頃恥ずかしいことやっちゃって」と笑いながら同人誌や官能小説などの舞台に舞い戻ってくることを願ってやまない。とても彼女を近く感じる。なぜ文学なんて方向に行ってしまったのかと非常に残念に思う。BLの世界では、ストーリーの確信犯的なパクりも許容される。エンタメにおいては、読者が昂奮したかどうかだけがすべてだ。良くできたアクション映画によく似たB級映画が量産されることは、消費者にとって至福なことであるのだから善だ。だれもそれを責めない。『スティグマ』によく似た別の作品が描けるなら、文学界では罪になるのだとしても、私は興味本位でそれを読んでみたい。『スティグマ』と同じように心に届くものがあるのなら、パクりでもなんでもいいと思う。それを作っただれかを、絶賛する。

 創作の基本はマスターベーションだと思う。
 それをどうカタチにするかなど考える時点でおかしなことなんだが、人類はここ百年くらいをかけて、それを成り立たせた。最近では、びっくりするほどおもしろくない映画なんてものは少ない。九割の魅せ方はすでに確立され、残りの一割に作者の色づけがある。すでにあらかたの技術が確立された現代では、創作とは「選択」と呼べる。マニアックな作品しか書けない、なんて作家は旧時代のものだ。現代ではそれを文学者と呼ぶ。いま、ウィングス的なものを書こうとする書き手のすべてが「その技法を選択した」作家。「BL」という手法もそう。あらゆるジャンルがそう。同人誌、という技法を選択したのに、同時に文学者を目指してしまった彼女は矛盾に満ちた選択ミスをしたと思う。

 最後にまた引用しようか。

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 君がもうその眼に映せなくなった
 青い空を探しに
 僕らはまた歩き出した
 今君が見ている暗闇に今度は
 僕が道標を灯そう
 手を繋いで 放さないように
 どんなに遠くても小さくても
 見失ったりしないように──

 峰倉かずや 『スティグマ』

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 さあ、書ける人は書こう。
 気持ちよくなることにも、最低限のルールはある。
 隣でオナってる人をつっつかない、とかそんなこと。
 難しいことじゃないんだが。
 いったん見失うと、サルみたいにやっちまうのがヒトだ。
 自戒して酔いしれましょう。


 




 

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