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『あなたの人生の物語』の話。

 清原の引退したその日、もうひとつ、見逃せないスポーツ・イベントがあった。
 『K-1ワールドMAX』
 もともと空手は好きで、私のこぶしにもささやかながら殴りダコがあったりするのですが、空手から派生して世界の格闘技となったK-1。でも、ちかごろのヘビー級はあんまり観ていて熱くなれない。巨体と巨体がぶつかりあうサマが売りなら、なにもガチでなくプロレス的にショー化してくれたほうが、ずっとたのしめると思ってしまうのです。

 一方、K-1にはMAXという階級もある(正確には階級名ではないが)。
 70Kg以下の、歴代王者は全員身長180cm以下の階級。
 私もK-1で試合するならこのクラス(しないけど)であるように、日本人にとってはドンピシャな階級であるがゆえに、クローズアップされて大々的なプロモーションのうえに地上波中継放送もされ、会場もファン同士の小競り合いが起きるほどに盛り上がっている。まあ、私はふだんから日本よりもそれ以外の国の格闘技を摂取することが多いので、良い選手が好きなのであって特に日本人だから応援するということもないのだけれど(この愛国心のなさが、オリンピックに熱くなれない理由だろうな……)。そんな私も、MAXの選手たちのレベルの高さには、声をあげつつ観てしまう。当たり前のことなんだけれど、2m100Kgを越す大巨人よりも170cm70Kgの男たちのほうが世界には多いから、裾野が広がれば山の頂上は高くなるという良い見本です(スポーツ庁をぜひ作るべきとつい先日言った某与党のO代表も、そう述べておられました。確かに首相も以前はそれやりましょうと言っていたけれどね……すわ世界恐慌か、という時期に政界のトップ級がさも大事なことのように言うべきことかと。裾野が広がる前にスポーツやる経済的余裕のある人も、そもそも新世代の純血日本人もいなくなるよ。ぜったい天下りの温床になるのが目に見えているような省庁だと思う)。

 ところで私は、ビッグマウスな選手というのが大好きで。
 でも、ビッグマウスなレスラーというものには定義があって、戦績は負け越していなくてはいけない。今回のMAXでいえば、ずっと二番手だと「ねえ。二位さん」と呼ばれ続けてきた佐藤嘉洋が、だれもが認める日本人第一位、魔裟斗に対して「完封もある」「自分がMAXを背負う準備はできた」などと挑発をくり返し、魔裟斗の眉間にシワを刻ませていたのは、私にとっては実に微笑ましく、挑戦者かくあるべし、という感で、すっかり準決勝の魔裟斗vs佐藤戦は、佐藤びいきな目線になっていたのでした。
 亀田興毅もそうなんだけれど、チャンピオンに向かってチャレンジャーが吠えるのは、まさにビッグマウス・レスラーの本道であり、結果として広言が実現できようができまいが、パフォーマンスとして私はやるべきだという派です。むしろ吠えもせず大口も叩かず大風呂敷広げて世界を獲るとも発言しない挑戦者なんてものには、まったく萌えることができません。そして逆説的に、亀田興毅もそうなんだけれど、魔裟斗も。自分がトップに立ったなら、王者はもう吠えちゃいけないと思うのです。そういう意味で、ベルトを巻いてからもビッグマウスであり続ける選手は、私のなかで愛すべきビッグマウス・レスラーから、しゃべりすぎるぶざまなトップへと評価が落ちます。

 今回の場合は、魔裟斗だって五年ぶりに世界の頂点に返り咲くかという大会で、むしろ佐藤との日本人でどっちが強いなんてことよりも、歴代チャンプたちとのしのぎあいのほうにこそ吠えたい気持ちが「もういいじゃん日本人同士の対決だからって盛り上がるのは」という気持ちになって声を荒げる場面が多かったのかもしれませんが。でも、実際のところ、その日本人頂上対決でチケットが売れていることは、会場の盛りあがりを見ればあきらかなのだから、やっぱりそこは「一位さん」ならばビッグマウスではなく鼻で笑って「言わせとけ」とあしらってほしい。そんなこんなな、どちらかというと準決勝はキャンキャン吠える毎回いらないこと言いすぎなかつては負け越して酒浸りだったこともある好ましい佐藤嘉洋を、決勝はもちろんウクライナの美貌アルトゥール・キシェンコを、熱狂的に応援していた私なのですけれども。

masato

 魔裟斗。

 その戦いぶりの素敵だったこと。その魅力は、アンチな私にまで届いて、一夜で魔裟斗を好きになったのです。観たひとはわかると思うけれど、きっと格闘技がなんであるのかがわからないひとでも、あの二試合を観ていたら、魔裟斗に拍手を贈らずにはいられなかったはず。

 いろいろあった大会でした。佐藤戦ではルールの不備から(試合後、角田さんがルールを改めると明言しました。発展途上だねまだまだK-1は。長いスポーツの歴史のなかでは新興勢力継続中)、なんだそれという採点になってルールを熟知していたファンこそペットボトルをリングに投げたという場面もありましたし。準決勝も決勝も、相手がふたりとも180cmオーバーというMAXでは異例の相手との連戦で、しかも決勝のキシェンコにいたってはボクシングリミットでカラダ作っている選手なので、特に長細く見えて、それで二試合が似た画面になっていたというのはある(ボクシングのミドル級は160ポンド以下つまり72.6kg以下。日本生まれのK-1がポンドでなくグラムでリミットを切っているため、K-1のミドル級は、むしろボクシングではスーパーウェルターの154ポンド(69.853kg)に近い。とはいえボクシングと違い、打撃力勝負な面があるK-1では、上の階級からギリギリまでしぼってリミットにあわす、というのが通例。キシェンコはこの大会のために3Kg近く落としたはずだが、このあたりの階級でのその増減は、けっこうな肉体的負担である)。

 でも、それらをさしひいても。
 魔裟斗の戦いぶりは、まるで二試合、同じだった。
 押され、潰され、佐藤にはダウンまで奪われ。
 けれど劣勢のまま突入した延長戦で、圧倒的に強かった。
 終わってみれば、当たり前のようにベルトを巻いていた。

 ぎりぎりの、もしかしたら自分のほうが負けているという判定の場面で、あきらかに負けた二人と、勝った魔裟斗の目つきが違っていて、決着つかずに延長戦にもつれ込んでからは、迷いのない魔裟斗の動きが美しささえもって、リングのうえで勝利への道筋を描いていた。
 道が、見えたのだ。

 私は、テッド・チャンの『あなたの人生の物語』を想い出していた。

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 未来を知ることは自由意志を持つことと両立しない。選択の自由を行使することをわたしに可能とするものは、未来を知ることをわたしに不可能とするものでもある。逆に、未来を知っているいま、その未来に反する行動は、自分の知っていることを他者に語ることも含めて、わたしはけっしてしないだろう。未来を知る者は、そのことを語らない。


 テッド・チャン 『あなたの人生の物語』

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 『あなたの人生の物語』はSF掌編小説である。
 ハードSFと分類されるだろうが、SFを読み慣れない人でも、感じるものはあるはず。人類とはまったく異なる存在である異星人とコンタクトすることになった言語学者が、言語の差違を通じて世界の有様を別の角度から感じられるようになり、達観とも悟りともいえるラストへと収束してゆく、忘れがたく美しい物語。主人公である彼女は、未来を知ることになる(このことを知ったからといって、まだチャンの作品に触れていないあなたの楽しみがいささかも減じるものではない。ネタが命のハードSFにおいて、これは実はすごいこと)。しかし同時にそれは、自由意志を失うという悲劇ではないとも語られている。

 たとえば、私に、私の一時間後の未来がわかるとしよう。
 なんらかの啓示か、デスノートを読んだのか、それはどうでもいいが、とにかく知っている。

 ものすごく魅力的な美女に出逢って、でも私は声をかけたりはしない。

 私は声をかけたいのだろうか。それなのに勇気がなくてできないのだろうか。それとも魅力的な美女だが、親密な関係にも、友人にさえもなりたくない性格的欠陥が彼女にはあるのだろうか。または私は実に誠実な男で、だれかに操を立てて自制しているのだろうか。それらは、未来を知っていない私にとっては、その場で選ぶべき苦悩の選択となるはずだ。もしくは、勇気の問題であれば自分の頬を打って、話しかけるという行動に出るかもしれない。しかしそれもあくまで、未来を知っていない私の場合に限定された話である。

 ものすごく魅力的な美女に出逢って、でも私は声をかけたりはしない。

 その未来が確定しているなら、選ぶことはすでにない。
 逆説的には、声をかけるかかけないかを選ぶ自由意志が私にある状態では、けっしてその未来が確定することなどありえないのだから、確定しない未来を私が知りうることもない。

 ものすごく魅力的な美女に出逢って、でも私は声をかけたりはしない。

 さらに逆の逆を読めば、そういう未来を私が知っているということは、私は私が選択した(する)ことも知っているのであって、ならば悩むことはやはりなにもない。選択すべきことがすでに選択されているのになにかに悩むことなどできないし、だとしたら、悩めないことをもって「私の自由意志が奪われた」などというのは頭のおかしい論理になる。そこではなにも奪われていない。

 ものすごく魅力的な美女に出逢って、でも私は声をかけたりはしない。

 ものすごく魅力的な美女に出逢って、でも私は声をかけたりはしないんだ、と私はだれかに言うだろうか? それもまた選択の問題と同じだ。だれかに言うことで未来が変動する可能性はたえずある。自分の問題を自分の問題にとどめておけなくなれば、不確定な未来は霧散して、そもそも私は確定する未来を知りうることができなくなるだろう。私は言わない。それもまた確定していることだが、そこに自由がないということではない。

 『あなたの人生の物語』が、忘れがたい小説になっている理由にフェルマーの最小時間の原理を持ち出したことがあげられる。
 フェルマーの原理とは、たぶん中学生のときにだれもが知るのだが、光は光学的距離が最短になる経路を通る、という原理のことである。

 よくおぼえていないひとのために説明すると。
 (説明するほどのことでもないが)

 光がA地点から照射されB地点に到達する。
 その道筋のなかに、鏡とか、プリズムとか、水面とか、なにか光がまっすぐ進めないものがあったとしても、光はAからBまで、もっとも時間のかからない、最小時間の道筋をたどってBにたどり着く……思い出すほどのこともない、当たり前のことだ。照射された光が、鏡に反射しようが水面で屈折しようが、光の分際で、わざわざ遠回りをしてB地点にたどり着くわけがない。
 中学生は全員、これを知って、当たり前のことだと思う。

 しかし、だ。
 光には、なぜ最小時間の道筋がわかるのか、説明してみろと言われたら、口ごもってしまうはずである。ばりばりの理数系のかたならば、水の屈折率がこうなんだからこう曲がるためにこういう道筋になるのだと言うだろうが、その数字はどこから出てきたものなのだろうか。ごくごく、単純に考えてみれば、それを疑問に思わないのは、おかしなことだ。

 光が最小時間の道筋を選んで進むためには、あらかじめB地点の位置がわかっていなければならないのでは?
 到達地点がわからないのに、もっとも近いルートをはじき出すことなど、どんな有能な地図職人にも不可能では?

 逆説的には、もちろん、こう。

 最小時間の道筋が決定されているということは、終点はすでに決定している。
 光に自由意志はあたえられない。
 照射されたビームは、B地点まで最速でゆく。
 それだけのことだ。
 光も自由意志を持ってわざわざ遠回りしたいなどとは思っていないはず。
 思っていないから、水の屈折率というのは角度からはじき出せる。
 未来は決まっているからだ。

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 以前、あるコメディ女優が言うのを耳にしたジョーク。それはこんな具合だった。
「自分はこどもを持つ準備ができてるのかどうか、自信がない。こどもを持ってる友だちに、〝あたしがこどもを持ったらどうなるかしら。もし、こどもたちが大きくなったときに、人生でうまくいかないことはなんでもかんでもわたしのせいだと責めたてられたりしたら?〟ときいたら、彼女は笑って、こう言ったの。〝そのもしって、どういう意味?〟」
 これはわたしのお気に入りのジョーク。


 テッド・チャン 『あなたの人生の物語』

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 〝もし〟
 そう考える時点で、未来は永遠に確定しない。
 確定しない未来は予知できないし、生まれもしない。
 〝もし〟
 自分はチャンピオンになれるのだろうかと、疑ったなら。
 その時点で、彼には、そうならない未来も待っている。
 けれど。
 〝もし〟
 そう考えない〝いま〟が作り出せたなら。
 あなたの人生の物語は、他人に語って聞かせられるくらいに、不動のものになる。
 自由意志?
 永遠の愛を誓って選択肢が消えたとなげくひとは、永遠に永遠の愛は誓えない。
 明白なことでしょう。
 原理を教えられる前の子供でもわかる。
 どこ行くか決めていないのに、どうやって道を描くの?
 答えはむずかしい?
 いや、とてもとても明白なこと。

 未来を決めてしまえばいい。

 本来、チャンピオンを目指す選手のすべてが、確定した未来を持っているはずだ。ましてワンデイトーナメントの出場選手、あと階段ひとつふたつでベルトを手にするその位置で、未来はどこだB地点はと迷う光などいないはずだし、ここでオレに自由意志をと吠えるバカもいないはず。けれど、微妙な判定を待つわずかな時間、手をとめてトレーナーに肩を揉まれて延長もあるぞとささやかれているのにその刹那。テレビ画面を通して、はっきりと見えた。
 道が見えているのは、迷っていないのは。
 チャンピオンだけだ、と。
 これは勝っちゃったな、と。
 だれもが確定した未来を予見できたとき。
 すでにチャンピオンはベルトを巻いていたのだった。

 本当にねえ。
 スポーツというものの、すばらしさだと思う。
 そして奥深さだと思う。
 そこでさえ、しんどいから?
 なにか、不安要素があったから?
 自由意志を獲得した瞬間に、未来が変動すると子供でも知っているのに。
 揺れてしまうと、未来はつかめない。

 チャンピオンほどの未来確定能力を持のは、やはり並大抵ではないのだと。
 きょうもあしたも吠え続けて、迷わないぞと。
 揺れないぞと。
 気合いを入れられましたよ、チャンピオン!!
 おめでとうございます。
 あの夜は、凝縮されたひとつの寓話を視た。
 いい試合でした。
 すばらしかった。

ted

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