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『911×7』のこと。

 9.11の映像を見たときの衝撃は忘れられない。
 繰り返し世界と貿易の名を冠した塔が崩壊する瞬間を見せられたのだ。あのとき、現実が想像を超えたという人もいたが、ぼくはそんなことはありえないと思っている。あれは現実がハリウッド的想像を模倣しただけのことだ(その意味では地下鉄サリン事件はオタク的想像の延長線上にある)。


 石田衣良 『ブルータワー』あとがき


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「なんだよ、あの子……っ」
 祈がつぶやいたのを、瓦礫のなかから起き上がりつつ、セディーユが訂正する。
「子ではない。百年河清を待っても無駄だ。血を飲み慣れていなければ、たぎる状態の自身をあれほど的確に操縦できるわけがない」
 ことわざの意味はよくわからないが、言っていることはわかる──確かに、祈が血を飲み瞳を紅くしても、水面を走り、壁を駆けのぼるなどという戦いはできるわけがない──ヒトの常識が、歯止めをかけるだろうから。


 吉秒匠 『ヴコドラクの女王』

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 それは私のついさっき書きあげたヴァンパイア小説の一節だが、イノリはついこのあいだまでヒトだったけれど、セディーユなるスプラッタ・パンクな美丈夫吸血鬼の境遇に哀れをもよおし、いまでは自分も不老不死のヴァンパイア──流れ流れて、この場面では少女ヴァンパイアとアクションシーンのまっ最中なわけですけれども。

 イノリはもうヒトを超えた存在で、少女と同じく水の上も走れるし、垂直な壁を駆けのぼって夜空に舞うこともできるはず。けれど、目の前でそれをなんなくやってのける少女(とはいえ少なくとも数百年数を生きているご高齢なので、袖の膨らんだミニスカフリルな黒ドレスで暴れまくっている彼女のパンチラにハートマークをつけてもいいものだかどうだか、書いている私も思案してしまいます)を見ても「できるわけがない」と思ってしまう──そういうものだと、思う。

 たとえ、目の前でヒトがヒトを殺すところを見ても。
 私は殺せない。
 けれど、たとえば私が兵士で、信念のうえで軍人、もしくはそれに類する戦闘集団に所属し、上官から「考えずに引き金を引け」と言われ、一度でも、的に当てることではなく、ヒトを殺すことを考えながら、引き金を引いたとしたら。
 その刹那から、私は殺せるのだと思う。
 よく暗殺者を主人公にした映画で描かれるが、

「一人殺せば、二人目からは数えなくなる」

 というようなことは、きっとない。
 それはきっと、ひとりめを殺す前から。
 自分が、だれかを傷つけられる存在だと、発見したときから。
 できるようになってしまうのだと思う。
 それはきっと、気づけばできる大跳躍のようなもの。

NIKITAred

 オタク的想像を膨らませていけば、空も飛べるし呼吸しなくても生きられる。そんなことを信じてあげく地下鉄サリン事件を起こした彼らは、はずしてはいけないリミッターを平気ではずせるようになり、ヒトを超えてしまった。
 私は、あの一連の事件のニュースを見ていて、感じたことをいまでもおぼえている。

「ヒトって、そんなことまで信じられるんだ」

 気づいた自分がイヤだったのを、おぼえている。
 悪い例だが「恋する者は盲目になる」ということをだれひとり信じられなければ、この世に結婚詐欺師なんていないはずだ。詐欺師は気づいたからウソをつくのである。自分に恋する心などなく、ただ相手から金を巻きあげたいだけだとしても、演じれば相手は恋に落ちるのだと。
 悪い例か良い例かわからないが、小説を書くことだってそうだろう──そこに本当のことなどひとつもなく、想像上の人物たちが恋したり苦悩したり争ったりなにかを見つけたりする──そこでは現実にはなにも動いていないけれど、その小さな説で、読者の心はダンスできるのだと、信じていなければ書けはしない。私の描くセディーユは巨大なアコースティック・ベースを弾くが、音楽など最たるものだ。棒に張った糸を爪弾いて、その音の羅列でヒトの心を揺さぶるなど、詐欺以外のなにものでもない。

 けれど、そうして考えてみると。
 詐欺ではない、というのはどういうことだろうかと思う。
 思ってみたら、また気づく。

 私は、あの塔に突っ込んだ飛行機に、盲信したテロリストが乗っていて、それがみずからの命もろとも他人の命を奪うという、そこにおののいたのではなかったのだ。
 私は。
 その塔が、いままで建っていたことに、怯えた。
 これもまだうまく言えていないが、確かに思ったのは、そういうようなことだった。

 詐欺ではない、というのはどういうことだろうか。
 私には好きな人がいるが、その好きな人の心が私をどう感じているかは、永遠にわからない。たとえどんなかたちでか結ばれて、心を開きあった気になっていても、本当のところはわからない。言葉なんて小説や音楽と同じだ。愛も憎しみも、その概念がまずあって、それを思いこむのだから。どこまでが演じている心なのか、盲信なのか、道を誤っているのか、詐欺なのか、本人にだってわかりはしない。

 テロリストの憎しみは理解できない。
 けれど、彼らは気づいていた。
 ハリウッド的想像の画を、見せてさえやれば、それは本当か嘘かなど関係なく、見る者の心をおののかせる。わかっていたからやったのだ。信じておこなえば、世界は揺れると知っていたから。そこではもう、憎しみの心さえも、本当か嘘かわからなくなっていたはずだし、自分で自分を詐欺にかけたも同じだろう。心はそういうもので、恋も愛も世界への憎しみも、リミッターのはずしかたさえわかってしまえば、とめどない。
 テロリストが、なにかを信じて。
 世界を怯えさせるために、派手なことをやった。
 映画みたいだ、と思った時点で、それはプロレスラーのマネをして鉄棒からダイブし首を折ったアメリカの小学生と変わらない。
 ヒトの信じるチカラは、とめどない。
 そして他人がなにに盲信しているかなんて、だれにもわからない。



 それはつまり、近所のよく知らないヒトが、よく知らないヒトであるがゆえに、ある日みずからの信念に従って飛行機に乗り込みビルに飛び込んで世界を震えさせても、驚くにあたいしないということである。なにかに人生をかけている人は当たり前にそこらじゅうにいるし、大雑把にくくれば、自殺しないすべてのヒトが自分の信念によって生き続けているのだろう。
 なにかを盲信して。
 2973人が、七年前の今日、殺されたとされる。
 輪廻の思想によるならば、七回忌は六年目の昨年で、もはや世界中のほとんどの宗教において、あの事故の死者たちは生まれ変わるか消滅していることになる。七年目とは、そういう年だ。だれもが、想い出のひとつとして、あの事件を記憶に変え終えている。
 19人のテロリストが、それをやったという。
 けれどその数字は、それをきっかけにはじまった、今日も続いている戦争の前では、数字の説得力を持たない。
 思い返すのは、あの画。
 崩壊する世界の画。
 テロリストの思惑通り、その画は、世界は壊れるものだとだれもに気づかせた。
 ビルの崩壊そのものが政府の陰謀だという説もあるが、だとしてもあの日に見た画は変わらない。
 気づいたら、壊れるものだ。
 壊すことができてしまうものだ。
 気づいた時点で、本当は終わりなのである。
 恋は盲目だったと気づいた者は、もう恋から醒めている。近所のよく知らないヒトが、よく知らないから自分の人生にかかわってくることはないと、盲信していられたうちは、安穏と生きられるのだが。
 もうダメだ。

 ダメなはずなんだけれど。
 世界は七年経っても続いている。
 戦争はあいかわらず、ある。
 ヒトとヒトは殺しあっている。
 世界は終わらない。
 子供だって知っている。
 ヒトはヒトを殺せると全員まんべんなく気づいているから。
 全員、それはできるはず。
 でも、世界は続いている。

 愛しあうことを信じているヒトもいっぱいいるから? 詐欺に気づいても気づかないふりで大丈夫だと根拠のない自己説得を続けている人たちが踏みとどまっているから?
 どうなんだろう。
 私にはわからない。
 わかっているのは、頭の上を飛んでいる飛行機の乗客は私の信頼できる友人や愛人などではなく、たいていの場合、見知らぬどこぞのだれかで、だったらいつその飛行機は私に向かって降ってきてもおかしくないと、私は知っているという、それだけである。

 七年経った。
 あの画をまた思い出す。
 まったくもって、心は落ち着かない。
 世界は信用できないものだと思う。
 思いながら、今夜の晩ご飯はなににしようかと思って、あした履く靴をみがく。
 だれかが私を愛してくれなくてもいいから、こっちは愛していい気分でいたいなと思う。
 詐欺でもいい。
 口から出任せでも、信じてしまえばそれは本当だ。
 小説が生み出す感動は本物である。
 音楽はすばらしいものだ。

 愛してる。
 まあ、信じるに足りない世界だが。
 思い悩んで、私の愛する時間が減るなんていうのはもったいのないことだ。
 みんな、気づけばいいのに。
 気づきなさいよと歌ったヒトがいるし、笑いなさいよと描いたヒトもいる。
 みんな、気づけばいいのにな。
 自由なんだから。
 崩れ落ちる塔の画を見て、世界が崩壊する悪夢を見るより。
 もっといい夢、あるでしょ、いっぱい。
 
 世界がそういうふうになればいいなと、思います。
 結婚詐欺師同士が、互いに騙しあってバレなければ、それは幸せな本当。
 隣人のことを愛せ、気に入らないところは見なければいい。
 それでいいと、思う。
 特に、今日は。
 祈りながら、想う。
 
 バカげてるよ。
 自由になんでも信じられるのに、なんでよりによってそれ?
 どうせバカげてるなら、愛は地球を救うとか。
 おれが世界を救うとか。
 せめてあの子を笑わせるとか。
 彼をよろこばせるとか。
 なんかあるだろう、と。
 私は、そう生きよう、と。
 たぶん、これからも毎年、この画を見て想う。
 哀しいことなんだけれど。
 だから、うれしく生きようと。
 壊せるなら、壊さないこともできるだろう、と。
 盲信して。

 豊かな国に生きているからこそ、楽観論を唱えるべきだ。
 だれとも争いたくない。
 地上が平和であって欲しい。
 それはそんな、難しいことだとはどうしても思えないのに。
 なんでうまくいかないんだろう。
 世界が平和でありますように。
 バカみたいに言ってるだけじゃ変わんないのか。
 だったら、なにをすればいい?
 だれかが、世界中のヒトの心に響く愛の歌を歌うとか、キリストのごとき絶対的カリスマ指導者が現れるとか、そういうのは、真逆な期待だ──全員をひとつにするんじゃなくて、私が思う平和っていうのは、隣の人がなにを信じていて、どんな自分にとってはアブノーマルだと思えるプレイに没頭していても、それはプライベートなことだし他人の趣味だと無視をして、一緒に仕事をしたり、同じ映画を観てまったく別のことを想ったりするということ──それができるということ。
 趣味があうヒトと愛しあえばいいじゃない。
 趣味のあわないヒトを憎むのは時間の無駄じゃない?
 他人の趣味は、理解できないから他人なんだからさ。

 命を燃やして塔を打ち倒してまで。
 なにを伝えたい?
 結局のところ、それで変わるものなんてないと思う。
 焼けた命を無駄だなんて言いたくないけれど。
 だって戦争に火がついた効果しかなかったじゃないか。
 だれも幸せな気分になれない画なんて、描く意味がない。 

blue

 

 

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