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『対決の刻』の話。



 ディーン・クーンツ公式サイトの「about Dean Koontz」のコーナーにゴールデンレトリーバーや妻と笑顔で写るディーン・クーンツの写真が掲載されているのだけれど、公式サイトのリニューアルのさいに「なに若い頃の写真使いはじめちゃって」と思っていたんですが……最近のインタヴュー映像観たら、なんとまさしくいまのクーンツの外見はそうなのでした。



 ちなみにこれが10年前のクーンツ。



 あーヒゲ剃ると若返って見えるもんだねえ……って、頭、あたま。
 レイラニの装具が彼女の肉体の一部であり彼女自身であるように、クーンツのカツラも、いまや彼の一部となっている(植毛なのかな? クーンツなら先鋭的肉体改造術を嬉々として我が身で試しそうな気がするし。シワも取ってそうな感じ。長年のファンの目から見て、奥さんも若返ってるんだもんどう見ても(彼女が「五年間食べさせてあげるから小説だけに専念して」と言い出さなければいまのクーンツはないわけで、ファンにしてみれば彼女はどれだけ報われても足りないくらいの女神。本売ってさらに美しくあり続けてください)。それもこれも『odd thomas』シリーズ大ヒットの効果か)

 

 koontz

 で、まあオッドくんの日本デビューはまだ先なのですが。
 今年は明けてから『チックタック』と『対決の刻』が立て続けに別々の出版社から発売。
 ドラマ化、映画化と芽が出てきた途端に、こりゃ日本でも売れるかもとまたぞろ動き出したわけですね……『チックタック』なんて、遠い昔に紀伊国屋でペーパーバックめくりながら「いまのクーンツの代表作なのになんでこれ翻訳されないんだろう」と哀しくなっていた作品です。
 扶桑社のつけた帯がまた泣かせます。

「ホラーの巨匠クーンツ絶頂期の傑作ついに登場」

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 ていうか笑わせますね。絶頂期の傑作が翻訳されるのに十二年かかっています。
 待たせすぎ(笑)。
 クーンツ本人だって、執筆期間入れれば十五年ほど前に書いた作品ですから、いまさらそれを褒めたりけなされたりしても戸惑うところでしょうし(そもそも絵本『ぬいぐるみ団オドキンズ』を書いたことで着想を得たに違いない異色作の色合いも強いし)、家に帰ったら人形に襲われた逃げるんだ俺! という展開は、クーンツがジョー・R・ランズデール『テキサス・ナイトランナーズ』のあとがきで「これを書いたとき、抑制というものは、まだ習得の途上だったのだ」けれど、この作品はおもしろいと絶賛しているのと同じ、まだまだヒット作家になって初期のディーン・クーンツ的『戦慄のシャドウファイア』で邪教集団に追いかけられたり『心の昏き川』で政府に追いかけられたりするのと共通した、追われたから逃げる、サスペンスの基礎を踏襲した構成。しかしそれも、いまでは懐かしのクーンツ・スタイル。
 
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 というわけで、いまのクーンツ・フリークとしては、日本でこそ同時期に発売されましたが、ミレニアム越えしたあとの多くのファンに「変わった」と評される、つまるところヒゲを剃りカツラをつけ、公式サイトにCGパペットを置きはじめた新生ディーン・クーンツの作品『対決の刻』を読み解くほうにこそ、ワクワクテカテカしてしまうのです。

 同時期に出たことで、読み比べるとはっきりわかる。
 現代の膿んだ都市生活者が、欲するのはこの物語のほう。
 いまはもう十年前ではないということだ。
 疾走する物語、成長する怪物。それもいいけれど(現に『チックタック』は良作です)、アメリカという巨大な国、人種のミックスジュースにチョコチップミントアイスクリームまでトッピングしたかのような、色とりどりとも混沌とも表現できる自由の国で、二十一世紀のいま、ニューヨークタイムズのベストセラーランキングにタイトルが載るのは、こちら。個性的すぎる登場人物たちが織りなす、デタラメのように見えて計算され尽くしたクーンツ・タッチのタペストリー。愛と正義の人であるのを誤魔化そうともしない、この惑星の全員がクーンツの作品に心打たれたなら、すべての争いは地上から消え去ると信じられる、バカげた話。鼻につく愛と正義に彩られすぎた幕切れはいつものことだけれど、それを鼻につくと感じる自分のほうを嫌悪してしまう……させてしまう、クーンツ作品の説得力は、あきらかに十年前よりも増している。
 描き続けた職人が、その身につけたワザが、たしかにそこにある。
 
 邦訳の背表紙には作者名「ディーン・クーンツ」とありますが、コピーライトはやはり『サイレント・アイズ』に引き続き「Dean R Koontz」。

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 『サイレント・アイズ』の話。

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 クーンツの書いた聖書だと、私は言った。
 翻訳者、田中一江が前作のタイトルを日本人の宗教観にあわせて改編したのではないかとも私は書いているが、今作でそれは裏付けられた。本作の原題は『ONE DOOR AWAY FROM HEAVEN』……天国のひとつ手前のドア。レモンウォッカを飲むことに罪悪感を感じるミッキーは、かつて頭を撃たれた影響で映画と現実を混同することもあるが圧倒的に人格者な叔母に、なぞなぞを問いかけられた。

「天国のひとつ手前のドアをあけるとなにがある?」

 幼いミッキーは無邪気に答える。

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「そのドアをあけたら、つぎのドアには行っちゃいけないって止めてくれるだれかが待ってるの。あたしを天国に行かせないだれかがね」
「なんておかしなことをいうの、この子ったら。あんたみたいないい子を天国に行かせたくないと思う人がいる?」


 ディーン・クーンツ 『対決の刻』

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 ジェニーヴァおばさんの言うことのほうが、おかしい感じで聞こえてしまうのは、純然たる仏教徒ではないし、観る映画やドラマの半分がアメリカ製で、読む小説の半分が海外の作家のもので、観戦するプロレスの半分が外人しか出てこない団体の興業である私にしたって、キリスト教圏のありふれた精神を、素直に血肉とすることはできていないということなのだろう。
 天国に行かせたいと思う?
 そこには大前提として、天国と地獄、天使と悪魔、善と悪が、一本の川ではっきりと色分けされ、厳然と存在しているに決まっている、という世界観が必要となる……私は、むしろ幼いミッキーの答えに共感する……天国は、死の代名詞だ。天国と地獄を比べる前に、それらはどちらも現世ではない、あの世なのである。

 というわけで、今回のタイトルは『対決の刻』。
 クーンツ作品なので、もちろん対決の刻はおとずれる。しかし、はっきり言ってこの作品において、このタイトルはベストだとは思えない。とはいえ『天国のひとつ手前のドア』なんて背表紙では、某宗教団体の信奉者が、信者の出した新刊かと思って手にするくらいの効果しかこの国では、ない。ということで『対決の刻』が、すばらしく日本人受けしてキャッチーかといえば、苦肉の策の感があるのだが、訳者が無難なセンを選ぶという姿勢は、私は好きです。こういうふうに、原題がどうだからこうだとかいうのは、好きなやつらがうだうだやってればいいんだからね。

 そんなわけで、深読みするクーンツ・フリークとしては。
 今作もクーンツが、その名に「R」を戻したままなのが気になる。
 「ディーン」と「クーンツ」のあいだの「R」は、クーンツの父親レイの「R」。
 支えてくれる妻の存在で、クーンツは小説家としての成功を収めたが、その少年時代、彼の両親は読書を金と時間の無駄だと断じてクーンツに読書を禁じていた。
 四十年間、父親に対する楽しい想い出がいっさいない(発作的に暴れて息子を刺す父親なのだから、しかたのないところだ)とインタヴューに答えるクーンツ。その劣性遺伝子におびえて妻とのあいだに子供を作らなかったというクーンツが、父親の死後に、世紀が変わったいま、ふたたび「R」を名乗っている。
 この『対決の刻』、というタイトル……実はその事実に対する暗喩ではないかと、ひそかに勘ぐっているのですが、私は深読みしすぎていますか、田中一江先生。

 クーンツの父レイの、問題はいろいろあるが、最大のところはアルコール依存症である。カフェインよりも強い物質を、脳が破壊されるまで摂取する。中毒者。まわりの者には見えないなにかが見え、信じがたいものを信じ、彼らだけのルールでまわる完全に自己中心的な世界の法則にしたがった言動のせいで、長年一緒に暮らす家族にさえ予測できない毎日を創造する。

 『対決の刻』を読みはじめて『Intensity』を想い出したのは、私だけではないはずだ。

 少女を異常者から助け出す『Intensity』のヒロインChynaは、なにかに追われているわけではない。むしろ、ロクでもない男とつきあって全国を旅する母親に連れ回された「楽しい想い出がいっさいない」少女時代を過ぎ、反動で修道女なみの自己抑制した暮らしをするようになったほど、無茶はせず平穏を愛する女性。けれど彼女が囚われた少女のために銃をとる。メタルギアばりのステルスアクションで、悪の巣窟へと自ら挑んでゆくのである。

 思えばあのころから、クーンツ・タッチは、逃げることから戦うことにシフトしていったのかもしれない。ミレニアムの年、聖書に題材を得たクーンツは、超能力を持つ子供たちに、悪に挑ませ、退治させた。そして翌年、『対決の刻』。
 ヒロイン、ミッキー・ベルソングは、自分を若く危険なミュータントだと言い張る可憐な少女、レイラニに出逢う。『サイレント・アイズ』同様に、少年と、少女が本作の中心的登場人物なのだが、少年のほうはともかく(激しくバレるので、彼についてはいっさい言及できない。読んでください。クーンツの神がかったキャラ造形ときたら、もはやほとんどジョークの域に達している)、レイラニには、なんの特殊能力もない。自らをミュータントと呼ぶのは、クーンツのカツラよりももっと切実に必要な、メタルな装具を身につけなくては歩くことさえできない、顔以外の半身が生まれつき変形している自分を、醜く弱きつまはじきものではなく、人とは違う強さを持った存在であると定義しなければ生きていけないから。

 レイラニは、母親が妊娠中にドラッグの過剰摂取をしたせいで骨が変形した子供。
 ミッキーは、かつて親類に性的虐待を受け、そのうえクソみたいな男の共犯にされて服役し、いまは罪悪感を感じながら叔母の家に居候の身で、レモンウォッカを戸棚に隠している。

 私の記憶にある限り、クーンツが、これほど真正面から薬物依存やアルカホリックを扱ったことはない。『Intensity』でも母親の恋人がコカインをやってはいたが、レイラニの母のように四六時中薬物に溺れ、幻覚を見ては踊ったり吠えたりし、考えなしに娘をさげすみ虐待する、本当の中毒者は描かなかった。

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 異常さを取ったらなにも残らないような日々を過ごしていれば、異常なことが起きても恐怖におびえることはなくなる。


 ディーン・クーンツ 『対決の刻』

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 まるで、流行りの共産主義にあこがれた母親に、勢いだけで一字違いだが発音は同じ「中国」と名付けられたChynaが、その親から自由になったとき、修道女のように規則正しい生活を選択してしまったように、週に70時間をきっちり「書く」、会社勤めしている人間よりも規則正しい専業作家、小説職人クーンツは、その生活のなかで、逝ってしまった父親の、アルコール依存と暴力と、狂気について考え続けてきた。
 イカれた敵も、チャイルド・ポルノ販売業者も、邪教集団も、二十世紀に「まっとうなヒーロー」であるショットガンを持った男たちに始末させてきた、正義の人、クーンツは、なぜ新世紀になって、子供や、なんでもない植木職人や大衆食堂のバイト青年などを物語の中心に据えはじめたのか。

 クーンツの上手さは、日常の描写にあると人がいう。
 ホラー作家と呼ばれがちだが、クーンツのサスペンスは、個性的で愛らしいキャラクターたちの、出逢いと結びつき、そして戦いのその後に続く永遠の日常が描かれているからこそ、心に残るのである。クーンツ・タッチは、決して敵を倒した場面で終わらない。終わらせない……それは単に一個の問題にカタがついたということだけであり、クーンツの生み出した、まさに彼のわが子たちにとっては、その後の日常があるから。

 健気に身近な悪と戦うレイラニは、母に哀れをおぼえている。
 正義などとは呼べない、ただ平穏に生きたい、それだけのために戦うこの少女に、クーンツはつぶやかせる。

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 とはいえ、自分を大地につなぎ止めている数少ない血族という根っこを断ち切るのは、たとえそれが腐った根っこであっても容易なことではなかった。


 ディーン・クーンツ 『対決の刻』

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 『対決の刻』……
 クーンツを長年にわたって追ってきた読者なら、レイラニのつぶやきを、クーンツの思いそのものだと受け取るだろうし、書いているクーンツ自身も、それはわかっているだろう。
 そのうえで、実の母から逃げ、さらなる真の悪とも戦うはめになる、まっすぐ走ることさえできない自称ミュータントの少女を、支え、救い、友であり、新たな母となるヒロイン、ミッキー・ベルソングに、クーンツはウォッカを持たせる。

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 すくなくとも、ミッキー自身はそれがうそであることを知っていた。自分のうそを完全に信じこめないところが、いずれ彼女の救いとなるかもしれない。あるいは破滅の原因に。


 ディーン・クーンツ 『対決の刻』

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 愛と正義のヒロインだ。
 大長編のど真ん中に位置する、悪を討つ者である。
 そのミッキーに、前科を持たせる。
 そのミッキーに、自分をごまかすことを許す。
 うそだとわかっていながら、ミッキーは、自身を鼓舞するためにウォッカを飲むのだと自分自身にいいわけし、そのうそを信じられずにいる。
 クーンツも、そうだったのだろうか。
 このミッキーが、ヒロインだと描けるようになったから。
 一歩行きすぎれば、愛と正義の人として娯楽界の王となったクーンツ作品のヒロインでさえ、レイラニの母のように幻覚に脅えるようになる……その可能性を示唆しながら、けれど、その境界線でこそ、愛と正義がものをいう……善と悪の差は、はっきりとそれを分かつ渡れない川のようなものではなく、たとえ悪と同じ耽溺を手にしていても、愛や正義のために抑制できる……その振る舞いこそが、善なのだと。溺れて愛すべきものまで手放す、あきらめこそが愚かしい悪なのだと、そう言い切れるほどに。
 クーンツは「変わった」から。
 だからこその「R」なのだろうか、と。
 いま『対決の刻』なのだろうか、と。

 この作品も、すでに7年前のものになる。
 だからこそ、興味深い。
 ここから先、久しく離れていたベストセラーリストのトップに、毎週のようにクーンツの名がのぼる日々がやってくる。全盛期は二十世紀だと言われ、なのに映画の世紀に映像化がうまくいかなかったと不遇の人のように呼ばれたクーンツが、AXNでテレビシリーズを手がけ、小説でもシリーズもののヒット作を生む刻がやってくる。
 予測でなく、すでに事実だ。
 だからこそ、まだ数ヶ月の今年、すでに二冊もクーンツの新刊がこの国で出ている。
 何年も新刊を待った日々がうそのように。
 大急ぎで追いつかなくちゃと、版権が売り買いされる。
 本国で昨年末に出た最新刊は、ヒロイン、エイミーが、飼い主に捨てられたゴールデンレトリーバーを保護する組織を設立し、決死の思いでメスのゴールデンレトリーバーを保護した途端に、敵につけねらわれるようになるという『The Darkest Evening of the Year』。あらすじを読むと、まるでかつてのクーンツ・タッチそのものだが、これもベストセラーリストの上位にばっちり入ってる。

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 ゴールデンレトリーバー。クーンツといえば犬。二十世紀には犬が出てこない作品もあったが、近年はまさに犬こそが主役の感じで、私はどっちかというと猫好き派なんですが、実生活でもまさに子供としてレトリーバーを可愛がるクーンツが、こんなふうに「おれが好きなんだからこれを書く」とたのしんでいる様子は伝わってきて楽しいし、実際のところ、そういう精神的な余裕が「R」を戻してからのクーンツには如実に感じられる。売上げが上がっているのも、とっつきにくい禅僧のような伝道師のイメージが、抜けてきたせいもあるのでしょうか。
 (いうまでもなく『対決の刻』にも白と黒のむく犬、オールド・イェラーが出てきます。大活躍。この作品が映画化されれば、彼女の視点は絶対に外せない重要なファクターとなるはず)

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 犬という種族は、高度な知能をあるていどしかもっていない。感情や希望についても同様だ。しかし、人やその他の高等動物とオールド・イェラーのちがいは、そうした頭脳のはたらきではなく、彼女の純真さだ。オールド・イェラーが利己的に行動するのは生死にかかわるときだけで、自分たちは犬より上だとおもっている人間たちのように用もないのにやたらと利己主義に走る愚を犯すことはけっしてない。こうした純真さが明確な直感とあいまって、もっともつまらない光景や静かな瞬間にさえ存在する森羅万象のふしぎさを味わい、つねにそれを意識することができる。逆に人間は、自分のことにだけかかずらわって、自然の驚異を感じることなく、一日どころか何週間も──いや、往々にして一生そのまま過ごしてしまうのだ。


 ディーン・クーンツ 『対決の刻』

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 あきらかに聖書とキリスト教的世界観を意識させるタイトルの2000年~2001年。
 しかしクーンツは、逆に肩の力を抜いてのびのび書いている印象がある。
 それと、長年縛られてきた父の死後、外していた「R」を戻したという行為に、なんのつながりもないと見るほうが不自然だし、まじめな堅物のイメージがあるクーンツが、カツラかぶってイメチェンをはかるなどという行為も、なんだか人生をあますところなくたのしんでいるみたいに見える。
 なにかはわからないが、確かに「変わった」のだろう。
 それも、良い方向に。
 作家の人生が、作品に映るということを、強く感じる。
 最近のクーンツの姿は、以前にも増して、とても魅力的だ。

 その新生クーンツ、二十一世紀のスタートライン。
 『サイレント・アイズ』から『対決の刻』。
 バレを怖れている私の文章を読むと、まるで『対決の刻』は現代サスペンスものみたいに読めますが、ところがどっこい。『サイレント・アイズ』よりもさらに、ある意味カッ飛んだサイエンスフィクションです。あらすじで伝えるとバカげて聞こえるから触れないんですが、その設定で、読むと心臓ばっくんばっくんいわせるんだから、職人クーンツ、格の違いを見せつけてくれます。
 いやほんと、クーンツにしか書けない。
 真似したらコメディだもん。
 そういうところが、映画化が上手くいかない理由でもあるんだけれどね。
 『ファントム』とか、観ていて赤面した……『デモン・シード』は、古いから許されるところがあるんだよね、ときどき観返すと安らぎます(笑)。
 いやぜひ、二十一世紀のクーンツ主流になっている超能力ものではなく(それはそれで楽しみですが)『対決の刻』こそ、映画化して欲しい。双子ディーヴァ、スペルケンフェルター姉妹とカーティス少年(?)の顛末は、タランティーノ監督とか、たまんない感じだと思うんだけど。ラスト直前の目をまんまるくするポリーを予告編で流したいね(あ。思いだしたが、初版のラストシーンで「ドラッグを前部あわせたより」(P454)という誤植があるんだけど。ものすごく文章で押してくる肝心のシーンですので、二刷で修正願います講談社サマ)。
 ともあれ、こっからクーンツ、キます。
 古くからのフリークである私も、近年の中ではだんぜんこれを勧めます。クーンツ初心者なんていうんなら、まさにクーンツしか書けないこの作品から、さかのぼっていく道をおすすめ。
 ぜひ、ご堪能を。
 『ONE DOOR AWAY FROM HEAVEN』
「天国のひとつ手前のドアをあけるとなにがある?」
 そのなぞなぞの答えも気になるでしょう?

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 もっとも暗い瞬間にも、見えると信じていれば光明はあるのだ。恐怖は心が生み出す毒で、勇気はいつでも使えるように魂のなかにストックされている解毒剤だ。不運のなかには未来の勝利の種がある。あらゆることに神の配剤が存在することを信じない者には希望はないが、ありふれたことに意味を見いだす者はよろこびのなかに生きるだろう。勝ち目のない敵との戦いを強いられたとき、股間を蹴りあげてみたらたいていは有効だとわかるはず。


 ディーン・クーンツ 『対決の刻』

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 神という言葉がなにを指し示すかを拡大解釈すれば、その存在はだれにも否定できなくなる。『黎明』で死もまた自然なものだと描いたクーンツが、本作のあとがきで一冊のノンフィクションを、どんな小説よりもおそろしい読み物だと勧めている。

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 作中の「悪」が音楽のように愛でるビデオ『ジャンク 死と惨劇』は私の家にもシリーズが何本かあるが、かつてホラーブームが巻き起こった時機に、映画好きの全員が観た作品である(いまではエイリアン解剖ビデオと同じく、ヤラセ映像がほとんどあることが確認されている)。『対決の刻』のなかで功利主義的生命倫理学をとりあげたクーンツが、その作品の本当に本当のラストで描く、木の葉が風に渦を巻くシーンは自作『黎明』へのジョークのように見える。そしてそうだとすれば、そこに舞い上がる桜の花びらを想い出させたのは、ジョークのような危険思想も、この世界では真顔で論じられることがあるということに対する、クーンツからの警鐘だ。

 すべての人の人生に意味がある。

 そんなメッセージに感動するのだとしたら、きみもそうとう病んでいるよ、と感動的な話を綴った本人が、真顔で受けとられるのを怖がっているみたいに……そんなの、当たり前のことで、だれだってわかっていることのはずなのに、と。

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 愛だけというのはかんたんな答えです。そして、かんたんな答えは、たいてい世界を破滅にみちびくものだ。


 ディーン・クーンツ 『対決の刻』

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