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『ウェディング・ファンタジーともみじの天ぷら』の話。


wedding

友人の結婚式へ行った。
新郎新婦ともに友。
チャペルでどちらの側に座るか迷う。
カタコトな日本語の牧師様の、
英語と日本語半分ずつな、
多少演技過剰な説教を聞き、
緊張きわまった彼と、
深くうなずく彼女を見た。
女の子はいつだって強く美しい。
おせじにも運動神経抜群とは言えない彼女が、
背中越しに投げたブーケ。
あまりにも高く、
遠くに飛んで。
一列に並んだ女の子たちの頭上も越えて。
ブーケを手作りしてくれた友人の頭上も越えて。
「未婚女性のみなさん前に」
と言われても、
とても離れた場所で、
ひかえめにたたずんでいた、
クールな彼女の腕のなかに狙ったように落ちた。
クールな彼女がまた反射的に見事なキャッチ。
「……どうしたらいいの?」
戸惑う彼女と、
振り返ってタメイキの女の子たち。
私はとめどなくシャッターを切りながら、
「人生ってそういうものかもな」
と古来からの儀式の深遠さにうなっていた。
苦笑と羨望と達観と小さな歓喜。
真夏の教会は白く、
空も白く、
清らかな誓いの儀式は、
すり切れることなく機能する。
一点の曇りもない純白は、
あなたの色に染まるという意味らしいが。
強くて美しい女の子の純白のドレスは、
私の目には鎧に見えた。
悔いも迷いも罪悪感も越えて。
純白をみずから身にまとう。
もうなにがやってきても絶対無敵のバリア。
その純真無垢な決意の白を見て、
ちょっとくすんだ自分の純白も見つめなおしてしまう。
白い空を舞うブーケの下に笑顔。
全員が空を見上げていた。
純白の一日の記憶。
その記憶を愛おしいと思う自分にまだ残る純白を、
見つけたから磨きなおそうと思う。
儀式の機能に洗われた。
いや二人の美しさに洗われた。
私にも大切な白い一日の記憶になった。
おめでとう、と、ありがとう。
君らに出逢えた私の幸せに歓喜。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「乾杯の挨拶やってもらえませんか」

 光栄なことにそう言ってもらったのだけれど、私は、若造がそういうことやると逢ったこともない親戚のおじさんが現れて「なぜおれのことをないがしろにする」と暴れ出すから遠慮しておくよと答えたのですが。

 披露宴はじまって数分。
 現れたのが新郎とは子供のころに逢ったきりだという叔父。見るからに企業戦士。語りはじめるなり、今日は幸せな日ですが……

「否定から入ったよこのオヤジ、が、ってなんだ、が、って!!」

 皆が息をのむなか、戦士は案の定、日本経済の先行きが決して楽観視できるものではないこと、新郎新婦を含めたすべての若者の人生を甘く考えている姿勢はこの国を衰退させるということ……以下略。

 つまるところ私の、長く逢っていない親戚のなかにはそういう人もいるだろうから、という予測が見事的中していたわけですけれども。そのオッサン(失礼)の「今日は浮かれればいいが明日からは戦いだ」というその場の浮かれた空気を絶対零度まで下げたスピーチを聞きつつ、気の抜けてゆくビールを眺めながら私が頭のなかで思っていたのは、ゴメンよオレが引き受けていればこんなことにはならずにオレがあのオッサンに睨まれるだけですんだのに、という後悔と謝罪でした。
 悪かった。
 私が悪かった。
 頼まれた仕事は断っちゃいけないと痛感した。

 すばらしい式でした。
 あのオッサンのスピーチ以外は。
 重ね重ね悔やまれます。

 ところで、ブーケを受け取った、私がカッコイイなあの子、と、こっそり写真を撮りまくっていた彼女が、あとになってみんなで私の撮った写真を見ている場ではじめて「新郎の妹」だったことが判明し、複雑でした。いつも思うんだけれど、自分の個人的な知りあいに血のつながったきょうだいがいてそれは逢ったこともない他人なんだというのは、不思議な感じです。不思議でもなんでもなく当たり前のことなんだけれど。
 小さいころもよく思った。
 友達の家に遊びに行ったら、彼のお母さんがいて。
 彼女は私に「はじめましてたくみくん」と言うのだけれど、私はそんな大人の女の人と話したくもないし初めましてとか挨拶するつもりもなくて、友達に会いに来たのに、なぜ他人に馴れ馴れしくされているのだろうという違和感だけがあった、とか。

 私にはひとまわりほど年の違う弟がいるので、彼が高校生のころ、制服姿の彼女を連れているのが不思議だった。これも当たり前なんだけれど。「おにいさんはじめまして」とか言われて、学校指定のローファーとか玄関に並べている。彼女はその瞬間、はじめて私の人生に現れて、でも別に重要でもなんでもない赤の他人でもあって、なんというかその距離感の変な感じが身に馴染まない。

 私には二つほど年の離れた弟もいて、彼は結婚しているので、彼の妻は私の義妹で。そうなってしまうと彼女はすっかり私にとっても馴染んだ「妹」なのですが、ふと気づいて思い出してみるに、私は彼女といったいどこではじめて逢ったのか思い出せない。

 違和感は、越えてしまうと記憶する価値もないくらいどうでもいいことなんだろう。恋人との初めての出逢いとかいうならともかく、親戚が親戚になると確定した日とか、友達のお母さんが見たこともない人ではなくなった日、なんてものはまさしくどうだっていいことだし、友達とはじめて友達になった日、なんていうのも、かえって強烈におぼえていたりする関係はなんだか恋愛によっている気がして気持ち悪い。

 というわけで。
 いまも、私は自分の撮った写真を見て不思議な感じなのでした。
 彼女は新郎の妹。
 きっと二度と逢うことはない彼女なのに、彼の妹ということは、この写真のなかだけではなくて、いまもどこかで存在していて、彼女は彼女の人生を生きている……なんか不思議……これはきっと世界の裏側では飢えて死ぬ子供が大勢いると知っているのに、涙を流すこともなく罪悪感もおぼえずに私はたらふく焼き肉が食える、というのに似ている。

 私の世界は、私のまわりにしかない。
 でも友達のお母さんは、彼女の人生を持っている。
 彼の妹は、どこかで今夜はなにを食う。

 SF小説で仮想現実を描くとき、よく想像されることだけれど、たとえばプログラムされた世界に仮想のこれもプログラムされた私のデータを再生するとき、世界はどう描くべきかと。
 たとえば『GTA』
 たとえば『オブリビオン』

 広大な世界を自由に動き回れることを売りにする現代のゲームたちは「まず箱庭全体を作り、そこにキャラクターを放流する」手法をとっている。ただし、これはある一定の広さで限界が来るのは明白。最初に世界全体を描いて置いておくということは、それを置いておくだけのデータ容量を食うということだから。

 そこでSF作家は考える。
 どうすればデータ容量を抑えられるか。
 オンライン対戦とかするならともかく、先に挙げた現代の箱庭ゲームの代表格たちは、プレイ人数ひとりのロールプレイング。
 世界は結局、個人的なものでしょう。
 だったらこうしたらいい。

 プログラムの私に見える範囲だけ描く。
 私がドアを開けようとしたら、急いでドアの外の世界を描く。
 私がドアを閉じると、閉じた世界はバックアップして消す。
 振り返れば後頭部には目がないので見えない世界は描かないでもよい。
 急いで振り返ってみても無駄です。だって世界を描いているのと同じプログラムで私自身が描かれているのだから。
 ラグはない。

 これだって膨大なデータ量をあつかうことになるが、宇宙全体をあらかじめ描いて置いておくなんてことの不可能さに比べれば、まだしもこっちのほうが可能性があるんじゃないかと私も思う。

 その世界では。
 さっき逢った人は、いまはバックアップされている。
 そのキャラクターは、今度私に逢うまで、在るが、ない。
 一ヶ月後に出逢ったら、優秀なプログラムはその人に一ヶ月ぶんの記憶とシワを与えて私に違和感を感じさせないだろうが、それは私にとってのことである。
 その人……NPC(ノンプレイヤーキャラクター)にとって、人生はない。
 あえて言うなら、私と出逢っている、私の目の前にいるあいだだけが、その人の人生。

 現実も、個人的にはそうなので。
 いま目の前にいないのに、その人はどこかにちゃんといる、という想像が、サンタクロースの実在を論じるのと同じように、不思議。急いで振り返っても世界は追いついてくるから、この世界が個人的なものではないと証明するのは不可能なんだけれど(『トゥルーマン・ショー』のようにカメラでもあればあばくことも可能かもしれないが)。不可能だっていうことが不思議。振り返って世界が真っ白だったら。
 だったら。
 意外と。

「フリーズしちゃった?」

 とか平然と言いそうな気がする今日この頃です。
 『オブリビオン』にハマりすぎなのです(笑)。

 というわけで、これは私の想像の産物なのかもしれませんが、私の勤める店のレジでバイトしていた男の子と女の子が、店を辞めてから私の家に遊びに来るようになってこのあいだ結婚して、いまはめったに逢えない東京の街でふたり暮らしている。
 そのふたりがこのあいだ、大阪に戻ってきて箕面の滝に紅葉を見に行って、東京の新しい知りあいのために箕面みやげを買ったのだけれど、東京に戻る前に私に逢いによってくれて。
 その箕面みやげを、まるごと忘れていったのでした。

 というわけで、私は職場に彼らの式の写真と一緒に箕面みやげを持っていった。

「へーあのふたり結婚したんだー」

 といいつつ写真を見て。
 なにげなくみんなおやつを口にして。
 写真を見終わって。
 みんなが言った感想は案の定……

「で、なんでモミジの天ぷら?」

 ああそうだよねえ、私も高校生のころ免許取るのに箕面スパーガーデンで冬休みにバイトして、近所の土産物屋のおばちゃんに毎日差し入れしてもらって食べ飽きて以来食べていないくらいに身近なおやつだよねえ、モミジの天ぷら(ちなみに「モミジの天ぷら」とは、箕面の滝にいたる坂道をえっちらとのぼる観光客どもの目の前で、本物のモミジに衣をつけては油に放りこんで揚げてみせる、パフォーマンス重視の菓子である。味はかりんとう)。

momiji

 かくかくしかじかこういうわけで。
 あー忘れていったんだ。
 ヨシノギさんのおうちに。

「あのふたりらしいわぁ」

 というわけで写真よりもモミジの天ぷらが彼らを具現し、私はやっぱり、彼らは私の世界だけに在る幻想なのではないのだと、不思議な気持ちになったのでした。あんな愛らしいふたりが、私の目の前にはない東京という街で今日も彼らの人生を生きているだなんて。

 ファンタジーだ。

 ふたりが幸せなキャラクターとしてこの世界に在り続けますように。
 私が祈るかぎり私の世界ではそうに決まっている。
 ほかの世界でも、そうであってほしい。
 特に、彼らふたりの、その世界で。
 ふたりだけに見える確固たるファンタジーの世界がある限り、背を向ければ消えるようなうたかたの現実などに、なにも傷つけられたりはしないのである。

 おしあわせに。

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