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『老師ふー』のこと。



Fuu

愛猫ふー。
「ふー」がなんの略なのか私は知らない。
妻の実家で飼っている猫なのだ。
妻が幼いころ拾ってきた。
もうすぐ二十年になるという。
「そろそろしっぽが割れ出すかもね」
と化け物あつかいされるふーだが、
抱くと怖い。
骨なのである。
それも骨の細さが手に伝わる状態。
抱きしめればコナゴナになる。
もうトイレにも行けない。
しつけられた高貴な魂は尿意をもよおすと
トイレに彼女を向かわせるのだが、
なにしろ立ち上がることにさえ時間がかかる。
まにあわない。
いまではふーはオムツをはいている。
猫年齢換算法で20年は、
人間でいうと105歳。
けれど彼女は年に何度も逢わない私を認識する。
カメラを持っている私を見つめる。
その白濁した瞳で見えているのか。
わからないがまっすぐに見つめられる。
彼女の世界で私はなんなのだろう。
彼女の家でくつろぐ人たちのなかで、
彼女にエサをやったことがないのは私だけだ。
敵ではないが飼い主でもない。
服従も見下しもしない。
私と彼女は対等。
だから見つめられるのだろう。
問いかけられているのかもしれない。
あたしにとってのあなたはなに?
あなたにとってのあたしはなに?
……さて、なんだろうね。
どうでもいいと思っているのかもしれない。
しかし高貴なレディーふー。
あなた猫生にお邪魔できたことを、
私は誇りに思います。
どう考えてもあなたにとっては不審人物の、
私を無視もしないし敵視もしない。
あなたのたたずまいから私は学んだ。
ただ生きるクールさ。
悩んじゃダメ敵を作らないこと。
生きながら化けるまでの生き様。
さらなる長寿を願います。
老師ふー。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 って言ってたら。
 晩ご飯食べてた午後23時。
 電話があった。

 逝ったって。
 もう老師ふーには逢えないんだって。
 暑い夏を越えたと思ったらそこが限界だったというのは、ヒトの逝き様でもよく言われることだ。涼しくなってきて、気が抜けたんだろうか。そうしたら思いのほか、もうその身に明日を眺めに行くだけの力は残っていなかったのだろうか。
 夏のあいだ、がんばっていたんだな。

 私にとっては、幼いころに事故で亡くしたシャム猫のガウディ以来の、人生のなかでの猫の死だった。ガウディは国道で撥ねられて、それでも必死で我が家に帰ってこようと、細いどぶ道に点々と紅いシルシを描きながらこときれた。頭の半分つぶれたガウディが、ついに力尽きて己の血に沈んで逝った姿は、幼い私にとって衝撃だったし、その余韻はいまでも続いている。

 ふーは、遠く百キロほど離れた土地で逝った。
 逝く数週間前に、バイクで逢いに行ったのだけれど。
 そのときには、よろけてはいたけれどまだまだ元気だった。
 
 きっと、この先も想い出す私のふーは、私の目をまっすぐに見るふーだ。
 私が出逢ったときにはもう化け物呼ばわりされる歳だった。
 それでも自分のまわりの世界をたえず摂取して噛み砕き納得しようとしていた。
 純血のガウディのクールさとは違う、雑種だからこそ、拾われてきた猫だからこその、怯えと紙一重の世界観察……そんな歳になるまで暮らしているのだから、もうその家できょろきょろとあたりを見まわす必要などないだろうに、逝くまで自分の立ち位置を疑っていた。
 でもあくまで冷静に。
 問いかける。

「あたしここにいていいのよね?」

 ほとんど見知らぬ私にさえ。
 問いかける。
 おじゃましてんのはこっちだよと苦笑いしてしまう。
 あのふーの弱くて強いまなざしを、私は忘れることはないだろう。
 味わい深いイキモノだった。
 ちょっと考えるとこのあるタマシイでした。
 老師ふー、永眠。

「あれーあたしどうなっちゃったのかしらん」

 あたりを見まわす彼女の姿を、どうしても想像してしまいます。
 一緒にいて、触れあった時間にしてみればきっと数日のことなのだけれど、私のなかにも、ふーが残った。
 それじゃ、まあ、一緒に生きましょうか。
 これもなにかの縁でしょう。
 私が迷ったときには、ちょいと頭の片隅に現れて見つめてくれると助かります。
 
「ほらちゃんと見てみなさいよ、なんにも怖くなんてない」

 ヒトを凝視するのに、ヒトを怖がらない。
 人見知りしないおおらかさを、継承しよう。
 ちゃんと見れば世界は怖くなんてないんですよね。
 老師ふー。
 おしえをどうもありがとう、です。 
 おやすみなさい。

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