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『深夜の痴漢被害を通報した』の話。

 二十三時。
 妻が背後から男に抱きつかれた。
 うちのすぐ前で。

 前に回した手でカラダをまさぐられながら、彼女は悲鳴をあげて逃げようとし、地面でもつれる格好になってアスファルトで肘をすりむいた。抵抗激しく悲鳴も途切れないことから男はあきらめたのだろう。

 逃げた。

 私は風呂に入っていた。
 ゆえに玄関に鍵をかけていた。
 妻が泣きながら飛び込んできても気づかなかった。
 風呂をあがってフローリングにへたり込んでいる彼女を見て言ったものだ。

「なにしてんだよ」

 我が家では仕事柄、夕食がこの時間だ。
 平日だと一時間ほど帰りが早いので私が用意する。
 餃子だった。
 半分は休みの日に冷凍したもので、半分はレトルト。
 ホットプレートに並べ、ふたをして私は風呂に入ったので、湯気がしゅうしゅうと立ちのぼっている頃合いだった──いつもなら、帰ってきた彼女がいそいそとお茶だのビールだのと用意をするところである。私は餃子の焼き加減を気にしながら部屋を移動し、あまつさえ風呂あがりの習慣で腕立て伏せをはじめ、その日は少し肩幅よりも広く手をついて肩から背中にかけてを緊張させようとゆっくりと二十五回ほど上下したところで異常に気づいた──
 泣いてる?

 そこまで三分。
 そして私が彼女から「すぐそこで痴漢にあって肘をすりむいたけど逃げてきた」と聞き出すのに一分。

「どこでだって?」
「だからそこでだってば」

 彼女が言って玄関に向かおうとするのでそれを制止してドアをあけるなと言いながら私がとりあえずの衣服を身につけるのが一分。
 ドアを開け。

「どこで?」
「ここで」
「顔は?」
「見てない。手袋してた。白いシャツ」

 五年前に彼女は駅から尾けられて風呂場を覗かれかけたことがある。
 そのときはガラスの外の気配に気づいて私を呼んだため、痴漢の顔を見たのは私だけだった。
 そのときも逃げられた。
 むろん110番通報もしたのだが。
 その記憶があったので、風呂場のある裏手に回った。
 思えばもっと即座に110番すればよかった。

 三分後──つまるところ十分ほど事件発生から経ってから。
 通報。

 電話のさなかで、すでにパトカーがこちらに向かっていると伝えられる。
 あらましを語っているあいだに、サイレンが聞こえた。
 では、現場に着いた者にもう一度説明をお願いしますと言われ電話を切る。
 玄関を出ると、サイレンを打ち鳴らしたパトカー二台に白バイ数台がどかどかと目の前の道路に溜まってゆく。
 二十三時だ。
 我が家では夫婦とも帰宅直後の時間だが、ご近所様にとっては真夜中。
 迷惑をおかけして申し訳ないと思いながら、そんな場面であるのにもかかわらず、日頃からバイク乗りの黒ずくめファッションの銀色チタンの時計とサングラスを愛用するどう見ても武闘派の旦那だと思われているに決まっているところをさらに誤解をひろげては生きにくいと、自らパトカーの前で妻と並んで五人の警官にとりかこまれて質問を受ける。ご近所様が出てくるは、そこらじゅうの家の窓が開くは、完全に注目の的である。当事者である妻が女性警官に調書を取られるだんになり、近所のほとんど会釈しかしたことのないタバコ片手で寝間着姿の長老たちのそばへ私はおもむき、大まかな事情を話して迷惑かけることを謝った。これで少なくとも「あの旦那が」やっぱりドメスティックバイオレンスだったのよというわかりやすい噂になることはないだろう。長老はへらへらと笑って「あっちに逃げたんか」とむしろ楽しげだった。私の「妻が男に後ろから抱きつかれて」という説明がたいしたことないのに通報しやがってという笑いになったのだろうが、それはむろん妻が「レイプされかかった」というような噂の張本人にならないための私の脚色である。家に私が留守で、逃げ込むこともできなかったら、いったい彼女はどうなっていたのかわかったものではない。

 ともあれそこから近所の捜索がはじまった。
 その段階で十五分ほど経っているのだが、妻の言う「男の逃げていった」という方向が奥まった方向への道であるため、まだ近所にいる可能性が高いと──あれよあれよとそこら中でマグライトのまっすぐな光が薄曇りの空にまでのびている──私服の見るからにいかつい数人も駆けつけ、また一から私に話しをさせる。勤務先から「結婚はいつ?」というような、なぜそれが必要なのかということまで訊かれるが、どんな事件もどんな事件に発展するかわからないのでそういうことも必要なのだろう。私が会社の名を出すと「勤務はどっちの?」と即座に返ってきたところをみるに、ここから通える位置に私のつとめる店のチェーンが二軒あることを彼らは知っていたようだ。そういえばここでも書いたことがあるが(風呂を覗かれた話同様、ブログ引っ越しの前のことなので記事は消えているけれど)、私も店で手錠をかけられた女性を連れた警官と話したことがある。ウチの店で買った包丁で殺ってしまったということだった。そういうことで、そこかしこの凶器が買えそうな店のことは職質する警官たるもの頭に叩き込んでおく必要があるのかもしれない。ガムテープもチェーンソーも売っているんだし。
MAGLIGHT
 そんなこんなでほとんど合コンで初対面の相手に自己紹介しているみたいな話しが続き(ケータイ番号まで聞かれた)、いかついが実はやさしい(えてしてそういうものだ)、あきらかに人の筋肉を値踏みする武闘派警官が、私に「酒を飲んでいるか」と訊いた。いや、帰ったばかりなのでと答えると「免許、持ってはるんよな? 服、持ってきてもらうかもしれへんから」と言う。一瞬、意味がわからなかったのだが「彼女が、襲われたときに着ていた服を着替えたいかもしれないから」、車を運転できるように飲むなと言っているのだった。ということは、妻は連れて行かれ、私はここで待つという展開が確定なのだ。この時点で、長丁場になるのだと確信した。

 直後。
「奥さん、おかりしていいですか?」
 いいですかってなんなんだと思いながらも頷くと。
「ひとり、職質で引っかかったんで、奥さんに見てもらいます。あ、もちろん、向こうからは見えないようにカーテンかけたパトカーの後部座席に乗ってもらってですね、私どもがきちんとお守りしてです」
 ──ああ、つかまったんだ。
「ただ、奥さんの証言ですと、白いシャツで男は手ぶらだったということなんですが、いま引っかかったの白いシャツの上にチェックのシャツを羽織ってカバン持っているんですね。いやしかし、時間的にちょっとあれですし……上着脱いで、カバンと一緒にどこかに置いておいて、奥さんを尾けたって可能性ありますからね」
 でも、彼女は後ろから抱きつかれて暴れて手袋はめていた白シャツの男としか認識できていないのに、顔見てわかるものだろうか。
「いや、それでもとにかく一度」

 どうやら、職質を受けている男に「あのパトカーに被害者が乗っている」という揺さぶりの視覚効果を与えるために彼女は連れて行かれるような気がしてならなかったのだが、揺さぶってゲロするものなら吐かせて、がっつり手錠かけてくれと思いつつ、送り出す。

 残された警官たちも、そのあたりの地面をマグライトで照らしてみたりしていたが、どうやらなにも落ちていないとあきらめるや、捜索へと向かっていった。

 残される私。

 向かいの家の開いた窓から視線を感じる。
 こちらの会話は聞こえていないだろうが。
 妻がパトカーに乗せられて連れていかれ、最終的に旦那だけがぽつんと残されているというのはどういう状況なのだろう──でもなんだあいつがついになにかやったんじゃないのか──そういう失望を与えたのならそれも謝ろう。

「電話おまちください」

 言われたのが最後の言葉で。
 そそくさと家に戻るが、生焼けで電気を切ったホットプレートのうえの餃子をどうしたものかと悩み、しかしすぐ戻ってきたら餃子焼きなおして食べている私はどうも間抜けだし──そうだな、記憶の薄れないうちに原稿にしておくか──と、これを書き出したのですが。

 現在、午前一時。
 音沙汰なし。
 そして空腹。
 いつまで待てばいいのだろう、これを理由にして明日仕事やすんでいいだろうか……ていうか、この長い時間は完全に、妻はどこかでお茶でも振る舞われているのではあるまいか。私にカツ丼はないのか。
 餃子食ってもいいかな……迷いどころである。

 犯人捕まったら新聞載るかな。
 載るんなら取材受けて謝礼とかでるかな。

 ……はっきりと妻が痴漢に遭ったというのに、どうにも腹立たしいという感じではない。
 なんというのだろうか。
 彼女はいかにも見た目がおとなしげなのだが、わめくし暴れる。
 むざむざと襲われっぱなしになるような女性ではない。
 むろん、これが人っ子ひとりいない路地裏の出来事であったなら別だが。
 叫べば近所の家の窓が開く、そんな場所でこういう犯行は、浅はかすぎる。
 きっとおとなしそうな女性は襲ってしまえば声も出なくなるという、痴漢ものエロゲーにでも洗脳されてしまったバカだ。
 あの警官たちなら、捕まえてくれるだろう。
 こんな薄情にもその場で事件を原稿に落としている……実はひそかに家の前に警官がいっぱいのところを写真に収めることまでした(残念ながら諸事情によりここで公開はできないが)……私よりも、ずっと彼女の気持ちを汲んだ応対を受け、いまごろ彼女は婦人警官たちと仲良くさえなっているかもしれない。
 110番してよかった。
 頼れる日本警察に拍手。

 しかし腹減ったなあ……
 とりあえずなにか食べよう。
 もう限界だ。
 ……ということで、つづく。

 と思ったら電話のかかってきた一時十五分。
 見慣れない電話番号。
 でも近所の市外局番。
 警察署だろう。
 
「ごめんなさい」

 妻だった。
 謝られても困る。

「いま警察署で、これから調書とるのであと一時間くらいかかるみたいだから、ご飯先食べてください」

 いやいやいや。
 そんなことよりも進展は?
 ていうか調書を取るということは。
 職質で引っかかった男というのはシロだったのか。
 ああ期待していたのに日本警察。

「あと、送ってもらって帰ったときに、上着わたすことになってます」

 食べてもいいしビールもいいが。
 寝るなということだ。
 まあ、寝られるわけもないが。
 妻は電話を切った。
 落ち着いている。
 上着か。
 で、気づく……あのいかつい警官は、なにもやさしさで彼女が着替えたいだろうから着替えを、と言ったのではなかったのだ……抱きついた犯人の痕跡が、その上着に残っているということ。
 繊維とか体液とか。
 犯人の指紋とか、そういうこと。
 あ……手袋って。
 いまのいままで気がつかなかった。
 指紋がつかないように手袋をはめて痴漢?
 イヤだな……プロっぽいじゃないか。
 痴漢のプロってのもおかしいが。

 なんにせよ、彼女が駆け込んだことで、この家に彼女の住んでいることは犯人に認識されているわけだし。
 おちおち、近所も歩けない。
 これはがっつり巡回して職質してきっちり捕まえてもらわないと。

 まったく……
 無力感だけがつのる。
 世界中を疑って生きるわけにもいかないが。
 本当に背後に気をつけて生きないといけない国になってんだな。
 哀しい。

 餃子食べてくる。
 それでも生きなくちゃなんないから。
 妻はなにか食べさせてもらってんだろうか……

 現在、二十五時三十分。
 ここまで二時間半のできごとだった。

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