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『ライフゲーム』のこと。

 さあ、これでわかっただろう、プリンセス・ネル、<大陸>は本当にチューリング・マシンなどではないと。実は人間なのだ──正確には、ひとにぎりの人間たちだがね。もうすべてあなたのものだ。


 ニール・スティーヴンスン 『ダイヤモンド・エイジ』

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 このあいだのRAIDの話のなかで、バカげた偽確率計算式についてぐだぐだ書きながら、思い出したのが「ライフゲーム」だった。それは、私がパソコンを初めて触って数年後、ベーシック言語や、簡単なC言語の初歩をオモチャにしていた時期に、テキストに使っていたものだ。

 ルール。

● 死んでいるセルの周囲に3つの生きているセルがあれば次の世代では生きる(誕生)。
● 生きているセルの周囲に2もしくは3つの生きているセルがあれば次の世代でも生き残る(維持)。
● 上記の場合以外のセルは次の世代で消滅(死滅)。

 セルというのは、マス目に描かれたり描かれなかったりする点のこと。コンピューターの力を使うとさくさくと計算がすすんで数千世代があっという間に過ぎるので楽しいが、方眼紙や、碁盤に碁石を並べても「ライフゲーム」はできる。ルールは一度読めばおぼえられるほど単純でしょう?

 小学生でも書けるプログラムで動く「ライフゲーム」。
 だがこれは万能チューリングマシンであることが証明されている。チューリングマシンとは、永遠の鎖にシルシをつけたり消したりそのシルシの配列を読み取ったりする機械のこと。ぐるぐる回るテープに、情報を書き込んで読み取っては消すという繰り返し……究極に単純化された、仮想の計算機の姿。いうまでもなくチューリング先生が考えたのでその名がついているのです。
 「ライフゲーム」は、自らで自らを読み取り、書き込み、消し去る仮想機械。
 それを人は万能と呼ぶ。
 おもしろい話だ。
 万能とは、究極に単純なことの呼称なのである。

 プリンセス・ネルは世界のありように疑いを抱く。
 世界はチューリングマシンなのではないか?
 「ライフゲーム」も、同じ疑いを抱く。

 いまここに生きる私が、マス目に描かれたひとつの点。
 セルである。
 このセルはいま、表示された状態にある。
 生きているセルということだ。
 逆説的には、前の世代で、表示されていないセルだった私のまわりに、三人の表示された生きたセルが存在したために、この世代で私は「誕生」したことになる。いや、この場合、「三人」という限定的な表記は使うべきではないのだろう。「ライフゲーム」のセルは、人ではない。それは環境だ。世界なのだ。空白の土地のまわりに三つの村があれば、次の世代ではその空き地は村になる。城は野になり、戦場は拡大する。文明が未開の土地を駆逐するが、いくつか先の世代ではまた未開の土地と呼ばれる状態に戻る。また、四方を囲まれると息苦しくて死に絶える、というのも忘れてはならない重要な点だ。

 「ライフゲーム」は世界の単純化。

 いまここに生きる私のまわりに二つの表示されたセルがなければ、次の世代で私は消滅する。
 否。
 私が消滅するのではない。
 私の系譜が消滅する?
 だが「ライフゲーム」のルールのひとつとして死滅も掲げられている以上、続いていく「ライフゲーム」そのものが、死滅し淘汰された私のうえに成り立っているとも言える。

 チューリングマシンは、単純である。
 しかも万能チューリング機械ともなれば、例外などない。
 例外が生まれる複雑さがないから。
 一人なのに次の世代も生きたりはしない。
 永遠に争いが続いたりもしない。
 そこには試験管も武器もないから。

 「ライフゲーム」は、0人ゲームである。
 完全なる万能自動機械。
 スイッチを入れると、切るまで動き続ける。
 ゲームというが、私は眺めるしかできない。
 意地の悪い人は、チューリングマシンのそこが考えとしてゆるいと言う。いかに単純化した仮想の完璧計算機であっても、結局、その計算機を動かすか止めるかを、だれかが決めるのだとしたら。そのだれかが、計算のすべてを支配していることになるじゃないか。「ライフゲーム」は世界のシミュミレーション・ゲームだが、その実際である世界のほうにも、シミュレーションと同じように、そのゲームの全体を眺めていて、そして「飽きたからスイッチを切ろう」と考えるだれかがいるとすれば。

 そうだ。
 世界はあなたのものだ。

 私は私のスイッチを入れっぱなしにすることも切ることもできる。
 ならば、プリンセス・ネルではない私にだってわかる。
 世界は本当にチューリングマシンなどではないと。
 実は人間なのだ──

 正確には、ひとにぎりの人間たち?
 いや、たった一人の、私。
 もうすべて私のものだ。

 私が生きる──表示されているセル。
 それを眺める私は?
 だとしたら、私も、眺められる表示されたセルなのか。
 だとしたら、すべては私のものではなくなってしまう。
 どうなっているのだ。
 なんだこれは……

 というようなことを、点を消したり表したりする単純なプログラムで書きながら、くらくらするなあ、と思った。小学生の私には「ライフゲーム」は難しすぎたのだった。単純な計算機だが、単純であるがゆえに万能なのである。

 「ライフゲーム」を愛する人は多い。
 その理由は、よくわかる。
 単純化とは、あらゆる問題に対して有効な万能薬。
 大人ならわかるでしょう?

 永遠に表示されることになったセルを、安泰ととるか、生きたまま死んだ、ととるかでその人の人生観、世界観がわかります。
 
 
 「ライフゲーム」をgoogleで検索。

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