『伝言』で、さらさら大根さん(
『大根心の旅』)からレシピをいただいた。
せっかくなのでみんなが検索できるように、こっちにも転載しておきます。
南米の餃子的スナック「エンパナーダ」。
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(材料)
挽肉500g ゆで卵2個 タマネギ大一個 赤ピーマン一個 ニンニク2かけ
干しぶどう・オリーブ塩漬け・パセリ適宜
パプリカ・ナツメグ・塩こしょう・醤油・砂糖 パイ生地(冷凍でもOK)
(作り方)
〔具〕
卵・タマネギ・ピーマン・パセリ・ニンニクはみじん切りにする。
フライパンにバターを熱し、ニンニクとパセリ、タマネギを入れ炒める。
その時にほんの少し砂糖を加える。
赤ピーマン、ニンジン、干しぶどう、オリーブの実を更に加える
挽肉を加え、ほんの少しオリーブオイルを足して炒める
火が通ったら塩コショウ、醤油、パプリカ、ナツメグを入れ、好みでトウガラシを刻んだものを少し加え、味をみる。
更に火から外したところでゆで卵を入れ、混ぜ合わせる。
〔包む&焼く〕
パイ生地を丸く抜き、具を餃子のように包む。
天板に並べオーブンで焼く。 もしくは油で揚げる。
具には火が通っているので、生地が焼ければOK。
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で、これを見て、まず一言。
「挽肉ってなんの肉?」
よく見ると醤油も入っているし、ご家族の想い出の料理ということで、きっとこれは日本流にアレンジされたレシピだろうというわけで自分でも調べてみることにする。調べてみるとエンパナーダは、地方によってはサルテーニャとも呼ぶらしい。挽肉は今でこそ牛肉を使うケースが多いが、以前書いた、
『ジャンバラヤで喰うケイジャンの魂』の話。 と同じような事情により、本来は鶏をつぶしたミンチを使うようだ。飼っている鶏のオスはつぶし、メスには卵を産ませ、荒れた土地でも育つオリーブであり、ジャガイモやタマネギが加えられる。そういう光景を思い浮かべると、どうやらパイ生地というのも現代風レシピだろう。パイ生地にはバターが欠かせない。だが、家畜がニワトリしかいない灼夏の南米で、牛や羊の乳や、ましてバターが日常的に手にはいるとはとうてい思えない。となれば選択肢として、包む生地はこれも世界中の荒れた土地で人類を救ってきた、小麦粉を水で練るタイプのものに違いない。栄養補給のための卵も生地に練り込んだだろう。そしておきまりの、たっぷりの唐辛子。
というふうに、いただいたレシピを勝手にいじくり回していたら、気がついた。
ゆで卵と挽肉、荒れた土地でも採れる根野菜を、先に炒めてから小麦粉の生地で包み、揚げる、もしくは焼く。
これはどこかで見たレシピだ。
マイレシピをダブルクリックして、探してみた。
あ……これ。
なるほど、チリソースが欠かせないというところも似ている。
吉秒流、ピロシキの作り方。
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●材料
<生地>
強力粉 500グラム
鶏卵 1個
牛乳 200cc
ヨーグルト 100cc
砂糖 小さじ1
塩 小さじ1
ドライイースト 大さじ1
バター 大さじ1
<具材>
牛挽肉 200グラム
タマネギ 1/2個
キャベツ 1/6個
鶏卵 1個
バター 大さじ1
塩 小さじ1
胡椒 少々
●作り方
生地の材料をまぜます。
(バターは湯煎orレンジで溶かす)
こねます。
寝かせます。
ふくらみます。
具材の材料を刻みます。
(卵は固茹でにしてから)
炒めます。
冷まします。
(冷蔵庫で冷やすと固まって包みやすいです)
ピロシキっぽく包みます。
揚げます。
もしくは150℃に予熱したオーブンで20分焼きます。
※具材にニンニクや唐辛子を加えると大人専用。
タバスコとウォッカと大地への祈りはテーブルの必需品。
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「ピロシキ」とは「小さなパイ」という意味だそうで。
北の凍土と南の灼夏で、古代に情報交換が行われて似た料理ができあがったわけではむろんないだろうから、それは自然発生的に生まれた、限界のなかでの唯一の選択肢だったのではなかろうか。ロシア料理といえばのボルシチにも牛肉が入るので、ピロシキの場合は、元来からバターや牛挽肉が使われていたと思われる(レバーや脳みそもピロシキ具材としてはポピュラーなようです)。しかし、なんにせよ、自給自足の生活のなかで、限られた食材でいかに変化ある食卓を構成するかという遊び心の中から生まれたモノであることは間違いない。炒めた具を、またわざわざパンに包むなんて、考えてみればただ単に手順が多くなっているだけ。パンに肉野菜炒めを添えるほうがずっと簡単。
それでも、ヒトはこんなふうに遊んでしまう。
寒くて凍えて指が落ちそうななかで──
暑くて髪も焼け落ちそうななかで──
思えば同じようなものを喰い飲んで、泣いて笑ってケンカして抱き合って。
すばらしいなあ、とも見えるし。
そう考えると薄っぺらいものだなあ、とも見える。
で、きっとそういうことを思ったときに、ヒトは新しいレシピを考えつく。
しょせん、生きて死ぬだけ。
遊べ、と叫ぶ、それが。
エンパナーダとピロシキの教え。
でもまあ、今回、写真がないのは、もう久しく私はピロシキを作っていないということの証明だったり。だって面倒くさいんだもん。買ってきたパイ生地に包むというのは確かにいい考えです。でもだったらピロシキをパン屋で買ってくるってのはいい考えじゃないかな。カレーパンというのは、ピロシキをヒントに考案されたものだそうだ。
カレーパンにウォッカ。
ああ、それで充分に、幸せになれそうな気がする。
2000円もあればいい。
おなかいっぱいの揚げパンと、ぐでんぐでんに酔えるだけのウォッカが買える。
追い詰められていないコンビニの国日本で、料理をすることに意味などあるのだろうか。
たぶん、材料を買ってきて作ったほうが高くつくし。
ここには凍える寒さも焼ける暑さもない。
それなのに遊びと乾杯だけあるなんてね。
それとも。
ここにだって遊びふざけて忘れる必要のある過酷さも、ちゃんとあるんだっていうことの証明なんだろうか。
カレーパンは買いに行かない。
私にはわかっているんだ。
試す気はない。
なにかを生むことでしか救われない。
私は料理する。
わざわざと料理するのである。
生んで食べて消える、即席の救済。
なにかを包んでいるというのは、偶然ではなく、求められた慰めの形状なのかもしれないと、エンパナーダとピロシキの似たカタチに思う──過酷な気候のなかで、鶏卵が命をつなぐ栄養源だった当時であれば、作る料理の遊び心が卵に似るのも、必然のこと。
命のもとを刻んで包む。
割って、たちあらわれる匂いに、救われる。
一種の装置──料理の奥深いところだ。