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SilkyFowlegg1

「卵に絵描いたりせえへんかったん」

 と、言われている意味も息子にはわからなかったようで。

 そういえば、新聞にも4月21日の日曜日に繁華街で若者たちがおいたをしたというような記事も読まず。

 私は、通っていた幼稚園がカトリック系だったから、イースターはヘタをするとクリスマスやハロウィン以上のお祭りだった。幼稚園側視点で見れば、クリスマスはプレゼント交換だのという思考が幼児にだってすでにあるし、ハロウィンは死生観の問題とも絡んでくるので、行事として無邪気にたのしませにくいところもあるのかもしれない。イエスさまが生まれたという芝居がクリスマスのメイン行事だったが、稽古して並んで星に向かって歩くような行為が、幼稚園児にとってたのしいわけはない。

 それに比べて、イースターときたら。

 幼稚園に併設されている教会のあちらこちらに色とりどりの卵が隠されていて、それをさがすというのがメイン行事だった。もちろん色とりどりの卵は、事前に私も含めた園児たち自身が絵を描いたもの。ただし、中身はお菓子だ。一部を割って中身を抜いた卵の殻にチョコレートなどを忍ばせ、白い紙で封をする。それを園児に渡して絵を描かせるのである。

 いかにも作業の途中で割れそうなものだけれど、記憶にあるかぎり、そんなことはなかった。異様に軽く、振るとなかに入れたお菓子を包むセロハンがカサカサ鳴るような卵は、むしろさわるのも怖くて、くしゃくしゃにした新聞紙の上にそっと置いたそれに、筆を近づけていったものだ。

 もちろん、クリスマスにもイースターにも、聖書を開いた。
 だから私は幼児のときから知っているのである。

 ヒトは死んでもよみがえる。 

 クリスマスに生まれたイエスさまというひとが、十字架にはりつけられて死んだ。教会には、まさにはりつけにされたイエスさまの像などもあったから、具体的にどういうことかよくわかっていた。カラダに杭を打たれて、動けないし、ごはんももらえなければ、そんなふうにガリガリになるし、その先に待つ死というものだって、幼児なりにではあるが理解していた。

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 そのイエスさまが、三日後に生き返ったからみんなで祝うのがイースターだ。

 いま思えばおかしな教育だが、幼稚園では、イエスさまがスーパーヒーロー的な存在ではなく、ただのヒトなのだということをくり返し教えられた。論法としては、こうだ。イエスさまはヒト。でもめっちゃ神さまのことを信じているから、神さまがイエスさまに奇跡を起こしてくれるってわけ。

 そりゃそうよ、と幼児でも思う。だって、ヒトで、死んでいる。ヒトが死んでいるヒトを生き返らせるという奇跡はまだ道理が通るような気もするけれど、死んだヒトが「おれよ生き返れ!」と自分自身へと奇跡の力を発揮して復活するというのは、あきらかにヘン。

 だから、神さまがイエスさまを生き返らせたというのは、納得。

 そのうえで、復活祭イースター。イエスさまが、ロンギヌスさんの槍で突っつかれてマジで死んでいると確認されるまで、どんなにつらかったかを追体験する四旬節というのがあって、そのあいだはお肉とか卵とか食べないのね。で、復活祭には、みんなで我慢していたお肉や卵を食べるの。

 パーティーだ!

 はりつけられてガリガリになっちゃったイエスさまにちょっとでも近づこうと断食的なことをして、生き返ったから祝う、という図式は非常におさなごにも理解しやすい。

 ところで。

 あとになって、カトリック的には肉食を禁じるというような縛りはいまやほとんどなく、むしろ敬虔な信徒でも快楽を禁じるという意味で、アルコールやセックスやプロレス観戦などを我慢したり、敬虔でもないと、むしろ四旬節中に節制もしないくせにその直前に謝肉祭カーニバルは仮装して大騒ぎを毎年やるなんてひとも多い、ということを知って、残念に感じた。私は近所で空きがあったからというだけでそういう幼稚園に育っただけでクリスチャンではまったくない。しかしだからこそ、信者だというひとは、ちゃんとやっていて欲しかった。

 最近は、イースターのあとでウサギが捨てられるという社会問題が起きているのだそうだ。なんだそりゃと思うが、カトリック教圏では、イースターといえば卵以上にウサギが象徴的なのだという。日本でも、まったく市民権を得ないイースターにもかかわらず東京の夢のネズミはウサギ帽をかぶって卵を売っていたりはする。

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 ウサギは、たぶんオスも可愛らしいからか、ヒヨコと同じくペニスが小さすぎて見わけられないからか、むかしは雌雄同体だと考えられていた。オスとメスではなく、ウサギとウサギがまぐわって子を産む。そして失礼な話に聞こえるけれど、それを(まぐわっているのに)処女懐妊と見立て、マリアさまと重ねあわせた(たぶん、ここでも単にウサギが「可愛らしいから」という部分が大きく働いている気はする。カタツムリは男性器も女性器も持っているほんとうに奇跡の生き物だとむかしから知られているが、マリアさまを擬カタツムリ化しようとする萌え絵師がとんと現れなかったことは当然であろう)。

 で、復活祭イースターには、ウサギがやってきて、子供たちが一年間、良い子だったか判定する。これも中途半端に四旬節文化の影響なのだろう。大人たちだって厳格に肉断ちもしないくせに、子供には、四旬節どころか一年ものあいだ、良い子でいないと復活祭にはマリアさまがウサギの姿でやってきて「あなたダメ」と言われてイースターパーティーに参加できなくなっちまうぞ。と。ナマハゲである。

 イースターに生きたウサギを連れてきて、子供たちに抱っこさせるという習わしは、実際に広い範囲でおこなわれていた。というかいまもやる。ウサギは生来おとなしい動物だ。そうそう逃げるものではない。イースターまで、悪い子でいたならマリアウサピョンにバレるぞ、パパにもママにもバレるぞと脅され続けて、抱いたウサギがしゃべり出さずにやっとほっとする。パパもママも、良い子だったんだねと笑う。麗しい想い出。

 それを現代で、我が子にやらせたいとか、復活祭イースターだから自分もウサピョンを抱きたいとか。そこは現代。困ったことに、ペットショップでウサギが売れるのだそうだ。

 イエスさま歴2019年の今年。
 カリフォルニア州は、イースター休暇後に大量のウサギが捨てられたり安楽死させられたりするのを防止するための法律を全米の州で初めて可決した。

 深刻な話だ。
 そして、とことんに中途半端な話である。

 イースターの文化を守って、思い入れがあるからこそウサギを衝動的に買ってしまうが、育てられずに捨てる。イースターで買ったら、イースターが終わったらいらなくなるのはわかっていて、でも食べるためのウサギ肉ではなくてペットショップへ行ってしまうというのが、法律で禁止しなければならないほどに多発するというそれはなんだか……お盆に、ナスビで馬を作るのを、本当に馬を買ってきてしまうような話だと感じるが、現にそういうことが起きてしまうのは、やっぱりウサギ可愛らしさのせいなのかもしれない。

 だとすれば、まったく宗教色のない近所の保育園に通う息子が、卵に色を塗らないのはいらぬことをおぼえずにいるという捉えかたもできる。ことあるごとに工作だのお絵かきだのしているのに、イースターにたのしくお絵かき卵さがしをしないなんてもったいない、と感じてしまう私が、かなりペットショップでウサギ買い慕情な層に近いところにいるということでもある。

 自制して、保育園で習わなくても家で教えてやろう。卵を持って来なさい。ヒトは死んでも三日で生き返る場合もあるのだ。などと語るのは、やめにした。

 冒頭の写真は烏骨鶏の卵。

 割って食べた。
 絵は描かなかった。

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 目玉焼きにして食べたが、高価いワリに、あんまり劇的にふつうの卵と違っているようにも感じられず。烏骨鶏というのは、ヒトと同じ五本指を持つ地上で唯一の鳥だ(ニワトリ含め、ふつうの鳥は四本指)。そして内臓まで黒い。見た目の奇跡感から、食べれば奇跡も起きるというようなことで重宝され、結果としていまも高級品である。

 美味いから高いわけではない。
 ヒトの想いというのは重要だが、なんでもかんでも知ればいいというものでもないなあ、ということを、この復活祭イースターには思いましたという話でした。分別がつくようになってから知るなら知ればいいさといちおう結論づけたことになるが、分別がつくようになってから聞いたら「復活祭? ヒトが生き返るわけないし」で終わるのはあきらかで、我が子から信仰の機会を奪ったという見かたもできなくはない。

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”時には仲間がバカなことを
するかもしれないが──”

”許して 前に進め”と

ここにいるなら
その言葉を信じろ

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『パシフィック・リム:アップライジング』

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 と、叫びながら作られた続編『パシフィック・リム: アップライジング』は、みずからが前作『パシフィック・リム』大好きっ子たちから「なにバカなことしてんだ」と罵られたりもしたのですが。

 具体的にどういうところが前作のファンの唇を尖らせたかといえば「明るい」ところだったのではないか。内容が、ではない。画面が。

 『パシフィック・リム』の監督はギレルモ・デル・トロ。まったく個人的な話だが、私にとっては、いまの妻と、妻にならなかった女性と、なぜだかワンルームマンションの一室で三人で観た『ミミック』の監督として生涯忘れえぬひと。

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 いまでもときおり、夢に見る。

 暗い画面。雨と霧。ヒトのように見えるけれど、ヒトではないものに延々と追いかけられる──恐怖というよりは、正解などない半分闇な世界をそれでも走り続け生き延びるのが人生だ、というような。あきらかに切羽詰まってはいるのだけれども、まだ走って逃げてはいるのだから間違ってはいないのだ、というような。私はいったいなにを考えてこのシチュエーションでこの映画を観ることを選択してしまったのかこれも運命か、とでもいうような。

 不安感。そして、それを現実のものとして受け入れる、許容の心。もう世界は終わってしまっている、だがしかし我らは生きる。ここに生があり、愛もある。

 なんだか知らないが、暗いなかを迫ってくる奇怪なものが、最終的にはきちんと姿を現して、訴えかけてくる。

 ところでこっちも生きていて、こっちにもこっちなりの愛があるのですが?

 そういう手法が、大怪獣とヒト型ロボットが決戦するという日本文化にオマージュしまくった『パシフィック・リム』でも、活かされていた。

 ギレルモ・デル・トロ、曰く。

「巨大怪物への美しい詩」

 このひとの詩は、根本的に光と闇の対比で、光りを描くには闇が必要だという観点から、怪獣もロボットも、闇のなかで瞳を光らせている。夜の海は大変に美しい。そこで暴れる、全貌はよく見えない大怪獣も、やっぱり美しい。

 それが続編『パシフィック・リム: アップライジング』では、監督が代わって、冒頭から小さくて丸っこい、バンブルビーかミュータント・ニンジャ・タートルを連想させるような民間ロボが太陽光降り注ぐ海岸を疾走している。それを追う司法機関の二足歩行ヒト型ロボが、小さなロボ、スクラッパーを見下ろす姿は余すところなく明るい画面で眺められて、日本人ならば、それを連想せずにはいられない。

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 『THE NEXT GENERATION パトレイバー 首都決戦』は、ドラマシリーズから続く劇場版で、むしろそこに至るドラマ版のほうでこそ怪獣的なものが登場していたが、なんにせよ、巨大ヒト型ロボが、やたらと立っていた。

 関東でも関西でも、駅前に巨大ロボが立っていて、一ミリも動きはしないけれど、海外からもそれを観に来る人々がいる。そういう意味では、ロボ好きにロボを見せておけば間違いないという視点だって、興行的観点からはまったく間違ってはいないはず。

 重要なこととして、監督が代わった以上に、特撮モノで続編映画というジャンルにおいて、続編のほうが制作費が安いというのは大きな要素である。 

 『パシフィック・リム: アップライジング』は、映画史に名を残すことになった美しい、しかし画面の暗い、前作から一転させて、最後まで陽の光の下で暴れまくる。

 黎明期の日本怪獣映画が画面を暗くしたのは、着ぐるみ怪獣の背中のチャックや、飛行機を吊った糸が見えてしまうという技術的な限界を、恐怖感へと転換させる逆転の発想だった。だが、『パシフィック・リム』にチャックも糸もない。隠すべき技術的要素はなにもないのに、画面を暗くしたのは逆転の発想ではなくて、純粋なる叙情。

 さてここで、私の息子、三歳が、それを観る。

 『パシフィック・リム』、途中で飽きる。
 『パシフィック・リム: アップライジング』、完走。

 そりゃあ、そう。
 ロボも怪獣もギラギラ見えて、ソードが手から生えてモーニングスター的なものを振り回すし、跳んで殴って殴られてビルも壊れまくって、可愛いスクラッパーも大活躍。

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 ほぼ『ドライブヘッド』。

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 いや、こう言ってはなんだが純粋子供向けの『映画ドライブヘッド ~トミカハイパーレスキュー 機動救急警察~』のほうがストーリーが込み入っていて、もっと純粋にロボが暴れるでよかったのではないかと思うほど。

 『パシフィック・リム: アップライジング』は、予算が低いのに、明るくてよく見える。物語もほぼない。だがそれゆえに、よい。

 で、『パシフィック・リム』アニメ化が決まったそうである。『パシフィック・リム』と、『パシフィック・リム: アップライジング』をベースに制作されるそうだが、まさか叙情的に暗い場面で描きはしないはず。実写続編が、前作のフリークたちに叩かれるの承知で痛快娯楽大作へとカジを切ったおかげでアニメ化。そして『トランスフォーマー』のように、そのアニメシリーズを観て育った次世代が、新たなる実写『パシフィック・リム』などを撮るのかもしれない。だとすればそれは、怪獣モノで新しいことができるかもしれない、と意気込んで撮ったギレルモ・デル・トロと、その信徒たちにとっても悪い未来ではない。

 と、いうようなことをざっと語ったのは、今週接したあるニュースに期待と不安が入り交じったからだ。

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『Halo Infiniteの真実』の話。

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 昨年のE3で発表された『Halo Infinite』が、ほぼ一年のあいだまったくなんの情報も出てこなかったのに、また今年のE3が見えてきたというこの時期、ちゃんと開発しているぜどころか、というニュースを漏れ伝えさせてくる。

 開発費5億ドル。

 広告費抜きで、純粋に開発費だけでその額を費やすプロジェクトになっていて、おそらくはこれまで最高額とされているゲーム界の高額開発費王『レッド・デッド・リデンプション2』(Red Dead Redemption 2。略称RDR2)を抜いてしまうことが確実の模様。とか。

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『1899年仮想アメリカ旅行記(1)』のこと。

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 ちなみに続編なのに安くなってしまった『パシフィック・リム: アップライジング』の制作費が1.5億ドルで、『パシフィック・リム』のそれが1.9億ドル。

 『パシフィック・リム: アップライジング』を三本撮っておつりがくる。

 もはやその額は、売れるかどうかという賭けを越え、どこまで積み上げられるかの限界点の模索。サグラダ・ファミリアの建設に三百年かかるということは、最初に作ったところが朽ちるからそれもう永遠に完成しないよねでも作るんだ! 的な精神論の世界。

 『パシフィック・リム』を連想してしまったのは、あれだ。

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『Haloだけの王道』の話。

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「『Halo4』では、ついに人類の起源に話がおよぶ。移動のわずらわしさがなくなって物語の展開はスピーディーになった。それはひとえに、ひんぱんにスリップスペース(スタートレックでいうところのワームホール)を通って瞬間場所移動をおこなうからだ。」
「『Halo』の旧三部作とその派生作品たちは、未来兵器を描きながら、現代の白兵戦をモチーフに構成されていた。マスターチーフは「チーフ、チーフぅっ」と部下たちに愛される、コンバット・アーマーを着た圧倒的に強い軍人だった。」

 『Halo4』は、新たな三部作の始まりとされた。ゲーム界の伝説となった『Halo』初期三部作の、多くのひとに「画面が暗すぎて見えない!」と言わしめた、地上戦の連続。闇と泥の向こうから飛んでくる銃弾をかいくぐって異星人を殺すというカタルシスの物語をリブートさせ、明るい世界を軍人というよりもスーパーヒーローか神のようになったマスターチーフがどんどん進む。

 そして『5』。

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『eスポーツとしてのHalo』のこと。

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 確かに今日も私は、デイリーログインボーナス徴発を手に入れるためだけではなく、きちんと『Halo5:Guardians』をプレイしている。

 eスポーツとして。

 物語はどうかといえば、もちろん最高難易度でクリアはしているが、そうなんどもプレイしなおすというものでもなく。世間的にも、物語としての、この新三部作というのはどうなんだろう。画面が明るくなって、ものすごく見やすいけれど……

 という流れのなかで、次作は『6』ではなく『Halo Infinite』。

 開発責任者が「We're kind of calling it a 'spiritual reboot,'」と発言した。わたしたちは『Halo Infinite』をスピリチュアルリブートと呼んでいる。

 精神的再起動。

 史上最高開発費5億ドル超。

 暗かった画面を明るくして、泥臭かった兵長をスーパーヒーローにして、新たな三部作と銘打ったが、その三作目は再起動。

 ふつうに考えて、また画面が暗くなるのかな、と思う。

 いや、それが、良いか悪いかは難しいところ。『パシフィック・リム』は傑作だし、興行成績だって『パシフィック・リム: アップライジング』に勝っている。

 ただ、『パシフィック・リム: アップライジング』が失敗だったかといえば、マイサンが大興奮していたのはそっちだし、結果としてなんどもディスクがトレイに置かれるから、いっしょに観てしまって私が繰り返し観た回数も『パシフィック・リム: アップライジング』が上だ。

 ストーリー、キャンペーンモードに、別段の不満もない私が、いまも飽きず毎日プレイしているのはマルチプレイモードではあるけれど、プレイしているソフトの名は『Halo5:Guardians』。

 なにが言いたいのか。
 だから、それだけ。

 宇宙人類史上にも例を見ないほどに、ものすごくお金をつぎ込んでいるそうですね。
 がんばっているみなさんのお仕事には期待していますが。
 どうぞ、よけいなことはしていませんように。

 私は『6』を、ただ待っていたので、事実上の『6』だが『Halo Infinite』になると聞いたときにはぞくりとした。さらにはその『Halo Infinite』を、あなたがたが「spiritual reboot」なる呪術的愛称で呼んでいるという事実には、ぞくりもいちどでは済まない感。
 保守的なフリークのいらぬ心配だと、E3で笑わせて。







Stuffedbirds

「なんでガラスに入っているの?」

 と、完全にチコちゃんの口まねで、ていねいに首もかしげながら子に訊かれ。

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 答える。

「毛が抜けるから」

 たぶん正解。
 いま眺めているのは鳥だが、動物園に行ったら獣の剥製もガラスケースに入って展示されていたりする。かつて飼育していた長寿のトラでした、などと書き添えられて。

 しかし子が問うのは、このあいだ恐竜を見たからだ。

 当たり前だが恐竜展の恐竜は模型である。かつて飼育していた実在の獣の皮を剥いで作られた剥製とは違う。恐竜展や水族館では、たいていトゲトゲだのギザギザだのの肌を持つ種族の模型が展示してあって「さわってみよう」などというコーナーがある。その模型はすり減ってくるし、色も剥げる。みんながさわるから。

 でも模型なので直せばいい。

 その違いが、おさなごにはわからないのだった。

 剥製の毛が抜けるのは、ゾンビになってしまった恋人の唇がもげるようなものだ。ゾンビは回復しない。かつて生きていた恋人の唇は、かろうじてゾンビとなったいまも原形を留めている。恋人がその唇で私にふれるとき、おそろしく冷たいしカサカサしていて、その感触はとてももとの恋人のそれではないけれど、けれども血色の悪い恋人が愛しげに私の肌にキスするのを、私はなくしたくない。

 だから私は、恋人を守ることにした。

 ウージーを掲げて。
 でもまあ銃刀法違反で逮捕されては守れなくなるので、ガラスケースに入れて鍵をかけるくらいにしておくか。

 実際の話、かつてそのトラを飼育していて、長寿だと新聞記事などにもなって、看取って。剥製にされて。ええ、あの子にそっくりにできています、と太鼓判を押す役目まで果たした飼育員さんなどは、剥製の移動にだって気が気ではないだろう。

「ああ、ぶつけると脚が折れますよ」

 考えてみると、剥製になってしまった愛虎は、骨折のほうが微ダメージだ。針金を入れて補強してもとの角度にもどせばいいだけなのだから。

 それよりも。

「ゴム手袋はやめて。絹のにしてください。こすれたら毛が抜けてしまう」

 抜けた愛虎の毛は、本物。
 死んでいるが。
 毛などというものは、もともと死体だ。
 剥製の場合、抜けたら二度と生えないというだけ。
 接着剤で直せば、と言えなくもないけれども。

 ゾンビの恋人のもげた唇を接着剤でもどして、恋人のままでいられるという精神力は、なかなかにレベルが高い。

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「どうやって教えるのです?」
「どうやってって──」
「動物を連れて来て目の前で殺して見せでもするのですか? これは生きて居ますね、これで死にましたと──実験でもすると云うのですか? 齢端も行かぬ子供の前で」

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京極夏彦 『陰摩羅鬼の瑕』

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 なんでガラスに入っているの。毛が抜けるから。だったらあっちはどうして外にいるの。あれは剥製ではなく模型だから。

「ハクセイってなに?」

 生きているもの。違う。断じて違う。

 生きていたもの。

 違っては……いないはずだが。
 そう言われてみると、実物大模型の恐竜だって、生きていたものだよ、と教えて間違ってはいないような気がしてくる。

 どうやって教えるのです?

 そうだな……おさなごには早い気もするが……いっしょに、仮想だけれども、プレイしてみれば、いくばくかのなにかしらのなにごとかを教えるようなこともできるやもしれぬと思って。

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『1899年仮想アメリカ旅行記(1)』のこと。

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 ともに旅に出る。

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 狩る。
 駆けていた獣を。
 仮想なので、そもそも生きてなどいないけれど、死を書物で学んできたのが人類であるならば、これだって新たな書である。

 仮面ライダー鎧武は馬に乗っていたが。

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 この子が、馬というのがいまでいうバイクや車のような移動手段として使われていたのだということを、ちゃんと理解したのは、こうやっていっしょに仮想の旅に出たからだった。

 殺す。

 えー、と子が発声した。
 お父さん悪いひと。
 そう?
 きみは昨日食べた焼肉は、なんだと思っているわけ。

 まずは鹿。

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 食べる。
 体力が回復する。
 
 憮然とした表情であった。
 殺して食べることに納得がいっていないもよう。それはそれでいい。それでもチキンを食べるなら、ニワトリがコッコと鳴く光景も知ってはいるべき。そのうえで考えればいい。

 次は、クーガーだった。

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 食べるためではない。襲われたから撃ち返して殺した。猛獣の筋肉は締まっていて硬いので食用に向かない。しかし毛皮は売れるので剥いでいく。

 売って金になれば、それで食う。
 それもやはり狩りだ。
 つまり、きみが保育園に行っているあいだ、お父さんとお母さんが仕事に出かけるのも、狩りだ。今日のごはんを、殺しに行く。

 牛の肉は美味い。

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 ワニの革は高価い。

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 そして、ふたりで、大きなヘラジカに出逢った。
 殺した。

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 肉も美味しそうだし、毛皮も売れるし、なによりもツノが何日分のごはんになるだろう。

 雨が降りはじめたなか、剥いだ皮をくくって担ぐ。

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 近くの町まで運んで売らなくては。猛獣に気をつけて、奪いに来る人間たちにも気をつけて。

 人生とは、狩り。

 生きるために命をいただく。

 仮想。映像だ。が、生きている。ということである。模型と剥製は違うが、それを知ったうえで、恐竜の骨格模型に、かつて生きた恐竜の姿を重ねるのは、ヒトとして間違いではない。

 肉が腐っているかいないかだけを見るのでは獣。それでは新鮮な肉を求めて荒野を駆けずりまわるだけになる。

 死体を見て、なにごとか想像する。

 考えるから、生存競争のなかでは弱い葦にたとえられるにしても、考える葦、だとみずからを呼ぶのは。
 誇り。
 それなくして、ヒトの世は立ちいかない。