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 実に七年ぶりのディーン・クーンツ邦訳作が、二十世紀の師の傑作を、みずから構成しなおしたものではないかという話は、すでに語り済み。

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『これほど昏い場所に』の話。( 2 )

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 師が自作を年を経て書きなおす理由は「違和感をなくす」ためだと、いつか語っていた。さらに十年、十数年、数十年、物書きとしてのスキルを積み上げた、その技でよりよくするというよりは、時代に添わせることを目的にしているのだと。

 とはいえ、それができるのはクーンツ節が、多分に小説技能を魅せる方向性で書かれているからだという側面はある。たとえば謎解きやどんでん返しという物語のギミック性がかなめの作品たちであったなら、逆に時代に添わせることが破綻に破綻を招くドミノ総崩れ状態を招きかねない。道行くひとりひとりが小型超演算機を持ち歩いていて、我が子も飼い犬も全地球測位システムで居場所が把握できていて、クローンが作れて、ナノマシンが血管を走って心臓の傷を内側から縫うような現代に、金田一耕助をタイムリープさせてはコメディにしかならない。ホームズや明智小五郎がサイバーに活躍するドラマの類は大まじめに作られてはいるけれど、それらをオリジナルの作者が存命していて眺めたならば、やはり喜劇の一種だととらえるのではなかろうか。

 と、いうような意味では『心の昏き川』は、もともとがサイバー風味サスペンスだったから、いっそう二十五年前という太古ではないが、つい昨日でもない程度の時間の経過が目につく。コンピュータの、特にパーソナルな界隈の技術の変化は、金田一耕助の訪れた村の住人が携帯電話を持っていたらアリバイ崩すの無理だよね問題よりも乖離レベルとしては大きく、二十五年前に国家レベルでおこなっていたサイバー行為が、いまでは個人レベルでおこなわれていたりする。

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 地上わずか二、三メートルあたり、垂れ下がったヤシの葉陰をホバリングしているそれは、映画や小説に登場する恐怖の機械神そのものだった。空気よりも軽いその姿がハンマー並みに重い衝撃をもって、ジェーンの全身に戦慄を走らせた。このマシンは彼女の知るかぎり、民間でのドローン使用に適用されるすべてのルールを破るものだった。


 ディーン・クーンツ 『これほど昏い場所に』

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 600ページの本の60ページめあたりでさっそく。ここは民間でのドローン使用に適用されるルールが事細かに定められている、当たり前にドローンが飛び交う二十一世紀です。いや、むしろ、二十世紀のクーンツ読者は、あえて書かれている、そこに注目して失笑せざるをえない。

 「映画や小説に登場する恐怖の機械神そのもの」……おう、自分で言っちゃったよ。

 実際、その後、ジェーン・ホークと武装ドローンとの死闘が繰りひろげられるのである。既視感がある。いやどう考えてもわざとやっている。映画大好き、それもB級風味に目がないディーン・クーンツが「映画や小説に登場する恐怖の機械神そのもの」を、まさにそのものに書いている。

 そこに至って、なにこれ笑っていいのかな、と表紙をめくった瞬間から感じていたそれを「私は」笑って読んでいいのだと確信した。

 二十世紀の『心の昏き川』と、二十一世紀の『これほど昏い場所に』で、主役と助演の立ち位置が、マッチョ男と謎の女、から、クールビューティー女と謎の男、に入れ替えられたことを別にすると、大きな違いはふたつ。

 まずひとつ、「哀しみの書」の消失。

 二十世紀のクーンツ娯楽小説には、少しの例外を除いて、物語がはじまる前、表紙を開けたところで「哀しみの書」(「悲哀の書」と邦訳されていた時期もある。『心の昏き川』では「悲哀の書」)からの引用がある。「哀しみの書」は架空の書籍なので、つまりその引用は引用ではなく、クーンツ師みずからの執筆なのである。書籍のタイトルからわかるように、だいたいにおいてブラックジョークめいた、欝視点で世の中を眺めたつぶやきがそっと綴られていた。

 いつのまにか消え去っていた「哀しみの書」の代わりに『これほど昏い場所に』では「この国民にしてこの政府あり」という辛口の名言が代表的な思想家トーマス・カーライルが、女性の頭のなかがうんぬんと語った毒舌を引用してみせる。

 それがどうしたと言われると、どうもしないが。なんとなくそれっぽい雰囲気の造成に寄与していた「哀しみの書」を、復活させるわけではないけれど、あきらかにそれを彷彿とさせる、あってもなくてもいい前書きを置くところに、マスターの意志を読みとって信徒は笑む。

 ええ、それっぽいですね。なんか映画化された特装カバーをつけられて平積みされた売れ筋サスペンス超大作のはじまりみたいです、先生。

(『心の昏き川』では、筆者あとがきに現実の事件を名指しして政府の暗黒面を指弾するような、エンタメ書きとしての誇りに熱いはずの師にしてはフィクションとノンフィクションをごっちゃにしたところがあった。それを四半世紀経ってから恥じているというのは深読みがすぎるだろうか。「この国民にしてこの政府あり」という格言は『これほど昏い場所に』にも似合う。でもそれを言ったひとの、もう少しウィットに富んだほうの言葉を選ぶことで、直接引用するのは避けるくらいに俺はエンタメに徹することができるようになったよヨシノギ。と照れ笑うのを私は妄想したけれど)

 そして次の違いも大きい。

 二十世紀のクーンツ娯楽小説には、少しの例外を除いて、犬がいた。ゴールデンレトリバーが多かった。クーンツ夫妻は、人間の子供は持たなかったが、何頭ものゴールデンレトリバーを育ててきた。彼らを我が子と呼び、犬名義の本も書いている。

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『犬が教えてくれた幸せになるヒント ~Bliss to You~』のこと。

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 『心の昏き川』では、主人公のそばに、ずっと犬がいる。いやいやいや、アクションサスペンスなのに。車に犬がいる。降りても犬がいる。しかもその犬、主人公に守られるしか能がない。無能犬だ。確実にアクションの幅が狭まる。

 一方。

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「犬がいたけど、少し前に死んでしまったの」
「それは気の毒に。犬を亡くすのは、子供にはつらいもんだ」
「子供たちの父親と、私にもつらいことだったわ」
「なんの種類かね──その犬は?」
「ゴールデンレトリバーよ。スクーティーっていうの」
「いい犬だ、ゴールデンレトリバーは」
「ほんとにそう。最高の犬だわ」


 ディーン・クーンツ 『これほど昏い場所に』

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 嘘である。ジェーンは犬を飼っていないし、子供のころ家にいたということもない。しかもこの会話、相手はまったく物語の進行に関係ない相手とのものだ。なんなのか。なんなのかといえば、かつてゴールデンレトリバーを無理やりにでも物語に押しこんでいた俺のことを思い出せるやつは思い出してほくそ笑むがいいさタイムなのであろう。知っているひとだけのおたのしみの提供。悪い意味で内輪ネタ。

 こう書くと、些細なことのように思えるかもしれない。けれど、かつてのディーン・クーンツ作品群において「哀しみの書」やゴールデンレトリバーに代表される、作者名を隠されても読みはじめたらわかってしまう首すじに青い髪の毛がはみ出たマスクマンのような要素は、それゆえに重大ごとだった。たとえば自作に、瞳孔が消えて白い瞳になる覚醒者だとか、やたら喉が渇いて自分で自分の喉を掻き裂いてしまうクセを持つ天才だとか、白シャツの内側にタトゥに変化させた黒い翼を隠し持っている堕天使だとかを登場させずにはいられない物書きさんたちは、かえってそのことによって没個性に陥るケースがあるが、クーンツ師の場合は、その中二病臭さ、B級映画臭さ、偏執病的こだわりを、コントロールしてユーモアに変えてしまっていた。『心の昏き川』がファン投票上位に来るゆえんである。いなくてもいい犬が最初から最後までいるのがクーンツタッチであり、そのことでアホほど物語に制約が出ているのだけれど、最終的には犬ありきの物語で完成してしまっている。犬いてこその感動もある。犬の餌代が生活を圧迫するというのは犬嫌いの発想。犬はいるだけで善いものであり、家族の食事代がなどと愚痴る親はいない。

 そのクーンツ師が、いかにもサスペンス小説みたいなものを、ちゃんと書いていて、そこかしこに今回は俺の色は消していますよと、わかるひとにはわかるように挟み、わからないひとは真顔でスルーして、あれいまのゴールデンレトリバーのくだりってなにかの伏線? なんて思うのかもなと思ったら、またニヤける。

 帝王の帰還。
 そういう視点で読めば、なおたのしいことは間違いない。しかし、ニヤけてたまらない根本は、あのクーンツが、完全に抑制したサスペンス小説を書いているというところにあり、そうなるとむしろあのクーンツを知らないほうが、これってもしかして完全無欠の傑作として読めるのではないのかと悔しくもなる。

 初期には、邪教集団や改造された悪の犬などが主人公を追いかける物語構成が多かった。主人公の側からは、正体の見えないモノが延々と追ってくる。そういうデザインのせいで本人は嫌がるモダンホラーという「恐怖」作家の判も押された。それがいつしか追う側の視点も描くようになり、その攻防の狭間で巻き込まれたひとたちの個性も描くようになっていき、『心の昏き川』では、ヒロインをなぜ主人公がさがしているかを謎にしたまま物語の大半を描くという超絶技巧を披露するに至る。

 敵さえも描く。

 結果、絶対悪であるのに悪が魅力的。という部分が『心の昏き川』にはあった。巨大な悪ふたりが独特なセックスライフに溺れていくさまを描くのに膨大なページが割かれ、悪と悪のあいだに生まれた愛にも、目が離せなくなる。

 その部分が『これほど昏い場所に』では、違う。絶対悪が、否応なく悪である。SF要素も追加して、ガチで人類を支配しようとする一部の人類の野望が描かれる。セックス描写もあるが、悪の世界にだって愛はあるという描写は皆無だ。

 そのかわり、攻防の狭間で巻き込まれたひとたちの個性を描くのに、筆がノリにノッている。『心の昏き川』で、主人公の過去の描写や、犬との愛らしいひとときなどに割いた部分を総カットして、本作のジェーン・ホークの過去は一切合切が謎のまま、通りすがりのさまざまな人物の人生をフラッシュバック的に、しかしいちいち深く描く。

 全体としての世界はイースの多重スクロールに感動したときのように深まっている。そのひとの人生に、あっちのひとの人生も。悪は悪に酔い、ジェーン・ホークは、それを追い詰める。

 しかしである。

 『心の昏き川』に比べ、ページ数は半減している。邦訳も上下巻だったのが、本作では一冊に収まった(600ページの持ち歩くにはリュックが必須の厚さとはいえ)。

 深まったのに短い。悪もまた、さらなる悪に育てられたことを示唆し、ジェーンもまた善なる存在によって健やかに育てられたのではないことを匂わし、いちおうの幕引きはするが、ネタバレでもなんでもなく、ラストは仁王だつジェーン・ホークである。

 以下続刊。次のシーズンには、いよいよバットマンのスーツを着たジェーンが見られるかもしれないという勢いは、たぶん『GOTHAM/ゴッサム』も師はご覧になっておられるのだろう。

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 というかアクションの色合いからしても『ジョン・ウィック』の女性版を念頭に置いている。

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 『心の昏き川』で悪人どもを蹴散らした科学の力を『これほど昏い場所に』では、もっぱら悪の側が使用している。ハッカーも登場するが、ジェーンは彼らを利用するだけ。使えるものは使い、心強い味方には背中もあずける。しかし、けじめをつけるために使われるのは、彼女の手にあるヘッケラー&コッホ社製の拳銃、その銃口から発射される鉛弾。

 映像化ドンとこい!

 ずっとそうだったし、無数の映像化もされてきたが、自宅の豪奢なホームシアターで、ディーン・クーンツそのひとが「ああこれぞ俺の書いたものから生まれた最高の映画」と涙するようなものはない(『オッド・トーマス』の出来は非常に良かったが、師本人もまきこまれたゴタゴタのせいでミソがついてしまった)。

 ジェーン・ホークは新しい娘であり、彼女には息子がいる。

 つまり、師の孫だ。
 そういう歳だし、孫は無条件に可愛くて、その母親は無条件に地上最強にして最高に美しいと、すなおに書けるようになったのだろう。

 愛するひとが、なにかを深く愛している姿は、すばらしいものだ。その愛が成就するにせよ、またしてもなことになろうとも、またひとつの高みを上がったとみて間違いないディーン・クーンツの秘儀を目にすることができた、私は至福を感じる。

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(いや実際の話、脳だって肉体の一部だというのに。おない年のプロレスラーが往年の技の原形さえとどめない劣化版をみずから演じて客を湧かせるのに、職人的仕事を休まず続けてきた物書きという生き物の最上級は、掛け値なく四半世紀前よりもパワフルな筆を奮えてしまっている。なんなのかと思うのと同時に、書き続けるかぎり書けるどころではなく向上もするのだという生き神がここにいて、崇めずにはいられない)