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 このあいだ、仮面ライダーの新作の話をしていて。

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『仮面ライダージオウ』のこと。

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 痛快娯楽大作(懐メロ風味)に仕上がっているのに、なにかこう私にとって熱く語るものがないんだよドラえもんっ、タスケテとは言わないが、スッキリしないなあ、と少し考えてみたら、答えは単純だった。

 同じく、懐メロ風味を加えたお祭り企画として仮面ライダージオウのホンを書いているひと下山健人が綴った、ジオウ以前の仮面ライダーの系譜。

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 『仮面戦隊ゴライダー』

 なんの記念企画かといえば「仮面ライダー生誕45周年記念」。平成十年だ、平成ライダー二十作だと、この国に元号があるために年の節目というのは作りやすいものだが、生誕四十五周年というのは、なんやらわからん風味ではある。石ノ森章太郎が初代仮面ライダーの仕事に携わったのは三十三歳のときなので、御大の幻の傘寿を祝うにしても二年足りない(ちなみに今年が、その幻の傘寿である。だれも祝う気配はないが。デジタル化した石ノ森が、やっほい八十歳になったよ、なんて番組をやったら視聴率とれそうだが、いかにもそういうことをやりそうなNHKさんでは会議で提案くらいはされたに違いないものの、長生きおめでとうの祝いである傘寿を故人を対象にというのは不謹慎なことだという結論に至ったのかも。知識としては、同じく「仮面ライダー生誕45周年記念」として作られた『仮面ライダー1号』に主演した藤岡弘、がちょうど七十歳だったために、その古希祝いは当時盛んに各メディアでおこなわれていたことを知っておいてもいい。つまり映画作品も含めると主演ライダーの最年長記録とされる細川茂樹の三十三歳など赤子だ)。

 『仮面戦隊ゴライダー』の、パッケージ写真左上にいる、生き物っぽい仮面ライダーをご存じであろうか。

 『真・仮面ライダー』ではない。

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 ではないが、デザインコンセプトからして類似のものであり、私は無類の『真・仮面ライダー』好きなので、彼も好きだ。

 名を、アナザーアギトという。

 ことになっている。というのも、彼が活躍するテレビシリーズ『仮面ライダーアギト』(仮面ライダーシリーズ生誕30周年記念作品)において、作中でアナザーアギトという呼称は使われていなかった。『真・仮面ライダー』もそうだ。作中ではただただ超人として描かれていて、のちに年表として組み込むさいに仮面ライダーシンなどと記述されるようになった。

 仮面ライダーと作中で叫ばぬライダーたちである。

 しかし『仮面戦隊ゴライダー』においては、正式にアナザーアギトという名称で登場する。その直後の『仮面ライダージオウ』において、ニセライダーが「アナザー」と呼称されるのは、このあたりのニュアンスによるものだろう。

 アナザーアギトは、主役である仮面ライダーアギトの異形体だ。

 『仮面ライダーアギト』には、アナザーアギトのほかにも野性味あふれる狂乱のライダー、仮面ライダーギルスが登場する。

 ギルスは、アギトの不完全体だ。

 仮面ライダー=超人としての能力の制御に成功したが、成功したがゆえに、なかのひとの人間性が問題になってくる異形と、能力を制御できずに人間性を失う不完全な……それはもう化け物の側である。

 平成仮面ライダー初期の構図は、悪の怪人軍団に改造されたのにその能力を制御しきったあげくなかのひとが正義のひとだった。という昭和ライダーの設定を裏返したものともいえる。その発展系として『仮面ライダーアマゾンズ』が描かれた。

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 超人になるとヒトが喰いたくなるが、その欲求を制御できてこそヒト。

 という論理でアマゾンたちはがんばるのだけれど。冷静に考えて、ヒトを喰いたい時点でヒトではなく、我慢できたからといって化け物でないわけでもない。

 で、おまえはヒトを喰ったなあ、と喰ってしまったアマゾンを狩る彼らのことを、正義と呼んでいいものかは、平成ライダー史が成し得た哲学的到達点の確かにひとつだ。

 『仮面ライダーアマゾンズ』の作中で、その超人ジレンマ=ヒトを超えるとヒトではなくなる、を克服したキャラクターとして描かれていたのが、イユ。私は仮面ライダーシリーズで、もっとも好きな女性キャラになったのだが。

 死んでいる。

 死体を超人化した。

 超人化したらヒトが喰いたくなるはずだが、イユは死んでいるので喰わない。いやでも待て、死んでいたら超人という表現が成り立たないのではないかと首を傾げたくはなるものの、超人だから死んでいても戦えるのだ、という一文は、説得力がないこともない。

 仮面ライダーとは。
 ヒトがヒトを捨てることなのか。
 超人とは、なんであり、どうであるべきなのか。仮面ライダー史が模索しているあいだに、現実的に寿命が百歳を当たり前に超え、もっとのびるとか、いや不死だとか、悪性変異体細胞たるガンだってやっつけてやるさとか、具体的な哲学論争がはじまってしまっている。いまやクラスにひとりは必ずヒトの目で選別された精子と卵子から生まれたヒトがいる。ヒトはもうヒトを超えるかどうかを、自分たちで選べる。

 ……長い前置き終了……
 まとめると、私がジオウに滾(たぎ)らないのは、ヒトを超えることに悩んでいないからに他ならない。平成仮面ライダー祭のホストという立ち位置なので、仕方のないことだとこのあいだ書いたように、納得はしているけれど、仮面ライダーにそのあたりの要素が含まれていないと、やはりとても寂しい。

 そういうわけで、滾る作品の例をあげてみる。
 平成仮面ライダーシリーズと並行して、女性超人を描いた映画監督がいる。

 リュック・ベッソン。
 平成元年にそのひとが書き、撮影していたのは『ニキータ』。

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 死を宣告された少女がヒトを殺す超人となる。彼女はその能力を制御しきっていたのだが……

 古い映画なので、ばっさり言ってしまうが、ヒトを捨てて暗殺機械となった女が愛によって人間性をまた得る、という話。仮面ライダーアマゾンズのイユの立ち位置と非常に似通っている(イユは死んでいるので生き返りようはないのだけれど。そのせいで物語的には切なさ増量効果があるともいえよう。あの歌は、いまもときおり口ずさんでしまう。ときめーいてー)。

 その後、平成などという区切りは気にもしない国のひとだが、リュック・ベッソンは細胞培養された宇宙超人女性や、歴史上の超人女性などを描き、平成も終わりかける数年前、これでどうだと言わんばかりの超人女性ヒーローを撮ってみせた。

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ルーシー
考えてみてくれ
生命というものの本質
つまり そもそもの はじまりを
ひとつの細胞が ふたつになったよな
分裂した そのとき以来
生命の ただひとつの目的は
知識を伝えることだった
それより重要な目的は ないんだよ


映画『LUCY/ルーシー』

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 ルーシーはヒトを超えてしまった。
 望んでのことではないが、越えてしまった彼女は、世界的権威であるモーガン・フリーマンに接触する。彼が、そう言う(いちおう書いておくと上の引用は、日本語吹き替え版のセリフ。モーガン・フリーマン日本吹き替え担当、坂口芳貞さんの喋りは私のなかで生のモーガン・フリーマンよりもモーガン・フリーマンだ)。

 知識だと。

 ルーシーは言った。

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痛みを感じない
恐怖
欲望
人間らしい感覚が
どんどん薄れていく
人間らしさが
消えるのと同時に
知識が増えていく


映画『LUCY/ルーシー』

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 それはまあそうであろう。
 超人化も極まって、食欲に代表されるヒトとしての基礎欲求さえ超越してしまったら、それはもう理想の受験生だ。ルーシーに至っては、物理法則や時空まで超越してしまうから無限が一瞬で、人類だってさかのぼれば宇宙のチリなわけだから、あらゆる自然、あらゆる遺伝子の記憶が、いまここの彼女に収束される。

 リュック・ベッソンの考える、ヒトを超えるということは。

 少し前にここで、同じようなテーマでありながら、まったく異なる答えを描いてみせた映画のことを話した。

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『メッセージ(Arrival)』の話。

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 ヒトを超えた『メッセージ』のヒロインは、地球外生命体との接触によって戦闘と滅亡の道を突き進もうとする人類を、引き止めてみせた。

 超人化してもヒトだから、ヒトを救う。
 昭和の仮面ライダー哲学を遵守している。
 彼女は仮面ライダーである。

 一方、ルーシー。

 映画の後半、学者たちと知的な会話をする彼女のまわりで、ばったばったとヒトが死ぬ。彼女が超人化する原因を作ったコリアンマフィアたちは、彼女を追ってバズーカまで撃ちまくっているが、そんなもので彼女は死なない超人になっているから、気にもとめない。

 納得できる描写である。

 ヒトを超えた彼女が、いま目の前にいるヒトに興味を持つこと自体、おかしな話だ。生物は生き延び、進化するために、どうすれば知識を蓄えられるかを考えている。細胞分裂し、次世代を作り出して時間を稼ぐか、知識を伝達できる形にして保存するか。なんにせよ、そこでの知識は共有財産であって、個人の所有物ではない。

 いっそ矛盾するが、こうも言える。

 人類を救うために個人を生かす道理はない。

 戦争の大義名分によく使われるやつ。敵を排除せねば、我々にも、この地上にも安寧は訪れず、この星に未来はない。

 平成仮面ライダーでは、このあたりがよく描かれた。怪人だって生きている。もしくは機械だって生命体。その安寧のため、未来のために、ヒトが滅びればいい。

 地球目線ではヒトが異物で駆除されるべき、というのは志の高いひとたちがよく言うことだ。クジラやイルカを食べるなんて、化け物か。

 私も鯨肉は好きだが、あえて食わなくてもいいとも思っている。

 そしてリュック・ベッソンはルーシーという超人女性を描くことによって、明確に言い切る。

 ヒトを超えれば、それはもうヒトではない。

 あたりまえだ。
 実に当たり前だが、仮面ライダーは改造「人間」と言い続けた。ルーシーのように、ヒトを超えてしまったがゆえにヒトに興味も持てなくなってしまっては、それはヒーローではない。地球を救おうが宇宙を救おうが世界を存続させる礎となろうとも、ルーシーは仮面ライダーではない。

 『LUCY/ルーシー』はアクション要素の強い構成だが、それでもリュック・ベッソンの名を売った『ニキータ』と重なる部分がある。ひとりの女性がヒトを超えていく過程を観せられる観客は、彼女が「壊れていく」と受け止める。

 平成元年の『ニキータ』では壊れた彼女をヒトに戻した監督が、平成の終わりに『LUCY/ルーシー』で彼女を壊しきる。

 思えば、フィクションにしても、昭和の人類に、細胞レベルでヒトを超えてしまうという設定で仮面ライダーを提示すれば、ぽかんとされるだけだっただろう。あれは、手術台の上で機械のカラダにされるという描写があってこそ、ああ彼はヒトを超えたものになったのだ哀しいね、と受け止められたのである。

 それが昭和の最後には、仮面ライダーシンは遺伝子変異モンスターであり、仮面ライダーJは巨大化した。平成ライダーでは、マスクドライダーシステムという概念によって仮面ライダーという「武装」なのだという解釈も試みられたけれど、平成の最終章『仮面ライダービルド』では、戦争のために科学者が造った兵器としてライダーを描きながら、話を追ううちに映画『メッセージ』同様、地球外生命体から与えられた気づきによってヒトがヒトを超えてしまったのだという設定があきらかにされた。

 特異点、結節点、といった表現がされる。

 地球外生命体からのお言葉、などというのは夢物語にしても、ある一瞬で、ヒトはヒトを超えることになるだろうと、ほぼ満場一致で予測されている。

 ルーシーは、自然界では微量で胎児を爆発的に成長させる要因とされる物質を、科学者が化学的合成に成功し大量生産してしまったことでヒトを超えさせられた。

 私は薬屋だから、その設定はすごく身近だ。

 医薬品を置いてはいけない場所に、そういうものが並んでいる。医薬品でないということは、ヒトへの影響を厳格には実験していないということになるのだが。そういう製品群にこそ、そういうものは多い。

 一例をあげれば、胎盤エキス、臍帯エキスなどという不穏な商品名。

 昭和の時代までのヒトにおいて、へその緒を集めて大量摂取したひとなどたぶんいない。しかし、平成の世では、コンビニでも売っていて、毎日摂取しているかたも多いのである。

 平成って、三十年ほど。

 ある日、あれ?
 という感じで超えてしまうのかもしれない。

 仮面ライダー好きが『LUCY/ルーシー』をホラーに感じるのは、ルーシーは、たまたまヒトを超えてしまったのだというところ。そして彼女は、自分をひどい目にあわせたマフィアにも興味をなくしてしまうが、同じ立場で人類を滅亡させることに執着してしまうひとも多いはずだ。仮面ライダーを観てきたがゆえに、ヒトを超えても正義でいられるものたちのなんと偉大なことかはよくわかっている。そのへんのものたちがふらふらっとヒトを超えたら、神……いや、魔王になろうとだってするだろう。

 ええ、平成最終作『仮面ライダージオウ』は、未来で魔王になっちゃう子がそうならないように仮面ライダーとしてがんばる、というお話。平成総まとめ作にしては、敵の器が昭和のショッカーぽい。ヒトを超えても、ヒトを従え屈服させることに固執する小物感。いいんですけど。

 ルーシーが仮面ライダーならば、ヒトを真の意味で進化させる「変革」を地球で起こすのではないかと。時の王となり、宇宙の歴史をその身にまとって、ヒトを超えた目線で、ヒトという、それそのものを刷新する。

 ……それって神か。

 なんていうことを考えるのは仮面ライダーを観てきたからでもあるけれど『LUCY/ルーシー』を生んでくれたリュック・ベッソンおじさんのおかげでもある。

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しょうゆ常温保存。
自宅でもそうだったし、町の食堂でも。
テーブル上にしょうゆ置きっぱ。
本当はよろしくないそうだ。
パッケージにも開栓後冷蔵とある。
酸化して風味がなくなるらしい。

で、少し高価な、たまりしょうゆとか、さしみしょうゆとか。
容器が小さいせいもあるけれど、我が家では冷蔵庫保存になった。
それが何年か前だったが、とあるメーカーさんの品で、常温保存できます!! と明記されたものが出た。
クセで冷蔵庫に入れてしまって、

「これはこっちでいいんだよ」

と、わざわざ出したり。
私の記憶では、ヘアコンディショナーの容器で、最初にこの構造を見た。
プラスチック容器を二重にして、使うとなかの容器がしぼむ。
最後までもれなく使用できる。というのが売りだったが。

しょうゆだと、最後までしぼりやすい、という以上に、酸素に触れない、つまり酸化しない。これがメリットになった。
かくして常温保存、可である。

それがヒットしたのだろう。
いつも買っているワサビを買った。
なんのことわりもなく、ワサビもその容器にされた。
香辛料初かなにか知らんが……

「やめてください」

私、ワサビヘビーユーザー。
だからデカチューブのを買っている。
そしていつものように。
いつものように!!
しぼりだそうとしたらムリだった。

「なにこれ」

二重容器なので。
しょうゆならいいが、ワサビは。
私、チューブの首の部分をねじり、太っといワサビで皿に出していた。これまでずっとだ。先端の小さな口は使ったことがない。それが、いつもの商品を買ったらば、いつもの場所が接着されている。

開かない!!

出せない!!

ごめん、ムリ。
香りが飛ばない?
最後までしぼりやすい?
いやそのまえに、まず出せない。
いつものようにヤって開かずイラッ。
今日もくり返している。
なくなったら別のメーカーのを買う。
こういうのは事前に相談してくれ。

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 もうひとつ。
 これ。

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 古来から、紙パックの牛乳は、紙だけで完結していたものだった。それがほんの少し前から、こういうのを見るようになった。

 プラッティッキぃぃっ!

 ならばペットボトルにしたほうがむしろリサイクルしやすいのではないか。あの外国ブランドポテトチップス容器のようなものだ。

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 紙筒で作りながら、底は金属で、上蓋はプラッティ。ゴミ分別推進先進国に対する悪意がある。

 純然たる日本ブランドは、やはり違う。

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 ぜんぶ紙。
 これでなにも困らない。たぶん、あのブランドの発想がもともと、ジャガイモ成分が50パーセント以下のポテトチップスを作るというキメラ的奇天烈なものだったうえに、あのパッケージの特許を取った人物は、あの容器を模した棺桶で葬られたという史実もあるので、プライドが邪魔をして、いまだにあれを使い続けているのだろう。迷惑な話だ。

 そんなプライドとは無縁なのにである。

 紙で完結していたパッケージに異物で蓋をする。一度開けても密閉できるからか。いやあのな、私なんてあのひとみたいに、牛乳をコップに注いだことなんてなくてじかで飲む人生だから、すでに内部には雑菌繁殖創業祭であって、密封なんて意味ない。

 だったら買うな?
 私が買ったのではない。
 冷蔵庫に入っている。家族が買う。こだわりがないのだろう。しかし私は!

 さっきの写真をもういちど貼っていいだろうか。

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 パッケージの上部に、白い粉末が付着しているのがおわかりだろうか。ヤバいものではない。小麦粉だ。

 参考資料を提出する。

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『全粒粉トルティーヤと豆サルサソースのタコス』のこと。

『ピザ六景』の話。

『カレーが添うナンのカロリー』の話。

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 ぶっちゃけ、ブログでレシピなど公開しているが、自分でピザやナンやトルティーヤといった週一で絶対に口にする生地群を練るとき、分量なんて正確に計らない。固かったりやわらかかったりする。心がけて固めに調整するようにはしている。生地を練る過程で、固いのは水分を足せばいい。

 もう、何百年になるだろうか。

 そのさい、私が使うのは、牛乳だ。
 なぜか。
 紙パックのパッケージが密封されていないからだ。水道から微量の水を生地に足そうとすると、必然的に計量スプーンが必要だ。しかし紙牛乳パックは。冷蔵庫から取り出し、片手の腕力で、蓋を閉めたまま、ちょろっと絞り出せる。

 ルーティーンである。

 さて、いつものようにヤって開かずイラッ。
 そのワサビの件を思い出そう。
 比較してみる。

 両手はべたべたの小麦粉生地まみれ。冷蔵庫の把手はあとで拭く。いつものことだ。しかしまあ牛乳だ。ぐっっと……はいぐっと……っっ、はいいいいいいいいいいいいっっっ!!!!

 だれだ牛乳に蓋つけたの!!!!!

 やってみて欲しい。
 形状的に、紙パックに取りつけられた薄いプラスチックのスクリューキャップを、片手の動作で開けることは無理だ。

 べったべたの手で、ギザギザのついたプラスチックのキャップをひねってみて欲しい。冷蔵庫のつるんとした把手のようには簡単に掃除できないことになる。

 しかし掃除しないとあとで怒られる。

 新開発のせいだ。
 およそ第二十七次程度気味の革新容器襲来だ。
 腐らない中身を開発する方向で精進していただきたい。容器を密封するとか、安直すぎる。やつあたりなのはわかっている。なんでこういうのを買ってくるかなと家族に言うのもお門違いなので、言ってはいない。

 正直言って、ゴミの分別にとっての悪夢だとか、どうでもいい。萌えの問題だ。癒やしの天使だったあの娘が真っ赤なルージュをひいてしまったという、そういうことだ。やめてええええええ、と叫びたい。そういうことを叫んでいるのですと主張します。

 私は、買わないことで変えないでを支持する。家族といえど強要はしないくらいの個人的な支持層だが、かまぼこは木の板に張り付いていてほしい。いくら安全で無害でもプラスチックの板やまして二重構造のチューブではSF映画の小道具みたいで料理して食べている自身の存在までもがフィクションに思えてくる。変えてはならないものがあるのだ。実在の重要な一部は風情に依存する。好きという気持ちに酔うことが好きを作るのである。言ってしまえば、つけていないように見えるルージュはあの娘の唇に塗ってあってもアリだというような脆さも含んだ主張ではあるのだが、これらの件に関して、ワレ圧倒的に保守であり、と記しておく。






 暖かくなってきたなあ、暑くなる前にオイル交換しておこう。と、買ったバイク用の二リッターのオイルを玄関に置いたらとたんに暑くなりすぎて。オイル交換なんて作業もうんざりだし、だいたいこんな日差しでバイクになんか乗れねえよとぶつくさやっているうちに九月になり。

 ほんの数日前にやっと二ヶ月以上前に買ったオイルを車体の内部に注いで、近所を一周して、バッテリー充電しようと思っていたけれど一発でかかったし、もういいか。次の休みにこそ、愛車を愛そう。

 と決意した日に、台風。

 ラティスも雨樋も飛んでいったよ大阪。窓開けられないので、閉じこもって三歳の息子とテレビを観ていたら(町の信号機は消えていたが、さいわいにも我が家は停電はしなかった)、先日、義祖母の葬儀で通りがかった南海電車の駅が丸焼けになっていた。雨が降り、暴風が吹けば火事も出る、と。ニコラ・テスラはトーマス・エジソンに対抗して交流電気の安全性を示すのにカミナリバチバチのケージ内部で読書をして魅せたそうだが。電車って直流で動いているのだろうか。ていうか飛んでいったうちの雨樋が電線を切ったりはしていないだろうか。とか思っていたら、飛んでいった波板でひとが死んだというニュースも見てしまい、ちょっと風がゆるんだ隙に捜しに出る。見つかった。

 ……で……
 無事ラティスも直り。雨樋も直り。次の台風は逸れ。

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『ルーバーラティス修理中』の話。

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 時間を巻きもどして話を続けるので、そこはかとなく時間軸のねじれた内容になっておりますがご容赦を。具体的には新番組『仮面ライダージオウ』の第一話を観た感想を書いていたら時間が止まって、いまの私は第二話も観たあとだけれど、止まった時間の続きを紡いでいるという。 

 台風のさなか。

 そんなふうに閉じ込められて、飽きる三歳児に様々な作品を薦めたのだが、なにしろ二日前に第一回の放送だったから、なに観ると訊いたらそれしか言わない。

「ジオウみるっ」

 ……第一回を、おととい録画したばかりである。ほかに弾がない。つまり今日の台風で閉じ込められてジオウ観るエンドレスは、おとといの三十分弱を繰り返し観る競技。ハードコア。

 ふと気づけば、ここ『とかげの月』では毎年、新仮面ライダーがはじまる前に勝手なことをくっちゃべるのが恒例だったのに、すでに新ライダーがはじまっているではないか。

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『仮面ライダービルド』のこと。

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 で、何度目かの仮面ライダージオウ第一回を観ながら、ニセビルド出てきたなあ(のちに、正確には「アナザービルド」と呼ぶのだと知る)、これから平成ライダー全員のクリーチャー化バージョンが毎週のように出てくるのかなあ、それはフィギュア屋さんは大変なことだ、ただでさえジオウとゲイツ(ジオウの二号ライダー。なんと本名ゲイツくんが変身するので仮面ライダーゲイツという。億万長者っぽい)が歴代平成ライダーの力をお借りしますなどとウルトラマンみたいなことを言っているのに、敵もまた別造形の平成仮面ライダーたちだとか。なんてことをなに言われているのかわからない三歳児と話しながら、さあてジオウについてなにを語るべさあと考えたら、案外と、なにもない。

 率直に言って、脚本は、途中であれっと思った。

 美人ヒロイン、ツクヨミ登場(なんとなく名前的にも仮面ライダーウィザードのコヨミを連想せずにはいられない。それを連想すると、平成を駆け抜けた稀代のアイドルグループPASSPO☆(コヨミ元所属)が、この夏の終わりとともに解散することも連想せずにはいられず、この十年、私の持ち歩くデバイスに必ずPASSPO☆の曲が入っていたことを思えば、平成の終わりを祝う仮面ライダージオウのツクヨミがコヨミとなんらかの関係があって、いまいちど「元」にせよPASSPO☆メンバーを召喚してくれるならば、ああ魔法だと私は悶えたい)。

 仮面ライダージオウになるだなんてふざけたことを言うなと主人公を罵っている。うん? その一方で、さっきは、未来でジオウになる主人公を殺しに来た悪のターミネーター的二号ライダーゲイツの攻撃からツクヨミが主人公を守っていた。

 タイムマシンがここにある。
 彼女は仮面ライダージオウになる子に会いに来た。
 そして良いターミネーターのようにその子を未来からの刺客から救う。
 でも、仮面ライダーになるのはふざけてるの?

 なにがしたいのだろう。
 ゲイツ同様、未来のジオウになるその子を排除したいが、ツクヨミ的には殺すことはせず、その子は生かしたいのか。

 ……は!?

 と、気づいてはいけないことに気づいてしまうゲーマーである。昭和のパソコン使いやセガサターン使いたちが、平成のいまの世になっても「おれのベストはアレ」などと言いまくるものだから、リメイク版が平成マシン向けに発売されたが、そうすると「おれのアレとは違うっ」という苦情を申し立てられまくった、ある意味愛され体質な、あの名作。

 『この世の果てで恋を唄う少女YU-NO』

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 いや、でも待てよ。未来編の映像のなかにツクヨミがいたではないですか。いやでも待てよ。タイムマシンがしれっと存在する世界において、未来にいるひとだってまた、その未来に過去から来たのかもしれず、なんら断定はできない。おかしな話に聞こえるが、タイムマシンに乗ったひとが未来からやって来た時点で、その過去にタイムマシンが存在してしまうので、すべての時間の前後関係は事実上機能しなくなる。

 というタイムパラドックスを、仮面ライダージオウの物語は、しれっと丸抱えして発進している。歴代仮面ライダーの初っぱなとして、今年の仮面ライダービルドが「2017年」のライダーとして現れたが。この一年、そのドラマを観ていて、私はそれを未来譚だと思っていた。

 去年から今年にやっていた仮面ライダーって、劇中的にも去年から今年の時代設定だったの?

 いやいやいや。平成ライダーのなかには、ビルドはともかく、あきらかに未来設定だとか、世界で唯一の元号を使う国家に属してはいないような町も出てきたような気がする。

 ここにもパラドックスがあるが、それも無視していくわけだ。

 それぞれに世界線の違う仮面ライダーシリーズを、平成のひとくくりで同じ年表上に並べて扱う。ジオウは「時王」であり(「字王」でもあるのか。放送では、仮面ライダーのおでことめになにがかいてあるかな? と、ひらがなのテロップが流れていたが、ジオウの顔にはカタカナで「カメンライダー」と書いてある。足の裏には「キック」。うちの三歳はまだ字が読めないのでまあいいが、歴代のソフトビニール人形は、足の裏には製造国の刻印があるだけなので、足の裏に「キック」書いてない! と癇癪起こす子もいるだろう。それともジオウ人形は足の裏まで作り込まれているのか)、変身ベルトにはデジタル表示でくっきり西暦が現れている。そしてその西暦2017年が仮面ライダービルドだったということは。

 それぞれの平成仮面ライダーの、放送された年がジオウのベルトには現れる。

 一方でジオウは、平成ライダー十周年記念作、仮面ライダーディケイドとは違って「レジェンドから逃げない」と発表会で語っておられた。よく意味はわからないが、上のコヨミの件での期待もあって、私はそれを、できるかぎりのオリジナルキャストで平成を振り返る、という意味で捉えた。ディケイドでは、たった十年なのに、もうすでにお子様が仮面ライダー響鬼に変身したりしていた。響鬼好きな私は、えー、と思ったものだ。

(ちなみにオリジナル響鬼は細川茂樹主演。番組当時で三十三歳という、昭和の仮面ライダーを含めても最年長ライダーだった。本人もオファーを受けて辞退をくり返したが押し切られ、という話をしているので、現在四十六歳になるはずの彼が、ディケイドでの再演を断って、ジオウでは受けるというのはありえそうもない気がするが……「みんな出るんですよ、平成最後の記念碑ですよ」とスタッフがまた押し切ってくれることを期待してやまぬ)

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 そこを、同窓会的に。
 平成ライダー二十作記念。
 十八年観ているひとを対象に、懐かしさも推していく。懐かしのあのメロディーの代わりに「ヘンシン!」である。都心のホテルのクリスマスディナーショーであると同時に、場末の温泉場の三文ショーのようでもある。ノスタルジイ。

 そういうところに来るひとは、歌を聴いていない。
 その懐メロを聴いたころの自分の人生を想い出し、それを歌っていたあのひとがあんなに老けたのだから自分も老けたのだ、そして記憶のなかのあのひともきっといまごろ……

 よろしい酒のあてである。

 そう考えると、あの曲は何年の、こういう事件のあった年、と前振りの煽りVが流れるのが懐メロ番組のお決まりで、ジオウのベルトがその役割を担っているのだとしたら、くるくる回るそれは、昭和の「ザ・ベストテン」でくるくる回っていた「次の曲はなに!」という煽りパネルにして、舞台の真ん中に据えられた主要オブジェと呼べるものだろう。

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 人生は祭。
 仮面ライダージオウはフェスティバル。

 物語の構造も単純。
 贋物(アナザー)な平成ライダーが現れる。
 やつらを倒すにはタイムマシンに乗って、本物の平成ライダー放送年に行き、本物平成ライダー先輩がたの力を借りねばならない。

 本物平成レジェンドライダーが登場するし、今年のジオウとゲイツが、レジェンドライダーをアーマー化して装着するからオモチャいっぱい夢いっぱい!!

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 平成仮面ライダー二十作品記念作であるジオウだが、昨年のビルドと、その二号ライダークローズをそれぞれジオウとゲイツが纏う。このパターンでいくと、二十作終えるころには数十体のソフビを作る必要がある。ちなみに変身ベルトジクウドライバーにレジェンドライダーの力を宿したライドウォッチなるものを装着して纏うのだが、このライドウォッチの正規版玩具がAmazonさんでは、すでに軒並み黄色い三角マーク(参考価格:¥1,620を越える価格、つまり定価以上の価格で売ろうとする業者に注意しなさいのマークだが、これがついていない販売元がない。人気の仮面ライダー電王のは六千円超え。これを見ても、今回は平成を生き抜いた平成成人たちのための祭だ)。

 そういった物語の性格上か、平成半分記念作タイムトラベラー仮面ライダーディケイド(と、つい書いてしまいがちだけれどディケイドは平成二十一年の作なので、平成区切り的には三分の二作品。正確には平成仮面ライダー二十作の半分作である)のなかのひと造形がオラっていたのに対し、今作では弟キャラである。レジェンドライダーに頭を下げ、カワイイやつだとイジられたりもする。ちゃんとバイクにも乗っているし、ひとことで言えば、派手さがない。先輩たちの姿と能力を纏って戦うのは同じでも、ディケイドのときと違って、平成は終わる。逢いに行く先輩ライダーたちは、時代を完遂し完成させた偉人たち。敬う心を持ち、真っ白なキャンバスになんでも描ける清らかな主人公が必要だった。

 平成ライダーの崇拝者たるジオウ。
 主人公が信者。
 これはなかなか、描写が難しい。

 脚本は、下山健人。
 ノリでいうと『手裏剣戦隊ニンニンジャーVSトッキュウジャー THE MOVIE 忍者・イン・ワンダーランド』が、わかりやすい。

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 突然、電車内で始まって、だれが味方なの敵なの、ああ襲われた、きみは味方なんだね、勢いで絡むぜ変身!! の流れが、そのまんま仮面ライダージオウの第一話だったので、そのひとのそのひとらしい筆はノッている模様。ということは、今後も『忍者・イン・ワンダーランド』ノリであることが予想される。すなわち。

 『忍者・イン・ワンダーランド』あらすじをAmazonさんから引用。

『「夢の忍者ランド」は、本当は「闇忍者ランド」。シャドーラインの残党・闇博士マーブロが、伝説の忍者の「闇クローン」を作るため、ニンニンジャーをおびき出したのである。天晴=アカニンジャーが闇のオーラに包まれ、そこからハイブリッド忍者「闇アカニンジャー」が誕生! このままでは天晴の忍タリティが失われ、天晴自身も消滅してしまう……。今こそ、2大スーパー戦隊が力を合わせるとき。忍タリティとイマジネーション、そして「家族を想う力」で、最大の危機に立ち向かえ! !』

 すでに闇アナザー仮面ライダービルドが現れ、それを闇ジオウにならなかった白い仮面ライダージオウが倒した。

 そう、このひとの脚本は、悪役はすべからく雑魚だ。闇、と書いてはいるが、闇と明示した時点ですでに倒されることが確定している悪である。悪に落ちるとか、ダークサイドとか、堕天使とか、そういうことではない。「正義」と切り離されたアナザーな「悪」が、なんの背景も持たずに突如として生み出される。

 実体となって現れた悪を、正義のヒーロー本人が倒す。しかしまだ、憎しみとまでは呼べないにしても負の感情があることに、ヒーローは気づいてしまう。

「おまえのなかにそれはないと言い切れるのか!?」

 だれにだってある。
 迷うヒーロー。
 ここで黒い羽根が生えかける。
 絶対悪を倒したうえで、あらためて悪ってそれだけかい? とダークサイドに墜ちかける二段論法。

 けれど彼らは乗り越える。

 そういう構図を、感動ポルノと表現したひとがいたが、私はポルノ推進派なので、まったくもってそれを悪口とは感じない。フィクションドラマにおける感動は、いかに観客を酔わせイかせるかという思考で作ってあって間違いない。

 彼らは、どう自分の暗黒面と向きあうのか。
 『忍者・イン・ワンダーランド』では、兄弟愛だった。転じて家族愛であり、駆け寄ってくる仲間たちとの愛だ。

 兄弟愛、家族愛。
 幼少時代の回想は必須であろう。
 生き別れの未来かもしくは過去から来た……げほんげほん、おっとノドになにか詰まった。

 『忍者・イン・ワンダーランド』では、ニンニンジャーとトッキュウジャーとその他もろもろでメンバーが大所帯だったから、彼と抱きあい彼女と抱きあい、みんな家族だ仲間だ、と盛り上がれた。そう考えると、そりゃあもう、最終的に平成レジェンドライダー総登場でラスボスに立ち向かうのであろう、約束された平成最後の地へ向かう仮面ライダージオウには、家族も仲間も、あり余るほどいる。

 仮面ライダーファミリー。

 という方向性で、このひとはまとめあげると思う。
 そつなく。
 記念作とはそういうものでよいとも思う。
 そういう意味で、タイムマシンで去年のライダーに逢いに行くよ、ぼくはライダーに変身する運命だったよ、バイクにも乗るよ、なんかキックも出せる気がする。という始まりように、衝撃を受けるところがあるはずもなく、バイク乗りとしてイジリたいところであるオートバイに至っては、ここ数年ずっとホンダCRF250なのを踏襲している上に、顔同様大きな時計を前面に貼りつけカタカナでバイク。驚きようがない。案外と語ることがないと語りはじめることになってから数十行。しかし語ってみれば、なんのことはない。

 これは安心だ。
 とどこおりなく平成を終える道が見えた。
 もうすでに、ラストシーンの大きな花火へ、拍手の準備をしている。
 王道のヒーロー、仮面ライダーらしい平成最終作となろう。

(第一回を観て、すでに来年の新ライダーを想ってしまうのは、平成ラストライダーでタムトラベラーで、そうなるんだろうなとわかってはいたのに、平成仮面ライダーの毎年の革新さに調教された期待値が私のなかに今回もあったから。今年はこれでいい。前夜祭だから。客を驚かせるステージではなく、知っている歌を知っているように聴かせてホロ酔わせるのが目的なのだから。おひねりが飛び交う、この国だけに許された世紀末。そして新世紀が来る。わくわくして、そわそわして、この一年を酔うことにする)

 平成、終わるんだってよ。
 知っていたけれど、仮面ライダーで、いよいよかあ、と、うなずく秋の訪れ。

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