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 まずは生地。
 トルティーヤの制作。

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○材料

全粒粉 300g
水 200cc
オリーブオイル 大さじ1
塩 小さじ1/2

○作り方

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1. 水にオリーブオイルと塩を入れ、粉を入れます。パサパサして見えますが、パサパサで固いものを作ろうとしているので、こんな感じ(左側が白いのは、ストックの全粒粉が少し分量に足りなかったので強力粉を足した)。

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2. ほらまとまった。こんな程度でよし。発酵させるとかそういう食べ物でもないので、なめらかさなど必要ありません。なじませるために、乾燥防止のラップでくるんで冷蔵庫で一時間ほど寝かせます。

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3. 寝かせ終わったら、適当にちぎって、ラップ二枚で挟んで麺棒でのばします。固い生地なので打ち粉もなにもいりません。できるだけ薄くのばすこと(生地が固くて食べるのがしんどいので)。

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4. 焼きます。両面に軽く焦げがつくくらい。中火。何度も申しますが、固い生地なので、ここでも油はいりません。私は鉄フライパンを使っていますが、くっつく気配はまるでない。

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 次にサルサソースの制作。

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○材料

トマト缶 1缶
ピーマン 1個
玉ねぎ 1/2個
豆 適宜
ニンニク ひとかけ

塩 小さじ1/2
レモン果汁 大さじ1
粗挽きブラックペッパー 小さじ1/2
オリーブオイル 大さじ1

○作り方

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1.トマト缶をフライパンに開け、熱しながら実を砕き、半分くらいの量になるまで煮詰めます。

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2.そこへ加えるものたち。材料にはピーマンとありますが、今回は冷凍パプリカを使用。玉ねぎは微塵というより荒く。缶詰のミックスビーンズは、そのまま食べられるものなので火加減を考えずに済む。玉ねぎがシャキッとしているのがいいか、ヘタッとしているのがいいかだけを考えて、一分から五分まで、好きなように煮込んで火を止めます(それ以上煮込むと豆が崩れはじめます。どろっとしたのが好きならかまいませんが)。

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4.あら熱が取れたら、レモン果汁含め調味料群を投入して混ぜ、器に移して冷蔵庫へ。

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 アボカドと、キャベツの千切り。
 揚げた鶏とニンニク。
 ブラックペッパーを振って、タバスコ。
 あと、テキーラ。

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 クリスチャンエラ二千十七年の一月五日。
 つまり、今年の最初の『徒然』は、こういうのでした。

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『私のタコス』の話。

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 自己引用。

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 正直、豆とか虫とか、彼らの昔話のように、売り物にはならないから我が家で食べていたタンパク質にすぎないわけで。肉があるなら肉でいいでしょう。豆、美味いか? 豆腐は好きだが、トルティーヤで炒めた挽肉を巻くのならば、私は、豆は、いらない。

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 などと書いていて、一年もたたぬ十一月。

「もっさりしたタコスが喰いてええ」

 と、なりました。
 折しも、我領存亡の危機というようなことで、出張に会議というか責任のなすりつけあいというか、だれが嫌われ役になるかというような、そういう胃の痛くなる日々を過ごしているなか。

 胃が痛いのに、刺激物が食べたくなる。
 一種の自傷なのだと思う。

 しかし、心が求めるのはママの味で、でもママがぼくにタコスを作ってくれたことなんて一度もないのですけれど、なんというか、ほらそこのニュアンス。まさに上の回で、私が小説に書いているそれです。

 塩辛いミソスープを飲むとママンを想い出して泣ける。

 的な。たぶんそれって毎日のことではなく、たまたまひどくしょっぱい味噌汁になってしまったときがあったというようなことが、ズドンと記憶には撃ち込まれている。彼とは毎日のようにしまくっていたのに、彼のあれが勃たなかった一夜のことだけを、あの背中こそが彼のように記憶してしまっている、みたいな話。

 つらいと、固いトルティーヤに、豆だらけのサルサソースと、首を斬って焼いた鶏の欠片を包んだようなのが、食べたくなる。食べながら、ちくしょう、ちくしょうと言いつつ、アゴが疲れてきてもちくしょう、ちくしょう、と。

 豆、美味いか?

 違うわ一月のおれ!! 美味いとか美味くないとかじゃねえんだよ、小洒落たレストランの豆腐タコスにタマシイなんかねえと小説のなかでは言わせながら、自分は美味いか美味くねえかなのかよ!! 浅ぇよ!!

 というわけで、言っておきます。
 一月のレシピのほうがだんぜんに美味い。

 それがわかっているのに、年にいちどくらいは私が作ってしまう、豆が入っていて、精製されていない小麦粉を使う、泣きながらアゴを痛めるためのタコスのレシピを掲載した今回でした。

 指の股に塩盛って、生レモンをかじり、ただ酔うために飲み干すテキーラの作法が現すのは、口にものを入れる行為によって自身の肉体がここに在ることを確認せずにはいられないときが人生には往々にしてあるということ。味とか心とか、そんなやさしいものはそんなときどうでもよく、痛めつけるほどにアゴを疲れさせ、喉を焼いて前後不覚にさせてほしい。

 タコスとは軽食という意味だそうだ。それを思うとき、私はいつもゲーム『レッド・デッド・リデンプション』の世界にいる。

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(上の画像は、XboxOneでもプレイできるようになったXbox360の『レッド・デッド・リデンプション』の酒場。XboxOneで動かすにあたり、7GB越えのアップデートを組み込んである。ただ互換させるだけではない互換作業、ご苦労さまです)

 あのメキシコ。砂まじりの風に吹かれて、遠くに銃声を聞きながら、明日の自分の肉体を維持するためのタコスを喰らい、心を静めるためのテキーラを飲んでいる。だから、歯ごたえのあるトルティーヤは、余裕だ。食べる時間が確保できていて、酔いつぶれても生き延びられる状況でないと、口にはできない。それがすなわち生きていることの証明となって、なにを為すわけでもないが、ここに在りはする自分と折り合いをつけられそうな気がする。

 実際どうかは、また別としても。もがくくらいは。笑う真似くらいは。してみないと、荒野をさまよう自分で自分は救えない。

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ハロウィンです。
といえばカボチャです。
オレンジ色のな。
ほら、この国でも通用する。
それくらいの普及具合。
ハロウィンのカボチャは黄色。
ジャックオーランタン。
なかにロウソク点すやつな。
アレ作るときって、
なかの実はくり抜くわけで。
食べるんですか?
ノンノンノン。
パンプキンパイは作っても、
それは別のカボチャを使う。
グリーンのカボチャでな。
オレンジの中実は捨てます。
もったいない?
ノンノンノン。
もともと食べられません。
渋いの。
観賞用の品種なのです。
黄金の小麦のイメージ。
豊穣の黄色だいだい色。
まず色ありきで生まれた、
祭り装飾用カボチャ。
であるのですが。
向こうだとガチの行事で観賞用カボチャ農家も成り立つが、この国のハロウィンごときでは、専門の業者は難しい。
で、私は種を売っている。
そういう仕事もしているのだが。近年、この国もガチ勢が増え、店に来て、のたまう。

「育てる気はないの」

育ったのを売れと言う。
まあ、あるんですけれども。
食用カボチャよりも、お高い。
とはいえ、売れるので売る。
売場が大規模になる。
やむなく装飾する。
販促ジャックオーランターン。
作るのです。くり抜いて。
中実は捨てます。
食べられないとわかっていても、なんかゴミ箱に入れるのはイヤです。
食べられるものでやればいい。
瞳をつければなんでもさあ、ほら、ハロウィンぽい。
カラーピーマンとかでいい。
バーベキューにしよう。美味しくいただけます。
もったいない、が、美徳の国。
祭りもアレンジしましょう。
装飾用の眼球を売ればいい。
ずらっと棚に並べてな。

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 真理子は宗教を信じていたのではない。人間を超越した存在を体感していたのだ。この二つは似ているようで性質がまったく異なる。

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 三浦しをん 『夜にあふれるもの』

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 このところその話をしているので、それで例えると、二歳児がオモチャの仮面ライダーベルトを装着して変身ポーズをとるとき、そこに信仰などというものはない。彼は変身する。本当に変身するのだ。

 いっぽう、同じ番組にワクテカしつつ、大人の私が仮面ライダーを見つめるのは、崇めると表現したほうがいい。私は変身できない。二歳児よりも、仮面ライダーというものを具体的に理解できているし、なんならSFチックな二次小説だって書けてしまうくらいに「信じている」。だが、どうやったって、変身ポーズをとったとき、自分自身が、その神と一体になったような恍惚を得ることはできない。

 想像してごらん。

 ハロウィンに、お盆に。死んだ家族が、私たちのもとへもどってくると本気で信じていたころの人々が、ジャックオーランタンにロウソクを点したり、なすびで馬を作ったり、灯篭を川に流したりするときの気持ちを。

 迷わぬように。
 無事にまた死者の国へ帰れますように。

 夜通し泣くひともあれば、再会のまぼろしに微笑んで乾杯するひともいるはずだ。

 まぼろし、と。

 自然に、私は書いてしまう。想像することはできる。お盆に、おじいちゃん、とつぶやくことは私もなくはない。けれど、体感はできない。どうしたって、私が生むまぼろしに、私自身が触れている気になっているのだと思う頭があって、恍惚とはなれない。

 真理子は、神の存在を体感してエクスタシーによって気を失う。

 エルビス・プレスリーのコンサートでは、バタバタひとが倒れたそうだ。エルビスの生き神具合がものすごいのか、当時の観客の信じる心がすさまじいのか、はたまた、実のところ私の知らないだけで、いまだって街角では「人間を超越した存在を体感して」その恍惚に気を失うひとだっているのだろうか。

 宗教色がまったくなくなってしまったハロウィンに、オバケカボチャを自宅に飾りたがる彼女は、死に触れる雰囲気を好ましく感じているのだろうか。

 そういえば、小さな死、と呼ばれる性的な快感によっても意識が飛ぶにまで至るというのはよく聞く話だし、私もポルノを書くので、作中では、彼の頭がしあわせな結合の果てに真っ白になってエピローグへ、なんていうおやくそくはよく使う。でも、実体験では皆無だ。

 それも信仰心の問題なのだろうか。言われてみれば、まったくセックス関連のことに神聖さを感じたことはなく、とことんに生々しい認識ではある。

 仮面ライダーに頭のなかでさえ「本当に」変身できなくなってしまったのと同時期に、保護者の姿が見えなくなって世界の終わりのように大泣きするということもなくなった気がする。

 車で出かけた先の公園で、父とケンカしたのをおぼえている。小学生にはなっていなかった歳のころだ。

「そんなにたのしいなら、もう今日は釣りやめてここにいるか」

 そう、父は言ったのだ。
 当時の彼は、私を釣り好きにさせたかった。自分の趣味なので。連れて行かれれば、たのしんだ記憶もあるにはあるのだが、釣りに行く前に寄った公園で、それどころではないはしゃぎようになる程度の関心だった。

 口走ったものの、父は数十分後に、それを忘れた。

「そろそろ、川に行くぞ」

 そう言い出したのである。
 私は断固拒否した。今日はもうこの公園で帰るまですごすと決めた、父さんもそう言ったと、意思表明したうえで、父を無視して遊び続けた。

 父はキレた。
 母は、確かにあなた釣りやめようかと言ったわよと援護してくれたが、そんなのはもう忘れているし、父にとって、その発言は晴れた空を見てなにげなく晴れているなあ、と言った程度のものだった。

 だったら遊んでろ、と捨て台詞を吐かれ、父は車に向かった。

 私は、それでも無視して遊び続けた。両親の姿が見えなくなっても。きっと、向こうはどこかから見続けてはいたのだろうが、そんなのもどうでもよくて、遊び続けた。

 数分して、父がもどってきて、叫んだ。

「どうやって帰る気なんだ!」

 私は、こう言った。

「帰れるもん」

 叩かれた。
 力尽くで車に連れて行かれ、川に釣りに行った。

 その日の、釣りの様子はまったくおぼえていない。クソつまらなく、クソ気まずかったはずだが、それはすっかり忘れているのに、あのときに公園で考えていたことを、いまでも思い出せる。

 電車、もしくはだれかの車で帰ろう。

 そう考えていた。
 お金は持っていなかった。
 しかし想像のなかでは、私はなんとか駅を見つけて電車に乗って、自宅の最寄り駅まで帰る。もしくは、見知らぬだれかの車で家の近くの見知った風景まで戻っていた。

 なにかを信じていたのだった。

 両親を無視して、置き去りにされても、あのとき、公園で遊ぶことに私は集中できていた。怖くなかった。たのしかった。

 父が戻ってきて私を叩いて連れ帰らなかったら、もしかするとあの日、公園のなにかの遊具でひとりぐるぐる回ったりして奇声をあげながら、気を失うような絶頂の果てに到達できていたかもしれないと、思ったりする。

 ハロウィンという奇祭も、かつてはそうだったのではないか。オバケカボチャの放つ光のなか、生け贄の豚や牛が死者に捧げられる。断末魔をあげるその腹を割いて内臓をホルモン焼き、舌も睾丸も引きちぎってシチューを煮る、流れる血で顔にペイントをして、太鼓が叩かれ、木の枝が打ち鳴らされ、怪しげな酒やハーブだって配られたことだろう。焚き火のそばでセックスしている生きた男女がいて、帰ってきた死者とダンスしている未亡人が奇怪な声で笑っていたりする。

 そりゃまあ、イキやすい条件ではあろう。

 あの公園で、父と母が去って行ったとき、生け贄の首が落とされ、その血で自分の顔にペイントした。体感していた。置き去りにされたひと桁年齢の子供が、家に帰れないくらいなんでもないくらいの人を超越したなにかに達し、父と子と聖霊の三位一体をたましいで感知して、放っておいてくれたら見事に昇天していたに違いない。

 なにかを体感する、というのは「ああ私がとてつもない位置にいる」という恍惚である。エルビスやキリストの能力によってイかされるのではない。それに触れる位置に達してしまった自分の立ち位置もなく中空に浮かんだ様子にイくのだ。さっきまでいたからこそ、その保護者が自分を置いていったことに、おおおぉっ、となる。

 あれ……これって、いわゆる放置プレイか。

 どうもうまく信仰の話は紡げない。信仰心というものがない。尊敬するひとはいるが、心酔というのとは違うし、だれを、なにを愛するにしても、燃えあがるというようなものではなく、愛でるという表現が近い。

 気を失うくらいのなにかを感じたり達したりすることは、私の人生にはないのかと思うと、まあ寂しくはある。




 あたし、意外とMotoGP好きで!
 おもしろいから!
 あの、食わず嫌いなひとも多いだろうから。このひとが好き、このジャンルが好き、で、それしか見ていないと損してる。テレビっておもしろいことけっこうやってるわよ、まだ。


 マツコ・デラックス

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 『しゃべくり007』で、世間の人々のテレビ離れについて訊かれた姐さんが、そう答えていて、あーわかるわーMotoGP好きそうだわーこのひと、と、うれしくなった、今年のMotoGPも波乱のうちにシーズンが終わって寂しいような、来年から最上位クラスに日本人が参戦することで待ち遠しくてたまらないような、ここにもひとりのMotoGPファンがいるわけですけれども。

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『ひとのタイヤ見てわがタイヤを交換する』の話。

『8月19日はバイクの日』の話。

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 なにをもって姐さんが自分で意外にと言うバイクレースなどを好きそうだと思ったかといえば、たしか去年だったか『マツコの知らない世界』でプ女子がプロレスの楽しさを語るという回で、新日本プロレスのオカダ・カズチカが連れてこられたとき、姐さんが異常に興奮されていたのを見たからだ。ちょいちょい本人がコメントしているので察しがつくが、あのひとの性的嗜好からすると、もう少し脂ののった年代の男性に目をキラつかせるタチなのに、それとは別個の視点として、若いオカダ・カズチカの張り詰めた胸筋に触らずにはいられないようだったから。

 私も、今朝はドラゴンゲートプロレスYAMATOが挑む『ナゾ食クッキング』などを録画予約して、彼の裸エプロンからはみ出る胸筋にキュンキュンしてはいたものの。

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日本テレビ スッキリ 公式Twitter

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 性的嗜好としてはノンケだし、それでも男性の好みはと訊かれたら、チョウ・ユンファも館ひろしも白髪まじりになって枯れてきたのが良い風情だわあ、というところだ。

 そういえば、今月、私がテレビを観ていてもっとも大きな声で歓声をあげたのは、新日本プロレスの生中継を見ていたら、クリス・ジェリコが現れた瞬間だった。

 Y2Jである。

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 会場でも、キョトンとして、だれこの枯れたオッサン、という顔の新規ファンも多かったが、テレビの前の私と声を合わせ「Y2J!!」と叫んでいた古参のファンも多かった。

 ちなみに、元ネタはY2K。コンピュータの2000年問題。二十世紀、西暦は二つの数字で1998年のことを「'98」と書いたりした。その表記をもとにプログラミングされたコンピュータたちが、2000年になったら「'00」を2000年なのか1900年なのか、はたまた0000年なのかと勘違いして、世界は大混乱に陥って人類滅亡!! みたいなことが問題になっていたのだ。

 なんでもネタにするプロレスリング。ちなみにオカダ・カズチカは、訪れる場所すべてに金の雨を降らせるレインメーカーというのが通り名であるように。

(どことなくオカダ・カズチカがマット・デイモンに似ているのも、そう呼ばれるようになった理由のひとつではあろう)

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 クリス・ジェリコは、Year 2 Kilo問題になぞらえて、Year 2 Jericho=Y2Jと呼ばれるようになった。世紀末と新世紀を混乱の渦と化すレスラー・クリス・ジェリコだ。そのコールが会場にこだまするとき、言葉の響きは混乱を起こすと言っているのに、どこか宗教的な、救世主を崇めたたえるかのような雰囲気になったものだった。

 そのとき、彼は世界最大のプロレス団体に所属していた。そのとき、というのは、もちろん2000年問題を語っている当時なのだから、1990年代である。そこから二十年ほどが経ち、ついこのあいだまではその団体の所属で、このリングにしか自分は生涯あがることはないと明言していたプロレスラーが、なんの予告もなく、日本のプロレス団体に現れて、チャンピオンベルトに挑戦すると言ったのだった。

 つまり、二十年以上も世界のプロレスを観てきた者たちにとって、あれは白目を剥いて卒倒してもいいくらいの出来事だったわけだが、年季の入ったプロレスフリークたちは、卒倒したらその先の展開を見逃すことを知っているので「Y2J!」コールでそれに換えた。

(ジェリコが挑戦表明した、現日本の最大プロレス団体のチャンピオンが、数年前には私も美少女化を願っていたヒゲ男。

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『DDT両国ピーターパン2014』のこと。

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 だというところも、国内のインディプロレスも長らく観てきた身にとっては卒倒ポイントだったので、そっちのコメントも聞き逃すわけにはいかなかった)



 思えば、この国のテレビは力道山から始まっている。

 到底、庶民が買えない値段の生まれたばかりの超文明品テレビを、街角に置いて街頭テレビとしたら、力道山の活躍するプロレス中継に、連日、数万人が集まったという。いまでいう大型テレビのようなものではない。街角に置かれた、十数インチのテレビに数万人だ。なにをやっているか見えないひとのほうが多い。だが、いまだって、パブリック・ビューイングというのはそういうものだ。家で観たって同じものを、みんなで観るから、まるで会場。当時は、家で個人で観る手段がないのだから、街頭テレビに群がる人々の熱気そのものが、触れるべき時代の空気であったのだろう。

 そこから、六十年以上が経っている。

 けれど、マツコ・デラックス姐さんが、テレビ離れ世代に「テレビってまだおもしろいものやってる」と言う、その例えがMotoGPだったりする。あれは、会場の熱気をテレビで疑似体験する空気感こそが要の競技だ。排気量を分けた、ほぼ同列のマシンで、よーいドンとやって、だれの技術をもってすればもっとも速く走れるかという、かけっこ。

 二十一世紀で、ノンケの私までキュンキュンさせるのはプロレスラーの胸筋の膨らみで、白髪まじりになって、なんの事情がどうなったのかわからないが(きっと金銭的な……)、骨を埋めると言っていた場所から出て日本に現れた、前世紀末の熱狂の中心にいたY2Jだったり。

 私の息子は二歳にして仮面ライダー好きだ。続けてキュウレンジャーも観ている。キュウレンジャーはスーパー戦隊シリーズ四十一作目。

 四十年以上経って、こう言ってはなんだが、突きつめるとやっていることは毎回同じだ。スーパー戦隊を、最初にアメリカに持っていったとき「なぜあの変身してからの名乗りのときに敵は攻撃しない?」というのがリアルではないと視聴者が受け入れなかったのを、だれかが「あれこそニッポンのカブキ文化だ」と言って「おう」と受け入れられたという。

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 実際にそうだと思う。だとしたらキュウレンジャーを撮っている東映さんは時代劇の老舗でもあって、名乗りはむろん時代劇でも必須の作法であり、これもまたテレビ黎明期までさかのぼってしまう。

 テレビが生まれたときから、お子様は風呂敷のマントを着けて、新聞紙を丸めた刀でチャンバラごっこに興奮し、大人だってチョップだキックだ100メートル走だとか、根源的にはなにも変わっちゃいないのである。

 いまでも、テレビはおもしろい。勧善懲悪なスーパーヒーロー活躍譚やメロドラマ、筋骨隆々とした半裸の男たちが力比べをしていたり、時速300キロでクラッシュするオートバイを目の前に差し出されながら、それに集中できないというのは不感症と呼んでいい、こちら側の問題だ。

 私はゲーマーなので、それも否定しない。娯楽の多様化で街頭テレビに数万人なんてのはもう難しい。ただ、姐さんと同じ意見だということは表明したい。あれもそれもおもしろいのに、たのしまないとたのしみかたもおぼえられないから、離れていってしまう。それは、本当にもったいない。

 子供が時代劇を観てチャンバラに興じている姿は、普遍的ななにかを宿す光景である。というわけで、ようやくここで今回のタイトルの件なのだが。

 前回の続き。

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『ミニビルドドライバーを改造する』のこと。

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 キュウレンジャーもだった。
 マクドナルドのハッピーセットで、セイザブラスターを頂戴たてまつったのだが。

 DX版はこんな感じ。

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 ハッピーセットのが、こう。

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 説明書に書いてある。

「指にはめて遊んでね」

 なーんーでーかー。
 ハッピーセットはカプセルに入れる必要もない。このサイズなら、チャンバラごっこがちゃんとできるように、本物同様、手首に留められる構造にすることはできるはずだ。なぜしない。

 なぜ私にゴムバンドを縫わせる。

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 四十一作もやってきて、マクドナルドのハッピーセットになったのが何作目からか知らないが、ハッピーセットはトミカのときもそうだった。トミカ公式だと銘打ちつつ、微妙にサイズが大きくて、トミカの道路は走れないものを作ってくる。

 セイザブラスターを、わざわざ手首に留められない構造で作る意図って? 当たり前の娯楽を当たり前のままくり返す。スーパー戦隊なんて、その最たるところだろう。ふつうに毎回、ふつうに直立姿勢のソフトビニール人形がうれしいんですけど。仮面ライダーでもハッピーセットは、ボタンで武器を発射する妙なポーズのフィギュアとかをくれる。

 テレビ離れする視聴者の側にも問題はあるが、提供側にも、往々にしてそういうところがある。もう半世紀以上も変わらずやっているものを、ひねるんじゃない。まさに、スーパー戦隊も仮面ライダーも四十作を超えて原点回帰をうたっているところだけれども。

 原点回帰?
 プロレスのように、レースのように。
 変えないまま進化する。
 そこのこだわりって、魅せる側が忘れてはならぬところではないでしょうか。

 おやくそくこそ、いつだって最強。

 人類も動物。基礎欲求で動いているのです。食欲も睡眠欲も性欲も人類が忘れることがない以上、朝の番組にセクシーなプロレスラーを裸エプロンで登場させて肉料理させる以上のキラーコンテンツなんてない。メロドラマを、もっとメロドラマを!! 競え!! 歌え踊れ!! 変な衣装を着させるな、アイドルはミニスカートとビキニが制服だ!! 仮面ライダーはバイクに乗れ!!

 それでいい。