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 なぜこうも連日、訃報からインスピレーションを得ているのだろうと哀しくなるが、なにごとも失ってはじめて気づくというのは本当のことで、はたと手を止めて見わたすと、過ぎゆく日々は味気ないようでいて実に多くの「他人」の手によって彩られているものだと思ったりする。

 という、この文章を読んで人生の貴重な数分を使っているあなたにとっての私だって純然たる「他人」なわけで、この文字のひとつひとつを私が私の指の一本ずつでキーボードを叩いて入力しているのだということを、真の意味で理解しているとすれば、これは一種の遠隔的な愛撫ととらえることもできるから、私がどこかにいるあなたのことを想いながら書いているのは事実だけれども、始終それを意識されては重たいし気持ちも悪いことになるので、やっぱりふだんはさして己の人生の風景を彩ってくださるどこぞのだれがしさまのことなど生々しくは想ったりしないのは精神衛生上も必要な技術ではなかろうか。

 ディック・ブルーナの絵本は、我が家にもあった。

 男三人兄弟だ。どちらかというと、彼の絵本は女児向けのような絵柄だが、図書館から借りてくるというのではなく、家に何冊もあった。母は洋裁家なので、デザイナー出身のディック・ブルーナに対する想い入れなどがあったのかもしれない。

 そんなわけでいま、我が家の一歳の息子も、アンパンマンとディック・ブルーナにジャストミートな感である。

 と、書いてみて、間違っているなと気づく。それを書くのならば、こう書くのが正確だ。

 やなせたかしとディック・ブルーナ。

 もしくは。

 アンパンマンとミッフィー。

 ……ミッフィー。
 これにどうも私はピンとしない。

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 ダルマにしてみても、ふたつの点とバッテンだけで、世界中のだれもがうさこちゃんだとわかる共通言語ミッフィー。

 しかし、私は、この記号に接すると、ディック・ブルーナの名のほうを頭に浮かべてしまう。もしかすると、母が読み聞かせでうさこちゃんをブルーナと呼んでいたのではないかと疑うが、だとするとおかしなことに、その記号を目にしたとき、私の頭のなかに現れるのは、ヒゲのおっさんなのである。

 それ自体の記憶は薄いが、デートでディック・ブルーナ展などというものに足を運んだような気はする。あまり自分自身が興味のないジャンルでも、美術展に行くとパネル展示の膨大な文字情報を読まずにいられないタチなので、そこで彼の略歴や思想を摂取したのだろうか。なぜだか、彼の肖像だけでなく、立ち位置などについても知識がある。

 点とバッテンだけで世界を牛耳った人物。デザイナー界の伝説。彼はもともと、本の装丁などもやっていて、歴史的に見れば、カバーで本を売るという概念を世界にひろめたひとでもある。彼以前の本のカバーとは、シリーズでまったく同じデザインで、文字情報のみが違うというのが当たり前だった。いまのように、毎週出版される雑誌の表紙が毎週違うなどというのは、想像だにされないことだったのだ(印刷技術の進歩というものの要素も大きいが)。

 彼の生み出したキャラクターよりも、ディック・ブルーナという人物に私は興味を深く持ってしまったのかもしれない。そういうことの結果なのか。

 うさこちゃんは、私のなかで、おっさんだ。

 つまり、アバターだ。

 発売から一年以上経つが、いまだ毎日私がプレイしているゲーム『Halo 5: Guardians』。

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 その仮想空間に棲む私の姿は、こんなのだ。


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 Xboxというゲーム機は北米での販売台数が抜きん出て多いので、自然、オンラインでの対戦相手も、そのあたりのかたとご一緒になることが多い。そしてこのゲームは、狩りに行こうぜとか、そういうノリではなく、一期一会で集まった数人が十数分の試合を終えたら解散というシステムなうえ、試合自体も寡黙でストイックな競技であり、やっ、とか、おぅ、というようなテニスでもプレイしているかのような相手の声しか聞こえてこない。そういうスポーツを観戦されるかたならご存じのように、人間の吠える声というのは、必死の状況下では言語体系に左右されることがなく、発するのがナニコク在住のナニジンだろうが、同じだ。イキの表現としてアジアはイクイクだけれど欧米はカモンカモンだというようなことが言われるけれど、そこを越えた白目を剥いての本能から漏れ出すあえぎ声となると、そんなもの同じ動物なのだし同じ構造の声帯なのだから、同じになるに決まっている。

 Halo空間で私の纏うエンブレムは現在、日の丸を意識したものである。アメリカ大統領選挙のクライマックスに合わせて変更した。アメリカンプロレスの最王手WWEで、日本の元NWCやドラゴンゲートの選手たちが台頭著しいのも意識にあった。もともと、名前がYoshinogiだということで、日本でなにか事件が起こると、向こうのゲーマーたちから疑問符のついたメッセージの届くことはあったが、一期一会の試合会場でも、お、こいつニッポンのプレイヤーかよ、と認識されたうえでどう扱われるのかを、愉しみたいというところがあって、この時節柄、あえての民族主張を試みている。

 一方、みずからをまったく無個性な正体不明のアバターで表現しているひとたちも実に多い。彼ら、もしくは彼女らは、試合中も不用意に声を発したりしないどころか、基本的にマイクをオフにしている。かといって、匿名性を笠に着て、無礼な態度なわけでもない。むしろ礼儀正しいひとたちが多い。純粋に試合を愉しみたいという想いで、みずからの個性を没しているのであろう。

 いまだ、テレビゲームの世界では、人間のようにスポーツライクな試合をこなせる人口知能はいない。将棋や囲碁ではAIが人間に勝ったと騒いでいるが、一瞬でメキシコのだれかと一局打てるのに、わざわざ機械を相手にすることはない。互いに対戦相手を欲しているものたちが世界中にいくらでもいて、彼らをつなぎあわせるインターネット網も地球には整備済みなのに、わざわざ凝った人口知能など造る必要性がない。

 話すのが煩わしければマイクを切ればいいのである。正体を知られたくなければ、本当の自分とは異なる性別の、異なる見た目の、異なる没個性なアバターを持てばいい。対戦相手にとって、対戦相手は対戦相手にすぎず、明日の友人や恋人を、さがしているのではないのだから。

 地球の裏側で、戦う私のアバターは認識されているが、私自身が認識されているのかどうかは、なかなかに曖昧なところだ。私は対戦相手にとって、人口知能よりも戦いがいのある「他人」だということだけが価値なのであり、私は私で、私が日本という国にいることを相手がどう受け止めようが、それぞれに愉しめるから晒しているにすぎない。

 そういう意味で、ミッフィーを見つめる。

 アンパンマンを見つめても、帽子のおじいちゃんを連想したりはしないので、アンパンマンは、やなせたかしアバターとは言いがたいが、ミッフィーは、やはりディック・ブルーナのアバターだ。

 デザイン的である、ということが逆説的に働いている気がする。意図的に簡略化した、没個性の権化のようなアバター。アンパンマンはアニメと絵本で絵柄が違うが、うさこちゃんは簡略に過ぎて絵柄と呼べるものさえもが消失してしまっている。ミッフィーはどこの国に棲んでいる、ナニジンだ? ウサギなのか? 後ろ脚で立って、スカートを穿いているのに? 右に歩いても、左に歩いても、走っても、彼女(もしかして彼?)は、絶えずこちらを見ている。斜めを向くということさえもない、横顔のないキャラクターである。つまり、いついかなるときでも、等間隔のふたつの点とバッテンだ。それでいて数え切れないほどの物語の主人公である。アンパンマンは泣くし怒るし困った顔もするが、ミッフィーの能面ぶりときたら、むしろ能面さえ真っ青なレベルで、能面というものは角度によって表情がつくように設計されているが、あのうさぎにはそれさえもない。

 そういえば。

 一歳児が、ミッフィーに魅入りはじめたのと同時期に、できるようになったことがあった。

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 レゴブロックの極小な皿である。それまで彼は、大きなレゴを、くっつけたりはずしたりする行為だけに悦びを見出していたのだけれど、ある日突然、いっしょに遊んでいる私の目の前で、なにも入っていないオモチャの皿を両手で口に運び、なにかを飲み干したかのような演技をして、ぷはぁあ、と言ったのだった。

 一歳児が、ままごとのスキルを会得した瞬間だった。

 思えばそのときまで、アンパンマンやピクサーの映画が好きだとはいえ、10分とじっとしていられない彼は、色とりどりな世界に魅入っていただけなのだろう。それが、10分のアンパンマンエピソードを見終えるどころか二話目を早く始めろと急かすようにさえなったのは、そこで語られる物語を漠然とではあっても理解しはじめたからなのだ。

 色とりどりの、記号的な、アンパンだったり、メロンパンだったり、車や飛行機だったりする、その向こうに、人間ではないけれど人間であるかのような性格付けを透かして見るようになった。

 アバターである。
 なかのひとの発見、と呼んでもよい。

 からっぽのオモチャの皿にスープが満たされていて、それを飲んだら美味しかった。そして同時に、目の前の父親にそれを演技で示してみせれば、共感してもらえることも理解した。

 アンパンマンはどう見ても生きていない「絵」なのだけれど、そこに宿る魂があり、生きているのだという、お約束がある。

 お約束の積み重ねで、物語は構築される。
 この世にまったく新しい物語など存在しえない。小説を読んだことのないものは小説を書けないし、プロレスを観たことがないのにプロレスはできない。

 本能的なセックスだとかダンスだとかいうものならば、学習なくしてできるけれど、他者を興奮させるポルノを制作できる猿はいないし、クジャクは動物園にやって来た人間に歓声をあげさせる意図を持って羽根をひろげるわけではない。

 本人に逢えなくても、アバターでこと足りる。
 そこにいなくても、いることにできる。

 ファミレス業界で、二十四時間営業が見直されている。いまや携帯電話がアバターだからだ。そこに浮かぶ文字と文字のやりとりで、相手が透けて見える。昭和のように、ファミレスで朝までダベる不良はいない。自宅で毛布にくるまってチャットすれば、液晶画面に友だちも恋人もいるような気がする。それで充分だからだ。どうせ逢ったところでたいした話がしたいわけでもないのであって、肉体の移動など省けるならそれに越したことはない。ただ席を確保するためだけにドリンクバーを注文するなんて、いらないカロリーの摂取だし、膀胱にもやさしくない。

 友人とテニスがしたいならテニスゲームでいい。だいたい貸しコートなんてどこにあるんだ? ゴルフも野球もサッカーもビリヤードも、麻雀も。いまや本物よりも、ネット回線を通じてプレイする人口のほうが圧倒的に多い。ケンカもか。

 矢印を発明したひとを知っているだろうか。矢印を見て、だれかのアバターだと? 星印ではどうだ。昨年、日本の携帯絵文字がニューヨーク近代美術館に収蔵されるというニュースがあったが、emojiという単語は英語でも通じるけれど、使われている絵文字自体は、同じではない :-) 

 ふたつの点とバッテン。

 象形文字よりも象形である。
 偶然描かれてしまう可能性さえあるような単純さだ。1+1=2という計算式よりも単純なその記号に、世界中のだれもが魂を感じとり、なかのひとを想い、お約束のうえに、うさこちゃんと、その作者であるおっさんを見て、ほっこりする。

 この先も、これよりも簡略化できるアバターは登場しないのではないか。

 ディック・ブルーナは偉大だ。
 たったそれだけのデザインで、世界を平和にした。それに育てられた者が、自身の子供に、またそれを与える。単純すぎる記号のようなアバターを。これにはすばらしく魂が宿っているのだと言って。我が子がふたつの点とバッテンにうさこちゃんを見て笑んだら、人間界のお約束というものをこれで理解したなもう大丈夫だと安心する。

 ままごと遊びができなければ、自身になにごとかのキャラクターを憑依させるすべを知らないということで、だれかにとってのだれかになろうと演じなければだれかにはなりえないし、家族や社会の一員にだってなれないはずだ。それはそうやって語りはじめると、とても難しいことのように思えてしまうが、逝ってしまったおっさんは、これからも教えてくれる。だれかに愛されるために、だれかを笑顔にするために、凝ったアバターを纏う必要はない。

 こんなので、ほら可愛い。

 ふたつの点とバッテン。

 いや。偉大すぎる。アバターが優秀すぎて、おっさんが逝ってしまったというのを、これからも実感できそうもない。過ぎゆく日々は味気ないようでいて実に多くの「他人」の手によって彩られているもので、「他人」がいなくなろうがどうしようが自分の幸福には関係のないはずなのに、悼む。うさこちゃんの新刊を心待ちにして暮らしていたことはなく、自分が子供のときと、自分が親になったときと、同じ絵本でこと足りているのだから、作者の存在などあってもなくてもいいようなものだ。それでも。アバターには、なかのひとがいるのだと、名の売れた偉大ななかのひとが逝ったニュースに思う。プレイのさなかには、そのごく当たり前のことに気づくことはないが、私は彼もしくは彼女の実体に生涯触れることはなく、彼もしくは彼女があるときそっと逝っても知ることもなく、それなのに彼もしくは彼女と毎日出逢って、生涯をともに生きているのだと、なんだかセンチメンタルに思い知る。

 これから生まれてくる子供たちにとって、ミッフィーは、なかのひと不在のアバターなのに、そのことはもはやなんら問題ではなくなっている。ミッフィーには、ミッフィーの魂が宿ってしまったので、そのデザインをアバターとして見る私のような者の感慨とは別の次元で、これからも不変なのだ。

 創造、と呼べる。
 成し得た彼が、とてもうらやましい。
 ふたつの点とバッテンを、ステンレスの板に刻んで、無人の探索機に乗せて宇宙の果てへと飛ばしたい。どこまで行っても、それは不変のままのはず。ふたつの点とバッテンが、最果てを漂っているだけなのに、人類はそれを想うだけで、ほっこりできる。

 それって具体的な、平和だ。
 


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 この数ヶ月で、トーマスを何台分解したか。
 このトーマスは、くるくる回って走り、左右に目をギョロつかせる。かなり狂気じみた動作をする。まっすぐ走るトーマスや、ガタガタうるさいトーマスもいる。

 しかし共通するのは、その動作の根幹にあるのが、電池一本で動く1.5ボルトモーターだということ。

 工作用だ。
 タミヤだ。
 マブチだ。

 いや、そんなブランド品は、トーマスには入っていない。とはいえ工作用モーター。歴史ある世界の標準規格。そうそう壊れるものではない。

 ではなにを直すために、私は青い電車を分解するのか。

 たいていの場合、ギアである。

 このトーマスに至っては、質実剛健工作用モーター一個に、くるくる回りながら走り目もギョロつかせるという多重動作をさせるため、縦に横に無数のギアが組んである。そんなもんさあ……

 回るタイヤを幼児は止めるのだ。ギョロつく目にも指を突き立てる。強制的に動作が止められる。歴史ある工作モーターは唸る。

 幼児はそれでも踏ん張る。

 結果。

 接着されていたタイヤがカラ回る。

 それならマシだ。接着しなおせばいい。しかし、パキッと、ギアが逝った場合。これは面倒くさい。パテとヤスリが必須の作業。しかも、いちど壊れたところは、どうせまた壊れる。

 やる気の起きない作業だ。

 工作用モーターはすばらしい。まず壊れない。壊れればいいのに。壊れたモーターを交換するのは、実に簡単な話なのだから。ブランド品でも百円そこら。赤と黒の線をつなぎ直すだけ。

 一方、どこかの国で、規格もなく、独自に造形された小さなギア。3Dプリンターでもあればラクだが。それでもどうせ同じ箇所が壊れる。

 やっていられない。

 まあねえ。プラレールの公式対象年齢は、三歳以上らしいので。

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 オモチャの電車が線路を走る。それをゴジラのごとく蹴っ飛ばさず、眺められるのが三歳ということだ。そこまでまだ一年以上ある。トーマスが壊れるのは必然なのだ。

 新品なんてとても買う気にならない。だから直せるものは直すさ。ほんの一年と少し? そんなのでモーターに負荷をかけない、理性ある人間に育つとは思えないが。公式対象年齢がそうなのだから、きっとそうなのだと希望が持てる。

 トーマスを壊さなくなるのかあ。
 そうですか……
 そんなわけないような気がしますけど。

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 今週、泉田さんと松野さんが逝った。

 ほぼ同時にそのふたつのニュースを摂取した私は、その日、かなりの挙動不審だった。「ヨシノギさん、大丈夫ですか」と、はっきり訊ねられたほどなのだから。職場では、プロレス好きであることもアイドル好きであることも、ひた隠しにしているから、それらのニュースと私とを結びつけるひとが、まわりにはいなかったのである。現に仕事中になんどか泣いている自分に気づいた。それは声もかけるだろう。

 どちらも突発的なことだったが、どちらも予兆めいたものを嗅ぎとることができてしまうのがまた、あれこれと考えさせられる。

 昨夜、帰って来たら私のお気に入りのサングラスが息子にひん曲げられていた。フレームはチタンなのでなんとか直せるが、プラスチック部品の変形はどうしようもない。オシャレに半透明の素材だったので、直すというか、イチから再構築のようなことになるので、おそらく手をつけることはなく、私はあのコをもう、顔に嵌めることはなくなってしまうのだろう。

 階段を登って、椅子を移動させて、それによじ登って高いところのものを取るというチンパンジーなみの作業ができるようになりながら、お父様の高価そうなサングラスを壊したらいけませんということが理解できないという、この発達の順序は神様のミステイクだと思う。サイボーグ001のように哲学まで論じられる赤ん坊になってから、肉体が成長しはじめるように創ればいいのに。

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 と、サングラスを壊された怒りから乱暴な思考になって、ついこのあいだ、自分で書いたことを思い出す。

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『幼児期健忘による私の消失』の話。

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 とてつもなく頭の良い学者さんが言っていたので間違いないことに、幼児期健忘とは神様からのギフトなのだそうだ。

 サイボーグ001は、サイコキネシス能力を有しているので自分で自分のオムツを替えられるくせに003フランソワーズに替えさせる成熟しきった変態成人男性なので問題ないが、ふつうの人間の脳の発達だと思春期というものがあるために、そこで父親や母親に反抗できないと通過儀礼が終わらず大人になれない。もしも、三歳までの記憶がだれにも残っていて、十五歳で親に反抗しようとしたら「おれはおまえのオムツ替えてケツまで拭いてやってんぞ」と言い返されて、そんなもんおぼえてへんわと言い返そうとしたら実はくっきり克明におぼえていたとしたら。

 つまり、あとで死にたいほど恥ずかしくなったり、いらぬ屈辱感をおぼえたりする必要のないように、神様がオムツ時代のことは忘れさせてくれるのだという。

 だからまあ、私もサングラスの件では彼を怒らなかった。いまの時期では、彼には過去も未来もなく、いまだけなのだ。夜になってから帰って来た私に怒られても、彼には、なんのことやら理解できない。ひん曲がったサングラスを見せたところで、昼のことなんてすでに忘れているので罪悪感というものもなく、むしろまた興味深い造形物を見つけたと指先さえのばしやがる。動物の調教は、その場その場でイイネダメヨとやらなければ成就しない。

 神様、などと前置きするから納得いかなくなるのである。そう、だれかが、人間をこんなふうに創ったのだとしたら、いろいろとミステイクがある。だが単純に、高い枝の葉っぱを食べるためにキリンが首をのばした、その驚くべき進化に神とかいうぴろろっぴーが関わっていないのだとすれば。

 動物は進化する。
 勝手にする。
 だれかの手は借りない。

 人間の赤ん坊が、この車社会では理性もないのに歩き回れるようになったら逆に危険なのにもかかわらず、歩きまわってよじ登って破壊行為にいそしむような順序で育つのも、進化の途中だからだ。進化の果てではない。そんなわけはない。人間は、まさに車に代表される道具というもので進化する生物になったので、肉体の進化は止まって、猿よりもちょっと背筋がのびたあたりから、なんの変化もない。ゆえに理性もないころから走り回れるようになる。あいかわらず、そうなのである。サバンナで、理性がない生まれたてのやわらかい肉を食べようと追いかけてくる敵から、走って逃げるために。ここにはもうサバンナも人間を襲う捕食猛獣もいないのに。

 進化はすごい。
 願えば叶うのである。
 なのになぜ、ヒトは進化を放棄したのか。
 もっと、あるだろう、ほら。

 モーターが壊れるように。
 進化すべきだ。

 本当に、本当に、そう思う。
 神様がいるなら、即日アップデートすべきだし、そうされないということは、少なくともいまはもう、私たちを見守っている万能創造主のような知性体はどこにもいないということの証明だ。

 だったら私たちは単に動物なのだ。動物のくせに込み入った社会を形成してしまって、あげく自滅してゆく。死ぬ前に死んだフリができるように進化すれば、避けられる死が山ほどあるのに、そういう進化をしようとしない。

 実際になにがあったのかは、永遠にわかりえないけれど、季節が冬だということは、きっと関係している。私も今日は休日のはずだったが出勤した。同僚の身内で亡くなったかたがおられたからだ。店で花も売っているから、年明けたこの時期に、やたらヒトが逝くことは肌で知っている。そういう季節ではある。肉体的にも、精神的にも。危ういバランスのうえで、自分が生きていることを、たいていのひとは知っている。知っているのに。

 進化しない。
 こりゃちょっとギアが壊れちゃうぞとか、心が壊れちゃうぞとか、気づいて、もしくは気づかなくても、カラダが勝手に悲鳴をあげて、モーターを止めるような機構がない。

 自分で走り続けながら、自分で、ぱきん、となる。

 私が、私のギアを調整するための、何十時間何日もの、モーターを止めて安らぎ、はしゃぐ時間をくれたふたりが、今週、壊れた。

 だから私は信じない。
 私の無神論は、とても深まり、強固なものになった。

 休まず壊れて、争いのなかで壊れて。
 壊れて壊れて壊れて。
 それでもまだ進化しないということは、壊れるように死ぬことを受け入れてしまっているからに違いない。こんなのはもうやめるべきだ。避けられるはずだ。

 時間が巻きもどせるとして、避けられなかったことだろうか。片方ではそうだったかもしれないという気もするが、もう片方では、まったくそういう気はしない。だとしたら、どうしてこういうことがくり返されるのかを考えて、変えるべきだ。変わるように願うべきだ。

 我々は進化すべきだ。
 首さえのばせない理屈っぽい猿に、とどまらず。





 見た目は「豆腐」のように軟弱だけど、気持ちだけは「セメント」という意味で、「豆腐プロレス」と名付けた。


 秋元康 『1分後の昔話』

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 さすがである。
 プロレスにおいて真剣勝負のことをセメントと呼ぶのだと知った敏腕プロデューサーは、アイドルにプロレスをさせるドラマを企画して、タイトルをつけた。

 豆腐プロレス。

 作中では、寂れたプロレス道場の片隅に、わずかばかりでも負った借金を返すための豆腐屋が営まれているのだが、あまりにも脈絡のない設定であり、物語の根幹にも関わってくる気配はない。想像するに、豆腐プロレスというタイトルありきで、まあ適当に脚本に豆腐も絡めておいてよ、というプロデューサーの意向が反映されてのものなのだろう。

 キャッチーさ至上主義。

 作中で、若かりし日の渡辺いっけいも言う。

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 かわいい女の子を集めて、もっとキャッチーな!
 そう、アイドルプロレスやりませんか!?



 テレビドラマ 『豆腐プロレス』

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 そう叫んで、出て行った渡辺いっけいの新しく立ち上げた女子プロレス団体は大成し、出て行かれた道場は寂れたのである。寂れたにもかかわらず、渡辺いっけいは、かつて世話になった道場を狙う。成功し、大金を得ながら、自身に足りないなにかを求めて常軌を逸していく悪役造形は、まさにダリオ・クエトだ。

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『豆腐プロレス』の初回を観た。渡辺いっけいがダリオ・クエトそのものだった( Lucha Undergroundの悪ボス : http://yoshinogi.blog42.fc2.com/blog-entry-666.html )。試合シーンの出来がよいのでLUを本格的にパクってドラマパート抜きのプロレス中継バージョンを作って欲しい。 

twitter / Yoshinogi

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 二年ほど前の立春の節分に、恵方巻きがもとはアイドル芸だったというようなことを節分のたびに語るのは下品なのでもうやめないかという話をしていたなかで、プロレス好きの女性たちが、みずからを「プ女子」と呼んでいるのはなんなんだという我ながらよくわからない主張を徒然ていた、あのころ。

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『鬼とプ女子』の話。

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 その記事のなかでおすすめしていた書籍『プ女子百景』が『豆腐プロレス』のアイコンとして使用されている。のみならず、CM入りのアイキャッチでは、生身のアイドルが『プ女子百景』のごとくに、プロレス技をアーティスティックに披露する念の入りようだ。そんなもん、恵方巻きを目を白黒させながら食べてくれるよりも、ミニスカートでコブラツイストのほうがアイドル技としてはキャッチーであるに違いない。

 アイドルといえば、私のお気に入りだった偶像BiSが、メンバーを刷新して転生始動した昨年だったのだけれど、いまのところ私のiPodでは、旧メンバーが歌う『Nerve』のほうがいまだ再生回数は多い。初代BiSの最後のベストアルバムが、新メンバーが同じ曲を歌ってくれても消せずにいるいま、私の愛は本物だと証明されたわけである。そのベストアルバムの愛蔵版パッケージで初代(途中で入れ替わりがあったのでこの表現も正確ではないが)BiSメンバーを描いた師走の翁さんも、昨年、プロレス少女に手をのばした。

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 実際のところ、女子プロレス業界は昨今、アイドルだ。

 ゆずぽんの起用を転換点としたスターダムしかり、イロモノ系を惜しみなくぶっこんでくる東京女子プロレスしかり、見ていて心配になるほど人生に孤軍奮闘する元祖ひきこもり系アイドルプロレスラー真琴しかり。

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 真琴ともガンガンやりあっていたAsukaは、いまや世界のスーパースターだ。世界最高峰の総合格闘技団体UFCで、つい最近観たナンバリング大会は、どれも女子VS女子の試合がメインイベント。二年前の節分には考えられないことだった。

 闘う女子の偶像性が金になると、なぜだか世界中で気づきのムーブメントが広がっている模様である。深夜ドラマとはいえ、そこに敏腕プロデューサーが噛んできたことは、こりゃおい本気でアイドルプロレス団体隆盛の時代がやってくるのではないかと、いちプロレス格闘技のファンかつ、アイドル好きな私などは、未来は明るいなあとうれしく思う次第であります。

 というあたりで、のっけからまったくもってプロレス話に興じてしまったのですが、初期コンセプトとしては、アイドルが可愛いとかエロいとかいう話をせずにマジメに節分と春の訪れについて語れないものかということだったのです。

 もとから我が家では、恵方巻きを、ノリ一枚で作ってしまうと、それを恵方を向いて一本食っただけで腹いっぱいになるじゃないかという理由から、ノリを半分に切った大きさで恵方巻きを制作していました。恵方巻きを一本で食うのは、包丁を入れるという行為が縁起が悪いからだということを聞いたため、だったらノリは手で切れるし、それなら許容範囲であろうというもくろみだったのですけれども。

 今年の節分直前の某公共放送さんで、私と同じことをやっているひとがいた。でも、ノリを半分にする理由がまったく違うことに歓声をあげてしまった。そのことを最後にメモがてら書いておくことにします。

 彼がノリを半分に切る理由。それは、両手に収まるから。太巻きがうまく巻けないというひとは、総じて、巻き終わる前に指を巻き寿司から離してしまっている。それによって崩れて巻けない。

 彼の提唱する大事な点は、ふたつ。

●ノリを半分に切って、両手で端から端までカバーできるサイズにする。

●巻き簀を使わず、手指で直接巻く。

 ほう……巻き簀を使わない。目からウロコ。彼いわく、そもそも巻き簀は、両手で巻こうにもサイズが余る、一枚のノリを使って巻くさいに、全面に均等な力をかけるための道具なので、ノリを小さくして両手に収まるサイズにしてやれば、巻き簀はいらないし、むしろないほうが指からノリが離れるという事態を避けられる、と。

 やってみた。

 小さめノリ巻きセッティング。
 具は夕べの手巻き寿司の残りなので、見た目あんまりですがご容赦。ええ、うちの手巻き寿司には鶏ササミが欠かせない。筋肉の餌ですから。

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 言われてみれば、このサイズならば巻き簀なんていらんわな。手でころんと巻いてやればいい。それだけの行為で失敗するわけがない。

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 ただ、ころんとするだけでは、やはりちょっと締まりのない恵方巻きになってしまうから、最終工程として、巻き簀でぎゅっと四角く巻いてやった。

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 どういういきさつがあって、この食べ物を春の節分に食べるようになったにせよ、この時期だからこういうことしてみようというのが、一年中あるというのは愉しいことだ。

 恵方巻きを食べながら、思う。これもプロレスである。決まったルールで、やらなくてもいい決まったことをやったり、見たりして、祝ぐ。そうしてみると、生きているあいだにやらなければならないことなんてなにもないのだから、あえてやることのすべては遊びでありエンターテインメントなのだろう。

 で、巡り巡って、本来の遊女遊びである太巻きを頬ばってフェラ顔という起源の部分をやっぱり無視はできず、それを愉しむエンターテインメントならば、ひとりで頬ばってひとりでいやんぼくってなんてエロ顔とやっていてはバカみたいというか愉しいどころではないので、恵方巻きというのは、やっぱりだれかに食べさせて「あらぬほうを向いて巻き寿司頬ばってなに願ってんのこいつ」と笑うプロレス遊びだと感じたりしたのでした。

 ほら、結局、最初から話はグダグダだし、しないと言っていた話をまたしている。まったくもう。こうやって、きッと逝くまで恵方巻きはアイドルにフェラ顔させる……なんてことをつぶやきながら生きていくのでしょう。そんな自分も受け入れて、春の訪れを待つのです。

 きびしい冬の終わりは終わりで、なんだかセンチメンタルな巻き寿司などを食べたくもなるものですよね。よくわかりませんが。