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「いやね、感じるの? すごいわねえ、技術よねえ、手術台の上でこんな立派なおんなのこができちゃうんだから」
「ちがう!」
 おれはテーブルを叩いて叫ぶ。
「目がさめたらこうなっていたんだ」


大路メッキー 『パパイアン・ソープ』

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 前回、そう深い意味もなく、あした朝起きたら美女になっていたとすれば、アントニオ・バンデラスのような知的ラテン系の男性にアゴを掴まれたい。もちろんこっちは髪を掴み返してやって、真剣に睨みあいながら、互いの唇を噛み切って血を流すキスをする。みたいなことを書いた。

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『ルチャ・アンダーグラウンド』の話。

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 書いてみて、そういえば、と思う。

 大路メッキー『パパイアン・ソープ』は、私に小説を書かせることになった作品のひとつだ。二十世紀の終わりごろには、そういう作品はいっぱいあった。つまり、男が女になるといったフィクションが。

 男が女にどころか、白人が黒人に化けて黒人のキュートな女の子を口説くというような映画まであった。そういうラブコメが許されていた。ダスティン・ホフマンは売れない役者だったが、女装して個性派女優だとオーディションを受けてみたら合格して売れっ子になり、しかし共演者の女の子に恋をして……困った。そういう話を、あははと笑って観ていられた。

 そういう時代に、女装ではなく、女の子になってしまうというファンタジーとして描かれた『パパイアン・ソープ』は、小説でしか表現できないものを表現していて、私を打ちのめしたのだった。

 いっぽう世界では。

 『パパイアン・ソープ』と、まったく同じ時期に、真逆の「小説でしか描けない」アプローチを試みて、大成功を収めた作品が現れる。

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「ぼくは、数日かけて頭の中を整理したんだ。こういうことでしょ、あなたはぼくの……その……個人的な部分からすっかり皮をはがして、裏返しにしたって言いましたよね? ということは、皮はそのままあるっていうことですよね? タマだってもちろん保管してあるんでしょ? えぐり出した皮の中身だって……ね? つまりあなたはまちがいに気づいた時点で、すべてをそのまま急速冷凍かなんかして、保管してあるわけでしょ……ほら、あとでくっつける時のために。だからぼくが訊いているのは、いつぼくを元の身体に戻してくれるのかっていうことです。つまり……いつくっつけてくれるのかって訊いているんですよ」


デイヴィッド・トーマス 『彼が彼女になったわけ』 

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 もうすこしで二十一世紀だという世紀末。ペニスの中身をくり抜いて、敏感な包皮を裏返して身体に埋め込み、現実に女性になる人々は、もう現れていた。『彼が彼女になったわけ』は、かわいそうに、親知らずを抜こうと入院したら、とある理由で混乱していた病院の手違いによって、女性化手術を受けてしまった男性の話だ。フィクションである。小説だ。だが現実に、彼の言うように、皮が残っているのだから中身を詰めて男に戻してくれという手術は、お勧めされないものらしい。ペニスの皮で膣を造れば至極敏感な性器にできあがるが、逆の場合は、二十一世紀が六分の一ほど進んだいまでも、機械的なインプラントを埋め込んで人造ペニスを勃起させている。血が集まったら膨らんで勃起するという海綿体機構は、まだまだヒトの手で真似できる造形ではないのである。神はいる。

 そんなわけで、間違いで女になってしまったけれど、もとが男であるがゆえに、男としての快感は得られない機械式ペニスとシリコン睾丸を主人公は選択できず、女として生きていくことになる。

 六ヶ月経って、彼女になった彼は、女の子とベッドに入る。

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 すてきな胸をしてるなんて言われたって、どうすりゃいいんだ? 二十五年間も男として生きてきたんだ。喉をならせばいいのか、ただうれしそうに笑えばいいのか、わたしにはわからなかった。でも、すてきだった。六ヵ月間ずっと自分の身体を被害を被った哀れなものというふうに思ってきた。すべてはこの身体のせいだと思いこみ、自殺まで試みた。でも今、この身体は求められている。彼女はこの身体を見たがって、触りたがっている。わたしにはそれを許すことも、拒否することもできるのだ。


デイヴィッド・トーマス 『彼が彼女になったわけ』 

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 そしてまあ、彼女にぶっ込んでやりたくなってしまうがペニスがないんだったとパニックになり、なだめられて女同士ではこうするのよとレクチャーされるという微笑ましいエピソードが綴られる。

 性同一性障害で、心は男なのに女の身体で生まれてきた、そういうひとが不完全な機械式のペニスでもいいから欲しいと考えるのは、その要素が大きいのではないだろうか。つきあっている彼女がいて、彼女のために男性になりたい。機械式ペニスに自分自身の快感はなくても、生身と生身で、ぶっ込んでひとつになれるという実感はあるわけだから。

 BL小説ではよく描かれがちな、男同士が、ただやさしく互いに触れあうというような描写を、男性向け官能小説では、あまり見かけない。男性向けの百合モノでも、濃厚なキスなどは必須の描写だ。触れあった指先に全神経が集まってぼくはぼくの生まれてきた意味を知る、などという心理描写に嬌声をあげてしまう男性は数少ないのだろう。

 と、書いてみて。またここで男性という大きなひとくくりでモノを語っている自分に気づく。そういえばなんだったかのアンケートで、女性のなかに一定数の本来は男性向けに描かれたロリ陵辱モノを好む層がいるのだという結果が出ていた。彼女たちに言わせると、そこには幻想の「少女」なる存在がいなくて、ただ肉としてあつかわれているから安心するのだという。

 あーまあ、自身がまわりからの可憐な少女であれ神聖であれといった重圧を感じてきた結果、そういうものを全否定する男性向けジャンルにハマるというのは、わからないでもない。かくいう私がノンケの男性だがBL読者だし書きもする。嬌声はあげないが、せつないなあ、などとつぶやいて泣いたりすることはある。ヤマト男児はモノノフたれ、などという価値観に重圧を感じたおぼえはないが、なんらかの屈折がなければこうはならないだろうなあ、という気はしている。

 だがしかし。

 だがしかし。

 だがしかしというのが文法的にあっているのかよくわからないままに書き綴っているが、ロリ陵辱モノである。あれは、肉か? アレは肉ですか? いいえアレは少女です。

 いや、そうだろう。屈折した大人女性たちの一部が、そこに少女がいないから惹きつけられるという男性向けジャンル。でも、かといって、コンニャクだと、どうだ。生レバーとかハツだったら、どうだ。山羊では、どうだ。それではそもそも男性向けであれ女性向けであれ、ポルノとして成立しない。

 仮想にせよ人間の少女を肉としてあつかうから陵辱モノなのだ。

 そこに少女はいる。むしろ、男性の作りあげた極北の幻想の少女がそこにいなければ、モノとして成り立たないはずである。それは自身の幻想を汚すという屈折に官能を見出すジャンルで、だとすれば、そういったジャンルを好むとアンケートに答えた女性が、みずから「少女性」などというところに言及したのは、幻想がないからではなく、幻想の定義自体を揺るがす逆説がそこに働いていると薄々気づいていることの証明ではなかろうか。

 こう結論づけると不潔な思想だと眉根を寄せるかたもいらっしゃるだろうが、少女の少女性を破壊してないものとするジャンル内でこそ、少女の少女性は、どこよりもだれよりも求められていて、いちばん輝いている。

 おお、そう考えると、私のBL好きは、こうだ。

 男の繊細さとかわいらしさを賛美するジャンル内でこそ、男が男であることが重要視されるどころか、唯一無二の価値となる。

 だってそうだろう。そこが『パパイアン・ソープ』で、ファンタジー的に女性になってしまったら、BLではなくなってしまう。BLがボーイズのラブであるかぎり、男が男であることは絶対条件だ。性転換は許されない。

 近ごろ、男性向け「男の娘」モノの需要が高いらしい。エロゲ方面で顕著だが、完璧に少女の外見で、ただペニスを持っているといった描写だ。それも、男性器としては機能しない程度のささやかなペニスが取り付けてある。浅く考えれば、なぜそれは少女ではなく「男の娘」でなければならないのか謎に思えるが、深読みすれば、たったひとことで言いあらわせる。

 天使。

 両方を持っているということは、両方がないのと同じだ。なにもないつるんとした股間を持つ羽根の生えた無性の天使では、器官がないのでポルノとして描きようがないが、ロリとショタのハイブリッドであれば、なんでもできる。できるけれど、やっぱり天使だ。つまり天使をあんあん言わせられるし、陵辱だってできる。ものすごい発明である。

 いったいなにを年の瀬に徒然ているのか。なにをかと問われれば、だからつまり、あした朝起きたら自分が美女になっていたらと想像して、あれでも、美女ってなんとなく思ってしまったけれど、もしもそれが『パパイアン・ソープ』的ファンタジーアプローチであれば私は私の男性性をなくすわけだし、『彼が彼女になったわけ』的外科手術の行使であれば、それはすなわち大変な間違いである。悲劇だ。裁判だ。私はすべての女性を無条件で崇拝するが、朝起きて自分が女になっていたら、アントニオ・バンデラスとやりあうどころか、部屋の隅でシーツを被ってがたがた震える始末だろう。家中の鏡を割ってしまうかもしれない。不死者ドラキュラになったも同然。鏡に映らない、自己の喪失。

 なにが大事なのかということを、少し考えたのであった。

 結論。

 でも今、この身体は求められている。

 それだ。

 天使であれ、少女であれ、ボーイズであれ、つまりそれが求められているという表現こそに、なぐさめられるのだ。

 なくしてはじめてわかるありがたさ、という真理を、本当に自分の男や女をなくすことはできないから、擬似的にフィクションに求めて、なぐさめられている。

 肉は必要で、けれど肉に入っている私も必要。

 つまり求めるのは愛である!

 えらく単純なところに収束する。
 ねじ曲がった心で、年末だからなに? 年が変わるからって、終わるからって、特別なことなんてなにもないし、平常運転だよ、あたしは。なんてことをうそぶいてしまいそうなところを、思い改めたという話。

 愛されたい。肯定されたい。このままでいたい。

 なので、一年をこう書いて締めよう。

 この一年もまた、ありがとうございました。来年もまた、よろしくおねがいいたします。あなたにとって、新しい年が最良でありますように、祈っています(神なんて信じていないのに、とか言わず)。

 愛してる。

 だから愛してください。

 だからとかも言うな。

 締まらんな。えーつまりつまり、変わらず、愛し愛されて生きていけたらいいな、ということです。あした起きても私でいて、私はそれを肯定したい。そのためにあなたに言う、あなたあっての世界だと。あなたを愛していると。観測者なくして私なし。あなたがワタクシのワタクシ性を肯定させるワタクシ陵辱モノの読者で、逆もまた真。世界を揺るがさないために、来年も業を燃焼させるフィクションに救われながら自分をたもって、均衡を維持しましょう。平安のうちでこそ冒険はできるのだから。

 締まった。
 よいおとしを。

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 雑学ですけれど、よいおとしを、という挨拶は、年末あれこれありますけれどもすべてうまく片付いて新しい良いお年が迎えられるといいですね、という長い文の省略形なので、本来は、年の瀬の切羽詰まる前に使う言葉。私のように大晦日も平常運転な職場だと、その切羽詰まった仕事が終わってから旧年最後の挨拶として使われたりするのは、もう「少し早いけれど新年おめでとうございます」でいいのではないかと毎年思い、そんなのどうでもいいだろう、気持ち良く挨拶できないものかなこん畜生と自分のことを毒づく。それが年の終わりの思いになってしまうから、やっぱりおめでとうがいいなあ、と自分で、よいおとしを、使ってみてうだうだ考えたから、言いなおします。

 少し早いけれど。
 新しい年に、いっしょにたどりつきました。

 ありがとう。
 おめでとう。






 大好きな映画監督のひとりである。
 ロバート・ロドリゲス。
 代表作は、なんといっても、

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 『デスペラード』。

 以前にも何度かここで告白しているが、私はアントニオ・バンデラスが好きだ。

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『狂おしき恋』のこと。

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 男として男をという意味では、圧倒的にアジア系の一重まぶたで無表情をキメる男たちをセクシーだと感じるのだけれど、あした朝起きたら美女になっていたとすれば、アントニオ・バンデラスのような知的ラテン系の男性にアゴを掴まれたい。もちろんこっちは髪を掴み返してやって、真剣に睨みあいながら、互いの唇を噛み切って血を流すキスをする。

 そんなことを夢想しながら、バンデラス常連なロバート・ロドリゲス作品を追っているうち、世界観そのものにうっとりしはじめている自分に気づく。薄汚れた街、薄汚れた男たちに女たち、薄くどころかどろどろに汚れた欲望同士の侵しあい。

 タコスを食べると覚醒する、だじぇいの雀士・片岡優希が「学食にタコスがある」という理由で清澄高校に進学したことがすべての物語の発端である『咲-Saki-』のアニメ化と絡めて、触れたことがあったが。

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『神戸には鉄人28号が立つ』の話。

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 タコスを食べると覚醒する、だじぇいの雀士・片岡優希が「学食にタコスがある」という理由で清澄高校に進学したことがすべての物語の発端である『咲-Saki-』が今年、まさかの実写化で私立恵比寿中学電車番長、廣田あいかはどんなふうに演じるかよりも、タコスはどうなんだタコスは! と熱狂しながら観たくらいに、私はタコスに思い入れがある。

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 と、いうか、タコスに代表されるラテン文化、土地でいえばメキシコに思い入れがある。

 ロバート・ロドリゲス作品のせいもあるが、もっとさかのぼれば、発端は、私がプロレス好きだから。

 プロレスと格闘技の専門チャンネルを観ている。私が肩入れしている日本の団体は、ちょくちょくメキシコ遠征をおこない、その模様が放送される。メキシコは、ルチャ・リブレ(自由な闘い)と呼称される独特なプロレス競技が、街の娯楽として根付いている国だ。娯楽としての地位が高いということは、横綱や闘牛士のように、メキシカン・プロレスの競技者ルチャドールも、人々の尊敬を集める存在となる。

 日本の昭和という時代に全日本プロレスを観ていた私は、テレビ中継でさえ三冠王者戦は正座して観るべきだというような想いがあったが、いま、そういう試合は滅多にない。私が世慣れてしまったせいもあるのかもしれない。けれど、たとえばタイガーマスクに熱狂する昭和の子供というものは、エルビス・プレスリーの生歌で気を失う女性ファンのようなテンションだった。ああいう子供も、近ごろではめっきり見ないから、日本のプロレスが娯楽として成熟したかわりに崇高さを薄れさせてしまったというのは、事実なのであろう。

 その点、世界の二大プロレス大国であるアメリカとメキシコでは、いまだに本気で叫んで泣いている子供たちがいる。いや、大人たちの視線もレスラーに対するリスペクトに溢れているし、だからこそレスラーたちも己の限界を越えていく。

 私の二倍は体重があるような日本プロレスラーが、訪れて数日の滞在で荷物を盗まれたり、水に当たるどころかタコスでも当たるし、などというのをドキュメンタリーで観ると住みたいとは思わないが、歴史ある崇高な魂の行事として、しかし生活の一部としてプロレスリングを血とし肉としている、その国の風景には、憧れてやまない。

 だから、ルチャの中継はタコスなど食べながら、テキーラを飲んで観る。そういう思い入れである。

 まずプロレスがあり、タコスがあって、あしたの朝、美女に生まれ変わったら所望するのはアントニオ・バンデラスで、彼の出演作を追っていたら、まさにプロレス的なラテンの魂を撮り続ける男、ロバート・ロドリゲスに出逢ってしまった。

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 『フロム・ダスク・ティル・ドーン』。

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 『グラインドハウス』。

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 『マチェーテ』。

 ラテンの殺戮マチェドールたぐいまれなる薄汚さで名をはせた俳優ダニー・トレホは、映画で稼いだ金で、タコス屋をはじめた。

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『Trejos Tacos』公式サイト

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 ラティーノがラティーノから稼いだ金でラテンの魂たる食品をさらにメジャーに押し上げていく。いつか世界はラティーノヒートに燃え尽くされてみんなでビバララッサになるのかもしれない。

(ラティーノ・マチェーテが魂を燃やす『Trejos Tacos』のトルティーヤは公式サイトの料理写真を見るかぎり、かなり黄色い。ハードなやつだ。小麦粉が荒いのか、コーンの割合が多いのか。それに比べて実写化『咲-Saki-』。だじぇいの雀士・片岡優希=私立恵比寿中学電車番長、廣田あいかが手にしていたタコスときたら。純白だし。具が見えないし。あれパンだろ? 丸く切った食パンじゃないのか? そんなソフトでフラワーな中身のないタコスが学食にあるからという理由でタコスマスター廣田あいかが……説得力がない。タコス的な説得力がないよ。残念だ。そこは黄色くしてほしかった。いやフラワートルティーヤでもいいから、せめてトマトの赤か、豆の茶色をこぼしてほしかった。くちびる汚してこそのタコスだろうがよ廣田あいか!! その小さい胸にラティーノヒートは燃えているのか?! 来年の映画化では期待したい)

 よく考えてみれば、虎だの骸骨だのの覆面をかぶった半裸の男女が跳んだり跳ねたり悶絶したりがメキシカン・プロレスだ。笑っていい。実際、笑うことも多い。けれどそこに見紛うことなき真剣さがあって、もういちどよく考えてみたら、彼らは命がけのことを訓練によって難なくこなせるようになったパフォーマーたちだ。ほろりと泣けてもくる。ああいう存在こそ人類のひとつの到達点だ、崇めて観よと子らを抱きしめたくもなる。

 抱きしめられて、熱狂と興奮の果てに映画の道に進んで、撮ったロバート・ロドリゲス作品群は、ラテン魂の正統進化と呼べる。彼の生まれ故郷であるサンアントニオが、かつてはメキシコに統治されていたがのちにアメリカとなった歴史も、かえってメキシコという地への彼自身の想いを増幅させたのだろう。

 彼のラティーノヒートは、ラテン魂を持つものたちどころか、アメリカ、それに世界中の観客たちに熱狂的に受け入れられた。

 果て。ロバート・ロドリゲスは、ケーブルテレビ局を発足させる。

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El Rey Network公式サイト

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 彼の映画作品群をドラマ化。
 多分にブラザーと呼びあうクエンティン・タランティーノの影響を感じる、カンフーをモチーフにしたシリーズ。

 そして逆に、タランティーノにはその要素を感じないので、ロバート・ロドリゲスの純然たる幼いころからの夢だったのだろう。

 ルチャ・アンダーグラウンド。

 プロレス番組である。
 今年、日本放送もはじまった。

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・ロバート・ロドリゲスが仕掛けるプロレス番組「ルチャ・アンダーグラウンド」日本放送が始まった。観た。物語の要たる謎のマスクマンが世界にふたりといないだろうタトゥを…リコシェやん。跳びはねるレスラーは、将来的にマスクをかぶるかも知れないのだから、彫る前に熟考してもらいたいものである。

twitter / Yoshinogi

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 日本の団体でも活躍したルチャ・リブレ系の選手が多数。一方、アメリカ最大のプロレス団体で活躍した著名選手も多数。代表格はチャボ・ゲレロ・ジュニア。

 エディの元タッグ・パートナーであり、死後第一発見者である。

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『エディ・ゲレロの死』のこと。

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 ロバート・ロドリゲスが描く、イキ過ぎたラテン魂の結晶。アメリカのケーブルテレビなのだから、ルチャの名を冠していても、アメリカン・プロレスでもある。エル・レイ・ネットワークの立ち位置が、まさにそれそのものだ。

 ……いや、待て。

 放送を観て、それさえ違うのだと気づく。
 メキシカン・プロレス?
 アメリカン・プロレス?
 否……

 入念な編集。リング外のやりとりもカメラが追う。すべてはドラマなのだと、ロバート・ロドリゲス・テレビ局の制作だと、声高に主張している。ルチャ・アンダーグラウンドは、アメリカのとある街の倉庫じみた場所に設置されたプロレスのリングで繰り広げられる人間模様……

 つまり、フィクションである、と。

 わかってはいる。プロレスは演劇だ。だがしかし、ルチャ・アンダーグラウンドは完全にスタジオ撮りだ。ということは。

 画面に映っている、観客も演者なのだ。

 そんなプロレス中継は、前代未聞。

 ルチャ・アンダーグラウンドの客席にダニー・トレホが座っている。トレホ? そうではない。あれはマチェーテだ。他のアメリカン・プロレスでも、客席に有名人が現れることはあるが、まわりの観客は興奮のるつぼと化しているものだ。しかし、ダニー・トレホの横に座っている観客は、カメラで抜かれても彼には無関心でリングに夢中である。アナウンサーもダニー・トレホに触れない。

 マチェーテなのだから。マチェーテを演じるダニー・トレホがいるのではなく、マチェーテが、たまたまルチャ・アンダーグラウンドに来ていて、観戦しているだけなのだ。

 世界観的には、マディソン・スクエア・ガーデンのアメリカン・プロレス興行に、スパイダーマンがスパイダーマンとして観客席に座っているようなものである。映画のなかの大スター、スパイダーマンがそこにいるということ自体をどう捉えていいのかわからなくなってしまうので、そういう演出はされないものだ。あくまでプロレスはエンターテインメントスポーツであり、リアルなのだというスタンスでフィクションを織り込んでいく手法だった。

 二十世紀のあいだ、ずっとそうだった。

 しかし、ルチャ・アンダーグラウンドでは。フィクションであることについて一貫している。それはつまり、今夜のテレビ中継のさなか、ルチャ・アンダーグラウンドの試合会場が突如出現したゴジラやキングコングに踏みつぶされたとしても、世界観が破綻しないということを指す。

 だから観ている私は、マチェーテがいつマチェーテを振り回してリングに乱入するのだろうかと思っていたが、彼は最後まで、客のままだった。なんでも起こりうるがゆえに、なにも起こさないでも視聴者が勝手にテキーラをあおってテレビの前で盛り上がっていく。

 逆説的手法を使って、客席に謎の女が座っていたりもする。おかしなことだ。ただプロレスを観ているマスクもかぶっていないモデル体型の女性がいるだけなのに、彼女のことを謎の女性だと、なぜ認識できるのか。アナウンサーと解説者が言うからだ。

「あれ? 彼女は先週もあそこにいましたよ?」

 そんなもの、常連客というだけのことだろう。だが、わざわざカメラが抜いて、謎めいた美女がいるぞいるぞと煽る。そしてまたしても、まわりの観客は彼女に興味を示さない。つまり観客は、エル・レイ・ネットワークのルチャ・アンダーグラウンド中継を観ていないのである。地下プロレスなので。観客たちは、夜な夜なその倉庫じみた会場に足を運ぶ。せいぜい入って数百人。それが世界のすべてだという設定なのである。

 では、アナウンサーがいるのはなんなのだ。日本語字幕が入って極東でオンエアされているルチャ・アンダーグラウンドという番組は、いったいなんなのか。

 観ている私は、どこの立ち位置にいるのか。

 したり顔で「リコシェはドラゴンゲートのころからときどきキレる選手だったよなあ」などと言ったところで、実のところ、そこに共通点などないのである。世界のどこかで活躍したプロレスラーを呼んできて、キャラクターを与える。そこまでは旧態依然としたプロレス団体の遣り口だが、ルチャ・アンダーグラウンドでは、それが会場の観客にウケるかどうかが、問題にならない。リコシェがキレているのは演技であり、それに喝采する観客も演技をしている。それをわかったうえでテレビを観ている私がいる。

 熱狂している私は、ロバート・ロドリゲス作品を観ているのか、プロレスラーたちが紡ぐプロレスを観ているのか。

「Orale , ViVa La RaZa !!」

 テキーラのグラスを重ねるうち、そう叫んでいる。エディ・ゲレロが使うと「ズルしていただき!」と邦訳されていたが、直訳すれば「ラティーノ最高!」つまりはラテンの魂があるからオールオッケーの意だ。

 おもしろいから、別に映画でもプロレスでも、なんだろうといい。マチェーテが暴れないでも、それを期待させ、謎の美女が何者かについて来週一週間また考える。

 なんやかやが、プロレスにもどってきた結晶がルチャ・アンダーグラウンドであり、これがまた熱狂的にラティーノ以外にも受け入れられてしまった。

 で、今年のことである。

 ルチャ・アンダーグラウンドが、ライブショーをおこなった。

 大きな祭りの一部ではあったが「本物の」観客を入れたハウス興行を打ったのだと言える。「本物の」プロレス団体になったということでもある。それでいて、テレビの圧倒的フィクションなスタイルは崩さない。

 もう、なにがなんだか……

 ルチャ・リブレを「自由を勝ち取るための闘い」というニュアンスで訳すのは誤りだ。「自由な闘い」が正確。それは「なんでもありな闘い」がラティーノの「プロレス」だという意味である。

 マスクを被ったまま棺桶に入ったルチャドールがいた。マスクマンはマスクを脱がないものだから、死んでも脱がなかった。

 自由とは、そういうことだ。

 なんでもありな世界観のなかで、観客を熱狂させ続けるには魂が必須。ラティーノ・ヒート・ララッサなくしてビバはない。

 ルチャ・アンダーグラウンドは、この地上におけるプロレスの定義をさらに拡げてしまった。ジャイアント馬場が言った「プロレスのリングでおこなわれることはすべてプロレスである」や「リングのなかのレスラーは怪物でなければならない」などの言葉が、いまになって新たな重みを持ってくる。

 プロレスのリングとはどこまでなのだ。
 完全なフィクションが許されるのならば、現実から、かけ離れた怪物だって造れてしまうではないか。

 無限に拡がっていくがゆえ、流転のなかで、ない答えを模索するのが答えなのか!!

 禅だ。

 そうしてみると、薄汚れたメキシコの風景も、わびさびの究極に思えてくる。今夜もタコスとテキーラで、薄汚れ具合を誇張された地下プロレスを観ながら私は、これはなんだ、まあいいか、と唸り続ける。

 笑ってしまうほど、なんでもあり。
 限りなく深い、ということである。

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FIGHTING TV サムライ : <Lucha Underground -season1->

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 一歳半になる息子の初めての靴は、ニューバランスのショップのおねえさんに見つくろってもらったものなのだけれど。走り回れるくらいに足腰かたまってきたとはいえ走れば必ずコケるし、そっちへ行ったら落ちて死ぬという理解さえもがない小動物を心おきなく走らせるため、検索エンジンに「公園」と叩き入れて、午後で行って帰りできそうなところへ向かう、それはいいのだが、上の写真は縮小しているので判別できませんが、オリジナルの解像度で見ると彼は靴を左右逆に履いている。帰って撮った写真を見て気づいた。走らせに連れて行ってやるぜー、と出かけて、靴を逆に履かせて気づきもしないのだから、大ざっぱな父がいては、ニューバランスのおねえさんも選びがいのない話である。



 私は電車通勤なので、定期券を持っている。そして自宅は駅前である。息子はこのところ電車の虜になっている。そりゃもう休みの日は、電車乗っちゃあ、となりの駅で降りて、の繰り返しで大興奮なわけだが、もう一回だと私の袖に手が届かないのでズボンの膝のあたりを握って引っぱってブーイングだけは上手くなる彼を見下ろしながら、思う。

「これも忘れるんだよな」

 幼児期健忘は、むかしから不思議がられてきて、早くから研究の進んだために、いまでは確定的事象として語られている。

 ヒトは三歳までの記憶を育てば忘れ去る。

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・宇多田ヒカルが「一、二歳はそのひとができあがる時期なのにだれもおぼえていないってすごい」って。それ私も考えていたんだが。知恵の実を食べた瞬間、楽園で猿だった黒歴史を自ら記憶抹消するのでは。「チンコ見せてみ」「なんでやねん」と感じたところから私は親父とヒト対ヒトになった記憶がある。

twitter / Yoshinogi

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 おとうさんにチンコを見せるなんてなんだかイヤだ、という感覚からして、そのときの私は三歳などではないだろう。がんばって、三歳以前の記憶がなにかないかと踏ん張ってみると、いつも頭に浮かぶのは、琵琶湖のほとりに住んでいたとき、隣の家の同じ歳の男の子と、フェンス越しにキスをしている、という光景だ。しかしこれは多分にあやしい。なぜなら、フェンス越しにキスしている男の子ふたりの画として私が記憶しているからである。となりに同じような転勤族の男の子がいるということで、美術部で知りあった私の両親は、やたらその時期にそういう写真を撮っている。ジョンとヨーコの影響も大きいのだろう、若かりし母と私がヌードで撮られているようなのもアルバムには満載だから、第二次性徴を迎えんとするころの私が、そんなアルバムをひとの目にさらすなと強烈に意識していたのは間違いなく、幼いとはいえ自分のキス写真で相手が男だという写真をあまりに複雑な想いで見つめたために、作られた記憶として定着してしまったのではないかと疑っている。

 物理記録を目にすることで後付けされた記憶というのは、やっかいだ。ねじくれた話をすれば、私の父は写真をアートとして撮っていた部分があるから、それを作品として見たとき、写っているものがなんであるかということよりも先に一枚の写真作品としての印象によって記憶が作られてしまう可能性もある。私に三歳以前の記憶が本当にあれば、母の裸の胸は触って吸いついた巨大な肌色のアップでおぼえていなければウソだ。しかし私にとって、ディレクターズチェアに全裸で座って全裸の私を抱く微笑んだ母のヘアヌードこそが、若かりし日の母である。完全に父の写真のせいだ。

 海馬が未発達であるために三歳以前の記憶は残らない、というのが間違いないところだろうとされている。しかしその一方、歌姫の言う「一、二歳はそのひとができあがる時期」というのも正しいとされている。そういう説は、いつも哀しい証明のされかたをするのだが、三歳までに受けた虐待がトラウマになっているひとが存在するのである。すべてを忘れるはずなのに、心の傷が残るというのはどういうことなのだ。

 五歳の子に、三歳のときの出来事を訊ねると、まだおぼえている。七歳でも、まだおぼえているひとがいる。この調査の結果は、現代の定説とされている海馬未発達だったから説と、なんだか矛盾する。記憶をつかさどる器官である海馬が未発達であるがゆえに、三歳までの記憶が「溜まらない」のであれば、四歳だろうと五歳だろうと、おぼえているはずがない。

 つまり「溜まる」。
 しかし「忘れる」。

 だから幼児期健忘と呼ばれているのだろうか。不思議な感じがする。五歳のときに、三歳で連れて行ってもらったお城のある公園で走りまわったことを「想い出した」ことはまた記憶されるはずだし、そのときにはもう海馬は育っているのだから。誕生日のたびに「三歳のあの日に動物園で羊に噛まれた」話を繰りかえせば、大人になっても、その出来事は忘れずにいられそうな気がする。

 だがだれも、三歳以前の記憶はない。

 誕生日のたびに羊に噛まれた話を聞いただれかが、大人になったとき、動物園で自分の手を噛んだ羊がいたことをおぼえていても、それは記憶としてカウントはされないのだ。それも、手の込んだ後付けの作られた記憶にすぎないと、研究者たちは判断する。

 実際、私は冒頭の写真を育った息子に見せるとき、よく見れば左右の靴が反対であることを言わずにいられない。一歳の彼は、間抜けな父に反対に履かされた靴には気づきもせずに走りまわっていたが、三歳を超えたうえで写真によって記憶を補強した彼は「お城の公園で靴を反対に履かされて走りまわった」と認識するようになり、そのことを他人に話すときには「すごく走りにくかったのをおぼえているんだ」などと言いかねない。

 そうなるともう演出だ。創作だ。ウソだとは言わないが、事実ではないし、記憶と呼べるものではない。

 そう、これが幼児期健忘の正体なのではないかと思う。

 三歳以前の海馬は未発達で、記憶することはできるのだが、著しく情報が少ない。ノートに書き留められたスカスカのメモのようなもの。それをちゃんと海馬が育った三歳以降の自分が想い出すことで補強してしまう。せずにはいられない。余白があるので、創作で埋める。自身の感覚によって自身の記憶を書き足すのだから、本人にとっては事実と呼べなくもないが、客観的に見れば、その過程で三歳未満の拙い記憶は、かき消されてしまうのだろう。

 想い出すという行為が、儚い砂の城には重すぎるダメージなのだ。あまりに拙いのでもっと城らしくしようとしてしまう、その結果、もともとの拙い城の姿はどこにもなくなる。

 そう考えれば、傷は残るというのも説明がつく。本人が思い出したくない出来事の記憶は、皮肉なことに心の奥底で触れられないままだから、脆くても壊れず残ってしまうのかもしれない。

 夏に、仮面ライダーショーへ行った。

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・仮面ライダーに逢いに生後十四ヶ月の息子をつれていく。ショーには悦んでいた。が。撮影会。おねえさんが私のキャラを見てか「強い男になるんだよ!!」という大声のアナウンスを入れてくれたのを合図に一転、阿鼻叫喚地獄。あわてるライダーと苦笑う私と絶叫し逃げようとする息子の写真が撮れました。

・いや、息子をダシに私自身が生まれて初めての生仮面ライダーとの写真が欲しかっただけなので、目的は達したのですが。せっかく黒ずくめにサングラスな悪のライダー風で行ったのに、息子をなだめて、あわあわしたのが無念。背スジ伸ばして冷笑を浮かべたかった。宝物にすべく現在鋭意画像加工中。

twitter / Yoshinogi

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 良い写真になった。
 いまのところ中身も男の子のように思える息子が、やがて私のもくろみ通りに仮面ライダー好きになったとしたら、それを見て、きっと言うだろう。

「とうさんだけ仮面ライダーと写真撮ってズルい!」
「ここに、おまえ、おるやん」
「こんなん、おぼえてない!」
「でもおまえやし、いま想い出したんちゃうん」
「おぼえてない!」

 いや、いま書いていて怖くなったが、そのとき彼は仮面ライダーなんて大嫌いになっていて、写真を見て、そう言うかもしれない。

「……ぜんぜんおぼえていないけど、ぼくが仮面ライダーをいまも怖いんて、このせいなんかな……」

 そうして泣きじゃくる彼を抱いて仮面ライダーとの写真に満足そうな私のことを見上げ、なにしてくれたんや、と睨むのかもしれない。

 記憶は残らないが傷は残る。
 その時期にヒトになる。
 
 そういう子猿を連れて歩いている。

「これも忘れるんだよな」

 そうなのだろう。
 忘れてしまう。
 写真など撮っても、残るのは違うもの。

 だけれども。

 いま猿からヒトになりつつある。城なんだかなんなんだかよくわからない出来の砂の城を、心のうちに築いている。

 たぶん……いや、進んだ研究のおかげで例外なくだれもが幼児期を健忘するのだとあきらかになっているのだから、間違いなく。彼は今日の私との時間を忘れ去る。ということはつまり、窓まで届かないので持ちあげてやって、車窓から流れる景色を見つめてなにが見えているのかよく理解できずに困惑顔な、いまの彼を正しく記憶していられるのは、私だけだということで。

 ふたりで出かけても、私にしか記憶は残らない。

 たとえば、いま私が消えたら。
 彼は私の実在を保持できない。
 いま、ここにいて彼を抱いているのに。
 私は消失する。

 私は砂の城だ。ふんわりとした、あとになってつついたら途端に壊れるような儚い存在なのである。私自身はそうは思えないが、彼にとってはそうなのだし、私は彼の世界を信じることができるので、私が砂の城であることも信じられてしまうのだった。

 私は砂の城だ。
 私なのかもよくわからないほどに、拙い。

 子猿との散歩は、不可思議な気分になる。