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 何年か前に、某プロレス団体の両国国技館大会を観て感銘を受け、熱く語ったことがありました。

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『ラリアートとキス』の話。

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 その大会が今年もあって、また熱く語れることがあればいいなあと思いつつ観ていたのですけれど。家でテレビ中継で。仕事から帰ってからで。日付も変わろうという時間から観始めるので、長い中継だと朝になってしまうようなこっちも体力勝負だぜ的な視聴なのですが。

 前回、自発的微笑を浮かべなくなった。つまり大人になってしまった息子のことについて触れましたが。

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『自発的微笑を正解する』の話。

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 むろん、そういう帰宅時間なので、いつもは彼はすでに眠っている。大人とはいえ、一歳なので。

 しかしまあ、同じ家のなかで発奮しているプロレス観戦者が酒飲んだりしているわけで。なにかの拍子で、すっ、とドアが開いたりする。一歳だけれど大人だから、起きても泣かずに立ち上がって歩いてきてドアも開けたりする。

 知った顔が帰って来ているという顔をしたあと、手を合わせる。私がなにかを食べているのを見て、いただきます、ということだが、実際に腹が空いているわけではなくて、ただの脊髄反射。食事を見ると手を合わせる。パブロフの犬。

 そのあと、私のそばに来て、しばらくいっしょにいたりする。

 ときどき、手を叩いている。
 観客の拍手に同調しているようで、一ミリも試合は観ていない。拍手に拍手を重ねるのも、共感しているわけではなく、近ごろ大人になって拍手ができるようになったから、拍手の音に反応しているだけ。脊髄反射。パブロフの犬。

 私は日課で筋トレをしているが、腕立て伏せとか、シャドーボクシングなどを見ると、彼はケラケラと笑う。日常にない動きがおもしろいのだろうか。しかしだとしたら、プロレスなんてそんな動きのオンパレードだ。目を奪われてもいいのに。

 映画の濡れ場には見入る。おっぱいはおっぱいだとわかっているようで、だとしたら画面のなかのおっぱいが揉まれるのに目が釘付けなのだから、テレビのなかの人間を人間だと認識しているということのはずだ。それならば、人間が人間を持ちあげたり締めあげたりしているのに、興味がわかないのはなぜだろう。

 くだんの両国国技館大会は、彼が横にいたので、そんなことが気になった。

 なぜだろう。
 思いながら、別の日。

 また別の団体の試合をテレビで観ている私のとなりに、ふらっと真夜中、起きてしまった大人が座った。

 大日本プロレスだった。

 私の大好きな映画『レスラー』で描かれる、ハードコアとか、デスマッチとか呼ばれるたぐいの試合で、のし上がってきた団体である。

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映画『レスラー』の話。

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 その夜も、リングに敷いたコンクリートブロックに向かって人間が落ち、剣山が頭に刺さり、ガラスの破片で大流血だった。

「お」

 と、彼が言った。
 画面に目が釘付けだった。

 コンクリートブロックで、人間と人間が殴りあっていた。

 たぶん、彼が生まれて、私が見る、はじめての「ちゃんと試合に引き込まれている」顔だ。デスマッチか。教育上よろしくない気もするが、痛みを知るということは大事なことだ。

 そう思って、首をかしげた。

 私は、バイク乗りなので。転んで投げ出されてコンクリートに激突して骨折したこともある。仕事柄、電動工具が友だちだから、ささくれた金属やガラスなどで肌を切って流血することだって多い。いつだったか、睾丸を切って血だらけになったこともあった。わずかな切り傷でも、陰部周辺というのは血がまったく止まらない。さすが急所と呼ばれるだけのことはあると感心したものである。

 ともあれ、ケガは多い。
 そのぶん、デスマッチ形式のプロレスを観ていて、声をあげてしまう回数は多い。現実に三メートルのアルミ脚立に登らない日はない日常なので、そこから飛び降りたり、それで殴りあったりするレスラーたちの痛みは、我がことのように共感できる。

 共感性疼痛が、現実の痛みであることは研究者があきらかにしている。

 他人の痛みに共感して感じる痛みは、私の痛みなのだ。なので、痛み止めを飲むと効く。現実にカミソリボードに背中を切りつけられたわけではなく、出血もしていないのだけれど、現実の痛みを感じる神経を麻痺させてやると、共感性疼痛もやわらぐのである。

 信仰心によって浮き上がる聖痕も、それで説明がつく。

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『ヴァーチャルリアリティ元年の夢精』の話。

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 共感。

 だがしかし、私の知るかぎり、彼は切り傷を負ったことがない。歩き出したばかりなので、コケた打ち身やタンコブはそこらじゅうにあるが、私の知るかぎり、コンクリートブロックで殴打されたことはない。

 共感性疼痛?

 いや、そんな痛みを、こいつは知らない。大日本プロレスのデスマッチに「お」と声をあげたり、映画『レスラー』を観て、そういう生きかたを選んでしまう男の悲哀に「おお」と涙したりするほどには、大人になっているわけがない。

 だったら、なぜ、男色ディーノ先生の裸のケツの菊門に相手選手の鼻先がぶち込まれるのには興味がないのに、ネクロ・ブッチャーの額に数十本の焼き串が突き立てられて抜けなくなったのを見て、魅入るのだ。

 共感?

 試合そっちのけで、彼を見ていた。

 ん?

 ……痛そうじゃないな、きみ。
 鎮痛剤が必要な顔には見えない。
 笑んではいないにせよ、しかめっ面ではない。

 ただ、「お」と、口をまんまるにして。
 目も、まんまるにして。

 ああ……そうなのか。
 それ、デスマッチファイターの、表情か。

 痛みをこらえて「おおおおお」と声を出している。転がり回る選手たちの口も、まんまるだ。それを真似ている。共感ではなく。デスマッチファイターたちの表情と動作に、惹きつけられている。

 真似するものをさがしていて、真似すべき見たことのない表情を画面のなかに見つけたから、真似しようとしていた。

 有刺鉄線に投げつけられたら、むしろもっと背中を切って流血するように動き、口はまんまるに開けて「おおおおおお」と発声する。痛すぎると観客に伝わらないように。痛いけれど、これは仕事です好きでやっています、たのしんでくださいと伝わるように。

 ふと気づく。
 デスマッチファイターを褒めるのに、よくイッてしまっているといった意味の言葉が使われるが、みずからガラスボードに突っ込んで、ばらまいた画鋲の上にダイブして、額にステープル・ガンでメモを留めて。

「おお、これを見よ、おれを見よ」

 と誇る。
 これはまあ、ある種の適格な変態者ではなかろうか。パンツをかぶって「こほー」とポーズをとる、変態仮面に近いところがある。

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「もう寝なさい」

 私は言った。
 私は観るが。
 こういうものは、顔をしかめることをおぼえた大人の観るものだ。血だらけのひとが誇らしく口をまんまるに開けて発声しているのを、ただ真似るというのは、どこか飛ばしてしまっていて、いびつだ。よろしくない。

 そういえば、オリンピックをほとんど観なかった。
 野球やサッカーといったものも観ない。
 ガチの競技という意味では、格闘技は観るものの、鼻が折れたり、足の骨が露出したりしながらそれでも殴りあう人間たちの姿は、デスマッチに近い。好きこのんでなにをやっているのかわからないひとたちの熱き戦いであり、それに目を爛々とさせて歓声をあげるコロセウスの狂人たちである。

 なにかこう、スポーツらしいスポーツを、真夜中にそっととなりに座る彼のためにテレビで流しておくべきなのかもしれないと考えつつ、血まみれ傷だらけの肉体に粗塩をぶちまけられている選手の姿を観て、顔をしかめつつ歓声をあげてグラスにビールを足す、私の顔を映す鏡をまず目の前に置いておくべきかもしれないとも思う。

 プロレスというものは、演技であり、ガチでもあるという、その部分。けれど演じているといっても血も傷も本物だという、その部分。年がら年中、バス移動でプライベートもなくて、それでもそこらの会社員よりも給料安いんだろうなという、そういった部分。整形で顔を崩したミッキー・ローク。それで酒を飲む私。

 まぎれもなく教科書だという確信があるが、まだ早いし、でもだったらいつだと思えば、物心ついては遅いような気もする。三つ子の魂百までと言うし。

 デスマッチファンのひとりとして、共感性疼痛を感じられないやつは、デスマッチを観てはいけないと思う。変な影響を受けて単純な暴力に魅せられるおそれがある。では共感性疼痛を感じられるようになるというのはどういうことか。それは現実の痛みなのである。

 つまり彼が本物の痛みを知ってから、ということだ。

 私が幼いころには、プロレスは地上波テレビの新日本と全日本しかなかった。けっこうスポーツライクなプロレスだった。二十一世紀になり、娯楽の選択肢もひろがり、茶の間でデスマッチ観戦できる環境では、なかなかに考えることが多い。

 それは与えるべきものなのだろうか。
 三メートルの脚立から、自発的に落ちるのを待つのがいいのか。
 ひたいにステープル・ガンを撃ち込んでやるわけにはいかないし。
 彼にはほどこさなかった割礼、というのは、そういった男に与える最初の痛みという意味もあるのかな農耕民族ではない彼らにとっては、などと歴史認識を改めたりもして。
 とりとめもない深夜である。




●笑顔の起源と呼ばれる。

「はい! 早押しを制したのはヨシノギさん。答えをどうぞ!」

「辛島美登里!!」

「ぶっぶー。不正解。問題を最後まで聞きましょう」

●かつては生後三ヶ月までの人類ヒト科のみに見られるとされてきた。

●近年では胎児の時期から一歳すぎまで。またチンパンジーを含むヒト亜種にも見られることが報告されている。

 正解は、自発的微笑。
 ちなみに私とはまったく無関係なフィクション上のクイズ回答者ヨシノギさんが先走り聞き間違え誤解したのは「昨年発売された柴咲コウのカバーアルバムに収録されている「笑顔を探して」のオリジナルを歌ったのはだれ?」という問題。だったらば辛島美登里で正解。テレビアニメ『YAWARA!』の2代目エンディングテーマ。

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「なんの夢を見ているのだろう」

 眠る子が笑ったり泣くのを見て、大人は思う。
 私も思った。

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・そんなで一歳になろうとする息子が、近ごろ夢で泣いて起きるようになったのだけれど。特撮の怪人もまだ怖くなくて笑う、恐怖の概念が「失う」ことしかない子が飛び起きる悪夢って…きっと目の前で父たる私が破裂して消えるとか、そういうことなんだろうなあ、と、ひしと抱きつかれながら想像する。

twitter / Yoshinogi

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 いやたぶん、泣くのもそんなに具体的な人肉破裂遊戯的なイメージはなくて、曖昧模糊とした不安のようなモノの気配とかそういう……言葉が生まれてヒトは哲学できるようになったというけれど、そのかわりにナンヤシランケドザワザワスルみたいなことを感知できなくなった面もむろんあるので、幼子の寝て泣くなどというのは、悪夢というかは海流に翻弄されて前後不覚になったクラゲの酩酊みたいな原初の恐怖感の遺伝子記憶のごときものなのでしょうが。

 笑顔となると、これはもう。

 意味がない。

 そうなのではないか。
 という話をします。
 それは、自発的微笑と呼ばれる。

「なんやしらんうれしい夢でもみとるんかなあ」

 と少女の抜けない曾祖母などがのたまいますが、自発的微笑が生理的微笑とも呼ばれるように、それは生理現象であって、模倣ではないというところが論点。新生児の目なんてほとんど見えていない。それどころかエコー技術の発達で、自発的微笑は胎児にも見られることが判明している。胎児がだれかの笑うのを見てそれを真似たのならば、前世の存在から論じなくてはならなくなる。さっき遺伝子記憶がなんやらぱーとかエセ宗教めいたことを口走ってしまったけれど、いまここで、それは論じない。

 真似ではないのだ。
 なんやしらんがニマッと笑うのは、本人もなんやしらんとやっていることなのだった。生まれたばかりというものは、生きるか死ぬかの瀬戸際。そんな時期に、貴重なエナジーを消費して、なぜ笑う。

 もっともらしいことが言われてきた。
 大人の真似でないのならば、前述のように「意味がない」と断じてよさそうなものだが、男の乳首はなぜいまだに存在するのかという問題のほうがよほど研究のしがいがあると思えるのに、探求者たちは自発的微笑に意味を見出そうとする。

「周囲の大人を萌えさせるために違いない」

 笑う子は可愛い。可愛いと守られる。だから笑う。うれしくもなく、なにを感じたからでもなく。定期的にニマッとしておけば、少女趣味な婆ちゃんが「ウチのひ孫は東洋一のべっぴんさんやよってにー」などと喜色満面で、学資保険など積み立てはじめてしまう可能性が上がる。積み立てようとしたものの、祖母では積み立てられませんと門前払いされて、タンス預金に切り替えるかもしれない。そういうことをすると、また大地震が来て火事でぜんぶ燃えたりするのだということを、ヒトは十年も経てば忘れる生き物なのだ。なんにせよ、将来の遺産のために赤子は自発的微笑を浮かべるという小説が、支持を得た。

 得た、時代があったのだが。

 ヒト亜種。
 チンパンジーも、それを浮かべるということがあきらかになり、風向きが変わる。チンパンジーの子がチンパンジーばあちゃんを萌えさせても、学資保険もタンス預金遺産も期待はできないので、どうもおかしなことになってしまうではないか。

 そんな、もやもやする自発的微笑問題をコネコネしていた先月、京都大学の研究チームが、決定的にとんでもないことを断言した。問題。「決定的に断言する」というのは間違った日本語の使いかたである。マルか、バツか。

 ニホンザルの赤ちゃんにも自発的微笑が確認されたのだそうだ。それも一匹二匹ではなく、すべてのニホンザルの赤ちゃんに、である。

 チンパンジーが浮かべる笑いなんやから、ニホンザルも浮かべるのと違うん? というヒトはサルのことをよくわかっていない。

 チンパンは、霊長目ヒト科チンパンジー。
 ゴリ先輩は、霊長目ヒト科ゴリラ。

 ニホンザルはサル目サル団サル的サルの子もサル。
 どこまで行ってもさかのぼっても、サル以外のなにものでもなく、ヒトという文字といっさいかかわりあわない。つまりヒトではないし、じっと待っていてもヒトには進化しえないサルだ。

 サル公が、萌えを理解しているはずがない。
 萌えさせるために笑む、という高度な媚びを生まれながらに発揮してピンドン開けさせようだなんて、画策するはずがない。
 できるはずがない。

 この問題に、萌えを理解しないニホンザルという純粋なサル野郎が絡んできたことで、話が一気にややこしくなった。

 萌えを理解しないのに、サルの子が浮かべる自発的微笑も、ヒトの大人が見て「萌えー」と発声してしまいそうな、ヒトの子が浮かべるそれと同じ、ニマッ、だったことも問題となる。ヒトが見て、つられて微笑んでしまいそうな、微笑と感じる微笑をサルが浮かべているのである。

 サルの大人は微笑まない。
 ニマッ、ではなく、ウキキキッ、がサルの笑いだ。
 サルの代名詞と言ってもいい。
 口を大きく開けて、歯を剥き出しにする。
 映画『猿の惑星』では、サルは歯を剥き出しにして笑うものなのに、ニヤリと人間のように笑うというところで、不気味さを演出していた。それくらい、サルの笑いというのは、ヒトのそれとは根本的に違う。

 ヒトのおっぱいはケツである。

 サルは赤く発情したケツを異性に向けることで「ここへブチ込んで孕ませて用意はできているわ」と意志表示していたが、ヒトへとメタモルフォーゼする過程で二足歩行になりパンツを穿いてしまったので、異性にケツを向ける習慣もなくなり、かわりにおっぱいをケツのように膨らませて、頬を桃色に染めるようになったとされる。そのおっぱいをまたさらに進化すると乳バンドで覆ってしまったというのは、進化なのか退化なのか再度議論の余地があるところだが。ここで、それに関しては触れない。

 ともかく、サルの笑みには奥ゆかしさがない。
 笑って媚びを売るにしても、相手が誤解など絶対にしないレベルで、大口を開けて歯をすべて見せて、声まであげる。ウキキキキッ。そこで初めて「おおそうかぬしはかわゆいやつよのお」となる。サル業界で、歯を見せずに口角を上げた、ニマッ、程度の微笑では、笑いと認識されないはずなのである。

 事実、ニホンザルの親は、我が子の自発的微笑に気づかないという。たまたま目にしても、歯をむき出していない、ヒトみたいな微笑を、笑いの一種だと気づくこともできないのだ。

 となると。

 ヒトと、チンパンジーと、ニホンザルの、自発的微笑が似通った表情であるのに、ヒトのそれだけが「萌えさせるため」だという説は、成り立たなくなると考えるのが、道理であろう。

 困ったことになった。

 クイズの正解は、笑顔の起源と呼ばれる自発的微笑だというのに。

 ちなみに、前述の京都大学チームは、このことについて「グリメイスを作る際に必要な頬の筋肉の発達を促している可能性」があると考察している。

 グリメイス、とは「服従の表情」のこと。歯を見せてウキキキッ、のこと。あなたさまにはかないません私はクソ虫ですどうぞお好きにあつかってください、という媚びへつらうための笑みのことである。サルには猿山文化があるため、猿山のボスに取り入るための最低限必要なグリメイスな笑みが浮かべられないと、ハブられて生きていけなくなる可能性が高い。そのためにサルの赤ん坊は、物心つく前から、歯を剥き出しにして笑うための頬筋を無意識に鍛えはじめているというのである。

 ……苦しい解釈ではないでしょうか。

 と、私は思う。
 それに、サルの自発的微笑が、いま目の前にいる大人ではなく、未来のボスに対する媚びの自主トレーニングだとすると、ヒトの自発的微笑とはまったくの別物であると言わざるをえない。ヒトの社会は、媚びるよりも他人を威嚇することの上手いヒトのほうが生きやすい。自主トレーニングならば、眉間に竹内力的タテジワが入れられるよう眉根と眉根を寄せたりするべきだろう。自発的メンチ切りをヒトの赤ん坊は胎児のときから浮かべないとおかしい。

 やはり、自発的微笑は、微笑そのものなのではないのか。

 外的作用を狙ってのものではない。
 つまり「意味のない」。
 本当に、純粋に、赤ん坊のなにかに対する「反応」であって、少女趣味な曾祖母の思わず口にした「なんやしらんうれしい夢でもみとるんかなあ」が、正解なのではないのか。

 サルの大人は、サルの子の微笑みを笑みと認識できない。
 それなのに、サルの子が自発的に笑むのは矛盾しているというロジックも、見かたを変えれば、いつかヒトとは別れたサルも、根っこのところでは同じ漠然とした夢のようなものを見て微笑んだりするのだけれど、サルとしての進化の道を選んだがゆえに、サルの大人になると、そのことを忘れてしまうのではないのか。

 遺伝子記憶……おっと、また言ってしまった。

 でも、ヒトが、海流に翻弄されて前後不覚になったクラゲの酩酊みたいな原初のたゆたいを、言葉をおぼえると忘れ去って想像もできなくなってしまうのと同じように。

 自発的微笑は、ヒトもサルも、物心つけば浮かべなくなる。

 忘れる前の、分岐の前の、それだけがあったころの、なにかを赤ん坊だけがいまもまだ見ることができて、それで微笑んでいるのではないか、と。

 思いながら、眠る子の微笑みを見る。
 息子は、一歳を越えた。
 研究によると、そろそろ自発的微笑を浮かべなく……浮かべられなくなるころである。遺伝子記憶を……まあ、もういいか。遺伝子記憶を、生身のヒトとして生きるために忘れる時期に達してしまった。クラゲのではない、生身のヒトの悪夢を見て枕を濡らして目ざめて天井を見つめてぼくはいまここでなにをしているのだろうと呆然とするような、ヒトの基本的いとなみを身につけてしまった。

 意味のない微笑を、浮かべられなくなってしまった。

 ヒトの人生では、すべての表情に意味がある。
 眠っているあいだの、ふわりと浮かべた、それでさえ。

 だから逆説的に。
 胎児の浮かべる微笑に意味を見つけようなどとするのは、いらんことではなかろうかと感じてみたりする。おれに媚びてんのかよとか、歯を剥き出すトレ-ニングなのかよとか、そういうふうに受け止めるほうがどうかしてんじゃないのかよ、と。

 なにか、私の忘れたなにかを感じて、微笑むことができるんだよ、こいつは。

 それが正解。
 けっこう自信がある。

 笑顔の起源。
 実は退化なのかも。
 別にうれしいことなんてなくても、なんとなく微笑むのは、自然なことではないでしょうか。生きているんだし。なんで微笑んでいるのかなんて、微笑みが心の底からわきあがってきたからってだけでしょう、本来は。

 意味をさがさずにいられないヒトが、愚かしい。
 気にもとめない、サルの愚鈍は、いさぎよい。

 なんか笑っとるわ。
 さえ、いらない。
 まだヒトにもサルにもなっていないから、笑んでいるだけじゃないの。

 最初にあるのが、それだってこと。
 遺伝子の基本情報が、微笑みってこと。
 ヒトもサルも、ややこしい部分をぜんぶそぎ落としたら、それだけが在るってこと。そうして生まれて、忘れて生きて、またもどるときに、思い出してニマッとできたら、このうえなくうるわしい。




liquidcrystalline01.jpg

わかりにくいですが。
起動させテーブルに伏せた
カメラです。
レンズが覆われているので、
液晶は闇。
そこに写り込む天井。
二本の白いのは、
直管蛍光灯型LED。
場所は某事務所。
それはまあいい。
問題は。
黄緑色の直線。
これ、なにかが、
写り込んだわけではない。
いわゆるドット抜けの、
上から下まで直線抜け。
液晶の不具合。
抜けていると言うけれど、
正確には点灯しっぱなし。
仕様はTFTカラー液晶。
薄膜トランジスタ液晶。
RGBのドットで構成される。
R=赤
G=緑
B=青
色からしてなんだろうか。
緑が点きっぱなしなのか。
修理に持っていきました。
今年の三月に買ったばかり。
当然、訊かれます。
「落としたりしていませんか?」
していませんよ。
今朝、電源入れたら、こうだ。
撮った写真に線はない。
純然たる液晶の不具合。
あずけてきました。
二週間はかかるという。
月に数千枚撮るのです。
二週間で数百枚?
ごそっとアルバムに空白。
そんなわけにはいかないので、
古いスマホを持ち出してきた。
Windows Mobile 7だ。
OSは古いが良いカメラの機種。
しかし最新のデジカメには、
やっぱり劣りまくる。
あらためて、いやもうほんとに。
新しい機械の有能さったらば。
二週間、たった二週間。
でも違和感が耐えがたい。
でもストレスが半端ない。
便利さに慣れると、戻れない。
機械は壊れるもの。
だから保証期間もあって、
ちゃんと直してもらえる。
けれど時間はそのあいだも過ぎる。
こんな時間を過ごさないために、
新しいカメラを買ったのに。
慣れたがゆえに、ないと辛すぎる。
愛するものはふたつ持つべきだ。
などとは思わない。
待つ間に愛は深まってゆく。
だがしかし。
待つ間、そう感じるのは仕方ない。
こんな想いをさせやがって。
なんで離れたりするんだよバカ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 今年の、まだ春が来る前くらいに買いました。

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『IXY DIGITAL L2の最期』のこと。

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 セルフ引用しますと、

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 よく動いてくれた。
 大げさでなく、私の人生の一部だった。

 ありがとうCanon IXY DIGITAL L2。
 撮れなくなったけれど、棚に飾っておく。

 ちなみに、昨年モデルの処分品を見つけてしまった私がスルーした、最新今年モデルの出たばっかりIXYは、IXY190。

 きっと、こちらを買っていたら、さらに一年分、なにかが進歩していてもっと満足できたのかもしれませんが。十年ぶりだったので、私は室内で子供を撮ることなんてほぼ不可能だった手ブレ補正なしのCanon IXY DIGITAL L2での悪戦苦闘が嘘のように、フラッシュなしで室内で動く彼の顔をブレずに写してくれるだけで、新しい愛機を抱きしめたい。

 新しいカメラは、古いカメラの死を、一瞬で乗り越えさせてくれた。
 これでまた、ポケットに世界を切り取る道具を入れて彷徨ける。
 切り取るために、切り取れるなにかを探す日々が続く。

 よく言われること。
 しかし、己が身に起こらないと信じられない。
 あんなに好きだった相手の替わりはいないと信じていたって、新しい相手が見つかれば、忘れられないにしても過去は過去になる、という事実。
 こういうのを、しあわせというのだろう。

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 まとめ。

●長年の相棒だったIXY L2が大往生を遂げた。

●最新式のIXYはIXY 190。

●しかし性能的には上位機種である昨年モデルのIXYが処分価格だったので、私はそれに飛びついた。

●結果として大満足である。

●液晶壊れた。

 そんでまあ、半年も経っていないわけですからな。もろちん、購入したお店に持っていきますわ。というのが、冒頭写真文に至る経緯なのですが。

 二週間も待ちませんでした。

 数日後に、お嬢さんからお電話。

 わたくしごとですが、わたくしは安い輸入家電などを大量に売っている店で働いておりまして。そういう輸入業者さんというのは、国内でモノ作っているわけではなく、できあがったのを仕入れて売っているだけなので、修理を依頼しても「できぬ」という返事が多いのは身に染みている。できぬのでどうするのかといえば、新品交換。これもう私がハンダ付けして十秒で直してもいいんだけど、と思うようなのも、巨大な機械まるごとを交換して、不良品として返品する。ほんと運賃の無駄だと思うのですが。

「新品に交換させていただきます」

 ……おっと。ウチの店みたいな。
 と、思った。
 天下のキヤノン(ヤは大文字)さんが。
 そうですか。
 まあ海外工場ですしね。
 やっすいパチモンメーカーみたいな対応のように感じるのは、私が日々、そういう仕事をしているからであって、二週間かかるというのが、すぐ戻ってくるならそれに越したことはないですよね。

 うんうん、と自分を納得させていたら。
 思わぬ申し出が、続いたのでした。

「ただ、そのモデルがすでに生産終了で、今年のモデルになるのですが」

 ああ、まあ、それもよくある話だよね。
 でーもんそうなると、日々、自身もそういう仕事をしているから、知っていることがある。

 大きな声では言えませんが、大抵のメーカーさんは、売れた商品を、お値段据え置きで一年後にモデルチェンジするとき、型番だけを変えるのではない。よく売れる良い商品こそ。売れるから、コストカットが進む。具体的な例をあげるのはアレなので言葉を濁しつつ、しかし某画期的コーヒーメーカーの、数年前のモデルから一年ごとに金属部品がプラスチックに置き換わっていって、いまや金属の部分をさがすほうが難しくなってしまった様子は、私を毎年、身悶えさせた。だって、昨年モデルだから処分価格で棚に置くのだけれど、あきらかに今年のモデルよりも昨年モデルのほうが、大事な部分が金属で頑丈なのである。お値段据え置きだけれど、昨年モデルが残っているのにニューモデルなんて買うんじゃないよお客さーん。と言いたくて仕方なくなる。

「仕様はほとんど同じなんです。Wi-Fiがより簡単に使えるように便利な機能が追加されたくらいで」

 ちょっと待ってスペック見るから。
 そう言ってお嬢さんを待たせて、目を見開く。
 なにも見落とさないように。

 しかし、これ、見比べて一瞬で気づくことに。
 双子機だ。
 まったく同じ外観だ。
 いやまてでもだったら、なぜ型番を変える必要がある? ああそれか、いま彼女の言っていた、無線が使いにくいという顧客のフィードバックを素早く反映させた、良い意味でのマイナーチェンジなのか。

 信じていいのかキヤノン(ヤは大文字)!!

 ……なまじっか、信用ならない一発屋な輸入業者さんとのつきあいが濃密な職業人であるために、廃版にならずモデルチェンジで新型を生産するのに、こっそりコストカットしないという美談が信じられない。

 でもそれが本当ならば、私はIXY最上位機種を昨年モデルだったから最新機種よりもずっと安く買ったのに、数ヶ月で、さらに新しく出た最新の最上位機種に無償で交換してもらえてしまうということだ。

 なんかもう、故障バンザイという話だ。

 ていうか、直せないと言っていて、新品交換以外の手段は返金しかなく、どう考えても処分特価の金を返してもらうよりも、最新最上位機種を貰うほうが、お利口さんであろう。

「じゃあそれで」

 さらっと、色の変更もできますけれど、ブラックのままでよいですかと聞かれる。ままですよ。選んで買ったのですよ。昨年モデルで処分特価で、ブラックしか残っていなかったからではないですよ。私は黒色大好きだから、処分になっていてもシルバーしか残っていなかったら、こいつを買いませんでしたね。処分価格で買ったからって、ぼくの彼への愛を舐めるな!

 ……そんなことは、どうでもいいので語りませんでしたが。

 ともあれ、彼の不在期間は短く。
 仮面ライダーショーの撮影会にも、まにあう速度で帰って来たのでした。

 そして、納得する。
 安心もいたしました。

 最初に見たときはキヤノン(ヤは大文字)さんは、修理交換用に特別なパッケージを用意していて、こんなに小さいのかとびっくりしたのだけれど、検索かけてみたら、どうもこれが製品版らしい。

 とき同じくして、修理に出して新品交換で戻ってきたKATANA02の写真と並べてみましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

『プラスワン・マーケティング FREETEL KATANA02を修理に出す』のこと。

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KATANA0208.jpg

 同じ箱ふたつ。
 そうなるものだと思っていたら。
 IXYの場合には、こう。

liquidcrystalline02.jpg

 当たり前ですけれど、中に入っているものはまったく同じ。

 ああ、なんだかキヤノン(ヤは大文字)さんのスゴさを感じた。この文字列は、今回の記事のなかで二度目の使用です。

 運賃の無駄。

 そこがコストカットされている。
 中身同じで、箱のサイズが二分の一になれば、運賃は二分の一で済む。コンテナに二倍量を詰め込めるのだから。売れている商品だからできるワザ。値段を据え置くために、金属部品をプラスチックに変える必要はなくなる。

 Amazonさんでも、外箱の写真なんて載っていませんし。

B01FH4H5XS

 小売店でも、箱見て買うひとなんていないでしょうから、小さくできるならば小さくしてよし。いっそ、なぜ昨年モデルはそんなに大きな箱なのかってくらい。

(キヤノンさんはウチみたいな店にも、カメラのモックを送ってくださいますが、よくディスカウントストアなどでは箱でカメラが売られていたりするので、そういうリアル店舗の多かった二十世紀の慣習なのかも)

 まあね。
 それはつまり昨年モデルと完璧な双子機で、だったらいちど壊れた液晶がまた壊れることだってあるということを指し示してもいるのだが。それでも。

 スペック表で気づけなかった、実物を目にしたら「ああ、ここの部品が前のモデルよりも劣化している……」という、販売員くらいしか気づけないだろう小さな劣化を修理に出したがゆえに気づいて哀しくなる、という最低な事態は避けられたことに、ほっとしたのでした。

 さすがキヤノン(ヤは大文字)さん。
 失望させぬ。