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●育児休業給付受給資格確認票
       ※厚めの用紙

 署名・捺印 1ヶ所

●雇用保険被保険者休業開始時賃金月額証明書
       ※3枚複写の用紙(茶色) 

 3、6、記入 (1枚目)
 捺印2ヶ所 (2枚目)

●その他提出書類

 母子手帳のコピー (保護者・出生児・市町村長確認印・出生年月日が記載されている所)

 希望振込口座の通帳のコピー (口座番号、支店名が記載されている所)

 休業終わって翌月の末までに

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 六月に息子が生まれたので、育児休業について調べてみたわけですよ。そうしたら、なんだか昨年の十月に改訂があって、育児休業給付金とやらが受けやすくなったということを知りまして。

 どういう改訂かというと、こういうの。

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 これまでの育児休業給付金制度では、支給単位期間中に11日以上就業した場合は、その支給単位期間について給付金は支給されませんでした。

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 それが。

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 平成26年10月1日以降の最初の支給単位期間からは、支給単位期間中に10日を超える就業をした場合でも、就業していると認められる時間が80時間以下のときは、育児休業給付を支給します。

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 と、なったと。
 そのうえ、

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 育児休業給付金は、平成26年4月1日以降に開始する育児休業※からは、育児休業を開始してから180日目までは、休業開始前の賃金の67%となります。(これまでは全期間について50%)

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 なんてことも厚生労働省のホームページに書いてある。

 私のいま勤める店は、医薬品を売ることのできる資格者が私を含めて三人という状態で回していて、私が育児休業をとってしまうと、薬屋にバリケードを築いて、なにも売れません一円も儲かりません状態にせざるをえないため、完全に休むという選択肢は最初から頭になかった。

 でも、いま、このタイミング。
 休んでも給料の七割くらいのお金がもらえて、完全に休まなくてもそれが支給されるようになったんだよ、ついこのあいだから。なんて言われると。そんなに手厚くしても、男性の育児休暇取得率は上がっていかないのだと連日、新聞には書かれているのを読んだりすると。

 私、そもそも毎年の有給休暇を100パーセント取得するようなやつで、みんなちゃんと休むべきだと思っている。

 そんなこんなで政治的な意味で。
 この状況で私のような男がこの制度を使えないのならば、そりゃあどんな男も使えないわ。こりゃいっちょ私が男性における育児休業の取得率を上向かせる礎になろうではないか。
 みたいな使命感もあり。
 本社の人事部と交渉をはじめたのでした。

 そうしたら案の定。
 うちの会社で育児休業給付金という制度を申請する男のひとはヨシノギさんが初めてですよ、と。特定できてしまうから詳しくは書けないけれど、我が社は百人千人とかいう規模の企業ではない。全国に展開している。日本中にいっぱい働いているひとがいる。それなのに、私が初めて。

 調べるから待ってくださいと、メールの返信。

 まあなにごとも、最初があるよね。

 自分でも調べてみる。
 そのうえで来月のシフトを組んでみる。
 十日以上出勤したらダメというのでは組みようもないが、80時間に制限緩和されたのなら、私のようなケースでは非常に助かる。もちろん同僚に多大な協力を仰ぐことになるのは変わらないが、月に二十日、一日4時間で出勤して、夕方から閉店までに書類仕事を片付ける。開店から夕方までは、ほかの二人で交代に回してもらう。どうしたって十日ほど、夕方から「医薬品お売りできません」ということになってはしまうが、やってやれないことはないレベル。

 こういうカタチでやりたいのですが。
 そう人事部にメールしたら、制度を調べるとかいう以前の問題が発生。どういう理屈で(憶測では交通費とかそういうことの問題)そうなっているのかは知らないが、社内規定で社員はいちど出社したら最低6時間は勤務しなければならないのです、って。

 ……みんな育児休暇をちゃんととりなさいよと、国が考えてこれでどうだと提示してくれているのに、社内規定で? そこどうにかならんのかねキミ、と休ませてくれという話をしているのに強気に出る私。

 けっきょく。特例ですよ、ということで4時間勤務が認められる。そこまでもいろいろ長い話しあいがあった。特例じゃないだろ、最初のひとりだからこそ、あとのひとが続ける道を切り拓く良き前例になろうとしているのに、と食い下がる私に、正式に勤務規定を変更するとなれば、ヨシノギさんの息子さんは立って歩くくらいにはなりますよ最低で、と返される。うーむ。

 ここはとにかく育児休暇を取得することが最低限の前例だと自分に言い聞かせ、話を突き詰めていくと、さらなる問題が発生。

 一日の勤務時間を減らすためには、育児短時間労働という申請になる。いやこれも、私の勤める会社での、内部的な規定の話。国は、まったく関係ない。とにかく我が社では、そうなる。

 ……ここで疑念が浮かぶ。

 目指しているのは、育児休業給付金の交付だ。それなのに、育児短時間労働では、休業していないことにならないか。

 ええ、申請しても通らない可能性は高いですね。

 人事部も、明言する。
 いやいやいや、と笑う私。

 だったら、育児休業とって、休業中に出社する。
 同じ80時間を、そうしてくれたらいいじゃないですか。

 そういうことはできません。
 社内規定で? 社内規定で。
 正式に変革を求めれば息子は二十歳くらいになる?
 そうは言いませんけど、来月から休むっていう話ですよね。
 生まれたから取得するのが育児休業だからね。
 休むなら申請はできます。
 完全に休むか、育児短時間労働申請か?
 そうなります。

 ちなみに、育児休業給付金の申請最低単位は、二ヶ月だ。
 どう考えても、二ヶ月、完全に休むというのは不可能。

 かくして、それが落としどころだった。

 今年の六月に息子が生まれて、私は、その後の一ヶ月で会社との交渉を続け、現実的に可能な方策として、八月、九月の二ヶ月を、二十日出勤4時間勤務という育児短時間労働者なる立場ですごした。

 あけて十月。
 いちおう、人事部から冒頭の、どうせムダですけど感たっぷりな、事務的メールが届き(そのままコピペしたわけではないが、メールの最後に「休業終わって」と書いてあったのは本当。そこの言葉の選びかたについて喧々諤々やりあったのに、わざとなのかと疑う)、書類をそろえて返送。本社所在地のハローワークに提出された。

 十一月。
 やっぱりダメでした。
 申請却下。
 ネックは、当たり前なのだけれど「休業」していないという部分。

 これが、男性における育児休業取得率の真実。
 私は二ヶ月、時間的には「休業」と見なされて育児休業給付金が交付される数字まで勤務を削ったのだが、書類上は「休業」していない。そのため社内的にも、他社の営業さん的にも「このごろヨシノギさんいませんね」「育児休業でいらっしゃるの」というわけで、がっつりイクメン呼ばわりされていたにもかかわらず、新聞に載る男性育児休業取得率グラフの傾斜角度向上には、いっさい関与できず終わった。

 いやもちろん。
 二ヶ月、家にいる時間が長かったせいで、このブログでも料理しまくっていたのをご覧いただいたし、息子は私のことをはっきり認識できるようになって、いまは元通りの勤務で出勤日には彼とはすれ違いな日々なのにもかかわらず、休日には顔を見ただけで満面の笑みどころか声をあげて大歓迎してくれる。育児短時間労働なる我が社の制度も素晴らしいものではあった。

(言葉のわからない赤ん坊がなぜ笑うのかという研究があり、そのなかで相手の笑顔に反応しているのだろうという見解が出てくるのだけれど、私は赤ん坊に赤ちゃん言葉で話しかけないし真顔なので、彼が私を私と認識して、そのために笑っているのは間違いない。なにがおかしい? と、変わらず真顔で返しても、さらにキャッキャと喜ぶだけだから、研究者さんは笑顔のないコワモテの父親も実験室に招かないと正確な研究はできませんよと報告しておく)

 でも、受けられる給付金があるのに、受けられないというのは、やっぱり釈然としない。それはもう大切な大切な税金を投入するのだから、不正受給を防ぐという観点は重要だ。わかってはいるが、実質休業したのにカウントされないという事実には首をかしげてしまう。

 そういうわけで、私は、まだこの話をあちらこちらの方面と続けています。私自身には、次の子が生まれでもしないかぎり、もう関係ない。けれど、社内で育児休業給付金を取得しようとしたができなかった最初のひとりとして、次のひとが「休業」中に「出勤」できるようにならないものかと。
 完全に書類だけの話なのです、と。
 先週も、ちょっとこちらがヒくくらい上層部のひとと、そういう話をするようになった今日このごろ。

 国が考えてくれても、現場はそんななんだ。
 そこまで国の偉いひとにどうにかしてくれってのはムリだから。
 当事者が、わーきゃー言わなくちゃダメなんだ、と思う。
 いっそ二ヶ月くらい、完全に休んでみてもよかったかと、思ったりもしている。
 だれかがやってみないと、問題がどこにあるのかもわからない。  
 やってみた。問題あった。
 じゃあまあ、解決できないまでも、問題があったんだよということだけは、ちゃんと言っておきたい。人事部のひとたちも、なにもわからないなかで、あれこれ調べてくれたし、おそらく通らないだろうけれどいちおう申請してみてほしいという私の要望にも応えてくれた。
 次は、なんとか、なるといい。

 良い方向で考えると、新聞の数字には出ないが、子供が生まれたから働く時間を減らしてみたよ、とか、もとからサービス残業なので公的な数字には出ないだけで同僚の協力で早く帰って子供の寝顔だけでも見るようにしたよ、なんていう真実は多くあるのだろうなと、肌で感じた半年ほどでした。少なくとも、私のまわりのすべてのひとは、ヨシノギさん二ヶ月でいいの? もっと休みなよ、赤ちゃんなのはいまだけだよと、背を押してくれる存在でした。

 多謝。

(あれこれ書きましたが、育児休業給付金という制度。「休業」したか、していないかで判定されるというなかでは、80時間規定というものも機能しにくいのではないかと強く思う。私が、私自身のことは終わったものとして改めて会社と話してみると、時給で働くひとは時間を減らすならば単純に時間を減らすだけで「休業」という概念そのものが出る幕がなく、月給で働くひとにしても休業中の出社の時間を制限するという考えかたは逆なのではなかろうかという話にばかりなってしまう。国の見方としては、もともとがっつり働いていたひとが「休んだ」から支給するのであって、そこを明確にしたい、ということなのだろうが。支給条件緩和の結果、休業まではしなくてもぎりぎり回せるという私のようなケースでは、給付金を受けるために「あえて休業」することが必要で、それってなんなんだ、そのために社内規定を変えるっておかしくないですかという人事側と、だって書類上そうできれば受けられる給付金があるんだよというこちら側で、なんの話をしているんだっけ的な不毛さが生まれるのもまた事実なのでした)

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・ そう。仕事ツイートしているということは、七月に入ったけれど、育休は取れていないということだ。だがまだあきらめぬ。

2016/07/04

twitter / Yoshinogi




 そんなわけで負傷欠場中の吉秒です。

 Haloアリーナで戦いたいが戦えないカラダのため、おとなしく映画など観ている秋の夜長のリリシズム。そういえば先週の『水曜日のダウンタウン』でスーパーササダンゴマシン先生が「近年のプロレス、表現の幅広がってる説」をプレゼンしたおかげで、当ブログも恩恵あずかり、ありがたいことで。ちなみにですが、うちにヒットしている検索語句の組みあわせでもっとも多いのは、

「飯伏幸太 自意識過剰」

 あと、

「飯伏幸太 局部モザイク」

 なんかでもけっこう上位に来る。うれしいやら恥ずかしいやら、私は褒めまくった文章を書いているのに、悪口みたいな語句の組みあわせで検索されるというインターネットの不思議の深遠さも感じつつ。

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『ラリアートとキス』の話。

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 そんな飯伏幸太選手も、現在欠場中(プロレスを)。
 頸椎椎間板ヘルニアで左半身がしびれて年内復帰もあるかないか未だ不明というような。それに比べれば、私の右半身の首から下の出っ張りほぼすべてにできた重度の擦り傷が、いままさに治りかけてカサブタになり、一日中かゆくて気が狂いそうなことくらいなんだという気になる。

 プロレスは勇気をくれる。
 そんなプロレスの表現の幅が広がっているとスーパーササダンゴマシン先生は語っておられたのですが、いえいえ、そんなのは歴史あるエンタメのすべてにおいて言えること。摂取してもらわないと勇気だって与えられない。けれど娯楽があふれるこの新世紀。だから笹団子のマスクをかぶったひとがテレビに出て強くて可愛い飯伏幸太が本屋さんで裸エプロンで本棚からムーンサルトプレスを極める映像を推してくる。

 小説だって。

 『ワン・デイ』は、イギリスを中心に英語圏でベストセラーを記録した恋愛小説である。しかし登場人物は、学園のスターたるイケメン男子と、ぱっとしないメガネっ娘が卒業式の日にベッドをともにして……というような、あらすじだけでは、どうにも売れそうもない内容。

 けれど、この小説、本屋でプロレスすれば客集まるんじゃない? キャンプ場ならどうよ? 工事現場では? というような新世紀の発想のもと、かなりひねってきた。

「そのふたりの、出逢ってからの二十年を、毎年の一日だけで描く」

 つまり、毎年、七月十五日のふたりを二十回、書く。
 だから『ワン・デイ』

 おもしろそうだと私も思った。
 邦訳されたので読んだ。
 傑作だった。
 こういうひねった技は、ちゃんと試合のできるひとがやってこそである。そういう意味で、デイヴィッド・ニコルズは、超絶技巧の使い手だ。

 めっちゃ売れたので、映画化されることになった。
 そこで問題が出る。
 ラブストーリーというのは、映画でやる場合、長いと客が入らない。デートで三時間の恋愛ものを選ぶ気になるか。きゅんきゅんしたい女性客だって、三時間もトイレに行けないなら、ビデオ化を待って家で裸で毛布にくるまって観ようかしらという気になってしまう。

 だが、この原作は、長い。
 そして、技術的に難度の高い微妙なバランスで成り立っている。端的な例をあげれば、我が師と仰ぐ小説界のカリスマ、ディーン・クーンツが「絶対にやっちゃダメ」と一貫して言い続けている、同じ章のなかで人物の視点がコロコロ変わる、というのをニコルズは使いまくっている。小説ではそれも技術で成り立っているのだが、映像化のさいには、困る。同じシーンのなかで、二人の人物のそれぞれの心のつぶやきを描く? 心の声を音声にしてかぶせるという手法は、ないではないが、たいていの場合、失敗する。コントのように見えてしまうからだ。

 脚本をどうする……
 そこで、一種の反則技。
 日本でも、そういうのがあった。

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『映画マルドゥック・スクランブルの完結を祝う』のこと。

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 妻の前歯を折ったと逮捕されたが即釈放された、あれはなんだったのかという件には触れずにおきたい冲方丁男爵の小説界での金字塔『マルドゥック・スクランブル』シリーズを、映像化するにさいし、なにを切って残せばいいものやら難しすぎるので、原作者本人に脚本をまかせたら、上手くいったよ、という。

 原作が売れに売れたという作品の場合、怖いのは映像化されたものを観て、原作のファンが失望し、宣伝どころかアンチに回るという図式。それを防ぐためには、原作者がそのシーンは削ったんだよ、と言えるのは大きい。

 だったら原作ありの作品はみんなそうしたらいいのにというところだけれど、もちろんそうはならない、しろうととくろうとのフェラチオは違う。餅は餅屋という話。小説書けるひとが、脚本書けるかどうかは、別問題。

 なのですが。
 『ワン・デイ』の場合。
 むしろそこが、カチッと、はまった。

 『マルドゥック・スクランブル』はアニメーション映画なので。原作者が原作に忠実に脚本化したものを、そのまま映像化できる。だが『ワン・デイ』の映像化は、実写だ。そしてその小説は、ひと組の男女の生涯を描いている。

 選ぶ、という以前に、無理な相談。

 原作『ワン・デイ』で、主人公の美男子デクスターは老いる。若き日の美貌は見る影もなくなり、禿げて太って七歳の娘に坂道で追いつけずに笑われるようになる。日本の大河ドラマならば、そこは平気で「髪白くして、しわくちゃの特殊メイクすれば」ありだろうとするところだが、これも二時間弱の恋愛映画を望む観客層には、映画館を出たあと「あのメイクはないよね」というかっこうのネガティブキャンペーンのネタを与えることになる。

 では、原作を改編する必要がある。
 そこで原作者の経歴を見てみると。

 ディヴィッド・ニコルズ。
 元舞台俳優だが俳優をやめて映画の裏方にたずさわり、そこからテレビドラマの脚本を書きはじめ、小説も書いてみたら売れた。

 テレビがわかっていて、元俳優である。
 そんなもの自分で書きなさいよ。

 かくして、映画『ワン・デイ 23年のラブストーリー』は、すばらしい恋愛映画に仕上がった。

oneday

 日本でもヒットしたし、Amazonの評価を見ても、好感触である。でも、だけれども、だからこそ。

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 それでも、やはり私の立ち位置として、原作ファンが作品の映像化にさいし、言っておかなければいけないひとことは、言っておきたい。

 アニメはダイジェスト版だ。
 駆け足だ。舌足らずだ。
 出来はいいが、時間の都合上カットされているシーンが出るのは、原作を知るものとしては耐えがたい心境もある。私的には、さらわれてきたジョンが、闇夜に飛び降りるパラシュート降下でビビり、仲間と殴りあいになって、怒りで恐怖を忘れるという感覚を知る、あのくだりは映像化してほしかった。

 つまりあれだ。
 原作読まないと、語れないことがあるってことさ。
 読めばいいのに。


 吉秒匠  『Halo: The Fall of Reach アニメーションシリーズ』の話。

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 そのゲームを欠場して、映画を観ながら『ワン・デイ』のことを思い出した。よくできた映画だけれど、原作者本人がくろうとすぎるために巧ますぎて、長くて切なくてたまらんあの原作小説の叙情が、確信犯的に改変されていることを。

 というわけで、映画『ワン・デイ 23年のラブストーリー』のWikiはあっても原作のはない、そういう国で「いやこれってそもそも小説がものすごかったから映画化された作品なんだよ映画観てよかったなら原作を読みなよ!」と、しゃにむに叫ぶ、そんな今日。

 だいたいねえ、物語のスタートが1988年だよ。その時分に、美貌の学園スターが落ちぶれて無軌道な二十代をすごすというのに、映画ではタバコの一本も出てこない。もちろん原作では、ベッドのなかでもくわえタバコだし、アルコールもドラッグもセックスもあふれかえっている。映画では清純派のヒロイン、エマのほうも、携帯電話を持つか持たないかでデクスターと賭けをした結果が映画ではばっさり削られているが、原作では、上司と不倫をするようになって携帯電話を手にして賭けに負けるのだ。

 重要な小物も、いくつか改変されている。最大の違いは、エマの乗る自転車が原作ではヘルメットをかぶって前傾姿勢で乗るガチのスポーツサイクルなのに、映画ではママチャリになっていること。不倫におぼれた原作では長い時間の事実もばっさり切ったところを見ても、ニコルズが「ダメ男デクスター×清純派エマ」の図式で原作を削って結晶化させようとしたことがわかる。
 しかし、エマの魅力は、毒舌にある。

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「あなただけじゃないわ。男の人は概してそう。みんな、自分の役を演じようとするのよ。ほんとにそうなの! ただ話をして聞いているだけの人がいたら、なにをあげてもいいと思うくらい!」


デヴィッド・ニコルズ 『ワン・デイ』

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 ヌーディストビーチで裸で泳いだデクスターの服が盗まれたとき、あのパンツはアルマーニだったと映画ではネタにされるが、原作ではヘルムート・ラングだ。そこに象徴されるように、ニコルズがヒロインの性格同様、映画では観客十人の十人全員が理解し共感できる方向性で脚本を書いたこともわかる。原作の重い部分を濃縮するのではなく、元俳優でテレビドラマライターらしく、原作つまみ食いの、軽い恋愛ものを目指した。

 原作がベストセラーになった英語圏では、それはサービスだろう。話の本筋に関係のない部分はことごとく切る。映画は映画としてすばらしい。原作ファンは、あのシーンの映像化があったと喜んで帰る。

 そういう雰囲気こそが、ニコルズにとっては重要だったはずだ。原作の大部分をばっさばっさと切りながら、しかし、これでシンプルな恋愛映画として客に受け入れられれば、映画から小説にさかのぼるファンだって出るはずだと。

 日本で、小説は読まず、映画だけ観たひとは、あの内容でなぜ原作は分厚い上下巻の二冊組みなんてものになるのだろうと思うかもしれない。だが、いまいちど思い出そう。そもそもその映画は、原作がベストセラーになったから作られたのである。

 デクスターの子育ての奮闘ぶりも、実にたのしくてボリュームあり、しかもデクスターの極めつけにダメな部分が満載なのに、がっつり削られた。

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 おむつ交換用のマットの上に体を置かれるやいなや、ジャスミンは目を覚まし、ふたたび泣きだす。きしるようなあの恐ろしい泣き方で。口で息をしながら、できるだけ手早く効率よくおむつを替える。新聞や雑誌で見かけた、子供を授かることに関する楽天的な論評の多くは、赤ん坊のうんちがいかに無害であるか、うんちもおしっこも汚いものではなく、慣れれば愉快とはいえなくても不快でなくなるとしていた。彼の姉などは”トーストに載せて食べられる”とまで言っていた。なるほど、無害でいいにおいがする、この”うんち”も。


デヴィッド・ニコルズ 『ワン・デイ』

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 まあ。確かに。
 この手の心の独白が延々と続くから原作は長大なのであって、これを二時間切る恋愛映画に入れる必要などないというのは賢明な判断だった。だが一方で、これこそが小説『ワン・デイ』のソウルだ。本来の作品のテイストからすれば、削っていいところではない。割り切って映画は映画の世界観で書いた、原作者ニコルズだって、そのあたりは小説でたのしんでもらえるはずだから、と信じて泣く泣く切ったはず。

 つまり、片方では、もったいない。
 映画がたのしめるならば、原作はもっとたのしめる。いや、もっとというのは語弊がある。同じ物語でありながら、別物なのだ。どちらも摂取して、補完しあい、はじめて完璧な『ワン・デイ』。

 生身の役者を使用する映像化では省かれた、小説終盤の一節。

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 三十八にもなって歌や本や映画が人生を変えるなんて期待するのは滑稽だ。あらゆる物事は今やバランスよく落ち着いて、安楽と満足と親密の通奏低音をBGMに人生が送られている。あんなふうに神経が休まる間もなく舞い上がったり落ちこんだりすることはもう二度とないだろう。


デヴィッド・ニコルズ 『ワン・デイ』

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 エマは、ジュブナイル作家として大成する。
 つまり小説を書く。
 子供向けの小説を書くヒロインを書くデヴィッド・ニコルズが書く映画化の脚本では削られた、三十八歳で老いさえ滲ませた、駆け抜けてきたふたりの長い長い独白の章こそ、映画を観たあとに読んでほしい。

 愛や、情熱や、憂鬱について、延々と語られる。それこそが映像化不可能な部分だ。小説という形式だからできる、個人的な胸の内の吐露。映画ではできない、彼女は、彼は、小説の登場人物だから顔は見えないけれど、鏡に映してみれば、もしかすると私なのかもという錯覚。いや、事実。

 反則的なまでに上手な小説のすごさが、堪能できます。
 ライトな恋愛映画の軽い原作ではない。
 川副智子さんの実に丁寧な翻訳も心地いい。
 未読ならば、ぜひ。

oneday






・昨日の雨のなか、いわゆる道路のつなぎ目のギザギザ金属で単独スリップという恥ずかしい事故をする。そのまま働いたが、あまりの様子に本日は有給いただき病院へ。放射線で怪獣になるんじゃないかというくらいレントゲン撮影された。肋骨折れてた。

twitter / Yoshinogi

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 で、けっきょくレントゲン撮影十数枚(三割負担で八千円とか。レントゲン高し)の果て、肋骨骨折の診断で固定されて、親指と右肩は重度の打撲。

 十年越えてから、たまに乗っては壊すの繰り返し。

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『私のバイクがレッカー移動されていく』のこと。

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 今回のも、ゴムに亀裂走っているしタイヤが怖いですねえ、というような話をバイク屋でしていたところで。

 ステップとミラーが折れて、タンクにも凹みが。いよいよもう廃車するかなと、職場で話していたら、ヨシノギさんがそんなこと言うなんてやっぱり子供が生まれると人生観が変わるのね、などと。

 まあ、仮面ライダー好きの男子がジェットコ-スターに乗れるくらいの身長になって、家にバイクがあればそりゃ乗せろと泣くだろうし……以前、嫁を後ろに乗せてコケたことがあったが、大人は自己責任だとしても、子供をシートベルトもないツータイヤの移動機械に乗せるなんて、そんなの想像するだに怖い。

 そういうのは確かにある。
 だが、この『とかげの月/徒然』をリアルタイムに読んでくださっているあなたは、ヨシノギはそんなこと思っていないに決まっているぜ、と察しておられるだろう。

 正解だ。

 雨のなか、目前に後続の大型トラックが迫り、道路脇で走行量の計測をしているらしいパイプ椅子に座った二人組の男性が「怖っ」と叫び、ああそれは私がメキシコのプロレスを観ていてコーナーポストから場外へ頭から落ちていくルチャ戦士にあげる声と同じだけれどもこれはプロレスじゃなくて私は幼子を遺して本当に死にかけているんだぜ、と思ったには思ったあと。

 右半分の各種パーツを砕いた中型二輪を起こし上げ、道路脇に押しながら、左手の親指に力が入らないと気づいた。生き残ったことは確定。私自身の死の可能性については除外。となると、頭を埋め尽くしたのは、書きかけのブログのタイトル。

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『Halo 5: Guardiansの発売日』の話。

『Halo: The Fall of Reach アニメーションシリーズ』の話。

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 そうさ、『Halo5: Guardians』発売から二週間!!

Halo5:Guardians

 いまだゲーム本編についての記述に入っていない話をしていた今日このごろ。もちろん、暇を見て細切れにキャンペーンモードのプレイはしていた。まだマスターチーフはコルタナに逢えていないが、彼女の声は聞けて、うれしいとAIのくせに泣かれたりもした。いよいよ最終局面に入ろうかという、クライマックス直前の大盛り上がり中。

 息をするだけで脇腹が痛い。これはのちに肋骨が折れていたということでコルセットで固定され、それでも咳をするたびに悲鳴をあげてうずくまるレベルなのだが、そんなことよりも。結果的には重度の打撲と捻挫ということで骨には異常なかった、けれど左手の親指が動かない、そのことが。

 ゲーマーの、それもファーストパーソンシューターの、左の親指が動かないって。
 左の親指をかすかに動かしただけで激痛って。
 ナボールテープ貼ってテーピングでガチガチに固定って。
 全治二週間って。

 Haloおあずけ。

 子供が生まれて人生観が変わったんじゃない。いまこのタイミングで、『Halo5: Guardians』の続きをプレイできなくさせた、そういう乗り物に趣味で乗っているという自分に嫌気がさした。どっちの趣味が大事だ。そういう問題か? そういう問題だ。

 しかし、私がバイク乗りなことは知っていても、XboxOneユーザーでヘイロリアンだということはご承知いただいていない我が職場では、バイクで事故ったのは過去なんどもで、足の指から今回は肋骨まで各種骨折してきて、きっと次は首を折るわよと言われながらも懲りなかった私が、日になんども頭を抱えて、ああこの解けぬ呪いは、とか、おお神の馬鹿野郎よ、なんて状態なのを、よもやゲーム機のコントローラーの左スティックが操作できないからだとは、だれも夢にも思わず。

 あのヨシノギさんがすっかりイクメンねえ、と、ほのぼのされたりしているのだった。

 違う。それは真実、この状態では、息子を風呂に入れることもままならないのではあるが。あの糞バイクをスクラップにしてやろうかと憤っているのは、そことは無関係な話。私が選び、私が乗っていて、私が睡眠不足の早朝にしかも雨や雪が降ったらバイクは置いて帰ると決めていたのに、私がスリップした前輪を立て直そうとブレーキを踏むという初歩の初歩なあやまちを犯したために、プレイ途中の『Halo5: Guardians』に触れられない肉体の状態になったという、このなにもかもの自分自身に腹が立っているだけ。

(夏の暑さ、冬の寒さによるアスファルトの膨張収縮に対応するため、大きな道路に設置された金属ギザギザのつなぎ目というのが必要なものだとはわかっているが、そこをタイヤが二つの乗り物が雨の日に通過することも考えて、表面に滑り止め加工を施すのは税金の無駄遣いだろうか、という部分での他人への憤りは多少ある。道路の真ん中につるつるの金属の部分があるなんて、トラップ以外の何物でもないわ)

 そんなわけで『Halo5: Guardians』の話は、先延ばしです。自分でプレイしないでも、だれかがやっているのを観るだけででも物語の続きを確認したい自分がいるのですが、そんな機能は実装されておらず。私は私の左手の親指が治るのをじっと待つことしかできないのです。

 待っていても治らない、バイクの折れたステップなどはどうしようか、ということに関しては、いまは考えたくない。

(ちなみにそれでも『Halo5: Guardians』をプレイしてはみた。なんとか左スティックを倒すくらいはできるが、押し込むことができない。動作でいうと、しゃがめない(リコン操作派)。激痛。Haloシリーズでは、しゃがんで移動すれば敵レーダーに写らないという設定があるので、この動作なくしてプレイはままならない。しかしそれが、敵から隠れるためにしゃがもうとするたび、リアルな私が悲鳴をあげる始末。あきらかにプレイし続ければ治すのを遅らすどころか悪化もさせかねない。両手指を自在にあつかえること、スパルタンのミョルニルアーマーよりも優秀なカルシウムさえ摂取すれば自己修復する肋骨というダメージ吸収アーマーが皮膚の下に装備されて内臓を守ってくれていること、ふだんは忘れがちな人体という装置の超高性能さを再認識する……それを知るために剥き身で風を切る高速移動機械にまたがってコケてみるべきだなどとは言う気もないし、そんなものにこんな目に遭わされている自分はどうかしているとしか思えない事故直後な心境なのですけれども)

 ああもうつくづく親指って大事。瓶の蓋が開けられないし、マスキングテープを上手くちぎれない。だから壊れたバイクの補修もままならず、せめて錆止めは塗らないとタンクやマフラーについた傷から穴があく……指が痛もうともそれだけはやろうと決めていたのに、今日は雨。雨の日に塗装するとか、愚の骨頂。だからやめてこれ書いているわけですが。片手でキーボード打つのもイライラしてしようがないので、このへんで。