
ひかりTVから宅配便が届いた。
しかし、心当たりがない。
箱の大きさからして、ちょうどセットトップボックスが入っているかのようで「もしや新機種が?」などと思ったりするものの、頼みもしないのにゲーム用コントローラーを同梱してくるひかりTVとはいえ、さすがに機種変を勝手におこなったりはしないだろうし。
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『ひかりTVトリプルチューナーST-3200の愛らしさ』のこと。・・・・・・・・・・・・・・・・・・
まあ、開けてみればいいことだ。
こういう場合、劇場版名探偵コナンシリーズの登場人物ならば、いま開けようとする小包は間違いなく郵便爆弾なのだが、私は三次元に実在するので大丈夫。実写版の名探偵コナンは確か高校生なので、郵便爆弾というモチーフは扱っていなかったのではなかろうか。うろおぼえだが。どちらにせよ私は高校生でもないので二重に安全なはず。
爆発はしなかった。
そうして出てきたのが、冒頭の青いのである。
なんだこれ。
目にしてますます心当たりがない。
紙が一枚入っていた。
抽選の結果、当選したと書いてある。
その青いものの名称は、
「ディズニー・チャンネル オリジナル
P&Fのビニールバッグ」
だという。
P&F?
P&Gならば、しょっちゅうお名刺いただくのでプロクター・アンド・ギャンブルだと知っているが、Fってなんだ。
ヒントはディズニーか。
「ディズニー P&F」
使いはじめてひと月ほどがたとうとするWindows10に向かって訊ねるが、返答はない。どうしたコルタナ。……そうだった。コルタナはいまだ日本語を理解できないのだ。設定を英語に変えると英語を解するコルタナを使うことはできるのだけれど、そうするとWindowsのすべてを英語で使わざるをえない。XboxOneでもそうなのだが、そういうのはもう、垣根をなくしてもいいのではなかろうかと思うぞマイキー(ていうか最近は、日本語で正当に売りつけてくるインディゲームが日本語に翻訳されておらず、英語版を配信していますとのアナウンスもなかったりすること多し。だから最初から全世界言語の字幕を入れるのが手っとり早いってんだよ。吹き替えなんて必要ない)。
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・箱oneの言語設定を英語にすると今月の海外Games with Goldである『アサシンクリードIV』が落とせるが、実は日本語に戻すと日本版も落とせてしまうことに二章ほど英語でプレイしてから気づく。セーブデータは共通なのでやりなおさずにすんだけれど…だったら日本でも公式にくれ。
・アメリカンプロレスのゲームにターミネーターが参戦するらしいが(
https://youtu.be/AZTSahJxT0Q )。日本発売がない残念ねってニュースになってる。プロレスに翻訳の必要はない。XBOXONEもPS4もリージョンフリーなんだからしれっとダウンロード販売すりゃいいのに。
・箱ONE版ギアーズ日本語収録しろ署名に一票入れてきた。そうなんだよ成人向けにしてなお残虐規制必要な日本版なんていらない。最初から世界言語の字幕付けておいてくれれば、リージョンフリーだし流通は勝手にこっちでやるっつうんだよ。
https://xbox.uservoice.com/forums/251647-gaming-achievements/suggestions/9178496-please-support-japanese-language-in-gears-of-war-u
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大好きだから愚痴っぽい。でも本当に、ファミコン時代でもあるまいし、どうせ世界で売るのに、字幕つけるくらい、すぐできるじゃない。映画みたいな権利関係のごたごたも、ゲームでは少ない。マイクロソフトなんて特に、自分らで作ってXboxLiveで流せばXboxでもWindows10でもプレイできる体勢を整えながら、わざわざ各国バージョンのパッケージを作るとか、なんの無駄? ダウンロード販売のメリットにみずから脱糞しているようなものだ。もういっそ最初から某漢字圏語も入れておいて、世界同時発売にすれば、いくらすばやい海賊版制作者たちだって出し抜いて、正規版をダウンロード販売して利益確保できちゃうのにさ。規制? だから、言語設定を英語にしつつダッシュボードは各国語に留めておける謎機能をこっそり実装しておいてくれればいいだけじゃないか。日本でCortana勝手に起動されても、日本の地図がなくて道案内もできないCortanaなんて恥ずかしい? わかってんだよ。わかったうえで使うって言ってんだろ。そういうところの柔軟さが足りないとつねづね思っているんだよね。
話がそれた。
とにかく、私が訊ねた「ディズニー P&F」はまったく日本語の要素がないにもかかわらず、コルタナ姉さんは無言なので、仕方がないから手動で検索。将来、アンドロイドメイドさんが一家に一台とか実装されても、こういうことになるんだろうなと思う。ヒト型ロボにぎくしゃく家事なんてされても、もおええわおれがやるわっ、ってなるはず。サンドイッチ作って紅茶煎れるくらい、自分でやったほうが早い。で、けっきょくアンドロイドメイドはダッチワイフ目的でしか使われなくなるので、やっぱり最近売れ筋の全自動コーヒーメーカーも箱形ではなくヒト型を目指すべきだ。どうせそのうち使わなくなるが、可愛かったり格好良かったりしてオナニーには使えるならば、納戸の奥にしまわれることはないだろう。

また話がそれた。
だから。
検索したって話。
これがまあ、なにもらしきものに引っかからない。
ひかりTVさんよお、流布されていない通称を勝手に作って書いてこられてもわからんよ。まあそれを言うならば、自分で応募しておいて、このバッグのデザインがなにものかというのを知らない私がどうなんだって話だが。酔っていたのだろうなあ。で、テレビ画面でサクサクとプレゼントに応募できてしまうから「あらなにこのバッグ可愛らしい」とポチッたのでしょうなあ。ぜんぜんおぼえていない。好きな感じのデザインではあるのだ。持って出歩くには私のふだんのファッションはモノクロームすぎるのだけれど。
ちなみに、バッグをひっくり返してみると、こう。

うーん。
これ、なんだ。
裏側の。
シッポか?
ひらべったいなあ。
うん?
待て、そのクチバシも平べったいなあ。

……カモノハシ、か?
「ディズニー カモノハシ」
で検索。
おお。おおおお。

奥で光る剣をかまえている、それを追加検索。
カモノハシペリー氏であるらしい。
グッズもいっぱい検索に引っかかってきたが、街中でそんなの持って歩いているひと、見たことがない。私のようにファッションセンスが白黒だからではなく、耳の奥のネジが四本ほどゆるんで視覚がおかしくなっているのではなかろうかと勘ぐってしまうような、いかにもカモノハシペリーグッズが似合いそうなお嬢さんがたも身につけているのは見たことがないから、まだまだ普及段階のキャラなのだろう。
そこで私に、こいつの顔がでっかくプリントされたビニールバッグをさげて歩き回れと。
……持って出るのはイヤだなあ。
子供に持たすにはサイズが大きくて引きずりそうだし。
とはいえ、クーンツ師のサイン本のときにも書きましたが、私はモノをもらえばきちんと宣伝しなさいというしつけのもとに育てられたので、今回のこれを書いているわけである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
『Dean Koontz師のサイン本』の話。・・・・・・・・・・・・・・・・・・
しかしそうすると問題が。
実は私は、このアニメを観たことがない。
観たことのないアニメのたのしさを伝えるなどというのは、それは宣伝ではなく詐欺である。いち商売人としても、そういうモノの売りかたはしたくない。
まず観よう。
アニメのタイトルは、
『フィニアスとファーブ』
あれ?
カモノハシペリーの大冒険とかそういうんじゃなくて? P&Fってファニアスとファーブ? そいつらも、カモノハシ?
……違いました。
人間でした。
ひかりTVのベーシックチャンネルに「ディズニーチャンネル」も「Dlife」も含まれているので、チャンネルをあわせれば観ることができる。
「Dlife」では、はじまったばかりなんだ。
とはいえ、本日の放送はすでに第5話。
初回を観ていなくて、理解できるだろうか。
危惧しつつ、視聴。
『フィニアスとファーブ』
#5 ガキ大将と決闘
(原題:Raging Bully)
さっそく出てきたカモノハシペリー。
パイプ滑り台で、でかいモニターがある秘密基地へ。
なにか指令を受けている様子。
なにこれ。
カモノハシがエージェントなのか。
007だ。スパイ大作戦だ。
一方。
フィニアス(顔が三角の鬱陶しいガキ)は夏休み中だが、ガキ大将と遭遇し、わざとではないもののアイスクリームを彼の股間に落として笑いものにしてしまう。当然、ただでは済まないと凄むガキ大将。
そこにクマデを持って登場するボクシングの世界チャンピオン。
イベンダー・ホリフィールド。
(右耳には何者かに噛み千切られた跡)
ホリフィールドて!?

なんだか偶然にも、格闘技好きの私が望んで観たかのような回にあたってしまった。「プロボクサーにしては年をとりすぎていない?」と女の子が言うが、なに言ってんだ。伝説のひとだぞ。ていうか吹き替えで観ているのでわからないが、これ、もちろん本人が声当てているんじゃないのか? だから字幕にしろと。最初から各国で字幕を選択できるようにしておけばいいだろうが、いつまでビデオテープの文化を引きずっているんだダウンロード販売どころかひかりTVはブロードキャスト。ブロードキャストとは、ネットワーク上にあるすべてのノードに同時に同じデータを送信するシクミ! 世界中で同時に観られるようにするには、吹き替えでなく字幕!! それでよし!!
「ええそうですね」
しかし、年をとりすぎているプロボクサーだという指摘を、鷹揚に受け流すホリフィールド。
フィニアスくんは感動する。
「かっこいい!」
ホリフィールドは言う。
「決闘するなら、昔からのやりかたがある。三時にモールの前へ来い」
というわけで、ガキ大将と対決する三時まで、ホリフィールドの特訓を受けることになったフィニアス。ちなみにここまでファーブ(四角い顔の鬱陶しいガキ)のほうは、今日の三時にフィニアスくんのスケジュールが空いているかどうかを確認しただけ。それも無言でうなずいて。しゃべれない子なのかもしれない。
ところで特訓の内容だが、フィニアスのほうはエスカレーターを逆走したりと、なんだか特訓めいたことをやっているのだが。
ガキ大将の自主トレも抜粋で紹介される、そこでかなり時間を割かれたシーンに、私は興味をそそられた。
パンツずり上げ。
まさに今回の原題でもある『Bully』というゲームで私も散々やった。

アメリカの小、中学生あたりだと、共通言語として通じるらしいイタズラ……いや、日本だとイジメの部類に入りそうなのだが。ターゲット男子の背後に忍びより、ズボンの腰のところから両手を差し入れて、ブリーフをぐいっっ、と引き上げる。
「ぎゃっ!!」
と股間を圧迫されたターゲートはそりゃ言うし、その声でみんなの視線を集めてみれば、腰の両端から天使の羽根のように白いブリーフをはみ出させた彼がいる。大成功である。のびきったブリーフは、もう履けなくなっている危険性さえある。ひどいイタズラだ。
ゲーム『Bully』をプレイしているあいだ、私はそれは、古くなつかしい寄宿舎ノスタルジーなのかと思っていたのだけれど、二十一世紀の新作アニメで、ガキ大将がそういう特訓をたっぷり時間を割いておこなっているということは、現代のアメリカンキッズたちにとって、いまも日常的な屈辱であり、笑いのタネなのか。いやでも現代キッズはホリフィールドのことを知らないだろうし(ホリフィールドがマイク・タイソンと対戦して耳を噛み切られ3ラウンド反則勝ちして時のひととなったのは十八年前のことである)、そもそもこのアニメが大人向けなのか?
なんにせよ、私は日本で実体験にせよ、フィクションのなかにせよ、パンツ吊り上げという技を練習したこともなければ受けたことも、見たことさえない。それをさも「だれでも知っているよね、これ?」と全世界に配信してしまう『フィニアスとファーブ』は、全世界にアメリカ的価値観を普及させようというディズニーの企てなのかも知れないと感じた。実際、これを見た私が小学生だったなら、翌日の学校で、だれかのブリーフを引っぱりあげたくて仕方なくなるだろう。と、書いてみて気付いたが、そういえばこの技、トランクスだと生地が伸びないので面白味に欠ける。やはり、下着まで支給される軍隊文化ありきの広大なるアメリカ寄宿舎学園生活の土壌を必要とするのか。コメディにもほどがあるコメディなのに、観はじめて五分で異文化について深く考えさせられる、なかなかにディズニー、恐るべし。
フィニアスとファーブは、ショッピングモールの駐車場にボクシングリングを設営。なんなんだこのガキたちは、どういう設定だ。
さてここで、カモノハシペリーの再登場。
五歳の時に独りでサプライズパーティーを開催した孤独な悪の科学者が、人々を催眠状態にして操る装置を開発し、自身の誕生日を祝わそうと画策する。
向かったのは偶然にも、フィニアスとガキ大将が決闘するモール駐車場。おお、カモノハシペリーのパートと、フィニアスとファーブのパートが重奏化。無理やりだけれど。毎回これをやるのか。
悪の科学者の野望を阻止しようとするカモノハシペリーの武器は笛。最初は間違えてクジラを呼んでしまうが、笛をしまうポケットを間違えていたことが判明、あらためてコウモリの大軍を召還する。ほかにはコモドオオトカゲやイワシを召還可能なことが画面からは読み取れた。そんなくらいの英語は字幕なしでも読める。
その後、フィニアスとガキ大将は闘いを通じて仲直り。ホリフィールドに礼を述べ、悪の科学者はペリーに倒された。
カモノハシペリーは、フィニアスのもとにペットのカモノハシとして帰還する。なるほど。ペットのカモノハシが実はエージェントで、フィニアスとファーブの毎日を、実は裏から救っているというお話しのモヨウ。しかしガキのくせに巨大格闘場を瞬時に建造したりできる財力があれば、彼らは彼ら自身で己の身くらいは守れそうなものだが。
最後にファーブがちゃんと喋ることができる上に、格闘技の上級者であることも示唆して終了。
ええそうですね。
ハイテンションなアニメでした。
おもしろかった。おもしろかった。おもしろかった。と三度うなずいて、でも、子供向けか大人向けかは、迷う。大人はくっだらない、と言いながらほくそ笑み、ガキは腹抱えて呼吸困難になるようなネタのオンパレード。観ながら、妖怪ウォッチのアニメのおもしろさが大人にはわかりづらいという事実を思い出した。
そしてカモノハシペリー。
無言にして最強。
しっちゃかめっちゃかな世界で、ただひとりの寡黙なカモノハシは、まぎれもなく作品世界での中心軸なのでした。
……こんなものでどうでしょう。
バッグさげて歩くのは遠慮しますが、カモノハシペリーの登場するディズニーのアニメ『フィニアスとファーブ』は、たぶんまた観ます。飛ばし飛ばしにときどき観ても、充分にたのしめるとわかったので。イベンダー・ホリフィールドは出演したのに、マイク・タイソンは出ないのだろうか。近ごろいつもUFCのリングサイドでニヤニヤ試合を観ているが自分は闘うでもなく、実にヒマそうに見えるのですが。

律儀に宣伝してみた。
次の貢ぎ物も待っています。

妻が出産した病院の陣痛室では、
ベッドごとにテニスボールが置かれていた。
陣痛の痛みを逃がすのに押し当てるらしい。
押し当てる場所はひとそれぞれだが、
肛門がよいというようなことも聞く。
よく、産む痛みを経験できない男性に、
「大玉スイカを肛門から出してみて」
と例える経産婦さんがいるが、
実際のところ、それは排泄と似た筋肉を使い、
直に押し当てたテニスボールが、
肛門から直腸に入ってしまった妊婦さんという、
怪談なのか笑うべきなのか微妙な都市伝説も。
ともあれ、そんなネタになるくらい、
近ごろの出産にテニスボールは必需品。
みんなが持ってくるようになったのでしょうね。
テニス部のキャプテンだったエイコさんなどは、
地区大会の決勝でスマッシュを決めた、
想い出のボールを持ってきたり。
……不衛生です。
そこで病院も、ベッドに備え付けることにした。
間違いなく消毒済み。
しかし……けばだっている。
使いこまれている。
入念な洗濯消毒のせいか。
握られ、押しつけられ、ときには入った、
その結果の使用感なのか。
それにしても、どうしてテニスボール?
同じような弾力の生ゴムボールならば、
けばだつ毛もないからいつまでもつるつる。
なのにあえて、黄色いこの球。
私は男なので想像ですが、
大事なのは、この、黄色い毛なのかも。
ヒヨコを連想させる。
ニワトリって白いのに、その子はなぜ黄色?
ううん、あれって保護色。
実際のヒヨコは砂漠の土の色。
くちばしも淡い黄色。
ショッキングイエローにレッドなくちばし。
そのイメージはキャラとしてのヒヨコちゃん。
ヒヨコちゃんが黄土の上に描かれることは少ない。
お風呂の水の青、もしくは牧歌的芝生の緑。
そこをよちよち歩く黄色は、目立つから。
つまり芝コートの音速球技であるテニスの、
公式競技球が黄色である理由と同じ。
病院の白いシーツの上でも、目立ちます。
「目立つ黄色」=ヒヨコちゃんイメージ。
弾力的にはゴムボールでも野球ボールでもいい。
でもヒヨコちゃんが陣痛室では支持される。
白いニワトリから黄色いヒヨコ。
それは作られたイメージなのだとしても。
おまもりには、なる。
そういう心理なんじゃない?
と泣き叫ぶ妻には訊けませんでしたけれども。
それが陣痛室で私の思っていたことでした。
テニスボールはヒヨコちゃんに似ている。
だから彼女たちは、それに助けを求めるのだ。
キャラクターとは神である。
さて、私はここでなにを演じればいい?
仕事が休みで、陣痛室に立ち会えたのは、
たまたまだったのですが。
つくづく男の居場所はない空間。
「この着ぐるみを着て踊っていてください」
なんて先生に頼まれたかった。
ヒヨコちゃんにさえなれない無力を知った。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
陣痛室でとなりのベッドだった女性が、助産師さんと会話しているのがカーテン越しに聞こえてきて、どうやら彼女はひとりらしく、汗をぬぐってもらいながら、いよいよテニスボールが肛門に入りこむいきおいで押しつけているくらいに最終段階。私と妻は入ったばかりだったので、となりから聞こえてくる、おおげさでなく文字通りの絶叫に、こっちまで痛くなるからやめてえ、と彼女の声が怖ろしくて悲鳴をあげたいくらいだったのだが。
「ねえ、だれかこないの?
旦那さんは?」
「来ないっおおおおぉう!」
「産まれたら来るの?」
「こないのおおおっぉお!!」
「入院中、ずっと?」
「ずっと! いやああああ!!」
「遠くにいるのね」
「痛い! 痛いぃいいい!!」
「首にこんな痛そうなの入れてるのに」
「関係ないやんっ、あーーーー!!」
「きれいな花ね」
助産師さんは慣れたもので、わざと会話を噛みあわせずに彼女の気を痛みからそらそうとしているようだった。けれど、彼女の首すじに彫られているらしいタトゥのことに触れたとたん、彼女の泣き声が、痛みだけではないなにかを含んだのが、私にもわかった。
なんらかの、地雷を踏んでしまったのだろう。彼女の絶叫は憂いの色を帯びてしまって、いよいよ聞くに耐えないものになり、となりで夫婦そろっているこちらもいたたまれない。いや私だって、今日はたまたま休日で家にいたからいっしょに来たけれど、仕事中なら立ち会いはしないと事前に決めていた。でも、家にいるのについていかないのはおかしいし、陣痛室にも入れますよと言われて、いいえ廊下の奥の休憩室でドーナツでも食べて待っています、などと言うのもおかしいから、ここにいるだけなのだ。
こんな重たいドラマを聞かされても困る。
助産師さんも困ってしまったのか、それからは、はいはい、とか、うんうん、などと相づちをうつだけになり、そしてついに「超順調」で六時間が経過したとのことで先生が呼ばれ、よし分娩室に行きましょうか、なんて会話がはじまったころ、ようやく彼女の関係者が現れた。
お母さんらしい。
大阪人でもなかなかいないアクの強い大阪弁を使う、なにか店をやっているらしき女性だ。もちろんこちらもカーテンの仕切りのなかにいるので、様子は見えない。ただ、入ってくるなり、よかったやんかよかったやんか、を連呼しまくる母親に、彼女が「黙ってて」と絶叫の合間に言い返した気持ちはよくわかった。
いままさに出てこようとしているけれどまだ姿はない我が子が、健康であるかどうか、無事出てこられるかどうかという瀬戸際で「よかったやんか」というのは、ピンと来ない。どうやら実の親子のようで、だったら彼女の母親も彼女を産んだのだろうに、そういう不安とは無縁の太い根性で彼女は産み出されたのか。私のなかで、陣痛室に駆けこんできたけれど、それと同時に分娩室へ連れて行かれる娘にすべてが済んだかのような言葉をかけている女性は、大阪弁と、その独特のノリのせいで、心身ともに「ごっつ太い」おばちゃんというキャラクターで確定された。
分娩室から、産声が聞こえてきたのは、すぐのこと。
時間的には、すぐだったが、分娩室での彼女の絶叫は、ピークだと思われた陣痛室でのそれを吹っ飛ばしてさらにボルテージを上げ、たぶん本当に喉を痛めたはずだ。それにしても、海外ではそちらのほうがスタンダードになっていると聞く無痛分娩が、日本では「どうしますか?」と聞かれもしないというのは、麻酔医の数が少ないという理由からなのか、痛くてもリスクを少なくしたい病院側の論理があるのか。
ともあれ、彼女は、カーテンの向こうに戻ってきた。
女の子の泣き声と、いっしょに。
しばし、となりのベッドからは幼すぎる泣き声だけが聞こえていたが、やがて妊婦から母になった彼女の、すすり泣きも、まじる。
顔も見たことがない、たまたま出産日が同じになっただけの他人ごとながら、少しもらい泣きしてしまった……
そのとき、強烈な大阪の母から、たったいま強烈な孫娘の祖母になった、ごっつ太いおばちゃんが、孫娘をたっぷり無言で眺めたあとの第一声を、どぎつい大阪弁で放ったのである。
「ずっと見てられるなあ、あんたもうこれテレビいらんな」
おっと。
と、私は思った。
案の定、妊婦から母になった彼女のすすり泣きがやんだ。偶然なのか、産まれたばかりの彼女の泣き声さえ止まった。カーテン越しに、かなりの距離を置いて私が感じられた、凍えるような空気感を、なぜか、おばちゃんだけは感じられずに娘に返事を求める。
「いやテレビいらんやろ。この子だけで飽きんで。なあ」
だから、なあ、とか言うなと。
なぜ娘の同意を求める。彼女が、母親のことを好ましく思っていないことは最初から薄々気づいていたが、彼女が、いま母親に向けた凍気のような嫌悪感は、とびきりなものだった。きっといつもはそこで怒鳴りあいのケンカになるのである。しかし彼女は耐えた。人生の一大事。腕に抱いた愛娘は、元気な声で泣いた。怒鳴りたくない。このひとはこういうひとだ。きっとあたしが産まれたときにも、この子だけでいい、テレビはもういらなくなると思ったのに、いまになってみれば大阪によくいる上沼恵美子中毒者なひとりになって起きると同時にテレビをつけて寝るまで、たぶん死ぬまであははははと笑い続ける病で、いま産まれた孫の可愛らしさを表現する最上級の言葉がそれなんだ。
でも、実家に、この子を連れて行っても、上沼恵美子のトークが聞こえないと、このひとはテレビのボリュームを上げるに違いない。これがあたしの母親だ。いまはもう認められる。あたしも母親になったから。この子の産まれて最初に聞く会話が、この子とテレビを比べるとかなんなん? とか、「黙ってて」なんてイヤや。もっと別の。もっと別の。
「ああもう目え離されへんわあ。ほんまテレビ……」
あ、と彼女が言った。
おばちゃんのテレビ話は途切れた。
私の足もとに、カーテンの向こうから、黄色いものが転がってきた。彼女には、もはや必要のないテニスボール。私は無言だった。これが彼女のベッドから転がってきたのならば、それは彼女にさっきまで押し当てられていたものであり、触れるのは好ましくないことだろう。
なので、蹴った。
反射的な動作だった。
ずっと無言だったので、彼女は、となりのベッドに付き添う私がいることを忘れていて、そこで思い出したのかもしれない。
カーテンの向こうで、自動的に転がり戻ってきたテニスボールについての会話はおこなわれなかった。ごっつ太いおばちゃんの、孫娘と上沼恵美子を比べて孫娘のほうが見ていられる件について娘に同意を強要する行為もそれ以上は続けられることはなかった。その先も、私たち夫婦には長い時間が必要で、となりのベッドの女三代トリオは、すぐに陣痛室から連れ出されていってしまった。
けっきょく、顔は見ていない。
あとで、新生児が並べられた部屋を覗いたとき、ベビーベッドの誕生日時を読めば、どの女の子の母親が彼女だったのかは判明すると退院してから気付いたが、そのときには、私も産まれたばかりの私の息子を眺めるのにいそがしかった。
いろいろあったのだけれど。
このテニスボールの写真を見ると、彼女を想い出す。
いや、正確には、こう想う。
彼女の首すじに彫られていた、きれいな花のタトゥというのは、どんなものだったのだろうかと。



目的地は?
さあね できるだけ遠く
親が心配する
居場所を知らせてない
戻るんだろ?
戻る前にまだ色々と
考えたいことがあるんだ
映画『ブエノスアイレス』
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
男性同士の恋愛をモチーフにした映画について語るとき、それはそれとして私の原点は『ブエノスアイレス』なのかなあとか、そういうことをぶつぶつ話したことは幾度もあるのだけれども。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
『人々は恋に落ちる』の話。・・・・・・・・・・・・・・・・・・
しかし『ブエノスアイレス』の内容について、きちんと話してみたことがあったかといえば、我が聖典であるジョン・ウー監督の『男たちの挽歌』シリーズの主役チョウ・ユンファつながりで、「キッドがトニーを押し倒している映画」といったような視点でしか触れたことがなかった気がする。
ちょうど、私がボーイズラブ小説を書きはじめたころウォン・カーウァイ監督の『ブエノスアイレス』は世界的なヒットを飛ばした。同監督の『恋する惑星』ともあいまって、けっこうマジメに「恋愛を描く」ことについて考えた記憶がある。
しかし、そうしてみると、私がチョウ・ユンファという俳優の大ファンであることが、逆に思考の足枷になってしまった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
『男たちの挽歌 A BETTER TOMORROW』(激しくバレ有り)の話。・・・・・・・・・・・・・・・・・・
シリーズで私イチ推し『男たちの挽歌 II』の哀しすぎる弟キッドを演じるレスリー・チャンが奔放な男を演じ、本当はシリーズの一作ではないのに『挽歌』の名を冠す傑作『ハードボイルド 新・男たちの挽歌』でユンファの相棒を演じるトニー・レオンが振り回される側。
おおげさでなくビデオテープが伸びきるまでくり返し観た映画たちで、ふたりともが主要な役どころ。『ブエノスアイレス』を観ていても、チョウ・ユンファ様の存在が勝手に私の脳内で補完されてしまうのは避けようもなく、くだらないケンカで別れてしまう男カップルを観ていると同時に、ふたりともやめなよユンファ兄貴にどやされるぜ、などと思っている自分がいて。
『ブエノスアイレス』は、しばらく観ることがなかった。
そうしているうちに二十一世紀。
チョウ・ユンファはハリウッド進出して、当初こそガンアクションを演じたが、その後は王様になったり海賊になったりして、ショット・ガンを握ることはなくなった。

現実のレスリー・チャンはリアルにゲイなのかバイなのかという発言をくり返してアジアの腐女子層を刺激しまくったあげくに、ビルから飛び降りて逝った。
トニー・レオンは、いまやアンドリュー・ラウ監督の『インファナル・アフェア』を代表作に、世界に影響を与える大俳優となった。

そうして、2014年。
『ブエノスアイレス』のブルーレイ版が発売された。
(権利が切れる前に出しておけ、といった理由らしく唐突に)
あの赤。
あの青。
あのモノクローム。
ひとめ見てウォン・カーウァイ作品だと判別できる、独特な色彩の画面。特に『ブエノスアイレス』では、意図的に全編を通して色味が操作されている。ああ、あれ、ひさしぶりに観たいな。
観た。
記憶が正しければ、十年以上ぶりに。
私の記憶のなかでは、中盤に位置していた、ふたりの男性のセックスシーン(ローションもコンドームも使わず、自分の唾液で潤滑させる描写が、エイズウイルスに怯える世紀末、なにかと物議をかもした)が、冒頭だった。新編集版? いや違う。私の記憶が間違っているのである。
はっきりとした性描写があるのは、その冒頭のシーンと、行きずりの男に映画館でフェラチオされる場面くらいで、なんだかずっと裸でベッドにいたような気がしていた私は、十年以上も前、本当にこの作品を観たのかと疑念さえわく。
色のない世界に、ぽつりぽつりと赤い色が見えはじめ、やがて色彩を取りもどして抜けるような青空の下でウィンはファイのうなじを濡らしてキスをする。そうしていつかたどりついた、ふたりで見ようと約束したイグアスの滝。けれど滝は青くなく、色のある世界なのに、灰色に見える。
ああこうだった、と思わなかった。
初めて観る映画のようだった。
なにより、二十代の自分自身が「恋愛を描くのにゲイという関係性を利用する」手技手法にばかり頭が行っている状態でこの映画を観て、そうした局地的なテクニックばかりを記憶した独自編集版のどぎつい『ブエノスアイレス』を二次創作していたことに気付かされた。
本来の『ブエノスアイレス』が描いていたのは、違うことだ。知らないあいだに、一本の映画がまるで別ものに感じられてしまうほど「私が」変わっていた。
わかるようになったというべきだろうか。
この映画に出てくる男たちは、だれもが目的を持っていない。本当に香港人たちは、こうなのだろうか。きっとそうなのだろう。
思えば、リアルに我が家の近所にある中華料理屋。
その中華料理屋で働く、日本語を話さない若い彼らは、私の帰宅する深夜に近い時間、いつもファミリーマートの裏の通りに座り込んでいる。駐車場ではなく、店内でもなく、コンビニの敷地に入らないように気をつかいながら、コンビニの無料Wi-Fiにつないだ端末をいじっている。
中華料理屋のホームページは私も見たことがあるので、あの店にネット回線が来ていないわけはない。だがきっと、店主が彼らに使わせないのだろう。彼らは書きためたメールを送るといった用途ではなく、そこでなにかを書いているし、検索している。公衆無線LANの低速さにイラつくこともなく、日常のこととしてそれをしている。チャットの相手は、きっと故郷のだれかだろう。
『ブエノスアイレス』のタイトルにもなっているブエノスアイレスは、アルゼンチンの首都だ。香港からだと、地球の裏側にあたる。それなのに、その土地で、彼らは出逢う。よくある三角関係になってモメる原因となる相手にファイが出逢うのは、中華料理屋だ。
目的もなく地球の裏側にまで行き、旅費が尽きて、現地で仕事をさがす。そこで暮らすためではなく、さらに遠くへ行くため。そして香港に帰るため。彼らは香港で孤独だったわけではなく、なにかを考えたりするために旅に出るのだが、そこでやっぱり香港人とよくある痴話喧嘩をしたり、病気になったりする。
なにがしたいのか。
生まれた土地にいればいいのに。
仕事がない?
地球の裏側で、旅費を稼ぐためのアルバイトを見つけて、また稼いだ全財産を使って地球の裏側に帰るスーツケースひとつの荷物もない旅をするくらいならば、近所のコンビニで働いて、引っ越す予定のない部屋の本棚に趣味のフィギュアでも並べる生活のほうが、ずっと豊かではなかろうか。
アルゼンチンで、ファイの部屋に転がり込んだウィンは、ベッドで独り寝させられる。ファイはソファーで寝る。私の記憶とは違って、彼らはセックスレスだ。しかしまあ、地球の裏側なのだ。自分たちの言葉で話せる(話もろくにしないのだが)、同じ平たい顔族のそばにいたいという気持ちはわからなくはない。
『ブエノスアイレス』は、恋愛映画だ。
私の間違った記憶のなかでも、現実にも。
だが彼らは、キスするよりも罵りあっているほうが多い。
いや言い間違えた。
キスシーンさえも、ほとんどない。
だがしかし、だがしかし。
まあそうかもな、と、ひさしぶりに観た、初めて観たような映画に想う。
それが恋愛だ。
現代の若者が面倒くさがるとうわさの恋愛である。
つきあっているのにアナルにペニスを入れさせてくれと言いよっても邪険にされて、そのくせタバコを近所のコンビニに買いに行っただけなのになぜ出かけるのだとキレられる。しかたがないからハッテンバの映画館でガイジンにしゃぶってもらう。なぜにそんな面倒くさいことを好んでしているかといえば、ひとりだと泣きたくなるからだ。
理由はそれだけ。
ふたりでいたいわけではない。
ひとりでいたくない。
地球の裏側で。
男同士で。
そういった手法を使って強調してはあるけれど、香港でも日本でも、世界中の至るところで数億年くり返されている、恋愛というものの、それがすべてなのかもしれないと考える。
寂しくないならば、しなくていい。
寂しいならば、じゃあいまなにがしたいのかと問われれば、だれかに邪険にされたりしてもいいから、絡みたい。肉体的に? ううん、むしろ心を絡ませて、つまるところ、面倒くさいことがしたい。
痴漢って、そう。
アナルにペニスを入れるわけでもなく、しゃぶってもらえるわけでもなく、ぺろんと尻を触ったくらいで、なにが気持ちいいわけもない。しかし電車内の痴漢は絶えない。職場でのセクハラは絶えない。彼らが社会的地位を捨て去ることになりかねないリスクを抱えながらも我慢できずにやってしまうのは、面倒くさいところに我が身を置きたいという欲求にほかならない。
旅をしないでも生きられるのに旅をする。
そのことと、
恋をしなくても生きられるのに恋をする。
ことは、同じ。
私は旅が好きではない。
恋愛も面倒くさい。
けれど、ひとりはいやだ。
だから欲する。
目的地だったはずの荘厳な滝の飛沫を浴びて、男は泣きも笑いもしない。それはただの水だ。いくら大きな滝でも、地球が宇宙に浮かんで回っているのだということを知識として知っている現代人にとって、あらためて自然の偉大さに感動する感性はない。
彼と見に来ることに意味があった。
意味を持たせた、それが恋であり、愛だ。
たどりつかなくてもよかった。
どうせ帰ると知っていた。
レスリー・チャンは、リアルに自分を殺した。
アジアでいちばん美しい俳優だと言われ、望むなら男も女も、手を出す必要さえもなく手に入れられる男が、最終的に選んだのは窓が開かないので階段を登り、屋上から飛び降りることだった。
どうやっても、ひとりだったのだろう。
面倒くさくならなかったのだろう。
どこまで行っても単純なままでは、生きる意味はない。
恋や愛以外のものにそれを求める者もいる。
上手くいくかどうかは、運もある。
ただ、面倒くさくなることが目的地であるのならば、みずから動くことで、それを得られる確率は、五分五分以上に上がる。目的地の滝がなければ、恋が成就しても、それに破れても、なにも得られない。目指す風景があれば、成否の確率とは別問題として、人生に面倒くささが生まれ、生きる意味が生まれる可能性はぐんと高くなる。
毎日、忙しい。
生きるのは面倒くさい。
けれど、そうでないとしたら、虫と同じ。
夏虫に鬱陶しいと殺虫剤をかけるだれかは、自分自身を虫以上の何者かだと認められなければ、自分自身にだって致死毒を盛れる。
ケツを撫でたいんじゃない。
オレの生きる意味を生む秘術。
だから触れずにいられない。
職場で尊敬される上司になるのは面倒くさいし、自転車で山道を登れるようになるのは面倒くさいし、テレビゲームをクリアするのは面倒くさいし、痩せるのは面倒くさいし、売れない作品に心血注ぐのは心底面倒くさいし、夏が終わったら冬が来てオートバイ乗りは年中面倒くさいし、今夜の晩ごはんをちょっと凝った手作り料理にするのはすごく面倒くさいし、ハードディスクに溜まっていくどう計算してもすべてを観ることは不可能なアニメ番組をそれでも観るのは面倒くさいし、ただでさえ人間関係に辟易しているのに自分の家に他人や赤ん坊がいたりするのは面倒くさいにもほどがある。
だから、そういうものを欲する。
地球の裏側まで行って、恋愛してケンカするのは超絶に面倒くさいことである。もしかしたら、想像しうるなかでもトップクラスの面倒くささだ。
それに比べれば、近所のコンビニでバイトして棚に並べたフィギュアのミニスカートのなかを覗いて痴漢した気になってするオナニーの、なんとお手軽なことか。退屈といってもいい。変態行為とはそういうもので、知らなければ満足できるものが、上のランクを知れば物足りなくなるのである。
と、いうことを思うと。
恋愛や結婚や出産は面倒くさいと考える若者が増えているというアンケート結果が、という今朝の新聞記事の見出しは間違っている。現代日本の夫婦において半数はセックスレスでありパートナーとの性行為を面倒くさがっている、という週刊誌の記事の見出しも訂正すべきだ。
そういうものは、もうあまり面倒くさくもなくなってしまったのである。人間関係を面倒くさがって、引きこもってオンラインゲームに没頭する彼、という描写はありがちだが、現実世界と距離を置いて、部屋に閉じこもってオンラインゲームをすることの面倒くささたるや、私もゲーマーだからわかる。そっちのほうがずっと面倒くさい。だから魅力的なのだ。
たとえば開きなおった日本が、列島の半分を原子力発電所にして外国に電気を売りさばいた結果、あらゆる国民が働く必要がなくなり、生まれてから死ぬまで潤沢な年金で生活できるようになったとする。そうするとおそらく、わざわざその日本を出て、ブエノスアイレス辺りでゲイになって不幸な恋愛をする若者が急増するはずだ。その図式は、ひとむかしまえの、夜汽車で上京するフォークシンガーに近い。死ぬまで平和に食っていける農村から、泥水すする都会へ、好んで向かう。
現代の医学をもってすれば、太ももに人工の膣を作るのは簡単だ。しかし、その施術はなぜ流行しないのか。トランスジェンダーたちは、性の壁を越えるのに、どうしてヒトにとどまって、逆の性のさらにその先で十六本のペニスを生やしたりはしないのか。
いま、『ブエノスアイレス』を観て。
レスリー・チャンが四十六歳で、飛び降りて人生を終わらせるというごく簡単な道を選んだのは、どうやっても面倒くさくならなかったからだろうと予感するとき、彼が、どうやら男性も女性も愛せたらしいということを意識せずにいられない。美しき映画スターで、中年と呼ばれる年齢に差しかかっても萌えるカリスマだったことがそういう結果を呼んだのだとしか連想できない。
ものすごく不謹慎な感想だけれど、その地位と、財力と、カリスマ性を使って、彼はどうして死なずに済むような面倒くさいことを自ら創造する道を選ばなかったのかと、残念に思ってしまう。彼なら女にもなれるし、マッチョにも、禅僧にも、この地上で初めての性のない人類などというような天使めいた存在にだってなれたのに。きっと冷静な判断力をなくしていたのだろう。耽溺してしまった変態は、先へ進むことを忘れてしまう。死ぬまで単純な自慰行為にふける猿と変わらなくなってしまっては、道はさがせない。
私は旅が嫌いだ。
それはたぶん、ふだんから考えていることと、旅先で考えることが、そう違わないという自覚があるからだ。だから、バックパックひとつで、片道切符の代金しか持たずにブエノスアイレスへ向かう香港人の気持ちはまるでわからない。そんなのは、退屈なだけだろう。旅先で出逢った男三人でさえごちゃごちゃやるほどに恋愛の面倒くささにハマっているのなら、故郷の夜の街で風を切って歩いたほうが、相手はよりどりみどりだ。
けっきょく、この映画を観て残るのは、世界は広くていろんな景色があるものの、セックスは内蔵をいじくりあって面倒くさくなるだけの行為だということである。途中で、登場人物たちもそれに飽きてしまう。前世紀のゲイたちがエイズウィルスに怯えながらも退屈してしまう程度のものでは、新世紀のエデンに生きる我々が退屈しても当然なのかもしれない。
リアルに人生に退屈してダイブしてしまった男が画面にいるので、映画の意味そのものが変容してしまった部分は避けられない。まぎれもない名作で、一級品の恋愛映画で、二十世紀と二十一世紀をまたいでなお色褪せない独自のカラーを持った作品だけれど、そこに映されているレスリー・チャンが、脚本的にも現実とリンクしてしまい、プロレスの試合で重傷者が出てしまったときのような雰囲気である。
だからこそ、稀有な映画だ。
すべてが虚構ではない。
それゆえに、恋愛しない国になりつつあるいまのこの国で観ると、恋愛の面倒くささが極まっていて、こんな恋愛映画を観たらいよいよだれもだれかと乳繰りあいたい願望なんてなくしてしまうのではないかと危惧するが、そう考えて、逆説的な希望に気付くのだった。
知ることで変態は深化する。恋愛も結婚も出産もゲイもバイもあんまり面倒くさくないから、仕事や趣味にどっぷり浸かって老いて逝きたいの、なんていうある種の変態が増えているというこの国だから、いまこそ、こういう不毛極まりない……けれどあこがれるに足る美しさを有する……世紀末ゲイの恋愛映画が、ピンとくる変態たちも多いはず。
奇跡のようにブルーレイ化された本作。テーマのせいもあってか、テレビ放映なども、私はほとんど見た記憶がない。十数年前には世界中で大ヒットしたが、観たことのないひとも多いのでは? 観てください、ぜひ。あきらかにこの作品で人生を変えたあげくに天使になりそこねた男が映っている。
彼を観るだけでも、旅に出ず自宅で考え込むことはいくらでもある。