前回の話の続きのようになるのだけれども。
現在公開中の、ももいろクローバーZ主演映画『幕が上がる』の原作者である、平田オリザ。

そのひとを撮ったドキュメンタリー映画『演劇』1、2を立て続けに観た。

そのなかで平田オリザ(って本名なんですって。父自身は漢字名なのに子にはカタカナでオリザとつけたという。思いきった父だ)が、演劇や映画も健康保険のようにしろと吠えている。
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いま休職するかたの最大の要因はメンタルな面です。いまどき、肺炎で、結核で半年休みますなんてひとは、ほとんどいないわけです。でも、医療制度や保険制度は、従来の疾病疾患を中心に想定されて、すべてできていますよね。健康診断でもそうですよね。予防なんていうのもまさにそうです。
映画『演劇2』
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聞きながら、平田オリザともあろうものが菅直人元首相と同じく「疾病」を「しつびょう」と発音していたのもおもしろかったのだけれど(正しい読みは「しっぺい」)、まあつまり、どういう話かといえば、いまこの国で、カラダよりもココロを病んでままならなくなってしまうひとの多さを認識しているのかと。国民皆保険でカラダの病気を三割負担で治すことの有意性を理解しているのならば、数百円で映画や演劇が見られるようにすれば、国民のココロも潤ってみなが哲学をもち、自殺者も減って健全な毎日が送れるようになり、結果的に国力は上向くことも理解できるはずだと。
それが現代の予防医学ではないのか。
芸術保険制度を定めるべし。
そういうようなことを言っていて、ああなるほどなあと感心したりもする一方で、彼の劇団は劇団員に給料未払いである。詰め寄られ、平田オリザは言う。
「助成金を削られたのが大きかった」
で、土地を売ろうかと思っているのだとか、そういうことを劇団員に語り出す。つまりそれは今月も給料は出ないということである。
その同じ口でさらに、平田オリザは練習に穴を開けた劇団員を叱責する。役者として今後もやっていくのならば、それはまずいよキミ、考えなくちゃいかんよ、だいたい、休みだと勘違いしたとかいうそれもさあ。
「舞台が決まったら練習は休めないものなんだよ」
練習は休めないが給料は出ず、あまつさえ平田オリザが借金のために売ろうとしている土地は稽古場なのだった。冷静に考えて、劇団員たちに明日はない。未来が想像できない、そういうひとたちがヒトの心に訴えかけるなにかを演じたりできるのか。だれかの心を潤したりできるのか。まずは自分たちが潤わなくては……せめてつつましくも明日は明日の風が吹くさとささやかで幸せな夢のようなものくらいは見られるようでなければ、ささくれた心の演者が心を病もうとする者を救ったりできるのか。
一周まわって、つまり彼らは税金がないと演劇ができないのであり、その劇団の長が心の病がどうとか三割負担だとか言っていても、つまりもっと税金がうちに流れる方法を考えろと吠えているようにしか聞こえない。
非常に生々しいドキュメンタリーで、五時間ほどをまったく退屈することなく、いったいなにがおもしろいのかといえば、「演劇はたのしくなくちゃ演劇じゃないんだよ!!」とワークショップで生徒たちに語るそのひとが、映画の全編通して金の問題で頭を抱えている姿。
土地を売る話までしているのだから、小説『幕が上がる』のヒットも、ももクロでの映画化でCS放送では特集が組まれたりといったようなことも、収益はすべてまた自転車操業の狭間に消えていくのであろう。そういう図式は、つい先日、別の業界で見た。
ここが前回の話にかぶってしまうのだが、プロレス。
あれも一種の演劇だ。観客の心を潤すことが役割なエンターテインメント。豊かな人生や多様な価値観を人々に持ってもらうことが現代の予防医学であるのならば、プロレスだって一翼をになえる。けれどプロレスに税金での補助なんてありえないので、スポンサーになってくれる個人や企業が不可欠。そのあたりがうまく回らないと、いくらカラダが資本のエンタメだとはいえ、会場が借りられないのでは客を呼びようがない。
そうして、プロレスを休んで、トークショーをおこない、ファンとの交流会をおこない、他団体に参戦し、女子レスラーは着用済み衣装を売る。
演劇が記事になることが減っている。その理由を平田オリザは「映画に食われている」のではないかと分析している。ところで昨日の夕刊では一般紙のスポーツ面でスポーツと見なされず記事にされることのないプロレスが、社会面でプ女子現象を巻き起こしているとまた記事にされていた。でも、きっと平田オリザはプロレスをライバル視することはないのだ。一方、プロレスの側は、演劇を意識している。大日本プロレスが数年にわたりシェイクスピア劇を演じて成功を収めたのは象徴的な出来事であった。
よくよく考えてみると、ドキュメンタリー映画『演劇』1、2を観て、なにがいちばん私の心に引っかかり、記憶として残ったかといえば、それ。平田オリザが「芸術保険」という表現を使っていることでもわかる通り「芸術」なるものを特別視している、その感覚。
どこの国でも、心のケアは教育ではなく芸術と宗教がになってきた。しかしこの国では政教分離がはっきりしているから、宗教に直接支出するわけにはいかない。だったら必然的に芸術、文化に教育なみの高水準な支援があってしかるべきなのに、そうなってはいない。
そういう話の先で、税金ばかりでなく企業も金を出す保険制度が理想だと思うのです、という論法なのだけれども。
平田オリザの口から出るのは「芸術保険制度」。
あれ、さっきは芸術、文化に金を使えという話だったよね。文化どこいった。
観客の心を潤す。それが現代の予防医学である、という主張には全面的に共感するのだけれど、しかし私は金銭的な補助をもって国民の心に潤いを与えるその保険の名に「芸術」などと狭いくくりを冠したくはない。むしろ「文化」=「カルチャー」をサブカルチャー含めて支援するのが予防するにはもう遅い、すでに毎年三万人が自殺してまだ増える勢いのこの国への即効性のある処方ではなかろうかと強く、強く、思う。
プロレス劇なるものに男性のみならず女性が癒される近ごろ。
もしかして最近のこの国が病んできたのは、地上波テレビ放送のゴールデンタイムでプロレスが放送されなくなったからではないのか。助成すべきだ。
ギャルゲーとボーイズラブがどれだけの男女の心のささくれを治療しているか、その効能をきちんとクールジャパン大臣閣下が無視せず直視しているならば、弱小ゲームメーカーと出版社に助成すべきだし、いっそ公共図書館での一括買い上げを検討してもいい。
さらにはサブカルの定義を大胆に広くとるべきだ。
各地の地下アイドル、メイドカフェにも助成金を与えるべき。三割負担でオムライスにケチャップのハートを描いてご主人様が幸せになる魔法をかけてもらえたら幸せなご主人様も増えるし、アイドルやメイドという雇用も創出する。
そこをカルチャーだと認めれば、自然と古来から人民を癒してきた風俗だって文化だろう。
お気に入りのホステスやホストがひとりいれば、それだけで人生バラ色。ホストに貢ぐためにバリバリ働くのだって人生だ。橋下さんがアメリカ軍に風俗を活用してくれと進言したのは叩かれたけれど、三割負担で毎週ソープで抜いてもらえたら、自殺者は確実に減る。確実に減るということがあきらかなのに、なぜ国の施策として国営ソープランドを運営しない?
思えば、助成金もなしに人々の心を癒して一世紀以上続いているプロレスという劇のなんと偉大なことよ。自然発生的に人々を癒すために生まれ滅びぬアイドルやホストクラブや風俗嬢たちの、なんと神々しいことよ。
平田オリザ先生の熱弁を聞いて、失礼ながら、感じたのはそういうこと。
助成金を得るために芸術だ文化だと認めさせる実績を作らなくちゃならない。そのために奔走している、それが「芸術家」だという。芸術保険制度で自殺者も休職者も減る? それはそうかもしれない。でも、私の実感としては。
両親や祖父の世代が年間に三万人も自分で死ぬ国で、生活水準が低く、狭い世界に生きざるをえない児童たちが真に出逢えないのは、高尚な芸術なるものなどではなく、私が子供だったころにはテレビでだれもが観ていたプロレスや、川原で拾ったのをクラスみんなで回し読みしていたエロ本のような、そういう文化。
次世代に、もっと即効性のある萌えを投与すべきだと考えます。
シェイクスピア劇を大ホールで観て人生救われる子だっているだろうけれど、プロレスマニアになったり、アニオタになったり、腐女子になったり、アイドルに恋したり、それだけで、生きていけるようになるはずの子のほうが、たぶんずっと多い。
なのに、そういう機会にさえ恵まれなくて、人生ってなんて無意味なんだと絶望させてしまうのは、国の怠慢だ。日本が誇るべきクールジャパンでしょう。芸術なんかに負けないよ。クールさの定義がぬるいんだよ。萌えを知らないがゆえに癒されない者へと、押しつけるくらいの政策が必要だ。
自殺の名所にクーポン冊子を置いてみる。死ぬ前に、公営ホストクラブ無料会員登録、公営ソープランド無料会員登録、BL本とギャルゲーのオススメはネット図書館で、プロレス格闘技専門チャンネルをすべての家庭へ。
真剣に、この施策で自殺者は半減すると私は確信している。
ごめんなさい平田オリザ先生。
芸術保険制度のお話をうかがって、それじゃ自殺者減るの数十年かかるだろうと思ってしまった。舞台や映画が三割負担で摂取できたら、私はすごくうれしいが。自殺者への予防医学という観点で語るならば、ニュースを見て、中学生が自殺したときに、私は嘆く。なんで引きこもってネトゲーやらなかったんだよと。私は毎晩プレイしているのに、きみともヤりたかったよと。きっと、そういう世界があることも、そこに充分生きるに足るだけの悦びがあることも、知らないで逝かせたんだと思ったら、どうにかしてサブな「文化」にでも、触れさせてあげられる国ではなかったのだろうかと、悔しくなる。
カラダ以上にココロは大事。
潤すために、限られた金をどこに使うべきか。
私は、その子に数千万かけた壮大な劇を観せる前に、ベリーキューティーなお人形のひとつも買ってあげたほうが「効く」と信じている。
とあるドキュメンタリー映画を観ての、感想。

まわりを海に囲まれた名もない島。
そこでの鬼とは、異形のものたち。
山奥で、鉄を打つ片目の鍛冶職人。
漂着した、コーカサス系の人々。
単純なる遺伝的奇形。
だとすると、鬼とは呼ぶものの、
だれもが、わかっていたのだ。
あれ……おれらに似ているよね。
まったく理解不能な異形ではない。
なにか足りない、なにかちがう。
けれど、たぶん、ヒト。
わかりながら、季節のまつり。
薄々気づきながら、けれど。
深く考えたくはないから。
鬼はそとっ!!
こっちくんなっ!!
……なんて。
豆も投げつける。
ひどい。
豆か銃か火あぶりかの違いはあれど、
おれたちの国を取りもどせ、とか。
やつらがルールを変えちまった、とか。
そう言っては、
だれかを吊し上げる思想と変わらない。
文明国家ですよ。
二十一世紀ですよ。
鬼に豆投げるのなんてやめません?
鬼がヒトであるのなら、
鬼といっしょに来る、
しあわせだってあるだろうに。
そんな節分。
近所の食堂の煮物。
ニンジンが鬼だった。
まあ愛らしい。
と感じるのは、
私だけではないということだ。
節分だからニンジンが鬼。
怒る客はいないからこそのサービス。
食べながら思う。
ニンジンが、特定の人種だったら。
ニンジンが、特定の職種だったら。
ニンジンが、特定の趣味だったら。
キレるひとは、たぶんいる。
食えるかこんなもん!!
たとえばユルキャラだって、
敵対する陣営はあるわけで。
そういうことを考えると……
節分の鬼は、いまやだれにも憎まれない。
ニンジンが鬼でも、だれも傷つかない。
傷つく鬼本人が、どこにもいない。
町の食堂を訪れる、すべからく全員が、
自分自身のことを。
「鬼と呼ばれるべき異端ではない」
そう、確信している。
豆まきは効果があったのだ。
異形の鬼は、どこかへ去ったのだ。
ここにはもうニンジンの鬼しかいない。
だれも吊し上げられないのは、善きこと。
なのですけれども。
鬼のカケラをを舌の上で転がしつつ、
物足りなさを感じもする。
あの窓の外に、鬼、現れないものか。
そうしたら私はきっと、怯えず、笑う。
まだこの星に鬼はいた!!
そうわめいて、新しいまつりをはじめる。
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そうして時は流れ。
大戦後のこの国ではアメリカ相撲と呼ばれるプロレスが「力道山がアメリカ人をカラテチョップでやっつける」一大ムーブメントを作りあげることにより、映像の世紀へと突入。異端を鬼として無害化した祭りの世紀を忘れ去り、ふたたびみずからで妖怪鬼を異端なる隣人の姿へと戻すことになった。
戦争が終わり、映像の世紀がやってきたというのに、目に見えぬ鬼に向かって豆を投げたりしてもイマイチ盛りあがりに欠ける。やっぱり敵は憎いあいつらがいいし、目に見える技でやっつけてもらいたい。
そうして和の国のエンタメはプロレス劇化の手法を体得して花盛りになっていくわけだが、調子のよいことに、二十一世紀のいまでも二月になればニンジンの飾り切りで鬼を彫り、総菜売場では一本千円の太巻きが売れる。だれも鬼なんて信じていないのに。豆をまいてなにがどうなるなんて思ってもいないのに。
太巻きに至っては、もとはこういう遊びだったという説が有力である。
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・恵方巻きが色街で遊女にフェラ顔させたセクハラが起源だというウンチクを毎年見かけるが、現代でも自分の恋人がチョコバナナ咥えていても欲情することなんてないわけで。セクハラというより遊女が本番なしでCD売るために考案した、カメラ目線でのアイドル罰ゲーム的な遊戯だったのではと推察する。

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そうだとするとスーパーで買ってきた太巻きを、
「こんな太いのそのままなんてムリーっ」
「なに言ってるの幸せになるのよ、ほら咥えなさい。喉の奥まで入れるのしゃべっちゃダメよ」
なんてやっている母×娘はまだしも母×息子や父×息子のカップリングは、まだ見ぬ未来の旦那さまの下半身のためのサービス特訓だとしか思えず、一本千円の練習用黒くて太いのを幸せになるために買う人々の仲間入りをするのはどうも気が引けて、毎年、私は自分で巻く。

短めである。
具も、煮たかんぴょうとしいたけに卵焼きくらい。プロレス観ながら食べるので、恵方とか気にしない。テレビのほうを向いてビール飲みながら食べる。そんなくらいだから、それを食べて幸せになるとか健康になるとか、そんなことは微塵も信じていない。信じていないけれど、いちおう毎年、巻き寿司は作ってしまうのが呪いの怖さ。
食べて幸せになるとは信じていないが、別に食べて困ることもないし、寿司は好きだし、節分に恵方巻きというのは関西の文化でもあるし。
食べておけばいいじゃない。
食べておけばいいのである。
もとが、お気に入りのあのコにフェラチオ顔させてうぇへへへへ、という男たちのためのセクハラエンターテインメントだったとしても、わざわざそれを思い出す必要はない。巻き寿司にかぶりつくというイベントが、エンタメ的にアリだったから、いまも生き残っているのである。どうして水をさすようなことを言うのか。言わずにいられないのか。そのウンチクおもしろいと思ってんの。事実だとしてもさあ、みんないまではむかしからの古き良き風習だと思ってやってるわけじゃない。恵方を向くんだよ、丸かぶりするんだよ、しゃべっちゃダメだよ、それで幸せになるんだよ。その雰囲気を、なんであなたは台無しにしようとするわけ、だったらあなただけ食べなければいいじゃない。なによフェラとか。あなたがセクハラよ。ヒトとしてクズなのよ。あなたに豆ぶつけてやりたいわ。
そういうことを思いながら、とあるプロレス団体の興行を見た。
近年、感銘を受けることの多い団体である。
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『ラリアートとキス』の話。・・・・・・・・・・・・・・・・・・
そのDDTプロレスリングの、男性しか入場できない、女性しか入場できない、そういう二興行の映像。どっちもおもしろかった。男性向けは、まさしくセクハラエンターテインメントで、女性向けは、裸エプロンからはじまってイケメン主軸にいつもと違うカップリングで意外な友情を演出してみたり。そのどっちもがふつうにたのしいのは私の嗜好がどっちつかずなせいなのかと最初は疑ったものの、よく考えてみれば、それはおかしいのだと気付く。
最近、「プ女子」という言葉がニュースでも使われる。

神戸育ちの私は、ドラゴンゲートというビジュアル系プロレス団体がすぐ身近にあったし、もともと全日本プロレスのファンなので、地方の全日興行というものは家族連れで賑わうものだったから、おばあちゃんもいれば性別もまだわからないような赤ん坊が泣いていたりするのがふつうという感覚。
けれど、東京育ちのアナウンサーたちの会話は、むかしはプロレス好きなんて言ったらヒかれたものなのにいまではプ女子な彼女と同じ趣味なんていうカップルもいるわけですよね良い時代になった……というような。
そういえば、人気アイドルの、ももいろクローバーZも、男祭り女祭りというイベントをやっていた。

思い出せば、私の妻が初めて彼女たちを観たのは、全日本プロレスのリング上。このブログをさかのぼっていただければわかるが、私自身はアイドル好きなので彼女たちのこともメジャーデビュー前から触れているけれど、さすがにインディーアイドルを妻に勧めたりすることはなく、あの年、プロレス好きな夫を持つひとりの女がグレート・ムタの弟子であるグレートクローバーZを目撃しメジャーデビューアルバムを聴いてみなとわたされて、いまではすっかりどちらがモノノフかといえば妻のほう。余談だが同じく私立恵比寿中学を妻が初めて観たのは翌年の『第一回ゆび祭り』の映像を私が観ていたからで、さすがにホウキでエアギターしながら『放課後ゲタ箱ロッケンロールMX』を激唱する彼女たちのことはドン引きしていたのだが、エビ中もいまとなっては私よりも妻のお気に入りである。

男性向け少女アイドルが男性に向けて男性ウケする衣装と仕草で路上パフォーマンスからのし上がっていくうち、知らず女性のファンもついてきて、ついには武道館が女子だけで埋まる祭りを開催するに至る。きっと、ももクロからグレート・ムタや男祭りにも出演していた新日本プロレスの選手たちの知識を得て、いまはプ女子ですという方々もいるはずだ。
プ女子。
プロレスが好きな女子、という意味だが、でもこれって、そこに女子とつける時点で、プロレスというものが男性性をもっているという前提。
ももクロ好きな女性ファンに「あなたはモノノフ女子ですね」などと言ったら張っ倒される。女性官僚、とか、女性社長という表現が問題視されることも最近多い。ヒラリーさんが自分で「女性大統領を見たくない?」と発言しても叩かれないのは、実際にアメリカ大統領になった女性がいないからであって、もしもひとりでもいたら、その時点で「女性大統領」などという表現が大失点となり大統領選に出馬もできなくなる。
いや、なにが言いたいのかといえば。
DDTプロレスリングという団体は、ももクロ同様、通常興行で男女の客比率がさほど差がないのである。なのにあえて、男子禁制、女子禁制の興行をやる。でも、もともとどっちにもウケていたのだから、それは男性向けバージョンを女性ファンが観ても、その逆でも、ヒくはずがないのだった。
つまり私は、どちらもたのしんだ私のどっちつかずさに、悩む必要はない。
ももクロの場合、男祭り女祭りは興行こそ別だがディスクは抱き合わせで売られるようになり、ついには興行そのものがなくなっていまに至る。
考えてみれば当たり前のことで、元来が男性向けの少女アイドルグループだったのに女性ファンが増えまくった、そこに縛りを加えるなんて愚行だ。もしも、女性ファンは増えたが男性ファンが増えないなどというのならば試行錯誤の必要もあるのかもしれないが、男性にもウケているのだから言うことなし。王道をゆけ。ということを、男女別小屋の大きなライブを二年やってみて、再確認したのではなかろうか。
転じて、DDTの男子禁制女子向け興行の映像を観ながら、考えた。いま、その会場にいて、女性のためだけに作られたプロレスを観ている彼女たちは、プ女子なのか。アナウンサーはそう言ったが、いやだって、そこで演じられているプロレスは完全に男性性を排除されている。ニュースで話題になるプ女子は新日本プロレスの東京ドーム大会でアイドルファンのようにきらびやかなウチワをハチマキ締めてぶんぶん振っているような女性たちのことだが、現実の彼女たちの大半は、礼儀正しく椅子に座って観戦している、ただのプロレス好きである。
プ女子、と呼ばれた彼女たちは、アナウンサーを張っ倒すべきだ。
……つまり、なんの話か。
毎年、節分になると、あれはフェラ顔をさせるためのセクハラゲームが起源だとか、もう黙っておけと。カッコイイ男性プロレスラーの裸エプロンは、私にもツボだし、男性向けに演出された下着姿のセクシー美女たちに若手レスラーくんたちが翻弄されるさまも、ケラケラ笑いたかった女性だっているはずだと。
週刊少年ジャンプが、増えた女性読者のための週刊少女ジャンプを発刊しないのは偉大なおこないであり、それこそが結果的によろこばすべきひとたちを適度によろこばす道なのだと、みなが知るべきだと。
タイ、バンコクのカンパング高校には、男子トイレと女子トイレと、ユニセックス用トイレがあるそうだ。さすがニューハーフ大国。作った理由も、そういうどっちでもない子たちを周囲の男子や女子が嫌がったからではなく、どっちつかずな彼らにそのままでいいんだよと自己肯定させるためだという。エエ話やと。
反省した。
鬼が異形の隣人だとか、それがこんなふうにニンジンで彫られてとか。プ女子と本人たちが名乗っているのにそれがどうしたとか。ぶつくさ言いながら食事している自分自身を。うるさいよおまえは。深く考えるんじゃないよ。節分だからシェフが可愛く鬼、彫ってくれたんでしょ。だれに向けてなんのつもりでとか、忘れて。わーそっかもうすぐ節分かー冬も終わるね春だねっ。そう言って窓の外を見て、ウグイスの声を聴いて、えへらと笑って上手いメシをがっつけばよいものを。
今日はあたたかい。
春が来たのだ。
私はここにいて、あいかわらず私だ。
それだけだ。
いますぐ眉間のシワの理由を忘れ去って、ただの私として笑えれば、それこそが偉大なおこないなのに、当たり前に今年も来た春を、ただくり返す毎日を慈しむ視線だけでなぜ愛でられぬのか、と。春だ。春なのに。春だから。猥雑なこの頭へ、なにか突き刺したい。尖ったものを。鬼のツノのような、牙のような。
春になるとおかしくなるという気持ちが、ときどきわかる。
読んでいたのは
『ナーディス・パメラニヤン詩集/卵割り』
まさに、そのタイトルに冠されている一編を、ぼくは読んでいた。
ベーコン・チーズ・エッグ・バーガー(ピクルス抜きタバスコ入り)を食べつつ。
卵割りがやってくる
俺様の想いを遠慮なく
ぐしゃり
と握りつぶす
卵割りがやってくる
大抵は明けがた近くに
卵割りがやってくる
にやりにやりと笑いながら
やってくる
ここにある
ひとつの恋を
終わらせるため
たぶん、けっ、とかなんとか。
それとも舌打ちとか。
ぼくはしていたのだろう。
「なにが気に入らない」
背後から、男は話しかけてきた。
――ちょっと考えてみてほしい。
下校途中の高校生が大半を占める駅前のファースト・フード店で、おやつ代りにベーコン・チーズ・エッグ・バーガー(ピクルス抜きタバスコ入り)を食べながら、わけがわからない内容とはいえ恋を語る詩集を独り読みふける善良な男子高校生に、見ず知らずの男が背後から突然、声をかけたんだ。
ぼくが、囓っていたベーコン・チーズ・エッグ・バーガー(ピクルス抜きタバスコ入り)を吹き出してしまったとしても仕方のないことだと思わないか? そして、抜いてもらったはずなのになぜかぼくの口のなかにもぐり込んでいた一枚のスライス・ピクルスが、ひゅん、と飛んで二つ向こうのテーブルで手帳をあいだに挟んでおしゃべりに夢中になっていた双子のようなおさげ髪の女の子の片割れの右のほっぺたに、ぺたり、と貼りついたからといって。
ぼくの責任かっ!?
悪いのはちゃんと頼んだのにピクルスを抜き忘れた店員だし(そういえばその店員もおさげ髪だった。人に不幸を運ぶ悪魔のしるしなのかもしれない)、なにより口いっぱいにベーコン・チーズ・エッグ・バーガー(ピクルス抜き忘れタバスコ入り)を頬ばっている赤の他人に背後から声をかけたこいつがっ!
――って振り返って睨みつけようと思ったら、
世界は漆黒の“闇”だった。
「なっ……」
なんだと叫びかけたコンマ二秒後に、それが闇ではなくて、そこに立つ男の肉体を包み込んだ衣服なのだと気づいて黙る。
仕方がないので頭のなかで叫んだ。
――なんだ、こいつはっっ!!
おまえはイギリス紳士か007かっ? いやそれより香港映画に出てくる殺し屋に似ている。夏だ。いまは真夏なのだ。しかも昼間の学生でいっぱいのハンバーガー屋だ。なのにあなたはなぜに黒一色のベストまで着けた三つ揃いのスーツ姿で下に着ているスタンドカラーのシャツまで“黒”って。
上を向く──とても向く。
まだ向いて、ようやく顔が見えた。
眼鏡が光ってよくわからない。でも想像していたオールバックではなく、さらさらの、でも想像通りの黒髪なんだってことはわかった。すべてが黒いのに、黒いがゆえ、その肌のあまりの白さが怖いほどに――
きれい。
げ。
なに考えてんだ。
そうだっ!!
大事なことを思い出し、あわててまた前を向く。でもそれは、人生最大の失敗だった。なにごとが起こったのか理解できずにキョロキョロしていたおさげの女の子が、顔を向けてしまったぼくのことに気づいたんだ。
その指先には、ピクルス。
軽くぼくの歯形がついていたりして。
ほっぺたにはタバスコ入りのケチャップ・ソースの跡――
肌、荒れないといいね、彼女。
とどめに、彼女の向かいに座っていたおさげの双子が振り返って、ぼくを指さす。
振り返ったら全然ふたりは似ていなくて、でもどっちもそこそこ可愛くて、ぼくは手前のいま振り返ったコのほうが唇の端を吊り上げた感じがちょっと小生意気そうでタイプだった。が。彼女が唇の端を吊り上げているのは、ぼくが証拠のベーコン・チーズ・エッグ・バーガー(ピクルス抜き忘れタバスコ入り)を齧りかけの姿で、いまだ片手に持ったままだったからなのだった。
「なるほど」
はっ、と見上げた。
忘れようがないはずなのに存在を忘れかけていた漆黒紳士が、彼女たちを見ている。彼女たちの視線も上を向いた──とすると、彼はぼくだけに見えている死の国へのお迎えとか、そういうたぐいのものではないのか──それとも、死神は幽霊とはちがって、当事者以外の人間にも目撃されてしまう存在だったろうか。
実体を持っているようだが足音は立てない黒ずくめの男が、怯える少女たちに歩みより、なにごとかを告げた。こくこくとアスファルトの上の米粒をついばむ小スズメのように彼女たちはうなずき、四本のおさげが揺れるのをぼくは目撃する──彼がもどってきて、ふたたびぼくの前に立ち止まるまで、編集なしのワンカットで見つめていたから、彼がどこからそれを取り出したのか見ていないわけはなかったが、ぼくにはそれは、差し出された大きくて白い手のひらに忽然と現れたように思えた。
「これ、は?」
「パンだ」
パンダ?
いや違う……
パンだ。確かに。
「はい」
答えて、そうしなければならない気がして、ベーコン・チーズ・エッグ・バーガー(ピクルス抜き忘れタバスコ入り囓りかけ)をテーブルのトレイに置き両手を自由にし、いまいちど、白い大きな手のひらに鎮座まします白くて丸い物体を見つめる。
パンだ。
「きみのために焼いた。食べて欲しい」
頭上から降る、声。
よく通る声だった。
遠くで、少女たちが歓声をあげる。
手をのばす。
パンに。
ぼくのために、焼かれた。

Yoshinogi Takumi
Shonen-ai Cooking Elegy
Song 19
『Dark he baked Bright bread for me.』
(吉秒匠
BL料理哀歌
19曲目
『黒い彼が焼いたぼくのための白いパン』)
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○材料
ぬるま湯 200CC
強力粉 280グラム
薄力粉 20グラム
ドライイースト 小さじ1
砂糖 小さじ1
塩 ひとつまみ
○作り方
強力粉と薄力粉をまぜ、大きめのボールに入れます(ふるわなくてよし)。
ぬるま湯(指入れてぬるめのお風呂くらい。30度ちょっと越えるくらい)に、あわせた粉の半量とドライイースト、砂糖を入れ、手でまぜます。
残りの粉と、塩を加え、まとまるまでこねます。前にもピザ生地の回で書きましたが、あなたが100キロ程度のバーベルを上げられるなら1分もこねれば充分。そうでなくても3分もこねれば万全。
濡れ布巾をかぶせて、春の気温で二時間くらい。二倍の大きさになるまで待つ。これを一次発酵と呼びます。時間ではなく、必ず膨らみ具合で判断すること。そうです、コツは、休みの日にのんびり焼いて、決して焼きたてを晩ご飯の時間に、などと考えず、余裕を持って生地の様子を眺めてつきあうこと。焼きあがる時刻は、こっちの都合ではなく、生地の都合で決まるのだと心得ること。
膨らんだら、十等分して、まるめて、オーブンシートを敷いた天板に並べ、もういちど濡れ布巾をかぶせて、一時間休憩。ここはもう膨らみ具合でなく、一時間固定でよし。これを二次発酵と呼ぶのですが、実のところ、発酵して膨らませるタイムというよりは、丸められた生地が、丸められたことに納得するのを待つ時間。ちゃんと丸めることには苦心しましょう。きちんと閉じられていなくて、裂け目が残っていたりすると、焼いて膨らんだときに変形して、せっかく覚悟を決めて焼かれてくれたパンがひん曲がってしまいます。
まんまるいのがお好きなら、そのままで。今回はアクセントをつけるのに、てっぺんをナイフでちょっと切って、分量外の強力粉を茶こしでふるって、霧吹きの水を噴いて接着させてから焼きました。チーズとか、チョコレートとか突き刺してみるのもたのしい。本日の気温ですと220度で20分。焼き加減は目で見て調節しましょう。色白でも、こんがりでも、それはそれで味わい深いものです。それこそ家焼きパンの醍醐味。
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パンよりもピザを焼くことが多い。
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『ピザ生地とソースのレシピ』のこと。・・・・・・・・・・・・・・・・・・
だってピザは具をのせていっしょに焼けば、それだけで豪勢な晩ご飯。自分で焼くと原価数百円もかからないものが、この国では数千円で宅配されていたりするから、だれかのために焼くと、必要以上に感激してくれたりする。一方、パンも作る手間は変わらないけれど、そんなふうに「きみのために焼いたから」なんて言われても、パンそれだけを差し出されたら、ちょっと不気味。コッペパンはピザと違ってこの国でも一個数十円ですし。ハンバーグとチーズとベーコンと目玉焼きを挟んでも高級メニューの風格はない。自分自身のために焼いても、やっぱりせめてサラダくらいはないと困る。特に私は、ジャムとかバターとか摂取しませんし(そのため、生地にもバターは使っていません)。
しかし、パンにもいいところはある。
保存性。
たっぷり焼いて冷凍しておけば、いつでもオーブントースターですぐに焼きたて。漆黒のスーツの内ポケットにだって収納可能(そのさいは、飾りつけの強力粉は省いたほうが無難です)。どんなに器用なひとでも、ピザをさっと取り出して「きみのために焼いた」なんて芸当はできませんが、パンなら可能。サンドイッチ伯爵は寝不足のゲーマーだったからゲームしながら食べられる食事を開発したのだけれど、手が汚れないということはカバンも汚れないということであり。
「あなたのためにサンドイッチ作ってきたの。パンも焼いたんだよ」
なんてお弁当は、白ごはんに卵焼きのそれよりも、戦略的に破壊力を発揮する場面も多いはず。えてしてそういう場合、私のレシピのような、イースト少なめ、甘さ控えめ、油分なしという悪く言えば「もそもそする」仕上がりが、賢者の選択だったりするのです。
おぼえておいて損はありません、と天使のような私が言う。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
Yoshinogi Takumi
Shonen-ai Cooking Elegy
18曲目『となりの部屋』17曲目『ヴィアール遭遇』16曲目『アネ化けロースカツ』15曲目『逆想アドミタンス』14曲目『恋なすび寿司』13曲目『バーベキュー厳峻鋼』12曲目『茄子はダシの夢をみるか?』11曲目『すっぱくても、平気。』10曲目『踏み絵ムルギティッカ』9曲目『ひとくちだけカトルカール』8曲目『春節の静かな賞品』7曲目『ナンを焼くと両手がつかえない。』6曲目『タマレってなに?』5曲目『あらいぐまのすきなもの。』4曲目『ピッツァみたいにぼくを食べてよ!!』3曲目『クリスピー・プロ・フライドチキン』2曲目『青くてカタいアボカドのパスタ』1曲目『春餅/チュンピン』