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 ナラティブ、という概念についての論争が盛んだ。
 そこで私もあちこち覗いてみた。

 うん、これ……

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『プロレス劇』のこと。

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 私の語る「プロレス劇化」と同義。
 
 うーわー、ずーるー。
 なるほどね、ナラティブ。意味はよくわからないけれど、そのよくわからないところがいいんだろうな。Narrativeを直訳すれば、物語、という意味。でも近ごろ流行っているのは「物語る行為」によって新しい価値を提供しようという視点。

 だからそれ「プロレス劇化」なんだけどな。
 やっぱりあれか、合コンで、

「行き詰まった業界の奥の手としてプロレス劇化という手法がうんたらかんたら」

 よりも

「ナラティブを使いこなすことで閉塞的な状況を打破できるとぼくは思っているんだよねうんたらかんたら」

 のほうが、モテるのか。
 ならば使いこなすしかあるまい。
 使えるようになるまで連発するナラティブ。

 まずは語れる小説界隈のことから。

 小説というジャンルに、実際的にカットアップ技法と呼ばれるオートマティック・ナラティブの手法を取り入れた作家としては、ウィリアム・バロウズが有名。

burroughs

 私も、むちゃくちゃ影響は受けた。
 しかし、妻を殺し、男にフられて自傷するバロウズは、その存在そのものがエンターテインメントであるために「あのバロウズがおこなった実験」の結果として、こちらも彼の作品を読んでいる。バロウズのカットアップ哲学によって、偉大な詩や、映画、他人の小説や広告の類からも言ってしまえばパクリまくった断片的文章をつなぎあわせたそこに神々しいなにかを読みとってしまうことは簡単にできるのだけれど、ということは彼を知らないだれかが、彼の小説を読んでも、もちろん没頭などできないということである(散文、もしくはリアルなジャンキーの思考としてたのしむことは可能かもしれないが)。

 そういう意味では、機械的な切って貼っての行程で、万人受けするナラティブな小説を生成する実験に、バロウズは成功していない。むしろ、たびたび指摘されることだが、小説というジャンルが成熟した二十世紀の終わり、ハーレクインやボーイズラブが到達したそれのほうが、オートマティック・ナラティブと表現するに値するものだという見方ができそうである。

 出逢いがあり、誤解があり、和解があって、エロがある。

 いつどこでだれがなにを……という小さなボックスに、切り取った文章のパーツを組み込んだバロウズのカットアップが読むことはできるが没頭はできない散文にしかならなかったのに対し、中編、もしくは長編の全体の構成において「お約束」というかたちで大きなボックスを用意し、そこに多種多様な人物像とシチュエーションを放り入れることで万人受け……というには語弊があるが、少なくともある種コアな客層によろこばれるナラティブが無限に生み出され、経済活動として機能するまでの高みに到達したというのは、人類史上、初めてのことである。

 余談ではあるが、私の書くボーイズラブ小説は、たびたび編集者から「プレイが特異すぎる」との評を添えられて叩き捨てられている。圧倒的な女性社会である業界で、私は私の感性が育まれた男性向けエロビデオもしくはエロマンガの手法によって男という種である私だけが提供できる変則的ボーイズラブ・ナラティブを売り込もうとしているつもりなのだが、純ナラティブな観点で見れば、なるほど私の行為はボックスの無視であり、やればやるほどオートマティック・ナラティブとは呼べないものになっていくということである。このことから、派生的に読みとれるのは、男性向けのエロティック・ナラティブなコンテンツにおいては、女性向けのそれとは違って、ナラティブのカタルシスな部分であるエロの要素にバリエーションを許容する……むしろ「非お約束化」された特異なプレイの描写こそでユーザーはアヘるという側面だ。浮き彫りになったその派生的考察から、アンフィクションである現実の男女の性の営みにおいても、女性は行為の安定化を求めるが男性は深化をこそ本質だと捉えているために「変態っ」と頬をぶたれて恋が終わるというような哀しいすれちがいのエピソードをあまた生んでいるのではないかという推察もまたできるのだが、考察の方向性が今回の主題からはずれるので深く語るのはまたの機会にしたい。あくまで目的はナラティブである。ナラティブれば、ナラティブるとき。ナラティブリューション。

 議論の発生する方面を見やるに、ナラティブという概念の解説を切実に求めているのは、どうやらゲーム業界であるらしい。 

 たとえば『テトリス』と『テトリスモンスター』。





 我が家にもある名作『TETRIS with カードキャプターさくらエターナルハート』も同じ発想で作られているので、そちらを紹介したいところだが、いまやプレミア価格で取引されているため、お勧めするのも気が引ける。

 要は、淡々とプレイするゲームのはずのテトリスに、モンスターやさくらちゃんを登場させれば、そこに生まれるナラティブによって本来のテトリス信者とは別の層にもアピールできるのではないかという試みである。

 思えば、8ビット時代のゲームの大半には、ナラティブと呼べるような要素は存在しなかった。スペースインベーダーは脈絡なく整列行進してくるインベーダーを砲台で迎え撃つが、プレイヤーはいったいなにを守って戦っているのか知らされず、ロードランナーは意味もなく追われていてブロックを掘っては敵を埋め、パックマンは迷路でエサを食いながら走りまわっていた。感情移入などできるわけがない。意図的なナラティブの提供は、為されていなかった。



(ファミコンのちゃんとしたヒトに見えるロードランナーを最初にプレイしたひとも多いだろうが、初代AppleII版ロードランナーの主人公は、目鼻のない白いワラ人形もどきである)

 その後、スーパーマリオは救っても救ってもさらわれるので助けがいはないにしても、敵を討って姫を救うという確固たるナラティブを獲得する(この、救っても救ってもまたさらわれて同じナラティブが使い回されているのに観客は熱狂する、という図式は、やっぱりナラティブよりもプロレス劇化のほうが的確に言い表しているのではなかろうかと未練たらしくつぶやきそうになってしまうが……いやいかん。ナラティブナラティブナラティブナラティブ。身に染みるまでナラティブ)。

 さらに時代を追うと、ついに二十一世紀、多くのクリエイターが口を揃えて近い将来「映画とゲームは融合する」と言い切るようになる。
 GTA5をプレイして、私は書いた。

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『グランド・セフト・オート5のプレイ初日』のこと。

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「このゲームの進化の仕方は、物語るジャンルとして、おもしろいことになってきたと感じている。映画や、舞台がそうであるように、ある種の物語は、客を逃げられない椅子に縛りつけて、顔をそむけられない状態で語るのが効果的だったりする。『Grand Theft Auto 5』は、まったくもって憂鬱なストーリーを、序盤から手練れのアクションゲーム要素で、観ずにはいられないようにして語る」

 オンデマンドの普及で、映画の公開日に自宅のリビングで観る、ということがふつうにおこなわれるようになった。映画館の収益の問題としてはまた別の要素があるが、大金かけて作った映画の制作費を回収するという点では、これは映画館オンリーでの集客よりも、ずっと手っとり早い。

 ただ、そのことで、映画とゲームの融合は加速した。

Halo

 日本で、リドリー・スコット製作総指揮ゲーム『Halo』の実写版『Halo: Nightfall』のディスク発売が決まったが、この二時間ほどの映画。私はゲーム『Halo: The Master Chief Collection』をプレイするなかで、観た。

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『Halo: The Master Chief Collection』のこと。

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 それどころか、『Halo: Nightfall』はゲーム機でプレイ(という表現しか思いつかないのでそう書くが)すると、視聴中に選択肢が表示され、アナザーナラティブへと誘導される。もちろんそれらの派生的物語は観てもいいし観なくてもいい、それでも、映画の最中に「そのころ別の視点では」などというナラティブ・チョイスが出現するのだからコントローラーは手放せない。

 縛りつけられている。
 この感覚は、ディスク版では味わえないだろう。それ以前のこととして、そもそもゲーム機XboxOneを所有している前提で見れば、『Halo: Nightfall』と『Halo: The Master Chief Collection』は、ほぼ同額の実勢価格であり、そうでありながら『Halo: The Master Chief Collection』に『Halo: Nightfall』は含まれている。そして『Halo: The Master Chief Collection』は、映画以外のゲーム部分をプレイし尽くそうと思ったら、数百時間はかかるという超大作である。

 どちらがナラティブ・コストパフォーマンスに優れているかは検証するまでもない。

 そして、こういうゲームの作り方が、昨今の「だれかナラティブ論をちゃんと語ってくれ」という悲鳴を生んでいるのもあきらかだ。大作ゲームの複数作パッケージに、リドリー・スコットの映画新作が含まれている。そんなものが売られる同じ市場で、インディと大作の狭間に落ちこんだ多くのゲーム制作者たちがぜえぜえ言いながら、魔法を求めている。

「ナラティブの量だけがナラティブなのか」

 助けても助けてもさらわれる姫を救うナラティブでみんな熱狂していたのに、いつのまにか、その技法は通じなくなっている。もっと主人公に過酷な状況を与え、強大な敵を与え、愛する者との別れを与え、ナラティブにナラティブを重ねて、力尽くのナラティブ過剰摂取で観客を酔わす。まだ足りないのかと、十億円かけて作った実写ムービーまでつける。

 それはそれで素晴らしい。

 ただ、だったら、あの、ロードランナーに没頭していたのは、なんだったのだろうか。無数の敵が追ってくる。こっちは穴を掘るドリルだけを持っていて、その世界のブロックは、なぜだか穴を掘っても自然と埋まる。意味不明なうえに支離滅裂で、アンナラティブなように思えるが、多くのひとがいまでもロードランナーをプレイすれば没頭するし、脱出階段を登ったときの絶頂感は、パズルが解けたというだけのものではないはずだ。ナラティブ・オーガズムなのである

 テトリスモンスターは、テトリスほど売れていない。その時点で、ナラティブは蛇足になる場合もあるのだと証明できている。

 さあ、結論が見えなくなってきた(笑)。
 いや、ここで私がずばんと「ナラティブとは!!」と論破できるようなものであれば、巷で熱く論じられたりもしないはずだ。いまだ、どこの論戦を覗いても、こうした「ナラティブの実例」を並べたてて検証する段階である。

 ナラティブ。
 つまりナラティブ。
 そう、ナラティブれば。
 ところでこのあときみとぼくのナラティブを……

 だいぶ使いこなせるようになってきたので、このあたりで大切なことを思い出さなくてはならない。私は合コンになど行かない。なのでかっこよく、ナラティブなる言葉を使いこなす必要性はなかったのである。うかつであった。

 かっこよくない言葉に戻そう。
 きみが失笑しても、私にとっては、しっくりくるほうに。

 「プロレス劇化」という視点で見れば、ガチの勝負=格闘技も、いまでは試合前に「煽りVTR」と呼ばれる、苦労話や対戦相手との対立の図式を煽る演出を入れるのが当たり前になっている。どちらが勝つのかはわからない。ドローかもしれない。だが、多くの観客は格闘技のそういった「プロレス劇化」が、昔よりも会場の温度を熱くしていると感じている。これも言わば、映画と別の娯楽との融合だろう。

 ガチの勝負=テトリスを「プロレス劇化」するさい、大事なのは、テトリスを触らないことだ。RPGが好きなひとにモンスターを、さくらちゃんが好きなひとにさくらちゃんを、そうやってプロレス興行を細分化していくのはけっこうだが、意外にそういったユニット興行を訪れる客は、テトリスがちゃんとプレイできないと怒って帰る。
 
 結局のところ、安定した集客が見込めるのは「プロレス劇」を昔ながらに実直に演じる団体である。常に新しい観客を呼び込むためのギミックは必要なのだが、それ以上に、ついているファンを離さないということが、なによりも重要なのは昔もいまも未来も変わらない。持続可能な「プロレス劇」とは、芯となる部分は未来永劫変えないまま、昨日と同じ観客に、昨日と今日の違いを提供できる構造でなくてはならない。

 「当てたように見せかけるキック」
 「絞めたように見える関節技」
 「言葉の暴力」
 「お色気」

 などは、選手が故障しないで「プロレス劇」を演じ続けるための工夫だ。そこを変えると、さまざまな要素が破綻するとわかっているのに、触ってしまうものがあとをたたない。

 テトリスが落ちものパズルを極めてしまったから、だからナラティブ? 違う。「プロレス劇化」とは、物語を演出することによって、芯の部分への興味、集中を増す技法である。しょっぱい格闘技団体のよくできた「煽りVTR」ほどクソなものはない。萌えにのっかるだけで、激しさも唸らせる技もなく、あげく故障者が出るようなプロレス団体の興行にはタダでも行きたくない。時間の無駄だ。

 テトリスを越えるものが芯としてどうしたって必要。それが悩んでも生み出せないからといって物語で煽っても、観客は醒めるばかりどころか芯信者がツイッターでクソクソ連発するネガティブキャンペーンを開始する。

 魔法なんてない。
 プロレスラーは鍛えあげた肉体が資本。
 これ以上に明確な真実はない。
 自動生成できるハーレクインもボーイズラブもない。
 お約束ボックスの持続可能なプロレス劇化は、基礎鍛錬あってこその職人芸、血反吐吐いて出ないものを出すんだ行くしかないさ行けばわかるさバカヤロー。
 そこが道になる。
 道は創れ。
 ナラティブ(笑)。
 はっはっは。ナラティブって。
 ほかに論じるべきことねえの。
 合コンでモテたいの?









 Snowman.jpg

年月の流れと空の模様は無関係なはずだけれど、
暦のうえでの新しい一年がはじまったとたんに、
雪が降りつもる。
都会で生まれたおさな児は、
生まれて初めての雪だるまを作った。
自分がなにをしているのか、
させられているのかもわからず、
白くて冷たいのを集めて固めて。
なにをしているのかわからないのだから、
本人にはできない最後の仕上げ。
両腕と顔をつくってあげる。

「あー」

おさな児は、まだ言語をあやつれない。
けれどその刹那、知ったのだ。
想いを、喉からふりしぼっていた。
生んだ。
その歓喜を。
じっと見る。
手をのばすが、ふれることをためらう。
生んでしまったなにかをさぐる。
いきもののように見える。
ひとのようなたたずまいだ。
けれど小さくて、白く。
おまけに、それは自分で生んだのである。
まだ手袋に雪は残っている。
見つめるそれは雪でできたはずなのに、
なぜだかいきものめいている。
おさな児は、自分のクレヨンを持っている。
スケッチブックも。
いまだ、ぐるぐるとした線ばかりだけれど。
今夜、その手で雪だるまを生んだ。
いまだ納得はないだろう。
混乱と、純粋な不思議。
なにがどうなってそうなったのかは謎。
けれど、自分で自分に歓喜の声をあげさせる、
なにかを自分で生み出せると知った。
まわりのみんなも笑顔だ。
……私も。
魔法のつかいかたについて、考えてしまう。
これ以上、なにがいるのかと。
端正な出来とはいえない雪だるまに、
その場のだれもが笑顔の魔法にかかる。
つくった本人は世界の謎に出遭っている。
おさな児がもう少し大きくなり、
つくるということの意味を具体的に知り、
精巧に可愛らしい雪だるまが生めたとして。
今夜よりも笑顔の魔法は強く発動するだろうか。
それは、まったくの別問題なのかもしれない。
技術のなさ、つたなさ、幼さを、
この雪だるまに見てのことなのかもしれない。
それでも。
これが結晶。
あらゆる、つくる、という魔法に必要なそれ。
きれいだ。
でも、見ているうちに、この雪だるま。
踏みつけて壊したくなった。
あの衝動はなんだったのだろうかと、
気の滅入るようなことを考える新年である。

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 年が明けてから、毎週のように出張だ会議だ研修だと日帰りの遠出をすることが多く、まだ真っ暗な早朝、家を出ることがたびたびあった。

 それでつくづく実感する地球の温暖化。

 いや、寒いのですよ。もう出かけたくないくらいに寒いから、冷凍しておいた鍋の残り汁で、朝からひとり土鍋雑炊など食しているのですが(水分が摂れるので、前日の酒を抜くのにも効果があります)。耐えがたいその寒さを感じつつも、出かけて、真冬の早朝。なにか、物足りない。

 氷が張っていない。
 土の上を歩いてもシャクシャクいう、霜柱ができていない。

 私が小学生だったころ、もう陽がのぼって道路に車も走っているくらいの時間でも、決まって世界のあらゆる水は凍っていたし、もれなく土を踏めばシャクシャクと鳴った。日陰には一週間前の雪が残っていたり、ときにはツララも見た。

 そのころ、私は阪神タイガースで有名な甲子園球場のそばに住んでいたから、かの有名な六甲降ろしなる六甲山から吹き下ろす、冷たい風のせいだったのかもしれない。そう思いつつも、いややっぱり、と天を見る。

 大阪に移り住んだ高校時代には、くるぶしまで埋まるような積もった雪のなか登校して、靴がびちゃびちゃになったことがある。真冬ともなれば一度や二度は、降る雪が肩に積もるというような日もあったものだ。

 そんな雪は、この冬、降らなかった。

「吹雪だねえ、これは今日お客さん来ないねえ」

 そうみんなで言いながら窓の外を見る日はいくどかあっても、その吹雪とかいうものは長続きせず、雪合戦できるほどに積もることはなく、現実に来店客がまったくいない日など、ない。

 想い出した。

 小学生のとき、武庫川の河川敷でかまくらを作っている年長さんたちがいた。それも六甲降ろしと、川のほとりという立地が影響しているのかもしれないが、それはまあ見事にテレビのなかでしか見たことがないような、ちゃんとしたかまくらだった。なかに入って、七輪で餅を焼いて食べられるようなやつだ。『うる星やつら』のエピソードで、かまくらに閉じ込められたひとの話があった。そのかまくらは内部が異次元化していて、時が流れていない。いちど入ると絡めとられて出られなくなり、永遠の時間を生きることになる。そのかまくらを出るには、だれかを招き入れて、自分のかわりにするしかない。だから、かまくらに囚われたそのひとは、かまくらの外を通りがかっただれかに声をかけるのである。

「なかはあたたかいよ。おはいりよ」

 餅やミカンを差し出して。

 武庫川の河川敷で、たぶん小学校の上級生くらいのお兄さんたちが作っていたのは、そういう本物のかまくらだった。私がその光景に遭遇し、わあ、と顔を輝かせて見ていたときにはすでに、彼らは作りあげたそれに満足し、外から眺めているところだった。おそらく、ひととおり、全員がなかに入っては出てをやり、餅もミカンも七輪もないかまくらは、作りあげる行程こそたのしいが、できてしまえばどうやって遊べばいいのかわからないしろものだと気付いたあとだったのか。

 私は、入ってみたかった。

 もちろん、言い出せなかった。
 遠くから眺める私に、彼らは気づいてもいなかった。

 彼らが顔を見合わせた。
 私は期待した。
 飽きた彼らが、そこを去るのではないかと。

 でも、彼らは。
 次の刹那、歓声をあげて、ダイブし、蹴飛ばし、転げ回り、雪を投げあって、ものの数分で、かまくらを粉々にした。

 そうして彼らは、テンション高く白い息を吐きながら、去っていった。

 はっきりおぼえている。
 私は、泣いた。
 壊れたかまくらには、近づけなかった。
 『うる星やつら』のせいも、たぶん、ある。
 なかに入ればどうにかなるかもしれない、雪というもので出来た不思議な建造物。それは壊され、崩れた雪の山になっても、特別ななにかをまだ持っている気がして。

 泣きながら帰った。

 私には、自分で、かまくらを作った想い出がない。霜柱はシャクシャクいっていたし、大雪が降って、校庭で押して転がせるくらいの雪球を作ったおぼえはあるけれど、かまくらというのは、相当に密度の高い雪が大量になければ無理だから。私の幼少期にも、その先にも、兵庫大阪の南部あたりでは、それほどの雪は降らなかったのだろう。

 私は、かまくらに入ったことがない。
 いまだに。
 寒いのは好きではないので、そういう経験ができそうな、さっぽろ雪祭りとか、その手のイベントに旅行に行くこともないだろう。義理の妹が北海道育ちで、いつかみんなで行きたいねえと親族が集まると話題にすることがあるが、そのたびに彼女の両親のことも話にのぼる。結婚式のために大阪に来て、彼女の父と母は、本当に道頓堀で食い倒れた。式の当日にも、まだ腹がもたれていると笑っていたのが印象的だった。北海道といえば、ももいろクローバーZの黄色い子が「ここは天国?」と歌うくらいに美食の土地なのに、と訊いてみれば、義妹の父と母は、ぶんぶんと首を振って言ったのだった。

「それは観光客の感想。二泊三日で海鮮丼とトウモロコシ食べて、カニ食べて、その旅行は天国かもしれないけど、生まれたときから住んでいたら、ぜんぜん違う」

 ラードたっぷりにバターのっけたラーメンより、昨日食べたすりおろしニンニクたっぷりの醤油ラーメンは段違いのごちそうだった、と真顔で言い、ああもう一泊できたら、有名な立ち食いフレンチの店にも行きたかったのに、とか。言われてみれば、大阪でカニや海鮮丼が食べられないわけでもないしなあ……食べものに対する過剰な期待を原住民に否定されてしまうと、観光名所だって、冬ありきですよね、寒いですよね、大雪なんですよね。それにしても愛娘の結婚式の前日に生ニンニクのトッピングでラーメン食べますかね、と笑って。

 私は、かまくらに死ぬまで入らない可能性が高い。
 とすれば、幼い日の、あの武庫川で見たあれは、私にとって、人生で唯一無二のチャンスだったのだ。声を出せていれば。それができなくても、もう少し近づくことができていたならば。お兄さんたちのだれかが気づいてくれて、

「おうチビ、おまえもなか入ってみるか?」

 なんて、言われたかもしれない。

 映画『かいじゅうたちのいるところ』で、幼い主人公が、まさにそういうシチュエーションでかまくらに入ったら、姉のボーイフレンドにかまくらを潰されて、雪に埋もれてしまうシーンがある。置いてけぼりにされた彼は、家に帰って姉の部屋をむちゃくちゃにして、家出して、怪獣の国の王様になる。

Wo die wilden Kerle wohnen

 その映画で、ほかに泣くべきシーンはいくらでもあるのだけれど、私は観るたび、冒頭のそれにやられる。姉にかまってほしくて、ボーイフレンドに雪玉を投げる。追いかけられて、最初はうれしい。男の子は、かまくらに逃げ込む。ほかのひとはだれも入ってこられないように思える空間。男の子は、そこへ逃げ込んだ瞬間は笑顔だ。だが、かまくらは、殴られて簡単に穴が開く。男の子ではなく男になりかけている年長者に、ダイブされて、埋まる。

 涙目で立ちつくす。

 姉への怒りは、理不尽なものだ。
 姉弟の居る家だから、そこにはぼくの居場所もあったのに、姉は大人になりかけていて、ボーイフレンドと遊びに行ってしまう。ぼくは雪合戦の相手もいない。ぼくは、じゃれあいたかったのに、姉のボーイフレンドはかまくらを潰してたのしそうだった。意味がわからない。泣くしかない。

 雪が降らなくなった国で。
 ガレージの日陰に残っていたそれを、かき集めて、小さな雪だるまを作った。おさな児は、作らされた不細工な雪のかたまりに、顔を描いて小さなモンスターを創造してみせた、大人を魔法使いのように思っている。どうやったの?

 私が、その雪だるまを踏み潰したくなったのは、それだ。
 
 問いへの答えを持たないから。
 こんなの魔法でもなんでもない。潰してみせようか? そうしてみれば、こんなのただのかき集めたちょっとの雪だ。

 実際にやってみせれば、おさな児は、まず間違いなく泣いた。わけがわからなくて。私がなぜそうしたいのか、それがたのしいことだと思うのか、理解できなくて。

 もしくは、想像もできない、大人の世界が怖くて。自分の幼さがたまらなくて。孤独で。雪だるまは可愛いのに、そんなものを可愛がってるんじゃないよ、もっと本当に手に入れるべきものは他にあるんだよ。泣いてる場合じゃないよ。魔法じゃない。とっとと成長すればわかるさ。おまえの目に見えている、ほんわかした世界は、世界の片鱗でさえない。まだ皮の剥けていない、世界の外側の無味無臭の部分だ。本当の世界っていうのは、ヒトっていうのは、もっと熟々としていて……

 孤独っていうのは。

 かまくらを潰されたときに、感じたあれだ。
 こんなチンケな雪だるまモドキに、顔を輝かせているおまえに私が苛立つ、それだ。

 ああ、病んでいる。

 雪だるまに顔を輝かせたおさな児に私は魅入った。
 きれいだと思った。
 けれども無視できないくらいに。
 壊したかった。
 泣かせたかった。
 知れ、と。




 yellowleaves.jpg

とびきりの暖冬だという。
エルニーニョらしい。
それがなんだかはともかく、
エルなんとかが発生すると、
おかしなことになるのは知っている。
つまり、この冬は、
おかしなくらいの暖冬になる長期予報。
事実、紅葉の季節も終わろうというのに、
私はいま、エアコンもつけず、
半袖のTシャツ姿である。
ちなみに、この写真を撮ったのは、
前日バイクで出かけたら雨に降られ、
翌日、放置したバイクを迎えにいく途中。
ジャケットを羽織っていたのだが、
あまりの陽気に汗だくになり脱いだ。
赤や黄色の葉々を見て、
秋だねえとシャッターを押し、
秋も終わるねえとこの文を書いている、
どちらのシーンでも半袖だったわけだ。
近年の暖冬はバイカーにとってはうれしい。
住んでいるのも本州の真ん中あたりなので、
ホワイトクリスマスなんて子供の頃にあったきり。
年々、革ジャンやコートを着る期間が短縮。
今年はまだ、衣替えをしていない。
石油ファンヒーターもクローゼットのなか。
NHKの大河ドラマが終わる時期。
時代劇を観ると、思う。
雪降っているのに、縁側で酒を酌み交わす。
板の間に、障子、暖房器具は火鉢。
いまほどではないにせよ、
日本の冬は、むかしから、その程度。
だからなんだろうな。
紅葉は、葉が落ちる樹があればどこでも見られる。
世界で見れば、山岳地帯のカナダの紅葉は、
荘厳なものとしてツアーが組まれたりもしている。
でもカナダの冬って、マイナス数十度。
縁側で酒飲みながら雪月見? 酒が瞬時に凍るよ。
地元のひとにとって紅葉は、せつないを越えて、
冬が怖くて嫌すぎて泣きたくなる光景に違いない。
考えてみれば、
わざわざ庭に葉が落ちる樹を植えるなんて、
相当に酔狂な国である。
道路脇にも、匂う実を落とすイチョウが並ぶ。
……バイク乗りとしては、雨のあと、
湿った枯葉が道路に積み重なっていたりするの、
すごく怖いんですけれど。
スリップ事故の原因になるんですよ、あれ。
そこで役所は税金を使って落ち葉の掃除をする。
ときまさに総選挙。だけれども。
落葉樹を植えるのは税金の無駄!!
と怒っているひとを、見たことがない。
このおおらかさが、日本の秋の景観を、
世界でも稀有なものにしているのだ。

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 と、書いてみてから調べてみたのですが。
 これが意外と、昨今は、おおらかでもないようで。
 近しいところでニュースになったのは、奈良。

 ムクドリが大繁殖して、街路樹にとまり鳴き声とフン害がひどいので、街路樹をばっさり伐った。すると、見た目がひどくなったとクレームがつき、地上から数メートルのところでばっさり伐られた街路樹の写真が全国紙で取り上げられ、奈良市困惑。とか。

 ムクドリは、うちの二階の雨戸の収納スペースに巣を作ったことがある。だから知っている。一匹でも、まあうるさい。引っ越したばかりで、ムクドリの害があるなんて知らないものだから、なにも対策を取らなかったら、毎年、巣を作られてしまうところだった。いまでは、そのスペースにムクドリが入り込まないようにフタをしてある。でも、春先になれば電信柱にムクドリがとまって鳴いているので、うちから離れただけであって、町中の隙間という隙間にムクドリの巣はあるのだろう。

 という実地の例を出すまでもなく、いまでも奈良にムクドリは繁殖している。だって街路樹は伐れても、電信柱は伐り倒せないし。というか、奈良公園でも有名なことに、奈良の町から樹木がなくなるなんてことはありえないわけだから。

 お役所的には、道路脇の住人からクレームが来た。だから街路樹を伐った、という単純な流れであって、ムクドリ全滅作戦ではなかった。しかしそれを端から見ていると、当然の疑問が湧く。

「そもそも街路樹、いらんことない?」

 同じ奈良では、駅前の街路樹が、葉が色づく前に枝を落とされる。濡れた落ち葉で滑ってひとりブレンバスターを極めて後頭部陥没で外国人観光客がお亡くなりになったとしたら、外交問題に発展する可能性だって大きいのだから、当然の処置だといえばそうかもしれないけれど。冷静に考えてみれば、やはり同じ疑問が湧いてくる。

「だから、そもそもそこにも街路樹、いらんのとちゃうんけ?」

 いやだって奈良だし、駅前から、町並みから、秋になれば色づいてこそ観光客も……という思惑で植えたのだとしたら、色づく前に枝を切り、鳥が鳴くから幹を伐り、などとしていては本末転倒もはなはだしい。はなはだしいが、しているのは、そういうことに見える。

 だいたい、「いやだって奈良だし」論で言えば、あの土地はどこの駅で降りたところで、見わたすかぎり、まわりは山。でっかい公園もそこらじゅうにある。紅葉など飽きるほどあるのだ。それなのに、アスファルトの脇に、わざわざ土を置いて、樹を植える。

 古都奈良でさえ、釈然としない。

 これが、もっと近代的な都市であればどうか。私は大阪在住だ。大阪といえば梅田地下街。私立恵比寿中学の楽曲『あたしきっと無限ルーパー』でも歌われているように、電車を降りたら慣れている者でもGPSなしで迷わずに目的地に着くのは困難な巨大地下迷宮が広がり、迷ったから地上に上がってみれば、世界的にも有名な東京新宿高層ビル群に数でまさる高層ビルの群れ。太古の自然からかけはなれた町そのものが天地を貫く建造物のような都市なのだが。

 やはり、街路樹は植えられている。

 なんなのか。
 樹を植えないと酸素がなくなるのか?

 だったら、大気汚染から隔離した居住空間に清廉な環境を作りあげて、映画『アイランド』のようにすればいい。事実、暑い夏も、寒い冬も、大阪梅田で太陽の下を歩いているひとなどいない。地下街を通ってどこへでも行けるし、学校も会社も高層ビルの36階だ。

ISLAND

 エアコンから酸素を供給すれば、街路樹を植えるよりも、ずっと効率的である。

 そうではなく、もしも景観の問題で街路樹を植えているのだとしたら、奈良の場合よりも、ずっとアホらしい。紅葉を見に大阪梅田を訪れるひとは皆無。常緑樹でさえ、地上を歩いているひとがいないのだから、だれの癒しになろうわけもない。

 ムクドリと落ち葉が増えるだけ。

 現実に、いま、大阪梅田を訪れる外国人観光客は、空中庭園に夢中である。空中庭園のある梅田スカイビルがタイムズ紙に「世界を代表するトップ20の建物」として掲載された数年前から、うなぎ登りに来場者数を更新している。彼らが見たがっているのは、庭園とはいっても、映画に出てくる近未来都市のようなそれだ。

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大阪・梅田・空中庭園展望台 公式サイト

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 だれもその町に自然など求めていない。
 けれど集めた税金で、街路樹が植えられる。
 改革改革言っている大阪市長も、御堂筋が閑散とするのを「不夜城でもなく高度化した都市の感じもしない」から「マンハッタン摩天楼のように」ビルの高さ制限をなくして超未来的にすればいいんじゃね、と言ういっぽう、その未来予想図を見ると、超未来御堂筋にもモミの木のような街路樹が道路脇にはずらっと植え並べられている。

 なんで? 摩天楼に緑化いる?
 道路脇には、ガンダム並べればいいじゃない。
 マクロスでもボトムズでも、初音ミクでもいいし。
 モミの木よりもずっとクールで観光客もよろこぶ。

 道路脇に等間隔に並んだなにかがなければ事故が増えるとか、排気ガスを木の葉が吸着するだとか、そういう理屈も、衝突回避が自動機能化され、電気で動くようになった近ごろの車だとピンと来ない。高層化で日照権のほうこそが問題となる都会では、真夏の木陰がどうとかいうのもピンと来ない。

 街路樹。
 なんとなくあれば雰囲気あるし、というだけでそこらじゅうに必要不可欠であるかのごとく植えるのを、だれも問題にしないのはなぜなのか。そんなことよりも増える貧困家庭の子供にパンのひとつも配ってやったほうが、ずっと町は活気に満ちて笑顔も多くなるのでは?

 ……うーむ。
 実は、街路樹に対して否定的なことを書き連ねながら、でもやっぱり町に緑はいるよね、という方向でまとめるつもりだったのだが。データを眺めているうちに、こんなことになってしまった。

 東京23区の国道の街路樹管理費は、年で三億円ほどだという。東京の子供の数が十五万人を越えるくらいで、いま日本の子供の六人に一人は貧困生活に置かれているという統計があるから、ざっとした計算で東京の飢える子供は二万五千人くらい。そのうち二歳までの乳幼児が五分の一ほどだから五千人くらい。みんなで三億円をわけると、年で六万円ほど飢えるおさな子にミルクを買ってあげられる。月でいうと五千円。母乳が出ないひとでも、ほぼまかなえる額。

MILK

 大都市圏の街路樹をなくせば、町の飢える乳幼児はいなくなる。
 それでも植えるのか。

 街路樹の剪定して、道路工事して、それでお子さん育てている方だっているのだから、現実には、そう簡単な計算ではすまないにしても。それだけの金かけて植えた木の葉でバイクを滑らせそうになれば、もう伐っちまえよ、それが簡単だろ、と毒づきたくもなる。四月から二輪車の自動車税は1.5倍に上昇。税金足りないってんだから仕方ないけれども。机上の計算でさえ、もっと大事なことに使えるんじゃないのかな、と思わせる、この国のいまが、私から紅葉を愛でる余裕さえ奪う。

 余裕。そうすべては、余裕の話。

 冒頭で書いた、カナダは紅葉が美しいが厳冬過ぎて環境客を寄せつけないというようなケースは、地球上の多くの地域において当てはまる。世界中に四季はあるけれど、明確に「秋」と呼べる季節が存在せず、寒波の襲来とともに真冬がやってくる国が多いのだ。半月で数十度の気温差で四季が入れ替わる。「だんだん寒くなってきたねえ」という余裕がないために、当然のこと、愛でるもなにもない。毎年、徐々に枯れていく長い季節が約束されている日本だからこそ、その「秋」を可視化するアイテムとして紅葉を人工的に身のまわりに置くようになったのだとも言える。

 逆説的に、秋の色合いを愛でることができる精神状態でいられるということは、時間のゆっくり流れるさまを愛でられる状態であるということなのかもしれない。確かに、赤やピンクの口紅を塗っただれかよりも、わびさびを感じる色合いをみずから身に着けたひとのほうが、遅れた相手を許してくれそうな感じはする。

 秋の色を町から消すと、人々が時間に対する余裕をなくす?
 モミジで滑って私がキレるのはモミジが足りないせい?
 風情、とか、そういうものに使われる税金について考えると、それはつまり町に何色の口紅を塗るかというような話で。落ちつくからクラシックかけておけと言うひともいれば、今日を生きるためにガンガンのロックが必要なひとだっていて、その傍らでミルクが欲しいと泣く赤ん坊がいる。

 極端なことを言えば、少子高齢化によって成り立たなくなった町を再生するために最短の方策は、病院に金を使わせないことだ。出生率を上げないでも、平均寿命が下がれば、パッケージ全体が小さくなるので計算が合うようになる……もっとも必要なところに税金を投入するという発想はそういうことであって、街路樹を植えなければ飢える子が減らせるというのも似たようなもの。

 町は人工物。その時点で、破綻している。
 永遠に壊れない人工物などない。
 永遠を語れるのは流転する自然だけ。
 廻る四季の色。
 そんなものいらん、もっとほかに金使うところがあるだろうと、こんなふうに机上でくっちゃべっているだけならともかく、そういうことが本気で議論されるようになったら、そろそろ破綻のときは近いのだと覚悟したほうがいい。

 ムクドリがうるさい。
 街路樹不要、伐っちまえ。
 泣く子もうるさい、老人もうるさい、ていうか、みんなうるさい。
 みんなみんな伐っちまえ。

 すっきりする。

momiji