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 クリスマスが明けた。

 マイクロソフトXboxLiveにサインインできない。
 ソニープレイステーションのPSNも同様だ。

 ソニーの撮った架空の独裁者暗殺を題材にした映画『ザ・インタビュー』が架空ではない何者かの攻撃に屈して公開中止を発表したら実在の大統領が遺憾の意を表明し一転して一部の劇場とマイクロソフトXboxVideoにおいて公開に踏み切ったことに対する報復だと見られている。

 なぜクリスマスツリーを半額でたたき売り、鏡餅を山積みし、あとは売り切るだけの状態にして正月前の最後の休日にXboxOneで『Halo: The Master Chief Collection』をプレイしようとした私がプレイできないでいるのか、私にもよくわからない。

HALO TMCC

 報復?
 なんで私が。

 だいたい、ソニーの撮った問題作が、なぜXboxで配信なのか。
 合点がいかぬと、ニュースをあさる。

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グーグルとマイクロソフト、ソニーとの「対ハッカー共闘」宣言 - Yahoo!ニュース

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 共闘、ということらしい。
 マイクロソフト側から、共に戦おう、うちで配信するぜと呼びかけ、グーグル社もこれに呼応したという。

 美談のようだが、要は戦争の始まりだ。

 そして始まった瞬間に、被害をこうむっているのは一般市民たる私である。戦争ゲームでブラジル人をやっつけまくる素敵な休日になるはずだったのに。

 二十一世紀も14歳を越えて15歳になる。

 今年、テレビで放送された新世紀エヴァンゲリオンは、14歳が14歳でオナニーするシーンや「殺してやる」が壮絶にカットされていて話題になったが、15歳ともなればモノの分別がつくようになるというものだ。来年はおそらく、テレビも放送できないものは放送しない二十一世紀のたしなみを身につけることであろう。

EVANGELION

 その一方で、サイバー戦争が現実のものになっている。
 実弾が飛び交わないので、新聞の扱いは大々的ではないけれど、ネットのイジメでリアルに死ぬのが当たり前の二十一世紀15歳になりかけとしては、ことの重大さに震えがとまらない。

「あいつがやった」

 ネット上で、そう断言されて、やったとされる側も否定せず、サイバー攻撃をやり返す。それは事実上、実弾を相手の眉間に撃ち込む理由が充分すぎるほどに生まれてしまったということだ。

 私が『Halo』をプレイできないからといって、世界はどうこうならないが、冷静に考えてみれば、すでに世界がどうこうなっているから、私がとばっちりを受けているのである。と書いてみて、これを、とばっちりと表現してもよいものか悩む。国と国の戦争で落ちてきたミサイルに家を焼かれたひとたちも、とばっちり、などという言葉を使うのだろうか。巻き込まれた? でも、歴史を見てもあきらかなように、それこそが戦争の主たる部分で、戦争の本質とは、政治に無関係な一般市民がいかに筆舌に尽くしがたい迷惑をこうむるかということなのだ。

「ムカついた。やってやる」
「やってみろ。屈しない」

 そしてやり返す。
 結果、なんだよちくしょう今年最後の休みにネットゲームができないなんて、と私が迷惑をこうむっているこれは、とばっちりであれ、巻き込まれたのであれ、私にとって平穏な日常の崩壊という大変な事実。

 一般市民が「おれがなぜ報復を受けねばならぬのだ」と発言している時点で、まごうことなく、すでに開戦している証左。

 14歳は、ひきこもる。
 15歳になったら、大人になるわけではない。
 まだまだ子供。
 でも、世界と自分の位置関係が把握できて、どうすべきかを決断するようになる。

 どうしようもないこんな世界にサヨナラという選択をする。盗んだバイクで走り出して、校舎のガラスを割る。なんでこっちが苦しむ理由なんてないじゃないか原因を取り除けばいいんだとナイフをにぎる。

 そういうのが、私の思う15歳。
 初めての死ぬ気のケンカとか、自暴自棄の処女喪失とか、そういう感じ。

 いままさに、世界がそういう感じに、見える。
 で、その15歳たちは、自分の手首に当てるカッターナイフとか、咳きこむタバコとか、悲惨だけれど自分自身と周囲の局地的にしか影響力を行使できないアイテムだけでなく、死ぬ気の軍隊や、たぶん核ミサイルなども、持っている。

 こんな状態で、よくも安眠できるものだ。
 世界中で、プレゼントにもらったXboxOneもPS4もネットにつながらない、そのタメイキの向こう側で「映画公開しやがった」とタメイキどころかきっと側近の二、三人は殺しているやつがいる。

 15歳オメデトウ。

 ある意味、想像していた世紀末の先に近い風景に、この地上はなってきた。ゲーム屋さんたちがコメディ映画で共闘、対するは現実に飢える国のサイバー部隊。まったくもって、まったくぜんぜん、さっぱり笑っている場合ではない。まだまだ子供だった14歳が終わってしまう。尖った自我を持てあます15歳がなにをしでかすか、なにをしでかしても不思議ではないか、勢いでどういう決断を下し突飛な行動に出るのか、考察したくもない。

 二十一世紀も、ハタチくらいになれば、安心して見ていられるのかもしれないけれど。まだ15歳。ここはなんだか、山場な気がする。落ちつこう。だれの得にもならないことはやめておこう。そういう理屈が通らない年頃だ。

 私だけは味方だからと抱きしめてあげたい。
 けれど、だれをどう抱きしめたらいいものか見当もつかない。

 この年の暮れに、そんなことを思いながら、役に立たないゲームコントローラーを横に置いて、これを書いている。私は私自身をコントロールしているが、私のまわりの世界をコントロールできない。そのことに歯がゆさをおぼえる14歳でもないし、怒りにわれを忘れる15歳でもない。

 戦争はもう始まってしまったのかもしれないなあ、と思いながら、安眠できないよなあ、と思いながら、けれどだからどうということもなく、自分でどうにかできる自分のことをどうにかしつつ、自分を生きるしかない。

 今年だとか、来年だとかいう区切りに、意味なんてない。
 あなたはそこにいる。
 私はここにいる。

 来週になったら、なにが変わるわけもない。
 けれど、誕生日は不安になる。
 なにかが変わりそうな気がしてしまう。

 15歳になったからといって、極端な行動に出るのはやめてほしい。
 甘いキスとか夢見ないで、まだまだ、視線が絡むだけで頬を染められる純情をたのしんで。
 今日だって、ネトゲでワイワイやれたのにさ。
 世界中に張り巡らせて、もうずいぶんにもなって慣れてきた、その回線を使って「攻撃」?

 ああ。行ってしまう14歳。
 来てしまう15歳。
 不安だ。
 言ってもわからない。
 だれを抱きしめて声をかけて安心させてやればいいのかさっぱりわからないので、とりあえず自分と、手のとどく範囲のひとたちを、ぎゅっとしておこう。

 せっかくのネット回線で、今年の最後にゲームはできなかったけれど、『Halo5』のベータテストが三十日にはじまるし、元旦はさすがに休みだし。いまは、言葉をまき散らしておこう。徒然と。

 近しいひとたちに絵を描きモノ書くひとたちが多いので、寒くなると不安。あいつはあの冷凍庫みたいな部屋でひとりで泣いていたりしないだろうかとか、あいつはちっちゃい子供もいるのに食えているのだろうかとか。
 きっと向こうも思っているから。

 世界は個人的なものだ。

 いち個人の機嫌とか、事情とか、そういうので揺らぐ。そして同様に、逢ったこともないあなたを私が想う気持ちや、思いのほか(と書いてしまうのは余計なのかもしれないけれども)、あなたが私のことを大事に想ってくれていたりすることや。

 私はなんとかやっています。
 大丈夫。

 と書けば、ああそうなんだ、よかった。とだれかがどこかで想ってくれたりすることや。そういうのが、世界のすべて。ほかの些末なことが一部なのであって、世界のまるで全部が、そういうもので、できている。

 良い誕生日を。
 善くも悪くも、あなたしだい。
 私しだい。
 悪いより良いほうが好き。
 世界を護って、創って。

 二十一世紀人類の15歳を迎えても、あいも変わらぬ世界をあなたと共有できますように。

 祈らず願う。

 愛してる。




 自画撮りが問題になっている。

 といっても、世界的に有名なツイッター日本グラビアアイドル自画撮り部の活動がエスカレートしていてけしからん、といったような問題ではない。

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【公式】#グラドル自画撮り部 | Twitter

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 猿である。

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Monkey selfie - Wikipedia, the free encyclopedia

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 インドネシアの森に暮らす猿が自画撮りしたとされる写真がイギリスのネットニュースで取り上げられ、それをアメリカのウィキメディアが転載。しかし、その写真をそもそも自分のものとしてネット上で発表した写真家デイヴィッド・スレーター氏が、無料でコピーできる情報としてウィキに掲載されたことで金銭的被害を被ったとウィキメディアに抗議。

 そこでウィキ側は、こう表記した。

「インドネシアの森に暮らす、マカク属クロザルの女性が自画撮りした写真」

 つまり、それを撮ったカメラがスレーター氏のものであろうとも、写真の著作権はシャッターを押したマカク属クロザルの女性にある、と。

 さらに法律的な解釈が追い打ち。アメリカの法律で著作権は人間にしか与えられない。ゆえにこの場合、マカク属クロザルの女性も猿であって人間ではないので著作権は認められず、著作権はだれにも発生しない。

 それゆえの、結論。

 著作権がだれにも発生しないのだから、その写真を転載したとしても、だれにもギャラを払う必要はない!!

 ……隙のない論法である。

 対するスレーター氏の反論は、

“A monkey pressed the button, but I did all the setting up.”

 いや、シャッター押したのは彼女でも、カメラをセッティングしたのはおれだし!?

 こちらの言いぶんも、もっともである。

 大手カメラメーカーからも、純正品として、センサーでのオートシャッターは発売されている。

ML-3

 送信機と受信機のあいだを物体が横切ったらシャッターがきれる。なんに使えるかといえば、森でリスの巣穴にピントを合わせておいて、その巣穴の出口にセンサーを設置する。

 もっちりリス子ちゃんこんにちは。
 ぱちり。

 とはいえ、そんな上手くはいかない。根気のいる作業である。そういう手法で野生動物を撮る専門のかたもいらっしゃるが、世界を飛びまわっては、いつ現れるとも知れぬ動物たちの気まぐれを先読みする毎日。好きでやっているのだろうけれど、苦行であることはまぎれもない。

 でも、だけれども。
 猿の自画撮りを猿自身の作品とするならば、そういうことになる。

「シャッター切ったのはセンサーを横切ったリス子ちゃんでしょ?」

 苦心の作を、どこへ持って行っても「著作権がないから、売るとか買うとかいう以前の話だし」なんて扱いを受けるようになり、野生動物写真家は世を儚むしかなくなる。

 それならば「クジラの歌う癒しの音楽」というようなCDは、それを歌ったクジラたちにギャラが支払われるべきではないのか。

 そう考えると、残念なことに人間世界の貨幣というものは、クジラ先生たちにはなんの魅力もないものなので、もしも彼らに報酬が与えられるのならば、それは彼らにとって意味のある価値を含んだものでなければならず……突き詰めると、彼らの歌声で癒された人類が「クジラ好き」になって彼らの世界である母なる海に敬意を払う、そのことそのものが報酬として成り立っているかもしれない。

whale

 松任谷由実さんが以前インタビューで、これから、歌うたいは満足感のために歌う世になる、というようなことを話されていたのを思い出す。あらゆる情報が共有されすぎて、音楽を聴くためにCDを買う者はいなくなり、ライブに足を運ばず動画サイトでライブ動画を探す。そんな金銭的に割に合わない世界で、それでも歌いつづけられるのは、ナルシストだけだ、と。ユーミンがそういう言葉で言ったわけではないが、私はそう取った。

 スレーター氏も、それは金の問題だって大事だろうが、世界中で「なにこの猿自画撮りだってー」と話題になっているその撮影者をググったら「インドネシアの森に暮らす、マカク属クロザルの女性」となってしまうのが我慢ならないのだろう。そんなのは金銭以上に、満足感が得られない。写真家としての誇りが足蹴にされている。ナルシストとしては、自分の作品なのに、自分に視線が集まらないなんて、拷問以外のなにものでもない。

 と、モノ書く身としては、訴えた側に感情移入してしまいがちだが、逆にも考えてみる。

 スレイター氏の場合、猿を撮りに予算を使って出かけたのは事実なのだが、意図的に「猿の自画撮り」を製作しようとしたわけではない。撮影していたらカメラを猿に奪われ、その猿がカメラをオモチャにしてピンボケた写真をあまたと撮ったうち、偶然にもピントが合って猿のドアップが撮れたという。

 「偶然」という言葉はクセモノだ。

 奪われたカメラに偶然写っていた写真の創造主が「カメラの所有者」だと言うならば、ゲームセンターのプリクラ機で撮られたすべての写真が「プリクラ機をセッティングした」だれかの著作物になるという解釈をすることも難しくはない。もしもそこに権利が生じるのならば、セガサミーホールディングスは、来年こそ赤字経営をV字で脱却することだろう。

 そういえば、私はプロレス・格闘技の専門チャンネルを契約しているのだけれど、インディーな団体の中継を観ていると、いつもリングサイドに同じ人が座っているのを見る。だれかといっしょに観ながら「あの親子は、いつもあそこに座っているけれど、親子揃って仕事しないで金稼いでいるひとたちなのかねえ」などと興味を持って観察したこともある。少なからず、リング上の攻防と並行して、行けない会場の雰囲気を感じる一部として、そのひとたちのことをも、エンターテインメントとして消費しているのだった。ということは、それもあってチャンネル契約を続けているということであり、テレビ局は、赤の他人の映像を「カメラに映り込んだから」勝手に商品にしていると解釈することもできる。

 いや待て。興行ならば、プロレスであれ、アイドルのコンサートであれ「この日の興行にはカメラが入ります」映り込んだあなたがブルーレイ発売されちゃうかも。ということは書いてあるものだが。よくあるテレビの企画で、警察24時とか。ああいうモノはもっとタチが悪い。ホームを映す無人カメラの酔っぱらい、コンビニの防犯カメラに撮られた間抜けな強盗。それらで視聴率を取り、スポンサーから大枚を巻きあげる。その図式で見れば、刑務所に入っている間抜けなコンビニ強盗の彼にこそ、いくばくかのギャラが払われるべきである。

 デイヴィッド・ホックニーは、自分の作品に「これらの作品は作家ひとりで描きました」とパネルをつけた。

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『ルンペルシュティルツヒェン』の話。

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 「この作品はほとんどアシスタントが描きました」 というパネルを自作につける画家はいないだろうが、あえて。と、いうあたりが巨匠のエスプリなのだけれど。そう指摘されてみれば、某長期連載マンガ家はいまではアシスタントが描いた原稿に、最後に「黒目」だけを描くのが仕事だ、などという都市伝説もある。そこには、それで連載が成り立っていて、毎週ぼくたちがたのしくマンガを読めるのならばオールオッケーさ、というニュアンスも含まれている。

 マカク属クロザル女性の自画撮り写真は、ユーモラスだ。
 ココロがなごむ。
 アーティストの自尊心など、末端の消費者には知ったことではない。

 知ったことではないからこそ、作家の権利というものが厳格かつ厳密に定義され守られるべきだというのも、非常に大事なことである。

 冒頭でリンクしたように、いまだにウィキにはだれもが無償で見られる状態でその写真は掲載されたままだ。アメリカでは、著作権で争い、スレーター氏は実質、敗北した。

 ただし今後、スレーター氏が、新たに写真の知的所有権を主張するという方向で、最初にネットニュースで取り上げたイギリスにおいて勝負に出れば、勝つ見こみがある、という見解もある。

 知的所有権を主張するならば、争点は、それ。

 写真があるひとの「知的創造物」であるかどうか。

 ……カメラを猿に盗まれて「偶然」にもあの写真が撮れたというエピソードが、ここで問題になってくる。知的? 創造物?

 曲がりなりにもモノ作るものが、肝に銘じるべき教訓をここに見る。

「おれはあのメスザルにおれのカメラを手渡して言ったのさ、それで自分を撮ってみなよ、ってな」

 最初の最初、まだネットニュースで取り上げられる前の段階で、写真に添えて、そう書いておくべきだった。「盗まれた」とか「偶然」とか、そういう単語を、彼は話がおもしろくなるエッセンスだと思って発信したのだろうけれど、それはあきらかな誤りだった。

 拾ってきた変な形の石を、

「恋に悶えるドラゴンである」

 と言いきって初めて作家。
 言えるから作家。
 一方、「恋に悶えるドラゴンに見えない?」とブログに書いた時点で、その石の写真は1セントにもならない、ただの「変な形の石を撮った写真」に過ぎなくなる。

 知的創造物の創造主たる権利を得るには、自己主張が必要なのである。そしてその主張は、だれかに注目される以前にやっておく必要がある。作品は勝手に旅立ち成長する。創造主の焼き印を押すのは、生み落とした瞬間。確実に、手際よく。それが作法。

 肝に銘じたい。
 世界中に拡散されてから、

「それ撮ったのオレだってば」

 駄々をこねる創造主。
 それはまったく、美しくない。

B00I8MPLYW


 


 
アタシは旅に出る ほかの町に行ってみる
誰かがアタシを 見つけてくれると いいと思う
アタシ だけの ヒトが
でも アタシだけのヒトが アタシだけを 好きになって くれたら
それが アタシだけのヒトと アタシの お別れの時だ
それでもアタシは あたしだけのヒトに会いたい
そう思いながら あたしは今日も 誰もいない町を行く

Chobits
 
CLAMP 『ちょびっツ』
 
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 上司が、辞めた。
 二週間ぶりに逢ったら、八キロ太ってて。
 でも

「主夫やって娘と遊ぶのもな」

 とか言って笑われると。
 感じる。
 疎外感を。
 
 もっと生々しい話が許されるなら。
 人は人の肌を欲するものだと思うし。
 動物なんだし。
 くっついたから、じゃあ離れる理由はなくて。
 だから人類はこう、うまい感じで

「一人の男が世界中の女も男もモノにする」

 なんてことにならずに回っているんだとも、思う。
 で、たとえば昔気質な兄ちゃんが、
 村の娘を勢いで襲って、くっついちゃって。
 で、責任とる、とかいって一緒になって。
 そのあと幸せなら。
 もともとが性欲オンリーでも。
 やっぱ愛でしょ。
 というか、それが愛だと私は思っているが。
 世の中にはもっと特別仕様な愛も存在するのかな。
 
 だとしても、私は別に、いらない。
 
 とか。
 そんな手紙を書いていた。
 今日この頃。
 書いてはじめて、自分がそう思っていることに気づく。
 
 書かせてくれた、みんなにありがとう。
 もっと、書こう。
 そうすることでしか、近づいていかない。
 
 クロスワードパズルのように。
 考えると、空白が埋まる。
 その繰り返しで、意味が生まれる。
 その意味について、また考える。
 
 書くことに疑問をもたないことが、最短距離。
 手紙が届くから、手紙を返す。
 返すために、書く。
 疑問などなく。
 徒然に。
 
 そこからしか、生まれてこないのだと。
 思ったのだけれど……ごめん、ちょっと徒然すぎた。
 深読みしてください。 

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 年明けまでにはサイト移転を段取りせねばならない。
 しかして、いつものことですけれども年末年始で年の三分の一を売り上げないと成り立たない業界に生きている手前、家にいる時間が減り、さすがにPC向けサイトの構築をモバイルでは作業できないので、ちっとも進まない今日このごろ。

 冒頭のそれは、まだこのサイトが『吉秒匠 / とかげの月』と名乗ってはいなかった、日付は2001年の11月19日。いまは亡きドリームキャスト系コミュニティでのつぶやき。Twitterの正式サービス開始は2006年のことで、その五年前にあたる2001年ではまだ、ブログという呼称さえ一般には認知されていないころである。

 私は、幼いころからのパソコンユーザーだ。けれど、ブログという言葉もない二十世紀の終わりごろに、私が電脳空間へとつぶやきはじめたのは、ドリームキャストというゲーム機でだった。

 世界が変わりつつあった。
 その匂いが、そこにあった。

 サイト移転の作業のなかで、むかしの自分の書いたものを検閲している。2001年は、私が結婚した年だ。ということで、私的なつぶやきが多く、しかも愚痴っぽいので、それらはざっくざっくと削除している。

 そんな作業中に『特別仕様な愛』の話を読む。私の職場が何度か移動したこともあって、あの上司とは、音信不通になってしまった。でも、忘れられない。十年以上経って、まだ、ちゃんと私はおぼえている。そのひとが、初めて見せた、心底からの「ほっとした」笑み。とびきりだった。十年以上前の私の文章はつたなくて、私が私自身の過去の出来事として読んで感じるほどには、あなたには伝わらないだろうけれど。

 あのひとがつらそうだったのは仕事そのものではなく、愛するひとから離れた場所に置かれ、それを許容できない自分の性質に対するものだったのだ、と。いっしょに働いていたときの、あまりにもあんまりな状態の説明がついた気がして、うれしかった。

 そういうことを、書きたかった。
 だから、あなた宛になっている。
 いま、あの当時の労働環境から比べればずっとマシではあるけれど、やっぱり忙しいのは忙しいこの師走の刻に、読みかえしてみれば、当時の自分が、とても真剣に考えていることがわかる。上の文章を書いた当時の私のおかげだ。線の引きかたを、あのときにおぼえた。おかげで、私はいまも、変わらず、ここにこうしている。

 あのひとは、仕事を辞めて二週間で八キロ太ったと笑っていたが、それでも私が職場で初めてあのひとに逢ったときより、まだずっとずっと痩せていた。辞める直前は、だれが見ても危険なレベルだったのだ。ジレンマが、頭のなかでよくわからないもつれかたをしてしまったのだと想像する。

 娘と遊ぶ時間もない、その状況になっているのは娘を育てるための仕事のためだから仕方ない。そして食事も摂れず、眠れなくなって。禅の修行でもしているみたいに痩せていった。

 あのとき見た照れたみたいな笑いは、自嘲だった。なにをこんがらかっていたんだろうなと、恥ずかしそうだった。

 そういえば、それからしばらくして、あのひとのことを想い出したことがあったなあ、と『吉秒匠 / とかげの月』になってからの『徒然』を検索する。

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『遠恋』の話。

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 五年後だ。
 2006年。
 私は、あのひとの辞めたあとの職場で出逢った、ふたりの男女が遠距離恋愛することになって、つぶやく。

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 ただ、君が「遠恋でも大丈夫」と言ったのが心配だ。

 気持ちを確かめるためにカラダがある。
 たまに逢う時間を確かめるだけに使って、なにも変わっていない、ちゃんと続いている大丈夫と呪文のように言い続けるのは、やっぱり健全じゃない。
 電脳空間は世界を狭くしたけれど、距離はやっぱり存在する。

 そばにいたいと、願うことはやめてはダメだ。
 遠くても大丈夫という呪文はごまかしだ。
 いま遠くて、こうしていることが仕方ないことだとしても、大丈夫じゃないし、そばにいたいし、いつかはぴったりとくっつける距離に戻るんだと、そう想い続けることは必要だと思う。

 遠くても、大丈夫じゃない。

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 世界は変わった。
 ずっと狭くなった。
 でも。

 私は信じている。
 触れなければ恋も愛も醒める。
 遠いか近いかを言うことに意味はない。
 あのひとも、車で一時間の距離に家族がいた。
 だけれど、隣の部屋に住んでいたって、忙しくて、すれ違う、そういう世界にもなったのだ。

 離れたくないならば、選ばなければ、実現しない。

 選択。単身赴任でもビデオチャットで。それも触れるということではあるし、ひとそれぞれだと思う。でもだからこそ、他人にはわからない部分で、自分にとっては恋や愛の持続に、こういうカタチの触れあいが必要なのだと自覚していなければ。いつかそれは残酷なまでに実現不可能なものになり、後戻りできないラインで気付けばリセットするしかなくなっている。

 気付かなければ、なくしてはいけないものを、なくす。 

 今年は『オッド・トーマス 死神と奇妙な救世主』からはじまった。

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映画『オッド・トーマス 死神と奇妙な救世主』の話。

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 おかげで、オッドを演じたアントン・イェルチンの名を見ると、反応してしまうようになってしまって。『スター・トレック』や『ターミネーター』に出ていた時点で、充分に私の趣味になくてはならない俳優になっていたのだけれど、「彼が出ているから」ふだんは選ばないような作品まで観はじめると、これはもう立派にファンである。恋だ。
 おかげで、世界が広がる。
 恋は世界を二倍にする。

 『今日、キミに会えたら』という、なんだか甘ったるい感じがして女性向けだろうしなあと、恋をしていない私ならばスルーするタイトルを、アントンくんが出ているならと手に取る。

 遠距離恋愛の映画だった。

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自分が君の人生の一部って
感じがしない
うまく言葉では
説明できないけど…
とにかく変な感じなんだ

LIKE CRAZY

『今日、キミに会えたら』

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 原題は『Like Crazy』。 

 狂ったみたいに。邦題とは、ちょっとニュアンスが違う。そのまま訳してくれたら、恋をしていない私の興味だって惹いたのだろうに、日本の配給会社は、女性にウケそうな陳腐な邦題をつけたがる悪いクセがある。

 今日、キミに会えたら。
 ふたりの関係は、もっとうまく行っていただろうか。
 そういうことを、深く問う映画だった。
 出逢って狂ったようになってしまったふたりが、やらかしてしまって、簡単には会えない境遇になるのだけれど、そのまま歳を重ね、結婚もして、でもまだすれ違い、ラストのそれをどう取るかは、あなたの恋愛観によると思うから、ぜひ観てほしい。『オッド・トーマス 死神と奇妙な救世主』同様、正式な劇場公開はされずにビデオ発売された作品だけれど、その理由はタイトルとは裏腹にボディ・ブローの効いた「甘くない」恋愛映画だからであり、我が恋するアントン・イェルチンは、脱ぐしヒゲだしシャワー浴びると生えぎわ危ないし、超素敵。ヒロインのフェリシティ・ジョーンズも、パッケージの写真はなんでこんなに写りが悪いのを使ったのだというくらい、肉感的で良い女優。この作品で向こうではいくつか賞も獲っている。触れることが重要なファクターになる作品で、超接写に耐えうる触れたくなるもちもち美肌かつエロさは、これをデートで観たら気まずくなるだろうなあという気にさせられる。それも本邦劇場未公開のひとつの理由かもしれない。恋愛映画がエロいとウケないと聞く。なんて国だ。

 物語の中盤、アントンは、彼女の暮らす場所に逢いに行き、学生時代のようにヤりまくって、公園でむちむちの太ももを枕にしながら、それでもそのセリフ。

 離れたあいだに、別の恋や愛が生まれたわけではない。
 けれど、それぞれの生活が、それぞれに確立されてしまうと、ひと夏のあいだ、ずっと裸でベッドにいた頃のような一体感は、もう戻らない。なにをしたって。それに気付いて、ふたりは選択をするが……でもやっぱり、埋まらない。

 映画で描いてくれると、実に明快だった。
 ほら、ダメだって。
 遠距離恋愛なんて、どう考えても成立しないんだって。
 お互いに忙しくても寝室を別にしたら、それは別の国にいるも同然で、その生活を支えるために仕事があるのだとしても、それって意味ある?

 愛が残って、恋は消えて、しわくちゃになって、ふたりで生きたねって。それでいいひとはいいけれど、ダメなひとはちゃんと選ばないと、大事な狂気をなくす。もしかしたら自分たちでも気付かないうちに、丸めこまれて。それが大人になるということですか。

 耳を塞いでうわああうわあと大声で叫びたい。

 ところで。ロシアで生まれたアントン・イェルチンのアントンは、スペインで生まれていればアントニオだった。それはラテン語のアントニウス(Antonius)から派生した名で、女性ならばアントニア。プロレスラーならアントーニオ。とにかく全部おなじ名前。

 アントニオ・バンデラスも、そのひとの名前で作品を観てしまうひとりである。

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あなたには”隠れ場所”があります
あなたの心の奥に
誰にも踏み込まれず──
誰にも破壊されない場所が

THE SKIN I LIVE IN

『私が、生きる肌』

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 原題は『The Skin I Live In』。

 これはほぼ直訳。なにせ監督がペドロ・アルモドバル。そして主役の狂気の医師、アントニオ・バンデラス。タイトルがどうのとかいう問題ではなく、観るひとは観ないわけにいかないし、興味のないひとはまったく興味がないというカテゴリー。

 遠距離恋愛の映画ではない。
 でも、恋の映画。
 そして、距離の映画。
 逆説的に、触れることで恋や愛は生まれるのかを描いている。

 この作品のラストも、観るひとの恋愛観を試す。
 個人的に、あえてここでこの作品を推すのは、ボーイズラブ読者のあなたに観てもらいたいから。監督のペドロ・アルモドバルは、ゲイであることを公表しているのだけれど、それをふまえて、この映画。ネタバレになるので言えないのだが、私はぜひともあなたの感想を知りたい。

 もう、はっきり、狂っている。
 でも、完璧に、アントニオは恋してる。 

 パッケージ写真から推察できるように、医者である彼は、みずからが触れるための肌を、みずからで作るのである。しかしその肌のなかに、生きる個としての「私」は、いる。アントニオは触れる。恋を、愛を深くする。けれどそこには絶対的な距離があり、肌に触れても、触れられない。

 ある意味、これ以上ない近距離での遠距離恋愛。

 触れられても、触れあっても、だれもに、だれにも踏み込めない、自分だけの隠れ場所が心のうちにあるのだとしたら──

 それは逆に、その隠れ場所に自分だけの「狂おしき恋」をきちんとしまい込めば、距離も環境の変化も他者との接触も、ものともせず、それを守り通すことができるのかもしれないという可能性でもある。

 二本の映画に問われて、それでもやっぱり、私は、恋も愛もそういうものだと考えていると気付く。2001年からなにも変わらず、特別仕様の愛などあってもいらないし、そもそもそれを信じる気にならない。
 どちらの映画もおもしろかったが、感想は、それ。

 登場人物のだれもが、優先順位ははっきりつけているのに、思い悩むムダ。

 恋とか愛とか、狂おしいとか。
 言葉にするから面倒くさい。
 キミはキミと触れあっていたいんでしょ。
 じゃあそうしなさいよ。
 飢えないくらいに働くのは忘れないで。
 事故には気をつけて。

 私には、この時間が必要。
 それも変わらない。  

 いま、あのひとほどではないにしても。
 にっ、と微笑えるか、やってみた。
 できた。

 捨てたモノはいろいろあるけれど、捨てないことを選んで、隠れ場所に隠しているものが、いまもちゃんといちばん大事。変な感じはしない。
 しあわせなのだ。