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「データに実体はない」

 SFファンのあいだでは古くから使われている、そういう言葉がある。かねてからの使いかたとしては、データでしか存在しないデータ(情報)は、複製も改ざんもできるのだから信用してはならないと説き、エンタメ的物語としては、だからデータに踊らされるな、盗んだり争ったりしても裏をかかれるだけ、まして愛するなど言語道断。そういう方向に持っていくのが定番だった。

 けれども、近未来は近いので、いつか現在になり、それはいまである。

 私はXboxで『Halo』をプレイする。

HALO

 つまりほぼ毎日、数十分やそこらだけれど、データだけのアヴァターになって、データの世界に生きている。『Halo』はスポーツライクな対戦ゲームだ。なので、よろこびもあればくやしさもある。機械的に日々こなす書類仕事を片付けている私などよりも、ずっと生き生きしていると言っていい。カトロン郡や、コマルカ・ダ・バイシャ・リミアで『Halo』をプレイしているひとたちと、笑ったり泣いたりしている私の姿は、向こうから見ればデータでしかないのだが。

 電脳空間におけるアヴァターの概念は、それそのものの名を冠した映画『アバター』によって、大きく変わった。

AVATAR

 それまでもSFの題材として、電脳空間でこそ生きるという設定は多用されてきたものの、市民権を得るまでには至らなかった。ウィリアム・ギブスンの『ニューロマンサー』でCyber-spaceという言葉が使われたのは1984年だが、日本語では電脳空間と訳されたその場所には、まだデータはデータとして存在していた。

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 肉体のないおれたちが、カーブを切って、クロームの城に侵入する。ものすごいスピード。まるで侵入プログラムの波頭、突然変異をつづける似非(グリッチ)システム群が泡立つ上で、サーフィン・ボードの先にハングテンで乗っかっているようだ。意識を持った油膜となって、おれたちは影の通廊の上を流れていく。

Chrome

 ウィリアム・ギブスン 『クローム襲撃』

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「データに実体はない」

 電脳空間に入ったおれたちはすなわちデータそのものなので、肉体はない。けれど、マトリクスとプログラムはなにか「物体」っぽい描写がされていて、その隙間をおれたちは駆け抜ける。肉体はないのに、駆け抜ける。

 映像化不可能な言葉遊びのクールさこそが、生まれたばかりの電脳空間の実体なわけだが、それからほんの二十年ほど経つと、人類は携帯電話のなかの仮想空間でデフォルメされたみずからのアヴァターを操作し、私は地球の裏側のだれかと毎日のように仮想の未来武器で撃ちあうようになる。

 そしてさらに十年ほどが経ったいま。

 男のアヴァター同士が電脳空間で結婚できないなんて差別だとニンテンドーはクレームをつけられて次回作ではそれができるようになると確約した、というニュースを読む。

Tomodachi Life

 ↑この画像はAmazon.co.jpへのリンクになっているのですが、そこでのレビューにたびたび出てくる、現実世界のパパと娘がゲームのなかでつきあっているのを現実世界のママがなごんで眺めていたり、子供の産めない夫婦がゲームのなかの出産に瞳を潤ませていたり、そういうプレイヤーさんたちの話。それらを読んでいると、あれは単なるクレームではなかったのだなと思えてくる。

 そもそもは、単なる要望だったのだ。『トモダチコレクション 新生活』で仮想結婚したいと発言した現実世界のゲイカップルがいた。それに対し任天堂がコメントした「どのような形での社会的主張も行うことは意図していません」というのが議論の火に油を注いだ結果、クレーム大ブーイングになってしまった。

 新しいゲームが出れば、要望が出るのは当たり前だ。ここをこうして欲しい、ああして欲しいというファンがついてこそ、シリーズ化もできる。なので『トモダチコレクション 新生活』に熱い要望を訴えるファンがついたのは、任天堂にとっても良いことであったはずだ。単純に、今回はむずかしいけれど次回作では検討します、と最初から答えていれば赤マルだった。それが、だれが考えたコメントか知らないが、そのひとは、このゲームには出産の要素があるので同性婚を描くとそこには「社会的主張」が生まれると主張したがった。

 「主張しません」ということを主張したがゆえに反論のブーイングが生まれたのだ。すなおに受け止めるなら、任天堂の偉いヒトは当初、次回作でも同性婚なんてありえねえよ、と考えていたのだろう。

 現実世界で生まれない子供が生まれるのは世界観が破綻すると……そこまで会議で突き詰めて話しあわれたかも疑わしい。おそらくは、全年齢向けゲームだし、同性婚とかそういうむずかしくてややこしいテーマを振ってこないでくれかかわりたくない、という逃げの姿勢があったのだと推察される。

 問題なのは、同性婚に対する考えかたが前時代的なことではなくて、ゲーム屋なのに任天堂が電脳空間の在り方こそを前時代的に軽んじていることだ。任天堂のゲームには、ネット廃人を生み出すような方向性のものは少ない。だから肌感覚として、いまのこの二十一世紀も十年すぎた、現在になった近未来での電脳空間のリアルが認識できていないのではないか。

 という感覚が理解できてしまうのは、私もファミコン世代だからなのだと思う。ファミリーベーシックやMSXで作ったドット画の自作ゲームに興じる小学生だった私は、大人になったいまも、パチンコやソーシャルゲームに全財産つぎ込んでしまうひとの気持ちが、本当のところではわからない。毎日『Halo』をプレイしているし、オンラインRPGなんてのもやるけれど、それで寝不足になって会社に遅刻するとか、そういう経験も皆無だ。超ハマっているゲームも、ゲームはゲームなので、ごはんの時間が来たら一階の台所に降りるし、決まった時間には寝る。

 しかし、そうでないひとたちが、すでに電脳空間には棲んでいる。
 任天堂の対応を差別的だと受け止めたのは、ゲイのカップルだけではなかった。熱心なネットゲーマーたちもまた、超有名なゲーム会社が電脳空間を軽んじたことを、差別的だと感じたのだ。そのせいで一般紙で大きく取り上げられるような世論を構築してしまった。いわば、ゲームの世界の住人たちが、電脳空間での市民権を行使して、なぜここで結婚して子供を産みたいカップルにダメだとおまえたちが言うのかと、シュプレヒコールした騒動だったのである。

 なぜって、おれらの作ったゲームなんだから、仕様はおれらが決めるわな。という言い分は、いまやゲーマーたちには通じない。電脳空間の土地がだれの作ったものであれ、そこに家を建てたのがだれであれ、賃貸マンションの住人にだって権利があるように、むしろその世界の在り方をうたうのは、棲んでいる者たちのほうなのである。

「データに実体はない」

 その言葉は、電脳世界が生まれて三十年で、ようやくSFマニア以外の人々にも感覚で理解され、市民権を得たと同時に、意味が変質した。

 電脳空間での同性婚がもうちょっと先の近未来では世界の常識になるということが確定した直後、また新たなニュースが世間を賑わした。

 家庭用のプリンタで印刷した銃を撃った男が逮捕されたのだった。

 こんどは、現実世界の法律の話になる。

 データに実体がないということをだれもが認めたがゆえに、だったら「実在」するデータをどう扱うかが、矛盾点として浮かびあがってしまったのである。

 アヴァター同士で恋ができてしまうのは、どう説明しよう。
 『Halo』の対戦が、現実世界のサッカーの試合くらいに私を興奮させるのは?

 そういう感情論に対する答えは、用意できる。
 あくまで「データに実体はない」のセリフを吐いているのは、現実世界にいる私たちだという前提だから、おかしなことになるのだ、と答えればいい。
 映画『アバター』では(もしも観ていないひとがいたなら、ネタバレるのでこの先三行ほど読み飛ばしてください)、異種族のアヴァターになった男が、最終的には、その異種族の一員となってしまう。もちろん、いまはまだ、映画の主人公が別種族に生まれ変わったように電脳空間に移住することなどできないが、考えかたとしては、すでに受け入れられるものだろう。

 電脳空間は、この現実世界とは別の、異世界だ。
 電脳空間で結婚できるゲームをプレイしているプレイヤーと、ゲームのなかにいるプレイヤーは、同一人物でありながら、別人である。そうでなければ、自分の夫と娘がゲームのなかでいちゃいちゃしているのを、妻はにこやかに見てはいられないだろう。淫行だ。近親相姦のはじまりだ。イヤそうじゃない。そこでの出来事は、現実世界とは無関係のファンタジーだ。イヤそう書くとまた語弊がある。現実のほうこそどうでもよくて、電脳空間での自分のほうが大事だというひとだっていまは多いのだ。イヤいや、そこは感情論にもどるから、置いておいて……

 電脳空間という異世界に、現実世界とは別の私が「実在」するとしよう。
 となると、あの名言は、もう使えない。

「データに実体はない」

 でも、電脳空間にいる私にとって、データは実在する。データの世界のデータの私にとっての話なのだから。ウィリアム・ギブスン的な映像化不可能な絵空事ではなく、電脳空間に棲む私にとって、そこでの出来事も、事象も、事モノすべてが、現実である。

 アヴァターの私が引き金を絞って撃つ銃に実体がないなどということがあるわけがない。私が電脳空間にいるあいだは、その銃は、おなじ世界に存在する「物体」だ。同様に、ファンタジーものでよくある設定に似通ってしまうが、異世界を訪れて、その世界の住人の姿に変身したふたりが、その世界で恋に落ちてもなんら不思議なことなどない。

 この感覚が、電脳空間という言葉の生まれた時代には、ほとんどだれも理解できなかった。けれどいまでは、多くのひとにとって感覚的には矛盾がなくなった。それだけ電脳空間そのものが、精細で現実にとってかわることさえできうるものになったということだ。画がきれいになったということだけではない。たとえば私のアヴァターが棲む『Halo』は、いま四作目だが、二作目のころにはまだ、回線のラグでカクカクとなって対戦熱が冷めるということがままあった。いまやそんなことは皆無だ。地球の裏側のひとと、目と目で会話できる。

 電脳空間は、現実世界と同じくらいに確固たるものとなって、仮想空間という呼び方も、最近は、ちょっとどうなのという感さえある。

 しかし、その結果、法律に矛盾が出た。
 今回のニュースは、そういう内容。

 たとえば、電脳空間で細部まで描かれた未来兵器が、物理科学にのっとって描かれているなら、そのデータを3Dプリンタで印刷すれば、現実世界でも使用できるはずである。

 これは実に、困る。

 電脳空間で恋する心の実在を認めるなら、悪意の実在も認めなければならないはずだ。心を現実世界に持ち出すのには、プリンタなどいらない。電脳空間で生まれたカップルが現実世界で結ばれる例があるのだから、電脳空間で生まれた悪意によって、現実世界で悪事がなされることだってある。

 異世界だが、現実世界と電脳空間は、地続き同然なのだ。

 そして、3Dプリンタに象徴される技術の進歩が、ひとの心のように電脳空間のデータを地続きの現実世界へと持ち出すことを容易にしてしまった。
 いまいちど、古びた、あのセリフを吐いてみる。

「データに実体はない」

 データを取り締まるべきなのだろうか。
 こちらの世界から見れば異世界のデータに実体など存在しないという見解を全面的に捨て、現実に撃てる銃のデータがそこで見つかれば、描いたものを罰するべきなのか。
 合成麻薬の化学式は?
 現実世界ではまだ作られていない、だれもラリっていない麻薬が、台所洗剤から作ることが可能というデータがあったとして、それを法的に取り締まるべきなのだろうか。

 もちろん取り締まるべきだ。
 というか、取り締まらざるをえない。
 プリントしたら撃てる銃のデータ。
 それを取り締まる法律が、現状では存在しないが、どうにかすべきだという話だ。どうにかすべきである。そんなことに議論の余地はない。

 ただ、そうなると、線引きがむずかしい。

 アイドル活動もおこなうAV女優つぼみの公式サイトに、彼女の3Dデータがある。

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つぼみオフィシャルサイト

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tsubomi

 本人からスキャンした全身データ。3Dプリンタで印刷してフィギュアを作ることもできる。Perfumeや檀蜜も3Dデータを公開しているけれど、ステージ衣装や映画の衣装なので、できあがるフィギュアは、いかにもな出来である。しかし、つぼみは私服だ。そして彼女の経歴から、そのデータ公開には、SF的な想像をせずにはいられない。

 猥褻物陳列罪はデータに適用すべきだろうか?
 データの中身を視認できるように明示したりせず、あくまで各個人がデータを走らせて画面上で見るか、プリントしなければ見られない純粋なデータファイルだったら?

 さらに近未来、電脳空間での神経感覚は、現実と変わらないものになっているだろう。電脳空間のカフェで、生クリームたっぷりのパフェをガツガツ食べて、味覚も満腹感も感じるけれど、現実には摂取カロリーゼロだという時代が来る。そのとき、もちろんいま現実でゲームにハマって人生を持ち崩すひとたちがいるように、電脳空間でパフェを食べすぎて、脳が麻痺して現実世界でも甘いモノが摂取せずにはいられなくなり、糖尿病になるか電脳空間で一生アヴァターとして生きるか、選択を迫られるひとたちも出てくるだろう。

 その未来では、セクシーアイドルのスキャンデータは、現実に抱けるものになっているに違いない。日本初、と、つぼみオフィシャルサイトではうたっているが、だとすればいまこそ、電脳空間で好きなアイドルの生データに好きなことができる未来の幕開けだと呼べるであろう。祝え。踊れ。

 『トモダチコレクション8.1』あたりのバージョンで、任天堂は、技術的には可能なのに電脳空間でのセックスに現実と同様の快感が得られない仕様は不当だと訴えられて裁判に負け『トモダチコレクション9』では神経直結回路のリミッターをはずし、電脳空間でヤオイ穴の存在を許容しアナルからも潤滑用分泌液が出るように仕様変更する。当然、ファンタジーなので望めば口からタマゴで四つ子を出産することもできるようになる。なんならクジラを産んだっていい。
 
 撃てる銃のデータは違法になりそうな雲行きだ。
 先ほども書いたが当然のことだ。やむをえまい。
 だが、だったら現実のアイドルをスキャンした全身データも違法にしなくてはならないだろう。神経直結されていないいまでさえ、それをウレタン樹脂で等身大プリントアウトできる3Dプリンタが普及すれば、充分に現実で離婚の原因になる事態が多発する。自家製つぼみダッチワイフが数千の法廷で同時入場し、被告人席と証拠物件置き場のどちらに案内すべきか係員は悩み、訴えた妻も彼女(の仮想の似姿)をきっ、と睨むべきかウレタン樹脂相手に泣くべきか、深く哲学的な難問に直面することは間違いないのだから。
 ゲイのカップルはいいとして、ゲーム内での近親婚だって詳細に規制しなければ、そこかしこで新聞にも載せられない複雑かつ猥褻な事案を大量発生させること確定だ……いいえ向こうでは息子は二十八歳の他人だったのよっ!

 「実体」を「与えられた」データは「実在」する。
 そういう季節がやってきているなあ、とSFファン的にワクワクする部分もある、そういうニュースを読みました。長生きしなくては。いや、100歳越えてもフル勃起できる仮想の自分に逢いたいからじゃなくて、その混沌の近未来に、人類がどういう落としどころを見つけるのか、興味ありますもの。本人が死んでも残っているブログ記事のように、電脳空間にスキャンされた私が未来永劫残っていて、その私は生きていた現実の私が残した前世紀のアイドルの生データと戯れている……うーん。それってもう、人類と呼べるだろうか。




Sheepangle

動物園で、ヒツジと目があった。
でっかいツノをお持ちなので紳士なのだろう。
紳士に見つめられると、どぎまぎする。
相手が高級そうなスーツを着ていたりするとなおのこと。
種族は違いますが、このヒツジ氏も威圧感をお持ち。
もこもこでつぶらな瞳ですが、なんたってツノが。
カウンターに並んで座ってギムレットでも手にして。
うちとけてきたら、訊いてみたい。

「重くないですか、それ」

ていうかツノって武器ではないのですか?
それがシッポに向かって生えて、地面に向かって丸まって。
争うべき敵とは逆へ逆へとのびておられますが。
横から平手打ち食らったときには防御できるかもですが。
そちらから突撃すれば、ツノの前に鼻がつぶれませんか。
……この疑問には、答えがあるという……

「あなたがどぎまぎした、それが意味なのです」

つまり、高級そうなスーツ。いや、ネクタイ。
実際的な意味なんて、ないのです。
スーツ着てネクタイ締めると仕事ができそうでしょう?
どんな仕事だって、ジャージのほうが動きやすい。
でも、ジャージの上下なやつからモノは買わない。
信用というものが生まれないのですね。なんでだか。
だから科学者やスポーツ選手までスーツを着る。
窮屈で、動きにくくて、洗濯だって面倒で。
でも、それだからこそ、逆説的な強さの証明なのです。

「きゃあ、あの御方あんな重いツノで生き延びている」

モテる。
本当に、そういうことらしい。
ダーウィン先生の進化論は、冗談みたいだ。
ヒツジはおとなしくて弱くて、弱肉強食の底辺。
底辺が底辺で惚れられるために、遺伝子全会一致で採決。

「肉食獣から逃げにくいカラダに進化しようぜ」

なんだその結論。おかしいだろ。
本当は足が速いヤツがメス総取りでいいんじゃないの。
逃げにくいツノを持っているけれど逃げ切ったら勝者って。
ゲーム性が高すぎる。
でも、大まじめなのです、進化論。
人間のおねえさんのおっぱいも、ケツだそうだ。
発情期に赤くなる尻が二足歩行になって見えにくいので。
あたし、いいケツしています、と首の下にぶらさげた。
そんなものなんだ。そんなものなのに。
いま、人間の紳士はなぜスーツにネクタイを着るのだろう。
見えやすく躯の前に持ってきた胸にブラつけるとかバカ?
本来、肉体が進化すべきところ。
ネクタイが勝ち組の象徴ならば、
首が絞まるように鎖骨が発達すべき。
見せるための乳房を邪魔だと押さえつけるのならば、
初潮を迎えたメスはわかりやすく鼻の頭が赤くなるべき。
ヒツジ氏の威風堂々たるたたずまいを見ていて。
その不必要きわまりない立派なツノを眺めていて。
進化って、こんなことができるのにさ。
戦うためのなにかとか、負荷とか、発色とか。
もっと簡単にパートナーとか仕事とか、見つかれば良くない?
不平ばっか言うけれど、進化しないってことは本気じゃない。
衣装でごまかすなんて進化じゃない。
人間は、もう、新しいゲームを考えるのをやめたみたいだ。
なんて思ったんだよ。
カッコイイぜヒツジ氏。弱いけど。

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 むかしは全人口の一割くらいはギョウ虫を飼っていて、眠っているあいだに括約筋がゆるむと這い出てきて、肛門のまわりに卵を産まれていた。かゆいので無意識に掻いた指先に卵がつき、それが他人と接触することでギョウ虫はヒトからヒトへ移る。こうしてあらためて書いてみると、すごい話だ。

 進化大会議の結果、寄生虫として進化することを選択した彼らの宇宙は、ヒツジのツノのねじ曲がった具合どころではない。

 たとえば人類文明が、進撃の超超超巨人みたいな異星人かなにかに占領されたとして、会議を開いて。

「生き残るためには、やつらの大腸で暮らすしかない。眠っているあいだにはやつらの肛門もゆるむだろうから、そのあいだに子供たちを別の巨人の腸に移そう」

 おー!
 これで生き残れるぞ人類ー!!

 なんて、なるわけがない。
 それしか生きる残る道がなかったとしたら、人類は全会一致で尊厳死を採択するであろう。
 ともあれ、来年で、ギョウ虫検査が廃止になるという。日本全国清潔になって、お腹に虫飼っている子なんていなくなったからだそうだ。詳しいデータを見ると、この十年、ほぼ検出率0というような数字で、だったらあのただのセロハンテープなのに医療器具会社が作るためにコストの高い肛門に貼って剥がすシールを毎年全国の小学生人数分発注していたその税金の無駄づかいにもうちょっと早く気付け、という感ですが。

 ま。十年大丈夫だったから、この先も大丈夫だろうという考えかたもあります。だから許すことにして。虫はもういない。人類は清潔種族に進化した。これ確定。一方。新たな人類の危機の予感に対する新検査が、ギョウ虫検査と入れ替わりで実施されるようになるのだそうだ。これが、すばらしく危機的であることに驚いた。

 「しゃがむ」

 ことができるか調べる。
 ということは、言わずもがな。しゃがめない小学生が増加しているのだと。ほほう。和式トイレだと座れなくて後ろに転ぶから、転ばないための握り棒が必要だとか。ん? しゃがめないって、いわゆるヤンキーさんたちのたしなみ、ウンコ座りもできないってこと? 膝そろえてならともかく、股を開いてもしゃがめないというのは……シコが踏めないからお相撲さんになれないし、M字開脚ができないからグラビアアイドルにもなれないじゃないか。グラドルはハイヒールを履けば、かかとつけられないのがごまかせるとか思ってんのか。内ももの筋肉に出るんだよ。どこのヤンマガのグラビアで太ももの筋肉が緊張したおねーちゃんが見たいものか。いやちょっとまて、そういうのはプロだし、一種のアスリート枠として解釈すれば未来もM字開脚は健在なのかもしれないけれど、一般女子男子は、もうぜんぜんダメなレベルになるって予測は現実味があるわけで……下世話な話ですが、単純に騎乗位がキツいってことですよね。ウンコ座りができないのに、だれかにまたがって腰を上下させるなんて、ぜったい無理でしょう。これ、男女とも足をひろげたらキツいって、なにげに四十八手の大部分が滅亡の危機なのでは。

 おかしいぞ進化。
 そんなに関節がかたくなったら生殖行為に影響が出る。だったらしゃがめなくなんてならないはずだ生物として。なにか見当外れな遺伝子全会一致が採決されているのか。ううん。でもあれだな、しゃがめなくなるというのは遺伝子の問題か? 後天的な要因か。洋式トイレの普及のせい? え、でもだって、M字開脚の本場って無修正ポルノの本場アメリカンプレイメイトなんだが。それとも洋式トイレ100パーセントの国々では素人さんたちは騎乗位をこころみないのか? 言われてみれば洋物アダルトビデオでの騎乗位って、膝をついているのが多いような。

 唐突に思い出しました。ももいろクローバーZが『ももクロ式見学ガイド もも見!!』で、池谷幸雄体操教室を訪れて、まず、しゃがまされていた。

momoken

 全員、両のくるぶしと膝をぴったりつけて、かかとを地面につけて自分の膝を抱いて、池谷先生に後ろに押されたってびくともしない。池谷先生、苦笑。なるほど、あの苦笑ってそういう意味だったんだ。近ごろのふらっと体操教室にやってきた子たちを、まずしゃがませると、できないし、できても重心が落とし切れていないから、後ろに押してやると、ごろんと転がる。そこでママにひとこと。

 使わないから足首がかたくなるんです。当教室に通えば、すぐにしゃがめるようになれますよ。

 その場で初めて、我が子がしゃがむことができないのだと気づく親御さんも多いのだろう。体操どころの話ではなく、M字開脚騎乗位腰グラインドができない大人になってしまう。それは大変。池谷先生にお月謝払わなくちゃ。

 そういうお決まりのパターンがあるに違いない。なのに、ももクロは五人揃ってきれいにしゃがめてしまった。話が続かない。苦笑、と。でも、逆説的に池谷先生のご高説を裏付けているとも受け止められます。ダンスレッスンをちゃんと受けているアイドルは、ちゃんとしゃがめる。やっぱりそれって後天的なものなのです。遺伝子と関係ない。進化とか退化とかではなく……言うなれば、怠惰、の結果。

 先日の『きらきらアフロTM』で松嶋尚美さんがおっしゃっていたことなので信憑性はあれですが、むかし、着物姿で生活していたこの国の女性たちって下着を穿いていなかった。だったら経血はどうなっていたの? という疑問に「溜めといてトイレ行ったときにいっしょに出しててんて」って。重ね重ね信憑性はあれですけれども。そういうことって、あるかもと思う。

 もちろん、一日中、気を張っているわけにはいかないから、そういう技ができた時代の女性たちは、それに必要な筋肉が鍛えられ、無意識であっても筋肉を緊張させることができていたのだろう。と書くと、しんどそうだけれど。言ってみれば、姿勢の悪いひとが背筋を伸ばすのはしんどいが、姿勢の良いひとは良い姿勢をなんの苦もなく一日通して保っているという、そういうような話。

 それでまたさらにまったりと思い出しましたが。最近、薬屋業界で話題になっているトレーニングがあって、それを開発した先生が言うに「どんな痔も一ヶ月で完治する」とか。詳しく教わってみれば、なんのことはない、肛門を締めるように緊張させる運動を繰り返す、というだけ。そんなもので、年々売上げが上がっていくことが確約されている現代病「痔」が撲滅されたら、うちら商売あがったりだわ、と言っていたのですけれど……

 当たり前にあるべき筋肉さえ、わざわざ鍛えなくてはつかないほど、現代人は忙しい忙しいと言いつつも肉体活動的には怠惰になっているという証左なのかもしれんぞ、と考えたりもします。

 現代人は肛門がゆるくなっている。だから痔になる。締まるように鍛えれば治る。むかしのひとは立ったりしゃがんだりが日常にあって、下半身の筋肉が総じて強かったために、痔にならなかった。いまでは子供だってかかとをつけてしゃがめない。大人になっても経血を溜めておくことができないから綿をあてがう。布団から起き上がれないのでベッドを買う。『めぞん一刻』が海外で放映されて、あれはなんなんだと指さされた日本の象徴コタツだって最近は椅子式が売れる。寝っ転がるよりも、寝っ転がったあとで起き上がるのが大変。全身の関節がかたい。足首どころか膝さえ曲がらなくなる。いよいよしゃがめない。しゃがまないなら下半身はもっとゆるむ。肛門がゆるむと、腸が裏返って飛び出して血が出る。

 きっと人類は、全員、痔になって滅ぶ。
 血まみれで。壮絶に。

 ええ、そんなことになるまえに、ギョウ虫なんかよりも、彼ら彼女らが、ももクロ姐さんたちのように、膝とかかとをつけてしゃがめるか調べたほうがいい。税金を使うことも許しましょう。ついでに男も女も締まりのよい下半身に育てるべく、体育で教えるべし。下半身が引き締まっていると見栄えがよいから、とか、M字開脚ができないから、などと説明する必要はない。増え続ける痔患者数のグラフを見せて、腸が肛門から漏れるほどゆるいなんて、単純に生物として弱いのだと説けばいい。昨今の少子高齢化からするに、ほとんどの子供が、足腰が弱いから寝たきりになって、そのまま帰らぬひととなった親近者がいるはず。おばあちゃんの家に行ったらイチジク浣腸が置いてあるのはなぜだろうと疑問にも思っているはず。自分で自分の排泄物を腸から押し出せない低筋肉な大人になりたくなんてないよねと問えば、ああはなりたくない実例を思い浮かべ、急いでスクワットにはげまなくちゃと思うはず。

 ヒツジの話に戻る。
 進化はゲームだ。
 ツノが大きいとモテる。
 かわりに逃げ足が遅いし、視野も狭いので事故にだって遭う。

 その種にとって魅力的なヤりたい外見を、だれだって欲しいと望む。
 だったら、進化はいますぐ、ヒツジのツノを全員もれなくバカでかくするべきだし、人類総美男美女にならなければおかしい。でもそうならないのは、太古の昔から、その真実があるから。

 死にそうなヤツがモテる。
 死にそうな外見なのに生きているから、そこになんらかの特別ななにかがあるはずだという、それが進化論のあまりにもアホな真実なのである。現実には、モテたくて拒食症になって死にそうなほど痩せた女がモテるということもあるにはあるが、その女が死にそうに痩せているけれど死んでいないのは、かわりの特別な特殊能力があるからかと言えば、近ごろではそうともかぎらず、単に現代の人類全般が清潔で、地球自体が人類至上主義で生きやすい星になってきたからにすぎなかったりする。

 そう書いてみて、あれ、だったら、と気づく。
 ヒトが服を着るのは進化じゃない、ネクタイが肌から生えるべきだと最初に言いきってしまったが、実のところ現実には、服を着たほうが間違いなくモテる。裸で街を歩けば逮捕さえされかねない。そんなのぜんぜん魅力的ではない。ということは多くの人類が、服を着たほうが生物的に「弱い」と認識しているということになる。あんなにひらひらした窮屈なお洋服を着て、それでもこの現代社会で生きていけるなんて、いやん素敵。

 ももクロはおへそを出さない。水着にもならない。でも現代のアイドル戦国時代を生き抜いている。すると、露出の少ない彼女たちのステージ衣装こそ、逆説的な強さの象徴と認識される。彼女たちが売れれば売れるほど、その姿に憧れた現実の女子たちも、黒髪でジャージ姿がかっこいいのかも可愛いのかもと思いはじめ、男子もそれに萌えはじめたりする。

 もしかして、しゃがめないのは次代の求める強さなのではないか。

 M字開脚できないし、痔になるし、寝たきりになるし、およそ人類にとって良い影響があるとは思えないのだから、和式トイレが減っても、ダイニングチェアで食事を摂るようになっても、子供がしゃがめなくなるなんておかしい。すべての進化、生物の変化は、モテるために生きにくくなるか、生きやすい妥協を選ぶかの、二択しかないはずなのだから。

 首が絞まるほど窮屈で肌をまったく見せない服を着て、肉体労働はできず踊ることも戦うこともできない……それって、つまり、前世代の貴族そのもの。マリーアントワネットは立ったまま排泄した。あんなごってごてのフリルだらけの厚い服を着ていては洋式便座にだって座れないから、鉄枠で支えられた強固なバルーンスカートの中で、壺に用を足していた。彼女はしゃがめなかったに違いない。しゃがむことさえできないドレスを着ることが「弱さ」=「強さ」のあかしだった。用を足したあと、もちろん自分で拭くこともできない。侍女がスカートの中へ潜り込む。文字通り、他人に汚れたケツを拭かせて平気どころか、それこそがステータス。

 無意識で、現代の子供たちも……ううん、もしかしたら、親世代が。いままた、そういうのを「強さ」だと認識しはじめているからこそ、ギョウ虫のいなくなった清潔な世界で、次代の子供たちは全員しゃがめないという「弱さ」を身につけつつあるのかもしれない。

 大人になってもロリータ。
 37歳でAKB。



 お姫さま、王子さま。
 それがモテる。
 しゃがめないので、自分で床に落としたスプーンを拾えない。でも生きていけるくらいに、便利で快適な世界に暮らしている、このラクラク世界の住人であることを過剰にアピールすること、それそのものが強さ。 

 しゃがめないことを問題にしているのは、死にかけたひとたち。

 しゃがめなくて、跳び箱に手をついただけで手首が折れるという、いま育ちつつある世代が大人になって政治をつかさどるようになったなら、もちろん、自分たちがしゃがめないのに、そんなことを問題に思うわけがない。さらに次の世代では四十肩が十五肩くらいになって「中学生にもなったからもう腕が上がらへんわ」なんて会話が日常茶飯事になるはず。

 お姫さま、王子さま、のまんまで老いて逝けるなんて、しあわせですね。それでも寿命は延び続ける。介護している側のスタッフとか、ネット通販の配達をしてくれるひとたちは、屈強な外国人に置きかわって、至れり尽くせり。

 いや、マジで。
 しゃがめないとか。
 それどうにかしましょうとか、言っているのってもうすでにヒツジのツノがあさってな方向にのびてとぐろを巻いているのがモテる、という進化と同じくらいに、滑稽な選択をしてしまったあとのまつりに思えるのです。

 萌えの国、ニッポン。
 独りでは生きていけない心も体も幼いままの、やさしい国民だらけになって、みんな仲よく寝たきりで長生きすればいい。まさに神秘の国。さとりの境地。スプーンも自分で拾えないウォシュレットと浣腸薬がないと排泄もできない大人たちしかいなくなった、三秒で占領できそうな国を、野蛮などこかの外国のトチ狂った独裁者あたりが狙わなければいいな、とはお祈りしておきましょう。

maison

 まったくの蛇足ですが『めぞん一刻』のアニメ化は、結果的に後半の展開を全年齢向けに改変したために世界中へと輸出できました。が、四十八手のなんたるかを知る大人なら、原作を読んでおくべきです。まったく興味がないならともかく、アニメしか観たことがないというかたは、いまさらだれかに勧められることもないでしょうから、私が勧めます。アニメでも最後に赤ん坊は生まれているのですけれど……そこまでの経緯を端折ってしまったのは、恋愛ものとして致命的。濡れ場のないBL小説のようなもの。良い話だとしても、それではねえ。いや、悪いこと言わないですから、読んだことがないならば、一読を。

 ところで椅子式のハイタイプコタツが主流になれば、コタツのなかで足が当たってどぎまぎ、なんていうラブコメのお約束もすたれていくのでしょうか。あれはいいものです。脚をのばしてぺたんと座れる柔軟性、膝を抱えてしゃがんでうずくまるせつないポーズは、未来でもある一定の層には有効なはず。だから、ある一定の層にモテたいならばやっぱりしておいたほうがいいです、柔軟体操。うずくまって泣きたいときに体がかたくてつま先立ちになってしまうのが基本姿勢だなんて、未来のテレビドラマは旧世代の目から見れば滑稽な画が多くなりそうだ。

 某局で『スター・トレック』一気放送みたいな企画をやっていて、映画版も立て続けに放送されているのですが。私、そこそこトレッキー(スター・トレック信者のこと)なので、どれもなんども観ているし、いろいろ忙しいので、テレビの前にかじりついているわけにはいかない。でも、せっかく特集とかやっているのだから、そのお祭りに参加する気分だけでも味わいたくて、一本選ぶことにした。

 よくビートルズ好きなひとが、近ごろの

「ビートルズ? なにそれ」

 という世代に向かって、

「いいよな、おまえらはまだ聴いたことのないビートルズの曲があるんだもんな」

 というようなことを言っていたり。禅における謎かけみたいなことになっていますが、実際にはやっぱり、すべての曲をなんども聴いた世代のほうが、堪能はできているという当たり前の事実がそこにはあるのです。

 ずらっと番組表に並んだ『スター・トレック』。
 そうね、ちょっとひさしぶりにこれ観てみようか……
 そういう選択ができるのが、すべてを知っている者の強み。
 選んだのは、自分でもなんでだろうと思うのですが。

 『スター・トレックV 新たなる未知へ』

 映画化第五作。
 一、二作目は、ドラマが当たりに当たっての映画化ですから、それはそれ。続いての三、四作目は、初代シリーズの看板キャラ、ミスタースポックを演じるレナード・ニモイが監督となった、伝説的な二作。

 で、五作目。
 初代シリーズの船長役、ウィリアム・シャトナー初監督作品。
 私はまだこの作品の公開当時にはトレッキーではないお子様だったので、当時の空気感まではわかりませんが、部下のスポック役俳優が前作で興行成績を塗り替える大ヒットを飛ばしたことで、みんなの夢見る度合いが高くなりすぎてしまったのかも、という想像はできます。後世のトレッキー視点から見ると首を傾げる成り行きなものの、当時のハマっちゃった人々にすれば、確かに役柄上はスポックも太刀打ちできないカーク船長なわけで。船長が撮れば部下の撮った傑作よりも、もっと傑作になるに違いないと思い込んでもおかしくはなく……

 でももちろん、そんなのは錯覚。船長のなかのひとは、監督経験なしの役者さん。信者まで生まれはじめたSF超大作の続編、撮らせちゃだめじゃないですか。でも、やっちゃった。時代の流れっておそろしい。

 詳しくはWikiでも読んでいただくとあれですけれども。そうして『スター・トレック』映画化第五作は、かの悪名高いゴールデンラズベリー賞の最低作品賞・最低監督賞・最低主演男優賞を獲得。見事な三冠を達成するという逆方向の伝説を残す作品に仕上がったのでした。

 でも、ですよ。
 私のような、新シリーズから『スター・トレック』に入って、さかのぼって初代シリーズを観たというトレッキーの場合、特撮の陳腐さとか、脚本の強引さとかご都合主義とか、そういったものはむしろ古い時代の作品なのだから当たり前にあるものとして観るのです。そうすると、ドラマも映画も、ガチガチのSF超大作的な回は、むしろ新世代と見比べて古くささを感じやすくなってしまう。
 そこで、これです。
 『スター・トレックV 新たなる未知へ』。

 中期の『ゴジラ』の雰囲気がある。シリーズを重ねてちょっとネタも尽きてきて、行きすぎてしまったテンコ盛りの脚本に、客が入るのがわかっているからこそ削られた特撮予算によって、ハリボテの戦車、あとから描いたのまるわかりなレーザー光線。そういう古き良き無邪気さあふるるSFというよりは、おとぎ話的なそれ。

 あらすじをざっと書くと……

「テロリストに宇宙船を奪われていっしょに神に逢いに行く」

 本当に、ストーリーこれだけですから。それで劇場公開できる映画に仕上がっているということは、つまりテンコ盛り。どうでもいいネタを重ねに重ねて、脚本の分厚さを出している。けれどどうしたって、最終的に神が出てきますからねえ。神。神がそこにいるという住所情報をまず持っているのがどうなんだというところも曖昧なまま、行ってみたら実際に逢えてしまって、でもそれは神とは似て非なる存在で、やっつけちゃう。あ、ネタバレ書いてしまいました。でもこれすでに古典。許してください。バレるとかバレないとかいうものでもない。ぶっちゃけ全体通して物語はどうでもいい。なんだかんだあった。そして収束した。
 
 生還したカーク船長が言うのです。
 部下に、神は本当にいるのだろうか、と問われて。

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あそこにはいなかったが
ここにいるかもな
心のなかに

STARTREK

映画『スター・トレックV 新たなる未知へ』

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 こんなセリフでめでたしめでたしで、観客がスタンディングオベーションすると思うほうが、どうかしている。どうかしているのです、実際に。ひどいものです。

 でもですよ、中期の『ゴジラ』もそうですけれど、ロボットが意識を持ってしまって勝手に巨大化するとか、そういうおとぎ話的な回って、後世のマニアからすると、たまらんものがある。『スター・トレックV 新たなる未知へ』も、そう。

 当たり前といえば当たり前、カーク船長自身が撮っているカーク船長が、実にカーク船長らしい。二十一世紀のスタイリッシュな映画『スター・トレック』では、正直、俳優が変更されたとしても成り立ちます。でも、第五作だけはダメ。

「ああ、カーク船長だなあ……
 スター・トレックらしいむちゃな話だなあ」

 苦笑いしながらも、幸せな気分になる。
 新世紀のトレッキーにとって、その当時の興行成績なんてどうだっていいんだし。いまではビデオ発売さえ危ういだろうという内容を、スター・トレックの看板あってこそ撮りきっている、珠玉の一品とも呼べます。
 まったり愛でて、スター・トレックのある世界に生まれたことを感謝できる。

 この感情は、好き、でしょうか。
 愛している、のほうが的確なのか。

 だれもが知っている有名な学説として「恋の吊り橋理論」というものがある。あれ、実際の実験では、まったく知らない女性に対する好感度を調べる手法になっているのをご存じでしょうか。よく誤解されている、すでに知りあいのふたりで吊り橋を渡れば恋人になれるかも、というのではないのです(というか、ふたりでいまにも落ちそうな、ぐらぐら揺れる吊り橋を渡るデートに出かけられるなら、すでにそのふたりはいい感じなので実験になりません。ふたりができあがったのはそのデートに誘ったこと自体が原因なのに決まっています)。

 路上で無差別に電話番号を配る。
 吊り橋の上で配る。
 かかってきた電話はどっちが多かったか。
 そういう実験。

 確実に、吊り橋の上で配られた電話番号には魔力が宿る。
 いや、その表現には語弊があるやもしれません。
 実際には、魔力が宿ったのは電話番号を配った女性のほうではなく、揺らされた男性の側です。

 つまり「恋の吊り橋理論」は、「どうやったらだれかに恋ができるのだろう」という悩みを抱えている、あなたのための理論。実証されて結果もともなっているのだから、恋がしたければ、試してみればいい。

 心臓がばっくんばっくんいう状態に自分を持っていくと、恋ができる。

 「恋の吊り橋理論」では女性ですが、その理屈でいうと、私がトレッキーなのも、そういうプロセスをたどったのだと推察できます。最初に『スター・トレック』を観たのが、いつだったのか、どの回だったのか、まったく記憶にはないのですが、スペースアドベンチャーですから。たいていの回で、クルーはピンチに陥り、でも知恵と勇気で事態を解決してエンタープライズ号に戻ってくる。ワクワクドキドキです。吊り橋です。テレビ画面の『スター・トレック』に胸を高鳴らせているとき、アンケートを求めてくる女性はいませんので、私は凝視している画面に映っていたエンタープライズ号に恋をしたのです。

 逆に言えば、『スター・トレック』の神回を観ている私を、恋に落とすのは簡単だということでもあると気づきます。観終わって私がドキドキしているうちに「あたしを見て」ってされたら、恋の魔法は発動してしまうでしょう。

 この理屈でいくと、遊園地の絶叫マシンやお化け屋敷、スポーツ観戦、音楽ライブなど、なんでもいい。脈拍が上がればそれでいい。いいのですが、大事なのが、そこ。

 ドキドキしているうちに「あたしを見て」。
 これ必要。
 あーおもしろかったなあ、と会場を出てしまっては遅い。ジェットコースターが頂点を越える瞬間に「あたしを見て」。あの角からゾンビが駆け出てきそうだよなあ、というところで「あたしを見て」。アイドルの煽りに観客全員がこぶしを振り上げたそのときに「あたしを見て」。ジェフ・ハーディが、四メートルのハシゴの上からダイビングボディプレスを放った瞬間に「あたしを見て」。

 むずかしいですね。遊園地はともかく、野球場でホームランの瞬間に「あたしを見て」とやってしまうことで「恋の吊り橋理論」を相殺する彼の機嫌の悪さを生み出してしまうおそれも否定できません。クラブで夜通し踊っていても、だれとも視線を絡めないんじゃ、なにも生まれないのは道理です。

 ふと思ったのですが。アンディ・ウォーホルのファクトリー。

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『Andy Warhol Presents: FLESH』のこと。

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 いわゆる、アートとドラッグとセックスが渾然一体となった共同生活の場で、だれもが毎日のように新しい相手に「恋」していた。ああいう状況が、ひとをもっとも簡単に恋に落とす方法かもしれません。場の雰囲気そのものが興奮のタネで、だれかと見つめあっては、意味もなく心臓が高鳴って、ケラケラ笑う。そんな場所で生まれる想いなんて、恋ではない? ああでも、この国でもそうじゃないですか。どうやったら異性に(ひとによっては同性に)恋されるかを切磋琢磨してそれでも実らないひとたちが多いいっぽう、コンビニの前でたむろって意味もなくケラケラ笑うヤンキーさんたちは結婚が早くて子だくさんだったりするものです。毎日が吊り橋。殴りあって友情が芽生えるというのも、あながち嘘ではなく、それも恋。濃い友情と恋の境目なんて、ない。メンチ切りまくりのヤンキーさんたちとはいえ、だれかと睨みあうときにドキドキしないわけがなく、となると日々、みずから恋心を量産しているようなものではありませんか。

 一般人は、目と目をあわせて睨みあって心臓が口から飛び出るかも、なんていう体験はまあないです。そういえば、けんかっ早いひとは恋にも落ちやすいということもあるかも、と知りあいの顔を思い浮かべてみます。激昂しやすいということは、セルフ吊り橋効果を随時発動できるということなのか。

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 誰かを、あるいは何かを熱烈に好きになる時には、脳の中では何が起きているのでしょうか? 「欲しくなる脳の神経ネットワーク」「好きになる脳の神経ネットワーク」そして「幸せや喜びを生む神経ネットワーク」の全てが、同期して激烈に活動しているのだと考えられます。恋愛の始まりとは、まさに脳が「沸騰している」状態であると言えるのです。

STARTREK

竹内龍人『なぜ、それを好きになるのか?脳をその気にさせる錯覚の心理学』

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 この話、要するに、こう言っています。

 「欲しい」は「好き」とは別物。

 鮮明におぼえている幼い日の出来事があります。母に連れられて、ちょっと距離のある、大きなデパートへ行ったときのこと。デパートの前で、スイカの試食販売がおこなわれていたのでした。かっちょええおっちゃんが、その場ですぱんすぱんでっかい包丁ででっかいスイカを切って、ほら坊主嬢ちゃん食いねえ食いねえと道行く子供を釣っている。そりゃみんなもらいます。ただ、場所が悪かった。母と私はデパートから出てきたところで、母は私よりもさらに幼い弟を抱き、両手に荷物まで持っていた。めっちゃおぼえているのですが、そのときの私はまだ、母の荷物をかわりに持ってあげられるほど成長してはいなくて、そんな自分がここであのスイカを欲しがるのは母を困らせるだけだということもよくわかってはいたのですが、でも欲しかった。ダダこねました。しかし、夏の暑い日、デパートの前は人混み。私はまだ、ひとりで行ってもらってきなさい、という歳でもない。母は学生結婚でした。小さくて細いひとです。当時、二十歳そこらです。母が泣きそうな顔をしたのも、すごくおぼえている。それでも、それでもひときれのスイカが欲しかった。それもまた、強烈におぼえている。

 けっきょく、試食はできませんでした。

 その翌日だったか、数日後だったか。母が、近所のスーパーでスイカを買ってきてくれました。学生結婚で立て続けに二人産めば、生活は苦しい。そのうえ彼女は広島の農家の娘なので、スイカをお金を出して買ってくるというのが非日常。実家の畑には鈴生りなのです。生まれたときから天然のおやつだった。

 高かったのよ、と恩着せがましく言われて、それを出された。スーパーで買ってきた、四つ切りで肉よりも高い果物。そこから記憶があいまいなのですが……たぶん、私は、自分で自分の記憶を抹消しています。ものすごく母に泣かれたか、怒られたか、そういうことがあったのでしょう。だって、いまでもそうなのですけれど、私、間違いなくその当時からスイカを好きではないのです。炎天下で、人混みで、かっけえおっちゃんがでっかい包丁で切った、あのひときれが。

「欲しい」

 それだけでした。母が買ってきてくれた近所のスーパーの高いスイカは、私にとって、すっげえつまらない、どうでもいい果物だった。私は、スイカに恋をしたわけではなく、おっちゃんとか、人混みとか、包丁やなんかのギミックを含めて、そこに提示された「試食用の薄く切ったスイカ」が欲しくて。そのうえ子供なので、その想いを満たすために愛する母に哀しい顔をさせても平気だったのです。母のほうは、そんなにもあなたがあれを愛するのなら、ということで買ってきてくれたのでしょうけれど、ぜんぜんそういうのとは違う。

 好きな子のリコーダーが舐めたい、は「好き」です。
 でも、ときおり現実に逮捕されたりしますが、自宅に盗んだ女性の下着を数千枚溜めこんでいた、などという変態の場合、それを「好き」と言ってしまうのは問題ありです。上の区分で言えば、それは「欲しい」であって、しかも欲しいのはその小さな布のほうであって、中身ではない。

 極端な変態の例で書いていますが、実際の恋愛でも、そういうことはよく起こります。ぐっとくる男性の仕草とか、そういうアンケートも見かけるように、女性の胸やおしりは大きいほうが好みなのそれとも小さいのが? みたいなのもそう。

 仕草とか、パーツとか、そういうのが「好き」というのは、かなり危うい。

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 録画してあった『恋物語/ひたぎエンド』を、さっき観終わったのですが。あれもそういうお話でした。千石撫子なる可愛らしいJCが、叶わない恋なら叶わないままみんなぶっ殺す、と叫ぶ物騒な神さまになってしまうというスター・トレック映画もおののく安っぽい神あらわるの物語だったのですけれども。

 世界なんて終わってしまえ、みんな死んじゃえ、あたしもいなくなれ、なんていうのは行きすぎた恋の末路として現実にもよくあるにもかかわらず、当たり前ですけれど、その根幹は「恋」だという。撫子ちゃんの場合も、なんにも叶っていない片想いがこじれて暴走している。さらにつきつめてさかのぼると、どうして好きになったかといえば、友だちのお兄ちゃんで、やさしかったから。

 仕草とか、パーツとかよりも、もっと不安定です。
 でもこの「やさしさ」が好きになった理由というひとは、多い。でもねえ。ちょっと考えてみなさいよってば。幼い妹の友だちが遊びに来ていて、その子にきびしく当たる兄なんてまず存在しないでしょう。ということは、ほとんどのお兄ちゃんにとって「やさしさ」は標準装備。もっと言ってしまえば、世の中のほとんどのひとが、赤の他人に対しては「やさしさ」を見せるものでしょう。だったらそんな理由は、後付けです。それが理由で好きになるとか、自分でもそんなつもりになっているだけです。

 だから、話はもとに戻りますが、あなたが「好きということ」をよくわからないたぐいのひとだとするならば、そういう物語とか、他人とかの話を真に受けて「やさしさ」をさがしたって無駄だということです。それはありふれたもので、後付けの理由なのです。本当は、ドキドキしたのが理由。

 撫子ちゃんは友だちと遊んでいた。
 そこに歳の離れた大きなお兄ちゃんが現れた。
 それだけで撫子ちゃんはドキドキします。
 子供にとって大人とはそういうものです。
 撫子ちゃんは、思わず凝視します。

 ここで、お兄ちゃんがアブノーマルなことにスイカを抱えていたり、でっかい包丁を握っていたりすると、また別の感情がはたらく可能性が高いので、お兄ちゃんはごくノーマルに、ふつうの格好で、ふつうの言動をとるとよい。あ、いらっしゃい、なんて言いながら笑顔。

 それで撫子ちゃんの「欲しい」スイッチが入ります。
 やさしい笑顔のお兄ちゃん、そのひとが欲しい。
 脳が沸騰してしまいます。

 しばらく経つと、その経験は麻薬として機能する。
 あの脳の沸騰が欲しくて、だから「恋」をしなくてはならなくなる。「恋の吊り橋理論」。本当は、あのドキドキは、子供が大人に出逢ったときのものなので、また別の知らない大人と接触するのがドキドキの再現としては有効なのですが、ひとは「お兄ちゃん」が欲しいのだと誤解する。甘美ですものね、その想像は。いつでも自分をドキドキさせられる「好き」なひとを「欲しい」とつけ狙い、もしも手に入れれば「幸せや喜びを生む神経ネットワーク」が大開放状態。欲しかったあのひとといっしょに暮らしはじめたりすれば、好きも幸せも味わいたい放題。麻薬に溺れたい放題。パラダイス。

 で、根本が誤解なので、醒めるひとも続出するわけで。
 撫子ちゃんも、説得されて神をやめます。
 醒めてみれば、たかが「好き」。

 そんなものです。
 だから『スター・トレックV 新たなる未知へ』。
 私は私の脳にドキドキをふたたび与えたくてスター・トレックを欲し、摂取するのですけれど、それはまぎれもなく好きということなのですけれど。
 最終的に目的は「しあわせとよろこび」なのです。
 激しい行為とか、もういまさら。
 いや、枯れたわけではなく、それはそれとして。

「ねえ、あたし、こうしているときが、とってもしあわせ」

 『スター・トレックV 新たなる未知へ』。別になんでもない、ソファに寝そべって晴れた空をいっしょに見ているとか、そういう時間。テレビシリーズでもよくあった、やりすぎてしまってよくわからんことになったのを、みんなに愛されているキャラクターの個性で乗り切ってしまおうとするスター・トレック感。神さま出てきた。知ってるけど。こいつビームで倒されるんだぜ。カーク船長がご機嫌でキャンプソングを歌っている。その、しあわせ。

 時間が解決する、という言葉があります。
 「好き」が、そもそも脳の誤解だという問題も、それが解決する。
 ひとはそこに立ちあらわれる感情を「愛」だなんて呼んだりしますが。
 継続はいやおうなく「しあわせとよろこび」の比率を上げていきます。三位一体。「好き」は自分本位な脳内麻薬のためのご褒美だし、「欲しい」に傾くと相手に嫌われようがなんともないのでストーカーになるのも平気。それらだけでは継続がままならない。逆に、続きさえすれば、どんな形でもバランスはとれてくる。運よく欲しい相手を手に入れたなら、嫌いにならない努力さえしていれば「しあわせとよろこび」は摂取し放題ですし、片想いでいいいやと決めるなら、二次元だって三次元だって「好き」を手に入れたい放題。本来、そういうカタチで落ちつくはず。

 相手は、包丁を持っていないとか、そういうのでいい。
 撫子ちゃんの恋のはじまりは、突然あらわれたひとを凝視することからはじまっている。ヤンキーさんたちにカップル率が高いのは、ドキドキの毎日と、メンチ切りの文化に寄るところが大きい。

 そしてそれらは、逆もまた真実。

 うん? この子、おれのことじっと見て……どきどき。
 ああ? こいつ、女のクセにおれにケンカうってんのか……どきどき。

 恋がはじまってしまえば続ける努力をするべきで、恋のはじまりたる好きを探しているのならば、まずは自身の心臓が胸骨を破って飛び出るほどドキドキするシチュエーションを構築するべき。なおかつ、その状態で相手を凝視することが必要ですから……

 顔の見える明るめ照明なクラブか、スポーツジムか、自転車で息切らしながら街を散策するか、しかしどれも不特定多数の顔を凝視するというのがネックですね。そういうときは。パーツです。好きになるのはなんだっていいのです。「やさしさ」なんて後付けの理由でさえかまわない。

 テレビゲームはどうですか。
 このふたり、ゲーム『Halo』で出逢い、五年間ネットだけで交際を続け、この日、空港のロビーで初めて現実に抱きあったのです。



 私、スター・トレックと同じくらい『Halo』好きでもあるのですが、このゲーム、彼ら彼女らの他にも、たびたびカップルを生み出し結婚の報告などもある(上の動画のふたりも、このあと結婚されました)。きゃっほー、なんて叫ぶほど脈拍あげて遊んでいますので、他人のちょっとしたやさしさに過敏になる。

 顔? だから関係ないんですってば。重ね重ね、小振りな胸とか、きれいな爪とか、振り返る仕草とか、笑顔とか、やさしさ? ヒトって、そういう理由だけでヒトを好きになれるもの。ここが理解できないあなたは、さては恋をしたことがありませんね? ネトゲでもいいのです。他人とわーきゃーやることです。見た目はアヴァターでいい。いや、アヴァターだからこそ、凝視もできる。

 まとめ。
 好きということは錯覚。
 でもその錯覚からすべてがはじまる。
 好きが欲しいなら、脈拍上がる祭りの場に出かけ、他人の目を見る。じっとしていても心拍は上がらない!! スター・トレックを好きになるためには、ドキドキを探してテレビをつけ、チャンネルを合わせなくてはならないのです。なにもかもそういうこと。

 はい『Halo』。
 でも手を出さないんですよね、あなたは。

Halo

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『Halo3ベータテストと仮想うつつ』の話。

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 動画のカップルがプレイしていたのは五年前なので『Halo3』。現行ナンバリングは『4』。XboxOneに向けて『5』も動きはじめています。

Halo

 いやまあ、私がゲーム好きなので、こういうところに落ちていますけれど。実際「好き」と「欲しい」は別ものだから、欲しいだれかやなにかを探すのではなくて、好きに「なれそう」な程度のことものに対し、自分の心拍を上げる努力をするほうが有益だと考えます。好きになったあとの結果なんていうのは、また別の話。ぶっちゃけ、日本で『Halo』の遊べるXboxというハードはさっぱり売れていませんが、私はドキドキしたのです、これ行ってみちゃおっかなあって初代Xboxを買った。そこで出遭った『Halo』は、間違いなく私を変えました。いまも好き。出遭わなければ出遭わない。当たり前。自分がなにを好きになるのかは、流行り廃りとあんまり関係ない。これも重要。

(はい矛盾。売れているゲームをプレイすれば、多くのひとに出逢えます。GTA5という大ヒット作をプレイしているのですが、日本隔離サーバでして。PS4版とXbox360版のあいだにも壁がある。いやあ、こういう場合は、売れているハードでプレイするべきなのかなあ、とは思いますね。プレイ人口が少ないために、同じひとにたびたび仮想の街で出逢うので、親密感は増しますけれども。もの悲しさを共有するだけで、恋は生まれそうにないわ)