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 膀胱の圧力で、いつものように朝立ちをしていたために、もっとべつのアイディアも浮かんできた。ピーターは、午前二時か三時にむらむらして目を覚まし、キャシーも起きているのだろうかと思いめぐらすことがよくあった。もしもキャシーが起きているなら、ふたりで愛をかわせるかもしれないのだが、そのためにわざわざ彼女を起こす気にはなれなかった。しかし、モニターがどちらも白色になっているならば、まあ、その、ホブスン・ベイビーモニターから発展した装置が、たくさんの赤ん坊の誕生に貢献することになるかもしれない……

TTE

 ロバート・J・ソウヤー
 『ターミナル・エクスペリメント』

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 初めての子を産んで三日で亡くした。
 夫妻は赤ん坊の泣き声をワイヤレスで聴くベイビーモニターを使っていたが、彼らの子は静かに逝ってしまった。そのために彼女は、一年後に次の子を出産したあと、片時も我が子のそばを離れることができなくなってしまった。

 ホブスンは、そんな友人夫妻のために、赤ん坊の脳の電気信号を読みとるモニター装置を開発する。その機械は発展し、ひとが起きているか起きていないかを判別して自動的に電話のベルを止めたりするようになり……

 ホブスン・モニターは、やがて、ひとの死を観測するに至る。

 そこで驚くべきことが判明した。
 微弱な電気信号が、ひとが死を迎えるにあたり、体内を移動して、最終的には肉体の頭頂部にあたる位置から、外界へと抜け出していく。

 「魂」の発見である。

 発見したからには、解明される。
 魂が肉体の死後も生き延びてそこから離れるならば、いつ宿るのかも解明され、胎児はいつからひとになるのかの議論に終止符を打つ。雄牛に魂はないことが判明したのである。

 魂とは「ものを考える」生き物にしか宿らない。

 『ターミナル・エクスペリメント』では、その後、肉体器官である脳を持たない魂だけの存在を作り出す。解明され、擬似的にシミュレートされた魂。すなわち「死後の生」を生きる魂は、なにを語り、どう行動するのか。

 世界的に売れた臨死体験を扱った書籍が、ついこのあいだ邦訳された。どこの本屋でも平積みになっているのを見かけるので、本邦での売上げも好調なようだ。

PoH

 『プルーフ・オブ・ヘヴン』の作者、エベン・アレグザンダー医師が、インタヴューで答えていたのを聞いて、私はSFサスペンス・ホラーの傑作でもある『ターミナル・エクスペリメント』を連想したのだった。

 エベン・アレグザンダーは幼いころに養子に出されていたため、実の親兄弟との面識がない。だが、死後の世界で、逢ったこともない実の妹に遭遇し、彼女の導きによって生の世界へともどってくるのである。もちろん、臨死体験中の彼は、出逢った女性が逢ったことのない妹だとは判別できず、ただ「美しいひと」としてその姿形や、語られた言葉を「記憶」していた。だがのちに、彼は、実の両親と現実に面会することになり、自身が死にかけていたそのとき、すでに若くして死んでいた妹のいたことを知る。彼は、彼女の写真を見て驚く。

 あの美しいひとは、ぼくの妹だったのか……

 という重要なくだりに関して。
 インタヴュアーが訊いた。

「あなたはそのとき、脳の活動が停止した状態だったはずですけど」

 うむ良い質問だね、と彼は言いました。
 そう、ぼくの脳は働いていなかった。
 ぼくは脳死から帰ってきたんだ。
 なのにどうして「記憶」ができたのか、だよね。

 記憶は脳だけがつかさどるものではないかもしれない。

 ……ほう。
 つまり、あれだ。
 超サッカーの上手い兄の心臓を移植された弟がプロサッカー選手になる某人気サッカーマンガのような。網膜を移植されて殺人の光景を見てしまうホラー映画のプロットのような。
 いや、彼の言っていることは、もっと大胆だ。
 移植された臓器の記憶というのは、いわば残留思念とか、印画紙に焼きつけられた写真のようなもので、記憶というよりは、ただの「画」。そういう体験談も、実際に語るひとは多いが、もちろん現実問題として解明されている事象ではなく、どういう仕組みだかよくはわからないものの、映画やマンガの題材として使われるくらいに、なんとなく情緒的にはわかるような気もする。忘れられない光景を見たら瞳に焼きつき、死にかけるほどピッチを駆けめぐったサッカー選手の心臓は、心筋でその興奮を記憶するということはあるかもしれない、と。

 でも。
 「美しいひと」、である。
 そこには主観が入っている。
 主観というのはつまり、三十代で死んだ逢ったこともない実の妹を、彼が生身の年下の女性を「美しい」か「美しくない」かで選り分ける現実生活のいつものクセで評価して、こいつは好みだ記憶しておく価値がある、と判断したということにほかならない。

 本の売上げを考えた場合、ここは非常に重要である(彼にとっては実体験であるのだから、責められるべきところではないのだけれど)。

 臨死体験で、すでに死別した両親や祖父母に出逢うという話はよく聞く。あんたはまだこっちに来るには早いよおもどり、などと言われるのは、臨死生還のお約束といってもいい。

 これに対し、エベン・アレグザンダーが声を大にして推すのは、まさにそれ。

「ぼくは妹に逢ったことがないんだ」

 逢ったことがない人物に逢ったのだから、あれはぼくの脳が生み出した幻想ではない……そう、なにげに世間一般に流布される臨死体験談の多くを、本人の脳が作りあげた幻想の産物だと言いきってしまっているところが、ベストセラーの秘訣。

 だがしかし。
 三十代の美しい妹、だから、まあなあ、という感があるものの。
 たとえば、五十代のワキガのひどい兄貴、だったらどうか。
 いや、ワキガがひどいと記憶してしまいそうなので、むしろスーツが着こなせていない疲れた様子の痩せ男、とか。

 つまるところ、そういう話を聞かないのが、疑わしい。

 これらは、記憶がどうというよりも、ホブスン・モニターで観察すべき魂の実在の問題である。正直言って、私は私が逝ってしまえば世界はすべて消え去るのだという考えの無神論者なので、死後の世界という概念自体が、どうも気に入らない。気に入らないが、私の気に入らないものはたいてい世の中に実在するというのも経験的に知っている。だから、死後の世界というそれそのものは受け入れるとしよう。あってもいい。それはいい。

 ただ、ホブスンの観察したように、ひとが逝ったとき、頭頂部から抜ける謎の電気信号があったとして、それがさまよえる霊魂のようなものになったとして。空間や物体などに写真のように焼きついて留まっているがために、あなたの肩に女の影が、とか、あのトンネルでうずくまっている子供が、というのは百歩ゆずって許容したとしても。

 魂が美醜を見分けるとか。
 それはやめて。

 エベン・アレグザンダーは、バーコードハゲな兄貴に肩を抱かれてこの世にもどってきて欲しかった。美しい女性に逢ったから、その言葉に従ってぼくはもどってきた。などと言われたら、もしもキャシーが午前三時に起きていたとしても、子作りに励むのはともかく、ちょっとアブノーマルなプレイは躊躇してしまう。

 だって、さまよえるおじいちゃんの魂が見ているかもしれない。

 見ていたっていいよ。魂とか幽霊とかは、別にいたっていい。でも、それらに「美しい」と判断してから記憶するような知的生命体のようなそれが残っているというのは……「美しい」ことを感じるなら「醜い」ことも判別するし、もっと言えば「こいつキモっ」とか「そのプレイ、エロっ」とか思う、ということである。

 私はキャシーと、きっとおじいちゃんが想像もしたことのないプレイに興じている。二世代も離れれば、そういうものだろう。

 そう考えると、怖い。
 すでに脳が死んでいるのに、頭頂部から抜け出た電気信号の私に、生前のいまと同じような物事を判断して感情で処理し、なおかつ記憶までできる能力が備わっているのだとしたら。そんな私が、もしも死後、さまよってしまったとしたら。

 未来人のとてつもないセックスとか、オナニーとか、見なくちゃならんわけだ。
 おそらく、というか確実に、ほう、と感心して終われない。
 想像もしなかったそれを、驚きの科学力でそんなところに挿入してそうするそれを私もやってみたいと願うだろう。逢ったこともない妹に萌えられるくらいなのだから、やったことのないプレイをやってみたいと願うくらいのポテンシャルが死後の私にもあるということに違いない。しかし願っても、私は電気信号。肉体がないのでずぽずぽもねちゃねちゃもねるんにゅるんも、なにもできはしないのである。

 ああ、我が子孫たちよ、平和でたのしそうでなによりだ。
 なんて思うわけがない。
 私は、悪霊になる。
 そういうプロセスを、ぜったいに辿る。

 魂があれば、幽霊もいる。
 魂が記憶するならば、幽霊もする。

 ということは、いますでにこの世界は。

 私のまわりには、嫉妬に狂う亡者がひしめきあっている。性生活にかぎらない。白米を好きなだけ炊いて食えるというだけで、曾祖父あたりまでさかのぼれば、肉体のない魂だけの身で見せられるのは狂乱の沙汰だ。ビール飲みながらピザのチーズをとろーんとさせて、テレビのなかで暴れるアメリカ人レスラーを笑いながら見ている私のことを、軍服のご先祖さまが、にこやかに見つめてくれているとは思えない。  

 エベン・アレグザンダーがインタヴュアーに答えた。

 記憶が、脳だけでおこなわれるものではないのだとしたら、いったいどこでどんなふうにそれはおこなわれているのか解明していくのも、これからの科学の役割なのかもしれません。

 やめて。
 そんなことを言うな。
 怖い。
 死後の世界はあってもいい。
 でも、そこでも生きているいまとおなじように「ものを考える」だなんて。私も大切なひとを亡くしたことがある。けれど、その仮説は救いに思えない。私自身にとっても、ほとんど呪いである。

 生きている。
 それが意味であって欲しい。

 生きていた。
 今年も終わり、いつか逝く。
 ひとは肉だ。
 腐らない肉はない。
 みずみずしいうちに、傷ついても治癒できる血のかよった肉のうちに、とことん傷ついて、美しいとか醜いとか、嫉妬とか大好きとか、やりきっておかなくては。

 数年前の元日にバイクで転びました。
 その古傷がこの年末、痛んでいた。
 癒えないものもある。
 次に転んだときには、起き上がれないかもしれない。

 今年もありがとうございました。
 そう言えるしあわせ、奇跡、この駄文。
 愛してる。我がソウルメイトのみなさま。
 来年も血のかよった肉であったなら。
 魂、削って血反吐吐く道を歩き続けましょう。
 書いて思う、なんだよ今年もとか、来年とか。
 盆も正月もおれらみたいなもんにあるものか。
 続けるだけ。
 腐るまで。
 肉だ。
 魂なんて、どうでもいい。






 以前に南蛮漬けのレシピを書いたとき、最近はこればかり使っているんですよと鉄フライパンをご紹介申し上げたてまつりあげました(間違った謙譲語)が。

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『基本の鶏南蛮漬け』のこと。

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 いちおう、うちにもテフロンとかセラミックの表面加工が為されている調理器具はある。まあ、おもに妻が使うばかりで、私はやっぱり鉄フライパンでなんでもこなすことに偏執症めいたこだわりを持っているわけですが。

 ホットプレートばかりは、鉄板を選ぶ気にならない。

 油の使用を躊躇するタチではない。でも摂取するのはともかく、飛び散る油が好ましいわけがなく。プロレス観ながら食べたい私にとって、目の前にあるホットプレートからのぼる湯気さえも邪魔。そんななので、基本、ホットプレートは保温器具。お好み焼きはフライパンでガスで焼いてからホットプレートへ。焼き鳥もオーブンで焼いてからホットプレートへ。

 ただ、それだけは、ホットプレートで調理する。

 餃子。

 よく作ります。
 鍋のシーズンには、鍋やったら餃子みたいな。というのも私が晩ご飯を酒のつまみと認識しているために、湯豆腐を柚子胡椒でつつければそれで満足で、白菜が消費されないため。

 よく作ると言っても、毎週なんてわけではない頻度です。が、あるときからホットプレートの真ん中あたりが、焦げつくようになってきた。どうやらフッ素樹脂加工の限界点に到達してしまったようなのです。その後は加速度的に、油を多めに入れても、むしろ荒れたフッ素樹脂加工のせいで油が本領発揮できず、事態は解決しないという泥沼に。

 フライパンなら買い替えます。
 でもなあ。そのホットプレート、たこ焼きプレートもついているんですが、そっちはぜんぜん平気。もちろん本体の機能になんら劣化はない。ただ、平面ホットプレートの中心部が、お好み焼きでは問題ないものの、餃子だとどうにもならないくらいに、滅亡している。

 うーむ。
 買い替えたっていいんですよ。
 ただ、もともとテフロンとかフッ素とかセラミックとか、そういうフライパンに好印象を持っていない鉄フライパン愛好者なので、加工が一部剥げたから壊れていない機械を買い替えるというのが、気に入らない。

 買い替える前に、考えてみよう。
 クッキングシートはどう?

silicone

 オーブンで使えるのだから、ホットプレートでも使えるはず。

 やってみた。
 両面シリコン樹脂加工。
 ホットプレートにも、餃子にも、もちろんくっつかない。
 ただ、加工されているおおもとが、紙。
 説明書きにも書いてありました。  
 フライパンで使うなって。

 結果、焼けないことはないのです。
 ただし、餃子を焦がすことができない。
 弱火でじわじわ焼いていっても、餃子が焦げる前にクッキングシートが焦げ出します。仕方ないので、餃子救出。あらためてクッキングシートを取りのぞき、そこに餃子を戻しました。

 焦げていないとはいえ、裏側がすでに焼けているので、傷んだフッ素樹脂加工のホットプレートでも、くっつきはしません。だがしかし、駄菓子菓子です。こんな作業を毎回するのでは、ホットプレートで餃子を焼く意味がない。いっぺんに手間なく大量に焼けてこそなのであって、入れたり出したりするなら、お好み焼き同様、何度かにわけてガス火でフライパン焼きしたのを、移し並べればいいのです。

 やってられない。
 そんな苦悩の私は、自分がすでに近未来のSF世界に生きているのだと気づけていない大戯け(おおたわけ)野郎でした。

 二十世紀にはクッキングシートにそんなブリリアントキュートな妹はいなかったように記憶しているのですが、いまではクッキングシートの箱裏に姉妹品として、こんなのが載っている。

silicone

 旭化成さんの『クックパー』はどこの店にも置いてあります。もちろんそちらをチョイスで問題ないのですけれど、同じような商品で、もう少しお安いものが各社のPB商品として販売されていることも。それだけ普及が進んできたということですね。ちなみにあとで載せる写真に写っている星印が書いてあるほうが表のシリコン樹脂加工アルミホイルは西友さんのもの。10メートルで200円を切ります。

 そうです。シリコン加工アルミホイルは、裏表がある。安価とはいえ、単純にアルミホイルの倍の値段がするそれを、両面加工すればさらに倍の価格になりますから、仕方のないことです。この点だけ、両面くっつかないクッキングシートとは違っているので、特に今回のように餃子を焼いたりするときには、多少の気配りが必要。

 餃子のレシピは、こちらを参考に。

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『肉なし餃子を冷凍庫に詰め込む』の話。

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 もちろん、おからでなく、豚肉でもいいですし、合い挽きでもいい。今回の私は、鶏ミンチに刻んだ大葉と青ネギも加え、味つけは貢ぎ物にいただいた牡蠣醤油なる調味料のみにいたしました。

Oyster soy sauce

 あ、白菜刻むの面倒なので、フードプロセッサーを使いましたが、シンの部分だけは包丁で刻むことをお勧め。すべてをフードプロセッサーで作ると、餃子の王将さんのそれのような餃子になります。あれはあれで美味いものの、なめらかな具ってのはラードが入ってこそ愛せるもの。家庭で鍋の残りの白菜を消化するようなベジタブル餃子の場合、多少、歯ごたえのある具材を混ぜ込んだほうが良いです。刻んだタマネギとかも良い感じ。

 そのうえで。
 さあ、作ってみましょう。

Hotgyoza1

 餃子に羽根を作るため、大さじ一杯の薄力粉を400ccの水に混ぜ、ホットプレートに並べた餃子たちの合間に流しこみます。この際、気をつけるべき。薄力粉を使うにせよ、水やお湯だけにせよ、多少、餃子の裏にごく軽く焼き色がついた状態まで持っていってから、投入すること。

 あとは蓋をして保温よりもちょっと強火なところにダイヤルを合わせ、水気が無くなるまで放置。

 我が家の愛用ホットプレートよりも、ホイルのサイズは縦も横も小さい。横は、フッ素樹脂加工が剥げてダメなのは中心部分だけなので、端っこのはみ出た部分にあえて敷く必要がないため、自分で短く切っているのですが。油もいらない。ただ、この状態で水を注ぐと、ホットプレートとアルミホイルのあいだに、餃子の皮から溶け出した小麦粉成分や、わざわざ溶いた薄力粉などが、浸透してしまう。狭いところに小さい子は入っていきたがる。毛細管現象と呼ばれるものでもあり、単なる重力のなせるワザでもある。

 前述のように、シリコン加工アルミホイルは、裏面が加工されていない。なので、低温からじわじわと挟み込んだ小麦粉成分を煮詰めていくと、餃子は簡単にシリコン加工面から剥がれても、食べ終わったあと、ホットプレートにアルミホイルが貼りつくという事態になりかねません。小麦粉を弱火で煮詰めること、それすなわち、糊の製作過程ですから。

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『小麦粉糊で障子を貼ってみよう』のこと。

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 ですから、隙間に流れ込む前に小麦粉成分が焼き固まる程度には、ホットプレートが熱せられるのを待つのがおりこうさん。

 お気をつけいただきたいのは、ここだけです。
 これにより、ほら。
 夢のように食べやすい餃子の群れ、群れ、群れ、ばっきゅんばっくんむしゃごっくん。 

Hotgyoza2

 ごちそうさま。
 ありがとう、シリコン樹脂加工アルミホイル。
 二十一世紀に餃子を食べてよかった。

 だったら、フッ素樹脂加工の剥げたフライパンに敷いて使えばフライパン再生? いえいえ。それはあまりお勧めしません。ひと月ほど毎日、これで自炊すれば、安い新品のフッ素樹脂加工フライパンが買えてしまいますので。あくまで、よく作って月に三回のホットプレート餃子とか。そういうものに使うならば、これは素晴らしい製品です。
 科学の勝利と言ってよいでしょう。
 神のおぼしめしと表現してもよいくらいです。

 ところで、シリコンを水で茹でるかのようなこの調理法、危険性がないのかという意見のかたもおられましょう。シリコンといえば、ノンシリコンシャンプーなどというものも流行っておりますが。要はシリコンというのは離型剤。型からスルリとモノを抜くための用途で有名です。

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『珪素弁当』のこと。

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 シャンプーに入れるべきではない、という議論も、シリコン配合だと髪をコーティングしてしまって餃子もこびりつかないさらさらつやつや具合になるため、トリートメントなど外部からの栄養が侵入できなくなる、というところが論旨になっていることが多い。

 すなわち。
 シリコンはなにものにも侵されない。
 言ってしまえば、アセスルファムKの議論に似ている。

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『アスパルテーム煮』の話。

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『アセスルファムKは、消化されずにそのまま排出されるという。アスパルテーム摂取強化月間とはいえ、さすがの私もこれは怖い。だいたい、人工的に作った甘みなのに、熱を加えてぐつぐつ煮ても問題ないという、その強固さには、動物としての危険を察知する本能が働いてしまう。』

 などと私は書いているが、いまやその人工甘味料は、あらゆるカロリーゼロ飲料で使われていると言っていい。血糖値を上げないということで、薬局薬店でも指名買いされている。上の記事は七年前のものですけれど、いまでも我が家の冷蔵庫にはダイエットコーラが常備。この七年で私の体重に増減はない。しかし摂取量からして、もしも私の飲むコーラがカロリーゼロではなかったとしたら、いまごろ筋肉ではなく脂肪でヘビー級に到達する体重になっているはず。

 ダイエット甘味料も、シリコン樹脂も、体内に入れば、そのまま出ていく。なにものにも侵されないからである。しかし、なにものにも侵されないようなものが、日々体内を通過しているというのは、いわゆる花粉が多すぎて人類の肉体が花粉を敵だと認識して誤作動するようになったそれと、同様の誤進化を生み出してしまうのではないか、という話も聞く。その懸念に対しては、私も、そういうことはありうるかもなあ、と言わざるをえない。

 しかし、いまのところ、私の価値観によるならば。
 吐くほど飲んでも太らないダイエットコーラを選択せずに、毎年ジーンズを買い替えるような生き方が有益だとは思えない。
 そして。

 いちど、フッ素樹脂加工が真ん中だけ剥げたホットプレートで、油をたっぷり使って焼いてもこびりついた餃子を、一秒たりとも目を離したくない試合がテレビで流れている前で、がりがりと小麦粉の焼けた羽根を飛び散らせながら、剥がして食ってみるがいい。

 ストレスで病む。
 実際、私は、ホットプレートを罵倒した。
 スイッチの入り具合によっては、買い替える前に両手で膝に叩きつけてホットプレートをへし折り、両手両足に火傷を負い、壁には飛び散った餃子がへばりつき、家族はこの世の終わりが来たと泣きわめいていたことだろう。
 これではいかんと、この生き方を選択したのである。

 私はシリコンと生きる。
 この先、なにかあっても、私のせいだ。
 ともあれ今夜、餃子をきれいに食べたい。
 油がなくても羽根つき餃子が箸でひっくり返せる。ストレスフリーな適当餃子人生。ビールとプロレスとホットプレートいっぱいの餃子を前にして、生きている意味を考える必要などない。


Alarmclock

小学校の入学祝いに、叔父さんからもらった。
なぜ写真で目覚まし時計の右半身が見切れているかというと、
そちらのベルはないからである。
ベルどころかベルを支える棒もない。
長年の相棒の恥ずかしい傷だから写さなかった、わけではなく。
私自身の恥ずかしい傷だから見せたくない。
そっちのベルは、壊れても支障のないベルだ。
こういったアナログ目覚まし時計は、
モーターの回転によってベルを打ち鳴らす。
使ったことのないひとだと、
「左右のベルをガンガン叩いて鳴らすのよね?」
と思ってしまいがちだが。
左右二つのベルが設置されている普及型の多くで、
打ち叩くのは片方だけ。
もう片方は、たんなる飾りである。
左右対称シンメトリーを美しいとする事なかれデザイン。
事なかれ?
いや、幼い日の私……もう少し大きくなってからの私にとって、
それは毎朝の発狂のもとだった。
突きつけられたリボルバーに対し、正しい対処はなにか。
引かれた撃鉄の隙間に親指をつっこむ。
そうして、引き金を引いても雷管を打たせないようにする。
目覚まし時計がゴングを鳴らす。
ふざけるなと私は手をのばす。
ハンマーとベルのあいだに親指をつっこむ。
……止まらない……
だから、ベルをわし掴む。
それでも止まらない。振り回す。必死に。
もぎとれろ、と。
結果、十代のなかほどで、リアルに、もげた。
つっこんでもわし掴んでも、無意味なほうのベルが。
止まらない時点で、時計が裏返しに置いてあると気づくべき。
現に止まらないことを察知したあとでならば、
反対側のベルをやさしく包みこむか、
もしくは目覚まし時計裏のスイッチを切ればいい。
けれど、幼い日の私……もう少し大きくなってからの私にとって、
それは無理な相談だった。
むきっいいい、うっせええよ、止まれようっ。
かなしい傷痕だ。止まらないから、もいだ。
見せたくない。
それ以外には故障はない。
こいつはいまも相棒だ。
いっそ壊れてくれれば、幼い日に贈られた記念物。
動作しないオブジェとして棚に飾っておけるのに。
片方のベルがもげ、メッキが剥がれ、
いまどきの目覚ましでは法度なコチコチ音もする。
でも、私を毎朝起こすのは、こいつ。
小学校に上がったときから、頭上に鎮座まします。
そのコチコチ音は、いっしょに眠る相棒の鼻息。
気にならないどころか、安眠のかなめ。
考えてみると、モノであれ、ヒトであれ。
こんなにずっと変わらずそばにある存在はない。
ハンマーをつまみ、ベルを握り、錆びた肌を撫でる。
もうちょっと寝かせてくれよと、声に出さず話しかける。
毎朝起こされるから、毎朝、そのスイッチを切る。
毎夜、手にとって、スイッチを入れる。
人生になにがあっても、意識を失うほど酔っていても。
間違いなく、生涯でもっとも「触れた」相手。
なんの手入れもしない、錆びるにまかせる道具。
むしろ壊れりゃいいのにと思われながら、
ずっと私のそばにいて、壊れない。
いつ壊れたっておかしくない。
予備の時計は必須。
朝早い日は、携帯やテレビのタイマーも使う。
それでも、こいつがいてくれると安心。
安心というか、恐いのかも。
六歳の私に社会の規律を叩きこんだ先生でもあるのだから。
おかげで今朝も当たり前に起きて遅刻しませんでした。
あしたもよろしくおねがいします。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 なんて、もっともらしいこと書いていますが。
 実のところ、理由がもうひとつ。
 この写真、スマホで撮ったから。

 私がふだん持ち歩いているコンパクトデジタルカメラは、修理に修理を重ねて、こんど逝ったらもう蘇生はあきらめようと決意しているキヤノンさんの製品なのですけれど。開設して十二年だったか三年だったか、そんなところに来た拙サイト『とかげの月』で使用している写真のほとんどが、このカメラで撮影されています。

 仕様書によると、このカメラ……

 カメラ部有効画素数 約500万画素。

 一方、私のいま使っているスマートフォン。
 これの仕様書を見てみると……
 
 カメラ部有効画素数 約1320万画素。

 私、自身もカメラ売っているので、そういうところのよくわからないお客さんに説明するとき、この数字を比較対象にしたい誘惑にかられます。これが、たとえば同じメーカーの同じシリーズのカメラで、500万画素と1300万画素だった場合ならば、おおむね間違ってはいない情報提供となる。

「画素数が大きいので、こちらのほうが、きれいな絵が撮れます」

 そういう場合、単純に、発売年度が新しいか、同じシリーズでも上位機種ということですから。画素数で比べて二倍以上も差があれば、優劣つけてもよいと言えましょう。

 しかし、メーカーが違っていたり、カメラ専用機と、スマホやタブレットだったり。そういう場合、この有効画素数というもので優劣をつけてしまうと、問題ありです。

 冒頭の写真の、全体がこれ。
 わかりやすく明度を少し上げてあります。

Alarmclock2

 左側を拡大したものがこれ。

Alarmclock3

 わかりましょうか。
 右から光が差し込んでいるのですね。
 それゆえ、時計の左側は影になる。
 その部分が、なんかざらざらしている。

 当サイトの写真は、現在、おおむね480×270ピクセルで統一しています。

(余談ですが、この数字は、亡くなったゲームデザイナー飯野賢治さんが、ご自身のサイトで最終的に「これくらいが良い」と使用されていたものを学ばせていただきました。それももう数年前の話で、飯野さんの生前は、圧倒的にウェブサイトはパソコンで見るものでしたから……時代の変化とともに、本来は固定せず試行錯誤しなくちゃいけないところです)。

 このスマホの、もとの静止画サイズは4128×3096ピクセル。
 ほぼ十分の一まで縮小して、それでも判別できる粒子のあらさがある。

 同じ光の加減で、いつも使っている愛用のコンデジで撮れば。
 こんな感じ。

Alarmclock4

 ちょっと置く位置が前にずれて、影の位置も違いますが。
 ぱっと見できれい。
 色合いからして別ものだし。
 このカメラのもとの静止画サイズは2592×1944ピクセル。
 もとの画像を使えば、A4サイズくらいまではプリントアウトしても飾れるレベルです。

 そういうこと。
 500万画素あれば、通常のL判プリントの写真にしてだれかにプレゼントしたとき、あらこれなんだか十年前のカメラで撮ったみたい、なんてことにはなりません。画素数は問題ではないのです。まして、私のように最終的に数百ピクセルという画像に縮小して使う場合、もとの画像の大きさにも意味はない。

 500万画素から1000万画素まで、あっというまでした。
 技術の進歩もあるけれど、単純に、500万画素のカメラと並べて、800万画素のカメラを新発売すれば、売れるから。店員も無責任に売りやすいから。

 誤解しないでくださいね。画素数は大事です。大容量記録メディアも普及したことですし、大きな画像で残せるに越したことはない。ですが、これも事実。カメラの実力は、画素数だけで優劣がつけられない。というかむしろ、ここまで技術が進めば、そこは問題にしなくてもいいくらい。

 私が、壊れても直し、使い続けているカメラ。
 単焦点の一枚レンズで、望遠機能がない。
 顔認識とか、笑顔認識とかもない。
 手ぶれ補正もない。
 そのかわり、接写機能がとても優れている。
 動かない目覚まし時計を、固定したレンズで撮ると、とてもきれい。

 大画面のハイビジョンテレビで、アナログのビデオテープの映像を観たりすると、粒子が粗くて、とても見られたものではなかったりします。そういうことが起きている。

 きれいな「眼」で見た世界を、大きな画面で映せば、それはきれい。けれど、カメラのレンズ性能や、処理能力がいまいちな場合、映す画面が大きければ大きいほど、アラも見えてしまう。

 私が、愛用のカメラを捨てられないのも、そこに尽きる。
 キヤノンさんが、私の使っているこのシリーズを終わらせてしまったのです。望遠とか、手ぶれとか、そういうのがないと売れないというのはわかります。スマホやタブレットが普及し、コンデジとかいうジャンルが撮れるということだけで勝負するのはむずかしいのだと理解もできます。けれど待っている私のようなものもいる。高くていらない機能が付いていたって、それはそれで許容します。けれど、スマホ持ち歩くからこそ、もう一台カメラ持って歩くひとにとっては、小さいって大事。こいつの後継機、なにかのついででいいから出してほしいのです。

 というわけで。
 買い替えると使えなくなるバッテリーパック。
 こんど壊れたら、と諦めはついているけれど未練で最期のときを過ごす私たちにとって、電池切れは深刻な問題。撮りたいときに電池がない。予備の電池も切れていることがある。でももう、新しいのを買う気はない。

 やむなく、スマホで撮る。
 世を席巻するiPhoneの最新機種が800万画素。私のWindowsPhoneはそれを大きく上回る1320万画素。それでも目覚まし時計の影がちゃんと写せない。十年前の壊れかけの単焦点レンズのカメラが、雲泥の差の画を撮る。

 こういうことは、知っておくべきです。
 美しい、ということはなんなのか。
 深遠なテーマにもつながります。
 笑顔が可愛いひとがよかったりするじゃないですか。
 数値化なんて、できない。
 愛せるものをさがすには、触れてみるしかない。

 最近、液晶にノイズが走る。
 そろそろ本気で後継機選びはじめなくては、なのです。
 迷います。にしても。
 Wi-Fiとかタッチパネルとかマジいらん。
 故障要素をぶっこむのやめてほしい……
 すなおで頑丈で小さいヤツをください。
 あと、ボディ色は黒がないと却下。最近のキヤノンさんの小さいのは淡い色ばかりで黒モデルなかったりするため、検討以前の問題になること多し。
 春モデルに期待しています。