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「なにをやっているんだろう……」

 ため息をついた瀧川みのりにシーツを掛けられ、診療台の上に横たわった全裸の男が振り返って不安そうな顔をする。

「おいおい、ボナーチャ。なんかミスったんじゃねえだろうな。こんなところで黒こげにされたりしたら、たまんねえぞ」

 瀧川は、我に返り、苦笑を浮かべた。

「こんなところはひどいですよ、先輩」
「その先輩が金落としに来てやっているのに、ため息つく後輩を信用しろってのか。だいたいおれより十五も若いのに、引退して白衣とかよお。暴れたくてイライラしてんだろ」
「そうですねえ、ちょっと電圧、上げてみましょうか……」

 言って、瀧川は傍らの、見た目だけは未来的にLEDが点滅する機械を操作した。

「お、お、おお……効くぜえ」

 先輩は恍惚の表情を浮かべるが、要は微弱な電気を肉体に流しているだけである。体内を流れる電気と大気中の電気との電圧差を感じて、それが効いているとの実感になる。電位治療と呼ばれるもので、瀧川の整骨院がオープンしたときにはなかった機械なのだが、開店の祝儀代わりに訪れてくれた大先輩たちが、決まって「あれはないのか」と口にするので、やむなく購入したものだった。
 ちなみに、とても高価なものだ。
 だが、置いてみれば意外なことに、商店街という立地もあるのだろうか、整骨院の看板に惹かれて訪ねてくれるおじいちゃんおばあちゃんは少なくなく、そういった客筋に、この機械は、とても愛された。

「そうですか。これ目当てに来てくださる素人さんもいらっしゃるから、もう一台買おうかと思ったりもしているんですけどね」

 瀧川は、電位治療というものを信用していない。
 していないのだが、五十歳を目前に若手選手からいまだに若かりし日の〝カミソリボーイ〟の呼び名で怖れられる菊名田先輩が、瀧川の店のベッドで持病の腰痛を忘れ、試合でヒビの入ったあばらの痛みも忘れ、ぬるめの温泉につかってでもいるかのように気持ちよさそうな様子でいるのは、よろこばしいことだった。

 この稼業をはじめたのは、現役を引退してからも業界にとどまっていたかったからであり、戦えもしないのに会場に居座るなら役に立てるようにと、柔道整復師の資格を取ったのがきっかけだ。選手が、安心して安全に、気持ちよく戦って、それでお客さんがよろこんでくれる──

 それが瀧川の望みだったし、だとしたら、現実に菊名田先輩を癒しているこの機械も、望みの実現に、おおいに貢献してくれている。

「おまえの首も、こいつで治らねえものかなあ」

 夢うつつのなかで、菊名田先輩は深い意味なく言ったのだとわかってはいたが、瀧川は、また、ため息をつきそうになってしまった。早すぎる引退の直接の原因になった、首の負傷を悔いてではない。

 昨夜出逢った、彼のことを想って。

 柔道整復師は興行会場で、選手への応急処置的医療行為がおこなえるが、それ以前の選手の時代から、瀧川は、他人の躯をひとめ見て、痛めている箇所や、さらには痛めそうな箇所までもを見抜く才に長けていた。他人の躯に生じている違和感を、本人さえも感じていないのに、見抜いてしまう。だれも気づけないが、瀧川だけは気づく。若い頃には、それを、考えなしに口に出してしまうことが多かった。対戦相手にまで、つい言ってしまっていたのだ。

 〝右膝に気をつけろ〟

 その言葉は、当然のように挑発だと取られ、果たして実際にその箇所をケガでもしようものなら、陰口をたたかれる。予告した部位を、瀧川が狙って痛めつけたと、まわりからは見えるのである。その日が無事でも、のちにその選手が、右膝をひどい痛めかたをして長期欠場などということになったりすれば、陰口は、もっと根も葉もなく、たちの悪いものになる。

 呪い、という言葉さえ聞いた。言われた側にすればそうなのだと遅まきながら気づき、自制するようになったのは、自身が中堅と呼ばれ、若い後輩たちを指導する身になったころからだった。それからは、うまくごまかして注意するようになった。

 〝蹴りかたにクセがあるから、膝を痛めるおそれがある。気をつけろ〟

 いまはもう、白衣を着ているので、ケガの予知はいぶかしがられるどころか、どうしてそんなことがわかってしまうのかと、驚かれるだけである。

 それが、昨夜は。初対面の相手に、ぶしつけな病状予告をしたあげく、自分がゲイであることを告白し、そのうえでリングネームを名乗って、あやしい者ではないからネットで調べてくれと頼んだのだった。我ながら、トチ狂っていたとしか思えない。

 しかし、彼は、ひどかった。はっきりとした原因はわからない。なにせ、知りあいでもなく、診たわけでもないのだから。けれど瀧川には、ひとめでわかるほどだったのである。膝の痛みは、きっと、腰か、股関節から来ている。上にある無理を、膝が吸収して痛んでいるように見えた。

 もっとひどいのは、彼の表情だった。凛々しい端整な顔立ちだったけれど、そこに浮かんでいるのは、巧妙に押さえつけ隠してはいても、彼の心もまっすぐな状態ではないのだと感じさせる鬱屈したものだった。あれは、とても怖い状態だ。肉体が痛みという形で悲鳴をあげはじめているのに、心もまたあらぬ方向に向いていて、躯を気づかっていない。止められるなら、走ることも止めたかった。それなのに──

「はあ……」

 また思わず息を吐くと、裸の菊名田先輩が、シーツをめくって振り返る。

「なんなんだうっとうしいなおいっ。怖いモノ知らずのボナ=パーチャーサーがなに悩んだりしてる。なんだかしらないが、飛んでこそおまえだろうが」
「先輩……前は隠して」
「おう」

 胸を張って返事を返し、診療台に上がると、自分でシーツを戻す。深く考えない先輩の、まっすぐな言葉に、瀧川は目を閉じる。

 知らない選手だ。だが、見るからに練習をまじめに積み重ねている、いい選手だった。その躯の異変に、気づくことができたのに──待っているだけでいいのか──いや、これもごまかしだ。思わず触れていた。思わず名乗っていた。その切羽詰まった表情に、訊ねかけたくなっていた。いつものくせで、はげますよりも、発破をかけて挑発するような態度になってしまったが──

 背を向けられたときには、手をのばしそうになった。まだ戦える選手がひとり、消えることになる。 ぼくのように。それに、迷った子犬のように放っておけない、すがりつくような目をしていたのは、こっちの気のせいではないと思えた。頼りたいのに、頼れない。そこまで傷ついている。

 そんなふうに感じた。
 自分の頭のなかで脚色もなされている気はする。
 それ以外の感情も働いている気はする。
 ──そうなのだろう──
 それでも。
 飛んでこそ、ぼく、か。

「電圧、上げてくれよ、ボナーチャ」

 そうだ。それでも。
 ぼくが、そう感じているから。 
 さがしてやらなければならない。


 吉秒匠 『菊名田先輩の電圧』

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・ めずらしく、長い原稿をとことん絞っていくということばかりを並行してやっている。これがもう自分で言うのもなんだが、削ろうと思えば削れる要素だけで私の原稿はできているのだと痛感。無駄口で気を惹こうとする自分自身を切り捨てる作業が、一線を越えてたのしくなってきた。端正にしてやる。

twitter / Yoshinogi

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 たとえば、妖怪がったがたたんの産みの親は私だ。
 そんな妖怪は知らない?
 いや、あなたが知らなくても、私は文字にしてそれを動かし語らせ電脳空間に放流した。その行為から一年半が経ったいまでは、日本語でグリム童話のルンペルシュティルツヒェンを検索すれば、吉秒匠の創作した妖怪が現れる。
 こうなればもう、この世に存在している、がったがたたん。

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『ルンペルシュティルツヒェン』の話。

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 そんな私の書斎にあるハードディスクのなかへ、菊名田先輩を産みこぼしてしまったのは、どういう心の状態だったのか、おぼえていない。その小説のなかで、菊名田先輩が出てくるのはこのワンシーンだけであり、最終的に私は、加筆修正する手間もなく菊名田先輩のすべてを削除した。

 柔道整復師の資格と、整骨院という設定は、プロレスリングNOAHの浅子覚メディカルトレーナーのドキュメンタリーを観たせいである。怪我がもとで若くして引退した選手が整骨院を開業し、そこに彼よりもずっと年上になりながらいまだ現役の選手たちが、癒しを求めて通っている。そういうシチュエーションにキュンときたのはおぼえている。

 電位治療器は、うちの近所にそういう機器の中古品を扱うショップが先日できたのだけれど、それが雑居ビルの三階という「やばい事務所か」と疑うようなとても電位治療器のメインユーザーたる老齢の方々が入りやすいとはいえない(老齢でなくても、エレベーターのないビルの三階に腰痛の人が 上がりたがるとは思えない)、そういう立地に自信満々でオープンするその商売の秘密とはなんなのか、ちょっとばかり調べずにいられなかったので、何冊かの関連書籍がいま手元にある。

 で、まあ、それぞれからなにがしかの感銘を受け、こんなシーンが生まれ、そこにだけ生きる菊名田先輩という人物も産みこぼされてしまったと推察できるのだけれど。

 ちょっと疲れのとれた頭で読みかえしてみれば。

 主人公はとっとと彼をさがしに行って見つけて愛を語り抱くべきである。菊名田先輩のケツは、ラブストーリーを台無しにしている。電位治療器とかうさんくさいうえに物理的なモーター駆動部位もない機械は大人のオモチャとしても使いづらいし、愛にあふれる私の作品に持ち込まないで欲しい。

 私は、菊名田先輩を産んだ日の私に言う。
 そして、デリートキーを押す。 

 こんなことは日常だ。
 だがしかし。

 私はなんだか、菊名田先輩が好きだった。
 おそらく痩せ型ではない。かといってマッチョでもない。知らない人が見たら「え、このひとスポーツ選手?」という見た目。腰が悪い。というか、全身の関節が悪いなかで、腰がいちばん悪い。そのことはファンもみんな知っているのだが、だからこそ、菊名田先輩が自分よりも背の高い、体重も重い選手を持ちあげたりすると、それだけで盛り上がる。プライベートは真面目。というかたんに、相撲出身の選手が要領よくやるように、競技人生と並行して飲食店を経営するというような柔軟な発想を持たなかったので、第一線からは引いたいま、金銭面で余裕がないから真面目な生活を送るしかない。ゲイではないが独身。遊ぶ金もないのに、後輩の整骨院には、大きい大会の前には必ず来る。大きい大会といっても、菊名田先輩は第二試合で新人を持ちあげて叩きつけるもののスタミナが切れて腰を押さえた拍子に丸め込まれる、といういつもの試合をするだけ。

 こういうことを書いても、私しか萌えない。
 逆に見れば、疲れた私のなかから書いた記憶もあやふやなのに産みこぼれた菊名田先輩は、あとになってみれば行数の限られた舞台で活躍の余地はまったくないということがあきらかになったにせよ、そのときの私には必要なキャラクターだったのかもしれない。
 私の疲労の化身だ。
 癒しの天使だ。
 おっさんだけど。

 ハードディスクからデリート。
 そうすると、菊名田先輩は、この世から消える。
 産んだのに。
 産まれなかったことになる。
 がったがたたんに、持って行かれるおっさん。
 私が、持って行かせた。

 『フレディ VS ジェイソン』の大きなポスターがうちのリビングには飾ってある。

Freddy vs. Jason

 この映画で、夢のなかの悪鬼フレディ・クルーガーは、子供たちを襲えない。すでにフレディは忘れ去られていたからである。怪物は、人々の怖れる気持ちあってこその怪物であり、夢に見られない悪鬼は、もはや存在さえしていない。

 同様に、どんな愛すべきキャラクターも、授業中にノートの片隅に描かれ、卒業のあと実家のダンボール箱に収められたままでは、産まれたことにならない。

 せめて、だれかひとりにでも。
 いや、もう、私が、自分で、そのひとの存在を忘れないように。菊名田先輩の登場する唯一無二の連載小説をここにはじめ、即座に終わらせた。

 とりあえず、産めた。
 おぼえているからといって、この先、菊名田先輩で新たに一本書こうとか、そんなことはないと断言できるくらいではあるが。
 私は安堵している。
 ありがとう菊名田先輩。
 あなたに逢えてよかった。
 永遠に超高圧電界で唸っていてください。
 お元気で。


Boombox

写真アルバム、というものがうちには、ない。
コレクションとしてのフィルムカメラは何台か所有しているが、
いまや実際に撮るのはデジタルカメラだけだ。
となると、わざわざ紙に焼く必要はない。
だれかに見せるときだって、
LAN経由で私のパソコンにつないでもいいし、
最近のテレビ機器にはたいていUSBメモリが挿さる。
ネットアルバムも、よく使う。
私の両親は、美術部で出逢った。
ちょうど、ラブ&ピースなご時世だったため、
実家にある写真アルバムは、綺麗にカテゴライズされている。
ヌードが多いのだ。
実子の私でさえ若かりし日の父母のラブ&ピースなど見たくない。
他人にとっては、アートというか、ドン引きである。
私は三兄弟の長男。
うえふたりは既婚者で、末弟は同棲相手がいる(女性)。
なんだかんだで、実家にそれぞれの彼女の両親が訪れたりする。
さすがに、うちの親も、ラブ&ピースはまずいと、わきまえる。
対策として、
「おじいちゃんおばあちゃんと孫」
というアルバムが作られた。
三兄弟、それぞれにある。
末弟は、私とは年齢がひとまわりちがう。
さすがに彼のアルバムは、こういう色をしていない。
写真も、アルバムそのものも、その十年ちょっとで進化したのだ。
私のアルバムは、カラーだけれど黄ばんでいる。
小学校くらいからは「100年プリント」などというCMも流れて、
写真プリントは色褪せしないことが売りになるのだけれど、
学生結婚だった両親がアーティスト気取りで、
安いフィルムとプリントで量産した幼い私の写真は、
私自身がおどろくほどに、時代を感じさせる。
ここに写っている祖父は、もういない。
祖母は健在だが、ひさしく逢えていない。
このラジカセを、おぼえている。
牛に、FMラジオを聴かせていた。
この廊下をおぼえている。
寝転がった父が母の胸をブラの上から揉んでいて、
笑って眺められる私は、ふたりの思惑通り、
その行為の意味はわかっていなかったが、
光景として記憶し続け、いまは意味がわかる。
広島の義父母の家の廊下で娘の胸を揉みしだくのを、
幼い息子に見せつけて微笑む。
父と母、若すぎたふたりのラブ&ピース。
このアルバムには、表面を保護する透明フィルムがついている。
酸素によって色素が劣化するのを防ぐためだが、
けっきょく、台紙自体が茶色く変色しているのだから、
紙の繊維の隙間から酸素は入りまくりだったということだ。
スキャナーでデジタル化してしまえば、劣化は止められる。
ラミネート加工すればいい?
けれど、そんなことをする気には、ならない。
この写真は、これでいい。
逝ってしまった祖父がここにいて、幼い私がいる。
ラジカセも、廊下も、カーテンも、ここにしかない。
祖母は、いまと変わらなく見える。
ずいぶんと逢っていないから。
私は記憶を現実とごっちゃにしているのだろう。
現実には、時間は流れている。
祖母が、当時と変わっていないわけがない。
証拠が、この色褪せた物質上に、同時に見える。
この一枚を撮ったのは、父である。
知らぬ間に娘のパイオツが揉みしだかれた廊下で、
彼と彼女は、義理の息子の視線を、まるで意識していない。
それどころか、実の息子である私まで、父を無視している。
この構図なら、写している父の微笑みを感じてもおかしくない。
けれど、写している父の存在は、感じられない。
写っている三人だけの時間が切り取られている。
上手だと思う。
父は大仰な一眼レフフィルムカメラを使っていた。
黒光りするデカい機械をかまえているのに、意識されない。
アーティスト気取りが、身についていたのだろう。
ただ切り取ることは、とてもむずかしい。
切り取ったそれが、永遠である必要はない。
一瞬、だれかの目に触れれば充分。
私自身が見るたびに、そのときどきの確定をする。
ふと、きまぐれで。
黄ばんだプリントをデジカメで乱暴に切り取った。
これをここで見て、見知らぬあなたは。
また違う意味で、この写真を確定する。
あなたは知らないはずだった私の時間を知る。
一枚の写真の大雑把な複製と、添えられたこの文章により。
さっきまで居なかった、私と、祖父と祖母が、生まれる。
いまここにいる私とは違う、あなたの。
別の世界に、また切り取られた、でも、私。
うれしい。
よろこばしい。
どうもありがとう。
大切にする。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 たとえば上の写真などは、帰省のさいの一枚だから、写真アルバムの同じ台紙には、祖父母と孫というテーマの写真しかない(さすがのラブ&ピースな若者たちも、遠い実家に帰省してまでヌード撮影会は開かなかった)。

 いまもけっこうなシェアを持っているはずだが、当時も写真アルバムといえば、ページ留め金具を連結させてページを増やせる形式のものが一般的だった。

 それゆえ、息子たちが彼女の家族を家に連れてくるようになり、すべての写真アルバムを再編集したときにも、テーマがまとまっているものは、取り外せる台紙ごと移動されたのである。つまり、表面の酸化防止フィルムは、剥がされなかった。

 それでいて、この黄ばみ。

 某社の100年プリントにしておけばこんなことにはならなかったのか、と悔いたいところだが。あれも「約100年間、視感上許容される範囲に画像が保持されるもの」という定義らしいので、品質が変わらないわけではなく、まあなにが写っているかわかるくらいには残るでしょうという話(それも、温度24℃湿度60%という条件付きなので、写真アルバムは年中エアコンの効いた専用ルームに置いておかなくてはなりません。謳い文句なんてそんなもの)。

 写真は朽ちるものです。
 それに比べて、記憶はいつまでも鮮明。

 広島の、この家を想い出すとき、私は、風呂に入っている。

 風呂場の隣は牛舎です。
 荒川弘さんの『銀の匙 Silver Spoon』のヒットで、農家ってそういうものだという認識が広まったいまなら友だちなどにも話せたかも知れませんが、あのころの私は、牛とはいえ女性器に獣医さんが頭までのめり込む勢いで両腕をつっこんで血まみれの胎盤に包まれた子牛を引きずり出している光景や、種牛以外の雄牛の睾丸のスジをでっかいペンチでばちんっと切って去勢する場面などに与えられた衝撃を、都会に帰って、だれかに話して昇華するということができませんでした。

Silver Spoon

 風呂に入りながら、隣の牛舎で泣いている牛は、さっきキンタマを潰された、なんて思いながら、自分のまだ毛も生えていない睾丸を触ってみたりしました。生まれたばかりの子牛が脚をガクガクさせながら立ち上がる場面だって何度も見ましたが、それにはそんなに心が揺れなかった。農家の孫で、軒先に蛇だの首切ったニワトリだのが吊してあって、薄めていない牛乳で腹だって壊しましたが、そういう場所で、命って美しい、みたいなことを学んだというよりは、自分も「肉」なんだと教えられてしまった。

 ペンチでこれ切れば、男なのにからだつきが女らしくなって肉が美味しくなるのか、とか、自分も母親のあそこから血まみれで出てきたんだ、とか。あいつら鳴いているけれど、来年にはスーパーにパックで並んでいるんだよな、と思ったら、おなじ肉なのに、肉が肉育てて肉食って大人になるとか、なんだか怖かった。

 写真よりも、もう少し大きくなって、そういうオスとかメスとか生殖とか考えずにはいられない年頃に差しかかった私は、隣で牛が鳴いている風呂にひとりで入るようになり、ますます肉の世界に思いをめぐらせて湯船につかって……

 その風呂場には、曇りガラスの窓がありました。

 そこに、ほぼ毎夜、カエルかヤモリが這い回っていた。
 いや、這い回ってなどいなくて、ガラスが風呂の湯気であたたかいからなのか、やってきてはじっと止まっている。曇りガラスなんだけれど、ぬるっとした生き物が密着すると、透けて見える。ガラスに貼りついた脚の吸盤が、白い腹が。

 チンチンがないなあ……

 って思った。
 かといって、メスだというわけでもないみたいで。
 つるんとしてる。
 爬虫類?
 両生類?
 オスとかメスとかないんだっけ?
 いや、ウシガエルがセックスしてるの見たことあるなあ。

 実際には、ヤモリのペニスはからだのなかに収納されていて、カエルはペニスがないのでセックスできないのにメスの背中にしがみつく。

 けれど、私は、そういう深いことは無視して。
 血まみれの哺乳類に比べて、彼らのなんと清々しく美しいことだろう、と、そんなふうにすり込まれてしまったのです。

 彼らは、私の天使。
 無性の象徴。
 もしくは性を超越したいきもの。
 つるつるでぬめぬめのアンドロギュヌス。

 そういうことを想い出す。
 ああ、だから私の描く、あれは。

とかげの月

 風呂の窓ガラスに貼りついているのです。
 手脚に吸盤のある。
 当サイトは『とかげの月』と申しますが。
 つまりその画は、地を這うトカゲではありえません。
 正確には、ヤモリ。

 月に重ねているので、月に貼りついているかのようですが。
 本当は、こちらに腹を向けているのです。
 生殖器はない。
 隠れているのではなく、私が描くそれは、どちらでもなく、どちらでもある。

 昼間、牛舎の床に流れた血の色を打ち消すための、冷たく青い爬虫類は、幼いころに私の心を安定させてくれて、それからずっと私のなかに棲み続け、いまでも。
 私のものすごく重要な一部。

 とかげではなく、やもり。

 でも、当時の私が、それをトカゲだと思っていたから。
 だから私の一部は、とかげ。
 ただし、爪はなくて吸盤で、隣で啼く血も肉も超越して。
 ぬるいところが大好きで、ぬめっと生々しく生きている。
 肉を食うのに悩んだことはない。
 牛乳も好き。
 好き嫌いはない。
 セックスも好き。
 性別を変えようと思ったことはない。
 そもそも男とか女とかあんまりどうでもいい。
 けっこう生きやすい。
 とかげのおかげ。
 それに、肉のおかげ。

 一枚の写真でいろいろ想い出す。
 記憶もすごいが、写真もやっぱりすごい。







だって、ほめてほしい人の目にうつっても、
評価されないかもしれない世界なんて、
耐えられない。

Cupid

北崎拓 『クピドの悪戯2 さくらんぼシンドローム』

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 こっちが最高の技を繰り出したって、相手が「ふうん」て反応なら、それまで。だから恋愛なんてしない。勉強が好き、仕事が好き、スポーツが好き、ゲームが好き。負けたとき、負けたことに納得できる世界で生きていたい。

 という文脈で上のセリフは発せられているのですが。その彼女は、このセリフの直後、自分が生まれてはじめて本気の恋をしているのだと気づくのでした。北崎拓さんの『このSを、見よ!』が完結しましたが『クピドの悪戯』シリーズを読んでいると、恋なんて概念は動物としてのハーレムを解体するため生み出された性欲の美化だったはずなのに、いつのまにかそこから切り離された、ヒトをヒトたらしめるなんらかの別要素になってしまっていて話がややこしくなってしまったなあ、と感じます。

 それはさておき、ブログの執筆は恋に似ています。
 なんのために書くのか。
 いやまあ実際的な利益もあるっちゃあるのですけれど、そこだけが重要なら、近所のパン屋で時給800円くらいで働いたほうがずっと儲かる。以前、声をかけてきた宗教関係のかたが、世界の貧困がどうとかいう問題を神の実在にからめて信仰こそが世界を救うのだとか言うから、あなたは本当にこの瞬間も飢えで死んでいる子供がいるのだということがわかっていて、そのことについてなにか行動がしたいのなら、布教活動ではなく一時間パン屋で働いてその金を送ってやったら、たぶん数十人とか数百人とかの子供が数日生き延びることができるはずじゃないですか、いや私はそれがわかったうえで私の人生のほうが大事だからこんなふうに町をふらついているのです、と表明したら話が終わってしまったことがありました。
 宗教も恋に似ています。

 恍惚できる遊戯。

 スマホ依存とか、麻薬中毒とか、ランナーズハイとかも、外から取り入れるにせよ自家中毒によるものにせよ、うっとりふらふらできるからやめられなくなるので、そういうものどもも恋に似ている。

 十代のころコンプレックスまみれで、でも好きなひとができて、そのひとを振り返らせるために自分を磨きあげて別人のようにまでなれたのだけれど、内面も外面もだれが見ても魅力的な人物になってそのひとに挑んだって、恋なんてのは。

「ああ、おれ、背が低くて貧乳の相手じゃないと……ていうか10歳越えたら女じゃないわ」

 なんてことがままあるわけで。
 趣味嗜好の相違ならまだしも、骨格とか年齢とか性別とか、そういうイジれないものによって双方向の恋は成就しない可能性が極めて高く。まだしもロリコンだとかゲイとかいうならその場であきらめておしまいなところを、自分を磨きあげて告白なんかしたばっかりに、微妙にキープされてしまっておどろおどろしい人間関係に半生をついやしたり、死ぬまで知りたくはなかった変態プレイを強要されたり、単純な暴力の犠牲になったりとか。
 そういうことになると、耐えられない。

 だから、ほめてほしい人に対しては、勝手に恋をし続けるのが良い。

 相手がなにを望むかを考えない。
 どうせ交わることなどないんだし。
 恋というオナニーで脳内麻薬に恍惚となって幸せに生きたい。
 そうなるともういっそ、相手の実在は不要でさえある。
 あのひとが実際はどんな人間であろうとも、こっちの恋には関係ない。

 そんなわけで、ザーサイの塩抜きをします。

 なぜ? 知るか。
 さっきやった作業を、写真に撮ったから、書く。
 けれど、私のなかのあなたは、その記事を楽しんで読んでいる。
 私の恋するあなたは、信じるあなたは、私のすべてを受け入れてくれるのです。
 いや、なにも言わないで。
 だからそう言っているじゃない。
 本当のあなたがどうであろうが、こっちのあずかり知るところではない。
 私は、私のあなたへ、ザーサイの塩抜きの様子を露出して恍惚となるのです。
 私は私の恋を信じて書くのであって、恋の対象たるあなたが実在しているかどうかは、あまり重要なことではないのだよ、この場合。コスチュームプレイ上のナースが実際にナースでないことなどわかっていてもこっちにとってはナースなのと似ている。コスプレも恋。ザーサイの塩抜きについて書くのもそう。

 ほら、こういうことをグダグダ書くと、せっかくザーサイの塩抜き情報を求めて検索してくださったかたのひんしゅくを買う。私にとって、それは本意ではない。恋はシンプルなほうが良い。

 まずは、中国直輸入の食材を扱っている店へ行き、500gで198円が相場のザーサイホール漬けを買ってくる。
 こういうの。

zhacai

 通販で買うと送料のほうが高くつくのでオススメしません。業務スーパーや成城石井なんかでときおり目にすることもあります。中華街に行けば確実。これに馴れてしまうと、瓶詰めのちっちゃい数百円のザーサイなんて買う気になれない。なにせ重量感がものすごい。
 買ってきたザーサイを、ボールにぶっこみます。

Zhacai1

 まわりのトウガラシが見えなくなるまで水洗いして、スライスします。
 それをまたボールにもどし、水に浸す。
 そのまま三十分。
 水を替え、もう三十分。

Zhacai2

 このあたりは、買ってきたザーサイがどの程度の塩漬けぶりかで時間を調節するところですが、うちではたいてい一時間です。一晩抜くひともいらっしゃるそうですが、ザーサイって漬け物ですし。塩辛いものですし。塩辛いからこそ、料理に生かせるのですし。

 水気を切ったら、スライスのまま、大きめのジップロックに入れて冷凍します。

Ziploc

 重ねあわせたままで大丈夫です。ザーサイは凍っても、微妙なやわらかさを保持し続け、解凍せずに包丁で刻むことができる。そこが便利。ただでさえ数ヶ月保つ漬け物を、すぐ使える状態にして冷凍可能。だから大袋。うちでも、一年に一回買うかどうかです。でもそれで絶えず冷凍庫にはザーサイ。

 大さじ一杯くらいの刻みザーサイの塩味だけで、焼きそばを作ってよく食べます。紅生姜と、卵も足して。日本でザーサイというと、ラーメン屋で食べ放題の漬け物みたいなイメージですが、ひとりぶんの食事を作るとき、味つけ不要のお手軽食材として大活躍です。チャーハンとか、ただ蒸しただけの鶏ササミにザーサイと大葉を加えたのとか、大好き。むろん、弁当箱にタクアンのかわりに隙間詰めすることも多し。タクアンと違って、弁当箱を丸ごとレンジにかけて温まってしまっても、ザーサイなら許せます。ぬるいタクアンや梅干しは、すごく嫌い。

 さっき、ザーサイを冷凍庫に詰めてきた。鶏肉、ニンニクの芽と炒めたのは、最終的にトマトとキュウリといっしょに冷麺の具になりました。からしをたっぷり添えて。美味でした。ちょっとザーサイ多すぎて辛かった。だって冷凍庫に入りきらなかったんだもの。

Zhacai3

 だからどうした?
 いえ。おしまいです。
 それだけです。
 ふへぇっ? とノンフィクションのあなたが戸惑っていても。
 ザーサイの塩抜きかあ、とニヤニヤしているあなたを夢見て眠りにつきます。
 ほめてほしいひとに必ず評価される妄想の世界をヒトの脳は得た。
 活用しなくては。
 布団のなかで届かない言葉をむにゃむにゃ言うのです。
 そして勝手に身悶えるのです。
 これがあるから耐えられる。
 愛してる。
 おやすみなさい。
 搾菜好。