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※映画『オッド・トーマス』を日本語検索されて、この記事にたどりついたあなたへ。あなたのいま現在が何年の何月何日なのか存じ上げませんが、この記事の最後に「重要な追陳」がございます。呪いの存在はそれとして、それゆえに恩恵を受ける者もいたのだという、まさにOddな話です。もしもまだ間に合う時間軸のなかであなたがここにたどり着き、さらには東京か大阪に在住であるならば特に、ぜひとも追陳にまで目を通していただきたい。


 呪いは存在する。

 この国でポピュラーな呪いといえば丑三つ時のワラ人形釘打ち儀式だが。
 ふつうに考えてあれは、御神木に五寸釘(長さ15センチ、径5ミリ)を突き立てるという時点で、相当な筋力を必要とする。5ミリの太さの釘を、生木に叩きこもうと思えば、そこそこ屈強な私でも、頭が鉄でできたでっかいハンマーをセレクトして、それでも汗をかく作業。それが、よく昔語られるように、線の細いお嬢さんが木槌で、なんて日には、たぶんひと晩中かかる。

 汗だくで、もうやだ、あたしなにやってんの、きーっ、などと奇声を発しながら、それでもやると決めたからにはワラ人形を御神木へ固定する。髪を振り乱し、二の腕はもうパンパンなので、腕を振り回して遠心力で木槌を五寸釘へ打ちつける。

 かーん。

 かん高い音がする。
 ひと晩中だ。

 御神木を奉るような神社は、たいてい、山の上にある。
 ふもとの村では、目を覚ます者もあろう。
 ワラ人形を持って真夜中に山を登るような精神状態になっている村人がいれば、そんなのは本人は気付かれていないつもりでも、まわりは気付いているに決まっていて、だとしたら、その呪いの矛先となる人物も特定は容易である。

 かーん。

 だれかが、自分を呪って釘を打っている音を、みんなが聞いている。その日からは、他人の視線が痛い。スジちがいな呪いならまだしも、身に覚えのあることで呪われたのだと自覚すれば、それだけで体調をおかしくする可能性は充分にある。

 自主的に倒れなくても、釘を打った彼女は、ちゃんと相手が呪われたか確認するはずだ。ということは、病的な精神状態の両腕が筋肉痛でぷるぷる震えているやつれた女が、気がつけば物陰からあなたになにか不幸が訪れないかと見つめ続けているのである。
 それそのものが呪いの成就といえる。

 そういう理屈でいうと、飛行機事故は連鎖する、というのも呪いの一種と捉えることが可能だ。統計学的にかんがみれば、年に何機も飛行機は落ちないのであって、先週、どこかの国の飛行機墜落が大ニュースになっていたのなら、それこそが今週は事故が起きない御守りと考えてもいいくらい。

 しかし、ほぼすべてのひとが、そうは考えない。

 飛行機は落ちることもあるのだ、ということを思い出す作用しかなく、先週の事故は、最新鋭の旅客機も不具合を排除しきれてはいないという証明となる。

「これも落ちるんじゃないの」

 その旅客機の、乗客のほとんどが考えている。
 空気感を、乗務員も共有する。
 パイロットに、伝染する。

 落ちる、という呪いに絡めとられてしまう者は、確実にいる。

 なにが言いたいのか。
 単純なことである。

 呪いは存在する。
 呪いとは、呪う者がいて、呪われる者がいなくては成り立たない。
 逆説的には、それだけで成り立つのだ。
 いとも簡単に。

 クーンツ作品の映画化は呪われている。

 映画化自体がとんとご無沙汰だったので、忘れられかけていた。しかし、新作の撮影が快調だというニュースが流れ出す。
 そんなこんなで、私も、こういう記事を書いた。

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映画『オッド・トーマス』の話。

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 まだ、夏は来ていなかった。
 映画『オッド・トーマス』の全米公開は、夏の初め頃だと聞いていた。

 そして、いま、夏が終わろうとしている。

 私はあわてて、ニュースを読みあさった。
 映画関係の英語サイトは、いくつかネットサーフィンのルートに入っていたのに、この夏、その映画が公開されたということさえ読まなかった。なんという怖ろしいことか。トレーラーはなかなか良い出来に見えたのに、原作はニューヨークタイムズのベストセラーに載っていたのに、その映画が、メジャーなサイトではどこも話題に上げられないほど、大コケた?

 そういう呪いなのか、と思いつつ。

 検索をかけては読み、を繰り返し。
 小一時間で、頭を抱えた。

 ……公開、されていなかった。

 あまりに出来が良すぎて、年末の超大作ラインナップに昇格、というわけではない。

 訴訟が起こされていた。

 呪いを流布したくないので、ニュースソースも書かず、勝手な翻訳で、いくつかの記事の要約を、さらに要約し伝えさせていただく。
 骨格は、実にシンプルなニュース。
 それゆえ、おもしろくもなんともない。
 大手サイトが、どこも記事にしなかったわけである。

 まとめ。

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 Two Out of Ten ProdsとFusion Films、つまりは映画『オッド・トーマス』制作者側が、融資されるはずだった金額が支払われなかった結果として生じた補償的損害賠償、懲罰的損害賠償、弁護士費用、訴訟費用、およびその他の救済のために、投資ファンドとそれに関係する数名の個人に対する訴訟を起こした。

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 なにがおもしろくないといって、ニュースに肝心のクーンツ師の名が出てこない。

 儲かるべき映画作品に、預かったみんなのおこづかいを投資する投資ファンド。しかし彼らは撮影の最中に、

「これ、思ったより当たらないんじゃね?」

 という会議を開いた。

 ちょっと評判はどうなのか調べてみたら、極東の島国で過去のクーンツ映画の駄作っぷりと並べて『オッド・トーマス』も大丈夫なのかしらん、などと書いているそいつは島国にいるのだからアメリカでの公開時にチケット代を落としてくれるわけでもなく。

 そういった諸々の結果として、当初の計画よりも絞った融資に切り替えたが、制作者側は「今度こそ当てるクーンツ超大作」として撮っていた姿勢は変えず足りないぶんを自分たちで都合して撮りきってしまい、しかしそのために広告費を削らざるをえなかったため(公開予定だった今年になるまでトレーラーが出てこなかった理由がこれのようだ)、ついには配給不能の判断が下された。

 突き詰めれば、金払う側はクーンツの映画はコケる、という呪いに途中になって侵食されはじめたが、作っている側はクーンツ師の傑作を映像化だぜおれらが歴史に名を残す、という凶信者ぶり。

 ディーン・クーンツってあれでしょ、三本に一本は内容のない小説になる、プロットなしでまぐれ当たりの傑作を求めて作品量産している「売れたB級小説屋」でしょ?

 そういう冷静な分析をするひとたちが、どうしてあんな作家の小説がときどきベストセラーリストに顔を出すのか理解できない、と言ういっぽう。

 そこがいい。

 自分でも理由を説明できないまま、あのおっさんの書くものが好きだから好き、という分析不能なクーンツ信者たち。
 おそらく、金を引き上げたのは、ファンドではない。訴えられた側に個人名が並んでいるところを見ても、実際に土壇場で渋ったのは、ファンドに金を預けていた個人投資家たちなのだ。預けられていた金を引かれては、運用できない。ファンド側は説得したはずだ。

 クーンツっすよ。

 要は、それが伝わらない。
 今回は、クーンツ師はなにも悪くない。
 そして、映画は完成している。

 裁判の続くかぎり、アメリカ本国での公開はない。

 そんななか。 
 どうも、ハンガリーでDVDとしてリリースが決定。
 私はそれをディーン・クーンツ自身のツイッターで読んだ。

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『Dean Koontz 公式ツイッター』

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(恐れ多いので引用しないが7/19の投稿です。私の知らないハンガリーとクーンツの素敵な関係がありでもしないかぎり、ずいぶんと皮肉の効いた文章を綴っておられるように読める)

 ハンガリーとアメリカの両Amazonさんで販売されている様子はないが、あろうことかいま現在、YouTubeにはハンガリー語吹き替えの映画全編がアップされている。そのうえ、Odd Thomas 2013 DVDRIPと称する、いくつかの別言語バージョンまで存在するのを確認した。

 そのうちだれかが気付いて削除されると信じたいが、かようにどこの国であれ、公開前にディスクに焼いてしまえば、海賊版の横行は必然の理。それはすなわち、焼いたところで大儲けなどできないディスク版で、微々たる資金を回収するかわりに、劇場公開時の興行成績をいちじるしく落とすという行為。

(私はハンガリー語吹き替え版を途中まで観て、どうやらちゃんと最後まで観られるようだと判断できたところで観るのをやめましたが。原作に忠実な映画化なので、理解できない言語でも、ファンならスジを追って観られます)

 これが本当に制作者側の判断にもとづくものであれば(いや、実際に映画全編が流出しているのだから、疑う余地はないのですけれど)、選ばれた道はあきらかだ。

 『Odd Thomas』映像化は、『Odd Thomas Movie』として観客からではなく、映画化そのものを滞らせた資金提供者たちから儲けを回収する。

 遠い異国の地でDVD権を売るなど、そうでもせざるをえないほど、我々は困窮していたのです、だって全精力をかけたクーンツ超大作がまったく広告できず、公開のめどさえ立っていないのですよ!
 という敏腕弁護士の戦略であることは、ほぼ間違いない。

 クーンツ師が、自身の公式サイトで映画の出来に満足していると言及している。

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『Dean Speaks About the Odd Thomas Movie « Dean Koontz』

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 つまるところ、この訴訟が片付かないかぎり……いや、おそらくは、片付いたところで……私の願いは、またかなわない。

 ついにくるのかクーンツファンがブーイングせずに観られる映画化が!!

 もうすでにブーイングしてしまったし。
 先生が褒めちぎるほど完成度の高い作品に仕上がりながら、それがDVD販売? 想像しにくいことだが、訴訟に勝った制作者たちが、たんまり資金を回収したとして、映画『オッド・トーマス2』は制作されるだろうか。DVDを観たクーンツフリークな人々の応援の声があれば?

 私も大人です。
 そんな夢は見られません。
 アントン・イェルチンと、アディソン・ティムリンのオッド・トーマス。彼らも、うんざりだと思っているかも。続編のオファーが数年後になったら、実年齢の上がったふたりに幼さの残る純朴なオッド君とストーミーとして主演をやらせるわけにはいかないし、キャストを変えるなら、DVDを観て推した観客の期待には添えない可能性が高い。

 オッド・トーマス・シリーズの映画化に、今後、手を出そうという者は現れるだろうか。

 これが呪いでなく、なんなのか。
 ディーン・クーンツ原作の映画を、私は劇場で観たことがない。
 いまが旬の俳優と、良い脚本によって、原作者クーンツが満足したその映画も、私はきっと自宅のテレビで観る。来年だろうか。何年後か、だろうか。

 DVDを買うだろう。
 ああ、うれしいな。
 あなたにも勧めたいが、強くは推さない。
 原作がすばらしい。
 読んでいないなら、読んでみてと推す。
 それで充分だ。
 この話はこれでやめよう。  
 気分がすぐれない。

ODD THOMAS

ODD THOMAS

※重要な追陳。

 現在、以上の記事を書いてから数か月後ですが。

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映画『オッド・トーマス 死神と奇妙な救世主』の話。

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 限定的ながら日本公開はおこなわれ、私、大歓喜の巻。
 敏腕弁護士さん、よりにもよって日本を選んでくださるとは、もう私に観よ吠えよとそそのかしているも同然。そして私は、そそのかされるままにわめき散らす。

 なんで日本先行限定公開、素晴らしい仕上がりなのに、ちゃんと手順を踏んで宣伝打って、

「ベストセラー作家ディーン・クーンツの全米大ヒット映画化が日本上陸!!」

 と銘打って公開していればもっとずっと儲かったのに!!

 さあ、これでいいですか。
 ぜひとも訴えた制作者側に裁判は勝っていただき「幻の傑作となるところだったオッド・トーマス・ムービー、ついに全米公開!!」の日を迎え、賠償金と興行収入の二重取りで潤ったあげく、野心を持って続編の映画化に向かっていただきたい!! ハマり役だと証明されたアントン・イェルチンが清廉無垢な青年オッド・トーマスを演じられるそのうちに!!

関連記事・・・・・・・・・・・・・・

『Dean Koontz師のサイン本』の話。

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 前回の、アンディ・ウォーホルの映画の続きで、とあるゲイをモチーフにした映画の話をしようかと思っていたのだけれど、そんなことよりも今週観たプロレスの試合がすばらしかった。

 DDTプロレスリングの両国国技館大会が、今年の夏は2DAYS。
 その一日目、『DDT万博~プロレスの進歩と調和~』は、各種アイドル(筋肉少女帯や「冬のオペラグラス」を熱唱する新田恵利を含む)のファンに席を埋めてもらって、内容もきらびやかに。そして、メインイベントだけが、純粋にプロレスラーふたりの一騎打ちだった。

 私が観ていたテレビ中継はプロレス・格闘技の専門チャンネルがおこなっていたものだったので、プロレスに興味のないひとが観てはいない。でも会場は、冗談でなく、プロレスのルールすらわかっていないひとが、少なからずいたと思う。両国国技館で、リングの上というよくわからない舞台ではあっても、メジャーデビューは果たしているけれど、まだインディの香りただよう推しているアイドルの晴れ舞台。二階席3000円なら親心。彼女の笑顔をそっと覗きに来ただけ、というかたがいっぱいいるだろうことは、事前にわかっていた。

 その大会のメインイベント。

 男色ディーノ vs 飯伏幸太

 この試合について、触れたい。
 触れてみてどうなるのか、書いてみて、読んでみて、おもしろいのかどうかはわからないが、ともかく私はその試合を観ているさいちゅう、ああ、とか、おお、とか、感嘆のため息をつきっぱなしでしたもので。

 で、なぜその試合が、ゲイ映画の話と置きかわってしまったのかといえば、プロレスラー男色ディーノがゲイレスラーであるから。

 ゲイレスラー。

 そう本人が表現している。
 おかしな表現だと思う。
 むかしから、男色をキャラにするプロレスラーというのは多い。特にプロレスの本場、メキシコのルチャ・リブレと呼ばれるエンターテインメント性を追求したプロレスでは、屈強な男のケツを追いかける屈強な男という絵が、子供から大人まで笑える健全なネタとして披露されることはある。

 男色ディーノも、そうだった。
 それが最近、なんだか芸に(ゲイに?)深みが出てきたのか、彼の試合を観ていると、ただ笑うだけではないことに。ヘタすると、涙腺を刺激されることまであったり。で、たぶんそれは彼の試合を観ているみんながそうなのだという証明として、プロレスを観ないひとでいっぱいの両国国技館でこそ、ディーノを、という流れになったのだ。

 相手の飯伏幸太は、説明は省くが、プロレス界が誇る超新星。
 いわゆるジャパニーズ・スーパースターのひとり。

IBUSHI KOTA

(人名に強いATOK変換だが、イブシコウタを変換すると「燻し小唄」と出た。昨夜観た『リンカーン』で、プロレスリングNOAHの絶対王者、杉浦貴が新日本プロレスのテーマで入場させられていたのを見ても、プロレス界でのスーパースターは、まだまだだれもが知る、という存在ではないからこそ、我々プロレスファンが叫ぶ余地なのである。天下のATOKさん! この日本で、いま「燻し小唄」と入力するやつがいるとお考えですか? 私が断言します。間違いなくその全員が「飯伏幸太」と変換して欲しがっている! アップデート対応を願います)

 DDTプロレスリング以外の団体でも大活躍。
 女性ファンも多い。
 その相手が、男色殺法の使い手、男色ディーノ。
 入場から「狩り」と称して客席の男性客の唇をガチで奪うというのがお決まりのゲイである(ときどき、あのひとは男色ディーノが初チューの相手だったのかもなあ、という反応のお客さんがいて、自分で望んで会場に来たのならいいけれど、友だちに連れられてこんなことになるとはつゆ知らず、とかだったら、本当に人生ってわからないものだなあ、なんて思わされる)。

 魅せる側も観る側も。
 そりゃ当然、飯伏幸太が唇うばわれそうになるのから逃げまどいつつ空中殺法を放ち、それでも追いすがる男色ディーノが必殺のファイト一発を極めるのかどうなのか、両国国技館のいつもは裸の力士たちが踊る土俵の上に設営されたプロレスのリングで、力士よりも裸の(ディーノは脱ぎます)ふたりが、公開ファックで女性ファンの悲鳴をあげさせるのか。
 そういう試合だと、思ってた。

DIENO

 事実、そういう試合では、あった。
 ただ、リングを取り囲む彼女たちの悲鳴がひときわ高周波になったのは、飯伏幸太がラリアットを放つのをやめ、男色ディーノのキスへ、キスを返した刹那だった。

 ラリアート(Lariat)とは、なにか。
 クローズライン(Clothesline)とも呼ばれる、プロレス技のひとつである。
 走ってくる相手の行き先を、閉じる。
 なにで?
 自分の腕で。



※以下、内容バレまくりです。
 バレたところで影響のない作品だと私は思いますが、どんな試合であれ観ていない試合のストーリーは知りたくない、というかたはここで回れ右をおねがいいたします。

(この試合を含む『DDT万博〜プロレスの進歩と調和』の様子はテレビ東京で9月29日深夜3時46分から1時間枠で放送される予定。おそらくは地上波らしくBiSプー・ルイのスク水吊り天井や坂口征夫・憲二VS渡辺哲の俳優対決あたりがクローズアップされて、純プロレスは超ダイジェストになっている予感ではありますが。観られる地方のかたは、地上波ですし夜のお供に、ぜひごらんになってくださいまし)

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 ディーノ入場。
 ドアの脇にいた細身の立ち観客(男)の両方のほっぺたを手で固定して接吻。
 直後、椅子に座っていたガタイの良い短髪の男を背後からのけぞらして接吻。
 三人目には拒否られ、彼の持っていたペットボトルのお茶を奪って口に含むと、その彼とは無関係と思われる後列席の女性の顔面へお茶霧を吹きかける。
 女性は笑顔。
 階段を下りながら、太めの白Tシャツ男性へすばやくキス。その彼の隣にいた彼とは対照的に痩せた男性が、太め男性を奪われまいと抱き寄せたように見える。この儀式、ノンケよりも、男カップルで観に来ていた本職の方々にとってこそ、戦々恐々なものなのかも。
 黒いシャツの男が、みずから両腕をひろげてディーノに求める。
 ディーノは躊躇せず、その男のシャツを脱がせると、客席の遠い位置にまで放り投げ、両国国技館の観客席で上半身裸になった彼へキスは与えず背を向ける。
 「狩り」なので、求められても好みに反すれば冷たくあしらうし、女性に対してはボディタッチさえ許さない。一種の美学が構築されている。
 デジカメを向けた眼鏡の男性の、そのカメラを奪うと、自分のショートタイツを左手で引き延ばし、剥き出しの股間に向かってフラッシュを焚く。
 カメラを彼に返す。
 リングが近くなってきた。
 さっきのカメラ青年が最後かと思っていたら、通りすがりに帽子の男性へ熱烈な接吻を贈る。リアルに好みだったのだと思われる。彼は帽子を落とした。それほどに抵抗したのだが、ディーノのキスはすばやく、抵抗は無駄だった。
 ようやく花道にあがり、大の字になって寝ころぶディーノ。
 両国国技館を、堪能しているようである。

 いつものことだ。
 しかし、前述のように、この日はアイドルファンが多い。最後の帽子の男性などは、ディーノが横を通るのにキスされるまで逃げる姿勢ではなかったことから、ある種のお約束があって、接吻されるのはDDTプロレスファンの一部信者に限られているのだろうと楽観していた節がある。
 その会場でも、狩り遂げた、ディーノにまず拍手した。

「国技館のメインに、ついにゲイが立ちましたよ」

 解説が、がなる。
 そうなのだ、ときにはもめ事が起きてニュースにもなる厳格で神聖なるとされる女人禁制な国技の土俵の上に、その夜のリングは設営されているのだった。
 だが、いま、そこにブーイングはない。
 女性アイドルが歌い、女性客がお茶を吹きかけられて笑い、ゲイのカップルが嫉妬し、試合がはじまって、飯伏幸太をリングに押さえつけた男色ディーノが、尻に男根をこすりつけている。
 プロレスは国技ではない。
 だが、国技館はプロレスを赦す。
 プロレスが赦されるということは、それを観ている私が赦されたということだ。

 攻防は続く。
 飯伏幸太は、なんどか手をショートタイツの中へ引き入れられたり、タイツの上から股間をわしづかみにされたりしたが、果敢に得意の空中殺法を披露していた。

 だが、試合中盤。
 ディーノが、ラリアートを放った。
 そのうえ、ラリアートの神、スタン・ハンセンの真似をして、テキサスロングホーンを発声する。

「ウィー」

 プロレスファンは、呼応する。
 ひとさし指と小指を天に向け、ウィー、の叫び。
 それは、そのラリアートが、男色殺法ではなく、二十世紀からつながる正統派、王道のプロレスの秘技であることを指し示していた。
 男色ディーノが「ふつうに」プロレスをはじめる。
 プロレスファンのみならず、両国国技館の観客が沸く。
 飯伏幸太もラリアートを返し、ディーノは肘を撃ち返す。
 ふつうのプロレスだ。
 それに会場は、興奮している。

 ひとしきり、その攻防が続いた。
 半裸の男と男が、互いに殴りあっているのである。
 そんなものは、だれの目をも惹くに決まっている。
 知識は必要ない。
 ただ、予備知識のない観客こそ、どう見ても飯伏幸太の肉体のほうが隆起した筋肉を備えているため、ディーノは劣勢だと見る。

 だから、ついにディーノが肘ではなく、拳を握ったとき、ため息のような歓声が起きた。プロレスを知っている者は、拳で殴るのは反則だと知っているから。知らない者も、追い詰められた男が拳を握るのは、最後の手段だと知っているから。

 ディーノは、その拳をふるった。
 と、見せかけて。
 飯伏幸太の股間にそっと触れた。

 会場がざわつく。

 腰が引ける飯伏幸太。
 かまわず、もういちど股間へ触れるディーノ。
 試合序盤のように、握ってはいない。
 指先で、タイツの上からなぞるように触れるだけ。
 肘を強烈に撃ち返す、飯伏幸太。

 男色ディーノは、接吻する。

 飯伏幸太が、戸惑った顔をした。
 また肘を撃とうとして、ためらう。
 そして。

 飯伏幸太は、ディーノにキスを返す。

 沈黙する国技館。
 そして拍手と、大歓声。
 頭を抱えるディーノ。
 飯伏幸太が接吻に接吻を返すことができるのならば、それは「技」として成立しているのか。

 観ている私も悩む。
 しかし、飯伏幸太にダメージのないはずはない。
 男色ディーノの判断も、同じだった。

 もういちど、唇を彼の唇へ触れる。
 よろめきながら、飯伏幸太も、また返す。

 キスにキスを返すをくり返し、十五回ほどの攻防の果て、男色ディーノが、飯伏幸太の首を抱えてディープなキスを撃つ。

 くずおれる、飯伏幸太。

 さっきも、観た光景だ。
 ラリアートを撃ちあって、肘をぶつけあっていた。
 王道のプロレスと、起きていることは同じ。

 その後、ディーノはよろめく飯伏幸太の頭をタイツの中にねじ入れて頭から落とす(男色ドライバーという技)が、飯伏幸太は倒れず。

 試合が二十分を越えるころ、接吻の応酬がもういちど。
 もはやそれは、ラリアートと同じ扱いだった。
 唇を撃つ。撃ち返す。
 
 最後は、飯伏幸太の肘だった。
 国技館の中心で、横たわる男色ディーノ。
 飯伏幸太は、フェニックス・スプラッシュ(横方向半回転180度、縦方向一回転半450度、回転しながらのボディプレス)でディーノを沈黙させる。

 20分59秒の試合。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 いつか読んだBL小説に、そんなフレーズがあったよなあ、と、本棚をまさぐってみる。

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「唇から『そんなとこ』まで、全部ひと続きの皮膚だぞ」

Dressage

 いつき朔夜 『初恋ドレッサージュ』 

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 だから、そんなとこを舐めるなんて、という受けの反応は、恥ずかしい自意識過剰だ。
 そうも読めるが。
 前回、ウィーホル映画の局部モザイクに触れたところで書いたけれど。

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『Andy Warhol Presents: FLESH』のこと。

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 日本では、まずいところを隠せばそこにエロはないという法解釈なので、年齢区分はあるものの法的な意味でのポルノというものは存在しない。そして、隠すべきは男性器と女性器ということになっているので、たとえば性器をすべからく隠す衣装を身につけていれば、肛門は検閲の対象にならない。ということは、男色ディーノの試合で、解説者がよく「放送事故になりますっ」と言っているものの、ショートタイツをずらして尻だけを剥き出しにする行為は放送上なんの問題もないし、もしもディーノの肛門そのものが映ってしまっても、モザイクをかける必要はないということである。

 その前提で考えてみれば。
 フェラチオされて、アナルを舌先でくすぐられて「そんなところを」と恥ずかしがる男ヒロインは、彼の「唇から全部ひと続きの皮膚」発言に反論できないけれど、でもまだ恥ずかしいという場合、むしろ唇にパンツを穿く必要がある。否、パンツが丸見えではそれも恥ずかしいので、顔にジーンズくらいは穿くべきだろう。

 おかしな話に聞こえる。
 自分で書いていて、頭のおかしな文章だと思う。

 けれど、私はさっき、ラリアートとキスに、同じように心揺さぶられた。
 ラリアートに倒れた男色ディーノにまだやれると声援し、ディープキスに膝をつく飯伏幸太へ、やり返せと手に汗握った。

 ヒロインは、恥ずかしがらなくていい。
 赦すなら、すべてを赦せばいい。
 赦しただれかにカラダの隅々まで味わわれるのは、罪ではなく祝福だ。

 ということを突き詰めていくと。

 『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』で聖天使神猫が初デートで彼と手をつなぐことになり、手と手が触れただけで興奮のあまり鼻血を出してデート続行できなくなったのは、それこそ恥じらう乙女として正しい反応なのだ。

camineco

 手だって、ひと続きの皮膚。
 手に手を触れるのが、唇と唇を、性器と性器を触れあわすのと、なにが違う。
 それだけで気が遠くなる絶頂の極みに到達したって、おかしくない。

 エルビス・プレスリーのライブでは、失神者が続出したという。
 近ごろ、そういう話は聞かない。
 ライトノベルの登場人物たる、男免疫のない腐女子代表は初デートで指が触れあっただけで鼻血るけれど、現実にはいくら異性に免疫がないとはいえ、フォークダンスで大好きなあのひとと触れあうことになっただけで、その場でイッてしまう男子も女子もいないと思う。

 裏を返せば。
 だからBLやラノベのヒロインに描かれる。
 プロレスが成り立つ。



PiCNiC

 地球最後の日に。
 それでも最初は、さぐりあうように。
 やがて、互いのカラダの内へ。
 短い舌は絡むほどにはならなくて。
 けれど濡れた音は、混ざっていると感じられる。

 だんだんと、激しくなっていくラリアートの応酬。
 途中からキスに変わって、またラリアート。

 どんなアイドルにも、気絶はできないスレた世紀。 
 触れるだけで満ち足りることは、できない。

 欲しいのは、赦されること。
 ゆるされること。

 だれかを好きになることは、
 だれかを好きになれる、
 自分を好きになること。   
 
 あこがれる。
 さぐりあいながら、膝をつきながら。
 アザだらけになりながら。
 ついには気を失うまで、触れあえる。

 ラリアートか、キスかは、どっちでも同じ。
 ひと続きの皮膚。
 当たり前のこと。
 肛門を舐められて悦ぶなんて、好きだから。
 もっと好きになれば、手をつなぐだけでイっちゃう。
 ラリアート?
 撃ってみて?
 もしかして、天国まで飛ぶほど気持ちいいかも。
 パンツを脱がされたら頬を染めたい。
 触れるだけで鼻血を出したい。
 すべての力を出し切るまで、殴りあえる相手なんている?
 いるなら、キスもしたい。
 最初はそっと、やがてくちゅくちゅと濡れて。

 アイドルレスラーと、ゲイレスラーが、伝統の土俵の上空でどこまで赦されるのかと演じ、だれもがまだまだだと赦し、性別も性癖もなにもかも関係なく、みんな気付く。

 これに微笑んで、感動してる。
 ゆるしてる。
 私も、まわりのみんなも、気持ちいい。

 良い試合だったんですってば。
 良い大会だった。
 アイドルも好きなので、おなかいっぱい。
 赦されて、満ち足りた。

 いわゆる賢者タイムがおとずれる。

 私は願う。
 あなたに、私にとってのプロレスのようなものがあればいい、と。
 いや、実は、プロレスそのものが、あなたの赦しかもよ? 

 飯伏幸太は、プロレスをメジャースポーツの座に推し上げたいと言った。
 野球や、サッカーのような。
 仕事が終わって、ビール飲みながら、ゲイレスラーのキスの巧妙なすばやさと、尻は魅せるが局部は巧みに隠すテクニックについて語りあったりする。
 そりゃあ、楽園だ。
 ていうか、いまこれを書いている、私がまさにその楽園にいる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

『DDTプロレスリング公式サイト』

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

『男色ディーノのゲイムヒヒョー ゼロ - 4Gamer.net』

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ↑飯伏幸太先生にはツイッターが、男色ディーノ先生にも公式ブログがあるのですけれど、私も毎週読んでいる、こちらのゲーム情報サイトのコラムのほうが、内容に深みがあってオススメです。
 まず、入口として。





 東京の国立国際美術館で、ウォーホルの『200個のキャンベル・スープ缶』が日本初公開されているそうで。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

『アメリカン・ポップ・アート展 American Pop Art From the John and Kimiko Powers Collection』

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 いいなあ。と思ういっぽう、ポップって描く行為それそのものが意味なので、アンディ・ウォーホルが「スープの缶詰」を仰々しくキャンバスに描いた時点で、彼はそういうことをやったらしいよ、という伝聞が作品として確立していて、できあがった物理的な「作品」と呼ばれる物体のほうは、どうでもいいっちゃどうでもいい気もする。

 ポップってなに?
 アンディ・ウォーホルって?
 というあなたのために、いつもの吉秒訳で、わかりやすく、かつかたよった、あなたを洗脳することを目的とした話法で、ちょっと解説するならば。

 芸術ってなんなんだよ、という問いは人類を問うことでもある。
 たとえばサルは、かなり人間に近いけれど、萌え絵師の描いたアーティスティックな美少女イラストと、自分の持っている食料を交換することはない。でも、人間はそういうことをする。速い車よりも、見た目にカッコイイ車のほうに、高い金を払ったりする。見た目のカッコイイ人間に、価値があると思ったりする。
 日々、芸術点を採点する、それが人類の人類たる営みの根幹ともいえる。

 二十世紀も終わりにさしかかったころ、ポップは生まれた。
 むずかしい話をすると、その前にダダというのがあったのだけれど、ダダもポップも、噛みくだいていうならば、プロレス団体のユニットのようなものである。全日本プロレスという団体があるが、そのリング上では、思想をわかついくつかのグループが闘争を繰り広げる。悪の軍団がいて、正規軍がいて、改革派がいたりする。
 なんのためにそういうことをするかといえば、ユニットを作らないと、もともと同じ思想を持つ同じ団体のメンバーなのだから、物語が紡ぎにくいので。

 みんなでがんばろう!
 ええがんばりましょう!

 そんなプロレスを観に行く観客はいない。
 芸術界でも。
 売れるには、なにかを主張する必要がある。
 まず芸術と呼ばれるものを破壊、というわかりやすさで推していった、ちょっときつめで怖い感じもするダダ組の運動を見ながら、アンディ・ウォーホルという男を含む、世界各地(おもにアメリカ)の次のチャンプを狙う者たちが、同時発生的に、同じことを考えた。

 破壊より、芸術の新しい意味を創造するってほうがオシャレなんじゃないの?

 同時発生的に偶然彼らはそういう方向性でキャラ立てしようと思い立ったわけだけれど、プロレス雑誌としては、そういう彼らを歴史の流れが生んだひとつのユニットとして物語りたかった。雑誌や新聞が売れるから。
 というわけで、彼らは、ポップ組と呼ばれるようになった。
 けっして、ウォーホル兄さんが「おれがポップ、おれらがポップ、ポップ組から目を離すなよおまえらー」などと、あおったわけではない。

 が、まあ、もともと売れたくてやっているわけだし。
 ゲイだし(なにげに重要)。

 ダダイズム、ポップイズムという言葉はあるが、ダダはなにせ破壊が信条なので「ダダアート」なる呼ばれかたはしなかったのに対し、ポップは「ポップアート」としていまも語られている。破壊の思想をすっ飛ばして、ダ・ヴィンチもラファエロもいいけど、こんなのもクールじゃね? と推すやりかたは、世に受け入れられた。

 彼は、アンディ・ウォーホルという筆名で、銀色のカツラをかぶって、ポップの旗手として売れっ子になっていくことにした。

 「キャンベルのスープ缶」シリーズは、代表作になった。
 味はどうだか知らないが、有名ブランドで、アメリカの家庭では当たり前に消費される、工場で大量生産される「家庭の味」。それは実に立派なものですねえ、と、ウォーホルはキャンバスに描いた。美しい山の風景を描くように、工場で大量生産されたママの味、スープの缶詰を。
 缶を開けずに、缶のまま描いた。

 それはまたクールだねえ、と評価されたので。
 アンディ・ウォーホルは、ファクトリーと名付けた、オープンシステムを構築した。絵を描くアトリエを工場と呼び、工員をやとい、自分の作品を大量生産させる。工場で大量生産された家庭の味スープ缶を、工場を模したスタイルで、大量生産芸術として大量に刷る。それはもちろんウォーホルの作品だけれど、彼は自分で版画を刷ったりしない。銀色のカツラをかぶって、ファクトリーに群れ集うようになった男や女(おもに男)と、優雅にパーティーを楽しんでいる。
 いよいよクールも極まってきたねえ、と評価は高まった。

 その後、夫を暗殺された大統領夫人や、死亡事故現場、牛、毛沢東、花、二十歳上のアメリカ人に嫁いでアメリカのアートを買いあさっている着物姿の日本人女性、マリリン・モンローなどを大量生産して、アンディ・ウォーホルの名は不動のものになる。

 今回、東京に来ているウォーホル作品は、展覧会の副題に書かれているように、ウォーホルに36枚も大量生産された日本人女性、キミコ・パワーズの所蔵品である。自分の絵を買ってくれた富豪の二十歳年下の日本人妻の着物姿を大量に刷って、またその夫に買わせるという図式が、スープ缶システムにさらなる皮肉をきかせたものであるのはいうまでもない。その夫が亡くなって、七十歳を越えた日本人娘が日本で本邦初公開の『200個のキャンベル・スープ缶』の前に立っているというその姿は、現在進行形のポップアートである。

 というわけで、絵自体は、さして意味がない。
 美術館は『200個のキャンベル・スープ缶』をアンディ・ウォーホルの最高傑作とうたっているが、「キャンベルのスープ缶」シリーズの頂点は、どう考えても、田舎青年ウォーホラがカミングアウター・ウォーホルと名乗って、筆でキャンバスにスープ缶を描くことを決めたときか、銀髪のアンディ・ウォーホルも板につき、ファクトリーからはじまる酒池肉林さえも自分のファッションへと昇華させた彼が、金でやとったバイトくんたちに「スープ缶大量に刷っとけ」と命じた、そのときである。

 みずからの出世作である『32個のキャンベルのスープ缶』を過去のものとする『200個のキャンベル・スープ缶』をウォーホルの最高傑作と評すには、さらにそこから時を経て、まるでダダイズムを茶化すかのように「過去の芸術作品」を題材にしはじめ、あげく、ちょっとやりすぎな感じでダ・ヴィンチの「最後の晩餐」までもをポップ化した、晩年の時期の彼自身を最高傑作と見なす視点が必要になってくる。

 ダダと、その後をつなげた者?
 いや、ポップってそういうもの?
 深く考えちゃ、ダメなんじゃないのかなあ。
 いやいや、ダメっていうか、それさえも。
 考えちゃいけない。
 スキか、キライか。
 彼の「作品」が彼のすべてであるという眺めかたが、私は好きです。

 そんなわけで、東京へは行かず、映画『FLESH』を観る。
 彼のことを想い出したから、手元にある彼の作品を。

 アンディ・ウォーホルは、大量の映画も撮っている。
 代表作は『blow job』。
 直訳すると、吹く仕事。
 日本語でも尺八と表現する、フェラチオの映画。
 
 男が、フェラされている。
 フレームの外で。
 画面は、ずっと男の顔を映している。
 イッた瞬間はわかる。
 おなじ男としていうと、少々演技過剰。

 その時期(というのは「キャンベルのスープ缶」シリーズが大々的に売り出されはじめた時期とかぶる)に、ウォーホルが撮った作品群のタイトルは『食べる』『眠る』『キス』『エンパイア』とか。説明するまでもないが『エンパイア』はちょっと説明を要するか。エンパイア・ステート・ビルディングを、固定カメラで八時間撮り続けてある(正確にはスロー編集なので撮影時間はもう少し短い)。

 怒るひともいたらしいし、食事して戻ってきたひともいるらしい。
 映画ってなに?
 問いに答えるというよりも、質問を投げ返す、その行為自体がやっぱり作品なのであって、画面に映っている事象そのものは、どうでもいい。『blow job』に関しては、観るひとによっては、物語性を創造できてしまいかねないところが、ウォーホルの映画代表作とされるゆえんだろうが、問いを投げ返すという方法論からしてみると、それは失敗だともとれる。無意味さに客が怒りだしてこそ、映画の意味が問えているともいえるのだから。

 ポップ実験映画は、長続きしなかった。
 行為に意味があり、作品に意味がないとはいっても、プロレスに試合は必要だ。
 ストーリーは、おやくそくでもいい。
 むしろそれがいい。
 客に金を払わせる、なんらかの演出が映画には必要だと、ウォーホルも認めたのだろう。

 監督ポール・モリセイ登場。
 要は、映画もファクトリースタイルに変更したということ。
 監督ができて、脚本が書ける、モリセイに撮らせる。
 さすがに、ファクトリーで刷った作品をウォーホル単独作品と表記している手法は、映画界ではまずいと考えたのか、共同監督というクレジットになっている。
 それで何本か撮った。
 評判は悪くなく、ウォーホルも、監督を続けると公言しはじめていた。

 そして運命の1968年。
 アンディ・ウォーホル、四十歳。
 ファクトリーの常連で、ウォーホル映画にも出演している女に撃たれる。
 脚本家志望でもあったレズ売春婦ヴァレリー・ソラナスがウォーホルを撃ったというところに意味を見出す論文は多いけれど、ホモとかレズとか男根切除団とかまったく関係なく、ちょっと心を病んだ脚本書きが、脚本皆無のフェラチオ映画からなんだかストーリー映画まで進出しはじめたアンディに自分の脚本は使ってもらえなかった、というだけで撃つ動機は充分な気もする。

 ともあれ、ウォーホルは死ななかったが、入院した。
 共同監督だったポール・モリセイは、新作を撮りはじめる。
 そもそも、ウォーホルは現場にいてもいなくても関係ないんだし。
 脚本も、主演俳優も、すでに固まっていたし。

 そんなこんなで、ウォーホル監督ではないウォーホル作品。
 Andy Warhol Presents。
 ジョー・ダレッサンドロ主演。
 『FLESH』が撮影された。

※以下、内容バレまくりです。
 バレたところで影響のない作品だと私は思いますが、どんな映画であれ観ていない作品のストーリーは知りたくない、というかたはここで回れ右をおねがいいたします。

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 冒頭から三分間、全裸で眠る男が撮され続ける。
 ダレッサンドロ、いいカラダだ。
 自堕落な男を演じるわりに、ちゃんと鍛えた筋肉がある。

 女、登場。
 女の女ともだちが来るから服を着ろとダレッサンドロは叱責されるが、抱きよせてエロに突入。ウォーホルにファクトリーで見出されたという時点でジョーがゲイであると観客のだれもが思っているので、女性とのキスシーンが可哀相になってくる(現実世界でその後、ゲイの王様にまつりあげられたジョー・ダレッサンドロは、自分はバイであると公言した)。

 その後、チンコにリボンを結ばれながら、ジョーは服を着ることを決意する。チンコにリボンを付けたまま下着をさがすダレッサンドロに女は爆笑。しかしパンツは見つからず、いまから洗って乾かすことになる。女ともだちが来るんじゃないのか。

 パンツがないので、全裸のままベッドを出るダレッサンドロ。こっちはちゃんと服を着た赤ん坊と戯れはじめる。床にぼろぼろとこぼれるパンくず。ダレッサンドロの腕のタトゥがアップになる。

 「Little JOE」

 ダレッサンドロ、やっと服を着る。
 上映開始から十七分後のことである。

 街に出る、ダレッサンドロ。
 女に働けと言われたからだ。
 車に腰かけてタバコを吸っていると、男が話しかけてくるが商談成立しない。
 場所を変える、ダレッサンドロ。

 背の高い男と話がまとまる。

 小銭を稼ぐ。

 やたらダレッサンドロのほうが「ありがとう」を連発するリアリティ。実際、男娼稼業で子供を育てようと思ったら、Vシネマに出てくるような、高飛車なカラダの売り方ではダメだろう。

 二ドルで仕事をしないかと声をかけてきた老紳士に、百ドルをふっかけるダレッサンドロ。紳士も負けじと、条件を出す。

 絵のヌードモデルになれ。

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 だが ここは芸術の世界で
 日常とは違う
 想像を働かせる世界だ
 ここで偉大とされるのは
 運動選手だ


映画『Andy Warhol Presents: FLESH』

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 ……なるほど。ダレッサンドロの筋肉ありきでの脚本か、脚本があってのダレッサンドロか。老紳士はダレッサンドロに、ギリシャ彫刻になれ、まずは円盤投げだ、と申しつける。

 ぜんぶ脱いでくれ。

 ダレッサンドロ、全裸になる。
 上映開始三十一分での出来事。
 十五分、服を着ていられなかったダレッサンドロ。

 老紳士にチンコを撮影される。

 円盤投げの次は、ベッドの上で電話をかけるポーズ。
 運動選手のくだりどこいった。

 老紳士曰く、筋肉を育てるには水泳がいちばんらしい。

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 人間には
 肉体を崇拝する気持ちがある
 芸術や音楽の背景には
 肉体信仰が必ずある
 セックスにも恋愛にもね


映画『Andy Warhol Presents: FLESH』

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 新日本プロレスの興行で、いつもリングサイドの席に座っている老紳士を想い出す。
 私が月数千円でテレビ中継を観ているのを、彼は数万円かけて、すぐそばで生で観ている。
 セックスの話をしながら、老紳士は男娼を写生する。
 機能的にできるできないはあるのだろうが、描きながら、喋り続ける彼にとって、百ドルは有意義なセックスであり、芸術に費やされたのだろう。

 三十九分。
 ふたたび服を着て街にもどるダレッサンドロ。
 新米男娼に説教する。

 冒頭の女が妻だと判明。
 妻も知ってる。
 家族を養う。
 仕事だ。思想なんてどうでもいい。
 他人の目も関係ない。
 仕事だ。

 週の稼ぎが二百ドルに満たないのに、セックスなしで百ドル稼いだことが、彼を饒舌にさせているのかもしれない。

 ファクトリーを想起させる場所で、女にフェラチオされているダレッサンドロ。女の顔を映さず、ダレッサンドロもバックショット。イッた瞬間の表情をクローズアップ。

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 私たちを見ないで
 雑誌を読んでるなんて ひどい


映画『Andy Warhol Presents: FLESH』

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 年代的にジョン・レノンとオノ・ヨーコのパフォーマンス『Bed In』に対する当てつけかと読みとってしまいそうだが、『Bed In』は『FLESH』公開の翌年に演じられている。

 女が脱ぐ。
 オネエも登場。
 徹底した無駄な会話が、これでもかとだらだら続く。
 胸にシリコンを入れようかと悩む女が、あの観葉植物は偽物なのか本物なのかと指さす。あたしには、本物の植物が見分けられるの。とある病院で、シリコンではなく植物の成分で豊胸手術をしているらしい。

 男愛人の家に移動。
 ダレッサンドロと愛人、中年の危機について語る。
 ダレッサンドロは、またジムに通いたい。

 ダレッサンドロ、金に困っていると発言。
 金を貸してくれないか。
 食い物を買う金がいる。
 このあいだも貸した。
 返す気でいるんだ。
 ここですることとは関係ない。
 ぼくはきみが好きだ。

 愛人、いっしょに暮らそうと発言。
 ダレッサンドロ、妻が悲しむと発言。
 愛人、悲しませとけと発言。
 ダレッサンドロ、金の話にもどる。
 愛人、ダレッサンドロの腕に注射痕をさがす。
 ちがうよ、クスリじゃなくて食い物を買う。
 愛人、五十ドルくれた。
 愛人は戦争の後遺症で、勃起できない。

 服を脱いでポーズを。
 ダレッサンドロは、アーティストにウケがいいようだ。
 脱ぎはじめる。
 七十四分のこと。
 もうすぐ映画は終わる。

 愛人、ゲイポルノの朗読をはじめる。

 ゲイなのに結婚してる?
 帰さない。

 それでも帰るダレッサンドロ。
 妻は女友だちとベッドの上。
 帰ってきたダレッサンドロ、剥かれる。
 全裸にもどる。
 八十一分。

 自由すぎる世界で、恋愛談義がはじまる。
 なぜ退屈、変わらない世界、結婚?
 みんな欲求不満、惨めな姿。
 どうしてかな。

 全裸のダレッサンドロは今日は稼げなかったと告げる。
 妻は、女ともだちと抱きあって眠る。下着姿でじゃれあいながら眠る女たちの横で、ひとしきりダレッサンドロは醒めているけれど、やがてあきらめて、眠る。
 妻の女ともだちは、妊娠しているようだ。
 
 そういえば、この映画のなかで、脱いでばかりのジョー・ダレッサンドロだが、全裸のときにも、たえずロザリオは首からさげている。

 ただし、ふたつの短いシーン、「Little JOE」のタトゥがアップになった、全裸で赤ん坊と戯れるシーンと、終盤の、勃起できない男愛人との時間では、不自然に首からさげた十字架が消えている。それにどういう意味があるのかは、わからない。最後の最後に、ロザリオを妻に取られたダレッサンドロが言う。

 これを壊すな。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 ……。
 この映画を観るのは何度目かだが。
 物語の詳細について、自分が正確に認識できているか、自信がない。
 今回、ざっとあらすじのように追ってみたものの、やっぱり細かい部分はあいまいだ。
 
 自堕落な男、と最初に書いたが、映画のなかのジョー・ダレッサンドロは、清廉潔白な生活をしているわけではないものの、勤勉で計画的な男である。新米男娼たちには月に百数十ドルの稼ぎと言っているが、結果として描かれたその一日で、ダレッサンドロはそれと同等の金額を稼ぎ、なおかつ妻には渡していない。腕に注射痕はなく、だれかになにかを言い返すことは、いちどたりともない。

 彼がなにを考えているのかは、わからない。
 事実関係がぼやかしてあるので、正確には読みとりようもない。

 しかし、はっきりと、ここに物語はある。
 映画好きな私が、何度目かの視聴で、飽きずに一時間半、観ていられるくらいに。

 いや、そこが実は、誤解なのかもしれない。
 キャンベルのスープ缶が、キャンバスに描いてある。
 アンディ・ウォーホルからの説明はない。
 そこになにかを読みとるのは、観る側の勝手だ。

 フェラチオされる男の顔に、フレーム外の物語を創造する。
 『FLESH』では、ウォーホルは制作者であって監督だとはクレジットしていないが、やはりこれはウォーホル作品であって、観る側に創造させる余地を、意図的に残しているように感じられる。

 だからきっと、ポップアートは人気なのだ。
 何度目かの映画。
 けれど、これまで感じたことのない、なにかを感じた。
 それは、このあいだ観たときの私にはなかったものが、いまの私にはあるということだ。もしくは真逆で、大事ななにかを失ったから、見えかたが変わったのかも。

 不安になる。
 深いことはなにも描いていない、絵に。
 人間とか、人生とか、そういうものだよな。
 その感想自体が、ひどく陳腐で、自分で自分を殴りたい。

 東京で『200個のキャンベル・スープ缶』が壁にかけられたから、私は『FLESH』を観て、ジョー・ダレッサンドロのケツにアートだの人生だのと話しかけているわけで。

 ポップは死なない。
 退屈は余地。
 好きに描けば。
 好きにしていいのに、退屈ってなに。

 ダレッサンドロは、いい男だ。
 ウォーホルに気に入られたのも、よくわかる。
 気に入った相手で、それっぽいフィルムを撮らせて、それでまた稼ぎ、それから数十年経っても、まだその作品が深読みされている。
 ウォーホルは、しあわせな作家だ。

FLESH

(↑Amazonさんでの評価が異様に低いのは、最低点をつけたレビュアーがいるからですが、レビューが英語で書いてあるからって読み飛ばさないで。彼(たぶん)は、こう書いています。「この作品は検閲されており、大切な部分がかすんでいる」と。つまり、チンコにモザイクがかかっているのです。例の肌色の。冒頭から十五分全裸な映画なので、それはもう確かに気になるどころの騒ぎではないのですが……日本にはポルノは存在しないんだもん。検閲のおかげですべてが健全な図書になる夢の国なのに、その仕様で最低点つけられちゃ困ります。いやいっそ、ウォーホルがこのバージョンを観ていたら、手を叩いてよろこんだ気がしますけどね。「200個の日本のソフトモザイク」とかいう作品に昇華されていたかもしれません。それくらい機械的に見事にポルノティックスーパースター・ジョー・ダレッサンドロの噂では膝まで届くというペニスは肌色に変換されています。リボンで飾られた実物が観られないのが、残念ではあると認めますが、大事な部分がかすんでいても、作品の本質は失われていません)

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Joe Dallesandro公式サイト

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Campbell's