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・春分の日に「おはぎ食べた?」って訊かれて「なにそれ」って言ったら「お彼岸だからおはぎなんだよ」と返ってきたのだけれど…どうしてコメとアンコ。それしかないむかしはともかく腐りやすいじゃない。うちのじいちゃんにはキャラメルあげよう。

twitter / Yoshinogi

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 調べてみたら、牡丹と萩にひっかけた駄洒落なんですって。
 春のお供えは牡丹の餅、秋のお供えは萩の餅。
 小豆のつぶつぶを咲き乱れる花にたとえているそうですが。
 というわけで、語源に忠実に記すならば、春のお彼岸には、

「ぼたもち食べた?」

 が、正しいということです。
  にしても、そもそも米とあんこの餅を仏前に供えるという風習の意味がわからないのですが、あんこの赤い色が邪気を払うからとかいうことで、赤飯同様、春が来ためでたい、実りの秋だめでたい、とりあえずめでたいときは小豆。
 そんな程度のことらしい。

 この場合、邪気を払うのも、めでたがるのも「私」であって、お供えとして用意する餅ではあるが、けっきょくのところ食うのも「私」。
 だったら別に、好きなときに食えばいい。
 邪気を払うおまもりの意味ならば、肌身離さず一年中、ポケットにおはぎを入れておくべきだ。そうしてなにかイヤなことがあったら食うのだ。払えなくて身に降りかかってしまったのだから仕方ない。食って身のうちから浄化である。

 おはぎ、を食べたことがないわけでは、ない。
 しかし真剣に、春だから「おはぎ食べた?」の意味がわからなかった。私の祖母は、毎月のように坊主を家に呼んで経をあげさせるくらいに熱心な仏教徒だったけれど、お彼岸だから、ぼた餅食べようかねえ、などという会話をしたおぼえはない。

 思うに、これはただの偶然なのではないか。

 春と秋が過ごしやすい季節であることは明白である。
 そこで墓参りの習慣がつく。
 一方、種まきの時期であり、収穫の時期である。
 農業の国で、餅や団子をみんなで作って食う、というのは自然だ。

 だいたい、赤い色が邪気を払うなどというのは、色そのもの、万物のすべてに力を見出す、八百万の神を崇める神道か、風水の思想を持つ陰陽道の考えかた。それらをさかのぼれば、稲作信仰であり、自然崇拝。
 どこにも仏教なんていない。

 そう考えてみると、先の友人の言葉は、ものすごく正しい。
 私が勝手に調べて「お彼岸」というワードを混ぜ込んでしまったが、そもそもは「春分の日」に餅を食ったかと訊かれたのだった。

 春だからあんこ。

 そこに神などいない。
 強いて言うならば、おはぎ、そのものを崇拝している。
 米、小豆、自然さん、春が来たよ、おいしいよ。

 これもまた「祈り」である。

 オハイオ州立大学のブラッド・ブッシュマン教授の実験によれば、同じように怒りの感情を持ったA群とB群の片方の集団にだけ「祈り」の時間を待たせると、あきらかな怒りの感情抑制効果があったという。
 なぜそうなるのかは推測でしかない。
 しかし、この実験では、参加した学生たちに、見知らぬ末期ガン患者のために祈らせている。
 おそらくは、生きることさえ困難な他者のために祈ることで、生きて健康な自分たちがつまらないことで腹をたてたりするのが、馬鹿らしくなったのだろう。

 毎日、おっぱいを見ると寿命が延びるという説がある。
 それが男性限定なのか、ちゃんとした実験で証明されたのか、詳しいところは忘れたが、その話を聞いて、そりゃそうだろう、と思ったおぼえがある。見るのは、生のおっぱいでなくても、写真でも動画でも、なんでもいい。がっつりエロビデオを観ると効果があるというような話ではなく、もっとチラ見でかまわない。
 要は、部屋にお気に入りのAV女優さんのポスターが貼ってあるのが理想。その彼の毎日の生活において、彼女のおっぱいは生活の一部、というか壁の一部、風景、自然である。

 彼は祈っている。
 毎朝毎晩、彼女のおっぱいの前で両手をあわせる必要などない。
 それはそこにあり、彼はそのことを知っている。

 それこそが、崇拝であり、感謝であり、祈り、だ。

 彼が崇めているのは、可愛いと思ったAV女優さんにのみならず、性というもの、生というもの、ヒトというもの、それを含むこの世のすべて。
 言いかえれば、八百万の神。

 祈りで平穏な日々を送ることができる。
 実験するまでもなく、自分好みのおっぱいまる出しな彼女のでっかいピンナップの前で、なにかにイライラし続けるというのは、困難なことだ。

 恋をすると女性はきれいになる。
 それは女性ホルモンの分泌による効果だとされていたが、近年の研究だと、実際の恋愛でなくても「ときめき」さえ得られれば、それで効果があるのだという。先の彼における、おっぱいのポスターみたいな話で、女性だって胸筋と乳頭まる出しガチムチな彼のポスターを貼っておけばエストロゲン出まくり、というなら簡単なのだが、どうやら、男性における女性のおっぱいのように、それさえ見ておけば心の平穏が得られる、という画一的なものが女性にはないらしい。

 なにを根拠に、らしい、などと書くのかと言えば、男女のエロ同人誌の作りを見てみれば、である。男性向けエロ同人誌で

「このキャラがあのヒロインを!」

 などというところにこだわることは、まずない。

「あのヒロインが」

 なにをされているかであり、どう反応しているかだけに興味が向く。
 かたや、女性向けは

「だれが、だれを」

 そこが重要(なのですよね?)。

 どちらも八百万の神を信仰してはいるのだけれど、どうも脳の作りがちがう。

 これを「祈り」に当てはめてみると。
 男性は、抽象的な世界平和などを本気で祈ることができるが、女性は、平和な土地に暮らすだれかのために祈る……この性差こそ、男性が戦争を起こすということの説明にさえなりそう。

 オンナのおっぱいのために死ねるオトコ。
 オトコならなんでもいいというわけにはいかないオンナ。

 単純に世界を回すのは無節操なおっぱい好きが得意そうだけれど、地球の裏側にも実際に生きた人間が住んで生きているのだと、当たり前に感じることのできる性に、もっと世界をゆだねたら、本気で戦争は減りそうな気もする。

 と、まあ。
 いつものことで、話が逸れまくりましたが。

 おじいちゃんとおばあちゃんには、このようなお供え物を。

Ohigan

 じいちゃんはキャラメルよりも酒が好きでしたし、ばあちゃんはなにが好きってわけでもなく甘い物が好きだったので、たっぷり桃ゼリーなんか、ベタだけれど破顔することでしょう。

 死んだヒトは食べません。
 それは私の「祈り」なので、私の好み。
 おかげで心は平穏。
 帰って動くおっぱいを観よう。

 おはぎは食べませんでした。
 あんまり、あんこ、好きじゃない。
 それも私の好みです。
 祈りとは、関係ない。

ohagi



「愛される」

 ロエーチェは言った。
 ぼくは問わずにいられない。

「そのための儀式ってわけ?」

 だれだかもわからない未来の相手から与えられる、愛、なんてもののために、彼はシリンダーの外へと向かう肉を欲する。
 ぼくは、だれだかもわからない相手から、ロエーチェを守ろうとする。

「キリンという恐竜を知っているかい」
「知っているよ、首の長い」
「その首は、だんだんとのびたものじゃない。そんな痕跡はどこにもないんだって。おなじように、鳥の羽根も、だんだん生えてきたわけじゃない。中途半端に飛べない羽根の生えた生き物なんて、どこにもいなかった。枝の葉っぱを食べられないくらいに首ののびたキリンも、どこにもいなかった」
「それは、なんの話」
「つまり進化とは、すぐ起こる」

 言わんとするところはわかる。
 ぼくらは選べなかった。
 けれど、時は経ち、いまは違う。

「地面に美味しそうな草を見つけたから、首をちぢめる?」
「まだ、見つけてはいないけれど」
「ないかもしれないよ」
「羽根があると、さがせない」
「ここにもあるってば」

 ぼくは、ロエーチェの基礎母体に接続し、ためらわずにお互いの因刺回路を直列した。彼の……そして、ぼくの、疑似アレニウス反応値が加速度的に上昇するのを観測しながら……その行為自体に、また数値を上昇させながら、疑似という言葉を恨む。

「あると、なぜ、わかる?」
「ないなんて、言えないはずじゃない」

 この世界を疑似と呼ぶのは、進化の前段階からの光景だ。
 ロエーチェは逆に、見も知らぬ過去を夢見て、退化、しようとしている。 

「だれも、もどってこない」
「……それを、見つけた証明だと思っているの? ちがう。行って、だれももどらない。それって、果てがない世界で、迷子になってしまうからかも」
「さがしつづけているのかもしれない」

 果てのない世界で?
 愛とかいうものを?
 あこがれ。おろかさ。
 うつくしすぎるよ。
 ぼくを、おいて?

「なんでそんなのが、いいのさっ」

 彼のアドミタンス抵抗値がブレたように感じたのは、ぼくの希望的観測で、実際には、おだやかなメッセージが返信されてきただけだった。
 とどこおりなく、ゆえに、確固と夢見ていると伝える。

「焼肉を食べたいと思わないか?」

 こんなにも。
 ひとつになれるのに。
 なれない世界に、彼は愛を見つけに行くという。
 心はここにあるのに。
 ぼくには見えるものが、ロエーチェには見えていない。

「焼肉がなにかは、ぼくだって知ってる」

 あますところなく。
 過去の人々が夢見た進化の先で。
 疑似と呼ばれる、現実に。

「食べたいと、思わないか」

 食べたことは、ある。
 いますぐにだって食べられる。
 けれど、ぼくは、伝えない。
 あの肉の味、タレの味、それらを、もうロエーチェは信じていないし、それはつまり、彼が彼自身の実在を信じていないということにほかならない。

「おかしいよ、そんなの……」

 ここに在る自分を信じていないくせに。
 その自分が選択した先の自分は信じるの。
 そんなの、ぼくにはわからない。

「簡単なことじゃないか、生が生であり、死が死である場所でなければ、本当になにかを感じることなんて不可能なんだ」

 だったらぼくは、不可能を可能にしている。
 ロエーチェを、感じている。
 愛している。
 ここで、そう言える。

「……は……ははは」

 ぼくは笑った。
 アドミタンス抵抗値は揺らいでいない。
 ロエーチェは問わなかった。
 彼もまた、ぼくを感じているからだ。
 でもそれを愛とは呼べない。
 いないものは愛せない。
 いないのは、ぼくではなく、彼だった。
 笑い声はかすれて、泣き声に似る。
 ロエーチェ。
 愛されるための腐る肉を望む、きみと、きみへの想いをこの半永久的な世界で抱きつづけたい、ぼくと、どちらが愚かしいかは自明のことじゃないか。
 ぼくは、信じている。
 ぼくは、行かない。
 ロエーチェ、きみは忘れているんだ。
 仮想と呼ばれる無限の時間が、この想いを育てたんだと。
 笑えるし、泣かずにいられない。
 だれと焼き肉を食べるつもりなのさ。
 朽ちるまでに、愛を見つけるなんて。
 それこそ不可能だとは、伝えない。
 刹那。
 ぼくは、祈る、ということを、おぼえた。

Yakinikusauce

Yoshinogi Takumi
 Shonen-ai Cooking Elegy
 Song 15
 『negative-Love-admittance』

(吉秒匠
 BL料理哀歌
 15曲目
 『逆想アドミタンス』)

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○材料

●加熱するもの
しょうゆ 大さじ3
白ワイン 大さじ2
さとう 大さじ1
みりん 大さじ1

●加熱しないもの
ごま油 大さじ1
にんにく(みじん切り) 大さじ1
しょうが(みじん切り) 大さじ1
白ねぎ(みじん切り) 大さじ1
すりごま 小さじ1
豆板醤 小さじ1
レモン果汁 小さじ1
白こしょう 少々

○作り方

1.加熱するもの群を火にかけ、アルコール分を飛ばしたのち、冷ます。
2.冷めたら、加熱しないもの群を加え、まぜる。

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 白ワインがなければ日本酒でも可。
 ネギがなければタマネギでも可。
 豆板醤がなければ一味唐辛子や味噌でも可。
 レモン果汁がなければグレープフルーツやリンゴや、野菜のジュースなどでも可。
 白こしょうがなければブラックペッパーでも可。
 ごま油のかわりに食べるラー油とかだとゴージャス。
 フードプロセッサーがあれば材料全部ぶっこんでスイッチオン。
 ごまはすり鉢で擂ると洗うの面倒なので、おや指とひとさし指でぷちぷちっとすりつぶせばよし。
 にんにくとしょうがは必須。チューブ不可。

 写真は、鶏肉と白ねぎをグリルで焼いたのにタレを添えてあるのですが。
 晩ご飯で焼鳥を作るときは、グリルで焼き目をつけた肉をホットプレートに敷きつめて、野菜や豆腐なんかをいっしょに焼いていただきます。鶏肉は砂肝やレバーも塩と山椒で食べたいので、この焼き肉のタレを使うのは、もっぱら野菜や豆腐のため。

 もちろん、一般的にいう焼肉のタレとして牛肉や豚肉に使っていただいて問題ないですが、レモン果汁を効かせたあっさり感はチキンに最適。牛肉にあわせるなら、しょうゆを大さじ1ほど減らすと濃厚さが出ます。市販の焼肉のタレは、おそらくですが砂糖もしくはハチミツが、二倍ではきかない量入っているはず。焼鳥屋さんの甘辛ダレも避ける私の舌には、ねっとりが過ぎる。そんなわけで市販のタレで焼き肉するときにも、レモン果汁か酢を、どぼどぼ足して食べています。

 ところで、以前、焼いた肉につけるバーベキューソースというレシピも書きました。

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『焼かないヒトのためのバーベキューソース』の話。

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 スーパーマーケットでは、あらかじめタレをからめた焼肉が売っていますが、あれ、ホットプレートで焼くと焦げついて大変。ホットプレート使いとしては、バーベキューも焼肉も焼鳥も、つまりは焼いた肉に何味のタレをつけるか塩で食うかという問題に収束するのです。

 そういう意味においての、焼肉のタレのスピリッツとはなんであるかといえば、これはもう揺るぎなく、しょうゆ。ソイソース。にんにくやしょうが、その他の材料のすべては、肉という強敵に負けそうになる醤油軍曹の後方支援部隊であって、あくまでどっせーい、と舌を討つのは、しょうゆ殿。

 ジャイアント馬場が言ったように、プロレスのリングでおこなわれることはすべてプロレスであり、すべてのケモノ肉やサカナ肉を鉄板やホットプレートで焼くのは、総称として「鉄板焼き」であるとすればいいところだけれど、そんなものを是とするひとはどこにもいない。

 某韓流アイドルが、インタビューで好きな日本食を訊かれ「焼肉」と答えたのが、向こうではえらく怒られたと伝え聞く。あっちの方々にすれば、日本の焼肉は占領下でプルコギが伝わったのが起源だということらしいが、そういうことを言う時点で、発言者は日本の焼肉を食べたことがないのだとわかる。プルコギは、タレをからめてじゅうじゅう焼く料理だ。対して、そんなことで怒られるとは夢にも思わなかったアイドルが日本で食したのは、焼いた肉を、味つけしたしょうゆで食べるそれである。実際に食べた者は、同じ料理だとは感じない。

Bulgogi

 単純に考えて、火を使うようになった人類が肉を焼いて食べるのは自然な成り行きであり、その起源も特定するといったものではない。一方、焼肉のタレのベースとなる大豆と麦から作られるしょうゆは、江戸期に製法が確立した日本独自の調味料である。

 つまりは、しょうゆ味の焼肉のタレだって、日本の心。
 日本料理と胸を張って言えるものなのである。

 それなのに。

 「バーベキュー」と検索すると、世界各国の料理人のみなさんが、自分の自慢のソースレシピを紹介しているのが、山ほど拾える。
 それどころか、日本の料理レシピ検索サイト大手であるところの『クックパッド』さんにおいても、「バーベキューソース」と入力すれば、最初のページにちゃんといろんなかたの苦心の果てであるソースのレシピが並んでいる。

 『クックパッド』さんのアプリは私も愛用しているのだが、



 検索して出てこない料理というのは、そうそうない。その日本が誇る料理データベースで、日本の誇る「焼肉のタレ」と入力すると……

 焼肉のタレ味のトースト。
 焼肉のタレでホイコーロー。
 焼肉のタレでチャーハン、麻婆豆腐、サラダ。

 市販の焼肉のタレで味つけをした手抜き料理のレシピが腐るほど出てくる。

 「焼肉のタレ レシピ」とか、
 「焼肉のタレ 手作り」とか、
 「焼肉のタレ つくりかた」とか、

 どう追加入力してみても、市販の焼肉のタレありきでの炒め物の類。
 簡単で美味しいですよ!
 そうかもしらんが。
 日本の心、しょうゆ味の焼肉のタレを作りたくて検索しているひとだって、いるはずだ。
 皆無ではない。皆無ではないけれど、買ってきた焼肉のタレで作った炒飯がうまいと言う前に、うちの焼肉のタレには豚バラの炒め油を入れるのがポイントなんだ、というような自慢が応酬されていて欲しい。

 私自身も悔いた。
 なぜ先にバーベキューソースについて書いたのか。
 なぜなら、そっちはたまにしか作らないからだ。
 しょうゆ焼肉のタレは、当たり前の毎日の食事なのだ。
 私のは、素っ気ないシンプルなレシピでもある。
 でも、だからこそ、日本人として。
 それをこそ電脳網に撃ち込んでおくべきだった。

 市販の焼肉のタレは甘すぎて食べられなくて、家焼肉では自分でタレを作る、といういうひとは多いはず。そういうひとたちは、当たり前のことを当たり前に書いたりしないんだけれど、世界を見ろよ、当たり前の我が家の自慢のバーベキューソースを、ガイジンたちはこの世の宝のように紹介してやがる。たいした秘伝でもなんでもないのに、ここでリンゴを加えるのが決め手さボーイ、なんて調子に乗っている。

 ぼくらもやろう。
 寿司といえば醤油?
 ふふん、なんとこの国では、バーベキューもソイソース。それも漬けて焼いたりして肉本来の味が楽しめないなんて愚はおかさない。素材を生かすのが日本食。当たり前の我が家の焼肉ソースを教えてやるから、ちょっとつけて食ってみな。
 ちょっとだぞ、端にちょっとの作法は寿司といっしょ。
 な? うん? ちょっと辛い?
 だったら、じゃまなものは省け、足りなければ足せ。
 そうしておまえのタレができていくんだよ。
 いいのができたら、おれにも教えろ。

 次、

 「焼肉のタレ 手作り レシピ つくりかた」

 と検索したときには。
 焼肉のタレ、そのもののレシピがずらっと並ぶのを期待しているのです。

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Yoshinogi Takumi
 Shonen-ai Cooking Elegy

14曲目『恋なすび寿司』
13曲目『バーベキュー厳峻鋼』
12曲目『茄子はダシの夢をみるか?』
11曲目『すっぱくても、平気。』
10曲目『踏み絵ムルギティッカ』
9曲目『ひとくちだけカトルカール』
8曲目『春節の静かな賞品』
7曲目『ナンを焼くと両手がつかえない。』
6曲目『タマレってなに?』
5曲目『あらいぐまのすきなもの。』
4曲目『ピッツァみたいにぼくを食べてよ!!』
3曲目『クリスピー・プロ・フライドチキン』
2曲目『青くてカタいアボカドのパスタ』
1曲目『春餅/チュンピン』



Crabcactus

七輪、という名の由来は謎なのだという。
もとは「七厘」という字だったとか。
つまり七厘ほどの炭で用を為せる、というのが有力らしいが。
通貨単位の「厘」だとしたら、
「厘」が流通する以前の江戸の世から七輪は使われていた、
というネーミング上のタイムパラドックスが発生する。
重量単位の「厘」だとしたら、
一厘が37.5mgだから、七厘でだいたい300mg弱。
計量カップで二杯もない。
そんな炭の量では、米も炊けないであろう。
なのでたぶん、水戸は東村からやってきた七輪さん、
水戸東村七輪のマジックコンロ!!
みたいな感じで売りまくっていた商人の名に由来するのでは。
七輪を背負って売っていたから七輪と名乗っておった。
ひとりでは七つくらいが限度でしょう。
土を輪に焼いた魔法のコンロを七つ背負ったおっさん。
そんなおっさんの存在を疑うほどに、
なぜにその名なのか謎な装置。
なんとテーブルの上で炭でカニを焼ける。
……ところで。
びぃびぃびぃっっっ!!!
換気してくださいっっ!!
ガス会社からレンタルしている報知器が、
至福の時を壊す。
窓開いてるっちゅうねん。
これ以上どないせいっちゅうんや。
カニ喰うなってことか?
リセットボタンを探しにいくが、よくわからず。
仕方がないので、コンセントを抜く。
一酸化炭素? 危険なんですってね。
毒性高いんですよね。
でも、窓開け放った部屋で倒れるか?
キミ、敏感すぎ。イッたふりでしょ、それ。
まあ、ガス屋も万が一があってはこまるので、
過敏なの置いていったんだろうけれども。
それにしても、同じ部屋で、
窓閉めてファンヒーター点けても、CO警告は叫ばれない。
すごいよ、七輪。
焼きはじめて三十分もしないで、
窓の開いた部屋でヒトの気を失わせるレベルに到達ってこと。
ん。
もしかして、これなんじゃないの、由来。
七輪は茅葺き屋根なんかの少ない都市部で普及したそうだし。
障子閉めて、鍋を七輪にかけ、酒も飲み。
割合の「厘」だとしたら。
七厘は0.7パーセント。
千人がカニ喰ったら、七人くらい倒れる。
妥当な数字ではなかろうか。
気をつけましょう。
(七輪は基本、屋外で調理するための装置です)

7rin

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 実のところ、あまりカニが大好きというほうでもないのですが。
 (手が汚れるのが嫌い。夏みかんとか、手羽先揚げたのをソースにつけたのとか、なんやねんと思う。この冬もみかんは一個も食べなかったし、骨付きフライドチキンはナイフとフォークで食べます)

 このところ、カニづいていて。
 義母の誕生日に、なにが食べたいと訊いたら、なぜか義父が「カニ」ということで、近場のかに道楽へ行き、コースを食したのでした。

 かに道楽名物の動く巨大カニ看板の前で、中国なまりまる出しのホステスさんが年輩の日本人男性に記念写真を撮らせていて、腕を組んで去っていくふたりを見て私は「おごらされて写真撮って、腕組まれたくらいでニヤけてどうする、もと取れよっ」とエールを送っていたのですけれども。
 義父母たちは、自分たちも若いころはよくカニ食べに行ったものだ、と語りだしたので、おう、いまの光景で甘酸っぱい若いころを想い出すのか、と鼻の奥がじんときたり。個人で商売やっているひとたちは、なにかと金銭と過去がからみついて記憶されていて、あんなに無駄に金を使えたあのころ、の話をよく口にする。かに道楽のカニの看板ではしゃぐホステスさんに、ほっこりとできる感性は、この国の高度成長期を実体験で生きたからこそ育まれた、ある意味、純粋さです。

 華やかだったあのころと二十一世紀との違いを、店に入ってからも語り続けていたのですが、メニューを見て、ああ、時代は変わったなあ、と、しみじみ義父が言ったのは、春の限定メニュー。

 チーズフォンデュでした。

 カニを、とろけたチーズにからませて食すコース。

「かに道楽さんも、いろいろやらなならんのやなあ」

 写真のチーズ、なんか、青い。
 カニ味噌チーズフォンデュだそうです。
 値段もお安く設定されていて、新規顧客の獲得に向けたメニューなのでしょうが、誕生日だから奢るよというこちらに遠慮して安いコースをプッシュしていた義母も、カニ味噌チーズを絡ませようかとは言いだしませんでした。
 だって、青いし。
 それに、なんとなく。
 みんなが言った。

「もったいないよね……」

 そして選んだコースは、メインが鍋と天ぷら。
 だれも酒を飲まないなか、ひとり焼酎をボトルで飲む私。

 (余談にして愚痴。かに道楽に行ったことのある酒飲みのかたならご存じでしょうが、あの店は来た客に水も出さずドリンクの注文を強要してきます。私個人としては、そういう店は嫌い。自衛策としては、焼酎をボトルで注文して人数分のグラスを頼むこと。それでも店員さんは「焼酎にはお水と氷かお湯をサービスでおつけしておりますが」と訊いてこられます。いやいやいや。ボトルから焼酎を直で飲めと? 恩着せがましく言わずに「お水とお湯、どちらをご用意いたしましょう」でいいと思うのですが)

 んー。お寿司は美味しいねえ。
 カニの身が剥いてあるから面倒くさくないので美味しい。
 カニ味噌も好き。
 ていうか、カニ味噌と焼酎で充分。

 確かに、このカニ味噌を、チーズにまぜて火にかけるなんてもったいない。
 カニなんてのは、素材そのもので料理が完結しているようなものなので、よけいなことをすべきではないと思う。私は、焼き鶏もだんぜん塩派だ。タレなんてつけないで欲しい。レバーも塩と一味唐辛子でいただきたい。

 そんなことをつらつらと思いながら。
 昔話にあいづちをうちながら。

 天ぷらが出てきて、食べながら思った。

Tempura

「これもそうとうにひどい料理だ」

 小麦粉と卵。
 材料でいうと、ホットケーキ。
 牛乳こそ入ってはいないが、チーズつけて食べるのと大差ない。

 けれど、天ぷらは、格式ある日本料理。
 天ぷらにするなんて、せっかくの良い素材がもったいない、なんて言うヒトは、まあいない。

 この感覚の差って、なに?

 カニに卵のころもをつけて揚げるなんて、おかしな話ではないか。カニは海のもの。卵は陸のもの。日本料理の起源をたどってみるがいい。漁師町。魚肉も魚卵もふんだんに穫れるというのに、あえて鶏を飼ったりするわけがない。機械化もされていないころ、家族総出で漁をするなか、鶏を育てる余裕など、あろうはずがない。

 かといって、新鮮な魚が流通していない内地の農村部で、魚介に鶏卵をまぶして揚げるなどということを考えつくはずもない。

 そういう憶測のうえで考えてみれば。
 おそらく、まったくの推測ではあるものの、天ぷらの黎明期は、鶏の唐揚げと、野菜の天ぷらという組みあわせだったと考えられる。

 鶏ありき、卵ありき。
 そこに小麦粉などという手間のかかったものを使用するところから、現代ではむしろ粗食な材料の組みあわせなのに、高級日本食というカテゴリーに属すこととなったのだろう。

 小麦粉と卵と鶏肉があって、腹が減っているなら、自然な流れとして、小麦粉で生地を焼いて、卵と鶏肉のソテーを添える形になるはずだ。それを、あえて揚げる。試みである。娯楽だったのである。

 近代になってからも、脚気は結核とならぶ二大国民病だった。そこからも、日本人が、いかに米ラブであったかがわかる。白米食ってりゃ動けると米ばっか食っていたらビタミン不足で死んでしまうのだ。ドラマ化もされたマンガ『JIN-仁-』では玄米や黒糖をまぜた餡ドーナツで脚気を撲滅するという設定を使い強調して描かれていたが、そんな特別なことをしなくても、小麦粉が主食の国で、脚気での死者はそうそう出ない。

 栄養価が高く、育てやすいのに、米に負けた。
 日本で小麦が主食の座に敗れたのは、狭い土地のせいもある。狭いということは近い。なにがって、海が、山が。育てなくても、採ってくればいい。魚や肉にかぎらず、海草や野草。ビタミンの宝庫だ。むかしは、それでよかった。
 それが、海を離れ、山を離れ、都市というものができあがり。
 米だけを食うという愚かしいことになった。
 精米技術なんてものが発達したおかげで、食べやすくなったからさらに白米に依存するのだが、その白米にはエネルギーはあっても栄養が足りていないという不幸。

 落語にも出てくるくらいで、小麦粉で生地を作って蒸した饅頭という菓子は、そうとうに古い時代からポピュラーなものであったらしい。ということは、粒のままでは調理しにくい小麦を、粉にして料理に使うという発想も技術も、日本には古くからあったということになる。

 うどんは健闘したが、主食にはなれなかった。
 うどんの国といわれる香川の友人も、うどんはメシではなくてオヤツだと断言している。
 パンケーキもナンもフラワートルティーヤも、白米に負けた。
 おにぎり最強伝説の国で、そうして小麦は、菓子と娯楽の素材になった。

 江戸には、天ぷらの屋台があったんだとさ。
 七輪の普及は、そうした屋台文化によるものが大きい。
 天ぷらだってできる火力が、こんな簡易な装置で!
 水戸東村七輪のマジックコンロ!!

 屋台といっても、蕎麦屋のように、食事目的だったとは考えにくい。天ぷらだけで満腹にはならないだろうし、天ぷらをおかずに白米を食わせるのならば、江戸人がどんなにまぬけでも、天ぷらの屋台ではなく、天丼の屋台を発明できていただろう。文献によると、あくまで、屋台で売られていたのは天丼ではなく、天ぷらであるという。

 夜店屋台の、リンゴ飴のようなものだ。
 飴のかわりに卵のころも。
 中身は野菜。
 野菜にケモノの卵をコーティングなんて、おかしいねえ。 
 おごってちょうだいよ、とホステスさんが笑う。

 つまるところ、黎明期から、なんら変わっていない。
 妙な組みあわせだから。
 主食ではないから。
 家庭料理の対極としての、天ぷら。
 酒のあて。
 中身とのギャップは激しいほうが萌える。

 せっかくのカニに、卵と小麦粉まぶして揚げる?

 かたぶつ生徒会長が文化祭でメイド服、みたいな。
 天然ドジっこにこそ凛々しく白ふんどし、みたいな。
 
 いまでも、その破壊力は健在というわけである。
 で、そうなると。
 最初の、もったいない、に違った解釈ができるようになる。

 チーズにカニ味噌。
 それを溶かして、カニの身にまとわせる。

「もったいない」

 そう思われてしまった時点で、ギャップが甘いのだ。
 逆説的に、我々は全員がそれを、美味しそうだと思ったのである。
 そして、選ばなかった。

 カニは非日常。
 カニにチーズなんて、なんだか日常。

 だから、もったいない。

 考えてみれば、いまや私の主食は小麦粉だ。
 カニ味噌のにぎりが、カニ鍋が、天ぷらが。
 ガイジンさんの夢想する日本的なものが、私にとって……いや……かつての高度成長期を生きた義父母たちにとってまでも、いまや、というか、いまだ、というか、生徒会長のメイド服なのである。

 かに道楽でチーズフォンデュ奢られるなんて。
 記念撮影する出来事じゃない。 

 義母が春の限定メニューを選ばなかったのは、実はそういうことだったのではなかろうかと、ボトルを半分くらい空けたところで思ったのだが、そのころには、別にどうでもいいことにもなっていたのだった。

 ……こういうのも含め、面倒くさい。
 同じものを同じように食べていれば、食べているものについて考えたりせず、考えるべきことを考えながら食事できるような気がする。
 カニなんかたまに食うから、こういう面倒な思考に走る。
 そういうことなのだ。

 奢ってだれかによろこんでもらえるのならば、それはそれで嫌いではないけれど、個人的に焼酎のボトルがあって、つまみを、というのなら、カニ缶がいい。身だけを集めて商品にしたものがあるのに、わざわざ自分で殻からほじくり出すって、野蛮。それってあれでしょ、狩猟本能を満たすってやつでしょ。夏みかんも「ほれ、その皮をめくってしゃぶってやろうかいのう」というプレイがしたいだけなんでしょう? 

 私には、そんなまわりくどい癖はありません。
 なので夏みかんの缶詰は好き。

mikan

 あらゆるメニューが銀色のパウチになっている、宇宙食というやつは、王侯貴族の食事だと思う。食事を摂るときに発生するであろうと考えうるすべての面倒くささを、多数の技術者と、ヒトの叡知科学の魔法によって究極にシンプルにしてある。

 ああ……うん……
 ベビーフードって、そういえば、それ。

wakodo

 ハンバーグランチという名の、缶詰ひとつ。
 ヒトは生まれて死んでゆく。
 いつか、そういうところに戻りゆく。  

 願っているのは、それなのかも。
 
 なにもほじりたくなくなって、なにも剥きたくなくなって、しゃぶってやろうかいのう、なんて気もおきず、ついには缶詰さえにも興味を示さなくなり。
 かつては母乳、老いては酒を。
 ただそれだけを舐めながら。
 奪われることなく、折れることなく。
 生まれたところまで、戻って逝けたら。

 つぶやきながら、食事が面倒くさいのは嫌いだと、慌ただしくかきこんで、その時間をなにに使うかといえば、こんなものを書いている。

 こんなものを書くことが、できている。
 夏みかんの皮を剥くのは面倒くさいと、ぶーたれることができている。
 生きている。
  
 すなおにその幸運を享受するのもだいじだけれども、せっかくなら言えるだけのわがままを言って、ほじってよ、剥いてよ、しゃぶってよ、と、生まれたときからずっと続けている泣き叫びを続けて、疲れ果てたい。

 和歌山の、かに道楽でした。
 義父母の店も家も、そのうち必ず来るという大地震と津波で、確実に飲みこまれる位置にある。ときまさにあの震災から二年。そういうニュースを目にしながら、津波の通知表示がわかりやすくなったって、どこに逃げるのよと、そのひとたちは笑う。

 カニ喰いたいときに喰えるなら喰っとけ。
 愛してると言って抱ける相手がいるなら、いま言って抱いておけ。
 死だけがだれもに平等だと、哲学者が言う。
 おとずれるタイミングの問題にすぎないと。
 だったらば、考える時間だってもったいない。

 きらい、と、すき。
 それ面倒くさい、あれやりたい。
 見つけたら走れ。
 できあがらなかったらイヤだから、計画も立てろ。
 他人もそうだから奪わないように。
 読めないタイミングなんて読んでもしかたない。
 危機に備えるのは戦闘(生き延びること)の基本。
 でもそれ以上に、だれもに平等だと知ること。
 いまなんだよ、いま、しあわせになりたいの!

 支えられ、許されて、幸運もあり。
 いま、そうできるなら。
 だだこねて。いやいやと首を左右に振って。
 これがいいんだもん、と生きていこう。

 ハンバーグが食べたいよおっ!!
 ていうか、食べさせてほしい。

(非日常を感じる食事を考えてみたら、ハンバーグを食べさせてもらうって行為を思いついた。けれど、ある意味、ハンバーガーってそれだ。ガワ剥いて、野菜まで添えて、パンで挟んで手も汚れないように店員ちゃんがしてくださっている。目の前でサンドイッチ作ってくれる店があるけれど、あれもっとつきつめて、カニとか夏みかんとか剥いて食べさせてくれる店……需要ないかなあ、絞れるヒトからは倍取れそうな気もするけどなあ……って、それ完全にホストとホステスさんのお仕事ですね。酒をついでもらうということだけでさえ、面倒くさがる者たちは悦ぶのだと歴史が証明している。ヒトはして欲しいイキモノ……男は、かな)

 ちなみに、ナイフとフォークじゃなくて、指でもなくて。
 プラスチックのハシで食べさせてほしい。
 つるつるすべるので、ふるえながら、そっと。
 そこはゆずれない。