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 飯野賢治さんが亡くなった。
 私はそのひとのことを好きだった。

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『飛の字とDの食卓2』のこと。

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 ブログも、ツイッターも読んでいた。
 喪主の、妻、飯野由香さんがゲーム雑誌で書いておられた連載も読んでいた。

 上の記事で触れている、Wiiで出たゲームはプレイしていない。
 Wiiを買っていないので。

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『きみとぼくと立体。』公式サイト

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 『newtonica』のシリーズはプレイした。
 いや、いまもプレイしている。

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 小説デビュー作も読んだ。

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 飯野賢治、と名の入った本が、御本人が書かれたもの、彼について書かれたものなど、棚の一段を埋める量で、目の前にある。ほとんどは、ずいぶんと前のものになってしまったが、手をのばせば取れるところに並んでいるということは、私が、ときどき、それらに目を通すことがあるということ。

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 誉められたいんですよ、正直いうと。自分が認められたい。人間、認められる方に行くんですよ。結婚している主婦がいて、新しい男の方に行ったりするじゃない。なぜかっていうと、そっちの方に大事にされていたりするから。会社で引き抜きされたりするじゃないですか。本当は給料とかの条件もあるかも知れないけど、「君のグラフィックはすごいよ」とか言われると、元いた会社では誰も誉めてくれなかったから俺が必要なら行ってみようかなって思うじゃない。そういうのって、誰だって一緒なんじゃないかなって。つまんないことなんだけどさ。


中田宏之/レッカ社 編
『ゲームを変えた男・飯野賢治―E0事件の真相』

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 つまんないことなんだけど。
 私はいままさに今年も、十数年にわたって一円にもならないが数千枚を書いた某誌へ向けての原稿を、また数百枚書いているところで、なぜこれがやめられないかといえば、その雑誌が私の小説を最初に誉めてくれたからである。
 それだけで、人生は決まってしまう。

 飯野賢治がいなければ、私はいまXboxユーザーではないと思う。
 彼が、誉めてくれないプレイステーションを蹴って、セガサターンで『エネミー・ゼロ』を作ると表明して、そこからの彼のゲームを追いかけて、200万本売れるRPGは実現しなかったけれど、セーブできないゲームとか、画のないゲームとか、そういうのを、プレイして。

 我が家のリビングには、何枚かの映画ポスターと並んで、ゲーム『L.0.L. Lack of Love』のポスターが貼ってある。坂本龍一と西健一が生み出したゲームで、私がそれに触れたのは、そのふたりと親交の深い、飯野賢治がいたから。



 ポスターが気に入っているからいまも貼ってあるのではなく、忘れてはいけないものを、忘れないように貼ってある。
 
 そういうところに連れていってくれたのは、彼でした。
 おおげさでなく、私は、飯野賢治のゲームが好きという以上に、そのひとがいなければ、いまの自分のかなり大事な一部分が形成されなかっただろうことを確信している。

 ……それにしても。
 高血圧性心不全。
 由香さんと息子さんのことが、心配。
 数年前にブログで倒れて入院したことを書いていて、その後、倒れた理由と御本人が書いていた体重を管理して実際に痩せて、それでも。

 私の義妹の兄が、三十代の体育教師でありながら、冬の風呂場で同じように亡くなった。同じように、ひとり息子と妻を遺して。葬式では、息子はまだ幼くて、なにが起きたのか、理解できていなかった。いまは理解している。
 飯野家の息子さんは、もう少し大きい。
 けれど、由香さんを支えるほどにではなく。
 いま、ひどい、つらい、ことだと思う。

 私にとっては、モニタの向こうのかた、だけれど。
 いろいろ教えていただいた。
 見せてくれた。触れさせてくれた。
 そのひとが、そのひとの人生をたのしんで生きる様子が、支えになった。
 かっこよかった。
 った?
 ううん。
 これからも、の、はずだったのに。

 ああ。
 なんてことだ。

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 坂元裕二さんが飯野賢治企画監督作品『風のリグレット』の脚本をアップしてくださっています。

『風のリグレット』

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 上でも書いた、画のない、音だけのゲームでした。
 ゲームをしているのに、画面は真っ黒で、でもコントローラーを握っていて、ゲームをプレイしている。不思議な体験で。

 ゲームという囲いそのものを無意味にするんだという姿勢と、それをちゃんとパッケージにして発売してしまった行動力。それらは、ミクスドメディアの画家と呼ばれるフランク・ステラの模倣から絵を描き、ミクスドジャンルの王と呼ばれるディーン・クーンツにあこがれて小説を書きはじめた私にとって、すごいすごいと拍手喝采する出来事だった。

 できれば、ゲームでプレイしてほしいけれど。
 脚本だけでも、ぜひ読んで。
 内容もさることながら。
 まだXboxもWiiも発表前だった、セガとソニーがゲーム機戦争だと世界で報じられていた時期に、これをゲームだと呼んで発売するのって。
 どうよ。

 同じ時代、同じ国に生きられたこと。
 誇ります。


「地階から一〇〇階まで登る途中でした。疲れがひどくて、ぼくは階段の踊り場で一休みしようと思ったんです。でも、荷を下ろして座ったらそのまま眠ってしまって」
「危険行為だぞ。〇階台の戸外で眠るのは」
 重工業エリアは空気が悪いうえ、いつガス漏れが事故が起きるか分からない。防毒マスクなしには過ごせないエリアだ。そんな場所の戸外で眠ってしまうとは迂闊過ぎる。


 縞田 理理
 『ミレニアムの翼 (1) ~320階の守護者と三人の家出人~』 

Millennium Wings

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 去年のいまごろ、私は、塔の物語を書いていた。

 某誌に売り込むためのもので、ちょっと個性的なその雑誌のカラーにあわせて、かなりひねった設定を盛っていた。結果として、その原稿はいまだ私の手元にあり、今後のことも考えると設定の多くは語れないのだけれど、端的に表すなら、スチームパンクな匂いが強い作品である。

 スチームパンクというと、セガサターンの名作SRPG『バッケンローダー』を想い出す。とにかくあちこちでぷしゅうぷしゅうと蒸気が鳴いていて、爛れた街には奇病が流行し、人々は己が暮らす大地そのものに怯え、主人公は半身である妹を喪った……

Wackenroder

 シミュレーションパートがグダグダだったという評が散見されるが、当時、エンディングを見た私の記憶は、いまではグダグダなゲーム部分がすっかり削ぎ落とされて、媒体を問わずのスチームパンク傑作を選出せよと言われたら、五本の指の一本にこれを入れるくらいの好印象。

 スチームパンクは、スチームでパンクである以上、大前提からして暗いものになる。

 なぜ街のあちこちで蒸気が噴き出しているのか。
 ほかに使えるエネルギーがないから。
 燃やしているのだ。
 なにかを。

 どんなエネルギーだって突き詰めれば熱交換の技術によって人類の生活を支えているのだけれども、スチームパンク世界において蒸気の描写が重要なのは「漏れている」ことを表すのに便利だからである。『バッケンローダー』が私の記憶に残っているのも、そこだ。とにかくプレイしているあいだ、ずっと漏れている。音がする。画面の向こうだから熱くもないし、臭くもない。
 でも、何時間、何十時間となると、脳内では、不安が育つ。

「発電所から漏れてますっっ!!」

 だれかが叫んだら、現代では、みんなが死を覚悟する。
 まして閉鎖した空間で、世界を支えるほどのエネルギーを発生させている機関。ほんのわずかなエネルギーだって、あまさず熱や位置に変換して利用しなければならないのに……

 ぷしゅうぷしゅうと、漏れている。

 漏れる蒸気、それは、エネルギーがコントロールできていないことの象徴。スチームパンクとは、コントロールできない不安定なエネルギーを最後の礎としてすがりながら、滅びを待つ人類の物語である。

 私のも、そうだった。
 塔の外は、汚染されている。
 塔の中も、下の階層は人の住めた環境ではない(ということになっている)。
 物語の舞台は、塔の上層部で、なんとか人間らしい生活をしているひとたちの住む場所。とはいえ、人類の歴史も末期なので、いろいろ、破綻している。どんなに広くても、塔という建物のなかで滅びを待つ、そんな状況で正気をたもてるほど人類は強くない。奇抜な者の奇抜さは行きすぎて、達観する者の思想は悟りを超え、産みだそうとする者は狂信者となる。

 まあ。深くは語らないが。
 設定が暗いぶん、希望に満ちた物語を書いていた。
 そしてそれは、無事、書きあがったのだが。

 ちょうどそのとき、売り込む先のその雑誌で、新連載がはじまった。

 読んで泣いた。
 感動して、ではない。
 感動しなかったということではなく、そんな余裕もなくすほどに、衝撃的だった。

 汚染された地上。逃れるための高層都市。エネルギー問題。階層による差別。いや、そういうもろもろの部分をとりあえず置いておいても、無視できない基本設定のダダ被り。

 くわしくは書かない。
 こんなこともあるのだな、と感じた。
 ちょっと悟ったような気になった。
 偶然ではありえない、これは、私も含め、この時代に生きる多くが共通して感じてしまった、もはや拭えそうにもない、空気感なのだろう、と。

 私が私の物語を書きはじめたのは、東のほうで起きた地震の一年後、遅々として進まない復興とならんで、エネルギー問題が、おかしな方向へ向かって議論されはじめたころだった。私は、西のほうで起きた大震災のとき、神戸付近に住んでいた。自身も死にかけたし(巨大なステレオセットに頭蓋を割られるところだった)、道路が裂け、ガスの臭いが充満する街を、トランクに水を積んで車を走らせた。

 怖かった。
 ぷしゅうぷしゅうと漏れるガスは。
 怖い。
 そのなかを、ガソリンを爆発させて推進力を得る装置で走るのである。
 現実だから、怖い、と思えたが、小説の設定で読んだら、馬鹿である。ガスの臭いがしているのに、燃焼機械が走りまわっているなんてリアリティねえなあ、と酷評されることだろう。しかし、友人や恋人が、水が止まったと言っていて、自分の部屋では出て、電話はつながるし、道路もなんとか走れるような状況なら、ヒトは走るものだ。

 狂気が、ふつうになる。
 地震で崩れたのは一部だったので復興なんてことが言われるが、もしも、地上ぜんぶがだったら、どうだろう。人類が、高くそびえた塔のなかでしか生きていけない種になったらば。

 凡庸とは、どういう定義になるのだろう。

 『バッケンローダー』を私がプレイしていたのは、1998年。あらゆるサブカルチャーが、世紀末という言葉を意識せずにはいられなかったなかで、荒廃のスチームパンク嘆美が愛でられたのは、ある種、自然のなりゆきだった。

 それが、思えば、2001年から2100年までの新しい百年期。
 最初の十年で、スチームパンクが帰ってきた。

 そびえる塔。
 充満するガス。
 制御できない破滅的な機械たち。
 飛行艇。
 発明卿。

 それらの単語を詰めこんだら、スチームパンクになる。
 長く暗いトンネルをすべり落ちる導入部というのも印象的だ。

 SF界を代表するローカス賞SF長篇部門の2010年受賞作は、ネオ・スチームパンクと呼ばれた。

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「さあね。あと百年か、千年か。だれにもわかりゃしないよ。だけどここの連中はガスの中で生きる方法を編み出してる。完璧な方法じゃないけど、なんとかやっているだろう? いつか世界じゅうが、あたしたちのやり方を覚える羽目になるかもしれない。あたしの考えが極端すぎるとしても──そんなことにはならないとしても──これだけは断言できるよ。近いうちに、<郊外>もこの汚いガスに浸かることになるだろう。壁の外の連中は生き延びる方法を覚えるしかなくなるだろう」


 シェリー・プリースト
 『ボーンシェイカー ぜんまい仕掛けの都市』

BONESHAKER

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 類型的なスチームパンクである。
 それが、世紀末を越えて、十年。いや、2009年発売だから、作者が書きはじめたのは、新世紀が明けて、ほんの数年であろう。
 古い世紀を生き延びたのに。

 生き延びたから。
 少し、我に返って考えた。

 世紀末、盛り上がっていたなあ……

 次の百年って、なにが変わるわけ?
 いや変わっていないでしょう。
 むしろ、世紀末文学が、現実になりはじめている。
 ネオ・スチームパンクと呼んではみるものの、この数十年、爛れた煙たい都市の物語を摂取せずにはいられない人々は絶えずいて、ネオでもなんでもなく、描かれるものは変わらない。

 地震のせいだったけれど、身近でエネルギーが暴発し、そんなことを気にも留めていなかった人々まで言いはじめた。私は、どちらかというと、人類は滅ぶまで突き進めという思想の者である。人体を改造して長生きできるのなら、そうしないのは馬鹿だし、地球を食いつくしたら、塔に篭もるよりも、次は火星を食い散らかすしかないと考えている。ぷしゅうぷしゅうと漏れる蒸気をなんとかしなければならないとは思うが、それでもスチームパンクの世界観にリアルが感じられるのは、漏れているからたった一個残った電球を消して暗闇に暮らしましょうなんて選択を、人類はしないと、だれもが知っているから。こんな地球にしておいて、いまさら温暖化だとかなんだとか。

 地球は、いまやヒトの棲むために改造された閉鎖都市。
 外には、毒どころか空気がない。
 ガスマスクをしたって、生きてはいけない。

 私の書いた塔の物語も、だからどこかで需要はあるだろう。
 ダダ被りはまずいので手をくわえる手間は惜しまないが、脳天気にイッてしまった内容の薄さは、そのままにしておきたい。書いているさなかはスチームパンクというジャンルを意識しないで設定を積み重ねていたものの、書き終えてクールダウンしてみると、実は自分がものすごく類型的に新世紀に悟ってしまったひとりに過ぎないということを知る。

 ところで、私は、薬屋さんでもある。
 数年前、店頭でマスクが品切れになりまくったことがあった。
 鳥インフルエンザという、奇病が流行ったせいである。
 商品を仕入れようにもどこにもないので、やむなくバイヤーは仕入れられるマスクを大量に仕入れて、店に送りつけてきた。

 いわゆる、工業用マスク。
 SF読みで書きである私は、棚に並べた防毒マスクの群れを見て、スチームパンクやなあ、と感慨深かった。

 さすがに、売れなかった。
 効果はあっても、なにせ大げさで、息苦しい。
 そんなわけで、数千個単位で倉庫に残った。

 それが今年になって、完売した。

 インフルエンザも流行っていた。しかし、そっちのマスクは潤沢に残っている。

 防毒マスクが売れる時代になったのだ。
 ちなみに私が勤務しているのは大阪で、隣の国から流れてくる光化学スモッグもそうなんだけれど、震災がれきの焼却がはじまったことに、驚くほど反応する人々がいた、というのも大きい。

 いまさらなにさ。
 と、私は売りながら、書きながら、思う。

 今日、防毒マスクして生き延びたところで、明日は地球が美麗清浄な丸い球に生まれ変わるとでも?
 これだけは断言できるのでーす。
 もう遅い。
 ローカス賞受賞作みたいに、あと百年か、千年か、そんなにはない。塔を建てるにしても、火星を地球化するにしても、本気で逃げる気なら、もうはじめていないと、遅い。

 マスクって(笑)。

 汚染された地から逃げて閉じこもって生きるヒトの話が、サイファイやファンタジーの王道になる時代、だったら次の暗い設定を考えないとならない。

 息ができない近未来。
 これ以上、なにがある? 

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 ↓大気観測アプリ (iOS)


 
 エネルギー問題に特化した設定でならば、ネビュラ賞長篇小説部門(2009)、ヒューゴー賞長編小説部門(2010)、ローカス賞第一長篇部門(2010)で、三冠受賞と呼ばれるパオロ・バチガルピの『ねじまき少女』もスチームパンクの類型。

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『リリス斬首、ねじまき少女、日本人』のこと。

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 こうしてみると、設定ありきで「まとまりねえなあ」と一部に酷評されるのが、ネオ・スチームパンクの定義かもしれない。もっとずっとひどい世界を創造するのに必死で、それを描けたときに満足してしまうのだと思う。人類なんて、まして個々の感情の起伏なんて、なんの意味もなくなってしまうような無常観こそが味わい。どうせ意味なんて消え去る膿んだ世界、ならば目の前の欲するものを欲せ、愛せ、夢を見ろ! そういうことにならざるをえず、好き嫌いがわかれることになってしまうのであろう。

「世界観だけが記憶に残る」

 スチームパンク作品に対しては誉め言葉なのだけれど、ネオ・スチームパンクの一員になってローカス賞を奪取したいわけでないのならば、言われないよう、おぼえておくべきフレーズかもしれません。

 
 ヒトは炭素でできている。
 ダイヤモンドも炭素でできている。
 ダイヤモンドは刺されても平気だけど、っていうか地上最強なので何人たりとも彼を刺し貫くことはできないのだが、ヒトはダメ。おなじ炭素でできているのに、ヒトはゆるゆるだから、ナイフの切っ先も分子の隙間にさっくり入ってはい、おしまい。

 レギオンはケイ素でできている。

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 シリコンが大好物。
 コンピュータもシリコンでできている。
 コンピュータにはがんばればナイフは刺さるかもしれないが、レギオンには無理。自衛隊の戦車の弾でも傷さえつかない。

 炭素も珪素も、宇宙には無限といえるくらいあるのに、どうしてヒトは珪素ではなく炭素で形作られてしまったのだろう。炭素でできているがばかりに、たとえば某プロレスラーのありえないくらい鍛えあげられた背中にもナイフで刺された傷があるし、蛍光灯ごときで、修復不能な傷が肉体に刻まれてしまうことを売りにしている者たちだっている。カラダが硬質シリコンならば、レギオンみたいに有刺鉄線も跳ね返して、プロレスに専念できるのに。

 ところで、硬質シリコンと表記する場合、世間一般的な正確を期すならば、シリコーンと書くべきであるらしい。シリコンと書くとケイ素そのものを指してしまうので、珪素をもとにしてできあがったなにかを指すには、区別のために「ー」を入れるのだとか。

 しかし、まわりを見てみると、豊胸用のぷにぷにしたのは「シリコンパッド」だし、車いじりには欠かせないスプレーは「シリコンスプレー」で、シャンプーに配合されているのが良いのか悪いのか議論されているのも、シリコーンではなく、シリコンだと雑誌の記事にはある。

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(せっかくなので専門家らしい注釈を加えると、呉工業さんの代名詞的スプレー『5-56』は安くて便利な潤滑剤だが、ゴムやプラスチック、もちろんシリコーンにも使えない。『5-56』の無香性はゴムに使えますという表記があるが、だったら上の『シリコンスプレー』は、ゴムどころか木部にまで使える。ギシギシいうタンスの引き出しや、木製の敷居などに吹きかけると、ぬるぬる動くようになる優れもの。機械いじりしないひとが、家庭用に一本持っておくなら、彼を薦めます)

 というわけで、シリコンとシリコーンは別物であるはずなのだが、シリコーンよりもシリコンのほうが発音しやすいという理由だけで商品名にはそちらが使われ、いよいよだれもが混乱していく。

 混乱の原因は、名前だけでなく、その性質のせいもあるだろう。ぷにぷにの豊胸パッドも、スプレー剤も、シャンプーも、あげくシリコン調理器具なんてものも。そのすべてがおなじ名前のシリコン軍団所属だとはどういうことなのか。

 でも、ちょっとだけ考えてみれば。

 シリコンスプレーの缶には離型剤と書いてある。シャンプーに配合されるシリコンも、髪と髪との摩擦を少なくする目的である。キャラクターを模したケーキが焼けるシリコン製ケーキ型というのも、型から外れやすいという性質を利用している。

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 豊胸パッドも、外に装着するものであれ、外科手術をともなって体内に埋め込むものであれ、やわらかく、かつ人体すなわち肌、人肉との完全なる距離感が求められるがゆえにシリコンが選択されたものである。

(最近では、DDTプロレスリングの中澤マイケルがリング上で亀頭に「3cc」を注入したことをアピールしているように、人肉への距離感を保つよりも、徐々に吸収される物質を埋め込むことで人体改造するのが主流になりつつあるようだ。マイケル語るところによると、注入したのはヒアルロン酸で、数ヶ月で完全に人体に吸収されるのだという。豊胸施術でも食塩水やシリコンのパッケージではなく、ヒアルロン酸が使われはじめていると聞くが……亀頭に3ccで数万円とかいうのに、胸が膨らむほどの量って……しかも、徐々にしぼんでいくなんて……人体改造とそれにともなうヒトの心の道は奥深い)

 要は、珪素をもとにしたシリコーンという物質は、いろんな形に変えられて、かつ、どんな形になってもシリコーンらしさを忘れない、愛しても愛してもいっしょにはなれない、そういう性質から愛されているわけで。消費者にとっても、あまりにも身近になりすぎて、珪素を意味するシリコンと、シリコーンの境目も、もうどうでもよくなってしまった、と。

 ただ。
 いまでもシリコンをシリコンという意味で使うことにこだわりを持つ消費者もいる。

 SF読者。
 サイファイ映画好き。
 そういったヒトたちは。

 シリコン生命体、を信じている。

 レギオンもそうだが、もっと、イッてしまった生命体が、並行宇宙には存在しているのではないかと彼らは考える。

 炭素も珪素も、宇宙には無限といえるくらいあるのに、どうしてヒトは珪素ではなく炭素で形作られてしまったのだろう。

 珪素=シリコンだって、これだけさまざまな形に変われるのだから、生き物に進化したっておかしくなかったはず。

 科学者さんは「人体のほとんどは水分なところに答えがある」という。炭素は水と結合してさまざまに変化できたが、珪素にはそれができなかったから土と岩の大地に納まってしまったのだと。

 しかし、いまは、ぐつぐつ煮えたぎる反応爆発の原始の星の上での、偶然による生物の誕生を論じているのではない。炭素でできた知的生命体が、珪素から「造った」シリコーンで胸を大きくし、ケーキを焼く、現代においてもまだ、シリコン生命体が生まれていないのはどういうわけなのだ、ということをブツクサ言いたいのだ。

 シリコン・バレーから誕生した、パソコン上の仮想生命体=AIは、一種のシリコン生命体ではないかという意見もある。それはそれでいい。というか、そこに話が行くと、シリコンであるかどうかは、大きな問題ではなくなってしまう。彼ら、否、私が望んでいるのは、この地上に偶然生まれた、我々を含む炭素生物とは、まったく違うプロセスで生まれたシリコンマンがいるとしたら、それはいったいどういう姿形をしているのか、はたしてマンと呼べるくらいに私たちに近いのか。
 そういうことである。

 レギオンは、安易だ。
 珪素人間という設定でも、たいていは、ああいう、岩がモチーフになった炭素生物に近い形状の、ツンツンゴツゴツした生命体となって描かれる。

 でも、そうなんだろうか。
 だって、珪素と「水」でシリコン生命体が生まれるわけではない。
 私から水を抜いたら、乾物だ。
 ミイラである。
 見た目には、レギオンに近い。
 しかし間違いなく、レギオンのように、歩けない。水分なくして関節は機能しないし、ミイラの内蔵がなにを吸収できるわけもないから、食べないのなら、他者を狩る必要がない。争う、とか、暴れる、という行動自体が、理解できるものかどうか疑問だ。

 今週、こういうニュースを読んだ。

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『南極の氷底湖で初の生物発見か - ナショナルジオグラフィック 公式日本語サイト』

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 岩を喰っているという。
 岩は珪素のかたまりだ。
 氷の湖の底で、みずからの肉体に変換するものが岩しかないというのなら、もちろん岩を構成する酸素やカルシウムも喰うには喰うのだろうが、それこそがなによりも大量にある珪素を無視した進化を遂げているとは思えない。
 だとすれば、その生命体は、かぎりなく珪素生物に近いものだ。

 というか今回のニュースで「微生物が見つかった」とする定義自体が、湖にDNAを染める顔料を投げ込んで染まったから、というものなので、ひょっとしたら岩そのものがDNAを持つ生物である可能性は否定できない。そんな生物はいないとされているから検討もされないのだけれど、前述のようにSF小説を深読みする私たちは、前提として珪素生物の存在を信じているので、岩が生きていたって驚かないのである。

 いや、まあ、驚きはするが。
 岩が岩を生む、そこに遺伝子のような情報のやりとりがあったとして、それでも岩は岩なので、見た目には岩だ。
 禅問答のようになってしまうが。
 そういうことである。

 珪素生命体の姿も形も生き様も、炭素生命体とはまるで違う。
 そういう可能性が高い、のではなく、シリコンマンがヒトに似ているなどということは、まるきりのファンタジーである。

 深海探索ヲタクなジェームズ・キャメロン監督は、遠隔操作ロボで深海に潜り、摂氏500度の熱湯が噴き出す場所にも生物が棲んでいるのを目にして『アバター』の着想を得たと聞く。監督は興行のことを考慮して、ヒトが見ても色艶のある青いヒト型生命体との遠隔操作恋愛劇に仕立てあげていたが、深海探索者としての意見を聞けば、きっと私と同じ妄想を抱いているに違いない。

 熱湯のなかにもヒトには理解できない生命体がいる。
 南極の氷のなかにも棲んでいる。
 珪素生物はいる。
 だったら、いまテーブルの上にある茶碗が「生きて」いないとだれが言い切れる?

 比喩的な意味ではなく、世界そのものが生きているのかもしれない。
 観客動員数は上がらないだろうが、見る夢としては、それがいい。

 生きているということが、ものを考えるということと同義でないのは、延命医療の是非について論じるときによく語られるところだ。ヒトはもともとものを考えているから、ものを考えられなくなったのに生きているといえるのかなどと考えてしまうけれど、無機物は無機物なりに生きているのだとしたら。

 氷に覆われた澄んだ湖で「生きる」岩。
 恋する相手にはぜったいならない。
 なにを考えて生きているのだろうなどという想像が見当違い。
 生きるとは、そういうことではない。

 シリコンをシリコーンに変えたくらいでいきがって、なんか悩むとか、生きている意味とか、それ自体がバカらしい。

 ……思い出した。
 熱くなってしまった。

 珪素はレギオンになって街を破壊もするが、シリコンカップになって弁当の悩みを解決もしてくれるのだという前フリのつもりだったのに、思いがけず南極で岩を喰う生命体が見つかってしまうものだから、話があさってへ飛んでいって迷走してしまった。しかしこれが徒然というもの、気づいたところで、改めるがよろしい。

 さて、枕の小咄も終わったところで。
 遅ればせながら話をもどしまして。

 豆腐が好きです。
 鍋とか、昆布ダシの水炊きで、豆腐があればいい。
 それ、湯豆腐ですね……
 鶏肉とエノキダケと水菜もあるとよし。

 豆腐でおなかいっぱいになるわけですよ。
 シメとかいらんですよ。
 シメないと、鍋、あまるのですよ。

 翌朝。
 昆布と根菜と冷凍庫にあった油揚げを加え、しょうゆを足して煮詰め、シリコンカップへ。

silicone

Silicon

 凍ったら、カップから抜いて、ブロック状のそいつを冷凍庫にストック。カットして凍らせたコロッケや白身魚フライや、唐揚げや、そんなものもシリコンカップでブロック化。
 弁当は前日の帰宅後に作ります。
 作るったって、それらのブロックを三つ組み合わせて弁当箱に放りこむだけ。
 それらで私は、できている。
 シリコンカップというものが市場に出回りだしてから、ずっとこのスタイル。

 シリコンで私は生きている。

 珪素生物なんて、もしもいたって、ただの岩かも。
 でもそれを言うなら、私たちだってただの炭素生物。
 喰うために生きるのではなく生きるために喰うだけ。
 つきつめれば、炭と灰になる生命体。

 ほら、話がそれると、うまくまとまらない。
 まとまらないけれど、おしまいである。

 微生物のように、目の前にあるものを喰って身に成す。
 考えなければ、氷の孤独のなかでも生物でいられる。
 ここに在る、それだけが生きること。
 愛しあうのは、在るのを確かめて、ほっとすること。
 冷凍庫にストックされる弁当箱三等分サイズのおかずブロックは、解凍されるのを待つ、未来の私の一部。
 珪素生物だったらば珪素弁当、それって岩。  
 炭素でよかった。
 モノ考えるのが生きることな生物、面倒くさいけれど、愉快。