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Hallopear

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『ハロウィンとは銃殺の日』の話。

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 今年はすでに、ピッツバーグで8歳の女の子がショットガンで撃たれた。
 撃ったのは従弟の24歳。
 ハロウィンパーティーを開いていた女性に「スカンクが出たから撃って」と頼まれて撃ったらしいが、撃たれた8歳の彼女は、ゴシックハロウィンらしい白と黒のモノトーンなファッションだった。

 親戚のパーティーでモノトーンを着たらスカンクに間違えられて、いとこに撃たれる。

 ……そもそも、スカンクが出たからショットガンで撃って、という日常会話がすごいし、黒と白のちっちゃいのが物陰で動いているのを見て、ハロウィンパーティーを開いた当人が、白と黒のゴシックロリータな子が参加していることをチラとも思い出さないところが、おおらかすぎる。広い国土、害獣は撃て、疑われるような行動をしたほうが悪い。

 ハロウィン。
 こちらの世界とあちらの世界がつながる季節。

 こちらの世界では、私が、いまメザメタ。
 寝ぼけまなこな朝とか書いていますが、軽く正午を回っていました。

 今月は、某誌のために作ったプロットを別の出版社さんへ向けて書くにあたり、読者層を考慮して生まれて初めてのいわゆる「百合」設定というので書いていたのですが、書きはじめてすぐに気がついた。
 もとのプロットが、大河な構造であることに。
 つまり、世代をまたぐ。

 百合設定にしたら子供産まれないじゃん。

 気づいてはいたのです。でも、もう書きはじめてしまった。なので書き進んだ。ファンタジーなので、繁殖の問題くらい、書いているうちになにか思いつくだろうというような浅はかさで、原稿用紙三百枚を越えたころ、まあこれでいいかというようなところに着地させる展開を夢のなかでひねり出し、残りの原稿を埋めた。

 そのとき見た夢が、けっこうな悪夢でした。
 詳細は描くのもいやなので書きませんが、思えば、こういうことが多い。
 どういうことかといえば。

 煮詰めれば、無意識がいつか解決してくれる。
 そういう信仰。

 子供が生まれないヒーローとヒロインで大河小説を書き出して、まあどうにかなるだろう、と思えるくらいに、深い信仰心を持っている。それはとりもなおさず、信仰に、応えてくれる結果があるからで。気分的には、子飼いの有能なヒットマンがいて、なにか失敗したって最終的にあいつに暗殺を頼めばいいんだし、というマフィアのドンくらいのおおらかさを保つくらいの感じ。

 なにかを考えつくということは、けっきょくのところ、自分のなかにあるものを選択することでしかありえない。だから、あれはどうだ、これはどうだと考えて、最終的に幾千もの選択の果てになにかひとつの解を選びとったところで、その最終的な答えもまた、最初から自分のうちにあったということになる。

 ものすごく端的に言えば。

 だれかを意図的に殺すという選択肢を最終的に選べるひとは、実は最初から選べる。
 だってその選択肢が自分のなかにないひとは、どんな経路で思考したって、だれかを殺すという解にはたどりつかないのだから。

 ということを考えてみると、多くの個人的な問題の最終的な解とは、ほとんどの場合、自分の世界認識の限界点である。さっきの端的な例えをさらに極論すれば、世界を滅ぼしてもいいと思っている独裁者が、平和な世を作るのは簡単なことだ。しかしそれを実行したものが歴史上いないのは「自分が生き残る」世界破滅までが限界だったから。自分を含めて全人類が滅びることを真剣に望めるならば、ヒトの無=ヒトにとっての永遠の安寧の世など、うららかな春の日の午後の一時間半くらいで実現できる。

 話を極端にしすぎて、よけいにわかりにくくなったので戻す。
 経済学の分野では、人間というやつは、追い込まれるほどにリスクを選びとるとされている。ギャンブルやるひとならこれはよくわかるはず。私はもっぱら仮想世界のリスクのないゲーム内カジノばかりだが、それでも、よくわかる。最初は慎重だったのが、なぜだか、負けがこんでくると、大きな勝負に出たくなる。

 その傾向は、心の安寧が保たれている状態で、堅実な選択を好むひとにこそ、激しく出るらしい。経済学だとピンと来ないので、愛にたとえてみるならば。

 恋人の条件に「やさしさ」をあげるひとほど、孤独な状況では危険な愛を選ぶ。

 まあ、考えてみれば当然のことだ。
 ナチュラルボーンなアウトローが、あえてさらなるアウトローへの道を選択する瞬間なんてものはない。まじめに堅実に生きてきたのにその道を踏みはずしただれかこそ、そういうものを選びとる瞬間が訪れるのである。

 つまり。
 私の信仰とは、それだ。
 解が欲しいときは、延々と問題を棚上げして山積みして、ほおっておく。そうして煮詰まるのも限界になったころ……意図的に構築した「堕ちた」状態が完成したころ……無意識が選びとる。それは、自分の選ぶことのできる限界点であって、それ以上を望むならば、さらなるインプットが必要になる。勉強して別の答えをさがすことはできるだろうが、現時点の自分の選びとれるもっとも極にある解が欲しいのなら、答えをさがすよりも、膿んだほうがいい。

 もちろん、眠れなくなる。
 やっと寝た明けがたに見るのは、ひどい悪夢。
 しかし、昨夜の私は、十二時間ほど死んだように寝た。
 もう問題は解決したからだ。
 その解が正解であれ誤答であれ、書いてしまったものは私の手を離れたので、それについて考えることはない。寝るだけ。

 ……なにが言いたいかといえば。
 はじめるとやめられないのは私のよいところであり悪いところでもあり。
 もう十年以上も書いている、このブログも、脅迫観念的に書きはじめたけれど、今日の私は寝起きでもうろうとしたなにも考えていないひとなので、書くことがない。
 それだけである。
 
 さっき、友人のメールに返信を書いた。
 人間関係が、というような話だったのだけれど、正直なところ、私はいま、きらいなひとをあげろ、と言われても一人もあげられないくらいなので、なぜそんな私に相談してくるのかが間違っているような気がする。と、本人に伝えたら、だから訊いているのよと返された。返されたので答えた。みんな、なんでそんなに他人に興味が持てるのか不思議でならない。私にきらいなひとがいないのは、たとえば職場でだれかの陰口を言っているひとたちがいて、そこに居合わせて話を聞いてしまうというのはあるが、そんなとき。別に自分自身でも自分の家族でも友人でもない、上司だとか同僚だとかの、仕事のできなさを嘆くならともかく、人としてどうであるかなんて、どうでもいいと思って共感できない。なにをそんなに熱くなっているのか、自分の人生はそうしているあいだも刻一刻とすぎているのに。なんてことを書いたら、そう、そういうところがあなたにはあるから、もう黙って話を聞いてと怒られた。

 思えば、そのフレーズはよく聞く。
 黙って話を聞いてくれると思って話しているんだから、説教とかはいい、と。なので黙る。私は私が人としては多々問題あると自覚しているから、そんな私を許容してくれる人を、無条件で好む。好んだ結果、その相手が、たとえば突拍子もないことを突然に発言したとしても、あんまり気にしない。だれだって自分の宇宙を持っていて、年に数十回くらいはおかしくなることだってある。というスタンスなので、友人が真剣に相談していることに、思いつくままいつものペースで返信を返し、怒られるのである。こっちとしてはお前がどうであろうと愛しているからどうでもいいや、ということなのだけれど、向こうにとっては愛しているならちょっと黙って話を聞け、なのだ。

 人間関係はむずかしい。
 黙って話を聞いてと怒られたメールに返信を入れた時点で、私はまた口を開いてしまっているのである。いっそ聞くだけ聞いてよしわかった聞いたよと無視しておけばよかったのだろうかと考えているいま現在なのだが、きっとこのブログを読まれて、私はまた怒られるのであろう。

 本当は、こう言い切りたかった。
 そういう答えのない問題を、延々と考え続けたら、かえってなにも考えられない伸びきったゴムのような心のありようになってしまうから、一度の悪夢を目指して問題を限界まで抱え込み「ああもうこうしろってこと!?」と叫んで目が醒めたら、それにしたがって行動し、翌日からは十二時間ほど寝ることをすすめる。

 しかしまあ、悩んでいる相手に、もっと悩むのが解決法だなどと言わないくらいの分別は私ももっているので、こうして独りごちているのだった。

 言っておくが、私が書いているのは、私が心の安寧を得るための信仰であり、正しい解を得るための作法などではなく、悪夢とともにもたらされた結論が、間違っていることはおうおうにしてある。というか、多くの場合、間違っている。それが小説だと世間の風向きにそぐわないことになるという点でよくないことだが、少なくとも、なにかを見つけてはいるのだし、私はそれでいい。いやよくはない。よくはないけれど、もういい。

 ぼおっとした状態で書くと、こういう感じになる。
 あまりにとりとめないので、目の前の本棚から、なにか一冊抜き出して、ふせんを貼ってあるところを引用しようと思う。

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 ヘルツは何か言葉を発した。というより、肺から出た空気が歯の関門を通って人間の言葉に似た音を立てた。膝に眼を落とし、また音を洩らした。それが謝罪の言葉であるのに、ランツマンは気づいた。ランツマンが学校で教わったことのない言語だった。

Michael Chabon

 マイケル・シェイボン 『ユダヤ警官同盟』

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 うーん。
 自分で貼ったんだが、なぜ貼ってあるのかわからない。
 いつかパクろうと思った表現なんだろうか。
 しかし、それにポストイットを貼っただけで本棚にしまっては「お、こういう場面でぴったりの表現がどこかにあったはず」などと気づいたところで壁全面を覆う本のなかからさがすことなどできるわけがなく、かえって時間の無駄になる。
 きっと、そのときの私が、なにかに共感したのでしょう。
 人間の言葉に似た音、みたいなものに関してなにかを思い出したりしたのかもしれない。そういうことを書きとめておいてくれれば、いまここでブログのネタにできたのだが、残念なことに私は、未来の私にものを伝えるという手間を惜しむたちである。

 というわけで、もういいだろうか。
 目も醒めてきた。
 雨もあがったようだし、少し走ってこようかと思うのです。
 記憶にあるかぎり、一ヶ月以上、バイクのエンジンに火を入れていない。動くかどうかが心配。バッテリーはゲルがいい。数か月乗らないこともあるので、バッテリー充電器は持っているけれど、ゲルバッテリーはいつだってちゃんと起動する。
 信じるからほおっておける。
 なにかにつけて、そういうことはあるものです。

 ああ、いまメーラーを開いたら、いろんな新製品が今週は出たんだねと気づいた。
 Windows8が発売しましたね、そういえば。
 安くなりましたねえ、OSも。
 とりあえず優待版一個買っておこうかなあ……
 
Windows 8

 ときおなじくしてAppleさんからはiPad mini、amazonさんからはKindle Paperwhiteが、出るよ買いなよメールが来ていたのですが、だったら品揃えを見せてみろとAmazon / Kindleストアを覗いてみれば。

 “koontz”で14件ヒット。
 “クーンツ”で0件ヒット。

 いや、ヒットって、ヒットしてないから。つまるところ日本でも売りはじめましたよ、なんと品揃え140万冊!! でも、日本語で読めるのって? という状況は、iBooksでもいっしょ。それを自信満々に販促メール送られてきても、本読むひとほど、

「新端末を育てるよりも邦訳者を育てろよ」

 と、いくぶん醒めて思う。自動翻訳ソフトがあっても英語はともかく、それ以外の言語ってなんとなく読むことさえできないんで、そういう国のエンタメとか、アップルが、アマゾンが、うちでは日本語で読めますよ、って売ってきてくれたら、それが数十冊でも新端末よりも魅力的なんだけど。
 電子書籍化された著作権フリーの古典の類は、その国の言語で売る本の数を水増しするために各社品揃え豊富なんだし、だったら電子化済みのテキストを自動翻訳ソフトでそこそこのレベルまで各国の言語に訳すことだってできるわけで。その先は、専業の邦訳者でなくたって、ちょっと読めて書けるバイトくんでも訳すことは可能なはず。

 うちの近所にネパール料理の店があって、そこの奥さんが売上げ低迷なのか駅前でクーポン付きのビラ配っていて、近隣住人の私などは毎週のようにもらってしまうのですが。彼女、そこそこに日本語を話すのです。そういう人材って、いっぱいいるわけで。店がヒマなら、アマゾンから内職斡旋。結果、私はキンドルで生まれて初めてのネパールの古典に出逢い、仕事帰りの電車で読んで涙して、おおこの感動は、なんてうちふるえながら家までの道を歩いていたら、そこに異国の音楽が流れていて、ああこれはネパール料理の店、今夜はここで飲むか。

 なんてことにも、ならないとは言えない。
 そういうのが世界の文化を育てるということでしょう。

 各社の、検討と健闘を求む。

 ハッピーハロウィーン!
 いたずらしに行くなら、気をつけて。






「はい。おやつ」

 台所でなにをしているのかと思ったら、食事を用意してくれていたらしい。正直言えば、食べると集中がにぶるタチなのだけれど、集中したところで行き詰まっているのは事実であり、空腹なのもまた事実だ。
 振り返って、見た。
 
「おやつ……なのか、それは」

 そっとサイドテーブルに置かれた丸盆には、湯気を立ちのぼらせる緑茶と……握り寿司? のように見える。

「だって冷凍庫のお肉とか解凍すると、うるさいかなと思って。ちーん、とか、気、散るでしょ」
「それはどうも」
「それに瑠衣、甘いのきらいだし」
「甘くないんだ、それ」

 呼び捨てられたことには、ふれずに返す。
 やつは、得意げに笑む。

「甘辛いの」
「なんの寿司?」
「なすび」

 言われてみれば、ナスである。
 甘辛いということは、テリヤキか。
 テリヤキナスにしろなんにしろ、握り寿司をおやつだと言って出してきた相手は初めてだと……言わなかった。こいつの告白をあいまいなかたちにしろ受諾したことは間違いなく、それで押しかけてきたのを仕事の邪魔だからと追い返さなかったのも許容と受けとめられて仕方がない行為だ。
 だれかと比べるような発言をする気はないし、、邪険にするつもりもない。
 ただし。
 ただでさえ混乱して、仕事に差しさわりさえ出ているというのに、問わなければ理解できないような行動をくり広げるのはやめてもらいたい。

「パスタとか、パンもあっただろう」
「なすびサンド? ああ、いいかも。その発想は出てこなかった。瑠衣って実は料理するひとなんだね、ひとり暮らしの王子の部屋に、みりんとかあるし」
「ひとの家の台所でナスとみりんを見つけて寿司を作ろうと思い立つ、お前がなんなんだという感じだ」
「好きでしょ。お寿司」

 なぜ?
 いや、寿司は好きだが。
 こいつと食べに行ったことなどない。
 知らず、眉根を寄せていたのだろう。

「でも、ガリはきらい?」
「……冷蔵庫か」
「醤油とショウガのパック、いっぱいあるんだもん。ひとりでお寿司買ってきて食べるってことだよね。でも、使わないなら捨てればいいのに」
「食べるさ」
「ガリだけまとめて?」
「お前が見ていないところで」
「えっと……怒ってる?」

 怒ってはいない。
 ペースが狂うだけだ。
 なにがしたいんだ、こいつは?
 邪険にはしない。
 帰らせたいわけでもない。
 しかし言葉は見つからず、手をのばす。

「食うよ。よこせ」
「よかった」

 お茶は熱すぎず、ぬるすぎず。
 良い香りが出ている。
 ほんとなんなんだこいつ。
 寿司に手をのばす。
 炒め焼いたナスを、きんと冷やしてある。
 どうやったのだろう。
 冷凍庫で? 
 寿司飯も、冷えている。

「シャリは人肌だって習わなかったか」
「どこで? 瑠衣は料理学校とか行ったの?」
「常識としてだ」
「パック寿司が好きなら、冷たいシャリが好きなのかもしれないと思って。残念、狙いすぎたかぁ」
「……深いことを考えているんだな」
「えっと……実は。気持ち悪がられるかな、って」
「気持ち悪がる?」
「瑠衣って潔癖っぽいし」
「悪口だぞ、それ」

 手にとった寿司を眺める。
 少し大きめの、手まり寿司といった風情。薄くスライスされた茶色のナスがへばりつくその姿はユーモラスだととらえることもできる。握った? それが、気持ち悪い? そんなことは、思いもしない。
 少し、イラ、とする。

「ごめんなさい。でも大丈夫だよ、ラップあいだにはさんだから、エキス出てないし」
「潔癖でもないし、嫌がってもいない」
「……へへ。じゃあ、エキス浸みさせればよかった」
「その言いかたはやめろ」

 食べた。ナスの皮が噛み切れず、大きめの握りをひとくちで頬ばる。じっと見られているのが気になる。なぜだかこちらが目をそらす。そらしたところで、見つめ続けられているのは変わらないのだけれど。

「おいしい?」
「……料理を出すたびに、それ訊くやつ?」
「あー、ううん。いい、べつに」
「べつにってなんだよ。うまいよ」
「あは。そう? へへ。よかった」

 ふたつめに手をのばす。
 茶もうまい。
 テリヤキナスの握り寿司?
 しかも美味。
 即興でこんなものを作られては、感想も述べにくい。
 しかし視線は延々と突き刺さってきた。
 食べ終わり、飲み終わっても。

「……見すぎだろ」
「変化ない?」
「変化? ……っ!」
「どきどきするとか」
「まさか……なにか入れたのか」

 茶を見る。
 ほとんど、飲み干している。

「お茶じゃないよ。知らないの?」
「な、なにを……」
「聖書にも、出てくるんだよ」
「聖書?」
「なすびはねえ、媚薬なんだ」
「び……やく」
「ねえ、お仕事、ちょっと休んだら?」
「待て。待てって! お前の知識は、浅い!!」
「ん。どういうことかなあ。でもほら、瑠衣、ほっぺた赤いよ」
「なすびふたきれで効果なんてあるわけっ……」
「えー、だけど、ほらぁ」

 聖書に出てくる「恋なすび」とは、土から抜くと悲鳴をあげる呪われた植物マンドラゴラのことで、確かにマンドラゴラはナス科だが、現代の食用ナスに、媚薬とされるマンドラゴラと同種の毒性成分は皆無である。
 もちろん……こいつは、知っているのだろうけれど。
 だったら、このからだがしびれたように動かないのは、なぜだろう。
 なにも入れていないと、こいつは言った。
 いや……「お茶じゃない」と言ったのか。
 だったら握り寿司に……?

「強く願えば、効くんだね」

 自分こそ、目尻をほわりと染めている。
 そんな顔で近寄られたら……
 毒される。

Sushieggplant

Yoshinogi Takumi
 Shonen-ai Cooking Elegy
 Song 14
 『Sushi-Love eggplant as Teriyaki-sweet poison』

(吉秒匠
 BL料理哀歌
 14曲目
 『恋なすび寿司』)

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○材料

ナス 一本
しょうゆ 小さじ1
みりん 小さじ1
酒 小さじ1

シャリ 適宜

○作り方

 スライスした茄子を油を敷いたフライパンに入れ、軽く焦げ目がついたところで調味料を加え、水気がほぼなくなるまで返しながら焼きあげ、冷まして、シャリと握ります。

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 写真では、皿に二個だけ並べていますけれど、もちろん、実際には大皿に、ほかの具材で作った握りも山のように並べているうちの一品。そんなわけでレシピではシャリ適宜、ナス一本と表記してあります。テリヤキと呼ぶには砂糖も入っていないし調味料の量も少なめ。寿司は醤油つけて食すもの。香りづけ程度です。いや、本当は単なる焼き茄子でもいいんですが、見た目がね。醤油の色のついていないスライスされた焼き茄子は、ちょっとグロい。シャリに関しては下にも書いていますが、寿司酢をおすすめ。できればダシ昆布入れて炊いた米に、ダシ入りの寿司酢をあわせるというのがよいです。レモンとか絞り足すのも味わい変わってたまにはよし。

sushi

 学生のときに和食屋でバイトしていたことがありました。その店はチェーン店で、にぎり寿司なんて出していなかったのですが、ちらし寿司だとか寿司飯を使った海鮮どんぶりなんていうメニューはあって。材料はそろっているわけですから、まかない飯で寿司を握ろうという発想は当然出てきます。で、遊びのレベルで握っていると、レトルトを温めるばかりの和食チェーン店でも、働いているひとは紆余曲折。本職の寿司職人だった、なんて方もいらっしゃったのです。なんでいそれはなってねえなあ。とシゴかれて。ゆえに、お客さまに出したことはないけれど、それなりに私はにぎり寿司が握れるようになり……むしろ、そういう店で学んだからこそ、お子様ランチのハンバーグやミートボール、鍋用の豆腐だって寿司にして食う自由を知ったのですけれども。
 寿司酢の合わせかたは教えてもらいませんでした。
 米にまぜる酢は、本部からペットボトルで送られてくるものです(笑)。

 ネタはなんでもよい。
 魚があれば魚、肉があれば肉、焼きそばがあれば焼きそば、茄子があれば茄子。

 そういうふうにして、いまでは私の晩ご飯の一週間に少なくともいちど、多ければ三度ほどは、ミャンマーの国境線にあるメキシコ人の経営する寿司バーで出てくるような、謎の多国籍料理の一部としての寿司になっている。
 もちろん、ふつうの寿司も好き。
 でも、なかなか冷蔵庫に刺身はない。
 買いに行くなら、別のものを買ってしまうことも多い。
 料理に時間をかけるのは好きだけれど、食べるときに皿が並ぶのはいやだし、片付けるものが多くなるのもいや。プロレスの試合観ながら、ビール飲んで、つまめるものがいい。そう、トランプに夢中でトイレに立つのもいやだったギャンブル中毒者がサンドイッチを発明したように、寿司とは日本の誇る最強のワンディッシュ。いやまあ、醤油の小皿はいるにしても。

 私には家族があるので、ワサビは握るときに入れません。私、手巻き寿司なんかだとチューブワサビを軽く一本は一食で使う舌感覚の持ち主なため、その分量でワサビ入りを握ってしまうと、だれも食べられなくなってしまうし、逆に他人にあわせると、私はけっきょくワサビを一個一個に足すことになる。だったら最初からマイワサビを皿の端に盛ればいい。

 ところで、全日本プロレスで活躍するSUSHI(とは、頭の上ににぎり寿司を二貫のせたプロレスラーである)が先日、タマゴの握りを一貫盗まれて「一貫だと寿司は50%の力しか出ない」というようなことを発言していたのだけれど。現代の世界の潮流である回転寿司では一律料金の店も多いので、確かに二貫をひとつの基準に据えて、高いネタは一貫ひと皿にしたほうが商売はしやすい。そういう意味では、二貫でひと皿が当たり前になったこの世界で、野菜寿司が普及しないのは、どう見ても単価が安いので損した感が否めないから、というところもあると思われる。知名度のせいなのか、どこの回転寿司屋でもカッパ巻きは回っているが、お、かっぱきたっ、なんてテンションが上がっているひとは見たことがないし。逆に、高級なカウンターのお店なんかだと、生の野菜の握りをウリにしてるところもあったりするみたいだが。

 でも、冷蔵庫の在りモノで寿司、というのが習慣付くと、値段は関係ないので、ともかくなにかがのってりゃいいってことになるのです。テリヤキ茄子と、茶碗一杯の白ごはんは一瞬で食べ終われますが、それをにぎり寿司にしてみたらあら不思議。日本酒いきながら、プロレス観ながらだと、同じ量で一時間は保ちます。生活の知恵。
 そんなわけでのおすすめです。

 小説の話も少し。
 言わずもがなですが、ナスビに媚薬としての成分は入っていません。タイトルに使った「恋なすび」というのは、聖書が日本語訳されたときの造語で、原典に「Love eggplant」だとか、そういった淫靡な単語は出てこない。すごいですね、日本語。マンドラゴラを説明するのに恋なすびって。ちょっと可愛いんですけど。

 ファンタジー好きのかたならマンガやゲームで目にしたこともあるでしょうが(映画ハリーポッターにも出てきましたね)、マンドラゴラの根は、いわゆる朝鮮人参みたいな枝分かれしてくねくねしたカタチをしていて、それが手足のある人間のように見えたりもすることから、土から引き抜くと叫ぶ、などというモンスター化が成されています。

 が、考えてもみればですよ。聖書に恋する茄子として出てくる植物なのに、そのファンタジー造形は、ちっとも可愛らしくない。ちなみに、原典の旧約聖書のなかでのマンドラゴラは、不妊が解消し身ごもり子孫も繁栄しましたとさ、という話なので、毒というよりも薬効を推している。それがどうして叫ぶ植物モンスター?

 近年の医薬品業界に泳ぐヒトならよく知るところでしょうが。勉強会なんかで、冗談めかしながらも(役所関係の講習会だったりすると笑顔ながら唇は笑わずに)、みなさんはやろうと思えばできるでしょうけれど、合法ドラッグとかいうのを売ったりはしませんように、なんてことが決まって言われます。医薬品通販と合法ドラッグという単語の出てこない勉強会は、ないってくらい(で、役所関係では、データはいっぱい配られるのですが、こっちとしてはつっこみどころ満載。「実際にこんなものまでネット通販で買えました」という表を配って「昨年よりも状況は悪化しています。こういうわけでみなさんのお店の売り上げが落ちるわけです」とか言う。いや、実際に買って裏とったならお前らが捕まえて減らせ、というツッコミ待ちなのですあきらかに)。

 それくらい、笑いごっちゃなく、それらは蔓延していて、なかでも、ナス科の植物から抽出できる麻薬は、ほとんど麻薬というよりも、毒。

 マンドラゴラが恋なすびと訳されたのは、間違いなく、中世ヨーロッパでの麻薬としての使用事例が、文献としてこの国に流れ着いていたから。そのころ、ナス科の毒は、はっきり媚薬とされていた。実際に効いたのである。
 ただし。

「まさか……なにか入れたのか」 

 瑠衣の発想は正しい。
 それが日本の秋ナスではなく、中世ヨーロッパのマンドラゴラの寿司であったなら、ナス科の毒は、瑠衣にそういう作用をもたらしたはず。

 好きにされる。

 完全にトぶ。けれど、それが麻薬としてよりも毒として有名なのは、さらなる特徴的な状態に陥るから。軽くまる一日は精神錯乱したあと、そのあいだの記憶が消失する。

 これを、媚薬と呼ぶことができる社会とは。
 娼館が立ち並び、そこで働く者たちは、奴隷同然だった。
 膿んだ時代だ。
 買われたのか、売られたのか、さらわれたのか、ともかくカラダを売る意志などないが、商品となってしまった少年少女たちに、ナスビの毒があたえられた。
 即座に本人はバッドトリップ。
 目の前の裸の相手がだれであろうと助けを求めて抱きついてくる。それを別の意味で抱く。客にとっては、無反応よりも少々あばれるくらいのほうがいい。記憶は残らない。客の顔もおぼえていない。苦痛も快楽もなにも残っていない。
 くりかえすうち、記憶のある時間のほうが短くなる。
 自分の人生になにが起こったのかわからないまま、少年少女たちは、娼館で無垢な廃人となり……その先がどう処理されたのかは、考えたくもない。

 そういう、媚薬。
 奪うための、毒。

 娼館の必須アイテムだった、しかも、旧約聖書では不妊の治療薬。
 それらの情報から「恋なすび」と名付けた、はじめて聖書を読んだころの、この国は平和だった。売り買いされた娼婦はこの国にだっていたが、まだ、薬漬けの泡姫なんて存在はなかった。薬屋さんが集まると合法ドラッグの知識を共有しあうようになったいまでは「他人の心を奪う」=「恋」という発想は最初にくるものではない。

「なにか入れたのか」

 お茶に、寿司に?

 かつては手料理も、恋を紡ぐ方法だったけれど、いまでは贈られたクッキーを無防備に頬ばることもできやしない。すすめられた酒やタバコなんて、なにか混じっていると確定してもいい。

 まあ、そういうことを考えますとね。
 逆からよいところをさがしてみるならば。
 手料理は、それだけで淫靡なものになったともいえる。
 まして、にぎり寿司なんてのを、す、と出して。
 平気で食べてもらったなら、媚薬なんていらない。
 もう、彼はあなたを食べて平気だと判断しているってことだもの。 

 それは、襲いませ。

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Yoshinogi Takumi
 Shonen-ai Cooking Elegy

13曲目『バーベキュー厳峻鋼』
12曲目『茄子はダシの夢をみるか?』
11曲目『すっぱくても、平気。』
10曲目『踏み絵ムルギティッカ』
9曲目『ひとくちだけカトルカール』
8曲目『春節の静かな賞品』
7曲目『ナンを焼くと両手がつかえない。』
6曲目『タマレってなに?』
5曲目『あらいぐまのすきなもの。』
4曲目『ピッツァみたいにぼくを食べてよ!!』
3曲目『クリスピー・プロ・フライドチキン』
2曲目『青くてカタいアボカドのパスタ』
1曲目『春餅/チュンピン』


Shiitake

とりあえず、キノコを買って帰る。
私の主食はキノコだと言っていい。
むろんキノコだけではミイラになってしまうので、
正確には摂取カロリーの中心は別にある。
鶏肉と、ビールだろうか。
しかし、それらはストックされている。
冷凍庫は切り分けられたチキンでいっぱいだ。
冷蔵庫はビールとダイエットコーラでいっぱい。
オリーブオイルやニンニクも切らさないようにしている。
というわけで、茹でたり焼いたりしたチキンソテーに、
添えるキノコが必要になる。
キノコもストックできたなら、
買い物に行く回数はものすごく減る。
そう考えて、試行錯誤したことはある。
つまり、干し椎茸を生の椎茸のかわりにできないか。
やってみたが、うまくない。
なぜなのか。
干し椎茸は栄養も豊富で、旨味も増している。
しかし充分にふっくらともどして、
おもむろにピザの具などにしてみると……マズい。
写真のようなふっくら生キノコの蒸したのと、
干し椎茸のふっくらもどったのとでは、
もとは同じはずなのに、まるで別の味がする。
冷凍も試してみた。
これがどうも……干し椎茸ほどではないにしても、
似たような変質をする。
想像だが、細胞壁が破壊されることで、
キノコはその旨味を増すのだろう。
旨味が増しすぎて、主食には向かないものになってしまう。
オリーブオイルよりもニンニクよりも、キノコの味が濃い。
チキンが、椎茸テイストになってしまう。
いただけない。
そういえば、と、焼き椎茸をビールで喰いながら、思った。
ヒトのミイラは漢方薬として江戸あたりでは珍重されたらしい。
頭痛によく効くんだとか。
頭が痛いごときで乾かしたヒトを喰うというのはあれだが、
むかしはニワトリよりもヒトのほうが死んでいたくらいで、
そこにある肉に効能があるならば、
摂取するのは自然なことだったのかもしれない。
漢方薬としてのミイラは、老人のほうが価格が高いのだという。
不思議なことだ。
ぷにっとした婦女子を「食べちゃいたい」と感じるように、
生のヒトなら、脂ののった若いのが美味そうではないか。
枯れた老人をさらに干したのなんて……
いただけない。
だからそれは、見た目や味の問題ではないのだろう。
おそらくは現実に老人のミイラのほうが「効く」のである。
なにかが熟成されているのに違いない。
それはなんだか、興味深い事実ではある。
ヒトの人生の深みが、枯れていく身になにかを結晶させる。
ぷにぷに脂身のお嬢さんよりも、値の張る肉となる。
そういえば、現代でも、干し椎茸は、
びっくりするほど高価なギフトになっていたりする。
生のキノコにのしをつけて送るという話は、聞かない。
つまり生き物は。
乾くと価値が上がる。
現実に効能あるお宝になる。
そういうもんなんだなあ、と思いながら。
ぷにぷにした蒸し焼きキノコを食した。
おいしかった。
味はまた別の話なのである。
「食べちゃいたい」くらいに目眩をおぼえる
魅惑的な干したのには、とんとお目にかからない。
ぷにぷにしたのにすっぱさまで絞りしたたらせ、
がっついて酔う。
ストックすることなど考えてはいけない。
主食は、栄養も重要だが、それ以上に、心を癒す存在。
なまめかしく、その日、手に入れて喰う。
そういうものであるのが、正しいのです。
だから今日も。
とりあえず、キノコを買って帰る。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 香蕈……こうしん、と読む。
 同じ字で、しいたけ、と読めばキノコの名。
 人工栽培も盛んになり、年中安売りされている。
 しかし、こうしん、と読むとき、
 そこには効能が現れる、胃を整え血流を改善し……
 漢方薬である。

 これ以上書き続けると、このあいだの迷迭香の話と同じ流れになってしまうので、このあたりでやめたい。

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『鶏もも肉の迷迭香焼き』のこと。』

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 安いのでありがたがられないだけで、香蕈の効能は、漢方薬のなかでもかなり万能よりな説得力のあるものだ。もしも香蕈が人工栽培できず、屍体にしか生えないキノコだったりしたら、数千倍の値で取引されていてもおかしくない。そう考えれば、みんなスーパーで干し椎茸を買ってきてムシャムシャ食べるべきである。

 ああ、椎茸、と書いてしまった。
 しいたけ、と入力しても私の使う日本語入力ソフトATOKは香蕈と変換してはくれない。こうしん、と書いてもダメである。かといって辞書登録する気もなく、この十行ほどは「香蕈」をコピペして書いていた。

 椎茸、と書いてしまった、といま書いたが、実際のところ、私はキーボードの横に常備しているメモ帳にボールペンを走らせて椎茸と書くことはできない。肉体機能の問題ではない。漢字に弱いのである。自慢ではないが、小学生のときには漢字の小テストで0点を取りつづけ、職員室に呼ばれるわ放課後の再テストは受けさせられるわ、にもかかわらず、私は翌週のテストのための勉強はいっさいせず0点をまた取り、親にも友人たちにも「ていうか0点取りつづけるほうがむずかしいだろ」と突っ込まれたほどの男である。

 しかし、その段階で私はかなりの活字中毒だったので、漢字の読みと文章の読解についてはむしろ「これテストって舐めてんのか」というくらいにほぼ完璧だったため、相殺の結果、つねに国語のテストで平均点を下回ることはなく、年を重ねるにつれ、国語のテストというものは漢字の書き取りよりも読解を重視するようになっていったから、ますます私は漢字をおぼえようなどという気をなくしていった。必要ないことは、しない主義。

 そしていま、私は困っている。
 接客業で、携帯電話ふくめ辞書機能のある端末を、なにも身につけられない制服のあいだ、それでも漢字を書くことを要求されることはある。たとえば手書きの領収書とか。

「シイタケのシイよ」

 などと言われても、私は「椎」が出てこない。
 こちらにお願いいたします、などとお客さまに頼む。
 小学校で習う常用漢字をお客さま自身にメモ書きしていただくときなどには、いや、わかってはいるのですがいちおうです私は慎重派なのです、などという演技をしながら、もう少しだけ漢字の書き取りもやっておくべきだったか、などと悔いることはある。
 持続はしないが。
 だって、そんなに深刻には困らないから。
 
 なにせ、この国は、みんなで漢字を書けなくなりつつあるそうだし。

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『文化庁 | 国語施策・日本語教育 | 国語に関する世論調査』

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 今年のそれが文化庁から発表されて、私はふだん三紙の新聞を読んでいるのだけれど、良識ある記者のみなさんはそろって同じところを憂えていた。

「漢字を正確に書く力が衰えた」

 その調査に対する回答が、平成13年度調査の結果と比較すると全年齢で大幅に「衰えた」という側に傾いていることについて、「手で字を書くことが面倒くさく感じるようになった」方が42.0%いたという、これも過去に比べ大幅にポイントを上げた結果にからめて、だいたい同じ結論で話をもっていこうとしていた。

「書かないからおぼえないのだ」

 まあ、当たり前のことではある。
 漢字の練習帳なんてものが小学生のランドセルのなかに入っているのは、それこそが漢字マスターへの最短の修行方法だと子々孫々語り継がれてきたからである。

 そのことに異論はない。
 書かないから、書けなくなる。
 当たり前である。

 しかしこの調査、冷静に考えてみれば、アンケートなわけで。
 インタヴューと言いかえてもいい。
 たとえば、こう質問してみよう。

「あなたは美人ですか?」

 そうあるべく努力していますとか、そう言ってくれるヒトもいます、などというのはマンツーマンのインタヴューであれば許されるが、パーセントで結果を出す調査となれば困る。
 イエスかノーか、どちらか。
 となると。
 その答えは、どちらであれ、事実を反映したものだとはいえないものになる。
 本人が、本人のことをどう思うかであり、むしろそこから読みとれるのは、答えた本人が普遍的な意味での美人であるかということよりも、答えた時代の、その文化、流行のなかで、想像上の客観視にもとづいて自己分析したらどういう認識に行きついたのかという……いわば、自意識の位置取りとでも呼ぶべきものの集計だ。

 かなり自信がありながら、いやあ、という場合もあるだろうし、心底、ダメだと思っている場合もあるだろう。しかし、美人などという判断のつけにくい項目ではなく、話もどってコトが漢字に限るならば。本当に現代人の漢字力が落ちているのかどうかは、毎年、漢字テストをやればよいという話。

 しかし、なぜだかアンケートをとる。
 文化庁さまインタヴュー。
 国民のみなさま、どう考えておるのです?

 ひと呼んで「世論」なるものを。

 そういう調査をつかまえて、書かないから書けなくなるのだ、いったい我々はこのままでいいのか、パソコンのキーボードで、携帯のボタンで、タッチパネルのフロック入力で書くほうが、手で文字を書くよりも当たり前になり、手書きが面倒だなんて、堕落ではないのか!

 そこまで強くは書いていないが。
 おおよそ、そんなことをメディアは憂えている。

 読みつつ、私は思った。

 そんなことを言うなら、そもそも人類は、文字というものを洞窟の岩壁に掘っていたのじゃないか。

 私はむかし、建築模型を作る仕事をしていたことがある。模型に看板の文字を入れたりするのは、なかなかに細かい作業で、文字をグラフィックデザインしたことのあるかたならよくわかっていただけると思うが、作業するうちに、いわゆるゲシュタルト崩壊を起こして、文字が文字に見えなくなってくる。バランスがよくわからない、だから手探りで確かめつつ、描く。カッターナイフの先でも、マウスでドットを打つのでも、岩壁に尖った石の欠片で描くのだってそう。崩壊した文字を再確認しながら形づくる作業の結果、気持ち悪いくらいに、その文字が忘れられなくなる。

 たとえていうなら、記憶喪失を起こしてだれだかわからなくなった彼が、でも記憶をなくす前は自分の愛人だったことは確実で、私はやむなく想い出すために彼を抱いてみた、みたいな。気持ち悪い。忘れているのだから他人なのだけれど、カラダはおぼえているから、その形をなぞり確かめているうちに、感じるものはある。記憶を取り戻すというよりは、ふたたび一から知って愛を造形する。結果的に関係性は戻るのだけれど、きっとその行為は異様な違和感ある忘れがたいものとなるに違いない。

 たとえが蛇足な気がするが(笑)。
 ともあれ、シャーペンでA4B罫のノートにさらさら文字を連ねるよりも、岩壁に三ミリずつ刻むほうが、文字を忘れないに決まっている。

 文字をおぼえなくなるからと便利な筆記用具をおとしめるのは、そういうことだ。じゃあ小学校の授業に石板を導入すればいい。一時間かけて掘った一文字を、その子はぜったい忘れない。まったくだ。義務教育なのに鉛筆なんて便利なものを許すから、あどけなくこの世の楽園を信じていた愛らしい私が0点を量産して知らなくてもいい敗北感と他人からのそしりを受けるはめになったのではないか。

 漢字小テストの0点絶対王者だった私は、強く言う。

 コンピュータとキーボードとモニタがなければ、私は文章を書くようにはならなかった。領収書を書くのだって、いまに機械が導入されるだろう。その手のことでいえば、私がふだん使っているレジスターは勝手に計算しておつりを出してくれるのだが、それが技術的にできるのに、いまさら手で小銭を数えるなんて愚かしすぎる。数字と文字は違う? いや同じだ。原稿用紙に手書きが当たり前だったころ、その原稿を校正する編集者が、普及しはじめたワープロを見て、すべての物書きにこいつを使わせることを明文化した法律を作り、違反したらペンが持てないように十本の指のうち八本を切り落とすべきだとデモ行進しなかったのは偉い。

 だれもが読めれば書ける。
 これが進化でなくてなんなのか。

 マイコンは、コンピュータは、ソフトウェアは、アプリは、外部脳だ。
 もはや、それ含めての人類なのである。
 コンピュータ制御なしでいまの自動車は走らない。私はクラッチ操作の必要なマニュアルのバイクに乗っているので、オートマティックな自動車を運転するとき、とても怖い。踏んだだけで走るって。運転者の技術は必要ないじゃないか。それなのに、AT限定免許で走っている車とすれ違わずには暮らせない。が、私は、だれもが運転技術を向上させるためにマニュアル車に乗るべきだ、などとは思わない。人間よりも正確性の高い機械脳のおかげで、事故は減っているのだから。衝突回避の装置が義務づけられるというような噂も聞くし、そうなれば逆に、頼りない生身で剥き出しの機械を暴走させるマニュアル愛好家こそが危険視されるようになるはずである。

 まったくキノコの話からズレてしまったけれども。
 私の脳と指先は「香蕈」の二文字をくり返して書くことはできないが、コピー&ペーストはそれを成す。そうしてキノコの話から漢字について語ることが可能になり、あなたはそれを読んでいる。

 メディアはなぜに警鐘を鳴らしたがるのか。
 かわりに私が言おう。

 電子メールなくして、いまの世にラブレターは生き残っていたか?
 私は友情も愛情もそれで育んできた。
 もしもあなたが漢字のまじった手紙をコンピュータプログラムの助けをかりて書き、それでだれかに言葉で想いを伝えることに成功した経験があるならば。ましてや、そんな行為を、メーラーが存在せず紙とペンだけの世ならば、しなかったであろうと考えるならば。

「漢字を正確に書く力が衰えた?」

 そのインタヴューには胸を張って答えるべきです。

 メールを「書き」ます。
 手で紙に書くより、ずっと正確に漢字を「書いて」います。

 それでインタヴュアーが、いやそういう意味の「書く」ではなくてですねえ、などとほざきやがったら、詰め寄っていい。

「オートマ車で走るのは、走るって言わないんですか?」

 科学はヒトという種の共通財産で、それによって高められた能力は、すべてのヒトの基礎能力。電子メールのない世界に巻き戻ることがあるとするならば、それはまもなく人類が滅びる荒廃した状況。漢字を書く力が衰えた、と答えるヒトが増えたのは、刀を捨てたらサムライではなくなる、といった精神論に近い。私たちは、マシンを身の一部にした。マシンのない状況で文字を書く状況自体が存在しない以上、マシンなしで上手にたくさんの漢字が書けるなどという能力は、芸としての書道に分類するべきだ。

 キーボードが打てるなら。
 フリック入力がこなせるなら。
 あなたも私も漢字を書く力は増している。

 かつての漢字小テストの0点絶対王者が、シイタケを香蕈と椎茸の二種の漢字で表記までする、こんなに漢字いっぱいの文章を書けている時点で、反論の余地はない。