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 最後の最後で体育館。それも壇上を画面中心に据え、あ然とするような大団円を迎える。数メートル四方の舞台に宇宙を顕現させる試みこそ、小劇場舞台脚本家のプライドを魅た。

 というわけで『仮面ライダーフォーゼ』最終回。
 脚本と演出の勇気に心揺り動かされ、仮面ライダーとしてどうかというところに冷静な目を向けることができなくなってしまいましたが。それでも、理事長我望がフォーゼの肩を叩いて言ったセリフ。

「きみの価値観だけが絶対ではないのだよ」

 そこに仮面ライダーの精神はあった。
 主人公の友は人間ではなく、敵なる理事長はヒトという種からの超越を望む。進化は悪ではない。それはなにを望むかという価値観の問題であり、すべての人類が孤高の仮面ライダーになったならば、この世の自殺者は一掃されるに違いなく、それはある種の楽園の完成といえる。

 永続を望むから、エネルギー問題が悩ましい。
 けれど、縄文時代の暮らしに戻ればヒトという種が生きながらえるとしても、この種が地球という土のかたまりの上で生活している以上、資源は有限だし、あらゆる星はいつか塵となる。そういうことに気づいた人類たちが少子化に向かい、自分という個の人生で世界を完結させようと思想するのは、いさぎよくもある。

 そんな気高い孤高の人口減社会の最先端をいく日本で、ヒーローが悪なるはずの敵さえも「おまえもおれのダチだっ」で一括し、友が人間であろうがなかろうが気にはせず、どこかにいるとされる超知性体=神までもを、いつか友達になる相手だと言ってはばからない。彼の言う「ダチ」とは、私の感じるものとは少し違い、まさにその違和感こそが、私が未来へ感じる違和感であり、乗り越えるべき種としての壁なのだと思った。

 友だち百人できるかな、と歌うときの友だちとは、自分に似た隣人を集めての百人なのだけれど、フォーゼが歌った「みんなダチ」は、種や思想さえ超えた、悪のラスボスや神、もしかすると宇宙そのものまで指している。

 それは問題が起きまくりである。数人の自分に似た友だちとの関係でさえ、潤滑にまわすのはむずかしいものなのに、そのメンバーに悪や神や宇宙まで入ってきては。相互理解という前提は放棄せざるをえない。

 つまりのところ、フォーゼが「ダチ」と呼ぶ相手は、フォーゼに理解される必要はないということである。だって悪だろうが神だろうが、ヒトだろうが怪物だろうが、彼は気にしない。
 その事実は、フォーゼの人生を私に考えさせる。

 フォーゼは友だちに恋しない。
 フォーゼは友だちに欲情しない。
 フォーゼは友だちを妬まない。
 フォーゼは友だちを手本にしない。
 フォーゼの友だちは、なにがあっても永遠に友だち。

 ぶっちゃけ、フォーゼは友だちがだれであれなんであれ受け入れて永続させるつもりだから、真の意味での恋人やライバルといったものが現れる可能性はない。実際、メテオもラスボスも、最終回の時点では「ダチ」の一線でフラットだった。

 幸せな人生かもしれない。
 私は違和感をおぼえるが。
 種を発展させるという視点を放棄し、行き着く進化の先までの限られた時間のなかで個を謳歌する、これからのイカした人類のあり方としては頼もしい。

 一方、最終回間近、己のダークサイドを引き出されてしまったヒロインが叫んだ言葉は、私の涙を誘った。

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 あいつも、わたしなの。
 わかるの。
 わたしも、仲間を蹴落としたり、
 いけないことをしたいって、思う心があったの。
 ヒトを踏みにじってでも、
 宇宙に行きたい。
 それも、わたしなんだ。

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 『仮面ライダーフォーゼ』
 (第44話「星・運・儀・式」)

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 今週、アームストロング船長が逝った。
 なんて文章だろう。
 こんしゅう、あーむすとろんぐせんちょうがいった。
 逝ってしまった。
 はじめて、月に降りた人類が。

 去年の仮面ライダーのテーマに宇宙が選ばれたのは、ガガーリンを代表とする人類がはじめて宇宙を有人飛行してから、ちょうど五十年の記念の年だったから。その仮面ライダーが宇宙人とだってダチになってみせるぜと叫びながら最終回を迎えた週に、アームストロング船長が逝った。
 偶然ではない。
 五十年も経てばヒトは死ぬ。
 当時、肉体的に最強な年代だった宇宙飛行士たちは、五十年も経てば、平均寿命を越えている。

 今年の終戦記念日、新聞各紙は、こぞって、逝ってしまう戦争体験者たちのことを記事にしていた。ロケットとミサイルは双子で、五十年も経てば大量破壊兵器から生き延びたヒトたちも逝く。

 フォーゼのヒロインの叫びは、いまの子供たちに伝わっただろうか。

「宇宙に行きたい?」

 なぜ。
 なんのために。
 原始人なみの知能しかないくせに、宇宙なんて目指した結果は、地球の裏側を狙って撃てるミサイル技術の共有化だった。互いが互いを狙っているから大きな戦争がなくなったが、かわりにそこかしこで小規模なゲリラ戦が繰りひろげられ、いっそう悲惨さは増してしまった。

 宇宙に行けば戦争はなくなるの?
 そんなのは嘘である。
 だったらそんなところになぜ行きたいの。
 他人を蹴落としてまで。

 フォーゼは、宇宙人とダチになるためだとお茶を濁すかもしれないが。
 この五十年の節目に、逝った船長の言葉を借りるなら。

 人類にとってのさらなる大きな一歩を踏み出すためだ。

 言いかえれば、仮面ライダーフォーゼを観て、宇宙に行きたい、ぼくも宇宙飛行士になるんだと夢見るようになった彼がいたとしたならば、彼の肩に掛かる任務は、残念ながら友好的な宇宙人を捜すことではない。
 人類がすべて個に生きて満足するならそうやって滅べばいいけれど。
 ヒトは動物でもあるから。
 生存本能がある。
 宇宙に行きたいと望むのは勝手だが、多くのヒトから集めた税金でそれを成すならば、彼の双肩には重たい命題がのしかかる。

 新天地の創造。
 汚れていない土地はもう地球にはない。
 トウモロコシも足りない。
 じゃあ、火星に行かなくちゃ。
 火星を人が住める星に変えなくちゃ。

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「ちょっと待ってくれ、もしそれが可能だとしても、なんの役に立つ?」
「火星が地球化できれば、人間は火星に行って暮らせるだろ」
「七、八十億の全員が?」
 ジェイスンが鼻を鳴らした。「まさか。わずかな数の開拓団だよ。冷徹ないい方をすれば、繁殖要員」

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 R・C・ウィルソン 『時間封鎖』

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 で、それがなんの役に立つ。
 私はそのころ逝っている。
 火星で新たな人類の一派が繁殖をはじめたところで、私が観察者になれないならば、私にとってその現実は無に等しい。

 いや『時間封鎖』は、まさに地球の時間が封鎖されてしまったから、そのあいだに火星を移り住める星にしようというところから話がはじまる傑作なのだが、もしもそういうことが現実にあって、いまの私という個体を火星の新天地に移住させられるのだとしても、そこになんのメリットがあるだろう。

 隣町への引っ越しでさえ面倒くさいものなのに、火星へ行くなんて、慣れるのに一生かかるに違いない。だいたい、人数が少ないということは、致命的な側面がある。仮面ライダーの新作を作るには多くのヒトの労働が必要だし、テレビ局の運営だって、ネット上の噂話でさえ、膨大なヒトがいてこそ、はじめて盛り上がるのだから。

 SFではなく、現代の地球上にある技術で、すでに火星の地球化は可能なのだそうだ。

 でも、なあ。
 そこで人類は不安になる。
 繁殖要員というけれど、増えるまでの最初のアダムとイヴは、退屈で死んでしまわないだろうか。

 アームストロング船長が逝き、仮面ライダーフォーゼが終わった今月、NASAの火星探査車キュリオシティが火星表面への着陸に成功、次々に画像が送られてきている。

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『ナショナルジオグラフィック 公式日本語サイト』

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 荒れ果てた土地だが、逆に言えば氷の大地やマグマぐつぐつとかいったことでもなく、大気さえ整えれば、タネを蒔いて緑を育てることもできそうだし、掘ればレアメタルの宝庫といったおもむきでもある。

 いま走って写真を撮っているのはラジコンカーだけれど、ロシアでは昨年、火星への有人飛行を目指して大規模な実験をおこなっていた。同種の実験はこれまでもなんどもおこなわれてきたが、五百二十日という具体的数字にもとづいて長期閉鎖実験をおこない、火星到着の瞬間までシミュレートしてみせたことで、世界の注目を集めた。

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『Mars-500 project』公式サイト

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 実験終了後のコメントが興味深い。

「言い争いのような出来事も起きなかった」

 ん。と私は首をかしげた。
 この実験、人種の違う男ばかり六人でおこなわれたのである。
 公式サイトを見ればわかるが、それぞれに個室があり、ネット接続はもちろんされていないものの、パソコンがある。本人たちのコメントでも、ビデオゲームで時間をつぶしたという発言があったので、完全に自由に使えるスタンドアローンな各自のパソコンに、もれなく各自のお気に入りエロ動画が満載だったことは想像にかたくない。

 男六人は、個室でオナニー三昧だったわけである。
 ていうか五百日以上ともに暮らした男同士が言い争いもしなかったというのは、実験結果として良好なものだとは思えない。そこに友情なんて生まれていないのではないか。ほぼ一年半にわたる火星への有人飛行シミュレーションは、つまりは男六人集まれば、それぞれが個室に引きこもることになる、ということではないのか。

 日本でもやっている。
 おそらく『宇宙兄弟』の映画化、アニメ化で、爆発的にヒット数を増やしているはずのJAXAの公式サイトに、すでに募集は締め切られているが、過去の実験参加者募集要項が残っている。

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『JAXA|宇宙航空研究開発機構 / 有人閉鎖実験参加者募集のご案内』

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 これを読むと、かなりユルい。
 そもそも実験期間が一週間。
 そこに加えて毎日のカウンセリング。
 食事は調理済みのものが外から三食とどけられる。
 正直、そのあたりのアパートの一室で彼女に放置プレイを加えられているM男のほうが、よっぽど過酷な状態に置かれているに違いない。
 というか、どこに過酷さがあるというのか、こんなの。
 おまけに報酬が一週間で二十五万円である。
 押し入れに吊されて彼女の帰りを待つ彼よりも、日給三万円超は、多くのひとにとって苦痛を快楽にさえ変えられる金額だ。

 これに比べると『宇宙兄弟』に出てきた宇宙飛行士選抜のための閉鎖実験は、もう少しキツい。実際にそういうテストが日本でおこなわれているのかどうかは知らないが、報酬と好奇心によって志願した一般人よりも、これから宇宙飛行士になろうと志願する者たちへの実験のほうがハードであるのは、至極当然であろう。

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 それにしたって、こういう実験で、本当のところ、未来の火星で起きることを予測できたりするものだろうか。ロシアの実験からわかるのは、言い争いもなかったのはパソコンの故障がなかったからだということで。もしもそこに不具合が起こり、ビデオゲームもポルノスターも摂取できなくなっていたら、男六人が破壊衝動と性衝動をどんなふうに収めることになったのか、考えたくもない。三組の蜜月中のカップルが誕生していたかもしれない。それはそれでハッピーなことだが、次回からの実験には、偏ったひとたちからの応募が殺到して当初の目的とは違ったことになってしまうだろう。日本の実験に至っては、本気でやったら大変なことになるとJAXAが実験前から逃げ腰になっている感さえある。

 まだまだ狂気めいた熱のあった二十世紀の終わりには、かなりニュースになったバイオスフィア2という計画があった。完全に循環する生態系を人工的に作りあげ、そのなかで二年ごとに人員交代して百年暮らすというものだったのだが。

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『Biosphere2』公式サイト

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 最初の二年を終えて出てきた八人が、この計画は失敗だという証明になり、百年は二年で終了した。失敗のおもな原因は、食料になるはずだったものを含めた植物がまるで育たず、食料どころか酸素も欠乏する状態に陥ったからだが、その結果として現れた目に見える失敗の証明として、八人の精神状態があったと聞く。要は、だれが見たって、ちょっとくらいの状況改善をしたところで、もう二年、人間をここで暮らさせるのは狂気を育むようなものだと結論づけられたということである。

 日本の閉鎖実験では、毎日、単純な頭脳労働をさせてストレスを意図的に与えたそうだけれど、バイオスフィア2でのストレスは生ものである。空腹なのに植物が育たない。家畜は死ぬ。そもそもが排泄物まで循環利用しなければ成り立たない閉鎖空間なのだから、屍体を片付けることはできず、大地に帰すことになる。とはいえ、その大地が居住区域内。植物が育たなかった原因のひとつに、風が吹かないために植物にストレスが加わらず、弱くなっていったという見解があるが、人間にとっても天候の変化がないことは、世界が牢獄であるかのような錯覚をおぼえさせたに違いない。

 火星で繁殖要員がことに励む前に、最初のアダムとイヴたちは、数百日間の宇宙船共同生活が待っている。現状、地球人が飛ばすことのできる宇宙船は、男女ふたりでは飛ばせないし、逆に、多人数のなかでゲーミングPCとオフィスチェア以上のプライバシーを確保することもできない。

 アダムとイヴ「たち」である。
 言い争いもなく火星まで行くには、プライバシーが必要だが、そのプライバシーは火星に着く前に宇宙船のなかで繁殖行為に励めるほどのものではない。ひかえめに考えても、友情よりも、多くの修羅場を生むだろう。

 結果、もっとも簡単な解決策は、肉体的というよりも、精神的に鍛えあげられた現代の宇宙飛行士同等の心の強さを持ったアダムとイヴたちを選ぶことで……火星移住の審査は、そういうものになる。

 キレやすいのはダメだし、天然も困る。
 空気は読めなくてもいいけれど、調和を乱す行為は法度。
 繁殖のための精力は必要だが、これもストレスから暴力や、だれかれかまわずの同性愛行為に走ったりするような弱さをもっていては困る。

 選ばれるのは、まさしく神の創りたもうたようなアダムとイヴ。
 火星での初夜を夢見る優等生タイプの若者たちがいい。

 バイオスフィア2の精神面での失敗は、被験者が科学者だったということも大きい。彼らには知識があった。ヒトがどんなに自由かを知っているために、閉じこめられた境遇の悲惨さが内部増幅された側面はあるだろう。

 優等生なアダムとイヴの次、純粋なる火星生まれの新しい人類は、きっと戦争をしない。戦争というものを知らないのだから、自分たちでそれを発明するまでは、幾世代もかかるはずである。テレビも映画も、ゲームもポルノもなく、純粋な愛にもとづくセックスと、お遊戯レベルの内輪で演じる舞台劇が娯楽になっていくだろう。

 いつか火星をヒトで埋めつくし、また新たな星をさがさなければならなくなるまで、彼らは忙しく働き、争っているひまもないはずだ。

 それはそれで、幸せそうだが。
 アームストロング船長が逝った。
 仮面ライダーフォーゼが終わった。
 キュリオシティが火星を写す。
 二十一世紀の有人閉鎖実験は、娯楽に支えられて成功と喜んでいる。
 私は、思う。

 で、けっきょく、宇宙行ってなにすんの。
 未来で優等生な新人類が火星で繁栄したって、それが私にとってなにかの意味があるかといえば、なにもない。

 フォーゼが最後に言っていた。

「ここが銀河だ」

 いま自分たちのいる、学園を指してである。
 同意する。
 私も宇宙を題材にしたSFは大好きだけれど、現実に月に行った偉大な勇者が死に、火星で走るラジコンカーを見ていると、それらの意味は、そこにこそあるのではないかと思える。

 壮大な劇だ。
 いま、ここにいる人類に魅せるための。
 オリンピックの体操選手や、コーナーポストから飛ぶプロレスラーに向かって拍手する。ええっ、ヒトってあんなことまでできちゃうんだ!
 宇宙に行くってのもそういうことで。
 つまり、宇宙飛行士を目指すのは、舞台の主役を目指すということである。

 それでいいと思う。
 宇宙飛行士の試験で、人類の未来に貢献とかなんとかいうやつは落とすといい。大好きなヒーローのことを話すように、ガガーリンやアームストロングのことを語るやつは合格にして欲しいが、未来の宇宙飛行士の子供時代にもう彼らはいなかったのだから、ぜひとも仮面ライダーフォーゼの名を二十年後に出す志願者がいたら、即合格にしてやって欲しい。

 現実に、火星でヒトが生き延びるかどうかは、どうでもいい。
 地球を脱出する気もない。
 いま、地球に作用する計画を立てて欲しいと、大衆演劇的、プロレス的な、有人宇宙飛行五十周年記念仮面ライダーを観終えて考えた。
 ロケットは、花火だ。
 戦争もやめたくなるような、わあっという花を咲かせて。

 宇宙開発は、戦争に直結していた。
 けれど五十年。
 宇宙はもう、娯楽でいい。
 映画を撮るように、宇宙を作る。
 ヒトは地球を制した。
 だから次は宇宙。
 楽園の創造を望んで戦争に志願する兵士がいるなら、ロケットに乗せて火星に送ってやればいいのに。血気盛んなファイターは宇宙劇の主役になって、空気さえ作り、繁殖だって成すだろう。そんな番組はおもしろくて、地球では戦争だって忘れるかもしれない。

 キュリオシティの画像を見ると思う。
 宇宙キターッ。
 ここで見ている、火星はいまここにある。
 もっと盛り上がっていいと思うぞ人類。
 せっかくの宇宙という娯楽を、有効利用できていないと感じるのです。

 必死なのはわかるけど。
 宇宙を魅せる側も、もっと遊ぶべき。
 仮面ライダーフォーゼはよかった。
 なぜ宇宙に行くのか?
 そこは最後のフロンティアだからだ。
 キターッ! イケーッ!
 それで行っちゃったりするもんなんだ。
 アームストロング船長たちは、そうだった。
 あれは劇であり、プロレスだった。
 そしてだからこそ、彼はヒーローだった。
 そういうノリが、いまの地球に欲しい。

 宇宙になんて行きたくない。
 宇宙を夢見せられて、ここで銀河に泳ぎたい。




 晴天なのに、雷が鳴っています。
 立秋のころが暑さのピークと言われる本州で、すでに八月もなかばながら、気温はぐんぐん上昇中。扇風機もクーラーもまだまだ売れているので在庫処分どころか追加発注かける始末で、なんか年々、季節の先読みができなくなっている。

 そんななか。
 冷えピタはよくできた商材。
 当然、冬は売れる。
 風邪の熱を冷ますために。針金のスタンドから氷のうをぶら下げていたかつての光景は、優秀な放熱ゲルシートにとってかわられた。熱を吸い、水分とともに放散する。メントールですーすーもする。ゲルの水分が気化しつくすには八時間を越えるので、氷が溶けたからと夜中にじゃらじゃら交換したり、結露がしたたりぼたぼた顔にかかることもなく、ひと晩中、冷え続ける(メーカー公称値)。

 そんな冷えピタ。

 最近は、夏もよく売れる。
 太い血管の走るところに貼ると効く。循環する血液を冷やすので、カラダ全体の温度が下がるんだという。試しにわきの下に貼ってみたら、うーん。冷える、とは言いがたいが、なんだか汗は引いた気がする。

 冬も売れるし夏も売れるなら在庫が増えたって怖くないので強気発注で店頭に山積みされて、ますます売れる。この数年は、メーカーさんも無料サンプルを大量に持ってくる。これがまたありがたい。効果を見てもらいたいという思惑からだろう、薬店の試供品というのは便秘薬とかイライラに効きますとか、耳鳴りを抑えますとか、そんなのが多いのだけれど、そういうのは、レジを打ちながら、実に悩ましいのである。他社の便秘薬を買っているヒトに、これも試してみませんか、なんていうのはよけいなお世話だろうし。かといって、まったく違うものを買いに来たお客さんに、そういう効能がはっきりした試供品を差し出すのは、気が引ける。少なくとも私が逆の立場なら、便秘症に見えるくらいならともかく、イライラを抑えてとか、耳鳴りがしませんかとか、一見してわかるほどそんな雰囲気をかもしだしているのかと疑って、店員を睨んでツバさえ吐くかも。

 その点、冷えピタは、わたしやすい。
 こんなに暑い夏なら、だれにわたしたって自然である。

(冷えピタは某社の商標だが、冷却ジェルシートなどと書くのも面倒くさいのでこう書いているだけである。商品開発当時は、夏に売れることを想定していなかったのか、他社の熱さまシートという商標は、実際に「あ、これ、おねつ用ね」とつぶやいて冷えピタやデコデコクールに手をのばすお客さまがいることを見るに、いまからでも改名すべきだと思う。各社のシェア比がどれくらいのものなのか私は詳しく知らないが、冷却ジェルシートをさがしている方が「冷えピタはどこ?」と訊ねる率は、圧倒的に高い)

 深刻な便秘が試供品で治ってしまっては売れるものが売れなかったということもありうるが、一枚冷えピタをもらったくらいで、これで箱入りを買わなくていいなどと考えるひとはいないだろうし。

 そうして、ますます売れる。

 ところで。
 以前放送されていたテレビ番組で『特命リサーチ200X』というのがあって。いわゆる科学情報番組ながら、ビッグフットから美味しいハンバーグの作り方まで、実に幅広いネタを提供してくれて、私は大好きだったのですが。

 ご多分に漏れず、視聴率稼ぎのためのダイエット特集にのめりこみはじめてから、番組がおかしなことになっていった。化学的に事態を解明する番組なのだから、いかに運動して、いかに食事制限すれば、いかに痩せるかを解説すればいいところを「食べてOK」「一日5分」なんていうフレーズが得意技になっていったのである。

 そんな番組の末期に、ついに世に解き放たれた究極のダイエット法を、私は近ごろよく思い出す。
 それが、

 冷えピタダイエット。

 冷却シートを貼るだけの痩身術。

 かなり眉唾物なネタに寄った回ではあった。あろうことか、冷えピタをカラダに貼るだけ。食事制限や運動は、まったく必要としない。つまり、一日5分なんていう枷さえもはずしてしまったのだ。効果よりも目新しさを優先させて、その日の視聴率が稼げればいいという試みではなかろうかと、子供でも疑いたくなる。

○ダイエット方法

 冷えピタをうなじに貼ります。
 背骨のラインに添って数枚貼るとなおよし。

 ……それは。
 とてもすーすーする。
 うなじから背骨のラインに添って手のひら大のシートを並べて貼るというのは、自分自身ではかなり難易度の高い作業である。湿布薬を背中に自分で貼る器具というのも市販はされているが、それを使っても、背中のまんなかにまっすぐ貼るのはかなり難しい。

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 仕方がないので、だれかに頼もう。

「冷えピタ、ここんとこにずらっと貼ってくんない?」

 なんのプレイだろうかと思われること確実だが、背に腹はかえられない。なにせ、それだけで痩せるのだから。

 200Xの説明によれば、うなじにつながる背骨のラインを冷やすと、代謝が上がるのだという。つまるところ、消費カロリーが上昇する。それにより痩せる。

 なにせ、私の記憶だけで書いているので、正確性には乏しいのだが、番組でサーモグラフィーを使った実験をしていたのは確かだ。それなりに科学的根拠は示されていた。いまググってみても、それらしい論文の類はどうしても見つけられなかったが200Xの手法からして、当時、なんらかの学術的成果が元ネタとしてあったのだと思う。

 ヒトのうなじは外気温センサー。

 そういうことを発表した博士かなにかが、いたのだ。
 そういえば、膝の裏に光を当てればヒトの肉体は朝が来たと錯覚するので、これを利用すれば時差ボケが抑えられるという話も、最初に目にしたのは200Xだったような気がする(これも記憶に寄るところなので絶対とはいえない。ただし、ヒトの膝の裏が光を感知するセンサーだというのは、いまもググればいくらでもヒットする証明された事実だ)。
 膝の裏が光を感知するなら、うなじが外気温センサーであってもなんの不思議もない。

(まったく話がそれるが、私の通っていた美大の色彩学の先生は、私たちに赤と青の色画用紙に手のひらを当てさせ「ほうら赤色のほうがあったかいだろう」と言い聞かせたものだった。ちなみにそのとき教室にいた半数ほどが本当だと驚き、私を含めた鈍感な半分は、だったら金色は冷たいのか熱いのか、などということを考えていた。むろん、目で見てしまえば温度差はある。しかし、先生は手のひらだけで差を感じるはずだと本気で論じていた。私はいまだに鈍感なままだが、あの実験はいま振り返れば、手のひらが色の温度を感じているというよりも、手のひらはモノが見えているのではないかということを証明しているように思える。先生は色彩学の権威だったので、色画用紙の側が温度を左右すると力説したがっていたけれど、生物学的な観点から手のひらに視覚があるかどうかのほうこそ、真剣に研究すべきテーマではないだろうか。膝の裏が光を感じるのだから、手のひらがこの紙はなんだか赤くてあったかく見える、というセンサー的役割を果たしていないとは軽々しく断じられないところではなかろうか)

 サーモグラフィーを使い、代謝が上がることを証明していたのだから、番組がなにを見せていたかは、記憶に頼らずとも、おのずと明白である。

 うなじを冷やすと体温が上がる。

 冬場にヒトの肉体が震えるのは、寒さに対抗して体温を上げようとする反射であり、むろん、外気温に対して体内から無い熱をもって迎え撃とうというのであるから、そこではカロリーがおおいに消費される。

 冷えピタをうなじに貼ると、同じことが起きる。

 ただし、それは錯覚なのだ。
 うなじが外気温センサーであることを利用して、おのが肉体にカロリーを消費すべき外気温であるぞよと思い込ませるという……そういうダイエットである。

 くり返すが、私の記憶に寄って書いている。
 だが、200Xでそういうネタをやっていたことは絶対だし、うなじに冷えピタを貼っていた絵が映っていたのも、記憶ちがいではないはずだ。
 ということは、そういうダイエット法がある。
 そして、科学番組での検証に耐えた。

 そういうことを、冷えピタを真夏に売りながら、思い出してしまう。

 不安なのは、それが本当にうなじから背骨にかけて、という箇所に生じる特異な現象であるのかどうか、という点である。うなじは黄色人種だと白さが尊ばれるように、肉のうえにすぐ皮膚があり、太い血管など走っていない。血管を冷やすとカラダが冷える、という話と、それは矛盾している。だから、おそらくは私の記憶通り、そのダイエット法は、うなじがヒトのカラダにおける特異な外気温センサーである、というものだったと思うのだ。

 だって、そうでないと。
 冷えピタでカラダを冷やせば体温が上がる。
 それでは、痩せるかもしれないが、真夏に涼しくなりたくて飛ぶように売れている冷えピタが、実際には意味がないどころか、真夏に自分の肉体を錯覚させてまで体温を上げていることになってしまうのである。

 確信がない。
 でも、私は、言いたい。

「お客さん、その冷えピタ、うなじには貼らないほうがいいですよ」

 もっと暑くなるから。
 言えずにいる。

 テレビをつけると甲子園で、かちわりの冷たい氷水袋を、しきりにうなじへあてがっている親子の姿が映し出されていた。
 あれも、よけい暑くなるだけだ。
 なんなら、痩せてしまうくらいだ。
 冷やせば冷やすほど体温が上昇する地獄へと、みずからをいざなっている。

 200Xによると。
 私の記憶によると。
 それが真実なのです。
 私の記憶はそうだが、私はこの話を信用していないのですけれども。
 膝の裏が光を感じるくらいですからね。
 冷えピタ貼ってんだから涼しくならないと嘘でしょう。
 でも、涼しくなったらダイエット法として成立しない。
 200Xが間違っていた?
 いや、そうではない。
 ヒトのカラダなど、まだまだ謎だらけなのです。
 そういうことなのです。

 冷えピタをうなじに貼ると痩せてしまうほど暑くなる。
 涼を求めるのならば、うなじ以外に貼るべき。

 冷えピタご使用のさいには、
 お気をつけください。
 
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 彼は、準決勝で負けた。
 リレーでは決勝にまで残って、本人は四年後を目指すと宣言していた。
 笑顔だった。

 ほかの選手に比べて有利だという根拠がない、というのは、つまり判断のしようがないということで。
 判断できないから、困って。
 偉いヒトも、単純に考えてしまったのだろう。

 いかにもタイムが競りあっておもしろそうだったから。

 エンタメ目線での決定である。
 これが、あきらかに健常者よりもかっとばして高速だったならば、認めることはなかったはず。

 判断の要となった生物物理学者さんたちによる見解「義足が人間の足よりも優位であるという十分な証拠はない」というのは、そもそも、それをもとに話しあうという土台からしてズレているように感じる。

 彼は、ブレードランナーと呼ばれている。
 プロレスでいうところの二つ名というやつだ。
 ブレードの脚を持つランナーなのだから、ヒネりもなんにもないが、もちろん、その名を冠して登場する彼を見て、多くのSF小説好き、映画好きは、連想する。

Blade Runner

 レプリカント。

 ヒトに似た機械。
 K・W・ジーターの描く映画公式続編小説『ブレードランナー』の2と3において、レプリカントたちは人間と変わらぬ「人生」を求め、それを成す。
(邦訳されていない4もありますが、なぜ邦訳されないのかは推して知るべし)

Blade Runner

 だがしかし、見た目に人間と変わらない機械生命体が、人間同様の人生を手に入れるという物語が当の「人間」である読者にうったえかける時点で、その物語が描かれた当時の人類には「マシンごときが」幸せになれてよかったなあ、という見下し感がありありだったことはいなめない。

 時は流れ。
 二十一世紀。
 ブレードの脚を持つランナーがパラリンピックで無敵の王者となる。
 映画『ブレードランナー』の近未来はあと数年のことになったあたりの人類は、彼のことをブレードランナーと呼ぶ。その響きが、人間ではない機械生命体レプリカントを連想させることを充分に意識したうえで、彼本人も、それを許している。

 高度なジョークを許容するようになった、といえる。

 数年前、全日本プロレスに、義足のレスラーが登場した。問題行動でアメリカ最大のプロレス団体WWEを解雇されたザック・ゴーウェン。彼は、昭和の全日本プロレスで戦っていた三沢光晴の大ファンだと公言していて、その三沢が全日本プロレスを離脱して新団体を作ったことを知らないはずはないのだが、仕事に飢えていたのだろう、あこがれの全日本プロレスにやってきました、と、ジャパンマネーを獲得すべく文字通り飛んだり跳ねたりしていた。

 彼は、ときどき、義足がはずれる。
 彼の義足はブレード状のものではなく、おそらくはFRP強化樹脂製の、マネキンの脚のようなものである。はずれたそれを使って、彼は敵を殴ったりする。

 それは凶器であろうか。
 絵としては、樹脂製の棍棒を手に持って敵レスラーを殴っているのだから、ハードコアマッチではない通常ルールのうえでは迷うことなく反則である。しかし、それは彼の脚なのだ。自分の脚を手に持って敵を殴りつけているとき、彼は当たり前だが、片脚である。プラスマイナスはゼロだから、質量保存の法則にのっとればそれは、脚が抜けて飛んでいったハイキックであると言えなくもない。実際に、抜けて飛んでいっているのだし。

 彼は、これはぼくの脚だと言い張る。
 レフェリーが困る。
 プロレスを解する観客たちは、笑う。

 それもまた、かなり高度なジョークである。

 古くはアブドーラ・ザ・ブッチャーの尖った靴や、最近では沖縄プロレスのハブ男が長いシッポで敵を殴りつけていたりする。実況するアナウンサーは決まって言う。

「でもまあ、あれはカラダの一部ですから」

 凶器ではない。
 それがプロレスの奥深さである。
 そういえば、昭和のリングには、ヤスリで歯を尖らせたレスラーもいた。その尖った歯で噛みつくのが必殺技で、入場シーンからさっそく鮫のような歯を見せびらかしているのであるが、プロレスにおいて、そもそも噛みつき攻撃は反則なのだった。噛むために歯をヤスリで削ってきたのを見た刹那にレフェリーは不戦敗を宣言すべきだと思うが、そんなことは起きなかった。

 暗黙の了解、というものだ。
 二十世紀からすでに、かなりレベルが高い。

 たのしければいい。
 それがエンターテインメントだ。
 プロレスは娯楽スポーツとみずから名乗っている。

 ひるがえって。
 オリンピック。

 そこに違和感をおぼえる。

「義足が人間の足よりも優位であるという十分な証拠はない」

 オリンピックで広告は禁止というのは明文化されたルールだが、それを拡大解釈してタトゥも御法度というのが暗黙のルールとしてあり、某日本人格闘家が、かつてのオリンピックで両腕のタトゥを隠すためにバンテージをぐるぐる巻きにせざるをえず、まったく腕がすべらなくなって敵の関節技にがっちりはまって負けたという出来事があった。それが、今回のオリンピックを観ていると、やたら五輪マークのタトゥをこれ見よがしに入れている選手が多い。オリンピックのスポンサー、コカコーラ社のライバル、ペプシのタトゥを入れた選手はさすがに隠したそうだが、男子400メートルハードルの銅メダリストは、五輪のマークに並べて、日本が誇る音速のハリネズミ、ソニック・ザ・ヘッジホッグを腕にタトゥしていた。
 ソニックは、公式ゲームにも出ているしOKなのだろうか。

m&s

 しかし、彼がソニックを腕に刻んだのは、ゲームの広告のためではない(広告にしては、デザインレベルの低いタトゥでもあった)。彼は、ソニック好きなのだ。あの音速のハリネズミのように障害物を飛び越えまくって世界最速の男になりたかったのである。
 そうして、事実、彼はトップではないものの、立派なメダルを手にした。

 ソニックのタトゥがなくても、彼は勝てたかもしれない。
 けれど、そのレベルの選手たちにとって、精神の安寧こそが最強の武器であることはまぎれもなく、多くの選手が五輪マークを身に彫るのも、己が人生の一大イベントだと肉を越えて心に刻むためだろう。

 そういうタトゥは許される。

 ならば、コスプレしたら速く走れるという主張をしてみてはどうだろうか。
 ハンマー投げの屈強な男子選手が、たとえば、

「ぼくはミニスカセーラー服を着るとテンションが上がる」

 だから着てよいか。
 ダメだろう。
 たぶんダメだけれど、五輪の偉いヒトに理由を問いただしてみたい。だって、ミニスカートもセーラー服も、どう考えたってハンマー投げという競技において、着ることでほかの選手よりも「優位であるという十分な証拠はない」はずだから。

 義足のランナーは認められ、無事オリンピックは終わった。

 その先に、なにが起きるのかを、彼らは考えたのだろうか。
 間違いなく、次の選手が現れる。
 そして審査する。
 今度は、ダメだと言われるかもしれない。
 しかし、そのときの理由は絶対にこうだ。

「その人工的な肉体のパーツはほかの選手に比べ優位になる」
 から。

 ここはもう近未来。

 幼いころに視力を失ったが、電気的に見えるようになった。
 彼女は、中学校でアーチェリーをはじめるかも。

 幼いころに全身に大やけどを負った。
 彼女は、まがいものの肌色ではなく、エメラルド色の肌を選んだ。
 新体操の芸術点はどうなるだろう。

 さて、オリンピックを目指そうか。
 そこで、彼女たち専属の技術者たちは、なにをするか。

 オリンピックに出られるように。
 ふつうの人間並みの視力を持つ義眼を用意する。
 ふつうの人間にまじって違和感がない皮膚の色にする。

 つまり、徒競走においては。
 現在の人類最速の選手のタイムと競りあう程度の速度が出せる義足の開発。
 それがおこなわれる。

 当然、近い未来もなにも現時点においてすでに、競技用義肢開発の方向性は「速すぎるとマズい」ということである。最新のテクノロジーを注ぎ込んで、100メートルを5秒フラットで駆け抜ける脚が造れたとしても、それを装着して審査会にのぞめば「なにを考えているんだきみは?」とオリンピックの偉いヒトは言うだろう。

 でも、ほんとなに考えてんの?
 パラリンピック二連覇の無敵の王者。
 彼が、五輪の精神にのっとって競技に挑むなら、オリンピックの決勝で競ることではなく、文字通りの人類最速を目指すべきである。パラリンピックの王者たちが出す記録は、ヒトの域を超えてぜんぜんかまわない。ハンディをアドバンテージに変えて驚愕の記録を叩き出そうとするとき、その行為はエンターテインメントにまで昇華されて、あらゆる人類の希望になる。
 そうでなくてはいけない。

 なぜ、オリンピックに持ってきたかが違和感なのだ。

 オリンピックの王者に、義足のランナーはなれないと偉いヒトは思った?
 現実に、彼は準決勝で敗れたのだから、現在の技術の粋をもってしても、そこが限界なのかもしれない。
 でも、車椅子のマラソンランナーは、とっくに脚で走るよりも速い。
 生身の脚で走る選手が、この先、さらに1秒早く100メートルを走れるかといえば疑問符がつくが、機械の脚ならば、科学技術が絶対にそれを可能にするだろう。

 選手の夢を叶える姿勢は素敵だけれど、その結果が、彼が王者になり、みんなが戸惑うというものであれば、その先には映画『ブレードランナー』の原作が描いた悲劇が待っているかもしれない。

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「アンドロイド」とプリスはつぶやいた。「アンドロイドのやりそうなミスだわ。そういうことから、ばれてしまうの」彼女は立ち上がってイジドアに近づき、それからおどろいたことに、彼の腰に腕をまわして、つかのまぎゅっと体を寄りそわせてきた。「桃をひときれいただくわ」
 彼女はうぶ毛の生えたピンクとオレンジのぬるぬるしたひときれを、長い指でそっとつまんだ。とつぜん、桃を頬ばる彼女の目に涙があふれてきた。つめたい涙が頬を伝い、ドレスの胸にこぼれた。イジドアは途方に暮れたままひたすら食べつづけた。

Blade Runner

フィリップ・K・ディック
『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』

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 彼らはレプリカントでもアンドロイドでもない。しかし、おなじオリンピックで競ううち、彼らは彼らを彼らと呼ぶようになる。彼らは進化が可能になっても、正体を隠す必要に迫られる。彼らよりもあきらかに優れていることが暴露されれば、彼らとまじって競技することはできなくなるのだから。彼らは越えられるタイムを越えず、観客の動員数を上げるために「競る演技」をみずから選び、上手くなる。記録とはすなわち、いかに観客を熱狂させる脚本を見事に演じきるかという妥協点になる。限界を演じるためには、限界を越えた肉体が必要であることは明白だ。

 プロレスに変わって、娯楽スポーツの王様が生まれる。

 オリンピック。

 機械の肩を持つ男と、アブトロニックX2を四年間肩に巻き続けて筋肉を肥大させた「生身の」男が、どちらが槍を遠くに投げられるか競技するのを、私は見たい。なんなら、そこに筋肉増強剤の生きた成果を参戦させてもたのしいだろう。

 だが、多くのスポーツ信仰家たちにとっては悲劇ではないだろうか。

 オリンピックが、娯楽性を追い求めれば、現れるのは、闇でうごめく「演技派」たちである。そういう国もあるし、そういう選手もいるはずだ。極論だが、幼いころになにかを失えば、それを機械に置きかえてもオリンピックに出られることになった。オリンピックに出るために手術してはダメだが、十年がかりの計画でならば可能ということだ。

 単純な話として、義足のランナーはかなりプロレス的だった。
 プロレス好きとして、言っておきたい。
 娯楽スポーツを舐めてもらっては困る。
 純然たる記録を追い求めるストイックなドキュメンタリーに、観客の顔色をうかがって混ぜ込んだ娯楽性は、いずれ、すべての調和を台無しにする。

 私は彼、ブレードランナーがとても好きだ。
 だから、ものすごく残念だった。
 パラリンピックの王者が強すぎるから、オリンピックで走らせたい。
 それならば、そういう大会を新設すべきだったのだ。
 エキシビションマッチとして舞台をもうけるだけでもよかった。
 それこそ、新時代スポーツの夜明けになったかもしれない。
 それなのに、本人が希望したから?
 希望したら出られる大会でしたっけオリンピックって?

 ドキュメントにせよエンタメにせよ。
 ブレると醒める。
 これも単純な話。
 パラリンピックとオリンピックの両方に出場できる選手がいる、という事態こそが、レフェリーの裁定としてありえないと思う。パラリンピックってオリンピックの下位大会じゃないでしょう。そこで絶対王者になったらオリンピックに出られますとか、ブレすぎている。

 機械の脚だからこそ、100メートル5秒なんて記録を真顔で目指せる。そういう人類が存在することこそ、ヒーローというものの体現である。カーレースによって市販車の性能が上がるように、義肢の開発技術の向上は、ほとんど直接的に、すべての人類の未来に作用する。

 彼には、人間の可能性を超えてもらいたかった。
 オリンピック出場の夢を叶えたのに、四年後のオリンピックを目指すという言葉。
 彼の脚は人類科学の結晶なのに。
 オリンピックで名を売ったのに。

「オレを光速で走らせることのできる脚をだれか造れないのか!」

 そう、叫んで欲しかった。