・十代の頃、ときどき訪れていた。入園無料だし、展望台や、峠、山深い公園もそばにあるし。こいつのことはグルグルって呼んでいた。久しぶりに見たけれど、いまも回り続けているなあ…
http://www.wombat-tv.com/
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ちょうどそのとき、花見に行こうかと友人と盛りあがり、まさしく桜の名所である大阪は池田の五月山では、桜が舞い散る見頃を迎えているという。
行ってみた。
これがウォンバットカメラである。

前日の雨もあり、地面もまっピンクという状態ながら枝にも花はあふれて残るすばらしい状態であるにもかかわらず、ちょっと長引いた寒さのおかげで多くの事前から周到に花見を計画していたのだろう人たちの姿はまばらで、まあ咲いているというなら見に行ってやるかという、ふらりとやってきた感のある少人数の集団が、奪いあうでもなくそれぞれ桜の下でまったり過ごしているような昼下がり。
桜の名所で桜の花でもなく、動物園なのに動物でもなく、珍獣ウォンバットの檻の前なのに、ウォンバットでさえなく。おお、これがいつも私の操作しているウェブカメラの生身かと、ぱしゃぱしゃ写真を撮っているのを、家族連れが怪訝な目で見る。ひそひそと話していたりもするが、その日も黒ずくめのライダース姿だった私に聞こえるように訊いてくれる人はいない。訊いてくれたなら、明快に答えるのだが。
「いつだってカウンターは0001人なウェブカメラだから、あなたは知らないかもしれないが、これこそは傷つき泣いて帰った独りの部屋から、あの愛らしいウォンバットを眺めることのできる奇跡の装置アルよ!! これのおかげで、自暴自棄にならず今日まで生きてこられたッス!!」
明快すぎて、あら怖い、と思われてしまうかもですが。
そう、そのカメラはクリックすると45秒間だけ好きに操作できて、我が家のトイレでノートパソコンを開きながらでもウォンバットを探し出しズームすることができる。これまで数十回は訪れたが、いちどたりとも0002人の表示に出遭ったことはない(いっしょに花見に来ていた在阪某ゲーム会社の精鋭が「持ちたくないけれど仕事で」買わざるをえなかったという高機能なスマホで試してもらったがウォンバットTV機能は使えなかったので、パソコンから限定。そんなところがミニマム動物園好きの客層とマッチしていないのかも)。
なので、45秒という括りは実質無効である。
何度でもくりかえし、ぐりぐりと飽くまでカメラを操作し続けられる。
できれば、だれかがぐりぐりとカメラを動かしているところをこそ生で見たかったのだけれど、むろん叶わず。いま、こうしてウォンバット観察用遠隔操作機械のことを書くことによって、ほんの微力でも世に知らしめたい。
「あ。いま、だれかといっしょにウォンバットを見ている。うん。どうぞ、お先に。あなたはいつも、どこにズームしているのですか」
そういうのが、ウォンバットそのものによる癒し効果を、倍増させてくれるはずだから。
そんなことを夢見て満足し、おにぎりを食べてビールを飲んで、仕事を辞めたいというだれかや、音信不通だったあの男から手紙が来たとか、そんなこんなを話しつつ、五月山をさまよい、動物園の裏手の川沿いに、こんな看板を見つけた。

「ガタロってなんですか?」
訊かれた。
その日は過剰な銀ブチ眼鏡もかけていたし、メンバーのなかでいちばんクイズ王っぽかったのだろうが、私はピンと来なかった。大阪弁を使うから大阪人だと思われがちだが、あのお笑い王ダウンタウンが育った尼崎だって兵庫県であり、私は今年は平清盛で沸いている赤穂の生まれで、尼崎の隣の甲子園球場の近所で育ったという、生粋の兵庫県人である。大阪の山に立てられた看板の、いかにも大阪の土着言葉っぽい「ガタロ」なんていうのがなんであるかなんて、さっぱり知らぬ。
しかしまあ、訊かれたので三秒ほど考えてみる。
銀ブチ眼鏡をかけている者の担わなければならないキャラ配分というやつであり、そんなふうに訊かれたくないならば眼鏡をかけないでいるべきなのだ。というわけで、ふだんはやらない、薬指でちょっと眼鏡を持ちあげる仕草など盛り込みながら、考える時間を作り出す。
(まったくの余談だが、某新日本プロレスの超新星、レインメーカー(団体にお金の雨を降らせる、という意味で、スーパースターのことを指す、どこかの方言らしい)を称するオカダ選手が、会見で眼鏡をかけていたんだけれど、慣れていないんだろうなあ。五分くらい話すあいだに、何回位置を直すんだっていうのを見て、私は自戒することにした。実際はズレていないのです。しかし、ふだんかけ慣れない、威圧的な大きいフレームとか、花見の日の私のようにチタンのがっつりした銀ブチとかは、なんかズレている気がするものなのです。そんな気がしているのは自分だけなんだけれど「落ち着きねえなあ。眼鏡逆効果」とオカダカズチカを反面教師に、ここぞという場面でだけ、薬指で眼鏡をそっとなおす技を練習中)
同じ看板に、同じ表現で「ウォンバットがいる」と書かれているのだから、ガタロも同じような存在なのだろうと推測する。ウォンバットが珍獣と呼ばれる代表格なのは周知のこと。しかし川のまんなかに「出た」と表現されるガタロ。私の頭のなかでは、チュパカブラ的な生物が思い浮かんだが、訊いてきた彼女があのウォンバットを越える珍獣チュパカブラを知らない可能性はある。それを説明するとなると、面倒くさい。そこでさらっと言ってのけた眼鏡。
「知らないなあ。ネッシーみたいなものかな」
川に出るんだし。
それでいいんだし。
いや、ダメでしょう。
最低の答えです。
そんなわけで、あとで調べた。
こうやって、ひとはどうでもいいことを知る。
近所の町工場に夜警さんとして就職することになったトメゴロウ。というわけで履歴書を準備しなくてはならないのだが、なにせこのトメゴロウが、自分の名字も言えない学のない男。履歴書がなんであるかがまずわかっていないので、自分の家をさがしたり隣の家をさがしたり……
そしてたどりついたのが「代書屋」。
上の動画では、二十分をすぎたあたり。
「はっきり言います。あたし、ガタロですっ」
実際に代書屋を営んでいたこともある四代目桂米團治の手によって創作され、三代目桂米朝に伝わり、三代目桂春團治と二代目桂枝雀が継いだ。ふたりが同時に持つ必殺技となったことで、性格的なものもあるのだろう、枝雀バージョンは物語の細部に手を加えていく作業が確信犯的で、後期にはトメゴロウが早口で口癖をもっていたり、代書屋の仕事ぶりもより司法書士の色合いを強め、現代にあわせたキャラ設定に変更されている。
その数多ある枝雀バージョンの、後期において変更されたトメゴロウの仕事が、ガタロだ。
私、この噺は観たことがあった。しかし、ガタロという単語は記憶されていなかった。おそらく、私の観たバージョンでは、すでにガタロは登場していなかったのだろう。芸に冒され、鬱を患い、最後にはみずから命を絶った突き詰めすぎずにいられない物語職人の潔癖が、大阪上方で演じても、もはやだれもその単語どころか説明をくわえてもピンとこないガタロなる職業を抹消したのは、師匠との差別化をはかるためか、きょとんとした顔をされるのが怖くてか、それともさらなる打撃力を持ったネタに研鑽するためか。
寄席が怖いと言ったそうである。
彼は、天才と呼ばれながら、己の芸に首をひねっていたという。
ガタロ=カワタロウ=カッパ。
もちろん、私たちの見た看板に描かれている「出た」のは、未確認生物の河童であろう。しかし、それはつまり、天才枝雀が庶民の腹がよじれるほどに笑わせた物語のなかで、当たり前に描いた、そういうヒトたちが、おそらくは当たり前にその川に暮らしていたということでもある。
川底の砂利のなかから鉄骨の折れたんやとかゴム靴かたっぽやとか拾ろてるやつがおまっしゃろ。そういう者たちを、ガタロと呼ぶ。河童になぞらえて? それとも、河童がそもそも、川でなにがしかの背を丸めて営む職業の人たちを、模して創造された生物なのか。
ガタロってなんですか?
こんど訊かれたら、こう答えよう。
「河童の大阪弁」
それでいい。
説明しても伝わらないことは、物語からはぶいてしまえ。
ガタロは河太郎であって河童であり、そういって指差されたヒトがいたからこそ、指差されている自覚なく、胸をはって「あたしはガタロだ」と言ってのける頭のネジのゆるいトメゴロウが笑われた。実にサディスティックな笑いである。そもそも彼の師匠たちのバージョンでは、ガタロのほかにも、手が震えて文字が書けないくせに代書屋の文字に難癖つけてくるクレーマーや、戸籍法違反の書類を書かせるカタコト外国人なんかが出てくる。しかしそのことごとくが、芸に悩み死に向かう天才の手によって改変削除されていった。
それでも、笑える。
きれいな笑いになっていく。
それでいい。
それでいいのに違うと首を振るから、天才は天才なんかも知らんけれども。
花見の席に、私はずいぶんと早く着いてしまって、山のなかを散策していた。
小さなほこらを見つけた。
すり減った、石彫りの地蔵があった。
顔ももう、よくわからない。
写真を撮って、気づいた。
骨壺が置いてある。
古いものだ。
葬式もあげず、地蔵に守護を頼んだのか。
ガタロが出る川を見下ろす山に、行き場のない骨壺。
そんなくだりも、二十世紀の落語職人なら、笑いに変えたことだろう。
ガタロが出たんだそうだ。
看板に描いてあった。
ウォンバットと並ぶくらいに、いまでは珍しい。
それはなにと訊かれても、銀ブチ眼鏡の博識な私でも答えられない。
あんまり、遭いたいとは思わない。
調べたりしなければ、可愛い河童を想像して私たちはきれいに笑えたんだ。
罪を感じる必要などない。
忘れてしまおう。
それでいい。
幻獣のほうの河童だって、きれいにフチをコンクリートで固められた川に、いまさら現れるとは思えない。もういないから、可愛くて、遭いたいと夢見させる存在でいい。怖がる必要はない。出たんだって、見に行こうか、いるはずないよ、いるかもよ?
それらはもう、実在しないのだから。
世の中にある
全てのものは
軍事
及び性的目的に
転用されるのです

久米田康治 『さよなら絶望先生』279話
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MOLLEをwikipediaで調べると、冒頭にこんなふうに書いてある。
( pronounced MOLLY as in the female name )
女の子の名前みたいに、モリーと呼んで。
綴りからしてモリーよりもモールと読んだほうが自然だし、だいたいそれがなんのアルファベットの並びかといえば、
Modular
Lightweight
Load-carrying
Equipment
標準部品群構成軽量行軍装備。
可愛らしくない言葉の並びだが、これの頭文字をすなおに取っていけば、MLLEもしくはMLLCEとなるはずで、それをModularからMとOをあえてもってきたのは、命名者にもそういう意識があったから。
モリー、って読ませたい。
モリーと呼んで。
モリー愛してる。
某国で、台風に人名をつける習慣があることは有名だが、戦争映画なんかを観ていると、彼らは戦闘機だったり、オートバイだったり、ときにはミサイルにまで、擬人化による命名をおこなって、恥ずかしげもなく人前で呼ぶばかりか手でふれて撫でさすったりもしているようだ。愛着あるテディベアに名前をつけている女子だって、二十歳も越えれば、ひとりきりの寝室でだけ口にするようになって、もしもそれをだれかに見られたりしたら、彼女を手篭めにできる脅迫のネタにさえなりかねないというのに、屈強な兵士が飛行機の腹を撫でて「キャサリン、今日もオレと成層圏までトぼうぜ」とか。
気持ち悪い。
そんな気持ちの悪いマッチョな集団は、基本ガキの集まりなので、金をかけて装備を作り与えても、文句ばっかり言いやがる。世は軍縮だ予算削減だと大統領の首だって飛ばす勢いで議論されているのに、兵士ひとりひとりのわがままを聞いて個別の使いやすい装備なんて作っている余裕はない。
そこでだれもに愛されるモリー嬢を作った。
彼女の特徴は、シマシマ。
ボディに引きちぎることのできないベルトが生まれながらにいっぱいついている。なんのためにかといえば、ぶら下げるために。彼女のカラダには縦にも横にもちぎれないベルトがいっぱい縫いつけられている。ちぎれない。ここ重要。ちぎれないのなら、そこにモノを下げることができる。しっかりと留めれば、まるでそれは彼女のカラダにもとからあったもののように固定することだってできる。
髪の毛における、エクステンションのようなものである。
禿頭ではどうしようもないし、ショートヘアでも難しいが、結わえつけられるだけの長さがあるのなら、それを付け毛でさらにのばすのは造作もないこと。
それができるなら、ステージに出るときはド派手に付け、平日は清楚に黒髪ロングでシンプルに。きゃりーぱみゅぱみゅ先生も女子のツケマは男子における仮面ライダー変身ベルトのようなものだと歌っているし、お子様向けにデコデコしたガンダムを売りたいがもとからデコデコしているとガンダムに見えないのでAGEシステムとか、そういうのが多様化するニーズへの答えである。必ずしもその思想がすべてにおいて上手くいっているとはいえない部分もあるが、でも、大筋で真理。
自分だけのゴージャス美女を要求するガキでマッチョで金勘定のできない兵士たちのために、どこかのわかっているヒトが、真逆な答えを大筋の真理として提示したのであった。
すっぴん清楚系モリーをきみたちに与えるから好きに自分色に染めたまえ。
それゆえにMとOは必要だった。
モリーっっ、と愛情込めて呼べることは必須だった。
テディベアだから抱けるけれど、タオル地の巾着袋に綿の詰まったモノを擬人化して愛せるヒトはいないだろう。抱き枕と枕の違いは、そこに抱ける要素が描かれているか否かであり、中身だけの真っ白いのに名前をつけて抱いているヒトがいたら、それは気持ちの悪い抱き枕カバーをつけた抱き枕を抱いているヒトよりもある意味、気持ち悪い。

さて、というわけで本題というか、本題などというものはそもそもここにはないのだけれど、私はモリーという名のバックパックを愛用している。

(↑見た目にわかりやすいのでこの画を選びましたが、私の愛用品は黒色で、それゆえに縦横のベルトもあんまり目立って見えたりはしない感じ)
といっても、通勤用なので、あんまりゴージャスに彼女をデコ盛りする必要もない。ポケットに入れると、からまったり切れたりしやすいヘッドフォンを収納するための小さいポーチをつけているくらいだ。その他の小物は、安全だとはわかっていても、やっぱりマジックテープの後付け装備ではなく、彼女の体内に納めておきたい。ただ、彼女のカラダに縫いつけられたベルトにはカラビナをいくつかつけてある。

これ便利。
こういう行軍用リュックというやつには得てしてポケットがいっぱいついているがゆえに大きいモノをどーんと入れるには適さない。かわりにそのポケットのひとつに私はいわゆるエコバッグなるものを畳んで入れている。なにせきっちり間仕切りなので、普段はエコバッグを持ち歩いていることさえ忘れているのだけれど、なにかを突発的に買ってしまったとき、または貰ってしまったとき(けっこうこれが多い)、手提げの大きなバッグを取りだして入れる。そしてカラビナでモリー嬢に提げる。
「重い? でもきみなら平気さ、モリー」
もちろんエコバッグも黒であり、雨が降ると折りたたみ傘もカラビナで吊る。夏場ならペットボトルだって吊る。傘もペットボトルカバーも黒である。かくして、私は、モリー嬢を中心とした黒くてイビツなカタマリを背負った行軍者となる。だっていつ襲われるかわからない。両手は空けておかなくちゃ。でもそんなモリーてんこ盛りの状態でたとえばレンタルビデオ屋に入ったりすると、他人に迷惑という以前に、自分が棚と棚の隙間に挟まって方向転換できなくなる。だからどこにも寄らない。まっすぐ帰る。買い物も立ち読みもしないなら、両手を空ける必要はないのではなかろうかと自分でも思う。だって私のふところには某軍兵士のように銃がぶら下がっているわけではないのだし。
それもこれも、バイク乗りだからである。
しかもアメリカン乗りなので、バイク自体に収納スペースは皆無。やむなく背負う。その発想が根底にあってのモリー選択なのだが……
よく考えてみると、そもそもバイクで買い物に行くときには、私は十年以上も前に無印良品で買ったリュックサックを背負っていく。モリー嬢のように、ポケットがいっぱいついていたりしない、たんに大きな袋というだけのリュックで、しかしそのシンプルさゆえに、トイレットペーパーの18ロールパックだとか、500ミリリットル缶ビールの24本ダンボールパックだとか、そういったものが入る。入ってしまえば、アメリカンのバイクというのは背筋をのばして乗るものなので、リュックの重さは関係ない。支えているのはタンデムシートである。
でも、さすがに重いモノやいっぱいのモノを買いに行くとき限定で使うリュックは、あちこちがほころびてくる。ジッパーまわりがやはりつらい。無印良品に行くたび、同じようなのは売っていないかと探すが、近ごろのヤツは多機能ポケット付きとかいらん知恵をつけてしまって、あのころの本当にシンプルな無印商品を、とんと見かけなくなってしまった。
というわけで、そのリュックはシューグーで補修されていたりする。

(革靴の底の磨り減り防止はもちろんだが、スニーカーのしゃがんだり立ったりしすぎて折れ裂けたゴム部品(仕事用のスニーカーって、小指の外側がすぐ穴開くんです)だとか、バイクのゴムパーツ(ステップのゴムとかね)とか、リュックのジッパーまわりとか。私は毎週のようになにかしらシューグーで補修している気がする。よくできた製品である(私が身につけるものすべてが黒いので、ブラックシューグー一本でなんでも直せてしまうというところはある)。)
なんにせよ、バイクでお買い物用リュックはそいつの指定席だ。
なので、別に通勤用のバックパックに両手を空けるための工夫なんて実は必要ない。でも、そういうのを選び続けてしまう。だってだって。軍事的にも性的にも、いつだってなんだってできるようにヒトは両手を空けておくべきでしょう。そのために私たちは後ろ足で立ったのだから。
世の中にある全てのものは軍事及び性的目的に転用されると言うが、逆説的に、死神の舞い踊る戦場でさえ手を空けたまま荷物を運べるモリー嬢の存在を、両手に買い物袋抱えてあごに傘はさんで歩いているオバサマとか見ると、薦めたくてしかたない。背中空いているじゃない。そこ使ったら、倍、買い物運べるのに。タコ焼き食べながらでも帰れるのに。
週末遊びのバイカーでさえ愛用しているのに、家事の効率化に命をかけている感さえある彼女たちが、なぜに軍事装備を転用しないのか、とても不思議に思います。自転車の荷台にロープでぐるぐる縛ってもぐらぐらしてるヒトを見るたび、それ毎日やってんの? サドルバッグとかつけたらどうさ? せめてベルトとバックルとカラビナの使い方を学ぶべきだよ、人生がラクになるよ。
って。
教えてあげたくてならない。
戦争は嫌いですが、極限状況でいかに快適便利に生きるかというのを実地で何十万人もが試して試してできあがっていく技術は、やっぱりすごいモノであり。ヒトは、ミサイルを打ち上げたくてその技術を完成させ、人工衛星を打ち上げて道に迷わなくなり地球の裏側と話せるようになった。逆ではない。過去の愚かな戦争ジャンキーたちが、それはもうやったことであって、だったらあとは、得た技術をヒトの世の平和に転用させるだけ。
って。
教えてあげたくてならない。
軍事技術を軍事技術として使いたいだなんて愚かしい。それは、転用してもっとラクに気持ちよい人生を送るために使うべきものなんですよ、平和な国の週末バイク乗りでさえ知ってる。

半額になったアサリを山ほど買ってきます。
半額神さまがシール貼りに出てくるくらいですから、
買うのはスーパーマーケットです。
パック入りのアサリは塩抜き済みです。
でも念のため。
濃いめの塩水につけます。
カップ1の水に小さじ1くらいの塩。
その塩水に、アサリ水没。
なにしろ半額シール貼っている時間。
眠いので、冷蔵庫にひと晩放置します。
なにしろ半額シール貼っている身。
死んでいるのも多いでしょう。
この行為は気休めにすぎません。
だいたい冷蔵庫の温度では、
生きていたのも仮死状態化するはず。
しかし翌朝、水を見れば、
砂だけでなくいろいろと浮いている。
水を換え、ざるにこすりつけるように、
シャカシャカ洗います。
水を切ります。
そしておもむろに、
片手でぐわしと握れるくらいを取ってはジップロックへ。
くるくると丸めて棒状にして、冷凍庫へ。
……こういうことを。
月一くらいでやります。
おもにパエリアのため。
鶏肉は冷凍が常備されていて、キノコも絶やさない。
パプリカとかニンニクの芽とか、冷凍があるし、
タコ焼きの残りのタコとか、
イカやエビもいつの間にかあったりする。
ただ、アサリは買わないと、ほとんどほかで使わない。
味噌汁に貝は入れない。
酒蒸しとかも作らない。
私、カラを取らないと食べられないもの、苦手だ。
カニも、ミカンも、お呼ばれして食べることはあるが、
自分で選んで食べることはない。
うん。パエリアに載せるエビも、剥き身がいい。
そもそも私は食事のとき、おしぼりを欠かさない。
自宅でも、なにかを触れたら指先を拭く。
潔癖症っぽいが、たんにグラスに指紋がつくのがイヤなのだ。
メガネ好きでもあるので、無意識に触ったメガネに
アブラがつくとかいうのもイヤである。
そんなだから、パエリアに載せたアサリも、
食べる前にぜんぶ剥いてカラを捨てる。
剥きながら食べるとか、ありえない。
だったら使わなければいいじゃないというところだが……
パエリアにアサリは必須なのである。
困ったものだ。
だから冷凍する。
凍ったままダッチオ-ブンにぶっこむ。
好きじゃない。
でもやつらの旨味ときたら……
くそお、というところなのだった。
いや違う、好きじゃない。
これは好きってことじゃなくて。
ないと寂しい。
それだけのこと。
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しかし、この場合、問題になるのが砂である。
言いたくはないが、経験上、私が使うスーパーのなかでも、ダイエーのアサリの砂抜きは甘い。パッケージにも「抜いてあるがいちおう」ご家庭で砂抜きしてくださいと書いてあるところにもう、逃げ根性が見える。
それが、さらに半額神さまのシールを貼りたもうたものであったりすると、その「ご家庭での砂抜き」がままならない。なにせ、アサリの側に、もはや砂を吐く活きが残っていない場合が多いのだ。

(余談だが、私も月明けには半額神と化すことがあり、期限間近の米や菓子などにぺったかぺったか半額シールを貼っていると、これは安くならないのかと詰め寄られることがある。そんなことを言われたところで純粋に鮮度の問題なので、半額神は神だというけれど、なんの裁量もない。同じようなパターンで、毎年のように詰め寄られるのが「売れ残っているストーブが安くなると思って買い控えていたのに」という方々。これはもう、同情するしかないのだけれど、そんなシーズン終わりに店頭に箱で残っている商品は、メーカー側から残ったら返品してくれていいからギリまで置いておいて、とあずけられた類のものである。で、半額になるのを待っている人たちは、それが店頭から消えたら詰め寄ってくる。返品しましたまた来年。そんなんやったらそう書いとけや、とキレる方が本当にいるから大阪地方の怖いところですけれど、それもまた風物詩)
と、書いてからが要なのだけれど。
私、そのむかし、和食の店で働いていたことがあります。
料理のイロハを教えてくれたのは、一年の半分は大型船のコックをやっているというヒトで、一年のもう半分は、陸のうえで腕が鈍らないように包丁を握っているのでした。店の方針として「いかに少ない量を多く魅せるか」というところに重点が置かれていたのに、私がそのひとから学んだのは、刺身はどれぐらいの厚さで切ればうまいか、というようなことであり、大量のアサリを確実に砂抜きするにはどうすればいいか、というようなことでした。なにせ、船のうえだと、船員は食事が唯一の楽しみというヒトも多く、その食事でアサリがジャリッ、なんていう日には、刺されても文句は言えないという。
で、さっき私も「砂を吐く活き」なんてことを書きましたが、これがまずまどろっこしいし不確実。実際、アサリは水を吸っては吐きをくりかえしているので、海水的塩分濃度の水に入れておけば、吸っては吐きで砂が出てくるのですけれど、この砂、そもそも、アサリの内臓のなかにあったものではないんだとか。まあ、言われてみれば当たり前ですね。小さな砂粒でも、アサリの体長からしてみれば、人間がレンガブロックを飲みこむようなもの。わざわざそんなことをする意味がありません。
つまり。
アサリは砂を吐くのではない。
呼吸するときに貝が開くので、そのくりかえしと水の流れで、貝殻と身の隙間にもぐりこんでいた砂が出てくるというだけ。なんなら、ボールにアサリをいっぱい入れて、塩ばらまいて、ボールのまわりに白い紙を敷いてみい、と師匠は言いました。吐き出す水に砂は入ってないんや。私は試さなかった。たぶん師匠は試したのだろうから。刺されていないのだから、きっと正しいのです。ぴゅっぴゅとアサリが吐く水に混じって砂が出てくるわけではない。
なので、たとえばいちばん確実なのは。
「殻を剥いて洗うこと」
よく、冷凍の剥き身パックなんかがありますが、あれって砂を出す行程はおこなわず、剥いてから流水で洗っているそうで。だから、米とは別にアサリを調理し、それを剥き身で混ぜ込むようなアサリご飯などは、確実に砂のないアサリメニューとなる。
とはいえ、アサリといえばカラ。
貝殻のまま、皿に並べたいじゃないですか。
ましてパエリアなんて、その見た目こそが出オチなところがある。
というわけで。
例題として、このレシピを使いましょう。
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『ユウキ食品パエリアの素で作るパエリア』の話。・・・・・・・・・・・・・・・・・・
●作り方
1 フライパン(私は28CMテフロン加工のものを愛用)を強火で30秒加熱。
2 オリーブオイルを入れて10秒後、アサリを入れ、ぜんぶの貝が開くまで炒める。
3 アサリだけを抜き取り、残った炒め汁にニンニクを入れ、香りが立ったところでタマネギを加え1分炒めたところで適当に切った鶏肉を加え、肉の色が変わるまで炒める(トマトを加えるならここで)。
4 白ワイン、水の順に加え、パエリアの素を投入。
5 沸騰したら中火にし、米を加え、底からはがすように1分かき混ぜる。
6 中火のまま、トッピング用の野菜を米の上にのせ、フタをして5分炊く。
7 フタを閉じたまま、火加減を弱火に調整、15分炊く。
8 火を止め、アサリを散らし、3分蒸らす。
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このレシピの「3」の冒頭に補足します。
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3 漉し器、もしくはキッチンペーパーなどを用いて炒め汁を濾してアサリだけを抜き取り、残った炒め汁にニンニクを入れ、香りが立ったところでタマネギを加え1分炒めたところで適当に切った鶏肉を加え、肉の色が変わるまで炒める(トマトを加えるならここで)。
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はい。
完全なる砂抜きです。
アサリの砂は、身と殻のあいだ、または殻外側のデコボコの隙間にある。ならば、茹でるにしろ炒めるにしろ、すべての殻が開いたあと、その中身をゆで汁や炒め油で洗うように調理し、それを濾す。
これでよし。
この方法を使うと、買ってきたアサリを砂抜きせずそのまま冷凍し、調理段階で砂を抜くことも可能になります。
ですので「そんなの出汁をペーパーが吸っちゃうじゃないもったいない」という向きも、基本の塩水砂抜きに失敗したアサリを捨てるしかない、なんて思い悩んだときには、おためしあれ。
以上です。
(追陳。
完全なる、とか書きましたが、私の作るパエリアでも、たまにジャリッとなることがあります(妻は私を刺しませんが睨みます)。それはひとえにダイエーを信用し、とても急いでいて、まだ開ききっていないアサリ貝を、余熱だとか、無理やり箸でだとか、邪道な手段でこじ開けたとき。やっぱりまだ身が縮んだままだから、そのあたりに砂が残っているのですね。なので、しっかり自然に貝が開ききるまで待ち、身の裏まで洗うように調理するというのが必須。それでも私は調理段階で砂を抜けるこの方法が性に合っていて好きなのですが……いちおう、塩水砂抜きもしておきましょう。念には念を。手をかけた時間こそが料理の質を上げる、というのは真理です)
(追陳その二。
パエリアに限定した場合、アサリのダシは最初に炒め蒸したときにほぼ出つくしているので、トッピング用の殻と身は流水で洗ってしまう、というのも手です。噛んでジャリッとなるレベルの砂粒は、砂というよりは小石の大きさなので、顕微鏡を使わなくても肉眼で黒い点として目視できます。それを指先でちょいちょいのちょーいと取り去ってもいいのですが、どうせダシが出つくした見た目だけのオブジェ。水道水にさらしてしまえば完璧。身のなかに砂はない。噛んでわかる大きさの砂は目で見える。この二点を知る者であれば、あとは愛情の問題。一個ずつ見つめれば砂が残ることなどありえないのです(身と殻のあいだに目視できないものが残っていたという呪われた不運がない限り)。)