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・和歌山県立近代美術館で「ホックニーのグリム童話」展を観た。二十代のデイヴィッドは観客へのサービス精神にあふれていて微笑ましい。自分で自分をバラバラにするコビトの絵が忘れられない。

twitter / Yoshinogi

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 ちなみに、こんな絵である。
 
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『He Tore Himself in Two (From the story Rumpelstilzchen) by David Hockney - Google画像検索』

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 いまや、リビングレジェンドのデイヴィッド・ホックニーは、プールの絵とかが有名なのだけれどご存じでありましょうか。写真をコラージュして、ひとつの画面に多重の空間と時間を閉じこめる手法で名をはせたりもした。

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『david hockney joiners - Google画像検索』

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 最近では、ソフトウェアを使って微妙に世界の時間軸をずらすとか、よくもまあそんな歳になって若かりしころと変わらずふわふわしたところをとらえようと毎日を送っていなさるなあ、なんか悟ったりとかないの? と訊きたくなるが、近ごろホックニー先生はこんな言葉が好きだという。

「絵は老人の芸術」

 テクニックと、観察眼と、詩心と。
 大事なのはそれらであって、パッションとか、パワーとか、ましてや性癖とか野望とか狂気とかはあんまりいらないものなので、老人になるほど純粋な絵描きスキルは上がるということであろう。まあ、そういうことを言う時点で、哀しいくらいに自分が失ったものは取り戻せないと理解している裏返しでもあり、それこそが年老いた賢者の得る悟りなのかもしれない。

 ついこのあいだ、ホックニー先生は、とある大御所作家を名指しで「アシスタントにほとんど作らせた作品に自分の名を冠するのはどうなのか」とケンカを売って新聞にも載っていた。で、自分の展覧会で「これらの作品は作家ひとりで描きました」とパネルをつけた。本気で腹立たしく思っているのか、営業活動なのか、そのあたりが読めないのが、二十世紀の混沌を生き抜いた秘訣なんだな。

 しかし、そのニュースを読んで、私は思い出す。あのアンディ・ウォーホルがシルクスクリーンで有名になったとき、感情を差し挟まず大量生産できる手法こそをアートだと呼んだウォーホルに、彼は共感したのではなかったっけ。ウォーホルのアクリル画は、たとえばユニクロのTシャツにもなっているスープ缶を「ただ描いた」ものが有名だけれど、ホックニーは、ウォーホルがキャンバスに写真をスライドで投影して、それをなぞり描く……いわゆる「トレース」……をおこなっていることを擁護し、それどころかそれはダビンチの時代からおこなわれてきたものだとの自説まで後年には言いはじめ、いまの彼は、まさしくそれでもそこにアートは存在するのだということを証明するためのように、ソフトウェア出力した映像に、独自のホックニータッチで筆を入れて作品を完成させている。

「な? けっきょく最後に描くのは作家なんだから」

 つまりは、そこがホックニーの地雷みたい。
 静観と爆発の分岐点。
 トレースしてもなぞるのは自分なんだから、おれの絵。
 アシスタントが描いたなら、それは別の話。

 でも、その分岐点も確固たるものではないのかもしれない。いまや億の値がつくウォーホル作品が、ウォーホル自身は「元ネタの写真を選んだだけ」というものも多いのに、ホックニー先生は怒らない。ていうか、なにせ自分もポップ革命の一員だとか呼ばれることがあって、なにより、いまの地位を築いたのは、まぎれもなくエッチング作品によるものなのだから。
 そのあたりが、よくわからない。
 たぶん、本人もよくわかっていない。
 それもまた詩心?

 エッチングというのは一種の版画で、銅を腐食させたり傷つけたりして、そこにインクを流しこんでプレス機で印刷する。私もかつて美大生だったときに授業で習ったが、確かに味わい深い絵ができあがることは認めるけれど、なにせ金属を腐食させる液だとか、バーナーだの、プレス機だの、個人で管理するにはおおげさなものが必要で、当たり前だが銅を溶かす液は水道管だって溶かすし、飲んだら死ぬ。そういうことを考えると、ふうんこんな技法があるんだなあ、という以上の熱は私の身のうちでは起こらなかった。授業で刷った作品は小洒落たフレームにでも入れれば普通に売れそうな出来だったが、額装さえ面倒であれはいったいどこへしまったのか捨てたのか。

 とにかく、エッチングは、ひとりでは、できない。
 一枚の銅板で百枚刷るのがエッチングで、そこにアシスタントは不可欠で、大判ともなれば工場生産といってもいい。
 彼の原点だって、そこなのだ。

 ホックニー先生も、最初は学校で習った。

 今回の展覧会で、グリム童話と並んでの目玉展示だった『放蕩者の遍歴』というシリーズは、最初の三枚を授業で描いて、それを見た先生に「本にできるよ、一冊ぶん描いちゃいなよボーイ」と言われて八枚になったというものである。

 これが実に演劇的。
 いや、もともと『放蕩者の遍歴』はストラヴィンスキーが作曲したオペラで、いかにも二十代の絵にハまりだした世界を斜めから見たい病の患者が好きそうな物語なのである。タイトルの通り、金持ちのボンボンが、女でも仕事でも失敗して飲んだくれて逝くという救いのない話で、しかし、そのストーリーこそが、成金を笑い、あいつら息子の代で滅ぶぜ、という庶民の側からも、うちら成り上がったし、息子どもがどうなろうと知らんし、というブルジョワの側からも、ケラケラ笑いながら観られる劇になっている。

 それをホックニーは、いかにも小馬鹿にしたタッチで描いた。
 先生も、その若造の作品を見て、なるほど、この話を世界を斜めから見たい病患者に描かせると過剰にブラックで笑えるなあ、と感じて、本にできるぜ、などと口走ったのだと思う。

 ともあれ、それがデビュー作である。
 で、ホックニーは次の題材を探す。
 少しばかり、野心もあったかもしれない。

 グリム童話を選んだ。
 挿絵を描いて、文章もつけ、グリム童話として売る。

 『6つのグリム童話』
 
Six Fairy Tales 

 本になっていまだに売れ続け、その原画見たさに車で二時間の距離を走る私みたいのが日本にいたり。いざ会場に行ってみれば、幼子に読みきかせを行っているママたちと、話が怖すぎるうえに意味不明すぎて、帰りたいようと泣きじゃくるちょっと年長さんたち。
 もくろみは成功している。
 グリムを冠すれば、ヒトの目を惹ける。

 グリム童話というのは、ドイツの田舎に伝わる味わい深い小話を集めたものであって、グリム兄弟が創作したわけではなく、言ってしまえば日本昔話のようなものである。というわけで、日本の昔話にもよくある、わけのわからんところがおもしろくて語りつがれてきた、という性質のものが少なくない。グリム童話は本当は怖いとか、エロいとか、そういう本もいっぱい出ているけれど、田舎のおっちゃんやおばちゃんに聞いて出てくるような話は、たいていの場合、ブラックな内容を含んでいるものである。

 日本でいえば、鬼、とか。さすがに子供に語り聞かせるときには、ツノが生えた怖いのがくるぜべイべーと舌を出して怖がらせる絵本にもできそうなソフィスティケイトぶりだけれど、大人のあいだでもそれが語り継がれてきたとなると、実際のところがまじってくる。多くの民俗学者さんも多分そうだろうと言っているように、鬼は差別を受けていた山奥の鍛冶職人だったり、流れ着いた異人さんだったりした。

 というところこそが、グリム兄弟もおもしろかったのだろう。イタい話やエロい話が初版ではごっちゃに詰めこまれていたのが、いつしかやっぱり多くの人に読まれるうちに都会的な洗練を与えられていったと聞く。とはいえ。なんかわけわからんし、心がざわざわする、という部分が、近代では絵本になって売られてさえいる洗練されたバージョンのグリム童話のなかにも残っている。

 堕落していく男を笑うデビュー作からの成長路線。オペラの次はグリム。
 で、若きホックニーが選んだ六編がそれ。

「あめふらし」
「めっけ鳥」
「野ぢしゃ(ラプンツェル)」
「こわがることをおぼえるために旅にでかけた男の話」
「リンクランクじいさん」
「がたがたの竹馬こぞう」

 ↑これらの邦訳タイトルは、和歌山県立近代美術館の表記を丸写ししたもの。グリム童話はグリム兄弟の聞いて書いたそれの著作権は消失しているものの、さまざまな言語で訳されたそれぞれには著作権があるので、そのあたりをまんまコピペってわけにはいかない。しかしまあ、美術館ではホックニー作品を前にしてアナウンサーさんが子供たちに読みきかせするというイベントが開かれたらしいが、それは情操教育的に平気なのかと良識ある私などは心配になってしまう程度には、ホックニー絵本バージョンのグリムも総じて暗黒混沌面を残した物語構成になっておりました。

 やたら王子が死ぬし、やたら子供がさらわれる。
 性的虐待と、肉体的苦痛のオンパレード。
 そのあたりをやわらかく煮込んだグリム童話ではなく、あえてハードなエッジを残し、エッチングという版画に即興を盛り込みたいという野心的ヤングホックニーは、かなりちからまかせで、ま、これでいいんじゃね? 的なノリで描いている。前述のように、銅版はなにかと手間がかかるのだ。いわば、大金かけて大勢のアシスタントを用意した漫画家が、さて描くか、とペンを握り、え、ちょっとそれ一般受けしないんじゃないの? という作品を殴り描きはじめたようなものである。

 ちなみに、冒頭の自分で自分をバラバラにした小人の絵は、この数年でもオークションで何枚か落札されていたが、金額はどれも日本円換算で十万円前後だった。同じ絵が、百枚ある。むろんそれはその後のディヴィッド・ホックニーあってこそなのだけれど、あの小人の絵で、一千万円が稼げるのだから、当時だれが「なんだこれ」と言ったにせよ、その行為は正解だった。というか、正解ではないけれどやりたいからやったその行為を意外にも賞賛するヒトは多く、それこそが彼の評価へとつながっていったわけだけれど。余談だが、私の尊敬は別にしていない恩師は、新聞紙に穴を開けた作品で世界的評価を得たヒトである。アートっちゅうのはそういうもんだ。やったもん勝ちであり、そもそも勝とうと思ってやっていなかったりすることが評価されたりする(新聞紙をバカみたいに貼り重ねた板に絵を描こうと思ったのは、単にキャンバスを買う金がなかったからなんだけどな、と公言している輩が大学で「絵」を教えているというのだから、別にその大学に通わなくったってあなたにもわかるはず。芸術とは無駄。無駄に人生を費やしたいと心底思ったりするのは、一種の病気)。

 知らないヒトもいるかもしれないので、ヨシノギアレンジで「がたがたの竹馬こぞう」を物語ってみよう。「がたがたの竹馬こぞう」というのは邦訳では有名なタイトルなのだけれど、そもそも意味不明な妖精の名前(無理から訳すと「いえゆらしのがったがたたん」みたいな感じ)を、竹馬とか小僧とか言ってしまうと別の生き物みたいなので私は好きではない。日本の同じような妖怪のことも「家鳴り(やなり)」と呼ぶように、ここはそのポルターガイスト妖怪に具体的なイメージは付け加えず、かわいく「がったがたたん」と私は呼びたい。
 あんまり見ない感じの、がったがたたん視点でいってみよう。

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 がったがたたんは、恋をしました。
 その娘は、ワラの詰まった小屋に閉じこめられていて、がったがたたんがその小屋を揺らしても、ぜんぜん気づかない様子で、いちにちじゅう、ワラを手にとっては、ため息をついています。

 がったがたたんは、しびれを切らして娘の前に姿をみせました。

「なにしてんだ」

 娘は、チビでブサイクすぎる、がったがたたんを見ても、おどろきませんでした。
 がったがたたんは、恋心をスパークさせます。

「こたえろ。なにしてんだ」
「王様に、このワラをすべて黄金に変えろと言われたの」 
「できるのか?」
「できないわ。でもパパが王様にできると言ってしまったの」
「パパは頭がおかしいんだな」
「そうね。私を、王子様に嫁がせたくて、おかしくなったんだわ」
「けっこんするのか?」
「これを黄金に変えられるなら」
「さっき、できないと言った」
「できないわ」
「けっこん、したいか?」
「そうね。私もパパも嘘をついた罪で首を切られる。それよりは」

 がったがたたんは、三秒悩みました。
 で、ものすごくいいことを思いつきました。
 がったがたたんは、女の顔とカラダにしか興味がありません。
 中身は、どうでもいいのです。
 それに、がったがたたんは、年をとりません。

「おれが、黄金にしてやろうか」
「このワラを? できるの?」
「そのかわり、やくそくしろ」
「なにを」
「おまえが最初に産む子を、おれがもらう」
「もらうって……」
「女でも男でもいい。おまえは自分に似た子を産め」
「私に? それは……似るんじゃないかしら」
「いいか?」
「いいわ」

 どうやら頭が良くない娘のようでした。
 がったがたたんにとっては願ったりなことです。
 がったがたたんは、ワラを金に変えてやりました。
 それから毎日、たのしみに暮らしました。
 時間など、がったがたたんには意味のないもの。
 あの娘に似た女か男が年老いて死ぬまで。
 いったいどれくらい、なにができるか。
 たのしみすぎて身が破裂しそうです。
 そしてその日が来ました。

「もらいにきた」

 娘は、黄金の髪飾りを頭につけていました。
 ちょっと老けていました。
 しかしその腕には、赤ん坊が抱かれています。
 娘は、わからないようでした。
 あいからずの頭の悪さです。

「おれだ。最初の子、もらいにきた」

 娘は気づきました。
 悲鳴をあげました。
 鎧を着た騎士がぞろぞろとやってきます。
 がったがたたんは、城を揺らします。
 がったがた。がったがた。
 
「やくそくだ!!」

 がったがた。がったがた。

「おれのだ!!」

 がったがた。
 赤ん坊が泣きはじめました。
 あろうことか、母親である娘も泣き出しました。
 がったがたたんは、城を揺らすのをやめました。
 まったく、ひどい話です。
 人間は、やくそくを守りません。

「わかった。泣くな」

 思い出しました。
 この娘は、頭が悪いのです。

「この子をつれていかない?」
「三日まつ」
「三日たったらつれていくのね」
「おまえがおれに勝てば、つれていかない」
「勝つ? なんの勝負で?」
「名前を当てる。おれの名前だ」
「三日で?」
「そう。やくそくしろ」
「いやよ」
「おまえには城の学者もついている」
「わかったわ」

 とことん頭のネジのゆるい娘でした。
 がったがたたんは、城の屋根にのぼり笑いました。
 学者は、がったがたたんのことを知りません。
 がったがたたんは、三日まてばいいだけです。
 三日ならば、娘もやくそくを忘れないでしょう。
 がったがたたんは、歌いはじめました。

「♪もうすぐガキはおれのもの~」

 ベランダから、合いの手が飛んできました。

「もうすぐ、だれのものになるの?」

 笑いながら、がったがたたんは答えました。

「がったがたたんのものにきまってんだろっ!!」

 見下ろすと、娘が笑っていました。

「あなたの名前は、がったがたたん」

 がったがたたんは。
 自分で自分をふたつに引きちぎりました。
 それでも足りずに、もっと細かく。
 やがてちぎるところがなくなってしまいました。
 ちぎっていたじぶんもなくなってしまいました。
 がったがたたんは、消えました。
 がったがたたんのなげく声だけが、空に残りました。

「いっぱいいろいろやりたかったのにっ」


 吉秒匠 『がったがたたん』

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 だれかイラストつけてくれますか?
 自分で描くのは面倒くさい。
 面倒くさい以上に、この物語と向き合うのは重たくてイヤ。
 グリム童話でもよくあるモチーフで、世界的に見ても、童話にはこの手の展開はありがち。

 追いつめられたとき悪魔が現れ未来に産む子供を要求する。

 深く想像するまでもなく、これはひとりめの、本当はふたりめかさんにんめの子供に、そっと語ったことがマトリクス。

「おまえには、ねえさんがいたの」

 そんなこと、言わなくてもいいのに。
 言わずにいられないのがヒトのサガ。
 いまでもあれを罪だとは思っていない。
 だってあのときは、ああするしかなかった。
 そうしなければ、私たちが生きていけなかった。

 そこここで語られる似たそれは、やがてプロレス劇化(真実を装飾することで説得力を増し娯楽として成立)される。
 死やそれに準ずる飢え、幽閉。
 現れる悪魔。
 私は子を売る。
 産まれてからなのか、産まれる前になのかは同じこと。
 
 特に、避妊や中絶を罪とする教義がこの世にあることを、信者ではないけれど知ってはいる文化圏では、悪魔の誘惑は熱く語られることになる。
 死にたいのか?
 いや、おれに差し出せ。
 だからそうしたの。
 しかたなかった。

 ルンペルシュティルツヒェンは、いつでも最後にミスをして、人間はそれにつけこんで、約束をたがえる。否、たがえてはいない。名前を当てたら赦される決まりだったのだから。みずから手にかけることさえせず、物語のなかで悪魔は悪魔自身で破滅する。
 プロレス劇化されたルンペルシュティルツヒェンの物語に、世界の毒を知りはじめた年頃の子供たちは、よろこぶだろう。追いつめられたヒトに交換条件なんて突きつけて調子に乗っているから自分で自分を殺すはめになったのだと。けれど大人は、涙ぐむ者もいるだろう。いいえ、悪魔は命を救ってくれた、人生を成り立たせてくれた、かわりに奪ってもいったけれど、それを悪と呼んでしまうならば、私はなにもの?

 悪ではない、と自分の子供に語っては聞かせられないから。
 おもしろおかしく、演出して語るしかない。
 ちょっとひどくて悪趣味で間抜けなルンペルシュティルツヒェンのキャラ造形は、ヒトの心にある罪悪感の裏返しである。

 先進国で、生物学的な繁殖期に選んで子供を産む人類は減った。
 それは逆説的には、選んでルンペルシュティルツヒェンに、差し出したということ。
 ルンペルシュティルツヒェンの物語のプロレス劇化は、これから先、まだ変質していく可能性があるだろう。

 若かりしホックニーの描くコビトは、怖い。
 むきーっ、と世界でなく自分を破壊する。
 ほら笑え、とホックニーは描いている。

 おなじマトリクスで私も書いてみた。
 私のがったがたたんは、無常になってしまった。
 時代だろうか。私の性質、人生のせいか。
 がったがたたんは自分の半身を求め、もうすぐそれが叶う予感に驚喜して自滅する。
 私は、そのがったがたたんに共感している。
 そして娘は生まれた子供と末永くしあわせに暮らしました、かつて追いつめられた自分のことを救った悪魔は消えたから。
 めでたしめでたし。
 そうは、書けなかった。
 この物語に出てくる、人間を私は嫌悪している。
 がったがたたんは、たぶんよみがえってまた同じことをする。
 いつか、彼を愛してくれる人類が現れることを祈りたい。
 なんとなくだが、がったがたたんのベッドでのテクニックはものすごそうな気がしたりする。

 ホックニーが選んだグリム童話。
 なるほど、いろいろ考えてしまった。
 即興をくりかえし刷る、という行為に魅せられていた若き日の巨匠が、わけのわからない、でもなんだか奥になにかある、そういう物語たちを描くことにした理由が、わかる気がする。
 売れる、ということは。
 すなわち、わかりやすいということ。
 でも、グリムは。
 その兄弟が、世間にある種「売れて」語り継がれてきたものとして集めた物語たちは。
 わかりにくいのに、語り継がれてきた。
 いまでも、なんだか惹かれる。
 その、わかりにくさこそに。
 理解できないけれどやってしまっていることが、自分の人生にも多すぎて。

 画家が売れるということを考えつつ、でも、もう半分は、銅板を腐らせて絵を描いて、おれはなにを探しているんだろうと日々思っていたに違いない、青臭い、矛盾した、あーくっそ、なんだこれっ、というじゅくじゅくした爆発が、そのコビトの絵にあった。

 いい絵だとは思わない。
 ただ、好き。
 忘れられない。
 そういうことを、つぶやきたかったんだけれど、140字では足りなかった。
 そんな補足の話な今回でした。

 泣く子供たちがうるさかったが、有意義な展覧会で、学芸員のおねえさんが、黒ずくめの革スーツ姿の私が熱心に覧ているうしろで、その子供たちを注意すべきか、でもこの展覧会は子供たちに読みきかせもやっているくらいでそれなのに出て行けとかいうのはちょっと……な感じで逡巡し続けているのが、むしろ気になってしかたありませんでした。気をつかわせてすいません。

(良い展覧会だったが、企画展のチケット買ったら入れるはずの常設展が、ちょうど入れ替えで入れなかったのは、むきーっ、てなった。和歌山県立近代美術館、行ったのはじめてだったのに。だったら百円でも安くすべきだと思うのな。金額の問題でなく。そう、気持ちの問題で)

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『DAVID HOCKNEY: 公式サイト』

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 生み出したキャラクターは、もう創造者のものではなく、それを愛したすべての人たちのものだ──偉大なるおこないは、観客を得た時点で、もう演者だけのものじゃない──その姿がだれかの勇気となったとき、その姿はもう、だれかにとっての祈るべき十字架であり、その十字架を建てただれかが、祈るだれかの信仰を理解できないとしても、すでにそこに十字架のある以上、建てた本人にさえ蹴倒す権利なんてない──十字架を支えるのがしんどくなったなら、そっと消えればよかった。残された十字架に、人々は建てただれかの偉大さを思い、そこからまた絶えることのない勇気を得ただろう。

 吉秒匠 『 『とかげの月』/徒然: 『凶獣クリス・ベノワのクソ凶行』のこと。

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 あれから五年が経つ。
 事件はその直後、事件であるということが確定したときから、意図的に人々の記憶野へのインプットを遮断する措置がとられた。
 所属団体の公式サイトからプロフィールが消え、すべての販売アイテムが消え、世界最大のエンターテインメントスポーツ団体を自称するだけのことはある、迅速かつ徹底した観客へのサービスがテレビ放送でも実施された。

 そのことにはふれない。

 昨日までスーパースターだと崇めていた、チケット完売の壮大な興業に神のごとく舞い降りる彼を待ち望んで眠れなかった。
 観客たちは、そんな自分を軽蔑したくはないから。
 顧客サービスとは、客の要望に応えることである。

 そうして、クリス・ベノワは戦わず、演じず、凶獣とも呼ばれず、Tシャツは一枚も売れず、DVDも発売されなかったことになり、そのサービスは、拍手こそなかったものの、反論もなく受け入れられた。

 ただひとり、元人気プロレスラーにして、自身が脳しんとうで引退へと追い込まれたことで、いまでは「スポーツ脳しんとう被害」研究の第一人者と呼ばれるようになったクリストファー・ノウィンスキーが、空気を読まない行動に出た。

 マイケル・ベノワへの接触である。

 マイケルは、クリスの父だ。
 ノウィンスキーは言う。

「息子さんは、プロレスラーとしての長いキャリアで、数え切れないほどの頭部強打を受け、ときには演技ではなく現実に失神することもありました。その脳は、深刻なダメージを負っていた可能性が否めません」

 イナメないどころか、彼の試合を観たことのあるものなら、だれもが確信している確定済みの事実。それをあらためて確認するのは、サービスではない。しかし、いまやエンターテインメントスポーツ業界のスーパースターではなく研究者であり医療コンサルタントであるノウィンスキーは、マイケル・ベノワをうなずかせた。

「解剖しましょう」

 果たしてそれは為され。
 結果発表。

「クリス・ベノワの脳は85歳のアルツハイマー患者とよく似た状態でした」

 そうですか。
 プロレス業界は、選手の負う脳のダメージについて真剣に考えなければいけませんね。
 アメリカンフットボール選手を含むスポーツ業界の人気選手数名は、自身の死後にノウィンスキーのチームによる解剖をおこなうという書類に同意のサインをしていると伝えられている。
 すべてのスポーツの健全化、安全化への研究のために。

Head Games

 しかし、クリス・ベノワは。
 だれが見たって、そんなことを望まない男だった。
 今日死んでもいいとさえ考えず、ただ会場の盛り上がりだけを望み、そのために使われる自分の肉体は、観客のものだとさえ感じていた。頭部を強打して、意識が飛び、それを繰り返し……そういった選手人生のなかで、自身の寿命が延びているなどと思うほうがどうかしている。まぎれもなく毎日が脳をスカスカにして、死期を引き寄せている。
 演じることよりも生きることが大切ならば、練習生の時期に業界を去っていて当然である。それは逆説的に、彼が選んだということ。

 もちろん、本人が選んだなら客のために脳をスポンジにしていいわけではない。もっと安全な魅せかたはないのか、業界は頭を絞るべきである。

 ノウィンスキーが言いたいことはそれだろうし、解剖結果を聞いたマイケル・ベノワの出した声明も、それに沿ったものになった。

「事件の原因は脳の損傷にあったのかもしれない。
 息子はすでに灰になった」

 そうですか。
 85歳のアルツハイマー患者によって家族が惨殺されたというケースはあまり聞かないが、同等の脳状態になった40歳ならば、凶行におよぶ体力があるのでやってしまったというのだろうか。

 息子は灰になった。
 父は原因はスポンジ化した脳にあると信じた。
 それはそれでいい。
 頭を打ちすぎたから殺人者になったという推論は、裁判所で認定されるものではない。だが、灰を裁くわけにはいかず。
 認めたくはないが、かつての彼の観客の側にも、そういった意識がある。

 殺されたのは、彼の妻と息子。
 どこかの他人ではない。

 心中は家族の問題。

 五年前にも書いたことだが、私は愛しあい目的を共有した夫婦が、どちらかの一方的な暴走にせよいっしょに逝ったのは、家庭の事情の領分に含まれると思う。けれど、息子は血のつながりがあったとしても、すでに次の世代であり、父だろうが母だろうが、彼の人生に一方的に介入するのは許されない。

 ダニエルは、窒息させられたとき薬品の過剰摂取で意識がもうろうとしていたはずだという話も聞くが、それらの情報も含め、事件のその後は、ほとんど伝わってこない。

 それなのに、なぜ私がいまこれを徒然と書いているかといえば、クリス・ベノワの所属していた団体のすばやい措置により、事件当時の公式発表までもがウェブ上からは抹消され、おかしなことにこの極東のさらに末端のちっぽけなサイトでぶつくさ言っている私の日本語でのブログを、英語圏から探しに来る人が日々絶えないなどということによる。私が読んだもとの英文ニュースは消え去り、私の書いた邦訳だけがここにあり、それをまた英語に訳して読んでいるヒトがいる。

 もちろん、カタカナで「クリス・ベノワ」と検索するヒトもいる。
 それをググると『とかげの月』は、トップページに表示される。いま現在、この国でベノワのことを思い出して「あれ、そういえばいつのまにどこに消えたの? 引退とかあったっけ?」とインターネットで検索をかけ、ひどいタイトルのブログに目を通すヒトは10人から20人。『とかげの月』の上にはWikipediaが表示され、そこにも当該事件のことは記述されているため、それを読んで満足するヒトが倍くらいはいるだろうか。だとすると、だいたい50人前後が、毎日「クリス・ベノワ」について調べようと試みていることになる。

 私は、それをかなり多い数字と見る。
 『とかげの月』の全体の文章からすると上位にくる検索ワードではないけれど、毎日10人を越すならば、たぶんそのうちの数人は、クソだのなんだの書かれたブログで、現実を知るのである。

 ほぼ一週間だった。
 一報が報じられ、解明が進み、すべてが削除された。
 その一週間、プロレス中継も、ニュースもたまたま見なかったヒトはいっぱいいて、ときどき思い出すだけだけれどクリス・ベノワの大ファンだというヒトも絶対にいる。

 そうすると。
 そんなふうに書きながら。
 私が、彼らの崇める十字架にクソを塗りつけている。
 そういうことになる。 

 いや、わかってはいる。
 そんな真似はしないが、私が私のブログを消去したところで、クリス・ベノワはそっと消えたことになどならず、この地上に多言語インターネット網があるかぎり、二十年前のように「この選手、いまはどこでどうしているのか知らないけれど、この試合のときには神だった」と目をキラキラさせ続けることなど、できない。私は、いま、とある日本人歌手の曲をかけながらこれを書いているが、そのヒトは薬物四法の違反で逮捕されたことがある。行き詰まり、ラリった頭で書いた曲に、私は感動し続けているわけだ。
 二十年前の映画のなかで近未来だった社会に私たちはいて、今夜観る舞台に出演する役者のプライベートを、いっさい知らないなどということがありえなくなってしまった。あわてて消しても、ニュースは永遠に残る。伝えたメディアさえ判読できないどこかの国の難解な言語に変換されて、わけのわからないタイトルで論じられたりするのを、止める手だてなんてない。

 どこかでだれかが意味もなく死ぬのを知りたくなんてない。
 でも、地球の裏側の小さな町の戦闘の詳細まで私たちは知り得る。
 偉大なるエンターテイナーの凶行を知ってしまう。
 黙っていてくれればいいのに。
 五年も経って、一発検索で現実を知る。

 私は別に私を責めはしない。
 しかし、私はあいつに失望した、あいつはクソ野郎だ、といま自分で読みかえしても歯がみするそれを、へーそんなことがあったんだー、とまったく別の「熱」で読んでいるのだろうだれかのことを、ログ解析の数字を見て毎日のように思う。
 この出来事自体を、考えることもなく考えることがある。

 大きな十字架が、丘の上に立っている。
 それを探しに来るヒトがいる。
 私は、そこにいなくてもいいのに、そっと横に退いて、十字架を見上げて感涙するヒトを黙って見ていればいいのに……

「この十字架を建てたやつはクソ野郎になっちまったんですよ」

 と呟きはじめる。 
 酒屋でたまたま隣に座った旅人に、町外れの洋館にまつわる悲惨な怪談話を勝手に喋り出す、気色の悪い白ヒゲの老人のようだ。

 だからなんだということでもない。
 そんなふうに感じる、というだけ。
 記憶とはやっかいだ。
 好きだったヒトに対する記憶は、特に。
 当時とは、微妙に変わっているが、大きくは変わっていない。
 忘れかけているということなのか、でも、だれかが彼の名を検索するたびに、私は思い出すのだ。忘れようがない。写真立てに、愛したが逝ってしまっただれかの写真を入れているみたいな気分になるときがある。彼のことをそんなふうに扱いたくはないのに。

 わかったこと。
 ラリって書かれた曲も、良い曲なのは変わらない。
 リングの上での生き様を思い出すと鼻にツンとくるが、いやあいつは最期にそういうことを、と打ち消す、でも、おぼえている。

 十字架は、変わらずそこに在る。

 五年経って、それこそがひどく悔しい。
 蹴倒す行為にも蹴倒されていない。
 泥だらけで傾いているが、消去はされていない。

 時間は。
 怒りや悲しさを薄れさせるが、虚しさを変質させない。
 ため息が出て。
 すっきりしない。
 五年経ってまだなら、きっとこの先も、ずっと。

Blackcracker

黒は色ではない。
そう教わった。
白も色ではない。
色ではないのに黒や白の絵の具が売っている。
あれは真実の黒や白ではないのだという。
真実の黒とはいっさいの光が失せた状態であり、
真実の白とは光のみに満ち満ちた状態である。
そのように表現すると黒よりも白がよさげだが……
いや、どっちにしろ、なにもない。
黒や白でなにかが埋めつくされているのではない。
色とは光である。
色とは観察者の抱く感想だ。
きれいな色の光。
地球の夕焼けは赤い。
火星の夕焼けは青い。
しかし、光がゼロ、もしくは光のみ、
そんな状態では、なにも見えない。
見えていることを知覚できない。
感想はないはずだ。
ただ、世界を奪われたと感じる。
なにもない黒か白に、ひとりぼっち。
色どころか、生きる意味もない。
絶望さえしようがない。
なにもない場所には、自分さえない。
自分が黒や白なわけはないので、
世界が黒か白であるということは、
私自身は、いない。
いないのに視ていることになる。
そんなことはありえない。
そう……ありえない。
黒も、白も、ありえない。
絵の具の色は、ありえないものを真似ただけ。
疑似表現。
愛を愛とか、憎しみを憎しみとか、
形にできるはずのない感情を、
言葉に置きかえるのと同じ。
しあわせ、と聞いて、しあわせ、を想う。
それは想像。なにも確たることはわかっていない。
黒や白は、そういうものだと夢見るだけ。

「たくみさん、好きだから」

と、黒いクラッカーをもらった。
確かに私は黒を好む。
黒い食べ物の味が好きなわけではないが、
黒が好きだから黒いのを食べさせてあげる、
という気持ちはうれしい。
食べながら思った。
黒いんだが。黒いから。
ほのかな焼き目に魅入ってしまう。
無を意味する黒なのに舌に落ちる味を感じる。
色とは、あいまいな光のなかにだけあるもの。
黒い背景の絵を好むのは、あいまいな色を、
もっと、激しく目に入れたいからなのかも。
黒い服を着るのは、あいまいな色を……
心を。
あいまいにしたくないからなのかも。
真実ならば、黒に浮かびあがる色などない。
けれど言葉遊びのなかにはそれが許される。
黒いクラッカー。
ぱきっっと囓る。
無を食べている?
ううん。だって、黒なんて色はない。
だから、ある。
疑似の黒に浮かぶ、あいまいなはずの激しい色が。
想像上の、けれど視る者にとっては真実な。
それが好き。
たぶん、きっと、そういうこと。

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 はっきりおぼえていないので銘柄は出さないが、最近売られている「バター風味のマーガリン」の開発チームへのインタビュー記事で、こんな話があった。

「目隠しをしたスタッフに食べさせて、バターと区別がつかなかったんです」

 それでイケると確信しました、みたいな。
 そのインタビュー記事を読みながら、私は某テレビ番組でやっていた実験のことを思い出した。

 高速道路のトンネルの中でメロン味のかき氷を食べるとイチゴ味になる、みたいな。

 言うまでもないが、それは、トンネルに設置された赤色灯が、かき氷を赤く見せるからである。しょせん、かき氷のシロップは作られたフルーツ味。同じ原理で、たとえばイチゴポッキーがミドリ色をしていたら、ほとんどのヒトはそれがイチゴ味だと感覚できないはず。

 暗闇でコース料理を食べるという「クラヤミ食堂」というイベントに参加したかたのブログを読んだことがあるが、見えないと、チキンがチキンであることさえわからないのだという。

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『こどもごころ製作所 クラヤミ食堂』

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 ということを考えると、目隠しして食べて違いがわからないなどというのは、単純にどっちの味もよくわからない状態になっているのではないかと邪推してしまうのだが、日々、バターに近いマーガリンを食べ続けていたヒトなら違うのだろうか。

 これも某バラエティ番組で、彼女が彼氏のカラダの一部でそのひとを判別できるか、というのをやっていて、全身を隠してジーンズの尻だけを出した男十人ほどを、彼女はまじまじと観察していたのだけれど。

 当たらなかった。

 その彼女が言った言葉が、耳に残っている。

「カタチっていうか、肌の色がないとわかんない」

 至言である。
 男だろうが女だろうが、人種さえも関係なく、同じ人類なのだから脂肪のつく場所は似ているし、同じように鍛えれば同じように筋肉がつく。生まれつきの要素が大きい顔のパーツや、指の形などということだって、実は、判別できると思っているだけではないか。

 顔に、ペイントをするプロレスラーがいる。
 塗るだけで、別キャラである。
 観客に別人である錯覚を植えつけたいのなら、マスクをかぶればいいのだが、歴史上、顔面ペイントのみのレスラーというのは多い。それはすなわち、それだけで充分に観客がキャラ変更を納得するからなのだ。

 いまはもう入手できないが、古き良き時代、大ヒットした映画で、黒人の娘に恋をした白人青年が、肌を黒く塗ってアプローチするという物語があった。ハイデフ映像時代のいまなら、観客もさすがに醒めるだろうが、当時のアナログな粒子の粗い画面では、そういうことも可能かもしれないなあと思えた。いまの感覚だと、現実に目の前の恋人が顔を黒く塗っていて「同じ人種の仲間ね」と彼女が信じるという脚本そのものが侮蔑を含んでいることに気づくが、二十世紀では、そこにこそすべての人類は同じ種なのだというメッセージが込められているととらえられ、映画館に詰めこまれた全員が、ふたりの恋の行方に息を飲み、感涙した。

 肌の色の違いを障壁ととらえていたからこそ、世界中のひとがそこにロミオとジュリエット的なものを感じて涙したのであって、まだまだ人種のあいだには溝があったということの逆説的な証でもある……などと言っている二十一世紀でも『アバター』でヒトは泣くのだから、次の世紀で青くて大きな異星人と恋をしていることが当たり前になっている未来人から見れば、私たちなんていまだ心の狭い原始人である。

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 しかしまあ、原始人なりに、我々の感性はひとむかし前に比べれば進化しているのだという解釈もできるのであって、食はエロに通じると言った偉人がいたが、肌の色の違いにむしろエロを見る柔軟さをもった今世紀の人類にとって、食もまた同じ。

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 「黒食」という言葉さえある昨今である。
 言われてみれば、黒ゴマや黒豆なんかがカラダに良いというのは昔からの話だし、黒砂糖とは違う白くない茶色系の砂糖は新陳代謝を活発にするとか(こういうことを店のPOPに書くと役所からスーツのヒトがやってきて怒られます。それはしかたないけれど、個人ブログでもグレーだと聞く。でも、医薬品でないものの効果効能をうたってはいけないというのは、徹底しすぎると、あれはなんだかそれに効くらしいという噂話が噂話の域を出ないままに流布され、だれも検証せずに口コミで使用者を増やしていくから、それもまた危険なことだよなあと思ったり。あたしイチゴポッキー食べると肩こり消えるんだよねえ、とか、あえてつぶやくことによって、なにそれ化学的根拠はあるのか調べてみなくては、というオタクどもが動き出して健全さがたもたれるのではないかと)、黒酢を飲めばホルモンバランス改善だとか、なんとなくだけれど、黒っぽいもののほうがカラダに良いというのには説得力がある。

 コピー用紙は、安いものほど白い。
 これがトイレットペーパーになると、最廉価品はリサイクルだと宣伝するくらいで、茶色がかった色をしている。でも、同じようにリサイクルの紙をつかった安いコピー紙は、目が痛くなるくらいに白い。トイレットペーパーは文字を書くためのものではなく、コピー用紙には文字が書かれるからそういうことになる。すべての製品の品質を安定平均化させるためにはコストがかかる。だけれども安いコピー用紙はそこに金をかけられないから、思いきってすべてを漂白する。

 That's All Whiteである。
 白く塗りつぶせ。
 それがいちばん安上がり。
 自然な紙の色は、純白ではない。
 そもそも樹木を粉砕して作るのだ。
 白すぎては不自然だ。
 湖に泳ぐ白鳥も、本当に光学的に純白だったら、私たちは見たとたんに叫ぶだろう。

「合成だ!」

 白は色ではない。
 自然界に完全無欠の無垢なる純白はない。
 だからこそ、ヒトは純白を好む。
 車の買い取り価格は絶えずホワイトが高値だし、黒人もイエローモンキーも、花嫁はクリアホワイトな衣装をまとう。
 純白な都市の映像は、ただそれだけで行きついた未来の都市だと想像させる。

The Island

(『アイランド』、世間的な評価は高くないけれど、私は実にツボにはまった好きな作品です。純白都市の映像のきれいさも忘れがたいけれど、根本的に私、ふたりで逃げるという話が好きみたい。それも愛とか正義とか無関係に、ただ追われるから逃げるってやつが。それこそ人生だ)

 だからこそ、不自然なまでに漂白された世界に来てみれば「この黒っぽい米は玄米っていうんだぜ漂白していないんだ、実は、この米のほうが栄養があってさ」という話に聞く耳を持つようになる。

 余談だが、母の実家が米農家で、送られてきた玄米を私ももらうことがある。半分とって、半分うちのに精米してきてくれる? と頼まれ、私は玄米が主食なのでそのまま自分の家の台所に運び、残りの半分をコイン精米に持っていって、実家まで運んだら、父が怒った。

「上白精米しただろ、これ」

 もったいない、栄養が、というのである。 
 主食が玄米の私にとって、だったら玄米で食えというところだ。私が白米を炊くのは、おもに寿司のためである。さすがに玄米でシャリはない。黒っぽい寿司なんてグロい。すなわち白米とは、栄養を無視しても美しさと食感を楽しむための、嗜好品。
 わざわざ精米するのに、中途半端にヌカを残すなど具の骨頂。

 私の父のように、漂白された生活が当たり前のものになってしまうと、でもちょっとくらい茶色いほうがカラダに良いのでは、とか、そういう発想が出てくるのですな。なにか違う。

 黒いクラッカーには、竹炭がまぜてあるという。
 つまり、もとは白いクラッカーだった。
 炭に味はない。
 栄養はあるらしいが、微々たるものだろう。
 もっぱらその黒は、魅せるためのものである。

 先日、ジョージ・ルーカスの娘、アマンダ・ルーカスが総合格闘技のチャンピオンになった。日本で試合がおこなわれて、私もテレビ中継を観た。むかしから観ている団体なのだが、アマンダのおかげで取材陣も殺到する盛りあがりぶりで、ああ私も会場に行きたかったなあとうらやましく観た。

 観たのだが。
 アマンダの入場で、あの曲がかかった。 
 The Imperial March ( Darth Vader's Theme )。
 だーんだーんだーんだだだーんだだだーんだーだーだーだーだだだだーだー

 ほんで、ダースーベイダー卿、登場。
 観客は固唾をのむ。

 続いて、アマンダ・ルーカスが入場した。
 彼女のテーマ曲にのって。
 会場に失笑が走る。
 ダースベイダーが、立ちつくしている。

 ルーカスの娘だ、ベイダーを出すんだ。
 出した、終わり。

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『ルーカス娘アマンダが無差別級初代女王に/リング/デイリースポーツonline』

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 いかにもとってつけた演出で、でも、ないよりあったほうがよかったのは事実で、嫌がらなかったアマンダにも拍手を送りたいし、なにより、プロレスや格闘技で見慣れた花道で、まったくなんにもできずに立ちつくし失笑さえかっていたのに、ダースベイダーの純黒の姿が、とてつもなくまぶたに焼き残ったということに感動した。
 かっこいいとか悪いとかではない。
 黒いのだ。
 それが目を惹く。
 そして、それで充分なのである。
 バットマンも全身黒だが、彼はマスクマンなので口許が見えている。
 しかしベイダーは。
 ただ黒い。
 スターウォーズを知らなければ、ヒトかロボットかも区別がつかない。
 黒すぎて、唯一無二。
 闇を見て、そこに夢想で描けるキャラクター。
 もはや闇そのもの。
 黒は色ではない。
 黒とは、光のない場所。
 見ている自分さえ、いない無。

 フランスでは、新作の公開にあわせて、黒いダースベイダーバーガーが発売されたと聞く。隣に並んでいるジェダイバーガーが目を惹かないことは明らかだ。ネタならば、魅せるためだけの食品ならば、ジェダイバーガーのほうも目が痛いほどの純白に漂白すべきだった。

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『French Fast Food Chain Offers Dark Side/Light Side Burger | Walyou』

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『ピープルVSジョージ・ルーカス』 公式サイト

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 黒いクラッカーの味はどうでもいい。
 私にくれたあのひとも、めっちゃうまーい、なんていう感想を期待したわけではない。
 私はダースベイダーバーガーが食べたい。
 不健康になってもいい。
 黒いから。
 黒いのが食べたいから。
 その不自然さがエロいから。
 不自然なことをあえてするという行為は、一種のプレイだ。
 栄養を考えれば精米なんて必要ない。
 いまの炊飯機は、玄米もやわらかく炊ける。
 だから精米するならもっと白く、透明になるまで磨くといい。
 それは色ではない。
 黒は。白は。
 現実には存在しない、愛でるための、記号。

 だから私は黒が好きだ。
 祖父が逝く前、真夏に黒ずくめで病室に現れた私に対し、死んだと思って準備してきたのか、と言った。
 笑っていた。

 想像上の、けれど視る者にとっては真実な。
 そういう色は、自分が色を越えたところに立たないと、視えない。
 夜中に闇と同化したころ、眠れない目を凝らせ。
 そのときねっとりゆらゆらとした世界に、気づかなかった鮮烈なスパークがほとばしっていることに気づくかもしれない。
 きっと狂気に近い。
 でもそれが、見たい。
 それは現実に存在する色と呼べるものだろうか。
 それとも、炸裂する感情の白き影にすぎないのか。
 ダースベイダーは、たぶん、見たはず。
 
DARTH VADER