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 黎明期のパソコンなんてのは、そうたいしたことができるわけでもなかったのだけれど、プログラミングをおぼえはじめたころ、だれでも教材としていちどは使うライフゲームを私も一生懸命作ったものだった。

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『ライフゲーム』のこと。

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 たとえば、手頃なサイズのこんなのをちょっと触ってみて欲しい。

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『John Conway's Game of Life』

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 いくつか適当にドットを打って、スタートすれば、ジェネレーションを重ねるにつれて、ルールに沿った生命のいとなみが模される。

 私はもっと大きなサイズを動かせるソフトをときどき、起動させてみることがある。綺麗な大画面に、ドットが踊る様子は、指さし確認で画面上のドットがぜんぶ数えられたころとは、別のシミュレーションソフトを見ているみたいな気がする。



 死んで動かなくなった集団は墓標となり、どこまでも進んでいく孤独者はどこにも行きつかない。そのゲームをなんどか繰り返すと、なにか虚しさがこみあげてくる。生命とは動かなくなるまで動き続けるだけのことかと信じてしまうのだ。

 でもまって。

 ライフゲームは、これだけ世界中で愛好者がいて、拡張されたソフトも星の数ほど生まれたというのに、そこから別のなにかが生まれたという話は聞かない。生命の進化を模したゲームなら、それは動かし続ければやがて進化を遂げなければ嘘である。でも、当たり前だけれど、画面からなにかが出てくる気配はないし、踊るドットたちが、唐突に迷ったかのような逡巡の舞いをみせることもない。

 厳密なルールのもとで動くから。
 そのルールが単純だから。
 だからなにも生まれないのだろうか?
 でも、ルールが複雑化したところで、生命が出遭って争うか抱きあうかして次世代を生んで死ぬのは絶対で、そのくりかえしのなかで出遭わなければ動かなくなるし、抱かなければ争いになって滅び、増えすぎてもまた動けなくなるというのは、けっきょくのところ単純化されたライフゲームのルールとなんら変わらない。

 変わらないのに、いろんなイキモノがいる。
 ニンゲンもいる。

 たぶんそういうことになったのは、なにかあったからなのだ。
 傷、だったり。
 歪み、だったり。
 変わらざるをえない、壁、だったり。

ルール。

● 誕生
● 維持
● 死滅

 それをいくら複雑化させたところで、変わることはない。
 ならば、私はなぜここにいるのか。
 どうして、ルールにのっとって生まれるかそのまままか死に絶えるかせずに、その途中でグダグダと考えていたりするヒトなのか。
 なにかあったのだろう。
 いつか、ずいぶん昔に。

 突然変異が進化をうながす。
 のだとすれば、外的要因があったから変異は起きるのであって、整然とマスゲームをくりかえすゲームオブライフな点々たちへ、どかんと降ってきたそれこそが知的生命体のみなもとだ。神のフライングボディアタックと呼べなくもないが、ただたんに床が崩れてまっさかさまとかいう事故だと考えるのが適切だろう。意志ある生命が生まれるのに、別の意志ある生命体の意志が関与しているなどと考え出しては、話がややこしすぎていけない。

 ともあれ、変異したにせよ、ライフゲームが終わったわけではない。私が考えているのも「維持」のあいだにおこなっていることで、それは天の巨人からの視点ならば、なんだかうごめいているドットが瞬いているけれどLEDバックライトが切れかかっているのだろうか四万時間の寿命などというのは嘘か、といったくらいのことなのかもしれない。

 ──そんなことを。
 イーガンの短編集を読みながら思った。
 今回のは、そういう話が多いのだ。
 宇宙について考えさせられてしまった。

 長編『ディアスポラ』の一部がもとは短編だったという。その一篇『ワンの絨毯』が、いちばんの楽しみだったのだけれど。期待以上だった。むしろ、これは短編で読むべきものだと感じた。オチがわかっている状態で読んでさえまた「おぉ」と唸ってしまうくらいだから、もしも『ディアスポラ』を未読のかたがおられれば、ぜひとも『ワンの絨毯』を先に読んで欲しい。一回読んでわからなかったら、わかるまで読みかえして欲しい。わからないのは、知識がないからではない。イーガンは、わからない者にもわかるように書いている。その世界が、炸裂するビッグバンのように理解できたとき、あなたは生涯、サイエンスフィクションというジャンルから逃れられなくなる。
 あまたの受賞歴を書きたてるまでもなく『ワンの絨毯』の完成度はえらいことである。最後の数行の問いかけは、別に目新しい思想でもないのだが、その短編の最後に問われると……

 私は夢を見た。
 悪夢だった。
 宇宙というよくわからないもの。
 その姿を具体的に考えつづけてしまうと、ヒトは恐慌状態に陥る。
 起きているうちは理性でおさえていたのが、眠ったら夢になって襲いかかってきたのだ。

 心からこの一冊をお薦めしたいのだけれど、着想に重きをおくSF作品では、肝心なところを語るとネタバレになるので、ヒトに薦めるのはとてもむずかしい。
 たとえば『クリスタルの夜』の設定くらいはいいだろうか。

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 連中は人間と対等な存在ではない。いまはまだ。
 そして、もしダニエルがためらいを覚えるようになったら、いつまで経っても対等になることはないのだ。


 グレッグ・イーガン 『クリスタルの夜』

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 いまよりもっと容量が大きくて、速くて、ライフゲームに神のフライングボディアタックをかましておきる突然変異のその先まで計算できるコンピュータが完成したから、ダニエルは、はじめてしまった。
 超ライフゲームである。
 たぶんこれは、将来起こらないわけがない出来事だとだれでも気づく。ファミコン世代の私はライフゲームにさえ感動したものだが、そこから四半世紀もたたないうちに、自宅でCG映画が作れることになってしまったのだし。

 で、超絶速いパソコンのなかで、超速で進化するライフゲームを走らせる。突然変異の進化もありなので、ダニエルはためらってはいけない。人間と同等の知的生命体にまで進化させたいのだから。そりゃあもう、アダムとイブを残して全生命体抹殺とか、宇宙怪獣襲来とか、良い感じに進化しそうなのを見つくろってさらに厳しい環境に放りこむとか。でも、そうしないと進化しないことを私たちは知っている。神の思し召しなんかではなく、地が割れるただの事故のくりかえしのなかで、犠牲に犠牲を重ねてヒトはヒトになりえたのだ。

 が、まあ、その続きは読んでいただくとしよう。
 バレでもなんでもなく、そこではダニエルが苦悩するターンがやってくる。
 ライフゲームのドットを殺すのは罪ですか?
 ていうか命ってなに?
 次の新作RPGでは、街の人たちが勝手に学習して人間っぽい動きをしてくれるよ、なんていうのはいま現在すでに実現していることなのですが。その街の人を育てて、あげく私はゲームをクリアしたら二度と起動させることもない。起動させないなら、街の人にとってなんでもないことだろうか。

 でも、いま、ぶちっとこの私の宇宙の電源が切られたら……

 宇宙は風船のようなものだという。
 いまも膨張していることは証明済みらしい。
 ふーん。て。
 いや、膨張って。
 どこで?
 その宇宙たる風船は、どこに浮かんでいるわけ?
 と問うと、いや宇宙とは風船の表面であって、我々も星々もみんなそこにあるから膨張する宇宙の表面でそれぞれの距離は離れて行きつつあるのだよ、とか。
 はい? 表面、て!?
 じゃあ風船のなかは?
 宇宙の外は?
 なに、外とかなかとかないの?
 どうなってんのそれ。

 そしてますます思うのです。

 このメモリ宇宙。
 神のモニタ。
 なんであれそういう限界の先を想像できないのって。
 だって、偉い学者さんでさえ宇宙の外とかよくわからんとか平気でいうし。
 それこそが、証拠じゃないのん。

 ルールにのっとって、誕生と維持と死滅をくりかえす狭間でかすかにまたたいている。
 私はドットだ。
 点だ。
 点というのも、点と定義されてはじめて点なのであって、だれも見ていないのなら、ただ無為に走らされ続けている単純なシミュレーションソフトの計算結果の一瞬である。
 ここに在る、とかそういうものではない。
 在るようでないような仮想の点。
 そんなもんが、なにか考えるとかいうのは百歩ゆずってともかく、怒ったり悩んだり愛したり切なくて叫んだりとか、片腹痛い。

 こんな複雑な世界が、シミュレーションのわけがない?
 でも、こんな複雑な、と思ってしまう時点で、かなり私の想像の限界点って低いと思う。
 歴代の人類たちも、せいぜい神とか宇宙人とか。
 いやそうじゃなくてさ。
 メモリ宇宙の外の観察者っていうのは……
 ああだめだ、観察「者」とか、視点とか言いだしたら負けている。
 そうじゃない、ちゃんとしたそういうのが想像もできないって、ほらやっぱりここは走らされているプログラムのなかってことなんじゃないのか。 

 って泣きたくなる。
 ここはまぎれもなく私の宇宙。
 でも宇宙って、すべてを含んで宇宙というらしい。
 宇宙の一部が私。膨張しているのに外もなかもない、つまりはぜんぜんよくわかっていない宇宙の一部だなんて、私とはなんと謎な存在。
 遺伝子とかゲノムとかいったって、RPGの古文書みたいなもの。
 伝説の剣が抜けたらその世界は大騒ぎだけど、しょせんモニタのなかのこと。
 いま目の前に見えているあなたも、私と同じ宇宙の一部。
 ここにあるのかどうかも判然としないドットだ。
 ドットに萌えるとか腹立つとかありえんし、マジで。

 グレッグ・イーガン読むと、しばらくはそんな感じ。
 おすすめ。
 
Greg Egan
 
 彼の公式サイトは、時間を忘れます。
 心がやさぐれたときなどに訪れるとよい。

 たとえば今回の短編集の表題作『プランク・ダイヴ』のページ。

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『The Planck Dive - Cordelia's Tour』

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 だんだん近づいていったらブラックホールはどう見えるか。とか。
 ページの上のほうにJAVAのアプリがあるんですが、これで星の数めっちゃ増やしてブラックホールツアーに向かうと、きれいとかそういうこと以上に、宇宙に現実に虚無があるっつーのはどういうことだと考えてしまう。作中では、ツアーの参加者たちはコピーされた人間で、本体は生きているんですけれど、コピーの体験を本体が共有できるわけではないので、だったら虚無に飛び込んだコピーの意識のほうが、きっとなにかをつかんで高尚な次元に行ってしまうのではないかなあ、なんて。
 それもまた、ライフゲームのドットを殺す罪の話に似ています。

 私はコピーなんだからつまんない世界でだらだら生きるより、ブラックホールに飛び込んで見たことのない光景を見て死ぬわ。でも、そのコピーもコピーでそんなこと考えられる本体の私と同じくらいに賢いのだからいっこの知的生命体といえるはずで。だったら死んでいいのか。自分だからいいのか。いや自分でもダメだろう。でもそもそも自分でやれない体験をやるのに作ったコピーなのに制限があるというのも意味がなく、コピーはいまでも考え続けているけれど、生きた人間ではないからライフゲームのドットのようなもので、好きにしてよいのかも。
 いや。いやいや。

 なんだかんだと。
 8ビットのマイコンでライフゲーム作って見入っていたときもそれはそれで感動だったけれど、二十一世紀に生きて、ライフゲームのドットの生存権利について考えるなんて、夢にも思わなかった。
 ある意味、進化は間違いなくしている。
 無駄なこと考えられるようになったというのは人類の余裕だと信じたい。
 いやほんとに誇張ではなくて、あと何十年か生きていたら、家庭用ゲーム機で走るゲームだって、いまの私には想像もつかないことになっているにちがいなくて、それってどんなのだろうと考えたっていまの私にわからないから未来なんだけれど、宇宙の一部たる私が時間の前後まで想像しているということは、たぶん、そんなもんを越えた三次元、四次元のまた先があるので、やっぱり未来はわからないのでたのしみなのである。
 そのたのしみだけで、生きるに充分あたいする。

 生きていてよかった。
 生きつづけよう。
 どうせドットだし。
 膨張する宇宙がぱんっとはじけるところまでは生きられないだろうけど。
 ブラックホールの向こう側が見られるなら、ダイヴしてもいい。
 しているんだと思う、このドットの人生。
 進行方向はルールが決めるが、見るのは私だ。
 私の宇宙を、たのしめるだけ、たのしむのである。
 仮想でもコピーでも、感じている本人には、それが宇宙。
 ここが私の宇宙。
 居心地は悪くない。



Doroyaki

某お好み焼き店で出されている。
姫路名物「どろ焼き」という。
ネーミングはイマイチだ。
というのも、聞いて想像するのは、どろっとした生地だが、
むしろ、その店の通常お好み焼きの生地こそがそういう感である。
この料理は、もっとやわらかい。
店も認めているが、これは明石焼きである。
なんとダシまでいっしょに出てくる。
あのあたりの海の町で生まれた私にとって、
明石焼きはタコ焼きとは別物。
もちろん、家でタコ焼きするときにもダシは必須。
しかし前にも書いたが、
生地は明石焼きよりもタコ焼き風。

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『たこ焼きの配合』のこと。

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入りまじっている。
ちなみに赤穂方面は父の故郷だが職場はずっと大阪で、
母は広島のそれも奥まった牛農家の生まれであり、
私は、お好み焼きも大阪と広島の折衷案だったりする。
キャベツやネギは生地にまぜない。
でも、生地はたっぷり厚めに焼く。
つまりは美味ければいいのである。
私は私の味が好き。
で、この、どろ焼きだが。
キュートな逸話がある。
某お好み焼き屋の店主が子供に泣かれた。
「ぼくお好み焼きなんてキライッ。
タコ焼き食べたいっ」
教育のなっていないガキである。
姫路の家庭には、大阪のように
一家に一台タコ焼き器があったりしない。
しかしまあ、お好み焼き屋だから材料はある。
というわけで。
店主は明石焼きの生地を作ると、鉄板で焼いたのだという。
つまりこれは、でっかい明石焼き。
重力に負けてつぶれているが、気持ちは球体なのだった。
スプーンですくってダシにつけて食べる新感覚
とか店のPOPには書いてあるけれど、
どろ焼きを頼んでスプーンがついてきたことはないので、
マヨネーズ同様、頼まないと出てこないものなのかも。
(多くのお好み焼き屋でマヨネーズがテーブルになくて、
声をかけてと貼り紙がしてあるのは、やっぱり、
マヨは言うても邪道やけん、という認識によるのだろうか)
ええ、最初っから「某」お好み焼き屋
なんていう書き方をしているのは、
私は、店のウリのどろ焼きを、
積極的に人に勧める気はないからです。
私のタコ焼きレシピでさえ、ダシ一リッターに対し、
小麦粉がカップ一杯ほど。明石焼きはさらにダシ割合多め。
どろ焼きも言わずもがな。
大きな具が入っているわけでなし、
推定小麦粉量50グラムといったところでしょうか。
薄切り食パン一、二枚程度のもの。
ぜんぜんおなかに溜まりません。
お好み焼き屋に行って物足りないとかあるかー。
ビールのアテにも、なんかねえ、とろんとしていて。
茶碗蒸しをつまみにしろって言われているみたいで。
けっきょく、これは大人数で鉄板を囲み、
「いろいろたのんでみようか?」
という場面でだけ頼むべきものです。
もしくは、お好み焼き屋でタコ焼きが食べたいと泣く
しつけのなっていない子供がとなりにいるときにだけ。
そう、どろ焼きは教えてくれるのでした。
タコ焼きの丸さには意味があるのです!!
タコ焼きはつまみになりえます。
だって丸くて小さいから、つまめるのですよ。
単純な真理を、不細工な、どろ焼きに見る。
私はネギ焼きにキムチ豚トッピングでお願いいたします。
もちろんソバも入れて。鶏唐もあるの?
じゃあそれも。大ジョッキおかわりで。

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 とはいえ、食べた以上は身につけたいもの。
 記憶の残っているうちにトレースします。

 どろ焼きの作り方。

 もちろんいつものごとく、簡略の極限を目指して。
 私の食べた感じ、おそらく長芋もベーキングパウダーも入らない、正統明石焼きの分量で生地は作られていると思われました。で、ひかえめながら各種調味料で生地自体に味をつけ、ダシにつけて食べるのが本道。けれども、休日のおやつにダシ汁とか上品すぎるので、今回のレシピでは生地に味をつけず、ソースと青のりでいただくことにします。

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○材料

水 カップ1(200cc)
ダシの素 小さじ1/2
卵Lサイズ 1個
薄力粉 大さじ2

 具は適当。
 今回は実験的おやつサイズということで、千切りキャベツに冷凍コーン、ニラに紅しょうが。本格的にビールのあてにするなら豚バラとかベーコンとか入れたいですね。

Doroyaki2

○作り方

Doroyaki3

↑生地の材料をあわせ、泡立て器でしゃかしゃかしたところに、具材投入。これ固まるのかよ、というような、トロミなどまったくないミルクセーキに具を沈めた的状態ですが、これでいいのです。

Doroyaki4

↑熱めに熱したフライパン(コンロのセンサーが反応したので250℃くらい)に、分量外の油大さじ1をたらし、塗りひろげたら、まず生地だけをどぼどぼ入れます。

Doroyaki5

↑30秒経ったらば、まんなかにボールに残った生地のからんだ具材を置く。このあとじっと我慢です。触ったら失敗します。相手は壊れやすい、やわ肌の色白くんだと認識しましょう。クレープを焼くように、即座に固まるほど薄力粉を入れてはいませんから、生地が具材をくるめるようになるためには、「焦がす」必要がある。逆説的には、焼きすぎて固くなってしまうことはありえませんので、焼けた端がめくれあがって、成形できる状態まで中火から弱火で見極め続けてください。というか、焦がさないかぎり、この分量の生地がバタービーターで返せるようになるはずがありませんから、端をつついて崩れるうちは傷をひろげないように接触厳禁。

Doroyaki6

↑あとは具材を包みこむように形作るだけです。むずかしそうですが、しっかり焦げ目つくまで焼くことだけ気をつければ、少なくとも私は、はじめて作ってこのカタチにできました。

Doroyaki7

 そして食べるだけ。
 完成です。

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Doroyaki8

↑食べはじめたところ。

 お店のように、スプーンやレンゲで食べたほうが食べやすい、みごとなやわ肌。スプーンですくってだし汁につけて食べるスタイルをとるなら、キャベツはみじん切りがいいかも。まあ、なんにせよ、きれいに食べることはむずかしい食べ物です。パーティーで出すより、ふたりきりの休日のおやつで彼に作れば「熱っ、うわ、くずれた」ごめんテーブル汚しちゃったよ、とか、もうほっぺたにまで生地がついていてるじゃないくすくすっ、みたいな幼い一面を見られる料理であります。箸で食べるなら、最終的にすするしかないですから。作る相手は選びましょう。

 ひとりおやつとして作ってみるなら、店で食べたときと同じ感想。ファミレスのランチでごはんはかならずラージサイズを頼むくらいのガタイの人(私)の場合、上記レシピのどろ焼きを食べて三十分で空腹感を取りもどせます(笑)。考えてみれば、実質、卵一個と、小麦粉30グラムですから。上にかけたお好み焼きソース(って砂糖が主成分なんですよ)のほうがカロリー稼いでいるくらいです。

 というわけで。
 作ってみましたが。
 感想は変わらず。
 同じ材料があれば、ふつうにお好み焼きを焼きます。
 あえてどろ焼きを食べる理由がない。
 やはり逸話の通り、これはタコ焼きが食べたいのにタコ焼き器がないというシチュエーションで目先を変えて子供を泣きやませるための料理なのです。だとすれば、タコ焼き器がありすぎて困るくらいな大阪地区の場合、一生、あえて食べる必要性がありません。
 姫路にもタコ焼き器が普及していれば生まれなかった名物。
 と書いてみると希少価値が高そうですが、これも作ってみればわかることに、お店の側からとっても、明石焼きなら五人前くらいの材料を使わないと冒頭写真サイズのどろ焼きは作れないのに、焼くのはじっくり待つ必要があるわ、だからといって明石焼きの五倍の値付けができるわけでもなく。
 そりゃあ、本家から派生してほかのお好み焼き屋でも常設メニューになって姫路の名物から全国区へ……なんてことにならないはずだなあ、と納得なのでした。

doroyaki

 泣く子のために鉄板で明石焼きを作ってみせた。
 その物語を食べる料理です、これは。
 美味いまずいっちゃあ美味いんですが、だがしかし。
 壊れやすくて強く愛しすぎることができない。
 食感通りのメニューなのです。
 どろ焼き。

(余談ですが。
 今回のどろ焼きがのっかっている鉄板は、去年、牡蠣を焼いていたのと同じダッチオーブンの蓋です。

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『牡蠣を焼く』のこと。

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 ステーキ皿なんて目じゃないくらいに分厚い鉄の板ですから、食べ終わるまで熱々(湯気がすごかったので、今回の写真は冷ましてからソースをかけて撮りましたが)。普段の料理に使いはじめたら、使わない週はない。ほんとダッチオーブン最強。わたくし的には、どちらも家にないなら、タコ焼き器よりも、一家に一台鋳鉄ダッチオーブンを勧めたい)

doroyaki

↓なんちゃってお好み焼きを作るゲーム。
 iOS用。おひまならどうぞ。







 ジョブズさんが逝ってしまった。
 いや、私はMac派ではないが、いまの友人関係も美大からつづくものが多いので、根っからのリンゴ好きというかもうそれでしか絵が描けないという連中がびっくりするほどの割合を占め、彼らの信仰心めいた偏愛を見ていると、なんとなくの選択で電脳世界に入り込んだ自分などヌルいなあと思ったりもする。

 最初にさわったキーボードはPC-8801で、ベーシックプログラムの基礎を学んだのはファミリーベーシックとMSXだった。それからそんなこんなでパソコンは使い続けていたものの、モノを書きはじめたのはまだパソコンがマイコンと呼ばれていたぎくしゃくした機械の域を出ていなかったころだったから、ワープロ専用機の軽快さと比べるべくもなく。
 私のなかで、パソコンはゲーム機の一種だった。

 そして十代の終わりごろ、シリコンバレー戦争はインターネットで地球を覆い、ネットゲームというものに触れはじめた私が、ホームページを作り出したのは、セガのゲーム機であるドリームキャストでだった。物心ついたときにはキーボードを叩いてスーパーマリオのパッチモンを作ってはきゃっきゃ言っていた小僧は、成人してテレビにつないだゲーム機がインターネットにつながれたとき、本当の意味で「世界もプログラムで動いているんだ」ときづいたのだ。

 ひとつひとつの積み重ね。
 たとえば画面にマルを描きたければ、プログラムとは、中心点を設定し、そこから等距離にドットを打つことをパソコンに命令すること。ベーシックとか、C言語とか、ぎくしゃくした機械に噛んでふくんでわからせるような単純な命令の積み重ねを延々と書き続ける行為をオモチャにしていたファミコンMSX世代の私は、パソコンがぎくしゃくしなくなって、ゲーム機で当たり前に世界の裏側の人とリアルタイムで対戦できるようになったときも、そんなふうに感じたのだ。

 どこの国の国語辞典だって、ハンディサイズのものがある。
 そして、そこに収録されているの千分の一も単語を知っていれば、死ぬまで会話に困ることはない。みんながものを考えるのも、その程度の言葉をよりどころにしていて、頭のなかではとてもとてもいろいろなことを考えていて、この私の想いはだれに伝えたって伝わらない、という哲学者のように深い思考を持つ人だって、しょせんは言葉で考えているのだから、それが他人に伝わらないということはけっしてない。伝わらないのは、自分が言葉にできないことだけであり、言葉にできない時点で、それは自分の中でもちゃんと考えられていない形を成さないものなのだから、伝わらないという訴え自体が幻想だ。自分でわかっていることは、ちょっとの言葉で伝わる。

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 『ハヤブサ』のこと。
at 2000 04/23

 その昔、ハヤブサというレスラーがいた。
 プロレスラーである。
 いた、といってもそんな昔の話ではなく、別に彼は死んだわけでもない。
 彼は、仮面を脱いだのである。
 ……そう、彼はマスクマンだった。
 そしてマスクを脱いだ。
 昨年の話だ。
 いま、彼は『H』という名で素顔のレスラーとなっている。
 今日、そんな彼のインタビュー記事を読んだ。
 まだハヤブサだったころのもの。
 そこで彼は言っている。

「ハヤブサの人気に嫉妬を覚える。
中で頑張っているのは俺なのに、
自分は無名のレスラーなんだ」

 ……そういった意味のことを。
 そして彼はマスクを脱いだ。
 しらない人のために言っておくが、
 ハヤブサは大変な人気レスラーだった。
 それを彼は捨てたのだ。
 「俺」を太陽の下へ出すために。

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 このサイトのどこかにある、現在諸事情により縮小運用中の小説ページに、このブログ『とかげの月・徒然』のバックナンバーが置いてある。
 置いてあるといっても、2000年のものの、そのまた一部だけである。
 当時、某エモンさんなどの例もあり、淘汰の時代に突入していたネットサービス業界では、毎週のように無料ブログが撤退だとかいって引っ越しを余儀なくされ、これはもう自分のサイトのフリースペースに置いておくのが一番安心だなと考えたのだが。その後、安定の時代に入り、どこのサービスでも写真を貼りまくれるほどの容量を用意してくれるようにもなり、当サイトでもブログは<鏡>と銘打ったミラーをひとつ作っているが、それを作ったころから、すっかりブログサービス停止だとかいう話も聞かなくなった。ので、消えてなくなることをそう気にすることもなく、容量不足でむかしのブログを消さざるをえなくなることもなく、だったらログを大層に保管しておくこともないなと作業は中断してしまったのですけれども。

 そのバックナンバーログ倉庫。
 先頭に置いてあるのが、上の『徒然』である。
 なんだかシンプルだ。
 それを書いたころにはまだ、ブログという言葉が認知されてはいなくて、インターネット日記とか、そういう呼びかただった。『とかげの月』というサイト名もついていなかった。ゲーム機であるドリームキャストで、日記が書けるんだと知り、ゲームの一種として書いている。だったらもっとプライベートなことをつぶやけばいいのに、電脳の大海原だ、だれかが見ているかもしれん、と中途半端に読者を意識しているところが、かえって「だからなんなんだ」という内容である。
 恥ずかしい。

 けれども、これは、私にとっては、意味ある日記だった。

 昨夜。
 晩ご飯は、栗ごはん(栗は、家で採れたとUSJスタッフのマイコさんがくれたものだった。ありがとう。余談だがこのあいだ我が家に遊びに来たマイコさんは、スピーカーの下に飾ってある大きなスパイダーマンのポスター(『1』のDVD販促用のものを私が額装した)と対峙して「あらあ」と顔をほころばせていた。訊けばこの夏は、ワンピースの担当だったとか。嫌いじゃないんだけどねえワンピース……という呟きに、資本顧客至上主義にのっとって海賊にのっとられていたらしい、夢の国の船員たちの複雑な心境が覗けました。チョッパーにガキどものっとられたクッキーモンスターの中の人なんて、裏で泣いていた夏だったんだろうなあ。想像ですけど)と、鶏肉と大根の煮たのと、味噌汁に、焼きサンマだった。秋の食卓だ。もちろん私が作ったものではない。私は、栗や蟹や柑橘類など、食べるのに手間がかかるものには手を出さない主義である。フライドチキンの骨さえ面倒なので唐揚げにして欲しい。そんな私は、死ぬまで栗ごはんなど作らないであろう。栗の木と稲しか生えていない無人島にでも流れ着いたら考えるが。いや、それでも稲を量産する方向で労力を惜しまない気がする。

 ともかく。
 ほっこりした秋ごはんを食べながら、テレビを見ていた。
 プロレスだった。
 私は食事前にそういったものを観はじめながら腕立て伏せだの四股踏みだのをはじめ、ひとしきり汗をかいてからメシをかっくらうので、食事中もそのまま試合が流れている。ことが多い、のではなく、例外なく毎日そうである。
 その日は、

『「仮面貴族FIESATA2011」
 ~ミル・マスカラス来日40周年記念試合~
「DEPO MART・10周年記念興行」
 ~聖地伝説~』

 という長ったらしいタイトルの興行が録画中継されていたものを流していた。ちなみに「仮面貴族」でググると神戸のソープランドがヒットするが、これはなかなか興味深い人類の歴史を表している検索結果だともいえる。私が観ていた「仮面貴族」はプロレスだが、出てくる選手の多くが仮面をかぶっている。マスクマンだ。そして多くのマスクマンは、仮面で顔は隠しているが、半裸である。ソープ嬢にいたっては全裸である。仮面好きは、仮面の下の素顔を想像したりはしない。仮面は仮面だ。顔が隠されているからこそ、あらわになっている肉体、その肌を観察し、表情が見えないからこそ、愛憎のすべてが見るものの感性にゆだねられている。ときに戦国武将が顔を隠す鎧を身につけているが、あれは、怒りの形相よりも、敵にとっては恐ろしく見えるものだ。同じように、観客はプロレスラーの仮面に無敵の強さを見出すし、ソープ嬢の仮面に存在しえない女神の無垢を見る。
 夢だ。
 仮面には、夢がある。

 というわけで、マスクを作って売っているDEPO MARTさんが、有名なマスクマンを呼んできて開いた興行なわけですが……ミル・マスカラス。『スカイ・ハイ』が流れてきたら、空飛ぶマスクマンがびゅんびゅんとそこらじゅうを飛びまわる幻覚を見るようになったのは彼のせいだ。

 
 
 しかし、ミル・マスカラスが全日本プロレスに参戦した当時、私はまだ生まれてもいないので、この興行でテンションが高まったのはマスカラスの闘っている姿にではない。

 ミル・マスカラスと、ドス・カラスのレジェンド兄弟に支えられながらではあったが、ハヤブサが、リングに立っているのを見たから。

 感極まって、栗ごはんをほおばりながら泣いてしまった。

 自分の足で。
 リングに向かう階段を、登ってさえいた。

 組長・藤原喜明が、ハヤブサをリングの上に呼び込みながら言った。

「大丈夫だ。プロレスラーだ」

 中で頑張っているのは俺なのに自分は無名のレスラーなんだと仮面を脱いだ、あのあと、Hは、ふたたび仮面をかぶってハヤブサに戻った。俺が無名でなくなるための時間をハヤブサは与えてくれず、ハヤブサが試合に出なければチケットが売れないという事情もあったのだろう。過密なスケジュールのなかで、空飛ぶマスクマンは、ミスをした。

 「月面宙返り」と書いて「ムーンサルト」と読む。マンガ『ゲームセンターあらし』で、ルビが「月面宙返」の部分に「ムーンサルト」と振ってあったせいで、いまでも私は「月面宙返り」という文字列を頭のなかで「ムーンサルトり」と読んでしまうのだが。
 その技。
 ハヤブサはコーナーポストに駆けのぼり、リングの側、すなわち自分の背後に頭からダイブした。見ていた印象では、おそらくコーナーの最上段まで登ったつもりでいたのではないだろうか。足を滑らせたようではなかった。自信満々に、コーナーの二段目あたりから、まるで最上段から跳ぶかのように、大きな弧を描いて跳んだ。
 飛んだが、着地点はすぐそこだった。
 回りきれなかった。
 いっそ、もっと回りきれずに頭頂部から落ちれば違っていたのかもしれないが、ハヤブサは、頭がコーナーポストの側に少し向いたところで、おでこのあたりで着地した。
 背中の側に、首が折れた。
 
 直後から全身麻痺。
 集中治療室を出てからも、首から下は動かなかった。
 車椅子の上でも、ハヤブサはマスクをかぶり続けた。
 失敗し、怪我をして、歩けなくなったのは、無名のレスラー「俺」ではなく、人気の絶頂にあった集客マスクマン「ハヤブサ」だから。引退もせず、だから藤原は言ったのだ。プロレスラーなのだから、大丈夫だと。

 アナウンサーが、連呼していた。

「あれから10年!!」

 ハヤブサは立っています。
 杖をつき、マスカラスに支えられてはいるものの。
 身振り手振りをくわえ、語っている。
 それで客を呼び、拍手をもらい、栗ごはんをほおばっている私を涙させるなら、そのハヤブサがプロレスラーでなくてなんであろうか。

 飛んでいた彼を、想いだした。



 Hからハヤブサに戻った直後に飛べなくなった。
 そのハヤブサが飛べないままにプロレスラーであり続けた十年。
 飛べなくなったときには、そのことについて書くことも、だれかと話すことも許されないような気がしていた。技を喰らってやってしまったならまだしも、あきらかな本人のミスで、それを見たとき観客の全員が頭のなかでつぶやいたのだ。

 いつかこうなるとわかっていたのに。

 客は求め、演者は与え。
 できないプレイまでこなそうとする。
 もはや悦ばせたいよりも意地のほうが強くて、こんなことになったのは自分のせいだと彼は言うのかもしれないけれど。
 それでも、いまでも。
 まだ飛ぶんだ、まだ飛べと。
 どちらも声をからし、やめることなどはなから選択肢に入っていない。
  
 大丈夫だ。プロレスラーだ。

 ハヤブサ、プロレス続けてんなあ。
 そう言いながらサンマで酒をあおって思うぞんぶん泣いたら、なんだか誇らしくなってきた。最初に書いたブログの続きを、十一年ぶりに書こうと思った。
 まわりのすべてが激変しても。
 演じるハヤブサは変わらず、私も変わらない。

 あいからず、たいしたことない日記ですが。
 電脳の大海原だ、だれかが見ているかもしれん、と読者を意識しての十一年は、もはや私にとっての日常で、恥ずかしいことではない。
 仮面の俺が飛べないのは俺のせいなのですが。
 仮面は、みずから脱がないかぎり、無表情なもの。
 すべては俺が感じている。
 仮面にはそれが出ない。
 いや、だから仮面は良いのです。
 だからHは、すぐにマスクをかぶりなおしたのです。
 
 その仮面にいちばん支えられているのは、ほかならぬ「俺」だ。



 立ちあがるハヤブサを見るだけでなんどでも泣ける。
 不謹慎な感想だけれど、これがプロレスの境地。
 作品を生むための生きざまこそが作品。
 失敗などない。