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Ayu

 父が釣りが好きで、私も幼い頃はよく連れていってもらったのだが、大人になってその趣味を身に宿すということもなく、我が家に釣り竿はない。近所に清流やダムがある土地なので、遠くから目の前の川に釣りに来る人たちがいたりもして、そういう方々から見れば、散歩で絶好の釣り場へ行けるところに住みながら、興味を示さないなんてなんて罰当たりなやつだというところかも。

 そんな私だが、鮎釣りはしたことがある。

 母の実家が広島の山奥なので、なんどか両親とともに訪れたとき、父の車に積んである釣り道具を借りて、じゃばじゃばと川に入ったりしたものだ。最近はまとまった休みがとれないので、めっきり訪れていないが(記憶がさだかなら、最後にあの土地を訪れたのは新婚の妻を連れて行ったときなので、ものすごい遠い話だ。ちなみに妻にとっては、広島の山奥で義理の父の釣り竿を借りて何匹か釣り上げたのが生涯で唯一の釣り体験らしい)、なんでも鮎釣りでは有名な土地なのだと聞く。

 鮎釣りは、友釣りでおこなわれる。
 友釣りとは、読んで字のごとく、友で釣る漁法のようだが、実のところそれは「友」ではなく「共」の字を当てたほうが正確なところだ。
 「共食い」の「共」である。
 「友食い」ではグロすぎるのに、友釣りの「とも」は「友」の字だというところが、釣りという娯楽をたのしむ人たちの、にへら笑いを表しているようである。

 釣り人は、広島の山奥などに行けば、道路沿いにアホほどある「友鮎」を売る店で、まず鮎を買う。ここからして、幼い頃の私を悩ませた。
 鮎を釣るのに鮎を買う?
 じゃあ、その鮎を焼いて食べればいいじゃない。
 そう訊くと、父は躊躇なく答えたものだ。

「釣りはスポーツだからな」

 そして、だから釣った魚は食べるなら持って帰ってもいいけれど、幼い魚なんかは川へ逃がしてやるのがマナーだというようなことを私に言って聞かせるのだった。おそらくは、無意識にであってもそれが未来の釣り人を作る教育だと信じていたのだろうが、そんな話を聞いているときの私の頭のなかでは、号泣こそが似合いそうな残酷なドラマが展開されていた。

 おとなはみんな巨人に釣られ、残されたおさなごたちは、針でカラダに穴を開けられて釣り上げられたあげく川に戻され、また別の釣り人に釣られる地獄を延々とくりかえし、ようやく自分もおとなになったころ、目の前で消えたおとうさんやおかあさんやおじさんやおばさんたちが、どうなったかを身をもって知るのである。
 すなわち、塩をすりこまれて焼かれる。

「鮎は内臓まで食べられるんだぞ」

 苔しか食べていないからな。
 虫を食べないから、エサで釣ったり、ミミズやハエに似せた釣り具でだましたりできない。
 そこで友釣りという技法が編み出された。

 苔が主食。
 ということは、住み処がすなわちメシ。
 結果、鮎は自分の場所を確保する。
 なわばり、である。

 なわばり、とは、まもるべきものを他者に触れさせないために形作られる個人的な聖域。必然的に、個人のなわばりが存在する社会では、言葉よりも実際的物理的な行動力が物をいう。ごたくを並べてこっちのなわばりをかすめとろうとするヤカラがいたとしても、実際になわばりが侵されるまでは、傍観していればいい。判断すべきは、物語の道筋ではなく、事実として読んではいけないページがめくられたかどうか。それが為されたとき、なわばりの王は、みずからが王たることを示すために、全身全霊をもって行動に出なければならない。

 暴力である。
 言葉は悪い。
 しかし、単純な問題に、単純な解決策を示せない者は王にはなれない。

(余談ですが、このあいだ会社の研修で、先生が言ったセリフが耳に残っている……「ちがいます。あきらかな示威行為がともなったとき、それはクレーマーではなく、ヤカラといいます」……ちなみに私は関西在住ですが、このあたりの商売人にとって、確かにヤカラさんはクレーマーさんとは別のイキモノ。なんといいますか、女性モノの薄手の服をはだけて着たおっちゃんとか。言葉が通じないことを見るからに示しているのです。真性の不思議ちゃんに真剣な愛の告白をされてしまったかのような、既知の知識ではどうしようもない怖さがあります。先生も、ヤカラだったら警察呼びましょう、と教えてくれました(笑・笑いごっちゃないことがそこかしこで起きているから、研修なんて受けているんですけれど)) 

 だから鮎は、友を襲う。 

 その友が、たくみに人の手で誘導されてなわばりに入り込んできた、透明な糸につながれた相手だなどとは思わずに。「友」であれ「共」であれ、敵ではないが、聖域を侵す行為は看過できない。そこで鮎が示す全身全霊の行為とは、刀で斬りつけたり拳銃を撃ったり、相手の喉笛を噛みちぎったりすることではなく、タックルだ。
 殺さない。
 ただ、自分のリングだと相手にわからせるために、ここはそんな簡単に獲れる場所じゃねえんだよと、本気のスピアータックルを放つ。友の肌に、肌をぶつけ、わかれよ、おれの居場所を奪う悪意になるのかよお前は、と。

 吠えて、泣きながら、肌をぶつけ続けていたら。
 いつのまにか、刺されている。
 友釣りで使う友鮎は、鼻に輪っかをつけて引きずり回せるようにされ、ヒレを貫いた針から別の針を伸ばされている。さながら、首輪をつけ脚輪をはめられ、重い鉄球をずりずりと引きずって歩く奴隷のごとく。違うのは、釣り人の技量でそこまで拘束された鮎が他者のなわばりを侵そうとするほど血気盛んな元気者であるかのように見せかけられていることと、脚輪からのびた鉄球につけられた針は、タックルしてきた友を傷つけ捕らえるためのものだということ。

 「おとり」を、いかに「おとり」に見えないように拘束しあやつって、友の敷地に侵入させ、葛藤の果て傷つけず追い出すためだけの裸のスピアーを放ってきた王を捕らえるか。
 それを、スポーツと呼ぶ。

 そうして獲った王は、内臓も抜かれず、焼かれる。
 ぼくに食べられるために。

 英語で、鮎は東アジア固有の魚種としてAyuとも表記されるが、Sweetfishとも呼ばれる。身が甘いからである。鮎の英語Wikiには「sweet flavour with "melon and cucumber aromas"」という記述があるが、私は青魚大好物のせいか、鮎にメロンだのキュウリだのといったグリーンフレーバーを感じたことはない。甘いっちゃあ甘いが、鮎が瓜科植物? 青魚苦手な人が青臭いというやつを、ガイジンさんも感じとれてしまうのか……でもだったらスウィートフレーバーなんて書きかたにもならないような。こういう感覚って、思っているよりもっと大きな幅が地上の人類のあいだだけでも存在しているのかもしれない。

 で、写真の鮎は、父が釣ってきて冷凍していたのをおみやげにもらって、家で妻が焼いたもの。父は確か「これはなんとか川の鮎なんだぜ」と言っていたので、広島ではないどこか鮎で有名な川で釣ってきたのだろう。まったくおぼえる気もなかったので頭に残っていません。
 しかしまあ、美味かったです。

 でもまあ、父が釣ってきた魚を食すたび、おとなになった私は、幼い私が釣りに興味をなくしていった過程を、反芻もできるようになってしまった。
 美味いから、喰うなら。
 網で獲ればいい。
 スポーツとしての狩りの獲物、というところに、なにか引っかかってしまう自分がいるのでした。いやまったく動物愛護主義者なんかではないし、地球は人間のもので、喰い散らかしてから火星に行けばいいと信じているのですけれど。らしくもない繊細な唸りがもれてしまうのは、苦いはらわたを日本酒で喉の奥へ流しこみながらも、幼い私がどこかで見ているからなのでしょう。

 だから釣りはしません。
 たぶん、釣りを好きな人がそれを好きな理由によって。
 すなおな自分。
 おさない自分などに、ひょっこり顔を出されたりするのは。
 怖いから。



 
 
 


 男たちの挽歌は『2』である。
 もちろん、昨年公開された韓流の続編が作られているらしいですよという話ではなく、オリジナルシリーズの話だ。
 『2』のなにが良いといって、チョウ・ユンファの格好良すぎないところ。『1』で死んだユンファの双子の弟という無茶設定は、いまでならいっそSFファン以外にも認知されるようになった量子力学的多世界の物語にしてしまったほうが現実味があるくらいだが、当時(80年代~90年代初頭)においては、アクション映画のヒーローとはヒットを飛ばせば次の作品もその次の作品も同じイメージで踏襲するのは当然だった。客も制作側も考えることの少ない娯楽映画向けの夢のようなシステムだったが、90年代にスティーブン・セガールの専売特許のようになってしまい、陳腐化した。

(もちろん専売特許なので、今年もセガール沈黙祭は続いている。だがしかしここまで量産されるとは予測していなかったのだろう、最近の邦題『沈黙の~』は、かなり強引です。『沈黙の挽歌』て……今後は『沈黙の咆吼』とか『沈黙の狂騒』とか『沈黙の爆音』とか、漢字二文字ならなんでもありになっていくに違いない。セガールって自分も監督で日本通なのに、原題をここまで跡形なくされて平然なのが不思議。でかいんだな、器が。というかアクション映画哲学が)

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 ジョン・ウー自身が高倉健映画の信奉者であることを公言しているので、あえて同じ役者の別キャラではなく、弟という設定を持ち出してきたのには『男たちの挽歌』というタイトルが売れてしまったこともあるだろうが、チョウ・ユンファの別の魅力も引き出したいという思いがあったのだろう。

 それすなわち、兄より軽い性格ながら、より義理と人情に厚く涙もろいという、任侠映画ではむしろ中盤あたりで非業の死を迎えそうな「善い人」。『2』のユンファは料理人である。怒りのあまり、すべてを捨てて最後は銃を握るが、この世に悪がなければチャーハンを作り続けていたに違いない。

 そして、泣くユンファが、私は好きなのである。
 というわけで『2』に思い入れが深い。

 『3』は『1』の前日譚なので、出来は良いが、むしろ観終わったあとに『1』をまた観たくなる。

 そして『4』……ではない。
 『最終章』だ。
 でも、続編ではなく、過ぎし日の物語ではなく、弟でもなければいとこでもなく、多世界宇宙のパラレル設定でもない。
 ていうか『男たちの挽歌』ではない。
 原題は『喋血雙雄』。直訳すると「血に溺れるふたりの英雄」といったような意味で、英語の副題は『The Killer』。全米公開もされている。直球である。殺し屋のユンファがいて、もうひとりの男がいる。ふたりはゲイではないので、そのあいだにはひとりの女性がいる。アクション映画に、これ以上なにもいらないすべてがそこにある。あとは、美しい映像と、しびれる男たちが用意できるかだが、そこは監督も俳優も『男たちの挽歌』シリーズ三作をヒットさせた折り紙付きのメンバーだ。

 というわけで、日本ではこれは『4』として売ればいいんじゃね? と考えもなく発言しただれかがいて、さすがにそれはいかんだろうというだれかもいて、落ちついたのが『最終章』だった。意訳すればこれは「あの男たちの挽歌シリーズのメンバーが撮った次の章」という意味であり、いわば日清がカップラーメンを新発売するのだからそれはもうカップヌードルと呼んでいい、というようなものである。よくはないが、嘘ではない。しかし、それが公式タイトルとして発売できてしまうというのが、沈黙の国ニッポンのすごいところではある。ダニエル・ラドクリフの新作に、魔法のマの字さえ出てこなかったとしても、この国では『ハリー・ポッターと』のタイトルで売られるだろう。

 というわけで本題に戻るが、とあるチャンネルで香港アクション映画特集をやっていて、そういうことがあると、私はすでに持っている作品をまた録ってディスクに焼く、という作業をしながら何度も観た映画をまた観るのですが。
 観ながら、思った。

「狼について書いたっけ?」

 検索してみれば、これらの記事。

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『ストラングルホールド レビュー』の話。

『狼たちの絆』のこと。

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 余談ですが、上の『狼たちの絆』の話に出てくる新作情報のないウォン・カーウァイ監督は、この年末、日本で小銭を稼いでいるようです。氏のプロデュースによるというつけまつげを見ましたが、ものすごかった(笑)。グレート・サスケの背中のブラックスワンの羽根みたいでした。



 なんにせよ、私のなかでも邦題のせいでごっちゃになっているのです。
 『狼たちの絆』と『ハードボイルド/新・男たちの挽歌』を絶賛してはいるが『狼/男たちの挽歌・最終章』についてはいちども触れていない。
 いかん。それはいかんぞ!!
 何度も観ている人間からしてもどれがどれだかになる作品群ですから、そんなにあなたが褒めるなら一本観てみようかなという方がおられるなら、むしろこれをオススメしたい。
 後述しますが、リメイクの話もあってタイムリーです。

 最終章と銘打たれながら『挽歌』シリーズとは無関係。
 『狼』と刻まれてはいるが、『絆』や『ハードボイルド』とも無関係。

 『男たちの挽歌』で時代を獲った熱は冷めやらぬまま、世界への野心も見え隠れする、アジアの辺境を舞台にした矛盾だらけの世界に広がる血の海。

 ストーリーは単純。
 殺し屋のチョウ・ユンファは、ミッションのさなかに女性歌手の視力を奪ってしまう。悔いるユンファ。それから女を見守りはじめ、目が見えないのをいいことに襲われかけたところで、我慢できずに飛び出す。

「なぜ私の名を?」
「君の歌を好きな男さ」

 映画がはじまって二十分で、ふたりはすっかり同棲する恋人同士である。
 彼女には角膜移植が必要だが、それには大金がいる。殺しの世界に戻るユンファ。要人暗殺。追われるユンファ。そこで今度は少女が巻き添えになる。みずからの危険を顧みず、少女を病院に運ぶユンファ。追う刑事も、少女を抱くユンファの姿に違和感を覚える。

 ただの殺し屋とは違い、冷静で頭がよく、思いやりと優しさがある。

 そう刑事は言う。少女を救ったなら、以前に自分のせいで傷つけた相手にも接触を図っているかもしれない……女の歌う店から警察に居所をつかまれるユンファ。その失態により、裏世界からも追っ手が差し向けられる。

 殺し屋だからこそ、金のための標的以外は傷つけない。ザ・キラー。その設定は、のちの傑作『リプレイスメント・キラー』でも使いまわされることになるが、アメリカでアジアンクールを魅せることに特化したその作品では、ユンファは寡黙で笑みを見せない殺しの職人のような演技を要求されている。だが、その原型となった『狼』でのユンファは、刑事たちと対峙しながら笑みを見せる。彼女の部屋にまで刑事が現れるが、もはやほとんど視力のなくなっている彼女に悟られないよう、ユンファは銃を突きつけた刑事に向かって演技を要求する。友人のふりをしろ。

 やがて運命の歯車ががくんと音を立てて狂い、殺し屋と刑事の友情は本物になって……

 最後がどうなるのかはここには書かないが、映画史上でも類を見ないやりすぎたメロドラマが展開され、唖然としてしまう人と、号泣する人とに人類を仕分けする。

 我が家のリビングには『リプレイスメント・キラー』の大きなポスターが飾ってある。それは、サングラスで、銃を構え、ミラ・ソルビノを抱く唇を引き締めたチョウ・ユンファが美しいからだが、動いている画、映画という作品としていうならば、もう少し若く、泣きそうな目元をした、緊迫した場面でこそ唇に笑みを走らせるユンファが、格別だ。

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 韓流リメイク(リウェイク?)された『男たちの挽歌 A BETTER TOMORROW』がオリジナルのファンの支持を得られなかったのは、ひとえにそこに尽きる。かっこいいのである。かっこよすぎるのだ。そうではなくて、かっこ悪いところが美しい、それが『挽歌』なのである。泣きそうな顔で、相手の瞳の奥を覗き込んで、でも俺はそれを選ぶんだよ、と。嗚咽を漏らし、ときによだれまでだらだらたらしながらすがりつく。それでも世界に修正できないすれちがいがあったとき、すべてを終わらせるための命がけとも呼べない自殺行為そのものな銃撃戦がはじまる。その図式。

yunfat

 アメリカでも、クールな男たちがジョン・ウー作品で二丁拳銃をかまえ白い鳩を飛ばした。それらの作品も駄作ではないし、香港時代よりスケールもアップした大作でもある。そういう意味では『リプレイスメント・キラー』のユンファの代わりができる俳優もいるかもしれない。だが、『狼』のユンファをだれかが変わって演じることはできない。そもそもこの役自体が矛盾しているのだ。いくら職人面をしたところで殺し屋である。頭がよくて優しくても殺し屋なのである。それなのに追いかける刑事さえ共感を覚える。失明させられた女さえ彼をかばう。観客は涙する。金のために赤の他人を殺す男に心奪われて。

 チョウ・ユンファだけにできる微笑みが作品の核。そういうユンファ作品が好きだから『挽歌』も泥臭い感情をむき出しにしまくっている『2』がイイ。そんなファンだから、香港を飛び出してからのチョウ・ユンファは、もったいない使い方をされているなあと思えてならない。恋する王様も亀仙人も弾丸坊主も禿げ海賊も禿げ剣士も、キャラありきで、そこにユンファを当てはめただけにすぎず。大作になればなるほど、アドリブの余地がなくなっていくのは仕方のないことではあるが、ユンファ自身にも大作志向があってボスキャラ的キャスティングを好んでいるようなのを考えあわせると、このままもう二度と涙とよだれだだ漏れで咆哮するユンファが見られない可能性は高い。残念です。

 昨年のヒット作『譲子弾飛』も日本では公開未定。


                                    
 私も、新作にユンファの名があっても観に行く気にならない。胸そらして上から見下ろして微笑むとかいうのは別の俳優でもできるでしょう。映画館ではめっきり中国ものがかからなくなったけれど、テレビでは香港ノワール特集。で、私も過去に酔って満足。苦労した時代にコメディ作品乱発したので、もう軽い演技はしたくないのかもしれないが、軽さこそがいいのになあユンファ。

 というわけで『狼/男たちの挽歌・最終章』は、笑顔と咆哮のユンファが作品中に見られる、ほとんど最後の作品です。この後は、恐い大物か、クールな男としてのユンファばかりで、矛盾したかっこ悪さを「俺もよくわかんねえんだけど、こうするしかないんだよ」と泣き笑う演技は皆無になる。
 だから観て『狼/男たちの挽歌・最終章』。
 映像には古さがあります(日本映画でもそうですが、特に十年ほど前の作品というのは、大昔の作品よりもヒロインが時代を感じさせます)。しかし、アップを多用する役者の顔演技に重きを置いた演出は、引き込まれずにはいられません。一時間半あまりのなかで、観客は泣き、笑い、激しいアクションの果てに脱力する。

 低予算アクション映画でさえCGの爆発シーンを使うようになる前、生身の人間の演技にすべてをゆだねていた時代。目の動きひとつで客の心を揺さぶる演技は、クローズアップされた舞台劇のそれだった。脚本を越える映画にするのも役者だし、それを引き出すのが監督で、記憶に残るのはそこに生まれた独特の空気感。それが映画だった。

 だった、なんて言っていちゃいけないんだけれど。
 ああ映画が観たいなあ、というときに、選べる『狼/男たちの挽歌・最終章』があるというのは、人類の幸せであり、いまに足りないものを象徴していると思う。熱すぎる人情劇にうっとうしさを感じる社会は、崩壊に向かっている。

 なんにせよ、ひとつの頂点。
 映画が総合芸術だというのを、地べたに這いずって撮りながら具現した、手作業の映画職人たちの到達点です。ブラウスの下にたっぷり溜めた血糊が透けて見えていたりもしますが、そういうことが許された最後の時期でもある。観ておくべきなのです。
 殺し屋でさえ、傷つけた相手に情を持つ。
 そこに生まれた矛盾をユンファが微笑う。
 なにも感じられなければ、あなたが転げ落ちている証左です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 おれたちは時代遅れだが
 犬のように殺されたくない。                                    
 でも…
 弾が残ってないんだ。
                                   
                                    
 『狼/男たちの挽歌・最終章』                                   

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 逝こうとする友に、ユンファは「ここにある」と答えて、いつでも自分の銃に一発だけ残してある、自殺のための弾を捧げる。
 弾丸はここにある。
 じぶんであれ友であれ、時代であれ。
 この手で終わらせるための最後の弾は、いつでも残されている。

 ジョン・ウーが、韓流『男たちの挽歌』に続き、この『狼/男たちの挽歌・最終章』を製作総指揮という形でリメイクするというニュースが流れた。うわさ話の類として最初は聞いていたのだが、どうやら事実らしく、続報によれば主演がチョン・ウソンで監督はイ・ジェハン。つまりは『私の頭の中の消しゴム』コンビであるという。『男たちの挽歌』のジョン・ウー&チョウ・ユンファで『ザ・キラー』という宣伝活動までリメイクする気なのか。だったら『狼/私の頭の中の消しゴム・最終章』にすればいいのに。確かに『狼』は映画史に残るメロドラマであり、あのラストを描けるのはそうとうに肝の据わった監督と俳優でなくては撮影中も「これ、観客大爆笑なんじゃね?」と夜も眠れないことになるだろう。その点、メロドラマはやりすぎくらいがちょうどいいことをヒット作飛ばしてその身で知っているふたりなら、そういった心配はない。

 が、さらなる続報を読んでおののいた。
 韓流『狼/男たちの挽歌・最終章』。
 3D作品になるのだそうだ。

 ……まあ、後半、弾丸の雨あられだが……もちろん白い鳩も飛び出すんだよね……いやしかし、ああチョン・ウソン、はにかみ上手な彼ならユンファを継げるかもとちょっと夢見たのに……3Dって客に向かって弾飛ばすってことでしょう。違うもん。銃撃戦ていうのは、こっちが撃つのに魅入るものなんだもんっ。緊迫感よりもわーきゃー歓声あがる飛び出す銃撃戦のあと、一歩間違えば大爆笑なメロドラマラスト……とりあえずやってみるジョン・ウー精神には感服しますが、大丈夫なのかそれは。

 『男たちの挽歌』よりも好きな作品なので、リメイク大成功を願いたいが。
 ひしひしとイヤな予感がするのです……
 むしろ時代遅れなジョン・ウー作品観たいんだけどな。

yunfat






 恋とはなんであろうか。

 ひとめ見た瞬間にびびっと電気が走るとか、その仕草を見ただけでその場にへたり込んでしまうほど対象以外の世界がどうでもよくなるとか、ほとんど話したこともないのにちからいっぱい抱きしめたくなるとか。
 そういうの。

 繁殖のための脊髄反射でしょう、というのが答えであっている?
 でも、ことヒトという種に限るなら、裸でマンモス追っていた頃はともかく、ちょっと知恵がついてから、ついこのあいだまで、自然恋愛という形態での繁殖のほうが少なかったんだし、だからといって、この子とこの子で、と他人に決められた相手と添うたから、なにか困ったことが起こるというわけでもなかったと聞く。
 たいていの場合、そこに愛は生まれるのです。

 なるべく遠くの土地にある優秀な血を混ぜることで種としての進化が促進されることに気づいてからの人類は、仲間内ではない、見ず知らずのだれかを繁殖の相手として選択するのが賢いやりかただと考え、それを実践してきたのだけれど、その方式がすっかり定着したのは、家庭を築きともに暮らしはじめれば、愛は生まれてそれでよし、と確信が持てていたからなのである。

 そもそも、ヒトはヒトを愛するものなのだ。

 だとすれば、相手はとにかく無害で無臭であればあるほどいい。危険な香りのする男とか、エロフェロモンを撒き散らしているような女は、どうせ生まれる愛の巣に、愛以外の問題を起こす確率が高いのだから、だれからも敬遠されてしかるべき。
 なのだけれど。
 お子様同士の淡い恋はともかく、大人同士の恋は、エロスとかバイオレンスとか、アクション映画に欠かせない要素を相手に感じることではじまってしまうケースが少なくない。

 これはどういうことなのだろうか?

 単純に恋というものを愛へと続く結節点だと考えれば、動物の本能としてエロさは繁殖能力の高さであるし、デンジャラスバイオレンスな雰囲気とはすなわち修羅場を生き抜く肉体と精神の強さそのものであるのだから「強い次世代を多く作る」という目的には添っている。だが、そんな単純なものだろうか。少なくとも私は、恋心を繁殖につながる生殖本能の耐えがたい慟哭というふうに感じたことはない。

 とすると、恋とはもっと個人的なものではないのか。

 時代劇のなかで、お見合い相手にはじめてあって互いに頬を染めるのは、そこからはじまる愛の生活と繁殖を目的とした種の生存戦略が、なかば成就されたという安堵感、開放感、もうあとはヤりまくるだけという娯楽の少ない世でのワクテカ感が大きいのではないかと思われる。だって、その時点でわかっているのは、相手が異性であり、今夜から毎夜の床の相手だということだけなのだから。出逢った瞬間に外見や内面に惚れて首筋まで赤らめる、などということは、そうそうないはずである。

 しかし、現代における自由恋愛での恋感情によってヒトがほっぺたをほんのり桜色に染めるとき、そこでは、種の生存戦略の成就などという高まいなテーマは語られていない。
 それは要するに、個人的な至福だ。

 なにが至福かといえば、見つけてしまった幸せであろう。

「なにこのパンダのミントチップパフェ、かわいすぎるぅ」

 というのと、萌え異性を発見したときの瞳のキラキラ具合は、なんら変わることがない。新発売のお菓子にへらりと笑ってしまう至福と、この世にはいまのいままで知らなかったあんなエロかわいい仕草をするヒトがいるんだというへらりは、似て非なるものではなく、同じもの。

 だって、そこに繁殖は関係ないのである。
 どうせ愛は生まれるし、だれとでもセックスは気持ちいいものだし。
 そういうことをいうのなら、性愛などというもの自体が、性交をさしているわけではなく、豆腐を握りつぶすことでイケるヒトもあれば、遠くから見つからないように眺めることこそ濡れるという向きもありましょうし、そうであればたとえば、にへらと笑いながらシュークリームにかぶりつくのも、重たい鉄アレイを見ると持ちあげたくてうずうずするのも、トイレの音が恥ずかしくて水を流すなどというのでさえ、恋の一種一族類似品。美味しそうなマロングラッセによだれが出るのと、チョココロネみたいな縦パーマがキュートな女子に胸トキメクのは、自分の趣味に合致したなにかに脳内興奮物質をだだ漏れにしている点で、類似品というよりもほぼ同じな情動反応だといえましょう。

 このようなことから、話をまとめますと。

 恋とはなんであろうか。

 それは、世界を自分好みに変革したいという欲求。

 いや別に、かっこいい男子を見たから、それを軒並みクッチマオウとか、そんなことをあなたが思っちゃいないのは重々承知していますが、しかしヒトが動物である以上、やはり脳内興奮物質のだだ漏れ状態は、逃げるためか、獲物を狩るためにしか起こりえない現象であるはずで、だったら順当に考えて、あなたはやっぱりその男子を狩りたいのです。

 というよりも、恋をした時点で、すでに手に入れたとも表現できるかもしれない量子物理学の魔法。視たものが確定され、確定された事象の積み重なりこそがあなたにとっての世界のすべて、という視点にもとづくならば、あなたが恋をしたのは、まさにそのためです。

 このネットの世界がヒトを癒すというのも、そういうことだといえましょう。あなたは恋した言葉に、映像に、ブックマークする、フォローする、フレンド登録する。それは世界をひろげているようでありながら、逆の視点では、確定された領域を増やすことであり、限られた人生の時間のなかで、出逢うヒト、思想、空間を、制限していく行為でもある。

 その行為を突き詰めていけば、いつか、世界はあなたにとっての楽園になる。
 
 簡単なのは、四畳半くらいの部屋から出ないで、男の子ならギャルゲー、女の子ならBL本あたりを壁に山積みして、それらの物語世界への恋で自分自身を埋めてしまうこと。部屋を出て、ちょっと出歩けば、世界がなかなか思い通りに恋心で制御できないことに気づいてしまうでしょうが、ツワモノになると、社会生活を送りながら脳内に自分だけの恋の四畳半を維持できるようにもなれるという都市伝説。

 もちろん、繁殖という意味でも、これだけ自由恋愛が幅をきかせ、お見合いなんてちょっとねえ、という風潮が高まったことを思えば、現代人はきっと野望を持ちはじめたのです。自分と同じ種が増えるだけでは満足いかない。自分好みのヒトが増えると幸せ。具体的に考えてはいなくても、やさしいだけじゃなくて、ときめかないと一緒になれないというのは、自分がトキメク子孫を作りたいという戦略であって、それはもはやヒトという種の生存のためではなく、個人的な自分好み帝国を創造しようとする神さえも怖れぬ行為なのです。 

 萌え、なんていう言葉が市民権を得たのも、恋が重視される種族へとヒトが変わりつつある証左です。見た目? 雰囲気? 装着アイテム? いや、本来、動物なら繁殖期に重要なのは、相手が健康な異性であるかどうかだけであって、そうでなくおれをあたしをときめかせてちょうだいなんてのは、ものすごく自主禁欲的な、種の本能を抑え込んででも恋心を優先する指向。しかしまあ、いまやデートの作法として「隙をみせる」なんていうのを実践するヒトはいやしません。みせたところで相手は襲いかかってきませんから。まずは相手の萌えを、恋心を刺激して、世界の一部にブックマークされる必要があるのです。

 あたしはここにいるけれど、それはあたしがあたしだからであって、彼にとっては、まず視なければ確定されない恋未満の存在。
 意外と、ニーソックス? 即フォロー、とか、そういう次元の話だったりもするのですけれども。

 と。
 ブログタイトルとまるで噛みあわない話を続けてきましたが。
 わたくしごとですけれど、このところ、庭を掘っていまして。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・いよいよ涼しくなってきて、帰ってから小一時間の庭を掘る作業(バイク用ガレージ制作中につき)が習慣づいてきたのだが。暗闇で穴掘っている男の姿に気づいて通行人がひっ、と息を飲むのにこっちが驚いてしまう…

・目の前通学路だし、さっさと仕上げないといつか通報されるだろう。それにしても木の根が難敵。よく映画で森で屍体埋めるのにさっさと穴掘っているが、あんなのぜったい嘘。


twitter / Yoshinogi

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 そういう状況で。
 夜です。
 そばにランタンとか置いています。
 小一時間で、蚊に噛まれまくるのです。
 ちなみに、仕事で白衣着ている弊害でしょうか、私、蚊取り線香とか、虫除けスプレーとか、嫌悪しています。あんなものおまじないです。ていうか実際に虫に効くものは、ヒトにも悪影響なわけで、副作用のない医薬品など存在しません。それでも世に流通しているのは、蚊に刺された場合に、伝染する病気というものが存在するからです。大きな危険を避けるための、小さな危険という考えかたですね。だからもちろん虫除けの使用は推奨されるのですが、私個人としては、リスクを負っても、虫を殺せる薬を焚いた部屋で眠ることなどごめんこうむります。
 というわけで。
 ザックザックと素肌で穴を掘ります。
 余談ですが、私は噂の蚊の好物とされる血液O型です。
 そのせいなのかなんなのか、いやあ、ものすっごい噛まれます。

 いえ、正確には、刺される、ですね。
 世の中には、蚊に刺されても、まったくかゆくならないヒトが、けっこうな数でいます。かゆくならないんだけど腫れるのよ、かゆみ止めの入っていない虫刺されの薬ない? というのは少なくない質問で、しかし、かゆくなくても腫れるということは虫の毒に反応しているので、結局のところ、その炎症を鎮静させる成分は、かゆみ止めだったりするのですが。
 それでも、耐性、と呼んでいいものなのか、私自身、刺されてても、掻きむしるほどの耐えがたい状態に陥ることはなく、蚊に刺された腫れが翌朝に残っていることはまずありません。以前はそういうことはなかったので、どうやら刺されまくっているうちに一種の進化を遂げた模様。

 ですがこれ。痒みに耐性ができると、なおさら虫除けは使わず、しかし、蚊の媒介する病に対して耐性ができたわけではむろんないので、とても危険な慣れだとはいえます。日本の熱帯化で、熱帯熱マラリアなんかが流行するかもという記事を業界誌で読みましたし、そういうものがまた大流行したなら、私などはまっさきに餌食でしょう。

 で、これのなにが恋の話につながるかといえば。

 さっき「虫の毒」と書きましたが、蚊の口の針からにじみ出しているものって、かゆみを生じさせる毒ではない。当たり前ですが、蚊は恋などせず、いまだに知恵の足りない生存戦略を続けているのです。とりあえず、にじみ出ている液で、ヒトの血は凝固しなくなる。冷えすぎたマックシェイクは吸えないようなもので、音も立てずすばやく飲むには、ちょっと飲み物の側をやわらかくしてやる必要があるのですね。蚊の出しているのは、そういう成分。

 生存戦略ですから。
 かゆいとか、腫れるとか、そういう目立った現象が起きると、蚊にとってはまったく得になることはないのです……そう……つまるところ、得をするのはヒト。

 アレルギーとは、総じてそういうものだったりします。
 近ごろの花粉症なんてのは誤作動だとされますが、あれだって、むかしは多くなかったということは、なんらかのヒトという種の発している赤信号なのかもしれません。この星やべえよ。逃げろよ。ええ。蚊は、血を固めない成分を注入するだけ。でも、ヒトがそれをかゆくしている。遺伝子が、アカシックレコードが、この世界線が、その虫から逃げろとヒトの肌に浮かびあがらせる聖痕。だからヒトは、腫れた虫刺されにツメで十字を刻むのでしょう。魔除けです。

 え? で、なんの話かと?
 だから。

 ヒトは、ついに性衝動さえ凌駕して声しか聞こえない声優に萌えたりもできるようになったというのに、花粉だの蚊だの、そういったものへの無条件な聖痕乱発は迷惑だからやめていただきたいということである。かゆくされたところで、私は穴を掘り続けるのである。
 私の恋路を、なぜ私の免疫系が邪魔をするのか。
 薬で抑えればいいのか。
 しかしそれでは自分自身の本能への敗北宣言ではないか!
 私は襲わず萌えられる現代人類の先鋒である。
 なぜ自分の肌さえ制御できない!?
 掻きむしるほどかゆくはないが、まったくの無感覚ではなく、むずむずするその感じは、やっぱり不快なのだった。
 いつか越えられるのか、このサガを!!
 ていうか私のまわりを飛びまわるのをやめろ気が散る!!

 そういうことをぶつぶつ言いながら掘っているので、なおさら不審者です。
 いよいよ涼しくなると思ったのに、九月なかばで再び夜中に汗だく気温。
 誤算でした。
 秋の季語たる赤蜻蛉はめっきり減ったとなげかれるのに、蚊の数がいっこうに減らないのはなぜなのか。ヒトがあるところには水もあるから蚊は増えるのだという。トンボが生まれない澱んだ水たまりにも、ボウフラはわく。だとしたら、間違いなく水のない砂漠には蚊はいないのだ……

 屍体も瞬時に乾くような砂漠で、穴を掘りたいとは思わないけれど。 
 
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 狭くうねうねと続く道をさらに登ると、ライオンが行く手に立ちふさがっている。ライオンは感情の全領域を表す。すなわち共鳴、反感、悦楽、嫌悪で、これらは聖杯を探索する者が支配し厳しく制御しなければならない感情である。ライオンを征服するために、彼は感情を思考と等しく非個性的かつ客観的なものとしなければならない。それによって感情自体の力は霊感を受けた認識の形をとり、個人の私利的な好き嫌いを離れた実在性を示す。
 そして騎士たちがドラゴンに立ち向かいそれを殺す時が来る。ドラゴンが表すのは、解き放たれた本能、欲望の力──最も強く最も献身的な意志の力がそれを制御しようとする時、猛然と反撃する悪魔の、けっして満たされることのない欲望である。


トレヴァ・レヴンズクロフト
『ロンギヌスの槍 / オカルティスト・ヒトラーの謎』

 Longinus
 
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 アドルフ・ヒトラーは、嫉妬深くて束縛狂で、女に対して怒鳴り散らすわ暴力ふるうわの激情型恋愛家でありながら、睾丸がひとつしかなくて勃起できなくて、寝室では縛られて物理的に傷つけられののしられることを望んだといいます。暴力亭主なのにドマゾでおれをののしって蹴ってイカせろという毎日に、混乱の果てに自害した相手もいたとか。
 そして、その極度に敏感になった異常性欲と満たされない恋心の持続性のおかげで、ヒトラーは人生を通じて途切れない集中力をもち、ヒトよりも悪魔の領域に近づいていったとか。 

「若く素直な女性を得るのがどんなに素晴らしいことか、ヒトラーが知っていさえすれば良かったのに」

 ヒトラーの部下が、そう語っている。
 つまりは萌えごときに満たされればヒトラーさえも普通の人で野望の成就など考えもしなかったであろうということ。逆説的には、役に立つ性器も持たず、ただひたすらに自分を追い込むことができるぎらぎらと目を見開いた男だけが、だれよりも深い穴を掘る集中力を手にするということでもある。

 そんなこんなで、涼しくなるのを待ちながら、私はのんびりやることにします。
 言っちゃあいるけれど、本当に蚊に刺されても免疫系が反応しないまでになにかに集中できる状態にヒトがなりえたとき、そのヒトはもう、ヒトではないということなのですから。