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 警備主任のウェルナーは、コンクリートの床でさえ重さに耐えかねてたわむのではないかと思うほどの巨体の持ち主だった。まさに筋肉の塊のようだが、ウェイトリフティングや筋トレをしたわけではない。なにを食べようと、すぐれた代謝機能が彼の獣のような体を理想的な状態に維持しているのだ。
 鼻水が垂れるという欠陥はあったものの、その点は解決策を模索している最中だった。


ディーン・クーンツ 『フランケンシュタイン / 支配』

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 二冊目である。
 一冊目について以前に語ったが、それ以上につけたすことはない。
 そもそも三部作として構想された『クーンツのフランケンシュタイン』テレビドラマは残念だったけどノベルスでとりかえそうシリーズの、順当な二作目。最初は共著者がいたけれど、クーンツ先生自身の言う「通信簿で“友だちと仲よく遊ぶ”という項目に丸をつけてもらったことがない」という協調性のなさで相棒の書いた部分まで手直ししてけっきょく個人名で出すことになった二冊目。
 なにごともなければ、テレビ業界なんてクソだぜボギーと憤りながら三冊書いて、まあアイデアは形にしたし世界中で訳されて犬の餌代は稼げたからよしとするか、というディーン・クーンツのエンタメ方面遺伝子をフル稼動させ、ドラマをポシャらせた連中に実力を見せつけるだけの出来事に終わるはずだった『クーンツのフランケンシュタイン』起承転結のまさに「承」。三冊目で「転」と「結」がまとめてやってくるのだろうと予測させる安心の読書体験。初めてのクーンツ体験ならともかく、食べるだけで筋肉が育つかわりにいつでも鼻水が垂れていてティッシュボックスが手放せないアンドロイドを筆頭に、おかしなキャラの乱れ撃ちで、本来おかしなところのないふつうの人間なはずのキャラたちの会話までヒップホップなビートになっている、そのがっこんがっこん具合は、クーンツに慣れた者にとってはむしろ微笑むべき急流すべりの上がるところ。クーンツ師、今回もハメ外すほど
テンション高く書いておりますなあ。そんなはずだった。

 はずだったのに。

 詳しいことは前にもさんざん書いたから、それを読んでいただきたい。
 リンクを貼るのも面倒なので、検索してください。

 つまるところ、この『フランケンシュタイン / 支配』は、それ以前に書かれた『クーンツのフランケンシュタイン』ということになってしまったのだ。

 トリクシーが逝った。

Koontz

 確執のあった父が逝ったときにも、ディーン・R・クーンツと名乗っていたクーンツは自身の名から父親レイの頭文字だった「R」をとり、あきらかに作風が変わった。
 しかし、はじめて飼った犬が逝ったとき、クーンツはトリクシーの「T」を名前に加えたりはしなかったが、あのときよりも激烈に作風どころか人生の方向さえ変えた。

 そして『クーンツのフランケンシュタイン』は、三部作どころか、現在五冊目が出版されている。さらなる続刊の契約もあるらしい。だれかの鼻をあかしたり、日々の家族の糧を得るためや、まして憤りのはけ口に技術を見せつけるような執筆は、いまのクーンツの人生にはない。あれ以後は、すべての作品が、

「どうだい、トリクシー?」

 お前が育ててくれた作家ディーン・クーンツの新刊は。
 そう問うために、書かれている。

 この二冊目は、だから、もとはテレビドラマのためのプロットだったキャラてんこもりな「承」でありながら、いまになってみれば、それ以前のクーンツの終末から生まれた一冊。   

 父と息子。
 クーンツについて語るとき、避けられないテーマが、そこには描かれている。まだ愛する愛犬娘はぬくもりをもってそばにいた。だから、クーンツにとっては「まだ」父親こそが、心に占める最大の影だった。かつてのインタビューでの発言は、実際には「できなかった」妻へのいたわりから出たものかもしれないが、それでも自分の父親の劣性遺伝子におびえて「子供をつくらなかった」などというのは、愛と正義の人らしからぬ、本音の漏れたものだったのだろうと、ファンはいまでも思っている。

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「しかし、考えてみると、やつらの生殖方法は野蛮だし効率も悪いよな。培養水槽のほうがはるかに優れてるよ。清潔だし、いろんな調整もできるし」
「培養水槽で赤ちゃんはつくれないわ」
「培養水槽でつくられるのは役に立つおとなだ。みんな、ただちに社会のために働ける状態で生まれてくるんだから、きわめて効率的じゃないか」
「私は赤ちゃんのほうが好きなの」と、シンディは言い張った。
「それはよくないことだ」とベニーが諫めた。


ディーン・クーンツ 『フランケンシュタイン / 支配』

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 父なる創造主、かつてのフランケンシュタイン博士にしていまは名を変えヴィクターに造られた新人種たちは、セックスを奨励されているが生殖能力はない。培養水槽で生まれて「社会に役に立つ」というのは、つまりはいつか旧人種を滅ぼしてヴィクター様を頂点とする新人種の世とするための社会奉仕であり、おもな任務は、殺した旧人種になりかわってなにげなく暮らしつつそのときを待つことである。
 そんななかで、シンディとベニーは、暗殺という特殊任務に就くエリートだ。しかし、シンディは無類の赤ん坊好きで、最近では少々頭のネジがゆるみすぎて、セックスすれば自分も子供が産めると信じている。

 そんな相棒にうんざりしはじめているベニーは、想う。

 旧人種を滅ぼして世界を支配する意味ってなんだ?

 もちろん、そういう哲学的なことを考えるように造られていないベニーは、頭を振って、ファーザーの命じるままに旧人種を殺すことに悦びを見いだすのだけれど。

 少年期のクーンツが、貧しさのなかで、支配者である父親の気に入るように培養水槽で完成して生まれてきたかったと願ったことがあったかどうかは、知らない。でも、生まれたときから大人で、こんな家を出て、社会で働けるならどんなにラクかと思っていたのは確かだ。インタビューで回想するクーンツは、いつだって成功を夢見ているが、成功してこんなふうではない自分の家族を持ちたいなどとは考えていない。
 若き日のクーンツの野望は、向上心に見えるが、逃げたい一心だったともとれる。

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 キッチンの入口に達したとたん、アーニーが幸せなのはこの女がいるからではないかという思いが頭をよぎった。幸せを味わうには、体のなかで子供を育てて、子供を自分のことと同じぐらい大事にしてくれる母親が必要なのかもしれないという思いが。


ディーン・クーンツ 『フランケンシュタイン / 支配』

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 ヴィクターのもとを逃れたランドル6もまた、家族にあこがれる。
 しかしそのあこがれは、自分が子宮のぬくもりを知らず、創造主はいても父も母もいないという境遇だから「幸せ」なるものが手に入らないのではないかという、いわば逃げだ。自身の外に理由を見いだすと、けっして幸せになれないというのは『犬が教えてくれた幸せになるヒント』に詳しい。

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共和党にも民主党にも腹をたてちゃだめ。
隣人、友人、母さん、父さんにも。
たとえ何か理由があったとしても、だめ。

Koontz

 トリクシー・クーンツ
 『犬が教えてくれた幸せになるヒント -Bliss to You-』

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 白と緑のものしか食べられないランドル6。
 なぜならたくさんの色があると混乱するからであって、幸せになれない自閉症の超新人種である彼は、それがわかっていながら刺激的すぎる外界へと逃げだし、もちろんパニックに陥る。陥るのだが、勇気を出して緑色のつぶつぶが混じった茶色いアイスクリームを食べたとき、彼は悟る。

 衝撃的なおいしさだ。
 ミントの粒をよりどころにしながら、はじめてたべた茶色いチョコレートアイスは、ランドル6の外界への怯えを取り去り、彼は行きすぎて、安らぎさえ感じるようになる。
 ここはぼくの家。
 そして、ママが必要。

 クーンツファンにとって、このくだりは、小説というものに人生の救いを見いだしたクーンツと、クーンツを育てた妻ガーダの存在にダブって読める。

 人生なんて偶然ひとつで善きも悪きも転がるもので。
 なにかに出遭ってひらめいて救われることだってあるもので。
 こここそが、ディーン・クーンツが怪物の物語を焼きなおす意義である。

 怪物さえ、一歩を踏み出し、希望を見いだす。
 それは結果としてヒトの側から見れば、とち狂った怪物がぼくのママを奪いに来るといった悲劇になってしまうのだが。

 若き日のクーンツの言動には、過剰にエンターテインメント小説家である自身への自負があふれていて、そのことは逆にまわりから見れば、なにも本人がそんな声高に言わなくても、エンタメ作家だからなんて言ってバカにするのは売れない文学界のやっかみ連中だけなのに、と映っていた。
 自由闊達なスタイルこそが真骨頂なのに、ときに堅苦しくエンタメ小説の作法について語ったりしはじめる……いや、けっこう好き勝手に書いてるでしょ、なにを高尚ぶってんの、とファンは苦笑いする。
 クーンツが過去に売れたい一心で書きまくったポルノ小説群を、自身で買い戻しては歴史から封印しているというのは有名な話である。

 おそらく、クーンツ自身も自覚はあったのだ。

 逃げるために小説を書きはじめた。
 妻に食わせてもらいながら恥知らずな真似もした。
 子供は産まず、犬も自分には飼えないと信じていた。

 なんらかの、症、と表していい過剰さがクーンツにはある。
 世界で読まれるもはや使い切れないほどの金を稼いだベストセラー作家になったいまでさえ、自分を卑下することを得意にしている。友だちと仲よく遊べない資質も変わらず、犬の名を借りて語るのは、なぜもっと謙虚になれないんだ、感謝せよ、感謝せよ、感謝せよ!

 きっと、追い求めてしまう自分に、自分で言いきかせている言葉なのである。
 だから、無心に主人の幸せを願い、願うことで自分も幸せになっている頭の単純な動物を天使だと呼ばずにいられない。
 ダウン症候群の天使的人物を作中に登場させるのはやりすぎなんじゃないかと心配しても、クーンツは、心底あこがれてそれを描いている。
 もっと純粋に、もっと無垢に。

 愛娘犬トリクシーが弱り、逝ったあと、虚無になりながらもクーンツの言葉は迷いがなかった。トリクシーの公式サイトには、彼女は地上の天使で私たちを変えてくれた存在だと書いてある。追い求めたものを、彼は手に入れたのだ。すがれる存在、信じたくても信じきれなかった、それこそが創作の主題にさえなっていた、神などというあいまいなものではなく、自分を変えて、護り、いまも見続けている、天使。信じるに足るどころか、疑う余地さえない。

「どうだい、トリクシー?」

 呼びかけることのできる実在の天使を得たあとのディーン・クーンツは、これからよりいっそうの深みに挑んでいく。怖れはなくなった。だからこそ、当初の思い悩んだ迷走ぶりとは裏腹に、狂気の父親に生みだされた怪物の物語が、三作目からクーンツ独自のシリーズとして書き継いでいかれることになったのに違いない。

 ドラマのために描かれた。
 当初は共著でクレジットされていた。
 二冊目『フランケンシュタイン / 支配』には、だから、まだ怖れているディーン・クーンツがいる。のがれられない、描かずに避けては通れない、父と息子の物語。映像化スタッフという他人の手をたずさえれば、やれるかもとはじめたが、けっきょくまたひとりで向かいあうことになった。

 もうすぐ、大きな喪失と天使の世界が待っていることは、知らない。
 たったひとりで、精神よりも技術を頼りに、なんとか無垢なる怪物たちと迷えるヒトの姿を描こうとする、媚びるようでさえある必死のクーンツが、ここにいる。

 こんなふうに読んでしまうのは、長いあいだ彼を追い続けて、その人生と作品を見比べることがクセになってしまった一部のクーンツ信者だけなのかもしれない。けれど、そういう読みかたをしてしまったからこそ、私は、この時期のクーンツを、愛しく思う。

 もがきながら血を流すように曲を作って売っていたころには共感できたし熱狂できたけれど、メジャーになって年喰って技術でごまかすことさえなくなって達観したように流暢な歌を奏でるようになったロック歌手を聴かなくなった経験がなんどかある。

 ディーン・クーンツが、そうならないことを祈りながら読んだ。
 ここにはむしろ、がむしゃらにシャウトしている彼が見える。
 子供はあきらめ、犬は飼えたけれど、まだ達観の天使には逢っていない。
 出自に誇りをもてず、偉大な映像化の原作者と呼ばれたい、過去の名作の力まで借りてなにかを観客に向かってほとばしらせている。
 作家としての青春が、終わっていない。

 またも映像化に裏切られたことで「こっちを見ろ! これを読め!」という絶叫が、ひさかたぶりに行間にあふれてしたたっている。
 
 ここにいるディーン・クーンツが、私は好きです。
 そして、未来を怖れます。
 天使をたずさえて。
 彼には怖れを笑うのではなく、格闘する道を選んでもらいたい。
 多くの作家が、棺桶の前に、どこかに納まってしまうものだが。
 裏切って。

Koontz



(風に聞くところでは、近々『オッド・トーマス』の続刊もあるという。滞っていたシリーズをさくさく量産する勢いの師に、うれしいような怖いような……饒舌になると我を忘れる癖があるからなあ。客を置いていかない範囲でテンション高めにますますの活躍を願うばかり。引越してクーンツ専用棚を作ったのですが、大きい棚の半分開けて待っているのが、この発刊ペースなら、どんどん埋まっていきそうです。日本でも、フランケンシュタイン映画化(前に書きましたが、ドラマはポシャったが大型映画化が決まっています)で、クーンツ人気にさらなる火がつくことを期待してやみません)





Amaryllis2011

もう少しで咲くはずだった。
今年もアマリリス。
毎年鉢わけして、
増殖に増殖を重ねたひと鉢。
物干し台のそばに置いていた。
洗ったシーツを干していた
風のとても強い日でした。
それは私の目の前で起こったのです。
リリス斬首。
おうっ、おおおおうっ。
嗚咽を漏らせど、あとのまつり。
一年に、いちどの。
四枚の羽根の先に、一輪だけの。
リリスは咲く前に土のうえ。
ひろいあげ、見つめました。
土を払い、思いました。
つぼみのまま朽ちるのか。
私はそれを、見るべきか。
台所に行き、流水で洗い。
菱形の皿に、のせました。
あれ…ああ、なんだか。
きれい。
すごく、すき。
写真を撮りました。
そしてゴミ箱に捨てました。
皿のうえで朽ちゆくのを、
見つめたい私もいたのだけれど。
今年のリリスは、つぼみで咲いた。
それでいいのではないかなと。
ほかの鉢の咲いた姿も撮らず。
この一枚だけ。
なにか。
いまの私にしっくりくる。

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『リリスの増殖と孤独』の話。

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 それというのも、アマリリスの首が大きいから起こった悲劇。
 現代、アマリリスと呼ばれるのは、人為的に交配された品種改良につぐ品種改良の果てに生まれた花々のことであって、いまでもひっそり流通している原種アマリリスというのを目にしたことがあるかたならご存じの通り、そもそもこの花は、花弁こそびろんと垂れてはいるが、長い茎の先にクリオネにも見えるようなこぢんまりとした花を咲かせる生き物だった。

 それが品種改良……というのは、ヒトの側から見た視点で、実際に花にとって「良」い進化だったのかはともかく、ヒトは、アマリリスがもっと大きな花を咲かせ、もっとあでやかであればいいのにと願ったから、アマリリスはそんな姿になってしまった。

 原種のアマリリスは花に色もなく、薄緑色の花弁であったりする。それでも、高い山の中腹で咲いていれば、びろんとした小振りの花弁で、充分に虫たちにアピールすることができたのだろう。それが、いまのような姿になった……なったおかげで、アマリリスは世界中の家庭で育てられるようになったのだから、それもまた順当な変異だったのだよと、進化論者は言うに違いない。

 でも、我が家のリリスだって、株分けのみで増えている。
 花が枯れればタネができるが、それは球根に行くはずの栄養を吸いとってしまうから、手早くもぎとってしまうべしと花壇の作り方の教科書46ページ56行目には書いてある。つまるところ、現代のアマリリスに受粉は必要なく、だとしたら虫を呼ぶために咲くとされる花だって必要なく、大きな葉っぱだけで、地中でどんどん球根をクローン増殖させていけばいい。
 そうあるべきだ。
 それがリリスの側から見れば真の進化だろう。
 咲く必要など、みじんもない。

 それでも、彼女は咲く。
 咲かずにいられないのである。
 そう造られたから。

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「遺伝子に刻まれているんです。わたしたちは服従したがるんですよ。ほかのだれかに指示してほしがるんです。そうすることが必要なんです。魚にとって水が必要なように。服従こそがわたしたちが泳ぐ水なんです。ヤシモトさまがおっしゃったことは真実です。わたしたちは、日本人よりも日本人です。私たちはヒエラルキーのなかで奉仕しなければならないんです。彼女はご主人様を探さざるを得ないんです」


 パオロ・バチガルピ 『ねじまき少女』

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 造られた、服従せざるをえない少女というアンドロイド設定は、ジャパニメーションで使い古されたものだが『ねじまき少女』がヒューゴー賞とネヴュラ賞にローカス賞とキャンベル記念賞、コンプトン・クルック賞まで獲り、SF新時代の旗手とバチカルピが評されたのは、まさにその作品が奇をてらわない類型的なニッポンヲタク文化の美少女アンドロイド作法をもちいながら、きちんとSF文学作品として完成していたというところが大きいように思う。ぶっちゃけ、かたぶつSF文壇の方々は近年、その問題に頭を悩ませていたはずなのだ。

 そもそも、サイエンスフェィクションというジャンルこそが枠を取り外す試みをする、なんでもありの場だったはずなのに、それがいつのまにかヲタク文化などというものが世界を席巻して、羽根の生えた萌え美少女アンドロイドがご主人様のために戦うのを世界中の読者がだだと泣いて感動してマンガって、アニメって、いいものだわあ、と抱きしめている。それはまずい、というところに『ねじまき少女』が来た。

 『サクラ大戦』を彷彿とさせる、曖昧模糊としながらなんとなく懐かしい時代設定だが、実は未来。

 いままさにこの国ではあの地震もあって関心の高まっている電気エネルギーの貯蓄という方法論として、確かドイツだったと記憶するが、SFではなく現実に電気エネルギーを位置エネルギーに変換して貯蔵する施設を造っている。それと同じ方法で『ねじまき少女』世界では、ゼンマイにエネルギーがため込まれている。とか。

 遺伝子改造された、ドアを通り抜ける見えたり見えなかったりするチェシャ猫と呼ばれる幽霊のような猫が、繁殖しすぎて困っている、とか。

 いかにもそれ日本の漫画からパクってきたんじゃないの、という設定が、てんこもりだが、設定詰めこみすぎの感はなく、整然と格調高い。そのあたりのサジ加減が、SF賞総なめという「いやまあ、いろいろ言いたいことはあるけれど、これは確かに今と未来を絶妙に描いて予測している今のSF作品なので、これに賞やっておかない手はない」という決断だったのではないかと。なんだかんだ言って、この作品が評価されたのは、ねじまき少女が日本製だということが大きい。

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「うそじゃありませんよ。さわってみたことがあるんです。チェシャ猫は実在する生き物だ。あなたやわたしとおなじようにね」
「あいつらは空っぽの船だよ、魂はない」
 ソムチャイは納得しないそぶりで、「日本製のもっとも奇怪なしろものだって、ある意味、生きているといえるかもしれない。死んだ家族が、ねじまきに生まれ変わったんじゃないかと思うと不安です。だれもがみんな収縮時代の幽霊になれるほど善人じゃありませんからね。なかには、日本の工場でねじまきに生まれ変わって働きづめに働く羽目になる者もいるでしょう。むかしとくらべると人口は激減してるんです。魂はどこへ行くんでしょうね。たぶん日本で、ねじまきに宿るのかも」 


 パオロ・バチガルピ 『ねじまき少女』

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 うちにはほかにエネルギーを生みだす方法がないんですよ、あなたたちは私たちに飢えろというのか、私たちの造った車に乗って帰り、私たちの造ったテレビを見ながら、私たちには電気をつかうなと? なんてことを言いながら原子力を使いこなす特権を得て、その魔法の光る石からエネルギーを吸い出す技術を着々と独占している、おい、あのニッポンという国のやってることがみんなは怖くないのかよ! ……いや、怖いのである。日本の内側にいるとあまり意識されないが、外からの視点で見れば、この国はやる気になればいつだって最強の兵器を造り出せるのに、あえてやらない無表情な善人だ。

 バチカルピの描く未来で、少子化のきわまった日本は、世界では倫理的問題から禁止されている人造人間の製造を、特権的に認められている。で、もちろん無表情な日本人は、得た特権をいいことに、こっそり人造人間「ねじまき」の軍事バージョンや、愛玩バージョンを造っている。外国にやってくる日本の要人が、肌のきれいなねじまきをつれているが、それを見てタイ人は思う。まあ、ねじまきは日本人のものだしな。あの国は、かつてひどい爆弾も落とされたし。狭い島国で、地震はしょっちゅう起こるし津波に沈みかけたし。

 エミコは、立て、と怒鳴られると、立ってしまう。
 犬の遺伝子が愛玩用ねじまきには組み込まれているという噂だ。 
 エミコは、主人に可愛がられていたが、タイで捨てられた。いまでは、タイのアングラなストリップ小屋でショーにつかわれている道具。結果として彼女はキレて、ご主人様を失い、新しいご主人様をさがす羽目になるのだけれど。そのあたりの描写が、バチガルピったらヲタク文化を取材するなら、エロ同人誌もちゃんと読み込むべきだなあという感じが純正日本人ヲタからしてみればある。日本の愛玩メイドは、肛門にシャンパンの瓶を出し入れされたくらいではキレたりしない。ちょっとエミコは、ねじまきとはいえ自虐的にすぎる。その救いのないキャラ設定こそが、魂のないねじまきを造りまくって少子化もなんのそので発展を続ける怪物国日本の生みだした造形物らしくて、世界の賞賛を得たのだとしたら、日本人として反省すべきところではあるのかもしれない。やっぱり日本人はヘラヘラ笑わずに、冷血でいてこそ世界の期待に応えるキャラ演技ができているということなのかも。

 で、アマリリスのように。
 非道な日本人は、愛玩用ねじまきの肌をすべすべな陶器のごとく見えるように……もちろん、さわり心地もいいように……毛穴を極端に小さく造ってしまった。おかげで、日本でエアコンの効いた部屋で飼われていたころには問題ではなかったものの、タイでバロックに寝るようになったエミコは絶えずオーバーヒート気味。

 死ぬまで暑い造られたねじまき。
 造ったのも、暑い国に捨てていったのも、日本人。
 世界が絶賛。
 これがSFの未来。
 予言された以上、期待に応えなくてはならない。
 いや、応える努力はしなくてもいいかも、という気もします。
 技術的に、それができるようになったなら。
 アマリリスのように、ヒトを品種改良して、好きなようにデザインできるとしたら。
 華々しい大きな花を咲かせて愛でたいなどと日本人は思うだろうか。
 アマリリスの極彩色化は、いかにも欧米的な趣味じゃない?
 最初から私たちにまかせてくれたら、きっと淡いピンクで小さな花をつけるアマリリスを造ったはずだ。私なら、そう造る。いや、むしろ、花など咲かないように造る。だって、彼女が咲くのは、たんに私に見せるためだけなので、だったら、そんなところに回すエネルギーも、球根に回してもらいたい。私は、彼女が満足するように彼女を造るだろう。

 だからきっと、猫ではなくて犬の遺伝子をくわえる。
 肛門にシャンパンの瓶を出し入れされてよろこぶ遺伝子があれば、それも組み込む。
 立て、と言われて、反射的に立つようにそもそも造っておけば、命令されることが彼女のよろこびになるのだから、そう造らない意味がわからない。

 昨年度のSF賞を総なめ。
 『ねじまき少女』に、世界が暗に日本へ期待していることを読む。
 ええ、大丈夫、我々はそういう生き物です。
 安心してください。
 悪ではありません。
 ただ、追い求めているだけ。
 できることはやる。
 信じている道を行く者に倫理を説くのは愚行です。
 
 我々は、すべてのものに魂が宿っていると信じています。
 アマリリスにも、ねじまきにも。
 二次元の美少女や、架空の同性愛者たちにも。
 無限の愛はすべてを可能にするのです。
 あなたがたが怖れようと、私たちは無表情にそれをやってのける。
 少子化?
 どこかから連れてくればいいんでしょう?
 なんなら造りますよマジで。
 決して追いつめないでください。私たちにできないことはない。ついにサイエンスフィクションで世界の中心に存在する謎の巨大帝国として描かれるようになった日本国はフィクションではない。

 たぶん、本気で怖かったのね。
 しらないうちに愛玩用ねじまきとかジジツ造ってそうだもんジャパニーズ。
 そういう反応での受賞ラッシュだったんだろうなあ、と。
 読みながら複雑な気持ちになったのでした。
 ものすごく雰囲気はいいけれど、とてつもなく革新的ということでもなくて、むしろお約束的展開。やっぱり雰囲気、世界がもっていた漠然とした恐怖心を共感させた荒廃の未来観。
 そこに日本人が描かれていたからだと思うのです。
 SFの未来とは日本人の造ったエロねじまき少女火照り気味。
 エロくて怖くて手先も器用だなんて。
 そんなに褒められたら、私たち照れてしまうわ。

The Windup GirlThe Windup Girl

(いえね、どうにも白い皿の上の斬首されたアマリリス嬢の姿が、邦訳『ねじまき少女』表紙の鈴木康士イラストを連想してしまって……小説の中のねじまき少女は、こんなにしどけなく可憐な感じではないのですけれど、どうにもこのイラストにはうなずかせられるところがあります……いまでも、世界は日本女性に一種の幻想を視ているのです。先進国といわれるその国に、もうサムライはいないのに無口で三歩下がって主人のあとを行くことを美徳とし、実践する女性はまだ存在している。きっと彼らはそれも、怖い、のです。窮地に陥りつつある世界で独特のスタイルを迷いなく続けられるのは、強者か狂者だけだから)

Yasushi Suzuki

(ちなみに原著のカバーイラストは、少女の姿さえなく怪物象メゴドントが行く未来タイの風景。どう考えても売りであるはずの発熱エロアンドロイド美少女を描かないところが、SF界の苦悩を表しています。ジャパニメーションを感じさせると手を引く層が確実にいるのでしょう。そういう意味では、そういったハードでコアでマニアで通なSF読みなんてこの国にはたいした数いねえんだから迷わず美少女描いておけ、という自虐的なこの国の出版業界の姿も表しているのかもしれません。でもまあ、良い判断だと思います(笑))

The Windup Girl



新書館カグヤ的表現を使うなら「チーム男子」な少女漫画の実写化はR18ショタ系キャラをどうするかがいつだってネック。ぬいぐるみ抱いてるよあのおにいちゃん…生きたヒトで自然に魅せるのは至難のわざだもの。

映画『NANA1』のように逃げに走ると、みる側もみせる側もケガをする。だがその難題に対し、ジャニーさんはぜったい『桜蘭高校ホスト部』の実写化もすでに視野に入れていると思う。

崇の肩の上でうさちゃんを抱くハニー先輩を生身のヒトが演じきったとき、それは伝説になるだろう。

ジャニーズの肩にジャニーズはのれないから、なにげにそれは192cmストイック&ワイルド系モリ先輩を自然に演じられるプロレスラーがどこの団体にいるのか、という問題になるのかもしれないが。


twitter / Yoshinogi

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 そんなことをつぶやいていたのはもう二年ほども前のことなのですが。
 時代は動くもの。なんと『桜蘭高校ホスト部』実写化とかいうのをテレビでやっていたので観た。予想に反し、ジャニさんは絡んでいないようだが、もっと予想に反することにハニー先輩が初回からちゃんと小型化までしているという(さすがに肩には乗っていなかったが)。原作が売れると違うね。CGのクオリティが必要なレベルまでちゃんと金つぎ込んである。違和感なくたのしめました。山本裕典は私の須王環とは違う感じなのですが、その演技はいまにも「みさきーぬっ」とノブレスオブリージュに言いだしそうな仮面ライダーカブト時代の神代剣そのままで、見飽きないのでぜんぜんOK。むしろ、中村昌也がその身長ならもう20キロ、せめて10キロほどウェイトアップしてくれたらもっと好みなのだけれども。その浅い池に鯉は泳げないだろうとつっこんだのは私だけではないはずだ。ロケ地さがしも映像化のむずかしいところです。

Host club

Host club


 仮面ライダー俳優で実写化といえば、仮面ライダー電王、人斬り以蔵の演技を買われ『龍馬伝』監督で『るろうに剣心』実写映画化だそうで。ほう、るろうには、かつて作者がハリウッド映画化を嫌って話を断ったという噂もあったのが、近年の時代劇ブームで新人も育ってきてようやく和物で真摯に映画化という運びなのですねめでたい。これはまるで人斬りを演じられるうえにアンニュイな空気ももっている佐藤健という俳優が世に出てくるのを、原作のほうが待っていたというような良い話ですなあ、としみじみしていたり。

Rover

Rover

 実写化。
 それは、夢を増幅するものであり、終わらせるものでもあったりするのがこわいところ。

 このあいだここで、第一シーズンで終わった『フラッシュフォワード』のドラマ化について哀しみを述べておりましたが、今年はあのドラマ『V』(ビジター)が、リメイクされて日本でも放送がはじまるという。私がトカゲを名乗っているのは、完全にこのドラマのせい。まだ幼かった私は、宇宙からトカゲ顔の宇宙人が正々堂々侵略しにくるというよくできたお話に、少なからずホーキング的な思想を増幅されてしまったのです。すなわち「人類以外の知的生命体がこの宇宙のどこかにいるとしても積極的に遭うべきではない」という。『V』にかぎらず、私が子供のころは、そういう時代だったような気がします。宇宙人もスパイも、ときにはヒーローだって、やたらベロンと人間の顔を剥いで、真の素顔をさらす。友好的な隣国だって信用できないぜ腹のなかではなに思ってんだか、という冷戦まっただなかの世界は、物理的暴力を相手に向かって憎しみもろとも投げつけあっていたころよりも、どうにもそこかしこに怖いトカゲがひそんでいそうで。その恐怖と折り合いをつけるべく、私は母にタイガーマスクのマスクをねだったのでした。トカゲのマスクのプロレスラーがいれば間違いなくそれをねだったのでしょうが、トラでもよかった。とにかく、その図式に逃げ込みたいと願ったのです。

 怖いものになってしまえば、もう怖くない。

 私がいまでもプロレスを好んで観るのは、そこには演じることに命がけな人たちがたむろしているから。三沢光晴はタイガーマスクではなくなってしまったけれど、やっぱりジャンボ鶴田に勝った三沢として逝き、いまタイガーのマスクをかぶっている四代目(このあいだ五代目を名乗る選手もリングに上がっていたけれど、それは置いておいて)にいたっては、デビューからタイガーマスクで、もう十五年以上のキャリア。彼にとって、そのトラのマスクを剥いで見せる素顔は、観客を失望させるだけのものになりつつあるはず。彼はタイガーマスク。そうでない彼なんていない。その人生を、私はすばらしく美しいと感じる。

 そんなことを『ホスト部』観ながらぼんやり考えていたら『スターガール』のことを想い出した。

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 彼女はなんのジョークもないときに笑い、音楽のないときに踊った。
 彼女は学校でいちばんフレンドリーな人間なのに、友だちはひとりもできなかった。
 教室で質問に答えるとき、タツノオトシゴのことや、天体のことはよく知っているのに、フットボールがどういうものなのかは知らなかった。
 彼女は家にはテレビがないといった。
 まったくとらえどころがない子だった。彼女は今日そのもので、明日でもあった。彼女はかすかに漂うサボテンの花の香りで、音もなくよぎるフクロウの影だった。なぜ、彼女がそうなのか、知るものはだれもいない。心のなかでは、彼女をチョウのようにピンでコルクボードにとめたいと思うのに、彼女はピンをすりぬけて、飛び去ってしまう。


 ジェリー・スピネッリ 『スターガール』

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 私は自分が醜くて怖いトカゲだと知りながら、知っているからこそ、ヒトの皮をかぶって学校に行く。プロレスの話なんかしない。興味がないアイドルのうわさ話にも相づちをうち、確かに退屈しているのだけれど、友だちに向かって笑い、ときにはケンカまでする。

 いっぽう別の並列世界では、醜いトカゲの顔をさらして私は学校に行き、まわりからはどうしてあいつはトカゲのマスクなんてかぶっているんだと距離を置かれているが、気にせずみんなに笑いかけ、思いつくままに壁をのぼったり、紅い舌を、ちょろりとのばしたりする。

 スターガールは、自由だった。
 見も知らぬ他人の葬式で泣いたり、請われてチアガールになるものの敵チームのゴールにも歓声をあげたりする。まわりのだれもが、そのうちに気づく。あれ、あたしあの子のこと、ムカつくかも。

 スターガールは初めての恋をする。
 ぼくもまた、スターガールに惹かれている。
 けれど、その距離がちぢまり、彼女が大声で愛を歌い出したとき、ぼくは、ついに言ってしまう。
 彼女は、まるで小さな女の子のように、泣き出しそうな声で言う。

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 「でもどうやったら、世界中のほかの人のことまで考えていられるの? わたしなんか、自分のことだってよく考えられないのに」


 ジェリー・スピネッリ 『スターガール』

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 ぼくは言う。
 人はだれでも、朝起きた瞬間から、世界中のほかの人たちがどう思うのかを考えながら生きているのだと。
 ぼくは彼女を間違いなく愛している。
 でも、スターガールとぼくのまわりには、みんながいる。
 スターガールが気にしなくても、ぼくは。

 ……そんなお話。
 ポケットに白いネズミを飼うスターガールは、自分で自分にスターガールという名をつけて、自分を解きはなったのだが、転校してきた彼女のことを、みんなは宇宙人かジャンキーのように見て、やがて、怖がりさえするようになる。そして、スターガールはぼくのためにスターガールである自分を捨てて新たな人格を演じはじめるのだけれど……

 十年ほど前のベストセラーで、日本でもかなりのヒット作になったから、読んだ人も多いと思う。ただ、私にとっては、ちょっと特別な物語なのだった。その時期、私はジュヴナイル(おもに幻想的な雰囲気を含むヤングアダルト小説の意)と銘打って小説を募集していた某社に恋をしていて、そもそもそういうものを読んだこともないのに書こうとしていた私は『スターガール』のことも、たまたま大ヒットしていたヤングアダルト小説の一冊として手に取ったのでした。

 だがしかし。自分なりに勉強した私は、恋する某社が募集するジュヴナイルとは、いわゆるそれとは違うのではないかと結論づけ、むしろこういうものを載せるべきだと意気込んで書いた作品群を送りつけるようになっていく。いっぽう、その恋する某社は、数年後にジュヴナイルという表現を捨て去った。出版不況もあったと思う。でも、私は、みんなのことなんて見えていないみたいに、音楽のないところでこそ好きに踊る、その姿に恋したし愛して人生をかけてもいいと思えたのに、ジュヴナイルという仮面を捨てたあとの彼女は、むしろみんなに愛されるふつうの子を演じようとしているスターガールみたいで、みんなに愛されることは必要なんだろうけれど、でもきみの変わったところ、まわりを見ないところをこそぼくは好きだったのに、いっしょに死んでもいいと思っていたのに。女王のようだった彼女は、ふつうどころかぱっとしない愛想笑いをするスターガールではないだれかになってしまった気がしたのでした。

 そんなこんなで、忘れがたい『スターガール』を、私はいまでも、ときどき読み返すことがある。そして、この十年で、ふたりの監督が映画『スターガール』を撮ると決まったというニュースを読んだが、けっきょく映画化が実現しなかったことに、胸をなでおろす。スターガールを演じられる女優なんていない。だれにとっても、それぞれのスターガールだから、ひとつのイメージになんてできっこない。それは、追い求めてはいけないものだ。選ぶのは読者であって、作る側じゃない。

 そして私は『ラブ、スターガール』も手にとる。

 ヤングアダルトは、子供向けという意味ではない。
 よく言われる、プロレスはバカの観るものではなく、バカが観たってわかるし、バカでないヒトが観ればどこまでも深く哲学を語れるショーだ、というのに似ている。
 『スターガール』の映画化が、これはもう時機を逸したな、もうダメだな、と思われたころ出版された『ラブ、スターガール』は、大半の読者がスターガールを記憶の海に沈めかけていたのとは対照的に、あの物語からほんの一年後のスターガールの日常を描いていた。その完成度たるや、はっきり言ってしまえば、思春期の女の子の物語として書かれているけれど、これをティーンで読んだって本当の意味では読み込めるはずがない、とオトナぶって言いたくなる深さである。私が、これまで読んだすべての本のなかで、もっとも魅力的な女性が描かれている一冊だ。ロリコンぶって言いたくなる。

 少女が女に成長する刹那ほど美しいものはない。

 スターガールは、別の町でスターガールにもどっている。
 彼女には、ふたりの妹分ができ、姉とも呼べる大人の女性とも知りあいになる。
 スターガールの書いた手紙として描かれる『ラブ、スターガール』のなかで、スターガールはスターガールなのに、泣いたり震えたりする。さびしくて、弱気になって、私はどうすればいいのと悲観に暮れて。人生に迷っている。でも、スターガールのままで。

 もがくスターガールに、自分は自宅から出られないという神経症を患うベティ・ルーが、当たり前のことを、当たり前に教えてくれる。

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「あなたはね、今日という日から自分自身を消し去ろうとしていたの。『今日』はあなたに叫びかけて、なんとか注意をひこうとしたんだけど、あなたは『明日』にとらわれてしまっていた。そうして、今日は配水管を流れ落ちる水のように流れ去ってしまったの。明日の朝、目を覚ましたとき、あなたがむだにしてしまった今日という日はもう二度ともどってこない。そのときには、もう昨日になってるんだから。昨日の瞬間瞬間のなかに、あなたへのすばらしい贈り物が用意されていたのかもしれないのに、けっして知ることはできない」


 ジェリー・スピネッリ 『ラブ、スターガール』

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 今日という日は今日にしかない。
 仏教徒にとっては常識だが、これを読んでそうよねと思うあなたが十八歳なら、まだまだ甘い。考えるべきは、ベティ・ルーだ。彼女は家を出られない。出たいのに出られない。スターガールが訪れてくれなかったら、スターガールに自分から逢いに行くことはできない。そうして昨日を無駄にしたどころではない。一年中、毎日を、無駄にしまくっているのだ。けっして知ることのできなかったことだらけ。でも人生はまき戻らない。くだらない昨日だけが積み重なっている。彼女はそれをスターガールに伝えるが、伝わらないことをわかりながら言っている。

 明日にとらわれないでいられる者はいない。
 たとえ、今夜死ぬとわかっていても、ヒトは愚かしいことをする。
 でもそれを引き受けて、生きていくしかない。
 あやまちも、恥も、得たものだと納得して。
 裏切りも、失望も、ゆるして。

 私は、『ラブ・スターガール』でのスターガールの妹分、アルビナがラスト近くで見せるカウンティング・クーのシーンが大好き。カウンティング・クーとは、獲物まで近づいて、触れて帰ってくること。獲物を殺すよりも、カウンティング・クーを成功させた者こそが尊敬を得るのよと、スターガールはアルビナに言った。

 そして。
 少女アルビナは、男の子に対して、勇気を示す。

 あなたのことなんてなんとも思っていないとドキドキしながら演技できるようになったとき、恋するケモノは、子供でなくなる。そしてそのときから、今日を台無しにする人生がはじまる。たぶん明日もおおむね無駄にする。でも、どうせ無駄ばかりの人生だからとあきらめない。

 音楽がないときにこそ、自分のなかに音楽を聴く。
 そして踊る。
 触れなくちゃ伝わらない。
 でも、触れすぎてはいけない。
 カウンティング・クー。

 とりあえず、うしろからそおっと忍びよって、そっとつつきたい相手をさがすこと。そして自分を変えないこと。でも、まわりは見ること。だれかにつけてもらったものであれ、自分でつけたものであれ、名前というマスクの下の素顔がトカゲかどうかはどうでもいい。そのマスクで演じきること。それはおもに、自分が今日を見失わないために。ここにこいつがいると、自分で自分を示すために。

 そう。観察者、という例の話のようなこと。
 自分で視た自分だけが確定する。
 確定していないものを、ほかのだれかにわかってもらうなんて無理。

 そんなことを、開くたびに考える。
 映画化しないでほしい。
 ずっと、私のスターガールは、私の描くままであってほしい。
 私のために。

 よく、その時期のことを、ハシが転がってもおかしい年頃というけれど、それは裏返せば、朝陽を見て涙ぐんだりすることのできる時期でもあるということ。そして、その時期から、ヒトの繁殖期ははじまる。きっとそれは、必要なことなんだろう。なんでもないことに笑えて、ささいなことに感動できて、他人の不幸に過剰に同情せずにいられず、その反面、世界なんてくだらない場所だと絶望する夜ももつ。そのジェットコースターみたいな感情の起伏のなかでだけ、恋は燃えあがる。他人と溶けあえると信じられたりする。

 スターガールは、思春期の少女たちに向けたジュヴナイルのヒロインだけれど。
 いまでは大人ガールや大人ボーイがこの国を動かしている。死ぬまで追い求めて、なにからも卒業しないで、恋しつづけるなら、だれもが、死ぬまでスターガールを見習うべきだ。

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あの鳥のなかにはいろいろな歌がぎっしりつまっているのに、なにから歌いはじめたらいいのか、なかなか決められないでいるみたいだ。それで、それらを一度に歌おうとする。一ダースもの歌を一度に。一ダースもの声を一度に。マネシツグミはとぎれなく鳴きつづける。元気いっぱいに、死に物狂いといってもいいぐらいに。世界を目覚めさせておけるのは自分の歌だけだといわんばかりに。


 ジェリー・スピネッリ 『ラブ、スターガール』

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 マネシツグミにとって、世界とはそういうものだろう。
 かつてのスターガールにとってもそうだった。
 けれど彼女は、知らずおぼえていく。
 世界のなかの選んだ部分に、歌をとどけるすべを。
 手をのばした場所、触れた場所が確定する。
 触れたら光るタッチセンサーのライトみたいに。
 見たいものが見える。
 見えたら、あらためて歌えばいい。
 たぶん、小さな世界は、耳をかたむけてくれるはずだ。
 歌いつづける真摯さに、拍手さえ贈ってくれるかも。
 あなたは自分のいたらなさもひっくるめて、許容してくれた小さな世界へ深々と礼をして、ゆるされるかどうかを試すことになる。もっと近づいていいかを。あなたという小さな世界を、私のものにしてもいいかを。
 マネシツグミのように死に物狂いなのは変わらないけれど、つむぎかたを、つたえかたを、指ののばしかたをおぼえるのが大人に近づくことなのかもと思ったら。そっと指をのばしたとしても、その身のうちでは死に物狂いでいるってことこそが、重要なんだと気づくのです。

 ラブ、スターガール。
 というのは、手紙の最後の言葉。
 世界が彼女をではなく、彼女が世界へ、贈っている。
 身は熱く、心も熱く、でも静かに言いきること。
 愛してる。

Stargirl
Stargirl

 余談ですが『スターガール』を読ませたい相手に、この十年で何人も出逢った。
 でも、こうしてブログで紹介するようにはできないのが、この本の困ったところ。だって、直接に薦めれば、絶対にこう思う……

「ヨシノギさんは、私のことを変な女の子で、まわりから白い目で見られて友だちもいないっていうふうに見ているのですね」

 そうじゃなくて、そういうスターガールが、でもスターガールのままで折り合いをつけていく過程が美しいと私は感じ、それを彼女にも感じてもらえたらと思うのだけれども。
 本っていうのは、出逢いかたも大事。
 できれば自分で見つけたそれが、やっぱり身に染みて残る気がする。
 というわけで、ここは電車の中だと思って。となりに座ったむさい男が似合わない可愛らしい装丁の本を開いている、あれはなんの本かしらと目にとまったそれが『スターガール』。あなたはそこでばったりスターガールに出逢った。だったら、私のことなど忘れて、読んでみてください。ひたいを撃ち抜かれたみたいになるヒトも、少なからずいるはず。大切な一冊になるかもしれません。

 私にとってはジュヴナイルを象徴するタイトル。
 まったくの現代物なのだけれど、ファンタジーという響きで、この本を想い出す。
 スターガールがとなりにいたら、こういうとき、ため息をついて私を見るだろうと想像する瞬間がある。そんなとき、私はため息を返し、大きく息を吸う。

 わかったよ。行こう。

 決めたら、スターガールは笑った気がする。
 それでいいのよと。
 肩さえ叩かれた気がして、そういう荒っぽい女の子は、ぜんぜん好みではないくせに。
 行ける気がするのです。
 そんなに遠くまでは、もう無理でも。
 演じている内側に、本当の自分なんて残っていなくても。
 近所の砂漠でサボテンに寄りかかってトカゲのマスクの隙間から、星空を見る時間くらいはあると信じられる……今日がまだ、昨日になってしまわないうちに。 


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