最近の記事

スポンサードリンク

月別アーカイブ




 このプロット、このデザイン。
 失望すべきではない。
 そこにはあきらかに「狙った」意志が見てとれる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

『仮面ライダーフォーゼ』公式サイト

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 それにしても、
 「仮面ライダー」生誕40周年は、さすがに原点回帰だろうと考えていた我々の浅はかさを笑うように(ていうか『W』で回帰に挑んで成功してしまったから、もはやその手は使えなくなってしまったということなんだろうけれど)、まさかの、

「有人宇宙飛行50周年」

 いやなぜそれを仮面ライダーで祝祭せねばならないのか、ライダーぞ。バイクは? ロケットて。そりゃあ仮面ライダーにいまからあこがれてバイク乗りになろうなんておぼっちゃんが免許とるころには、ホンダもヤマハもカワサキも電気でバイク走らせているでしょうから、そもそもの石ノ森スピリッツである「悪の力も正義の心で使ってしまえ」という仮面ライダー魂を表現するには、むしろロケットエンジンなのかもしれませんが。でも、有人宇宙飛行50周年はウルトラマンに祝わせてやるべきじゃないかなあ、と仮面ライダー派の私でさえ思ってしまいます。

 というわけで。
 ウルトラマンを意識したのかどうかは知りませんが、スペースシャトルの引退で宇宙船てのはやっぱり飛行機型でなくてロケットですよ尖った形こそ最強。というところにも乗ったのかどうかは知りませんが、仮面ライダーZZZZ(公式サイトには見あたりませんが、たぶんこの表記でしょう。スヌーピーがいびきかきながら寝ているところを思い浮かべてしまいます)のあたまも尖っています。

 なぜロケットを模したのか。
 せめて宇宙服を、最悪、スタートレックエンタープラズ的円盤デザインとか、いっそミスタースポックを模していれば、スマートライダーになった可能性もあっただろうに。

USS Enterprise

 初見して口もとを押さえ、天井を見上げて熟考しました。
 これまで読んだどんな哲学書よりも、人生について考えずにはいられません。
 ちなみにいまも左足の骨にヒビ入っているのですが。
 これも、バイクでのケガです。
 仮面ライダーがバイクに乗っていなければ、私はいま別人だったはずです。
 それが、あたま尖らせてロケットときた。
 電車のときより問いかけは深い……

 考えたすえ、プロットを読んで、結論づけた。

 主人公の如月弦太朗はリーゼントで短ラン姿のバッドボーイ。
 転校早々「学園の生徒全員と友達になる」と宣言するゴキゲンな野郎。
 彼はヒーローと学生をどう両立させていくのか。

 公式設定がコレである。
 青春痛快エンタテインメントと銘打ってもある。
 そりゃあもう学園でコメディということで。
 むしろ永井豪の学園ものを実写化したB級邦画たちを想い出す雰囲気だ。とはいえ、その道の人々にとってめーらめらなことに、けっこう仮面が実写ならそれだけで90分観ていられるというピンポイントなことも事実。
 だとすれば、たぶん、今回撃たれているのは、私だ。

 私は仮面ライダー好きではあるが、正直なところ、石ノ森章太郎原作の特撮といえば、『有言実行三姉妹シュシュトリアン』を筆頭にあげる。あのころの、ただれた昭和の、もうこのまま朽ち果てていってもいいやといったアンニュイな幸福感こそを、抱いたままいまも生きている。



 そんな私としては、『シュシュトリアン』が最終作とされる、いわゆる「東映不思議コメディーシリーズ」の復活最新作として『仮面ライダー フォーゼ』を観ようと思うのであった。

 原作・石ノ森章太郎

 仮面ライダーである以上、フォーゼも、そうクレジットされている。
 宇宙で青春とか腕にロケットつけてどーんとか。
 イッシーが生きていたら、確かにそろそろ『シュシュトリアン』風味な世界観で、世界を明るく楽しく激しく脱力させてくださっていたころかもしれない。
 フライドチキン男的なキャラも出せばいいじゃない。
 扇子ひろげて妖怪うちすえたりとかもやればいいじゃない。
 宇宙まで行くなら、緑色のドロドロしたのとか、毛むくじゃらのボールとか、Haloのフラッドとか、そういうクリーチャーとも戦ってほしいぜフォーゼ。

 いや、まじめな話。
 子供に夢を与えるのにオートバイよりもロケット、革ジャンよりも宇宙服だと決めたのならば、コメディであっても、そこは描かないといけない。

 宇宙、それは最後のフロンティア。

 私はトレッキーでもある。
 宇宙へ行く仮面ライダーへひとこと言わせて。

 未知のものを知る。
 それを描けなければ、宇宙開拓ものは絶対に失敗する。
 子供だましでいい。
 それでも描こうとして。

 仮面ライダーの概念を破壊したきみたちだできるだろう。
 こんな狭っくるしい地上が、世界のすべてではないと。
 仮面ライダーがその道を走るのなら、その道は現実にあるのだと信じる子供たちと、いまでも信じている私に、開拓すべき宇宙があり、宇宙にとどまらず、まだまったく考えもしていない未知なる新世界がどこかにあるのだと、信じさせなくてもいいから、描いて。

 石ノ森章太郎原作とは、そういうことだ。
 悪でさえ正義に描いた。
 有言実行三姉妹は酉年の平和を守った。
 仮面ライダーは宇宙に行く。
 フォーゼは私たちをメザメさせ、数年後には、当たり前のように、夜空の月を見上げて想うことだろう……

「ああ、あそこで仮面ライダーは戦ったんだ」

 だから空にも正義はあると。
 生きる力を得るだろう。
 フォーゼのおかげで。
 空は、もっと広くなる。
 きっと。

 放送開始から40年、今なお「仮面ライダー」は進化を続ける!
 そう言いながら、製作発表から番組紹介まで、いっさいオートバイが出てきていない。これはあえて見せていないと勘ぐるのが正しいでしょう。なにせ仮面ライダー。最初は車の助手席だった仮面ライダー響でさえ相棒はバイカーでしたし、電車乗りの電王も運転席はバイクでした。無理やりにでもバイクに乗るのが仮面ライダー。まさか進化を続けるフォーゼがロケットの操縦席がバイクなんて二番煎じであるはずはないし、これはまさかの、これはまさかの、これはまさかの……コブラのエアバイク的なあれなのか……

COBRA

 宇宙をバイクで飛びまわる仮面ライダー。
 フォーゼのアストロスイッチ左腕の初期設定はレーダーらしいが、もちろん仮面ライダー商法のためにがんがん着け変えていくのだろうから、もうここは宇宙でバイク乗るならサイコガン的なあれもそれしてあれってほしいものです。
 主人公がリーゼントというのも暗喩なのでしょう。どう見たってアホな髪型だが、それを本気でかっこいいと思わせた時代がこの国にはある。やりすぎれば、頭が尖っているのがヒーローのあかしみたいなことになって、子供たちも円錐に丸めた新聞紙をかぶって宇宙を目指すに違いありません。ある意味その光景は、新聞紙の兜と日本刀や、風呂敷のマント、みんながみんなそれぞれの夢を見ていたこの国の時代を思わせるものである。そのあたりをも狙ったのだとしたら、フォーゼとはなんとメッセージ性の高い造形なのだろうか、私は置いて行かれてしまっているなあ全速力で追いつかなくては、などとも思ったり思わなかったり。

 いろいろ複雑な想いのまま、待っています。
 言っておくけれど、ものすごく期待しているんだからねっ。
 (いや、だれに向かってのツンデレだかわかりませんけれども……) 


アニメイトオンラインショップ


なにをどうしようが
どんな方法をとろうが
死んでしまう
これじゃあ
まるで運命じゃないか
そうか、これこそ……

STEINS;GATE

TVアニメーション『STEINS;GATE』

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

STEINS;GATE
STEINS;GATE

 いよいよアニメも佳境に入ってきた、言わずと知れたXbox360のヒット作『STEINS;GATE(シュタインズゲート)』。

 そうか、これこそ。

 そう言ったあと、彼は自分で自分の言葉を否定し続けるが、それでも過去をなんどくりかえしても、訪れる死に変更がないことは彼自身がよく知っている。現在とは唯一無二のものであり、過去をやりなおせたところで、同じところに至るのだ。

 ということを、ドラマチックに語られるので、ああそうなのか運命というものは存在しているのだなあとフィクションの魔力で信じ込まされてしまいそうだが……

 鳳凰院凶真さまや、クリスティーナ、まゆしぃ、などの傑出したキャラクターたちを愛でることに飽きたらず、そのあたりの並行世界と自由意志の概念のあれこれに『STEINS;GATE』で触れて、ああなんか不思議な考えかたがいろいろであたまがふわふわする、という知恵麻薬に溺れる快感に目覚めたかたがいらっしゃったなら、いっしょにそのあたりをふわふわしてみたい。

 さて。
 『STEINS;GATE』。
 信じ込まされてしまいそうだが、と書いたからには、私はそのあたりのくだりで「私のとは違う」と思ってしまった宗派の一員であり、そんな私がなにが違うと思ったかといえば。

 ヒトの死は、世界にとって、そんなに重要な出来事か。

 というところ。もちろん死は怖い。死はひどいし、ヒトだってサイだって、身内が死ねば哀しくてどうしようもなくなってしまう。

 でも、ナメクジだって、バクテリアだって死はあるわけで。

 愛するだれかの死を回避するために、タイムマシンを使って過去をなんどもやりなおしたが、その死を避けられない。だけれど『STEINS;GATE』では、状況は毎回変わっている。銃で撃たれたヒトが、今度は車に轢かれ、電車にはねられ、なんどくりかえしてもくりかえしても……死ぬのだけれど。冷静に考えてみれば、「死にかた」が違うのは、世界線(というのは、大ざっぱに表現すれば並行宇宙にいっぱいあるいろいろな「現在」の立ち位置のこと)がわずかしかずらせなかったというには、あまりに大きな違いである。密室で銃で撃たれるケースがかえっていちばん波風立たなそうでさえある。いっぽう、たとえばタクシーの後部座席で乗客が、隣に走ってきたバイクから窓越しに拳銃で撃たれて死んだ、なんていうのは。

 そりゃあ、ドラマチックに「また死んだ。変わらなかった。もういちど過去へ。今度は救うんだ」と熱くなっている一人称の主人公にとっては「変わらなかった死」かもしれないけれど。その世界線に取り残されたタクシーの運転手にとっては、間違いなく人生が大きく変わってしまう出来事である。ツレが死んだのにもうひとりの客はどこかに行ってしまい、窓ガラスは割れ、後部座席に屍体。警察がやってくる。運転手は疑われはしなくても、何度も警察に呼ばれることになるだろうし、個人タクシーなら殺人では保険もなかなかおりないし、血に汚れた車で客を拾う気には、もうなれないかもしれない。

 死が死であるから、死にかたが変わっても過去を改変できなかったなどというのは、主人公の一人称視点のなかだけでの話である。世界の在りかたからするならば、ヒトひとりの死という結末は、ヒトひとりの結末にすぎず、全体の結末では、むろんない。世界は続いていくのだ。それなのに、そこに波風を立てられては困る。あっちの現在では電車に乗って普通に学校に行った彼女が、こっちの現在では轢かれてミンチになった屍体を目撃したなどというのは、大変にゆゆしき違いとなってしまうのです……神の視点からするならば。

 以前に、Xbox360の兄貴分ともいえるセガサターンの『街』にからめて、並行世界について書いたことがあった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

『シュレーディンガーの猫』のこと。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 その視点で行くと、神とは私である。
 だとしたら。私が神で主人公で、その一人称視点のなかだけでの話だとするならば。これはしかし、それが世界のすべてだと言ってしまっても良い。私がタクシーを降りてまた別の世界線に行けば、私にとっての血に汚れた後部座席は消えてなくなる。でも、いったん見てしまったのだから、あとに残した世界線も確定されて残るんじゃないのと思われるかもしれないが、それは残されたタクシー運転手の物語であって、私のではない。なんて自己チューな?
 なにを言うか我は神ぞ。

 もっと大きく出てもいい。

 私という観察者なしに、宇宙は存在しない。
 観察者になるには資格がいる。だから、ナメクジやバクテリアはもちろん、サイや、チンパンジーでさえ、彼らにとっての世界線などというものはないのである。彼らには、宇宙を宇宙と認識する知性がない。私のように、いま私は宇宙の中心で叫ぶ獣であると、自分の立ち位置を認識できたりしない。

 ところで。
 この話は、宇宙にとっては、朗報ではない。

 なぜなら、宇宙が存在するために、観察者は必要だからだ。
 宇宙に知性はない。知性を持つのはヒトであり、観察者たりえるのはヒトだけである。
 このシナリオで行くと、ここに人類がいるのだから宇宙にはほかにも多くの知的生命体が存在するはずだ、という議論は唾棄すべきものとなる。人類が生まれた、この奇跡のように恵まれた環境は、あまりにできすぎている。むしろ、こう考えたほうがいい。

 知性のない宇宙が、必要にかられて生みだした知的生命体がヒト。

 え? ああ、宇宙という存在が確定するために観察者が必要だから宇宙が観察者を生みだしたというのは、観察者よりも先に宇宙が確定されていないと不可能ではないか?

 いや、ご意見はもっともだが、その確定とやらを現在進行形の「未来」だけに作用するものだと考えてしまうところが、シュレーディンガー先生の古くさい思考の限界だという話もある。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「きみは多世界解釈をいまだに信じているのか? あれは交流解釈によって粉砕されただろう」


ロバート・J・ソウヤー 『フラッシュフォワード』

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 『フラッシュフォワード』は、『STEINS;GATE』でふわふわしたヒトならば、ぜひ読んでほしい。大型ドラマ化もされた。原作からフラッシュフォワードのアイデアをおもに抜き出し、実に実にドラマチックにしあげてあったのに、第一シーズンで打ちきりになってしまったのは、非常に無念なことであった。個人的に好きだというひいき目を抜きにしても、かなり質の高いドラマに仕上がっていたのだが。『ダークエンジェル』とか『クーンツのフランケンシュタイン』(は、そもそもパイロット版で終了したけど)みたいに、なんでそこで終わるんだ、ならばオレが書く、とドラマ化に入れ込んでいたと聞くソウヤー先生が、続編を公式ノベライズしてくださることを願ってやみません。

 『フラッシュフォワード』というのは、フラッシュバックをもじった造語で、短い間だけ、未来の光景を見てしまうという現象のこと。
 ドラマでは、俳優がいるから仕方のないこともあって、半年後に設定されていた「人々の覗く未来」だけれど、やっぱり原作の二十一年後というスパンのほうが謎めいていて素敵。たとえば覗いた二分間だけの未来で、あなたは見ず知らずの相手と長年連れ添ったような生活をいとなんでいるとする。二十一年後にそうなら、その相手と出逢うのは近日中かもしれない。ところで私には、いまつきあっている相手がいる……その相手は、二十一年後の二分間に登場しない。

 いまつきあっている相手とは、別れてしまうの?
 こんなにうまくいっているのに?

 ここで、別れという発想が頭をよぎった事実は見過ごせない。私がそんなことを考えたのは、フラッシュフォワードで見た未来にそのひとがいなかったからで、別の相手と愛しあっていたからで……そう。そこは問題になる。未来を見たことで「現在」に余計な波風が立ち、その結果として未来が形成されるなら、そもそも覗いた未来は、未来を見たからできあがった未来だということだから、そんなのはおかしい……

 さっきの、観察者がいないのに確定された宇宙が観察者を生んだ、というのに似ている。

 これを解釈するために小説『フラッシュフォワード』の主人公ロイドは、シュレーディンガーの猫でおなじみコペンハーゲン解釈に対する代案としてジョン・グリーソン・クラマーの提唱した、交流解釈を信奉している。

 こういうものだ。

 すべての存在は「提示波」なる実体の波動を発散していて、その波動は宇宙のあらゆる場所と時間に放たれている。提示波がヒトの目にふれると、その目は「確認波」を発散する。確認波もまた実体の波動であり、宇宙のあらゆる場所と時間に放たれる。提示波と確認波は、互いに互いを相殺してほとんどの場所でなかったことになるけれど、唯一、「提示波の発散源」と「確認波の発散源」とのまっすぐな経路の上においてだけ互いを強めあう。
 これを「量子交流」と呼ぶ。

 はたして、起こったことはコペンハーゲン解釈と同じである。

 観察者は箱の中の死んだ猫を見る。

 「提示波の発散源」=死んだ猫。
 「確認波の発散源」=私の目。

 猫の死んだ現在は確定される。

 が、交流解釈ではのみならず、量子交流によって、未来も過去も確定されている。宇宙のあらゆる場所と時間に放出される波動の作用である。

 いや、むしろ、クラマーが提唱したのは「未来や過去も」ということではない。量子交流は、時間の流れとは無関係におこるのだということだ。

 これを端的にいうとどういうことか。

「死んだ猫を見たならば猫は死んでいる」

 それだけだ。
 宇宙は枝分かれしない。
 それ以外の現実はない。
 いま、ここに死んでいる猫を観察者は見た。
 ならば死んだ猫のいるこの宇宙は、そういうふうになったのだ。
 「なった」のは「いま」だと考えてしまいそうになるが、そうではない、時間とは無関係である。無関係に、それは確定された事項になる。

 猫は死んでいた。
 猫は死んでいる。
 それ以外の現実はないということを言いかえれば、

「未来もすでに決まっている」

 とも表せる。

 量子交流はすべてをあますところなく確定させる。

 過去は決まっている。
 未来は決まっている。
 決まっている現在を、いま見ている。

 主人公ロイドは言いきる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「あなたは昨日たくさんの決断をくだしましたが、それらは動かしがたいものです。いくつかの決断をどんなに深く悔やんだとしても、それを変更する手段はありません。あなたは明日もたくさんの決断をくだすでしょう。なにもちがいはありません。あなたは自由意志があると思っていますが、そんなことはないのです」


ロバート・J・ソウヤー 『フラッシュフォワード』

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 もちろん、ロイドの過去には哀しいことがあった。
 それが、この解釈では赦されるというところが、フィクションの魔力でもあろう。
 だが現実に、この「世界線は分岐したりしない」という考えかたによって、古くから救われてきた人たちは多い。

 すべては神の意志。

 宇宙を確定させているのはヒトであり私であるという理論から発せられた言葉なのに、うらはらにそこでは神の存在が見え隠れする。

 決定権はこっちにある。
 だが、死んだ猫を見ないでいることはできないのだ。
 死んだ猫は箱を開ければかならずそこにいる。
 なぜなら、現在とはすでに確定している未来の一部なのだから。

 私はいま、ラストシーンの決まった映画の中盤で、熱演する俳優だ。
 いまはつらいが、ラストシーンは約束されている。
 かっこいいやつが。
 たぶん。
 そのための努力は、必要ならするだろうし、しなくてもいいのかもしれない。それもすでに決まっていることだから、私が悩むところではない。
 あれもこれもすべて、運命だったのだ。
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「どうかしら。よくわからない。だって、なにもかも決まっているのなら、生き続けることになんの意味があるの?」
「結末がすでに決まっている本を読むことに意味はないのかい?」


ロバート・J・ソウヤー 『フラッシュフォワード』

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 もちろん意味はある。
 私はプロレスファンである。多くのプロレスファンは、どんでん返しよりも、勧善懲悪なシナリオを好む。BL好きや、アクション映画フリークだってそうだろう。気分の悪いラストなど求めていない。すばらしい最後に向かって、私たちは生き続けることを望む。その途中の時間は至福のものだ。

 ほら、いま見た。
 それが過去を決めた。
 あなたの未来も決めている。
 人生はそのくりかえし。

 考えこむことはない。
 すべて決まっているのだから。
 おだやかに、次の確認波を目から放出するだけである。
 ああ神よ。
 私はしあわせです。

FlashForward

 ちなみに小説『フラッシュフォワード』のラストシーンは、激しく壮大なことになります。この話、どう終わらせるんだというのを、ソウヤー先生はねじ伏せてくれる。
 良い小説なのです。
 未読のかたはぜひ、ふわふわしてください。




ハンマードリルで玄関のコンクリートに穴あけていたら「おリフォームか。なにできるんかたのしみやなあ」と通りすがりのおっちゃんに話しかけられた。庭にバイク上げるためにスロープ作ってんです。できあがっても、おもしろくはない。

twitter / Yoshinogi

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 職場では、あちこち動きまわって使うので、充電式の日立さんのインパクトドライバーを愛用しているのですが、プライベートなドリルは安物です。

 いま愛用しているのは、これ。

Black & Decker

 マクドナルドくらいに有名な、Black & Decker。
 なんと一年保証がついている。
 ふつうは、電動工具に保証期間なんてものはありません。初期不良は無償交換したりするけれど(そう複雑な機械でもないので、初期不良なんてものがまずほとんどありませんが)、使いはじめたら、買った当日でも有償修理になることがある。

 なぜ保証期間がないのかといえば、能力超えたところで無理をすれば、やつらは簡単に逝ってしまうし、逝かせたらそれは飼っている主人のあつかいかたのせいであり、それでもごねる御主人さまがいたなら、無念の表情を浮かべてこう言うしかありません。

 あなたは、もっと有能なコを選んで買うべきだったのです。

 ドリルなんて、モーターに皮がついただけのもの。それが製品の寿命という要因以外で壊れるというのは、8ミリの穴しか開けられないドリルで15ミリの穴を開けようとしたか、本体が熱くなっているのに冷ますこともせずに使いつづけたか。つまりは、壊れることをしたから壊れたのであって、そういう御主人さまには、なぜこの世には同じインパクトドライバーなのに数千円のものから数万円のものまでが存在するのかを熟考していただきたいと思います。

 さておき、そんな保証無しが当たり前の電動工具の世界で、なぜだか一年保証のついてくるブラック&デッカー社。
 その理由は明快。

 アメリカ生まれだから。
 近ごろでは掃除機なんかも売っていらっしゃる。

PV1210P

 売る身にすると、なぜ世界最大なのかがよくわかります。単純な機械を、単純に作る。どうやったって発生する不良品は保証をつけて修理せずに良品交換。売りかたも単純。

 で、ここが重要だけれど、たとえば今回開けたコンクリートの穴、11mmドリルを使っています。物差しが近くにあれば計っていただければわかるが、11mmというのは人間の小指くらいある。それを真夏に、直射日光の下で、十箇所ほど連続で開ける。触れられないくらい熱くなる。でも平気。このライン。

 私も仕事でブラック&デッカーはぜったい使わない。プライベートでは、実際にモーターを焼き切ったことがある。でもまた買う。そういうもの。だって今回も、もうコンクリートに穴は開いた。この工事を日当払って職人さんにたのむと、ドリルの販売金額の倍はする。ということは、次もこれを買う。

 100年の歴史。
 少なくとも、値段のぶんは働く。
 その思想が素敵。
 売れているから高級機とか作らない。
 世界の家庭に、そこそこなドリルを。

 みんなが知っているそこそこな品なので、プロユースはされないし、家庭でもそんなに本気の使いかたはしない。付属品は安っぽいプラスチックだったりするし、そんなのが十年保つだなんてだれも思わない。だからつけられる一年保証。つまるところ、まあたしかにうちの品がいかにも安っぽいからといって、一年も経たずに壊れたらお客さん哀しいだろうから交換します、という優しさ。好感度高い。製品が頑丈だとかそういう安心ではなく、ともかくそれなりに使えるという安心。ふつうを演じ続けるのはむずかしい。凡庸をつらぬくのは美徳。

 ちなみに、いまこれを書いているパソコンのスチールケースに、放熱のための穴をいっぱい開けたのもブラック&デッカーで。無線LANを信用していないから、二階から一階にLANケーブルを通すために天井に穴開けたのもブラック&デッカーで。慣れたもので、ハンマードリルでネジ締めだってやってしまいます。だって回転しているのだもの。自在チャックだもの。ドライバーを取りつければ、3秒でカラーボックスが組み上がります(体感時間)。ま、ちょっと指に力を入れすぎると、きれいにナメてネジがネジでなくなることもありますけれども。そのパワフルさが、また愛おしい。
 
 まさに謳うとおり。
 安心の品質。
 壊れてもしかたないやと思える下僕の御主人さまとして、壊れるまで遊びたおすだけなのですから。未来は約束されている。壊れないといわれるより、いずれ壊れるけれどしばらくは無茶しても平気という、その開きなおってぶっちゃけた安心感。

 実際のところ、壊れたから交換なんてことは、まずない。

 私のプライベートドリルも、握りすぎて黒くなっています。
 意外に使用頻度の高いハンマードリル。

(日本での製品名は振動ドリルだけれど、パッケージの英語表記はハンマードリル。日本でハンマードリルといえば、特殊な専用形状の先端を使う穴開け専用のがっつんがっつん動くゴツい別種の機械を思い浮かべますが、大ざっぱなアメリカでは振動ドリルも小型のハンマードリルということで通っているようなので、私もそう表記します。厳密にいえば動作的な差違もある。でも、振動ドリルという名称は直感的になんだかわかりにくいので、日本でもハンマードリルで統一しちゃえばいいのにと、日々、各種ドリルの違いを説明する身としては思うのです)

 私が回転ドリルでもインパクトドライバーでもなく、ハンマードリルを常備するのは、とにもかくにも、コンクリートに穴を開けたいから。ネジは手でも締められるけれど、コンクリートに11mmの穴を開けられるのはクンフーの達人だけです。

 というわけで。
 ガリガリと穴を開けて終わります。
 いや、実際にはガリガリなんて可愛らしい音ではありません。ハンマードリルはその名の通り、超高速で先端を回転させながらピストンさせる機械。どこぞの映像会社さんが、その先端にディルドをとりつけた大人のオモチャで女優をえぐるというシリーズを開発してひと財産を築きましたが、あれは専用の弱ーいモーター出力のを使っているのであって、ホームセンターで買ってきたハンマードリルで彼女とか彼とかをえぐったら、本当にえぐれます。きっとあのAV観て、おおやけにはなっていないもののそういう事故はそこかしこで起きていることでしょう。ファンタジーを実践するには、なんにせよ技術と知識が必要なのだと肝に銘じましょう。

 三個目の穴を開けたあたりで、三軒先の引っ越しの挨拶もしていなかったお宅から、おねえさまがなにごとかと顔を出されたので会釈する。工事中ですごめんなさい。ひかえめに言って、町内一円に聞こえる音です。それを間近で聞いている私の耳はおかしくなります。メガネはしましょう。手袋は、かえって巻きこんだりするのでつけないほうがいいというのが定説。

 できた穴。

Hole

 ハンマードリルには、長いクチバシのような棒がついていて、これで、計った深さまでえぐったら、それ以上行かないようにストップをかけます。ただ、これがなかなかピタッと合わない。まずは浅めに入れてみて、確認のうえ、微調整。まだいけそうなら、もういちど激しく回転ピストンさせて、大声をあげ、深くえぐる。この作業を一個目の穴でおこたると、無数の穴を開けてから、すべての穴をもういちど深くえぐるために爆音をとどろかせるということになるので、気をつけませう。

 できた穴に、ネジの雌を入れます。
 (そういう会話をしながら「いや、じゃなくて入れられるほう、メスのほうのコンセント」とか「ほら、出っぱってる差し込むオスの部品が」とか連呼しているのって、冷静に考えてみればエラく淫猥なことだよなあ、と、ときおりたのしくなることもある。そんなんでたのしくなるときは、たいてい疲れているときなんですが)

Hole2

 ぴったり。
 ゆるくもなくきつくもなく、おおきすぎずちいさすぎない。
 ぬれているのは雌をぶち込む前に、削り粉をバケツの水で洗い流したから。
 上の穴の写真とは別の穴に雌を挿れたのを撮っていますが、うまくできたのを撮ったというわけではなく、実はこれ、コンクリートの下に詰まっている砂利まで穴が貫通したので、小石を詰めて弾性接着剤で固定している。そのおかげで、本来は取りつけると奥が詰まるはずのネジ穴の奥が暗く写っていたのでああいいなあ、と。いえ、わからないヒトにはよくわからない話です。聞き流してください。とにかくこれで、段差プレートを、がっちり固定できます。
 
 一週間も実家に置きっぱなしの愛車を取りに行ってきます。
 着実に、生活が戻りつつある。

 あなたの人生にも、ぜひドリルを。

コメリドットコム