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 今年もたのしいE3が無事終了いたしまして。
 我らがXboxはKinect推しを続行中。

 ま、Haloの新作も発表されたので、私は私で満足至極。

『Halo 4 - Xbox.com』

 最近はなぜだか『3』に舞いもどって戦闘中ですが。
 で、Kinect。
 数ヶ月前にKinectに触れたときに比べると、本気で売れてもいいソフトが出てきはじめました。

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『テーブルトーク・スクールニューディール・アバターキネクトと、お茶』の話。

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 Xbox Kinectの、本来の使いかたは上のような感ですが、下の動画がアップされて以来、静かな興奮がユーザーのあいだでひろがっている。



 ざっと要約すると、こういう話。

 カナダのサニーブルック・ヘルス・サイエンス・センターで、Kinectが外科医による、がん手術中に実際に使われている。

 その使いかたはこう。

 がん腫瘍摘出に限らず、多くの外科手術では、手術医は厳密な無菌室のなかで作業をしていて、途中で外に出ることは、再び自身の身体を無菌状態にするという大変な作業を必要とする。だが、現実には、リアルタイムのMRIやCTスキャンの画像を目で見て結果確認するために、無菌室を離れる必要が出てきてしまう。

 そういう話を聞くと、素人は単純に思ってしまうのだが、私が先月、近所の歯医者に行ったときでさえ、エックス線写真は目の前のモニタに即時に表示され、先生は指さして、ほらここが、と説明してくださった。それが大きな病院で、人の生死をあつかう手術室であるのなら、無菌室からガラス越しに見えるところにモニタを置いて、無菌消毒したトラックボールでも手術室に置いておけばいいじゃない。

M570

 しかし、この技術を表現するのに、こういう言葉が使われているのを見ると、ああなるほどねと思う。

「In short, it becomes a hands-free GPS system in surgery.」
(端的に言えば、これは外科医のためのハンズフリーGPSシステムのようなもの)

 そういうふうに、ひんぱんに使うものなんだ。
 道に迷わないように必要なカーナビが車外にあるなんて論外だし、すぐそばにあるにしたって、トラックボールでの操作なんて運転中にできっこない。だったら音声で操作すればというところだけれど、相手は機械。その手の音声認識システムって、かえってイライラするものですからね。

 で、このKinectで手術中に血まみれの手袋を振ってモニタ操作するシステムは、すでに一ダースもの手術で良い結果を出したということなのですが。Xboxユーザーとして、なにがニヤニヤせずにいられないって、これが、別にマイクロソフトのKinect開発チームとの連携によって作られた、というわけではなく、医者とその友人たちが、ジョギング中のアイデアにもとづいて勝手に作ったものだということ。
 それで、人の命が救われて、外科医が絶賛で、明日もまた手術は成功する確率を上げたということ。

 初代からのXboxファンのひとりとして、うれしい話です。すなおに。

 それもこれも、キネクトはマイクロソフトにしてはめずらしく、無料で開発ツールを公開したり(それ以前に非公式の物が出回っていたりもするのだけれど)、自由に使ってくれ、普及すること、すべてのリビングにキネクトを置くことこそがぼくらの願い、なんていうスタンスを取っているからです。

『Kinect for Windows』

 結果、リビングどころか手術中に大活躍とか、いやあ、ドラッカーの教えを忠実に守った愛と希望に満ちたお仕事姿勢がいい客を呼んで世界は平和というビジネスモデルの鏡ではありませんことか。

 たとえばこういうの。
 Kinectに乳首を追いかけさせているバカなんだけど。



 バカなんだけど。
 だけど、これはこれでクオリティ上げていくと、最終的には世界中のリビングにあるKinectに、自分好みの完璧な外見を持っただれかをさがさせたりとか、そういう出逢いの可能性さえ予感させます。もちろん、Kinectもカメラの一種なので、だれもが無分別に自分の姿をさらす設定にするとは思えませんが、Xboxのネットはクローズドというところが、そのあたりも乗り越える余地はあると信じてる。

 てなわけで。
 Kinect。
 いかがっすか。

xbox-kinect

 そういえば、マイクロソフトが言うには、HaloのシリーズもこれからはKinectに対応するとか。だろう、ではなく、すると断言していたのでするのでしょうが、あーん、そこはなんだかひかえめにお願いしたい、物心ついたときからコントローラーを指先でコントロールしてきた私から指遊びをとらないで、という旧態依然とした自分がいることも事実です。

 なにが進歩したって、自分の手指が恋人であるというのはどんな遠未来でだってそうでなくちゃいけない。触れずにできることが増え、触れることの重みが増し、あなたになら私は穢されてもいいと泣けるのが、良い未来。愛し愛でたいものだけに触れたいし触れられたいから、ほかのすべてはKinectを使って操作すればいい。

 ちゃくちゃくと未来。
 古きも新しきも、がっついてたのしんでいきたいものっす。



 どうして、こういったギャグを「オヤジギャグ」と呼ぶのかといえば、発言者に中高年男性が多く見受けられるからだろう。若年者は掛詞系のギャグを思いついてもグッと飲みくだすのだが、中高年者は加齢により喉の筋肉がやや衰えるせいか、思いついた端から垂れ流してしまう。そして、「寒い」とか言われる。哀れだ。


 三浦しをん (読売新聞夕刊関西版『いま風/オヤジギャグのマナー』)


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 と、いうようなことを、このあいだのよくわからない引越しの話を書いた直後に読んで、いや確か、それは喉の筋肉の衰えたせいではないというような説をどこかで聞きかじったおぼえがある、と本棚をさがそうとしたが、なにせすでに半分以上が梱包されてしまったので、私の本棚はいま、まるで役に立たない。

 というわけで記憶と思いこみで書く。

 それもまた、生存本能なのだ。
 言語を獲得したヒトという種の一員として、群れのなかで影響力を持とうと思えば、なにかにつけて、なんらかの発言をせざるをえない。それは、おやつはもみじ饅頭にしようという提案であったり、逆に他人がもみじ饅頭にしようと言ったのに対して、いやいまこそ塩味饅頭だろう反論したり、そもそもなぜ饅頭なんだいとクールに疑問をていしてみたり。
 なんにせよ、気に入るにせよ気に入らないにせよ、出されたおやつを黙々と摂取するだけでは、人望は上がっていかない(上級者になれば「なんでもおいしそうに食べる子」として名をはせることはあるかもしれないが、それは本題とはかけ離れたスキルの話になるので、ここではふれない)。

 そうして、わこうどたちは、ハーゲンダッツか御座候かでケンケンガクガクときにはこぶしまでまじえ、夕陽のしたで唇の端ににじむ血の味を感じながら、おやつの時間すぎちまったじゃねえか、あっはっはっハッ、というような大団円を迎えたりするのであって、これはおやつ論争にかぎらず、小さな厨房や、教室や、事務所や、ありふれたアパートの一室のなかでも、なんにんかヒトが集まれば、あらゆる議題に対して同じようなことが起こるものである。

 そうしてヒトは鍛えられる。
 どうすれば他人を論破できるかを知り、同時に、どのタイミングで自分の意見を引っこめて折れればいいのかも、おぼえていく。年齢とともに語彙が増え、自分だけの得意とする分野知識なども蓄積され、他人にはできない例え話ができるようになったりすると、話の内容には関係なく他人をあやつれるようにまでなっていく。

 あやつる、などと書けば、悪のようだが。
 ギャグなど、そのさいたるものである。

 たのしくないヒトを、たのしくさせる。

 百発百中でそれができるようになれば、もちろん、そのヒトのまわりには寄ってくる者たちが増える。かくして、どんなエンターテインメント業界でも、真髄と呼ばれる域に達すると、話の内容は皆無にさえなる傾向がある。

 芸の真髄は、年中同じギャグをやっているのに、毎回会場が沸く状態である。
 そこではもう、話術などというものはない。
 そのヒトが舞台に上がっただけで奇跡が生まれることが確定しているから、観客は、もはやギャグなしでも笑顔になるくらいのものなのだ。
   
 という、真髄があるいっぽう。
 ギリギリのラインで、小さな集団を魅了し続けてきた一般ヒト種族の一員は、ピークを過ぎると、喉の筋肉よりも、脳髄が衰えてくる。衰えてくる、というのは、物忘れが激しくなるとか、そういうことではなくて、それが落語家ならば手持ちのネタが絞られてきて小咄が鼻唄のように自然に口からすべり出る状態になったということなのだが、これが、いつのまにか肩書きもつき、その部署のエキスパートになった、というようなヒトがオフィスで口からすべり出させる場合。
 たいてい、なんであのヒトはオヤジギャグを言うのかと、白い目で見られる。
 仕事だけやってればすげえヒトなのにと言われてしまったりする。
 しかし、それも要は、アグレッシブさあってのことなのだ。仕事のできる、能動的に会話に参加するという習性が身に染みた、彼ら彼女らは、たゆまぬ努力で、その場にあふれるお題を即座に処理し、他人の注意を惹き感心させる発言をだれよりも先に発するという修行を怠らなかった大人たちなのだから。やる気があるから、必要以上に言葉を発してしまうのであって、決して喉の筋肉が衰えてだだ漏れになっているわけではない。

 ないの、だけれども。
 哀しいかな、衰えてくる。
 前述のように、その衰えは、言いかえれば特化されたということであり、限られた脳というハードディスクの容量をパーテーションを組みかえることによって、必要な部分だけを拡張し、使用頻度の少ないところをごっそり削ぎ落とすという、人生の方向性の定まった、知的生物として完成度の高いレベルに達したヒト職人ということなのであるが。

 この職人、寿司だけ握って六百年といった大将のように、ほかのことはなんにもできないし、なに話しても寿司につなげてしまうといった態度では、許されない。いや、許される国もあるだろう。オヤジギャグにまったく不快感をおぼえず、腹から笑えるという国も、この地上にはまだ残ってはいるかもしれない。

 しかし、たいていの先進国では、プロフェッショナルと呼べるまでになった職人であっても、若造に「えーこのウタ知らないんですかあ?」などと、今週のヘビーローテーション曲を口ずさめないことで集団内のランクを落とされたりする。無常である。戦いつづけたオヤジやオネエサマに対して、時代は容赦ない。

 しかして、容赦ない攻撃に、まだやれると反応してしまうのが、ヒトの愚かなところだ。そこで口を開かないことをおぼえる懸命さがあれば、わこうどたちに好まれる無駄なことは言わない賢者のひとりとしてあがめられもするのに、戦いだけの人生は、その身に戦うことだけをおぼえこませてしまうもの。

 かくして、ヒトは。
 特化された脳で、すべてのことを処理しようとする。

 知識がないことを知られてはヒトとしての影響度ランクが下がるという判断から、話の内容とは無関係に、言葉遊びで広げようとする。それならば特化された自身の得意分野で例えればいいところを、私は尊敬を集めたいのではない、ただ場をなごませたいのだという、余計なレベルの高いこころざしをもって発言するから、だれもにわかりやすく、意味はまったくないギャグになる。

 うどんをくうどん。

 ぼそっと呟いてみたりする。
 くすっ、と笑ってくれたり、するはずもない。
 黙殺である。
 なぜ言うのか。
 自分でもわからない。
 それは身に染みついた、言葉を武器にする習性のなせるわざ。しかしかつてはできた、さらに奥を読んで愛らしさを滲ませる技が、どうにもにぶっている。
 だって、特化されているのだもの。
 そんな脳で、余計なことを考えてはいけないのに。
 まだ、自分は未完成だと思っているから、言ってしまう。
 ちがう、オヤジギャグが口をつく時点で、そのヒトは、そうとうに研ぎすまされた、ヒトとしての完成形に近い存在となっているのである。それは、SFアニメに出てくる戦闘のために造られたアンドロイドが、主人公のやさしさに触れてともに生活をはじめ、しかし日常生活として当たり前のことが、なにもできないというシチュエーションに似ている。

 洗濯機に洗剤を箱ごと入れて泡だらけ。

「なにか……したくて……」

 萌えポイントである。戦闘に特化された脳で、ぼくのために家事をやってくれようとしたがゆえの失敗だ、愛らしいじゃないか。

soraoto

 オヤジギャグも、特化された脳で、なんとか紡ぎだした想いの形である。
 愛しても、いいものだが。
 たぶん、愛せないのは、外見のせいであろう。
 萌えに見た目が重要なのは、言うまでもない。

 そういう意味で、たとえば、その道で伝説にさえなった人物が、しかし極めた芸ではなく、別の側面から観客にアプローチしようとしたとき、オヤジギャグに似たようなことになるのを、ときどき見る。

 私は、この映画が大好きだ。

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紳士淑女の皆さん
年齢詐称のよい子たち
当店自慢のショーが始まるよ
生演奏とゾンビの試合を楽しんでくれ

zombieking

映画『ゾンビキング』

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 『ゾンビキング』は邦題だが、アメリカ版も、

 『Zombie King and the legion of doom』

 となっていて、
 しかしオリジナルのカナダ版タイトルは、

 『Zombie Beach Party』

 ビーチパーティ-って。

 けれど、日本でもたとえばDDTの本屋さんプロレスとかキャンプ場プロレスなんかをニヤニヤしながら観ていたヒトからすると、この映画は観終わって「うん、ビーチパーティーだったね」とうなずく出来。むしろDVD売ろうと思って平和の国カナダのタイトルを『ゾンビ王と破滅の軍団』なんてことにしてしまったアメリカンなセンスこそがかっこわるい。



 『ゾンビキング』の監督は現代ゾンビ像の生みの親といっていいジョージ・アンドリュー・ロメロの崇拝者で『ゾンビビーチパーティー』の本を大御所に献上して、出演してくれないかとオファーしたという。このエピソードの時点で、大御所とはいえまだ生きているほかの監督の作品設定を流用することに悪びれたところがないところがまずすごい。パロディ同人誌をオリジナルの作者のもとに持って行って「あとがきを書いてくれ」というようなものだ。勇気があるというより、常識が欠如している。

 しかし、偉大なのはリアルゾンビグル・ロメロ。
 完成した映画には、あろうことか「George A. Romero Presents」のクレジットが。資料が少なすぎて、これが資金提供を意味するのか、脚本演出になんらかの意見が加えられたのか、判然とはしないのだが、少なくとも裁判沙汰になっていないところを見るかぎり、ロメロ先生が『ビーチパーティー』をアリだと認定したことはまぎれもない事実なのである。

 それは、特化された脳髄の生みだした幻想である。
 映画の全編にわたって見たこともないくらいの数のマスクマンが登場し路上プロレスを繰りひろげるのだが、まったく大技と呼べる技はなく、ビーチパーティーというくらいなのだから敵を海へ投げ落とすシーンなどもあるにはあるものの、そこでさえ、ボディスラムである。ボディスラムと書くとかっこいい技のようだが、両手で相手を持ちあげて、投げるだけの行為だ。日本語版のDVDパッケージには「死にっぱなしジャーマン」などというコピーが踊っているくせに、作中にきれいなジャーマンスープレックスホールドなど、いちどたりとも出てこない。

 しかし、これが、おもしろい。
 ほかのことが考えられなくなった脳が、開きなおって発言した結果、わからないヒトにはまったくわからないが、わかるヒトには日本海溝よりも深みを感じさせる言葉になっているのだった。客を沸かすために大技をうつなんていうのはわかっていないやつのやることで、本当にプロレスをわかっているなら、キックとヘッドロックとボディスラムだけで沸々と観客の体温を上げていくものなのだ。というか、最終的にそんなに体温を上げる必要もないのである。わかっている観客が集まっているのなら、マスクマンが出てきて悪と正義で対角線に立てばそれで今夜は満足なのであり、ゾンビはヒトに噛みついて、首を引きちぎられれば、それで存在意義のすべてを満たしている。

 盛り上がることがそこになければ盛り上がれないなどというのは、観客としてのレベルが足りていないということ。恥ずべし。舞台を成功させるのは、観客。それが真理。

 オフィスを極寒にする、オヤジギャグ。
 だがしかし、駄菓子菓子。それにやさしく、くすりと笑いを漏らした彼女を、私は好ましく思う以上に、尊敬する。なんとレベルの高い行為であろう。彼女は、きっと『ゾンビビーチパーティ』をいっしょに観に行っても、途中でいびきをかきはじめたりはしないだろう。
 博愛ではない。
 あからさますぎるほどにくだらないオヤジギャグに声を出して笑うのは、愚かな人間の行為を慈悲の目で見つめ慈しみ手をさしのべる、神の視点でこそ為せる崇高なわざ。
 寛仁大度である。
 己の器が試されているのだ。
 否、試されているなどと思うことがすでに浅い。
 菩薩になれ。

 というようなことを書いていたら思い出したが、某お笑い界の大物が、日本では評価が低いが世界では評価が高いのだぞ「ちゃん」付けで呼ぶのはそろそろやめてくれと言っていたが。

shinboru

 この作品の、唐突なメキシカンプロレスの使いかたは、まさにオヤジギャグだ。私などは、ルチャリブレに目がないので、メキシコの田舎の風景にマスクマンが登場した瞬間に瞳孔が興味で開いてしまうが、それは完全にマニア内の共感に頼ったアピール。『ゾンビビーチパーティー』の開きなおった「おもしろがれるやつだけ死ぬほどおもしろがれ」という態度はまだ演者としての高慢でありながらもまっすぐなこころざしが見てとれるものの、この映画のそれは、注目を惹こうとしたときに、特化された頭のなかからこれならどうよと引っぱり出してきたものが変にマニアックだったという、場を寒くするオヤジギャグの典型である。

 まあ、いいのだが。
 私は、笑いたければ『ゾンビキング』を選ぶ。
 本棚に並んでいるのも、なにか嬉しい。
 好みの問題である。

 それはそうと、引越しがとどこおっている。

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・引越しだ。ということでNTT西日本に新居への光ケーブル施設をおねがいしたのだが。「お申込いただいた順番に「電話」にてご連絡を差し上げますので」などというメールが返ってきた。カギ括弧がクレームの多さをうかがわせます…

・まあなあ。入荷したら電話するって言っているのに「まだか」と電話してくる客ほど仕事の邪魔になるものはない、という気持ちはわかるのだが。顧客の申し込みにまずお詫びを返信って、いさぎよい。かっこいいよ。真似できない。

twitter / Yoshinogi

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 で、申し込んで10日目だがいまだ連絡なし。
 地デジ終了でフレッツテレビ盛況だというし、そのせいなんだろうか……かといって引越しを延ばせるわけもなく、最悪、回線なしで生活なんてことになったら、そりゃもう何年ぶりだという事態です。逆に、電気とか水道は、どこで聞きつけてくるのか、向こうから「いつで止めますか?」と催促してくるし。通勤時間増えるけれど、NTTさえ回線処理してくれたら、新居のほうがやることは多いので、そっちで暮らすんだがなあ。

 自分が客の側に立つと痛感します。
 待たせるにしても、それを知らせるって大事。
 お詫びのメールも全員に同じ文面だから心が伝わらない。
 「早くとも一週間は連絡できない」
 そう言っておいてくれたら、電話、気にする必要がなくなるのに。
 ずっと気にしたまま待つから、腹が立ってくるんだよな……
 もう。商売下手だなあ、NTTさん。
 メール要員ひとり雇えば、それでずいぶん印象変わるのですよ。

 電電公社からの電話がでんでん来んわ。

 ……電信電話公社なんていう単語が特化されて脳に残ってしまっていることに、おのれのリアルオヤジ化を感じます……


 僕は、生まれつき変なのだろうか。
 気が狂っているのだろうか。
 でも、生きている。
 この世界から、なぜだか、生きるのを許されているようだ。
 社会人としてはおかしくても、一個の名もない生物としては正常なのかもしれない。
 生きているということは……生き残る能力があるからだ。

ueda sayuri


 上田早夕里 『小鳥の墓』

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 たとえばドジっ娘なんていうのも、おっとりした萌え属性のひとつに数えられるけれど、ふつうの狂っていないヒトならばバイト先で日に五回も客の股間にコーヒーをぶちまけてアッチチチッあ、すいませんお客さまと駆けよった脚がもつれて制服のスカートはめくれ上がり、そのまま転がって入り口の自動ドアが開いたところに店長が戻ってきて、おまえまたかよ、なんて顔をされたら、生きていけない。

 しかし、それをなんどくりかえそうと、わざとやっているのではないことがきちんと相手に伝わり、かえって同情までさそって愛されてしまうのだとしたら、そのドジっ娘は、世界から生きることを許された娘なのである。

 こうも言える。

 生まれつき変であるか。
 生まれてから変になったのか。
 なにかが足りていないか。
 なにかが過剰すぎるのか。
 矯正できない嗜好や癖。
 存在感のなさ。
 それらの要素は、そのヒトの暮らす社会における立場を変えはする。
 だが、世界とは普遍のものではなく、観測者の視線によって確定されるものだから、けっきょくは、本人がなにを見て、どう受けとめるかということによってその姿は揺らぐ。

 世界を観測してしまうという愚かしい視線を放ってしまった時点で、そのヒトは生き物としてみずから生きづらい道を選んだことになり、死に近づく。

 隣の家の子どころか、自分の家以外の、圧倒的多数の家の子は、自分よりもずっと立派な誕生日プレゼントをもらっているのだと知らなければ、その子はママからもらったビー玉ひとつに至福を感じ続けることができたのに。
 それを知らずにいることはむずかしい。
 無理やり、知らされてしまうものでもある。
 社会というものは、避けて通れないから、本当に引きこもろうと思えば絶海の孤島にでも移り住むしかなく、しかし、それを選択したときにはすでに、そのヒトは世界を観測したから逃げ出すのであって、ということはすなわちどこに逃げても世界はもう消えない。
 視てしまったから。
 本気で逃げるなら、自分のほうが世界から消えるしかないのだと、三秒後には気づくだろう。

 よく、歴史の評価は後世がする、みたいなことが言われる。
 という考えかたでいくと、私が今日も生きているというのは、すでに昨日にとっては後世のことなので、私の昨日までは、生物として生きる能力を発揮できた、まずまずの成功をおさめた日々だということになる。
 要所要所で、生きるための選択を間違えなかった。
 どう考えても悪手のような手を打った記憶もあるのだが、それも結果的には生きているのだから、生存本能のおみちびきだったことになる。
 
 あれも、一個の名もない生物としては、やらざるをえなかったことなのだろう、きっと。間違いなく相手を傷つけた、社会的には最悪の行為でも、それで自分が生きているという今日があるのだから、生物としてはおりこうさんなので、そこに後悔だとか反省だとか思いはじめるのは、社会のために個を捨てて死ぬということ。

 恋愛。
 あれも、生物の生存本能ということで考えると、強い子孫を残すために「あらすてき」と感じたり「こいつ捨てるしかねえ」と決断したりするものだったが、昨今では結婚とか出産を前提にしない恋愛のほうが世には多いわけで、同性愛なんかも正常の範疇に入るということを、否定するヒトのほうが少数派。
 ということは。
 いまの世界で、ヒトはなにを恋愛相手に求めているのか。
 生存本能がなくなったとは思えないし、かといって恋愛がだれもにとって人生の一大事ではなく、ただの遊びに成り下がったということでもないと、占いサイトの多さをみれば確信できる。

 強い遺伝子を求めて恋をするのではない。
 しかし恋はする。
 だとすると、必要とされているのは、恋そのものだ。
 恋愛というそれそのものが、自己の生存のために必要不可欠だから、ヒトは繁殖と切り離しても、いまだにお相手をさがしもとめるのだと思われる。

 だがこれも、どうもさっき書いた方程式のうえで、多数派になっていった生存方法であるような気がしてならない。

 すなわち、恋愛しているだれかさんたちが結果として生き残ったから、次の世代は種として、恋愛すれば生き残れると判断するようになった。
 生物なんていうのは、たぶんそれくらいのものであるはずだ。

 逆説的には、恋をしていない先輩たちが明るく健康で生き生きと過ごしていたなら、後輩たちは、恋におぼれるなんて愚の骨頂と考えるようになる。優性遺伝子を求めることが生きることではなくなったいま、この、上から下への価値観の継承は、ヒトという種全体の視点を定めること、すなわち世界の観測の仕方を、親が子に外部遺伝子として伝えていっているようにも見える。

 変でも生きているんだし動物として正常、という割り切りかたをすると、気持ちよく他人を殴ることが生きるために不可欠だという種類のヒトは確かにいるし、そのヒトも、きっと暴力が生存に有利だとすりこまれる、前の世代からのなにかを摂取したのだ。暴力的で強くかっこよく生き生きとした先輩のように、自分もなりたくて、彼は他人を殴り倒すことをおぼえたのである。
 そこに迷いはなく、まっすぐ進むなら悩みもなくて幸せで充実した生涯をまっとうするはずだ。

 間接的に伝えられることもあるだろう。

 小説とか、マンガとか、映画とか。
 スポーツや、レースや、ゲームとか。
 世界をどうとらえるかという観測方法を自分の生存にとって有利なように確定させることこそが、ヒトという動物として前の世代から必須の継承事項。ならば肉体を作る遺伝子なんかよりも、そういったものこそが、よほど伝えている。

 影響を受けること。

 おれって生まれつき変?
 気が狂っている?

 そんなの、学があるやつしか思いつきもしないもの。
 すでになにかに影響されている。
 世界を観測する方向が定まっている。
 実はそれこそが、ドジっても凹まない、生きる能力というものだと思う。

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 更衣(ころもがえ)
 さらした肌が
 夏を召喚

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 職場のテレビ売り場でNHK教育をつけっぱなしにしているから、LED電球の新製品の棚を作りながら、数時間みっちり門前の小僧をやって。手話とかイタリア語は左の耳から入って肛門に抜けていくけれど(ちなみに私は大学で第二外国語にイタリア語を選んでものすごい勢いで単位を落としまくり、それによって卒業できなくなりかけたので一回生にまじってフランス語をやりなおしたという苦い経験から、イタリア語にいまでも食指が動かない。いや、イタリア語が嫌いなわけではなく、イタリア語を美大で教える女教師が、あまりにテンション高くて高飛車で、それがまたイタリア語とマッチしていて、二百点満点で私の好みからかけ離れ、教室によりつかなくなっただけ)、俳句とか詠まれた日には、仕事する手もとまります。

 チャンネル変えたい!
 しかし、あの地震の日以来、お客さまも即座に速報が見られるようにと、NHKをエンドレスでつけておけとの命がくだり、それはいまだに解除されないので、この先もしばらくは、人生で例のないほどNHKを摂取する毎日が続くのです。

 というわけで、ますます進化した全方位照射LED電球の棚を作り終えて、お弁当を食べて、キシリトールガム噛みながら読書して、ふたたび仕事にもどっても、まだぶつぶつと言っていた。

 更衣(ころもがえ)。

 こんな字を書くのですね。
 五月の季語らしい。
 ふうん。でも、ころもがえは、コートを出すときだってころもがえだと思うのだけれど。いやしかし、やっぱり脱ぐほうが情緒があるじゃないですか、ということなのだろうか。その方面にあかるくないのだが、いまでも、毎年、季語を決める賢者円卓会議などが開かれているのかしらん。

 で、ぶつぶつ俳句を詠むという風流な午後でした。
 基本的なルールがよくわかっていないので、出来はいまいちだと自分でもわかりながら、ここでそういうものにこだわりだすと、毎週NHKの俳句番組を録画する道へとはまっていくことが明確であり、そういう、ただでさえない時間をさらに削るような習慣を身につけることは、動物として生きるために愚かなので好きに詠む。

 いつも思うのです。
 まだ早いかなって思いながら、半袖になるじゃない。
 どこの女子校か知りませんが、毎年、白いセーラー服の高校の映像が、ひとあし早くころもがえしました、なんてニュースで流れるじゃない。
 それで、みんな、えーまだちょっとすずしいよ、と思いながらも、迎合することが袋だたきにあわず、動物として生き残るすべだと、さも恋するかのように半袖に着替えるじゃない。

 そういうことするから、夏が来るんですよ。

 考えてもみて。
 全員が、この国のひとり残らず全員が、まだコートを脱いでいないのに、それでも夏は来ますか? 来るわけがない。油断して、そろそろ夏が来るころあいかなと、脱いでさらした肌が、暑さを召還してしまうのです。

 世界中のヒトが平和を望んでいるのに、なぜ戦争はとめどなく続くのですか。
 ちゃんと望んでいないからでしょう。
 だれひとり例外なく望んでいるのに、戦争が起きるはずがない。

 話がそれました。
 非常に殴り書いていて、かなり破綻した今回になっていることは想像にかたくありませんが、だからそれですよ。たぶん私は、私という吉秒匠は、ときどきこのようにわけのわからないことをだらだらとしゃべることでいままで生き延びてきたので、それゆえ生きるために、これからもときどきわけのわからないことを書きはじめるのです。
 本能です。
 生存です。
 いや、なにげに本当に、愛されることが生きるために必要だから、隙をさらすという生存本能が、近ごろの人類にはそなわりつつある気がしてなりません。
 そういえば、資生堂の開発のヒトが、近ごろの男子はジェルとかワックスとか買わせると、一本で一年使えちゃって商売あがったりだから、霧できまっちゃうわけ? なんていう商品を開発したというような話をされていたようにぼんやりと記憶しています。

 男子に限らないんですけれど、世の経済状況が厳しくなると、ヒトは髪をがっちりかためたりするのをやめて、ふわっとだらっと、隙をみせるのだという。憶測ですけれど、それって言ってしまえば、こういうことなのではないかと思います。

 あぶなくないから。
 すきにして。

 世界が危険な場所になれば、ますますヒトは尖っていきそうな気がするのに、実際は逆にユルさを誇張しはじめる。すなおに考えて、警戒しあっていると距離が近づかないから、自分の側から隙をみせて距離を詰めようという生存本能でしょう。

 すきにして。

 目の前の相手が、おまえはガキか、と、つっこみたくなるようなそぶりを見せたら、それは意図的にさらされた隙なのです。あとはあなたが決めること。私が決めること。

 殴り書いている。
 しかも、生きるとか、愛だとか、恋だとか。
 すなおに考えて。
 私は、かなり愛を欲している状態のようです(笑)。

 春が終わってころもがえして夏もこようかというこの時期。
 実は転勤で、引越すことになりました。
 そんな遠くではない、というか、もう引越し先も決まっていて、光回線を申し込んでNTTからの電話待ちなのですが。

 今日も、電気ドリル片手に、家中のネジを抜いていた。
 何枚額かかっているんだ、あほほどネジ打ったなオレ、と自嘲しながら。
 引越し先でも、バイク停めるところが庭しかないから、玄関先にある階段をつぶす必要があって、ひさびさにプライベートで振動ドリルの出番だと意気込み、段差プレートだコンクリートアンカーだと、買いあさっている今日この頃です。

 それにしても、とにかく本です。
 ペプシコーラの1.5L×8の空きダンボールが、ちょうど本を詰めて扱いやすい大きさだと思い、詰めては部屋の片隅に積んでいっているのですが……そのダンボールで家が建ちそう。これをまた剥いて本棚にもどすことを考えるだけで動物として死にそうになりますが、だったら生存本能で本を買うのをやめるとかいうこともなく。

 たのしいのと不安とが、ごちゃまぜの状態。
 そんななかで、徒然書くとこうなる、という今回でした。
 そんなこんなで、新居のリフォームにかまけて、おそらくここも手抜きな更新が続くと思われますが、もっと弱くてもろいところをさらしつづけますから、忘れず愛でていて。それなくして、生きていけません。

 夏が来る前に終わらせたい。
 しかしかかってこないぞNTT。
 光回線もなくして生きていけません。

 気ばかり急いて、落ちつかない初夏です。
 でも、生きている。なぜだかだろうと、生きるのを許されているらしいから、隙を見せつつすきにやるから、すきにして。

 ん、いまのフレーズ、俳句っぽい。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 更衣(ころもがえ)
 もっと隙みせ
 すきにして

・・・・・・・・・・・・・・・・

 ……なんか、中途半端に俳句やってる若いコ好きのおっさんが、飲み屋で即興するみたいな句、もしくはカチューシャつけたアイドルのためにおっさんが書き下ろした歌詞みたいになっておりますな……確かに、どっちのおっさんも、生物として強くはあるのだろうから、見習うべきなのでしょうが……いやちがう。私はそんな動物になりたいんじゃない。
 自重しよう。
 隙はみせても、軽くてはダメ。
 ぁ、また俳句っぽい。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 更衣(ころもがえ)
 隙をみせるは
 計算づく

・・・・・・・・・・・・・・・・

 計算していないようにみせる計算が上手にできてこそ、生き残れるものかも。自分をがっつり客観視できるというのは、裏返せば余裕であり、心の軽くないことの証明。
 あたふたしない。
 わけのわからないブログ更新をしない。
 粛々と引越準備をすすめること。