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強さとは、なに?
龍のように見えるオコゼ。
バイクの三段シートとか、バニング車
ヒーローの多重変身後の姿。
スーパーサイヤ人。
流線型を超え、
風に立ち向かう炎のように研ぎすまされて尖る、
その造形に強さを見てしまう。
しかしオコゼのそれは、
岩への擬態である。
そのうえ、釣りをする人ならご存じのように、
オコゼの背びれには毒がある。
だがその毒も、それでだれかを痺れさせて、
その隙に喰らうとかいうためではない。
痺れさせて、逃げるための毒なのだ。
そういう意味では、
尖った石になりすまし毒で身を守り、
通りがかった小さな獲物を食すオコゼは、
武闘派とは言いがたい。
バイクや車も含め、
尖ったファッションも擬態の一種だろうか?
と考えてみれば、
確かに目立たぬための擬態とは呼べないだろうが、
仰々しく飾ることで大多数の人々を魅了しているとも言えず、
そのファッションに魅せられているのは近しい愛好者たちである。
オコゼのような龍のようなバイクで街を走っていると、
早晩、ケンカを売られるか、気だるい少女が引っかかる。
その結果として孤独は解消されるので……
小さな餌を食すためのコスチュームプレイと呼べなくもない。
21世紀の仮面ライダーたちは変身に変身を重ねるのが当たり前になったが、
初代仮面ライダーは多重変身もせずロボも呼ばず、
巨大化もしなければ武器も持たなかった。
でも、ライダーキックだけで、強かった。
スーパーサイヤ人に変身しないで強い奴がいちばん強いのだし、
本当に怖いのピカピカに磨きあげられたノーマルな黒ベンツである。
突き立てた金髪よりも、黒髪のオールバックのほうを警戒すべきだし、
いっそザンバラ髪にTシャツブルゾンなんてのが凶暴だったりする。
強さとは、なに?
鮫は強い。
強いからツノを生やす必要はなく、毒も持たない。
だったらオコゼは弱いから龍のようなのか。
けれど、その姿を見て、
ヒトの私が、強そうだ、と感じるのはなぜだろうか。
流線型を超えている。
ということは、動きにくいということである。
ライオンのメスにはたてがみがない。
狩りをするのはメスだ。
オスライオンは、たてがみがあるし、太っていて。
カモシカに追いつくような走りはできない。
でも、ヒトはオスライオンに強さを見る。
オスライオンは流線型ではないのに。
ないから、なのだろう。
群れにオスは一頭。
セックスのためだけに生きている。
肉を与えられ、かわりに群れ全員を孕ませるまで腰を振る。
ライオンは、非常に妊娠しにくいのだという。
オスライオンは、文字通り、死ぬまで腰を振っている。
オコゼは、ただ黙々と小さなエサを狙って生涯を終える。
ヒトの私は、そこに虚しさを見るのだが。
それを当たり前として生きる、その姿にこそ。
強さ、があるのかもしれない。そう思う。
尖った東京タワーも、節電しても関係ないとさえ言われる、
大阪通天閣も、神戸ポートタワーも、
現在、消灯中。
光らないトゲを見て、これは弱さか強さかと考えた。
強さとは、なに?
虚しさをおぼえないこと、でいい?

(和歌山県立自然博物館で撮りました。
地震の前の週に訪れた。目の前が海。
大津波警報で思いきり赤く染まっているのを見て心配したけれど、
14日から平常通りに開館したみたい。
このオコゼにも、また逢えるということです)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 強さと言ってしまえばそうですが。
 これは、裏っかえせば、疑わないということで。
 虚しさをおぼえないのも、おぼえてしまうものをおぼえないようにするなら強さとも呼べるだろうけれど、そもそも虚しさなんてみじんもないわということならば、それはたんに鈍感なのであり、自分の手をじっと見て、なんでおいらはここにいるんだよ? と、みずからにでも天にでも、疑いの言葉をかけたことのないひとにとっては、自分がここにいることなんて疑う余地のない当たり前のこと。

 あれから店の片隅の電気を消していて。
 それでもまあ、電球売場のそれを光らせて色を確認したいとか、インターホンの音を確認したいとか、そんなことを言われるたびに主電源を入れに行き、お、点いた、でも用が終わればまた消すという、そんなのもひとつきほどやっていますと、そろそろと、そういうお客さんも現れます。

「兄ちゃんなんでここ消しとんのや、売上げも落ちるやろ、関電もうけさせてやって、あっちに電気送れるようにしたるんがええのんとちゃうか」

 もっともなことで。
 私の一存で点けてもいいんですけれどね。
 ほら、貼り紙もしてあるわけで、どこのだれが決めたのかは知りませんが、ルールというものはそのルール自体が間違っているかどうかは問題ではなく、守ることができるかどうかが問題なわけですよ。間違っているルールを正すようにルールを作ったどこかのだれかに意見するのはいいけれど、それでもそのだれかが明日になってあきらかに間違っているルールを正しく直すまでは、あきらかに間違っているルールを守るべきなのです。

 なんか、まだ点けちゃダメみたいなんですよ。
 貼り紙はがせってメールこないんで。
 照明器具売場の電気消して、それが売れるわけもないから、ルール作った人だってそろそろか、そろそろなのかと近所のスーパーの総菜売り場の電気が点くのを待っていたりするのだと思うのですけれど。

「まあ、いろんな考えかたがあるからなあ。点けたら怒る客もいるんやろうから、あんたも大変やな」

 なんだか、ねぎらってくれたりもしたり。
 いや、実のところ、点けていようがいまいが、あなたのようになんで消してるんやとあえて言う人は、ほとんどいないのです。ということは私もあえて言いませんが、実際のところ、そうなのです。たぶん、近所の豆腐屋で、豆腐桶のなかに金魚が泳いでいたって、多くのお客さんが「あれはなにかの効果が科学的に解明されているものなんだろうか、金魚が豆腐の新鮮さをたもったりするの?」なんていうふうに勝手に解釈しながら、あえて訊きはしないでしょう。まあ、金魚ですと生臭いとか不衛生とかいうこともあるかもしれないので、バラの花を浮かべてもよいです。それでも、ほとんどの人は、はっきりそれを見て、なんだろうかという顔をしながらも、豆腐屋のおかみさんがいつものようにほがらかに豆腐を売るかぎり、ふつうに豆腐を買って帰ることでしょう。

 そんなものです。

 でまあ、無理からに話をくっつけてしまいますが『豆冨小僧』というアニメ映画が本日から公開されるそうで。

『豆富小僧』公式サイト

 私の記憶が確かならば、原作は『豆腐小僧』だったはずだが「腐」が「冨」になっているのはどういうわけだろうかねと本棚をまさぐってみれば、やっぱり「腐」でした。いえ、異論はありません。私もごくふつうの水炊きを一人前作るのに豆腐は二丁買ってくる豆腐好きですから、前々からこんな清廉な食品に「腐」の字などセンスのないネーミングだ、いっそ「豆婦」とかにすればこの白さのなまめかしさが連想できていいのにとか、品のないことを考えたりしていたわけですが。

 豆腐小僧。
 原作のほうですけれども。
 その妖怪が、悩んでいた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 相も変わらず飽きもせず、豆腐小僧は紅葉豆腐を持っております。腐りもしないところを見ると、これも並の豆腐ではないのでしょうな。
 つまりはこの豆腐も己の属性のうちなのだろうな──と、そんな風に考えますと豆腐小僧は複雑な心境になって参ります。そこでこの豆腐をば、ぱっと手放してしまったならば、自分はいったいどうなるのだろうと、そんなことを考えたり致します。

tofu

 京極夏彦 『豆腐小僧双六道中ふりだし』

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 どうなるのでしょう。

 昼の仕事のことは極力ここでは話さないようにしているのですが、ちょっとだけ語るなら、私は場末の小売店で働いています。なんやかやと、いろいろ売っている、日に数千人が通りすぎるくらいの店です。

 店員などという者は、背中にロゴの入った制服を着ているからお客さんの側でも、あああれは店員だ、となるわけで。それを脱いでしまえば、私などはどちらかというと、電車で前に座ったら目を合わせないようにされる風体の男。

 ところで、おなじ店で、私は曜日によっては白衣を着て薬を売ったりもしているのですが、ふだんはそのカウンターには年輩の薬剤師さんが定位置で、常連のお客さんでも、私のことはほかの売り場で背中にロゴの入った制服姿で見かける機会のほうが多い。で、まあ薬屋ってのはなにが売れるかっていうと、前回の話の続きのようですが、浣腸です。出しておくと盗られるので、カウンターで声に出して言ってもらわないと売れません。

 で、そこに私がいると。
 妙に照れてくださる御婦人がいらっしゃる。

 別に私のことがタイプだとかそういうことではないのでしょうが、まあいつものおじいちゃんに比べれば若くてがっしりしたのがいるわけで、記号として「あら今日の先生は若いのね」などと言いながら「浣腸を、あ、そちらのメーカーの」それから言っておかなければと気がつくのか10ヶ入りの浣腸箱を手にして「いえ、その、おばあちゃんが、毎日つかうので」とか。首をすくめて頬まで染めたりしていただいておいてあれなんですが、いや、私、別にあなた自身がプレイでそれをいちどに十コ使っても知ったこっちゃないですし、むしろ使って明日も買いに来てくださいというくらいのものでして。んなもの、気にする薬屋はいません。

(気にしませんが、そのおばあちゃんは使用量を控えないと、筋肉が弱っていく一方になるので、そういう話はします。そうなのよねえ、とみなさんおっしゃるのですが、たいてい買いに来ているのは本人ではないのであまり効果はありません。無力)

 と、かように、おなじ店で二種類の制服を着ているせいで、私は私自身とはなにものかと豆腐小僧のように考えることがあるのです。

 驚くべきことでもなんでもないのですが、そういう店では、サービスカウンターでキレたお客さまに怒鳴られない日のほうが少ないくらいで、また春ですからね。新しいバイトの子がぶっちぎった態度でお客さまを背後に連れながらカウンターに向かってきて「なんか客がごにょごにょ言っとるんすよ」などと口走ったりする(昨日の実話)その後のお客さまのブチギレっぷりときたらああもう、退屈しない毎日です。

 一方、そんな店でも、白衣着たのが立っているカウンターでは、ほぼキレるお客さまというのは皆無。こっちの知識が足りなくて、あたふたしたときでさえ、まったく困ったさんね、くらいのしかめっつらがせいぜいのこと。これが電材売り場で店員制服で、電圧とはなんぞやとかそういったたぐいのことでしどろもどろになったりすると、テメぇその知識のなさでなにをしたり顔で売り場に立っとんじゃワレぇ、と下から覗きこまれて怒られるのが必然。家具売り場で、小さなゴミ箱ひとつであっても車まで運んでくださるのがあなたのお仕事ではなくて? という態度の奥様の多さに悠然と微笑みを返して受け流せるかどうかが、この稼業を続けられるかどうかの瀬戸際です。

 中身は変わっていないんですが、あきらかにブルゾン着た店員にふんすると向けられる視線は厳しく……というか、多くの場合、空気以下のどうでもいい存在になり、白衣を着ていると、最初から目と目をあわせてお話しする関係になる。

 重ね重ね、なかみの私は変わらないんですけれども。

 あたりまえっちゃあ、当たり前のことですが。
 豆腐小僧は、もちろん紅葉豆腐を落っことしたら消え去るのです。
 豆腐を持っていない豆腐小僧は、そりゃあただの小僧にすぎず、ただの小僧の妖怪だと座敷童とかいうことになるのでしょうが、それはその時点でもう豆腐小僧ではなく座敷童なので、豆腐小僧は消えているのです。

 この『徒然』だってそうですね。
 これを書いているから私はここにいますが、この文章だけで私を認識しているあなたにとって、私がいまからぴたりと手をとめて書くのをやめれば、私そのものが消えたのと同じです。今月なんかはあれやこれやでもともと遅筆なのがいつもよりも更新頻度が落ちているので、あなたの中の私は半分透けたくらいになっていることでしょう。いやまあ、ログは残りますし、記憶というものもありましょうが、それらと実在は別物。むかし自分を殴った男がいま目の前にいないならそれは悪しき思い出ですが悪しき以上のものではない。しかし、いま目の前の男に殴られたら、殴られたことよりも、目の前にいる男の実在それそのものが問題となりましょう。やつはなぜに殴ったのか、こっちに非はあるのか、殴り返したらもう一発殴ってきそうな野郎であるかどうか、とか。

 そういう意味では、豆腐小僧は愛らしい。
 そういう意味では、よろずやの店員の制服などというものは、こいつはこきつかっても言い返したりしませんよという記号であり、お約束。

 禅僧の腕に般若のタトゥが彫ってあることだってなくはないはず。むしろ、そういう道の果てに頭を丸めた、なんていうお坊さんこそ本物のはずですが、やはり、先祖代々受け継いだ、血が濃いだけで人生なんてとても薄っぺらいお寺の三男坊が年食っただけの住職、というキャラクターのほうが、法事に呼ぶにはありがたいものです。

 この夏、クールビズを越える節電ビズなんていうのを計画している企業が多いのだと新聞で読みました。ノーネクタイ半袖だけでは厳しい節電の夏を乗り切れないので、もっとカジュアルにTシャツなんかも認めてしまおうということらしいのですが。たとえば、Tシャツにジーンズの兄ちゃんが、新幹線を運転していたら、怖い。

 むしろ、真夏にはタンクトップに短パンのほうが、運転手さんも実力発揮できそうな気もする。本当に実力重視だと天才外科医は手術室で好みの音楽をかけるのもアリなように、飛行機のパイロットだってコックピットにアニソン流したって良いとは思う。
 でも、ぜったい実現はしない。
 なぜならそれは説明だからです。
 という文章が『豆腐小僧』では多用されています。
 薬屋の人が白衣を着るのは、客があああのひとは薬屋の、とわかるためであって、そんなもん着ても着なくてもおれの知識が増えるわけでも接客態度がよくなるわけでもネエよというのは、なにか不可思議なことを説明するために生みだされた妖怪が、おれはカミナリ小僧じゃネエから虎のパンツなんてはかねえ、と言っているのと同じです。はくべきなのです。それは決まり事で、熱かろうが寒かろうが、曲げるという前例を作れば、キャラ設定自体が崩壊してしまいます。すべてのお坊さんの腕に般若の刺青があったら、それこそそのひとが坊主であるという説明になってしまってカオスです。

 メイド服とかいうのもそうですね。
 そんなもん。演技に決まっている(笑)。
 決まっているけれど、その記号を着ることで、ご主人様への敬いを忘れない献身的な愛の子犬であり続けるというお約束が保証されている。だから、こちらもお約束を守ることになる。ご主人様と呼ばれて、アンなんだとだれがおまえの主人だ、なんてのはルール違反。メイドに愛される以上、こっちにも厳しくもそれだけではないメイド愛があってこそ、お約束世界が成り立つのです。

 ですので。
 最初のオコゼの話に戻りますが。

 擬態しないで生きていける者は、強いのです。
 正直、好きな人とやっと結ばれて、初夜からさっそくコスプレ、なんていうのは、中身の実力が乏しいのだといわざるをえません。たぶん、その「好き」というのも、メイド服が似合いそうな太ももをしてやがるぜ、というような好きであったのでしょう。そういうのも否定はしませんが、やはり素材の強さが確固としてあれば、ソースなしでぺろりと食べられるものでしょう。思えば、ハーレクインだとか、ボーイズラブなんかの小説世界では、彼の一糸まとわぬ裸体の神々しいまでの美しさ、というような描写をめったに目にしません。衣装ありき、脱ぐ過程、脱がす過程こそかなめ。男性向けでもそうですね。ララちぃが、豊満な胸もパンチラもなしでは、ほかのキャラと見分けがつかなくなる。

 なので、ララ・サタリン・デビルークが、豆腐小僧のようにいじいじした性格なら、そこに悩むことでしょう。

「パンツを見せなくても私は私なのかな?」

 結論を言ってしまえば、男性向けセクシーラブコメのヒロインがパンチラなしでは、豆腐を落っことした豆腐小僧とおなじく、存在そのものが消えてなくなります。
 断言です。

 では、これはキャラに強さがないから、パンツ見せ女子というコスプレ、擬態を、せざるをえないのかといえば、これはいちがいにそうではなく、そこを守るという真摯な姿勢、つまるところそれ……

 「覚悟」

 これはこれで、強さなのです。
 演じきる強さ。
 岩に化けて小魚喰うオコゼで上等。
 メガネが私、アホ毛が私、絶対領域こそが私。
 パンツじゃないから恥ずかしくないもん。

 言いきってしまえれば、それはそれで強者。
 さっき観た某格闘家の外人さんは、首にでっかく「族」とタトゥしていましたが、それがどういう意味であれ、私は彼のことをもう忘れないし、また見かけたらすぐに彼だとわかる。その要素だけで、エンタメスポーツ選手としては客にアピール成功しているのですから、立派なものです。存在する意味があります。

 ときまさに、プレイステーションネットワークがエラいことになっているそうで。クレカ情報流出とか、けっきょく不具合のなかったブレーキでさえ屋台骨を揺るがされたトヨタの件を忘れていない日本人としては、よりにもよってアメリカでどんなだけ燃えやすい薪くべてしまったのだろうと、生粋のXboxユーザーなんですけれども、ソニーさんが心配。

 でもね、だからいわんこっちゃないのですよ。

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『HALO3:ODST』の話。

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 2009年夏。そこで私は書きました。

『市販のHDDが使える某ゲーム機と比べて、Xbox360は、どうにも高い専用HDDしか使えないのですが、それによって世界中のクラッカーからの電脳攻撃を封じているのも事実。電脳情報網がクローズドならば、我々はどんな悪にも負けない清廉な世界を構築できる、というマイクロソフトの理想が結実したマシンなのであり、XboxLiveは、このイーサネット世界と並行して存在する、閉じられたもうひとつのネット。魔法箱Xboxなくして、何人もけっして足を踏み入れることができない、理想郷なのです』

 ネットゲーム機といわれながら、ブラウザを積んでいない。Eメールができない。その閉じられたネットワークは、実際にゲームしていると、ときに監視されているのがはっきりわかったりすることさえあります。広い街には警察組織が必要だけれど、狭いリングのなかでならレフェリーでさばける。その公正さが私たちのアホ毛だと、そこに萌えてくれと、ほざいてたマイクロソフトに本当に萌えていたのは私くらいのものだったのですが、こうしてみれば、これが強者です。

 ぼくらは原子力発電所。
 だったらなぜ近未来都市のごとく、エヴァのように、地下に住まなかった? 防波堤も、天にそびえるほど高くして、そもそも爆発したあとでコンクリートや水の棺に埋めれば済むことなら、夏木静子さんの『ドーム 人類の箱船』や新マクロス級移民船のように、はなからアクリルのドームにでも封印しておけばいいのに。火星に移住しようかという人類が、発電所ひとつを街から隔離できないなんて、そんな馬鹿な話はない。
 金銭の問題か?

 だったら、そこでこそ、言いきる強さがほしい。

「核融合反応炉ですよ? 素人が口ださんとってください。地下都市に建設です。もしくは巨大ドームで隔離です。それが未来。私たちが未来。これは先行投資」

 ラブコメにパンチラヒロインが必要なように。
 電気は、いるんですから。
 だったら、いかに愛されるかです。
 キャラ立ては、やりすぎくらいがちょうどいい。
 昨今のパンチラなんて、ほとんどモロが当然です。 
 
 地球はもうだめっぽいから宇宙行きましょう。



 前世紀からずっと言っていて、いまでも、真剣にそれをお仕事にしてがんばっている人たちはいるのですが、不況で金が集まらないから地球と滅ぶ気になっちゃったのか二十一世紀の人類たちよ。ここまで地球を使い尽くして、いまさらエコもクソもない。自分たちが生きるために使ってきたのであって、それが人口爆発な発展途上国が経済成功して電気がないと死ぬとかいう状況で、もう地球やばいからおまえらは風車でがまんしろなんて言えるわけがない。

 どうにかするしかないのです。
 強さってなんだろうと考えつつ。
 すべてを捨ててオコゼになって、岩に擬態して通りがかる小魚を食う人生も、生き延びるという意味ではありでしょう。いっそ水族館に飼われて、パンチラして媚び売っていれば決まった時間にエサがもらえるなら、全員がアイドルになって休日は隣の劇場の客になれば、無限ループでみんな幸せな気もしますが、全人類がそういうホストに狂うホステスみたいな構図になってしまうと、だれがエサを作ってだれが与えてくれるんだということになって、そうすると、ひとにぎりの神的存在が必要になって、いやまあそれって社会主……ごにょごにょ。

 いや、いまこれ書いていて、発作的に思ったことですけれど、人類が生き延びることの大きな問題はほとんどエネルギーと食料なので、だったら思うんですが、火星のテラフォーミングって、そんなことできるなら、地球の砂漠化をどうにかすることくらい、なぜにできないのでしょうか。原発が爆発したあと、放水車で水を入れなくちゃと奮闘されているのを見て、某国で、オリンピックのために雨を降らせないために空にミサイルを撃ったという話を思いだしました。逆に、降らせることはなぜできなかったのでしょう。

 よく、ある地域の人が、全員でジャンプしたら地球の軸もずらすことができるかもという寓話が語られますが……意外と、世界中の、少なくともテレビとか新聞とかインターネットとか、そういうもので同時に情報を受けとれる全員が、いっせいに力をあわせてなにかやれば、雨雲くらい、動かせる気がします。砂漠に誘導して豪雨の中でトウモロコシを作ればいい。

 私の、ただの夢想ですかしら。
 なんか、みんなでちゃんと考えて、はい、アルゼンチンではこういう塔を建てて、日本ではこういう穴を掘って、ドイツでは飛行機でこれ撒いて、そうすれば計算上、一週間後には、ここで豪雨きます。みたいな。
 できないですかねえ。
 できそうな気もするんですが。

 みんなにとって共通の利益になることなら、みんな協力を惜しまないはず。
 これ演じてください。
 それで世界は安泰。
 そう言われて演じない人はいないっしょ。

 かわいい女子が増えると世界は平和、とだれかが言いました。
 実際、全世界の全員が執事とメイドのコスプレで、役になりきれば、どこで戦争の生まれる余地などありましょうか。
 もちろん、仕えるご主人様はただひとり、地球。
 ご主人様のために、多少汗かくのも、恥ずかしいことも、なりきれていればむしろ萌え行為のはず。

 というわけで。
 いかにもなんにも中身のない徒然でしたが。
 じゃあせめてどんよりしちゃっている日本で私がささやきましょう。

 あしたから隣のだれかを萌えさせるべく演じること。

 それ徹底できれば、それこそ人類が生き延びる擬態だと考えるのです。
 演技でいい。
 馬鹿のふりし続けるやつは真性の馬鹿といっしょ、なんてことが言われますが、その理屈でなら、死ぬまでかわいいふりをし続けたり、死ぬまでいい男で居続けるふりができたなら、それが真実になるわけで。

 暑さ寒さに動じないというのも演技。
 よくできたキャラは買い占めとかしません。
 原発に賛成するにしろ反対するにしろ、熱くはなりません。

 とりあえず、演じることが生きることであり、演じることは自分を殺すことではないとカラダに叩きこむのです。いえそういう意味ではヒトは、なにかを演じなければ、なにものにもなれないのだとも思う。  

 地球は私たちのものです。 
 これだけもてあそんでおいて、いまさら違うとは言わせない。
 ご主人様の忠実なしもべだけれど、地球という主人を動かしているのは、いまでは人類というしもべの匙加減。有能な執事とメイドのタッグが、実はその屋敷の進む方向を決めている。

 愛らしくいきましょう。
 ぎすぎすしない。
 そういうのは、個人的に寝室でたのしんでください。
 外では演技派。
 ボロは出さないこと。
 覚悟を決めるのです。
 もともと、自分なんてものはいないのです。
 演じる覚悟が、自分で自分を生むのです。

 地球。ご主人様。
 怪我をされたようですね。
 私たちが快適に暮らすために、ちょっと無理をさせてしまいました。
 しかし、まあ、休まれてはこの屋敷が傾きます。
 さて、いかがいたしましょう。
 本日のご予定は?
 決まっていない?
 では少し、使用人室で会議をしてまいります。
 ええ、すべてはご主人様のため。

 (ひいては、私たちの生き延びるため)
 







お兄ちゃんっ。
BLはファンタジー。
〝ピー♪〟ションがなくても、
濡れるらしいよ。

兄好

TVA『お兄ちゃんのことなんかぜんぜん好きじゃないんだからねっ!!』
第6話『兄、黒パンストの悪夢を見る』

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 と妹が言っておりましたが。
 いや、濡れるでしょう。
 セクシャルな意味でというのはさておき、少なくとも、異物を感知した腸は粘液を分泌する。そうでなければ排便のたびにキレ痔になる患者さん続出。

 私が子供のころの科学読本には、ウンチは食べたもののカス、であると書かれていて、家にあったジューサーでオレンジジュースを作るとカスが取りのぞかれてしまうので、果物をジュースで飲むならミキサーで作りなさいと母に教えられ、どうせウンチになるのにと思ったおぼえがある。ちなみに現代では、大便の水分以外の成分の大半は死滅した腸壁細胞だと判明しています。なので、実際のところ、腸の内側をこそげとって出てくるのが大便なわけで(だから絶食しても便は出る)、それを腸仲間の大腸が異物だと認識するというのもおかしいのですが、ウンチがあの科学読本に目鼻をつけて書いてあった「ウンチくん」みたいなものならともかく、要はヒトの細胞の死骸なわけだから、垢太郎です(あの昔話もすごい。子供のいないおじいさんとおばあさんが自分たちの垢で人形を作ったら命をもって鬼退治に行き姫を嫁にもらいましたとさめでたしめでたし。近ごろのゾンビものラノベよりもひどい設定だ)。そんなものは排出するに決まっているのです。

 ところで、世のなかでは、驚くほど多くのヒトが直腸異物の症状で病院にやってくるらしい。ピンポン球を排卵するプレイも数がすぎるとS状結腸までいってしまって、そうなると、つかみどころがないだけに厄介なのだということを風のうわさに聞いたことがある。直腸は筋肉が発達しているが、その奥に行くとほとんど自力での排出は無理。直腸はヒトによるが20センチもないので、膣でやるなら行き止まりがあるところを、同じことを直腸でやると奥まで行きかねないという点で、注意は必要なようである。ていうか、やるべきではない。

 やるべきではないがやってしまうのがヒトであり、そういうことがあるために腸液は分泌されるのだと医学書にも書いてある。医学書が手もとにないヒトはウィキペディアを読んでもらってもいいが、だいたい大便などというものは腸壁のカスなのに、それをどうこうするために腸液などというものを分泌する機能があるということ自体がおかしいのである。腸液は、自然な解釈によって、肛門からの異物をスムーズに動かすために分泌されるものなのだ(なので、イボ痔のかたなどは、あふれ出る腸液に悩まされるという。ぬめらせてもぬめらせてもそれは異物でなくイボなのだから排出されるわけもなく、それでも無為な努力を続ける、ヒトのからだとは健気なものだ)。

 昨今のボーイズラブでは、あきらかにアヌスを女性器として描写している作品が少なくない。少なくないので私のような、ノンケの男性だが読んだり書いたりできる者も現れてしまうわけだが、いっそ女性器として描写しているかたはともかく、ときどき見かける「直腸液」という言葉には苦言をていしておきたい。腸液は小腸で分泌されるものである。直腸は締めあげるだけの筋肉モンスターだ。ありえない直腸液などというものが存在すると世間的に認知されると、引用はしないが、ファンタジーにしてもリアリティに欠ける描写がなされて興ざめなことになる。
 小腸の先に、大腸がある(受視点)。
 大腸の後半部分が直腸であり、その先に肛門がある。
 これをBL的ファンタジーによれば、逆の道順で挿入がなされる(攻視点)。
 となると、挿入後に濡れるという描写をするとき、考えねばならないデリケートゾーンのあることは自明の理だ。

 女性器の膣分泌液は、膣壁全体から分泌される。
 つまり、挿入後にも包みこむように分泌されるわけなのだが。
 これに対し、腸液は、たえず奥から分泌される。
 20センチを超える男性器というのはファンタジーなので(たぶん)、届かないS状結腸のさらに奥から、BL的ファンタジー愛液は分泌されることになる。このあたりの描写が混同されると、私のようなものは、だったらなぜおれはあえてBLを読んでいるのだろうかという気になるので気をつけてもらいたいものである。いや、だれに向けていっているのかあまりに謎だし(私のなかでは固有名詞がいくつか浮かんでいるにせよ)、そんなことを主眼において書いているから私のBLはファンタジーから逸脱してしまうのだが。ファンタジーだから直腸液も出るはず、というのは、やはりゆずれない興醒めなポイントなのだった。

 だが、それはそれとして、腸液を性感によって分泌される膣分泌液のような愛液であると描写するのは、まるきりのファンタジーであろうか。
 先月の科学誌に、こんな実験報告が載っていた。

『 Proceedings of the National Academy of Sciences / Social rejection shares somatosensory representations with physical pain. 』

 相手から拒絶を受けた不本意な恋愛関係の終焉を最近経験した40人に、別れた恋人の顔写真を見ながら別れの事実を思いかえしてもらう。比較対象としては、彼らの元のパートナーとおなじ性別の組み合わせで、友人の顔写真を見ながら、友人とのあいだで最近起きた事件について考えてもらう。

 結果、MRIで脳の活動野を調べると、失恋体験を想いだしたとき、ヒトの脳では肉体的苦痛をつかさどる領域が活性化した。その確率88パーセントというから、かなり確実に、ヒトは社会的に拒絶される体験によって心だけでなく、肉体にも傷を負うということである。

 実験をした本人たちが、「拒絶体験者と未体験者を比較したわけではない」というところを不確定要素にあげているとおり、これは見ようによっては「ひどい失恋を経験した人は友人とのケンカを想いだしても肉体的苦痛をつかさどる領域が活性化しない」という、なんだかよくわからない結果を示しているだけだと捉えることも可能ではある。

 だが、そもそもなぜこんな実験をおこなったのかを考えてみたい。

 恋愛に限らず、だれか、もしくはなんらかの社会的集団から、一方的に拒絶された体験によって、心が痛むだけでなく、実際に保健室に駆け込んだり早退したりせざるをえない肉体的苦痛が起きることなど、世界中のだれもが知っている。

 科学は、ただたんにそれが事実であると確認しているにすぎない。

 言霊はある。
 呪いもある。
 鳥山明のマンガ的表現だけでなく、ときに言葉は物理的な攻撃力を持って相手の腰をくだけさせもする。ちょっと年期を積んだ物書きなら、いくつかのフレーズが、読者に決まって汗をかかせるものだと知っている。伝説的なホストやキャバ嬢が、落とせない客はいないと豪語するのは事実だ。ヒトにはそれぞれ個性があるが、ヒトという種が進化した猿以上のものではありえない。ヒトは群れるものである。孤独を愛する者も世にはいるが、それは群れないことで拒絶による痛みを回避しようとしているだけのこと。

 だから逆に、拒絶しないことをはっきり伝えれば、心にも、肉体にも、逆の反応が起きる。私は寡聞にしてそれを化学的に検証した実験をきいたことはないけれど、そんなことは世界中のだれもが知っていることなので検証など必要ない。

 かつて、エルヴィス・プレスリーのコンサートで、興奮のあまり気絶する女性が続出した。新聞はその事実を検証して、あまりの観客の数にくわえ、歓声をあげつづけたことによる「酸素欠乏」が原因だと報じたが、長い年月が経ち、あのころのエルヴィスを思いかえすとき、こういうことを言うヒトがいる。

「いや、おれも会場で勃起したし射精さえした」

 男性ファンである。酸欠で勃起やましてや射精にいたったりはしないだろう(性的嗜好の種類にもよるところはあるだろうが)から、生エルヴィスを目にした興奮からか。しかし、その彼も、まさか自宅でレコードを聴きながら夢精はしないだろうし、生エルヴィスと一対一で目の前に立たれても、勃起はしないだろう(性的嗜好の種類にもよるところはあるだろうが)。

 彼が、彼女らが、絶頂に達したのは、会場の一体感によってである。
 エルヴィスの歌声と存在感が作りあげた、圧倒的に拒絶のない社会的空間で、裸の自分よりも自分をさらけ出し、剥き出しの心を愛撫されてイッてしまったのに違いない。

 まあ、あれだ。
 ヒトの可能性をファンタジーで切り捨ててはいけない。
 妹よ。

 そこに濡れる器官があって、濡れればより深くつながることができるなら、求めるかぎり、ヒトの肉体はヒトの心に応えるだろう。
 妹よ。

 兄は、迷わず生きる。
 きみもがんばれ。

lotion

(現実に直腸液のかわりに使用するなら〝ピー♪〟ションの成分には気をつけましょう。グリセリンが主成分のものは、それすなわち浣腸液と同じ成分ですから。幸せな腕枕で眠ったりはできなくなるはず。BLファンタジー的には問題ないので、自分とパートナーはファンタジー世界の住人だというなら止めはしませんが)

フルイチオンライン BL(ボーイズラブ)特集リニューアルしました♪





FRANKENSTEIN

(最初におことわりしておきます。私、吉秒匠は『デュカリオン』原作者であるディーン・クーンツに偏愛の念を抱いております。以下はその前提のもとに書かれた、まったく公平さを欠く記述であり、これを参考にいかなる作品の是非も判断なされませんようお願い申し上げます)

 Frankensteinのwikiにも、『ヴァンヘルシング』は派生作品として載っているが、この『デュカリオン』は原題がそれそのものずばりの『FRANKENSTEIN』であるにもかかわらず載っていない。それくらい、みんなで見なかったふりを決めこんだ作品であるのだけれど、その設定たるや、そもそものメアリ・シェリーの『フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス』という小説が脚色はあったものの事実に基づいた作品だった、というところから組み立てられているという、いわば系譜をなぞった正統派の派生作品なのであった。

 私の手もとにあるDVDは、紙パッケージに入った日本語版の初回限定仕様で、特典として本国での予告映像などが収録されている。
 そこでの売り文句は、こういったものだ。

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WHAT IF A SCIENTIST COULD CREATE A HUMAN BEING?

WHAT IF HIS CREATION COULD NOT BE CONTROLLED?

COULD WE LIVE WITH THE CONSEQUENCES?

(科学者が人間を創れるとしたら?

 彼の創造物がコントロールできないとしたら?

 私たちはそれを受け入れられるとでも?)

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※例によって邦訳は吉秒意訳であって公式のものではありません。

 壮大なテーマである。
 エンタメ的には、期待も膨らむ書きかただ。
 コントロールできない人造人間?
 なになに? 腕からミサイルとか出すの?

 ……残念ながら『デュカリオン』に、そんなアンドロイドは出てこない。
 暴走した人造人間は、殺人鬼として警察に追われている。
 つまり、警察の目にも、その犯行は狂気を宿してはいるものの、ふつうの人間の凶行だと映っているということである。
 連続殺人鬼は「外科医」と呼ばれている。
 被害者を切り裂いて、身体の内部を調べるから。
 そして、デュカリオンはいうまでもなく外科医を追い詰める正義の人造人間だ。

 さて、この『デュカリオン』。
 キャスト・スタッフの記述がものすごいので、まずはそれを書きだしてみる。

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出演
ヴァンサン・ペレーズ
「クイーン・オブ・ザ・ヴァンパイア」
トーマス・クレッチマン
「戦場のピアニスト」
パーカー・ポージー
「ブレイド3」
アダム・ゴールドバーグ
「プライベート・ライアン」
マイケル・マドセン
「キル・ビル」シリーズ

監督
マーカス・二スペル
「テキサス・チェーンソー」

製作総指揮
マーティン・スコセッシ
「アビエイター」「ギャング・オブ・ニューヨーク」
ディーン・R・クーンツ
「生存者」
トニー・クランツ
「24」シリーズ 
ジョン・シーバン
「X-File」シリーズ

原作
ディーン・R・クーンツ
「処刑ハンター」「生存者」

音楽
アンジェロ・バダラメンティ
「ザ・ビーチ」

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 もうなんかあきらかに、経歴作としてあげられているのがクーンツだけ『処刑ハンター』とか、テレビドラマのDVD化作品とか、失笑をさそう記述なのですが……しかしこれは広報担当がアンチクーンツというわけではなく、だったらほかにあげられるものがあるのかといえば『ファントム』とか『ブッラク・リバー』とか。ファンとしては哀しくなってくるクーンツ先生の映像化不遇は正真正銘事実の歴史なのです。

PHANTOMSPHANTOMS

BLACK RIVER

(『ブラック・リバー』については、ディーン・クーンツ公式サイトの
 『Facts for Collectors « Dean Koontz』
 (コレクターのための事実)というページに記述がある。

 いわく、

 クーンツはFOXネットワークとのシリーズドラマに先駆けて、二時間スペシャルの基本設定だけをもちいた『BLACK RIVER』という中編小説を書き、これを雑誌『ミステリー・シーン』のエド・ゴーマン編集号で発表。だが、その後、テレビシリーズは頓挫。二時間スペシャルは放映されDVD化されたが、クーンツがこの作品に関わったのは「テレビドラマとは関係ない中編小説を一本書いた」ことだけである。

 ということをコレクターのための事実として公式サイトで公開している意図はあきらかだ。その作品は私の名を冠しているが私の書いたものではない、ということである(笑・それほどひどい映像化作品ではない。派手さはないし、スティーブン・キング原作? と感じてしまう既視感はあるにせよ)。

 それにしても、クーンツのフランケンシュタイン・シリーズ第二作『City of Night (Dean Koontz's Frankenstein)』の共著者がエド・ゴーマンであることと、映像化『デュカリオン』がたどったその後の運命をかんがみるに、このあたりがクーンツの「テレビドラマやりたい」結節点である。自身で書いているが「大勢でやる仕事で協調性のなさを発揮してしまう」書き続けていたら知らぬ間に大御所になっていた師の苦悩が見てとれます)

 しかしだからこそ。
 このパッケージ記述が、クーンツ好きに即買いさせてしまう。

 ついにきたのか、ちゃんとした映像化が!!

 結果からいえば、その期待は半分かなえられ、半分うらぎられることに。

 『デュカリオン』は、丁寧に作ってある。
 しかし、あまりにも駆け足かつ、短い。
 それも当然、これはテレビドラマシリーズのパイロット版をディスク販売したもので、正味90分のなかに、説明不足なあれこれが詰めこまれたあげく、これから物語がはじまろうかというところでスタッフロールが流れ出す。

 続きがあるのなら、説明不足のところを、おいおい視聴者が理解するということもあるでしょう。けれど、一本の映画として評価するなら、その終わりかたは最悪です。

 またか。
 どうしていつもこうクーンツ作品の映像化は、充分に練り込まれず、狙ってB級を目指したあげくに生ぬるいものになってしまうのか。前述の、売り文句がすべてを物語っています。私たちは、その怪物を受け入れられるのか? いやいや、そんな話をクーンツが書くわけがない。

 ディーン・クーンツは、愛と正義の小説屋だ。
 フランケンシュタインの怪物を描くのに、それをただの人類の脅威として魅せる?
 あなたは師の代表作『ウォーッチャーズ』を読んだことがないのか?
 怪物にこそ愛を。
 それがクーンツ。

 ……ものすごく未消化な、きっとなにかあったのに違いないという想いだけを胸に、初回限定仕様の紙パッケージを本棚に並べて二度と観ることもなかった2005年。私はこの『徒然』でも、この映画についてそのときは触れませんでした。

 が、その後。
 徐々に事情が判明してきたのです。
 そのクレジットで初回版を買った私などは、詐欺だと訴えてもいいところなのですが、スタッフロールに名前は残っているものの『デュカリオン』の製作初期段階でクーンツとスコセッシは離脱し、あろうことかディーン・クーンツ作の脚本までも、他の作家が書きなおしたというのでした。

 先日、ついにシリーズ最終回を迎えたテレビドラマ『ER』は、仮面ライダーとスタートレックに並ぶ、私にとっての「最初からずっと観ている」作品のひとつでしたが、原作・製作総指揮マイケル・クライトンが逝ってしまっても『ER』はなんら揺らがなかったのとは対照的に『デュカリオン』は、巨匠たちが席を外した途端に別物になってしまったのだと想像できます。

 そう、それは、想像でしかなかった。
 けれど、ディーン・クーンツは、やっぱり私の好きなヒトでした。

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 私はけっこうおしゃべりなほうだが、執筆に至った経緯を作品の冒頭で説明しようと思ったことはこれまで一度もなかった。だが、『ディーン・クーンツのフランケンシュタイン』として出版されるこのシリーズに関しては、少し話しておいたほうがいいような気がする。


 ディーン・クーンツ 『フランケンシュタイン 野望』

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 途中抜けして、名前は残っているのに脚本は書きかえられ、パイロット版は評価を与えられず、テレビ・シリーズは頓挫した。スコセッシとプロジェクトから抜けたとき、まだクーンツは思っていたのかもしれない。

「自分のやりかたを曲げない頑固な作家たちが抜けることで、いまの視聴者にウケるテレビドラマが生みだせるなら、それもよし」

 けれど、彼らがやったのは劣化版を作ることで(というか予算の都合上という大人の事情によるのだろう)、クーンツ師は、共著者を得て『フランケンシュタイン』の小説版を書き出すがそれも破綻し、最終的に自分で小説化を進めるということになった経緯を『フランケンシュタイン 野望』の冒頭で語っている。

(『BLACK RIVER』での失敗をトレースしたかのような展開に、小説は一冊の本としての完成度が必要だという信念も飛んでしまうほどブチギレていたのだろう。作品冒頭で愚痴である。この行為こそを協調性がないと人は呼ぶのだが、キレた巨匠に忠告できるブレーンはまわりに存在しなかったようで、ファンにとってはたまらない、クーンツ先生怒ったーぁははは、なコレクターズアイテムになってしまった)

 クーンツにも、こんどこそ、という想いがあったのに違いない。
 しかし、紆余曲折の果てに、やっぱり残ったのはテレビスペシャルのDVD化(視聴者の酷評付き)と、自分の手で書いた小説だけだった。
 おなじ冒頭のなかで、クーンツは、フィリップ・K・ディックの名を出して、あるエピソードとともに感謝の意を表している。私は、彼に教えられたそれを、ようやく自分の作品のなかに出すことができた、と書いているが、そのシーンは『デュカリオン』にはない。

 それに気づいて、私はいまいちど『デュカリオン』を観た。
 映画に六年遅れて、邦訳も出た小説版『ディーン・クーンツのフランケンシュタイン』第一巻、すなわち邦題『フランケンシュタイン 野望』の存在によって、この映画には、新たな意味が加わったと思う。
 比べれば、クーンツ師のキレた理由がわかる。

 これほどまでに実現したかったテレビシリーズの夢を捨て、プロジェクトから離脱して「おれの名前? 勝手に使ってろボケッ」と捨て台詞まで残したに違いない、その理由。

 それはいうなれば、エンターテインメント作品において巨匠ディーン・クーンツが、ほかのなにを傷つけ投げ出してでも「ゆずれなかった」要素ということだ。

 これは、史上まれに見る、小説の教科書である。
 なにせ、実際にクーンツ作品に手を加えた結果『デュカリオン』は大コケしているのである。
 だったら、マーティン・スコセッシも惚れ込んだ、オリジナルの設定とは、どうだったのか。

 いうまでもないが、クーンツの書いた小説の出来はよい。テンションで小説を書く人なので、執筆動機が明確だとテクニックが冴えわたるのである。あのクソドラマスタッフの野郎ども、などと思いながら書くというのは、師の場合、最高のスパイスになるらしく、小説は全編、映画よりも映画らしいカメラの視点を意識したものになっている。

 あ、念のため書いておくが、あのクソドラマスタッフの野郎どもというのはクーンツが実際に言ったことではない。『フランケンシュタイン 野望』の前書きでは、お互いの『クーンツのフランケンシュタイン』が成功すればいいな、と社交辞令を述べている。しかしまあ、どう読んでもおれのは売れておまえらのはコケればいいさクソ野郎どもと思っているのは間違いないと長年のファンとしては行間から感じます(笑)。むかし書いた自分のポルノ作品を買いあさってこの世から消し去ろうとする人だ。自分の名がクレジットされてクソ映画というのは、ほんとマスターテープを火にくべたいところを、それはできないから、おれの実力を小説で魅せてやる、という「少し話しておいたほうがいいような気がする」なのでしょう。

 以下、バレない程度で、そのあたりのことを書く。

 『デュカリオン』を観て『フランケンシュタイン 野望』を読むと『デュカリオン』に感じていた物足りなさを、なぜ小説には感じないのか、まっさきにその原因として思いつく概念がある。

 並行世界。

 主人公デュカリオンは、はっきりと別の世界に足を踏み入れたりはしないが、どうやらそういう場所──別の次元とか、パラレルワールドといった表現であらわされるところ──に、近いところで生きているらしい。

 映像化された『デュカリオン』で、デュカリオンがヒロインに自分は人造人間なんだと証明してみせるシーンは、パッケージにもでかでかと載っている。肌を見せた傷だらけの大男が、自分で自分にちぎれた電線を接続して電流を流すと、あらゆる穴(というのは肌の傷も含む)から、閃光がほとばしる。もちろんデュカリオンは感電などしない。彼は、カミナリの電気エナジーによって命を吹き込まれた、犯罪者の屍肉のつぎはぎなのである。

 それが、クーンツと映像化スタッフのまさに衝突点であったのかどうかは、私の推測である。だが、この映像化作品では目玉シーンのように描かれている、現代まで生き延びたフランケンシュタインの怪物が電線を引きちぎってビカビカビカっっ、うひょーすげー、という場面が、小説にはない。ということは、そもそもクーンツが書いた脚本にもなかったのだろう。

 ディーン・クーンツの小説版で、現代まで生き残ったフランケンシュタインの怪物が、人間の女性に、自分はふつうの存在ではないのだと証明するシーンは、こうだ。

 彼は、一枚のコインを、指ではじいて高く飛ばす。
 はじいては、落ちてくる。
 もういちど。
 そして何回目かで、コインは宙で消えて、彼の手に落ちてはこない。 

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「これでもまだ信じてくれないのか?」と、男が言った。「それとも、話のつづきを聞きたくなったか?」


 ディーン・クーンツ 『フランケンシュタイン 野望』

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 小説のデュカリオンは、静かな男だ。
 彼自身、そのコイン、二十五セント硬貨が、どこに行ってしまったのかは、わからない。
 この展開は、クーンツの、あの作品を思い出させる。

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『サイレント・アイズ』の話。

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 少年バーソロミューは、この世界の隣にあるもうひとつの世界を感じることができ、雨が降りしきるこちらの世界の中で、雨の降っていない世界の中を一瞬だけ通って、濡れずに歩くことができる。

 あのときも、バーソロミューは、隣の世界に首を突っこんで、そこがどんなふうにこっちとちがうのか、確認したりはできなかった。おそらく、ディーン・クーンツにとっての並列世界の概念とは、オッド・トーマスの世界でプレスリーの霊がさまよっているのと同じなのだ。ふつうの人には見えないし、特別な人にとってさえはっきりと見えるわけではないが、確実にそこにある、こことは違う場所。クーンツはそんな直接的な言葉は使わないが、その図式をとても単純化すると、こういうメッセージを含んでいるような気がする。

 この世に希望がなくても、まだ希望はある。

 矛盾したメッセージだが、でもだってバーソロミューは雨に濡れずに歩ける。デュカリオンは、投げた二十五セント硬貨を、この世から消し去ることができる。質量保存の法則が間違っていないかぎり、コインはどこか別の世界に「在る」のであって、ならば、そこから二十五セントぶんのなにかが、こちらの世界ににじみ出た可能性だってある。
 それは、愛とか、希望とか、多くの人が、この世界ではもう錬金術でも作り出せないとあきらめている、なにかかもしれないじゃないか!

 小説のデュカリオンは、ビカビカと光ったりしない。
 けれど、彼女がそっと見つめると、その瞳は、闇のなかで白く光っている。

 確かに、違う。
 ヒトではない。
 でも、ヒトの姿をしている。
 コインを消すことができて、瞳が光ってはいても。

 屍肉のつぎはぎデュカリオンは、右の頬にも大きな傷痕がある。
 『フランケンシュタイン 野望』の冒頭で、デュカリオンはチベットの寺院でヒトではないとわかっていながら受け入れられ、修行を積んでいる。俗世に帰る運命を受け入れたデュカリオンの右の頬に、高僧はタトゥを彫る。傷が目立たないように。少しは、好奇の目をそらせるように。
 高僧は最後にもういちどあれを見せてくれないかとデュカリオンにねだる。
 あの、宙で消えるコインの技を。

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「それは魔術か? それとも、ただの手品か?」
 デュカリオンは笑みを浮かべた。「片手で手拍子を打つとどんな音がするかという禅問答がありますよね」
「何年たってもそなたは謎だ」
「この世は謎に満ちていますから」


 ディーン・クーンツ 『フランケンシュタイン 野望』

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 もう、なんというか、デュカったら、素敵のかたまりである。
 見た目がなんだというのか。
 彼を受け入れて何年もともにすごし、いまは別れを惜しんでいる、アジアの寺のふところの深さを見せつけられ、私は、デュカリオンをもうすでに好ましく思っている。

 いっぽう、映像化『デュカリオン』では冒頭、デュカリオンは密航すべく船内で身を隠しているが、怖いオッサンに見つかり、そのオッサンを殺す。
 右の頬に傷はあるが、それを隠すタトゥはない。
 オッサンを殺したのは、デュカリオンをかくまっていた少年にオッサンが暴力を振るったあとだが、それにしたって、初対面でヒトを殺してこっちを睨みつける異形の大男を、監督が「こいつを好きになってやって」と紹介しているとは、どうやっても受けとめられない。

 監督のマーカス・二スペルは『テキサス・チェーンソー』のほか『13日の金曜日』のリメイク作でも知られるが、どちらも賛否両論ながらやや否が多いといった割合で、共通するリメイクの極意は「無駄な人間ドラマを追加する」である。レザーフェイスもジェイソンも、むやみやたらにチェーンソーを振り回し、殺られるほうにしてもチェーンソー振り回す怪物の心持ちなど理解しようもなく、ただざっくんざっくんと切り裂かれるのがスプラッター・ホラーの名作たるゆえんだったところを、この監督は、リメイクにあたりマスクの下の思惑を描くという意欲的な作法に出た。

 『デュカリオン』では、逆である。
 小説版、すなわち真のクーンツバージョン『フランケンシュタイン』では、デュカは静かにコインを消し「それでもおれを受け入れてくれるのか」と問う、哀しき人造人間。だが、映画屋としては、テメエコラ伝説の怪物フランケンシュタインズモンスターだろうがとにかく殺しのシーンは必要なんだよ、という解釈だったとしか思えない。で、それが、レザーフェイスではなく、ジェイソンではなく、ディーン・クーンツのデュカリオンでもないのなら問題はないのだが、映像化自体は、前述したとおり、かなり丁寧におこなわれているのである。

(そこがクーンツ師のさらに気に入らないところになったのは想像にかたくない。『BLACK RIVER』のように、その作品そのものに私は関与していないと断言できればいいのだが、残念ながら『デュカリオン』のストーリーラインは原作に忠実で、書きなおされたとはいえクーンツの書いた脚本の大半をそのまま使用しているのだった)

 結果、愛と正義の人クーンツの生んだ哀しく素敵なデュカリオンは、映像化されてもそのキャラクターのまま、なぜか冒頭で突然どうでもいい殺人を犯したり、ヒロインを前にして自分に電気を流してビカビカ光って驚かせたりする。
 やたら画面のこっち側を、ぎょろりと睨んだりする。

(なんどか、どう見てもWWEのスーパースター・プロレスラーであるエッジを真似ているとしか思えないシーンがあった。まあこれはわかる人だけわかってくれればいいが、そういう演技過剰さである)

 映像化で冒頭の寺院が削られた理由も、きっとそこにある。怪物デュカリオンが、だれかのやさしさで入れられたタトゥなど彫られていてはダメなのだ。俗世に帰ってきたデュカリオンが、隠れ家にする映画館の従業員は、小説ではデュカリオンに横幅では負けない巨漢であり、デュカとのあいだに友情めいた関係まで築くのだが、ニスペル作品では、小柄な老女である。たぶんデュカリオンの巨大な異形ぶりをアピールする演出なのだろう。

 恐ろしい人造人間と、人間とが手を組んで悪を討つ。これはそういう話のはずだが、監督と、クーンツの脚本を手直ししたライターは、その恐ろしさを強調しようとして失敗している。冷静に考えれば、この失敗は予期できたもののはずだ。なぜならそもそも、クーンツの意図がそこにないから。ひろげようがないところを、彼らはひろげようとしてしまった。

 フランケンシュタインの怪物。
 日本では、藤子不二雄Ⓐによる『怪物くん』に出てきたフランケンというキャラクターでも顕著なことに、怪物の名が「フランケンシュタイン」なのだと誤解している人も多い。しかし、その誤解も、ある意味では当たっている。その物語で、真の怪物はだれかと問われれば、それは人造人間を造ったフランケンシュタイン博士にほかならない。

 ディーン・クーンツは、フランケンシュタイン博士が自らの肉体も改造し現代に生きていて、ヴィクターという名の億万長者になっていると設定している。そして彼は、いまも人造人間を造り続けている。長年にわたる研究の成果によって、ヴィクターの人造人間たちは、人間社会にまぎれて生活するようにさえなっていて、いつか、ヴィクターの号令によっていっせいに蜂起し、人間社会を転覆させようともくろんでいる。

 ……いや。この書きかたは正確ではない。
 「もくろんでいる」のはヴィクターだけだ。
 彼に作られた人造人間たちは、ただ、それぞれの生活を送っているだけである。ただし、ヴィクターの命令には逆らえないし、ヴィクターを傷つけることもできず、同時に自分自身のことも傷つけられないように、プログラミングされている。

 そう、クーンツの描く主題は、こちら側にある。

 『フランケンシュタイン 野望』の印象的なキャラクターたちは、ただ生活しているだけのヴィクターの人造人間たちだ。大昔に造られたデュカリオンは、ヴィクターとの対立の構図を演出するための装置にすぎない。

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 彼は、クロスワードパズルの縦横のマス目を言葉で埋めることに没頭して一日の大半を過ごしていた。外に出たいと思うことはあるが、外の世界は無秩序で、混乱している。その混乱が自分の部屋に迫ってきているのは感じるが、それが部屋に侵入してくるのを防ぐにはクロスワードパズルのマス目を正しい言葉で埋めていくしかない。
 外の世界が怖いのは、ファーザーがそういうふうに自分をプログラムしたからではないかと、最近になって思いはじめた。彼を教育したのは──それに、命を与えたのも──ファーザーだ。
 そう思うと、ますます混乱した。すべてのことに完璧を求めるファーザーがなぜ自分をこんなふうに創ったのか、考えてもわからない。


 ディーン・クーンツ 『フランケンシュタイン 野望』

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 彼の名は、ランドル6。
 五人目までのランドルは、すでに社会に出ている。
 しかし、六番目の彼は、情緒面に問題がある。

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 彼の創った新人種がみなそうであるように、エリカ4も、耐えられなくなったときは意志の力で痛みをブロックすることができた。しかし、セックスのときはヴィクターがそれを許さなかった。痛みにもだえ苦しんでこそ、完全に、しかも真の意味で服従したことになるからだ。


 ディーン・クーンツ 『フランケンシュタイン 野望』

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 エリカ4は、ヴィクターの妻である。
 妻なので、人造人間だが恥じらいを感じるようにプログラムされている。
 妻は、ベッドで恥ずかしがらないと役に立たない。
 ヴィクターは思いのままに妻を創ることができるのに、三人目までのエリカは失敗作として廃棄された。創造主の意に反して、思いもかけない不具合が妻には出るものなのだ。

 映像化『デュカリオン』にも、エリカは出てくる。
 彼女が生けた花を彼女にはバレないように生けなおせとメイドに命じるヴィクターの様子も描かれているし、客人を招いての食事の席で、自分の生けた花が手直しされていることに気づき、しょんぼりするエリカも描かれている。
 しかし、エリカ自身が、死にたいと思っていることは、クーンツの文章のなかでしか描かれていない。映像化に、彼女の独白のシーンはないし、苦悩を暗示する演技さえない。そのかわりに、宣伝用トレーラーでも大々的に使われている、どろりとした液体の詰まったバスタブから、体中に電極とコードをつながれ、ほとんど裸だが髪の毛を含め全身の毛がないエリカが雷に打たれて狂おしく踊る、物語的には意味がないが激しく幻想的な近未来演出のシーンはある。

 むろん、クーンツの小説に、意味なくエリカが舞踏する場面はない。乳白色の抗生剤にエリカが浸っている場面は、非常に抑制された描写である。

 ランドル6は物語のかなめなのだが、驚くことに映像化された物語にランドル6はいない。いないのに、物語はまったく同じように展開し、同じ結末にたどりつく。

 完璧な妻として創られた死にたいエリカ4。
 世界転覆の駒として世に送り出すために創られた兵士のはずが、クロスワードパズルを解きながら幸せとはなんであるかを狂おしく考えているランドル6(見た目は十八歳の完璧な美男子)。

 小説を読んで、心に残るのは、彼らを含めたヴィクターの怪物たち。
 しかし、画面に彼らはいない。
 彼らに似たキャラクターはいるが、そこでは、欠落しているものがある。

 エリカ4は、ヴィクターを性的に興奮させるために植えつけられた恥じらいから羞恥心を生みだし、羞恥心から他者への同情を感じるようになり、その先で思いやりの感情を芽生えさせる。
 死にたかったはずの彼女は、死を怖れる自分に気づき、生きたいのだと自覚する。
 彼女は、希望を胸に抱く。

 いっぽう、映像化は、エリカを名のない創られたヴィクターの妻としてだけ描いた。ヴィクターに、身勝手にもてあそばれ、次の創られた妻にとって代わられる、ヒトよりもモノに近い人造人間として。

 むろん、観客は、ヴィクターに感情移入できるわけがない。
 そのうえ、ポイ捨てされる妻エリカにも惹かれない。
 ただひたすらに醜悪な図式を見て眉をひそめるのが精一杯なのである。

 クーンツの小説でも、エリカ4が希望を抱くのは、ほんの一瞬のことだ。
 しかし、それは絶対に必要な描写だった。

 フランケンシュタインの怪物がみせる、刹那のまなざし。
 そこに浮かぶ、絶望、もしくは、希望。

 映像化『デュカリオン』で、デュカリオンは言う。

「おれはバケモノじゃない。キミの希望だ」

 はしょった部分をすべて、デュカリオンのその一言でまとめてしまった。
 ヒロインは、デュカリオンと手を組む。
 だが、観客は……私は……ふうん、そうなんだ、と鼻をほじっている。
 他人ごとでしかない。

 ちなみに、DVDのパッケージで、デュカリオンは美女をお姫様だっこして荒廃した街で稲光を浴びながらこちらへ向かってくるという、見目麗しい御姿を披露しているが、作中にこんなシーンはない。詐欺である。いや、パイロット版である『デュカリオン』が成功していればテレビシリーズでそういうシーンもあったのかもしれないが、いま、この作品のネット上に流れるレビューをいくつか読んだところ、これがそもそもテレビ放映用の作品であるという認識さえもたれていないのが現実のようなので、やっぱりこれは詐欺である。まあ、パッケージだけでも格好良く仕上がってくれたのは、棚の飾りにするために所有しているような私にとっては、いくばくかの救いではあるが。

 ともあれ、比べてみればわかるから。
 クソを承知でDVDも観てほしい。
 小説『フランケンシュタイン 野望』を読んでからのほうがいい。
 まったくおなじ話なのに、ディーン・クーンツが不在だと、ここが伝わらないのかと、わかる。
 逆説的に、クーンツの技を実感できるのである。
 消えるコインが示唆する並行世界も含め、あきらかに物語が持つ可能性の深さがちがう。
 大技ではない、ちょっとした小技のキレこそが、クーンツ・タッチの真髄だと見えてくるのだ。

 『フランケンシュタイン 野望』と『デュカリオン』があれば、ひとの心を揺れ動かすための物語にとって大切なものとはなんであるのか、身に染みてわかります。そして、自分の作品に対して愛が深すぎると自覚している作家は、ほかのだれかに同じ愛をもとめても失望するだけだということも(笑)。

 奥深い教訓の詰まった一冊になりました。
    
・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「パートナーのマイクル・マディスン刑事よ」カースンは、マイクルをデュカリオンに紹介した。
 会釈を交わすと、マイクルはデュカリオンの大きさにも醜さにも驚いていないふりをして啖呵を切った。「単刀直入に言わせてもらう。おれたちも不気味な森のなかへ迷い込んでしまったことは率直に認めるが、トランシルヴァニアで起きたとかいうことは信じてないからな」
「それは映画のなかでの話だ」と、デュカリオンが言った。「実際はオーストラリアで起きたんだ」

FRANKENSTEIN

 ディーン・クーンツ 『フランケンシュタイン 野望』


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 最後にひとつ。
 私は古くからのクーンツ・フリークだが、クーンツがことあるごとにいう「小説にはユーモアが必要だ」というのを、クーンツ自身が言うほどには実践できていないのではないかと感じていた。それが、クーンツ脚本をもとにしたはずの『デュカリオン』のまったくユーモアのない演出方針を目にしたとき、どれほど、この手のどうでもいいようなユーモアが、クーンツ作品にとって重要であったのかと知った。これは口では伝えにくい。でも『デュカリオン』のクソぶりが、ここに寄っているのは絶対です。たとえば、冒頭で図書館の女子トイレにマイクル刑事が入って言うセリフ。あれ、最初観たとき意味不明だったんですが。小説で補完されました。ああなるほどマイクルってそういうやつなんだ……ほんとどうでもいいんですけれど、重要なんですよね、そういう細かい感想が抱ける描写って。そんな箇所がいくつもあります。私自身、このレビュー自体をユーモアをまじえて書いていますが、今回再び観ても『フランケンシュタイン 野望』と『デュカリオン』のセットからは、多くのものを学ぶことができました。そういう意味で、物語を創る人々にこそ、こっそり真にオススメです。

(さらに最後に。
 『フランケンシュタイン 野望』の販促帯に、

「貴志祐介氏絶賛 大型映画化決定」

 とデカデカと書かれているのですが。
 もちろん『デュカリオン』がすでに製作を終えた大型映画化などというはずもなく、調べてみれば(というかこれもクーンツ公式サイトに自慢げに書かれていた)、1019 Entertainmentに『ディーン・クーンツのフランケンシュタイン』シリーズの映画化権を販売済みということで。その1019 Entertainmentとは、『X-MEN』シリーズや『ファンタスティック・フォー』の製作でおなじみハリウッドのヒットメーカー……って、これも自慢げに書かれているんですけれど……そのラインナップが聞くからに怪物たち大暴れ映画なのはだいじょうぶなのか。ハリウッドに目がくらんで権利売った先で、またデュカリオンが腕からミサイル飛ばすようなことにならないといいけどなあ、と祈ってなりません。ハリウッドで大作ならクーンツ師もそれはそれでよしと認めそうなところがあるから怖いんだ……

 一本でいいから。
 「あの映画の原作者」といえば世界中の人が「へえ」と即座に理解してくれる、ディーン・クーンツ作品の魅力をきちんと映像化した作品が世に出てくれないかと、ファンは願って今日も生きているのです。観るまで死ねない)